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茨 城 大 学 教 育 学 部 紀 要 ( 人 文 社 会 科 学, 芸 術 )64 号 (2015)47-65 MV 桜 の 木 になろう の 内 容 分 析 - 同 一 素 材 から 作 られた 2 つの 作 品 内 容 の 比 較 - 林 延 哉 * (2014 年 11 月 28 日 受 理

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お問合せ先  

茨城大学学術企画部学術情報課(図書館)  情報支援係 http://www.lib.ibaraki.ac.jp/toiawase/toiawase.html

Title MV「桜の木になろう」の内容分析 : 同一素材から作られ

た2 つの作品内容の比較

Author(s) 林, 延哉

Citation 茨城大学教育学部紀要. 人文・社会科学・芸術, 64: 47-65

Issue Date 2015

URL http://hdl.handle.net/10109/12579

Rights

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MV 「桜の木になろう」の内容分析

-同一素材から作られた2 つの作品内容の比較-

林延哉*

(2014年1128日受理)

Content analysis of music video clips “Sakura no Ki ni Narou”.

:Through comparison of two video products created from same video source.

Nobuya HAYASHI*

(Received November28, 2014)

1  問題の提起

 「桜の木になろう」は,作詞秋元康,作曲横健介によるAKB48 の楽曲で,2011 年2 月16 日に キングレコードから発売された。

 この楽曲には,是枝裕和監督によるミュージックビデオ(音楽作品の販売促進などのために作ら れる映像作品のことでプロモーションビデオとも呼ばれる。ここでは以下,MV とする)が存在し ている。同級生だった5 人の女性が,高校時代に亡くなった友人の墓参りをするというドラマ仕立 ての内容で,墓参りをする5 人をAKB48 の板野友美・大島優子・小島陽菜・高橋みなみ・前田敦 子が,早世した友人を松井珠理奈が演じている。

 Wikipedia の「桜の木になろう」の項の記載によれば1),このMV は,CD に付属のDVD に収 録されている「完全版」,曲と同じ長さに編集された歌唱シーン入りのもの,そして期間限定で公 開された歌唱シーン中心のものの3 種類が存在しているという。このうちの「完全版」は,CD 付 属のDVD で,「歌唱シーン入り」はYouTube のAKB48 公式チャンネルで現在でも鑑賞可能になっ ている。

 ここではDVD 収録のものをWikipedia に従って「完全版」,現在も鑑賞可能なYoutube 公開版 を「歌唱入り版」と呼ぶことにする。ただし,この「完全版」という呼び名は,CD にクレジッ トされているものではなく,CD には単に「桜の木になろう」としか記載されていない。同様に

Youtube公式チャンネルで公開されているものも単に「桜の木になろう」である。

 完全版は全体で12 分50 秒,歌唱入り版は6 分13 秒で,完全版は歌唱入り版のほぼ2 倍の長さ になっている。やはり上述のWikipedia の記載では,歌唱入り版は「ドラマのダイジェストのよう

茨城大学教育学部(〒310-8512  水戸市文京2-1-1; College of Education, Ibaraki University, Mito 310- 8512 Japan).

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な形になって」いるとあるが,確かに,完全版に用いられている素材が歌唱入り版でも用いられて おり約半分の時間に納めるために,歌唱入り版では使われていない素材もあるし,短くカットされ て用いられているショットもある(歌唱入り版でのみ用いられているショットも存在する)。その 意味では確かに「ダイジェスト」と言えるだろう。

 しかし,両作品を見比べてみると,一方が他方の単なるダイジェストになっているわけではない ことが見えてくる。

 もちろん,編集の違いによって描かれているものが異なってくることは当然と言えば当然のこと なのだが,同一の素材を用いた長さの異なる2 つの作品が,いずれも完成品として公開されており,

なおかつその内容の違いが分かりやすく観察できる例と言うのは必ずしも多くはないと思われる。

そこで,本論文では,同じ素材から作られた「完全版」と「歌唱入り版」のふたつの作品を比較す ることで,編集によってどのような違いが生み出されているのかを検討することを目的とする2)

2  方法

 通常,フィクション映画のような物語的な映像作品(以降,単に映像作品と記述した場合,特に 断りのない限りそうした物語的な映像作品を意味する)は,ショットを構成の最小単位として,一 つ以上のショットがシーンを構成し,一つ以上のシーンによってシーケンスが構成される。いくつ かのシーケンスがプロットに従って配置され,これが映像作品としての物語言表となる。この映像 作品は特定の物語内容を語っているわけだが,それがどのような物語内容として把握されるのかは,

この映像作品を鑑賞する鑑賞者によって変化する。通常物語的な作品であれば,プロットは何らか のストーリーを表していると考えられるため,鑑賞者は,何がどのような順序で起きたのか,とい うストーリーを把握しようと作品を鑑賞する。時に鑑賞者は,ストーリーを理解したと感じたこと で作品を理解したと信じこむというのは,リチーの指摘する通りである(Richie 2006)。しかし,

映像作品が鑑賞者の中に呼び起こす物語内容は「何がどのような順序で起きたのか」というストー リーばかりではない。それ以前に,そもそも全ての物語的な映像作品において,それが語るストー リーをひとつに確定できるとは限らない。鑑賞者によって異なるストーリーが把握されることも十 分にありえる。

 同じストーリーを把握したとしても(勿論異なるストーリーとして把握したとしても),その作 品がどのような感情を与えるのか,そこにどのような意味を見出すのかもまた,鑑賞者の解釈に委 ねられていく。プロットは単にストーリーを伝達するために構成されるのではなく,それ以上の意 図を持って構成される。その意図が構成者の思いのままに鑑賞者に把握されるか否かはともかく,

何らかの意図を持ってプロットは構成される。ストーリーを継起順に追う単純なプロットの作品で あっても,そこには,伝わりやすさという意図や,あるいは例えばリアリズム志向というメタレベ ルの意図が込められているかもしれない。シーケンスの配置だけではなく,シーンの構成,ショッ トの構成もまたそうした意図を持って構成される。そしてそれらもまた,最終的には鑑賞者によっ て把握される限りの意味を生み出す。鑑賞者が作品に意味を見出すのは,プロットのみからではな く,ひとつのシーン,ひとつのショットからでもある。

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 遠藤(2013)はドキュメンタリー映像制作を指導する立場から,既存の作品のショット分析フォー マットを作成している。遠藤のショット分析の特徴は「デクパージュ・モデル」である。遠藤は,ショッ トサイズに関して,カメラと被写体との距離に基づくロングショット・フルショット・ミディアム ショット・クローズアップや,画面上の被写体の人数によるワンショット・ツーショット・グルー プショット,あるいは人間の身体を基準としたフルショット・ニーショット・ウエストショット・

バストショットといった従来から用いられている区分を見直し,「有意の記号の数」によって設定 配列・連関配列・限定配列の三つに区分するデクパージュ・モデルを提唱している。デクパージュ はひとつのショットの中でも変化する場合があるので,設定ショット,というような言い方ではな く,設定配列という語を使用するとしている。

 設定配列は,従来はロングショットと呼ばれているものが主に該当するようなデクパージュで,

「視覚的記号とその関係が多く示される多義的な構図」であり,時と場所を設定する役割を負うこ とが多いものである。

 連関配列は,従来のミディアムショットやツーショットなどが該当するもので,「個々が判別で きる程度の記号とその連関が示される構図」で,互いの関係性が最も分かる構図であるゆえに,連 関配列と名付けられている。

 限定配列は,アップやバストショットと呼ばれているものが主に該当するもので,「特定の視覚 的記号が主に示される構図」としている。

 本研究では,この遠藤のデクパージュ・モデルも取り入れながら,表1 にその一部を示したショッ ト分析表を,完全版,歌唱入り版それぞれについて作成し,これに基いて分析を進めることとした。

使用した映像は,完全版については「桜の木になろう」CD に付属のDVD 収録のものを,歌唱入 り版についてはYoutube 公式チャンネルで公開されているものを使用した。

 なお,経過時間,秒数については秒単位で計測しているが,映像は実際にはより細かな単位で作 られているため,複数ショットの秒数を合計した場合などにおいて若干の誤差が出る可能性があっ たが,本研究ではその誤差を問題とするような分析は行わないため,秒単位の計測で良しとした。

3 結果及び考察 3.1 完全版・歌唱入り版のシーンとシーケンス

 表2 に,完全版・歌唱入り版のショット・シーン・シーケンス数を示した。

 歌唱入り版では,映像開始後45 秒の部分で楽曲「桜の木になろう」が始まり,そのまま楽曲終 了で映像も終了する。冒頭の45 秒は,バスの中での5 人の女性の様子を描くシーンだが,窓外の 海を見てはしゃぐ彼女らの様子が,本人たちの台詞入りで描かれている。楽曲の部分では映像登場 人物の台詞などは入らず,音声は楽曲のみである。いわゆるミュージックビデオのポピュラーな体 裁と言える。

 一方の完全版では,楽曲が始まるのは映像開始後7 分21 秒の部分で,楽曲開始以降は歌唱入 り版同様映像の終端まで楽曲が続くが,特徴的なのは楽曲開始までの7 分あまりで,ここでは

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AKB48のメンバー,板野友美・大島優子・小嶋陽菜・高橋みなみ・前田敦子・松井珠理奈を主な 登場人物として演じられる台詞入りのドラマパートになっている。ドラマは楽曲開始以降も続いて いるが,そこでは台詞はなくなり,映像だけのドラマになっている。歌唱入り版は,完全版のこの ドラマパート部分も含めて6 分13 秒の映像に編集されている。

 表3 ならびに表4 は,完全版と歌唱入り版それぞれのシーケンスとシーンを登場順に並べたも のである。

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 両者ともほぼ同様のシーンから構成されたシーケンスによって構成されている。しかし幾つか大 きな違いがある。

 まず,敦子が亡くなった高校時代の友人珠理奈の姿を思い出している完全版のシーケンス5「敦 子の回想」では,敦子を視点人物として描いた「バスの中で珠理奈を思い出す」シーンと,桜の木 の下で寝そべって散ってくる桜の花びらを掴もうとしている高校の制服姿のふたりの姿を描いた

「桜の木の下の珠理奈と敦子」のシーンは続いて現れる。桜の木の下のシーンは必ずしも敦子を視 点人物として描いた映像ではないのだが,この2 つのシーンが続いて現れているために,これを「敦 子の回想」という一連のシーケンスとして捉える事ができる。一方の歌唱入り版では,「バスの中 で珠理奈を思い出す」シーンは「バスの中」のシーケンス中に現れるが,「桜の木の下の珠理奈と

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敦子」のシーンは,「バスの中」のシーンに連続して現れるのではなく,「友達の墓参り」のシーケ ンスの後の「母校を訪ねる」シーケンスの最後に挿入されている。このシーンの後には,完全版に は存在しない「歌唱」シーンが続くので,この「桜の木の下の珠理奈と敦子」のシーンは,完全版 とは全く異なる意味を与えられることになっている。

 次に,歌唱入り版にはここで「歌唱I」「歌唱II」と名づけたシーケンスが存在する。これは完 全版には存在しない。AKB48 が桜の木の下で椅子に着座して,桜色の高校の制服で楽曲「桜の木 になろう」を歌っているシーンで,「歌唱I」では15 人のAKB48 メンバーで歌われているが,椅 子は16 脚用意されていて,桜の木直下に配置された1 脚は空いている。「歌唱II」ではメンバー は16 人になっていて,空いていた1 脚には松井珠理奈が座っている。この,ほぼ同様のセッティ ングでありながら一方には松井珠理奈が存在せず,他方には存在することによって,この二つの歌 唱シーンが,MV 中で展開されているドラマとは無関係の,AKB48 の姿を見せるための「単なる 歌唱シーン」ではなく,ドラマと関連しドラマの中に位置づける解釈を可能とするシーンとなって いる。

 珠理奈を除く主要登場人物5 人が路上で母校を訪ねることを決めるシーンと,横断歩道上で荷物 を散乱させた老婆を助けるシーンは,完全版にのみあり,歌唱入り版には存在しない。路上を歩く 5 人ということで,表3 ではひとつのシーケンスとして扱ったが,内容的には,「路上」のシーンは,

5 人が母校を訪れることが偶発的な出来事であることを示し,「横断歩道」のシーンでは,珠理奈 の死の原因が交通事故であることが暗示されている。

 これらの相違点を除くと,シーケンス上は「友達の墓参り」「母校を訪ねる」「バスの中」「友達 を訪ねる珠理奈」「5 人と珠理奈の別れ」「去っていく5 人」からいずれの版も構成されている。

 シーケンスを構成するシーンも両版ともほぼ同様で,上述の部分以外では,「友達の墓参り」シー ケンス内の「境内を歩く5 人」のシーンが完全版にはあるが,歌唱入り版にはない。ここは5 人は,

それぞれの近況などを話している。

3.2 完全版のストーリー

 あらためて,完全版の内容を,映像の順に辿ってみる。

 まず,映像は墓地のシーンから始まる。

 友美,優子,陽菜,みなみ,敦子の5 人は,墓参りに来ている。冒頭は優子の電話のシーンで,

来るはずだったひとりが急に来れなくなったという連絡を受けている。去年は8 人が墓参りに来た のに今年は5 人,敦子はそのことに不満そうで,八つ当たりのように陽菜の服装に文句を言った りしている。その後,5 人は寺の境内を歩きながらそれぞれの近況などを話す。賑やかに話す友美,

優子,陽菜,みなみの4 人から少し遅れるようにして敦子が後ろからついていく。

 珠理奈の家の前の路上。家から出てくる5 人,その後ろから5 人を見送りに珠理奈の両親も出 てくる。

 珠理奈の両親は,彼女たちに「今度描いた絵をみせてね」とか「自分も二浪しているから失敗し たって気にするな」とか「彼氏ができたらつれておいで」などと声をかけている。去っていく5 人 の後ろ姿を見送る両親,そこに,さくら色の制服を着た珠理奈が,笑顔で遠ざかっていく映像が挿

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入される,そしてクロスフェードで,再び手を振り,頭を下げる5 人の姿に変わる。去っていく5 人を見送る両親の「はやいな」「もう,成人式ですね」という会話,このあたりまでで,5 人は高 校時代の友人のお墓参りをし,その友人の両親を訪ねたのだということが分かってくる。

 ふたりの「はやいな」「もう,成人式ですね」の会話の直後,画面は母親の右肩のクローズアッ プになりその肩に父親が手を載せるのだが,この時,父親の右手はさくら色の制服の袖口からでた 若い女性の手によって導かれている。

 5 人は路上を並んで歩いている。「あそこでシュークリームふたつは食べないでしょう」と敦子,

おそらく先ほどの珠理奈の家で出されたシュークリームのことだと思われる。みなみが突然,「学 校行ってみようか?」と言い出し,5 人は学校に向かう。

 母校の教師の噂話などをしながら横断歩道を歩いていると,すれ違った老婆が荷物を散乱させて しまう。敦子を先頭に5 人は駆け寄り,荷物を拾う手助けをする。このショットで5 人の背景を1 台の車が通り過ぎ,その車の手前の歩道には花束が置かれている。この花束はこのシーンの最後に 再度,クローズアップで映しだされる。珠理奈が交通事故で死んだということを仄めかすシーンで ある。

 母校の職員室の前で,敦子以外の4 人が教師と話をしている。敦子は少し離れた場所で壁の写真 を観ている。4 人はアルバムをめくりながら教師と話をしていたが,あるページを覗きこんで黙っ てしまう。その沈黙に誘われるように4 人の方を観る敦子。

 校舎から出てきた5 人が,同じ何かに視線を向けるようにして足を止める。画面は校庭の大きな 桜の木を捉えてズームアップしていく。そしてふたたび,同じ方向をみつめる5 人の姿をパンで捉 えていく。

 車窓からの海が映し出される。5 人はバスに乗っている。

 車窓に見えた海に喜ぶ4 人と,最後尾の座席にひとり座ってそんな4 人の姿を見ている敦子。

その敦子が4 人から視線をそらせて別の何かを思い浮かべるような表情になる。バスの窓から海の 香りを楽しむような珠理奈の姿のショット,そして再び思いにふけるような敦子の表情のクローズ アップ,そこに桜の花びらが散ってきて,「桜の木になろう」の楽曲が入る。楽曲が入ると共に映 像は降ってくる桜の花びらを捕まえようとする4 本の制服の腕のショットになり,寝そべって桜の 花びらと戯れる敦子と珠理奈の姿に変わる。敦子はつかんだひとひらの花びらを珠理奈の頬に乗せ る。嬉しそうな珠理奈の笑顔。

 楽曲が始まってからは台詞は一切なくなり,音声は歌だけになる。

 試験場のシーン。陽菜が試験を受けている。珠理奈の父親との会話で陽菜が二浪中の受験生であ ることは分かっているので,大学受験に関係する試験であることはわかる。問題を考える陽菜のと なりに制服姿の珠理奈が現れ,一緒に考えるように問題を覗きこむ。

 大学の食堂のような場所。みなみが食事をしている。そこにひとりの青年がトレイをもって現れ,

混んだ食堂の中で座る場所を探している。みなみは彼に気づいて慌てて自分の隣の席に置いていた 荷物を退ける。みなみの表情からは彼女が彼に好意を持っていることが伺われる。彼は別の席を見 つけてそちらに行こうとするが,その席に制服姿の珠理奈が座り,彼の方を睨むような素振りをす る。次のショットでは彼は,みなみの隣で食事をしている。

 娘(以前の台詞から2 歳半だと分かっている)の手を引いて,優子が公園を歩いている。歩いて

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いる時は楽しげなふたりだが,次のショットでは娘はひとりブランコに乗り(ブランコは動いてい ない),母の方を見ている。母はブランコからかなり離れたベンチに座って,娘ではなく,どこか 遠くの方を見るような表情をしている。ブランコに乗った娘が「ママー,おして」と呼んでいる(口 の動きで分かるが,声は入っていない)。その後ろに制服姿の珠理奈が立っていて,娘と一緒に優 子の方を見ている。呼ぶ声に気づいて駆け寄って,娘の背中を押す優子,その傍らで珠理奈が笑顔 でそんなふたりの様子を見ている。

 夜のレストラン。友美がテーブルの準備をしている。その手がふと止まり,窓外の夜景をぼーっ と眺める友美,その背中に珠理奈の腕が,人差し指で背中をつつこうとするかのように伸びてくる。

が,それよりも先に,上司の男性が彼女の肩を叩いて,彼女も我に返り,仕事に戻る。そんな友美 の後ろ姿を珠理奈が見つめている。

 どこかの会社のオフィス。敦子は他の社員がデスクでそれぞれに仕事をしている中で,ひとり,

防災品のチェックをしている。

 同じく会社の屋上。昼休みなのか,バトミントンをする人や読書する人,おしゃべりしながらお 弁当を食べてる人たち。敦子は屋上の囲いにもたれるようにして,ひとりで外のほうを眺めている。

その様子を,どこか上の方から眺めている珠理奈。彼女はポケットから,桜の花びらを一枚つまん でだし,それを落とそうとするかのように,腕を伸ばす。

 敦子の後ろ姿,振り返る敦子,バトミントンのシャトルを拾ってほしいと声をかけられたのであ ろうことが,足元のシャトルを拾って投げ返す様子から分かる。その様子を眺めていたのであろう 珠理奈は,花びらを手放すのをやめて,自分のポケットに戻す。

 次の場面では突然,珠理奈の顔の正面からのクローズアップになる。背景に大きな木の幹が写っ ている。珠理奈は木の方へと振り返り,木に向かって歩き出す。その背中に5 人の掌が載せられる。

5 人を振り返る珠理奈,珠理奈を見つめる5 人,再び前を向き木に向かって歩き出す珠理奈,その 背中を押す5 人。

 横並びに遠ざかっていく5 人の後ろ姿,笑顔も見え,敦子を中心に楽しげに歩いていく。場所 ははっきりしないが,土の地面や5 人の前方に見えるコンクリートの柱のようなものからは,校 庭から校門へ歩いているように見える。同じ遠ざかる後ろ姿をいったんニーショットで写し,カッ トしてフルショットをつないでいるため,遠ざかっていくことが強調されている。このショットで

「AKB48 桜の木になろう」のタイトルが出て,楽曲と共に映像が終わる。

 以上が,完全版の大体の流れである。この映像から,この映像が描いているドラマがどのような ストーリーを持っているのかを考えてみる。

 まず,「友達の墓参り」から「バスの中」までのシーケンスであるが,これはストーリーを継時 的に追っていると考えられる。

 墓参りの境内のシーンで,敦子はオレンジ色の袋を持って歩いている。袋は,その前の墓地のシー ンでも墓に花を供える敦子の横に写っているし,その袋の置かれている方を向いて「ねえ,知って る?このシュークリーム美味しいんだよ」と友美が喋っている。一方,珠理奈の家の前のシーン では敦子はこの袋を持っていない。次の路上のシーンでも敦子は袋を持っていないし,「あそこで シュークリームふたつは食べないでしょう」と言っているのを考え合わせると,5 人はオレンジ色 の袋に入ったシュークリームを持ってまず珠理奈の墓参りをし,その後珠理奈宅を訪問,そこで手

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土産のシュークリームを渡したがそれを出されて,(おそらく)陽菜はそれを二つ食べ,そのこと を路上で敦子に諌められる,というストーリーが考えられる。ちなみに,境内のシーンでは5 人は 花束をもっていないし,本堂から遠ざかっているので,「墓地」と「境内」の配置も継起順であろう。

「シュークリームふたつ」の会話の後,友美の思いつきで5 人は母校を訪れ,校庭の桜の木に見入る,

ということになる。

 ストーリーとシーンの配置は継起順に一致しており,プロットはストーリーを時間順に追っている。

 次のシーンで5 人はバスに乗っている。

 このシーンが,墓参りから母校訪問と続くストーリーの次の場面なのかどうかははっきりしない。

服装は同じなので,同じ日だと考えるのは順当であろう。母校を訪れたのは,路上での会話から,

夕刻に近い時間と考がえられるが,バスの窓からさす日差しもかなり傾いている。敦子のまわりに はオレンジ色の袋はないが,座席の陰に隠れて見えないだけ,という可能性も否定は出来ない。が,

ここまでの展開を考えるならば,母校からの帰りと考えたくなる。

 ただし,若干の疑問も残る。このシーンで少なくとも敦子を除く4 人は海が見えたことにはしゃ いでいる。その始まりは「うぉ,海だ」「海だよ」という台詞だが,これが母校からの帰りの(例 えば最寄りの電車の駅へ向かう)バスだとすれば,もともとそこに通っていた5 人が,そこで海が 見えることを知らないはずはない。バスの中の回想シーンからは,高校時代に敦子は珠理奈と同じ バスにのっていたことが想像できる。もちろん,別の路線のバスの中でのことを思い出したのかも しれないし,そもそもそれは敦子の回想ではなく想像である可能性も否定はできない。

 学校に通っていた頃は(少なくとも敦子以外は)使ったことのない路線であったという可能性も あるし,そもそも,「海が見えた」ことではなく「久しぶりの海」にはしゃいでいたのかもしれない。

ただ,そう解釈するには「海」に対する驚きが極端ではあるように見受けられる。

 いずれにせよ,「海」に対する4 人の態度は,このバスがいつ,どこからどこへ向けて5 人を運 んでいるのかについて,若干の疑問を抱かせる。

 しかしこの「バスの中」のシーケンスの特徴は,ストーリー上での配置のこうした疑問よりも,

このバスの中の映像にかぶせてそこに桜の花びらが降ってきて,桜の木の下での珠理奈と敦子の回 想シーンへと移っていくことである。この桜の木の下の映像でのふたりはいずれも制服姿である。

このシーンで敦子は珠理奈に桜の花びらを与えることになるが,この花びらは後の会社の屋上シー ンで登場する花びらにつながっている。この出来事はふたりにとって思い出深い出来事であり,ま た鑑賞者にとってもふたりの高校時代の関係を象徴するシーンとなっている。

 この回想シーンを境に,続く場面はそれまでの「日常的な」場面とは異なる「非日常的な」内容 となっていく。

 受験生の陽菜,大学生のみなみ,子育て中の優子,レストランで働く友美,会社で働く敦子と,

5 人の現在の日常が描かれていくが,同時にそれぞれの場面を訪れている制服姿の珠理奈が描かれ る。死んだ珠理奈の霊が5 人の友人を訪れているという「非日常的な」場面と考えるのが最も普通 の解釈となるであろう。5 人の姿が「現在の」5 人の姿であることは,ここまでの話の中でほぼ確 実だが,この「珠理奈の訪問」が,ストーリー上でいつの出来事なのかを確定することはできない。

前半の墓参りのエピソードの前とも考えられるし,後のこととも考えられる。

 友達を訪ねる珠理奈の一連のシーンの後,またも場面は唐突に変わり,珠理奈が「木」の方に向

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かって歩き出すシーンになる。シーンの繋がりからは,友人たちを訪れその姿を見た珠理奈が,友 人たちと訣別して「木」に向かって歩き出す,と読み取れるが,それを裏付けるかのように,歩き 出す珠理奈の背中を押す5 人の姿が続いて描かれる。このシーンでの5 人の服装は前半の墓参り の時と同じ服装であり,背景には学校らしい建物も見える。背中に手を感じて振り返る珠理奈と5 人は目を合わせている。このシーンでは,5 人と珠理奈は互いに相手を認識していると思われる。

5人に背中を押されて歩き出しフレームから消える珠理奈と珠理奈の歩いて行った方を見つめる5 人が描かれ,その直後に背中を向けて歩いていく5 人の後ろ姿が描かれる。

 この5 人と珠理奈との訣別のエピソードもまた,ストーリー上のどこに位置づくのかはっきりし ない。場所を学校とすれば,バスの中のシーンの前の母校の校舎の前で校庭の桜の木を見つめる5 人に続く場面と考えることもできる。ただし,その場合,この訣別の後にバスに乗り,そこで敦子 が珠理奈のことを回想するということになり,この訣別の意味が弱まってしまう。とすればバスの シーンは母校からの帰りではないと考えるべきこととなる。訣別のエピソードは,墓参りとは全く 別の日のことと考えることも可能だが,5 人が5 人共同じ服装で別の日に集まったとも考えにくい。

冒頭の墓地での会話からは,少なくとも陽菜以外は意図して黒っぽい服を着てきているので,なお さら墓参ではない別の日に同じ服で揃うということはないだろう。

 完全版の物語のストーリーを考えた場合,前半の墓参りから始まり母校を訪問するに至る一連の 出来事は,日常の中のある日の時系列に沿った一連の出来事として理解できるが,楽曲と共に描か れるバスの中のシーン以降の珠理奈の「霊」の登場する一連のシーンは,ストーリー上に位置を定 めることが出来ない。そもそも「霊の訪問」「霊との交感」という「非日常的な」内容であり,そ れが「現実に」在ったことかどうかも確定することはできない。完全版の物語の後半は,ストーリー 的には位置を定位できないまま,多様な解釈の余地を残している。

3.3 歌唱入り版のストーリー

 次に歌唱入り版の内容を完全版と対比しながらみていくことにする。

 表2 に示したとおり,歌唱入り版は完全版のほぼ二分の一の長さしかない。

 シーン・シーケンスで見るとほぼ同様の場面で構成されているが,シーンを構成しているショッ ト数は少なくなっている。

 歌唱入り版は,完全版では中盤にある「バスの中」のシーンから始まる。車窓から見える海,海 を見てはしゃぐ4 人,海の香りを楽しむ珠理奈の姿を思い浮かべる敦子,その敦子の前に舞い落ち てくる桜の花びら,楽曲が始まり,花びらと戯れる4 本の腕,とここまでは,会話の内容も含め,

全く同じショットが使われている。楽曲が始まった後は歌唱入り版も一切台詞はなくなり,音声は 楽曲だけになる。

 楽曲のイントロが終わり歌が始まるあたりで,完全版では4 本の腕から寝そべって桜の花びらを 捕まえようとしている珠理奈と敦子のショットになるのだが,歌唱入り版では,墓地のシーンとなる。

 墓地のシーンはロングショットで墓地全体を捉える設定配列と墓に花を供える敦子をバスト ショットでとらえた連関配列にあたるふたつのショットだけが使われている。いずれも完全版でも 用いられているショットだが,短く切り詰められて「墓地で墓に花を供える敦子」という状況だけ

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が見て取れるだけになっている。完全版では,彼女たちの状況や関係を説明する多くの会話が交わ されているが,歌唱入り版ではそうした部分は全てカットされている。

 完全版ではこの後,境内でも会話が続いているが,歌唱入り版では境内のシーンもカットされ,

珠理奈の両親が5 人を見送るシーンに移る。このシーンも見送る両親と去っていく5 人の姿の2 ショットが用いられているだけになっている。

 次いで職員室の前で教師と話す4 人と壁の写真を見ている敦子のシーン,そして校舎から出てく る5 人,校庭の桜の木へのズームアップ,立ち止まって同じ方向を見つめる5 人の姿,と,完全 版と同じ場面が短く切り詰められながら展開される。

 バスのシーンの置かれた位置は大きく違っているが,墓参りをし,珠理奈の家を訪ね,母校を訪 問するという5 人の行動は切り詰められているが完全版と同じ順序で描かれている。完全版にあっ た路上でおばあさんを助けるシーケンスがないために,母校を訪ねるのが突発的な思いつきであっ たことは歌唱入り版では分からない。完全版の珠理奈の家の前のシーンにある回想シーンもカット されているため,歌唱入り版ではここまでの間で珠理奈が登場する場面はバスの中の敦子の回想の みで,初見では登場人物間の関係を把握しにくいかもしれない。

 完全版では校舎の前で同じ方向をみつめる5 人の姿の後はバスの中のシーンに移行するが,歌唱 入り版では,5 人の姿を写した後再び映像はズームアップして一群の制服姿の少女達を捉える。実 はその前の桜の木へのズームアップのショットで,桜の木の下に何人かの制服姿の少女達が写って いる。いったん5 人の姿を挟むが,この前後のズームアップは一連のものとして捉えられる。そし てズームアップしたカメラの方をひとりの少女が振り返ると,それは珠理奈である。

 歌唱入り版ではここで,桜の木の下で寝そべる珠理奈と敦子の姿を描く。

 そののち,完全版にはない,前述した「歌唱I」のシーンが入る。

 「歌唱I」の後は,「友達を訪ねる珠理奈」の一連のシーンが来る。試験場,学食,レストラン,公園,

会社の順で完全版とは公園とレストランの順序が入れ替わっている。それぞれのシーンの長さも,

切り詰められている。

 会社のシーンに続いて,珠理奈の顔の正面からのクローズアップから始まる,5 人と珠理奈の別 れのシーンになる。ここは,完全版とほぼ同様の内容で描かれる。フレームから消えた珠理奈の姿 を見つめる5 人のショットの後,「歌唱II」が入る。歌唱II の後に,去っていく5 人の後ろ姿のシー ンがあって映像は終わるが,このシーンも完全版とほぼ同様のものが使われている。

 この歌唱入り版の内容から導かれるストーリーはどのようなものになるだろうか。

 完全版と比較すると,尺を楽曲とほぼ同等にまで切り詰めるために,各シーンは「何があったか」

を把握できる程度までに切り詰められている。

 そのために返って,シーンのつながりが時系列に沿っていると捉えやすい。

 「5 人はバスに乗って珠理奈の墓参りに向かう,まず墓地で墓に花を手向け,次に珠理奈の家を 訪ねる,その後母校を訪ねる」,ここまでは映像はストーリーを継時的に辿っていると捉えられる。

 母校を訪れ,校庭の桜の木に見入る。その木は,とりわけ敦子にとっては珠理奈との思い出の木 であり,敦子は珠理奈とふたりでその気の下で桜の花びらと戯れていたことを思い起こす。

 ここで,「歌唱I」のシーンが入るのだが,前述の通り,このシーンは桜の木の下でAKB48 の 15人が着座で歌唱しているシーンである。この直前のシーンで敦子と珠理奈の過去の回想になり,

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続くこの歌唱I で珠理奈の不在が描かれる。桜の木の下には椅子は16 脚あり,桜の木の真下の椅 子が1 脚空いている。これは「歌唱II」のシーンになって分かることだが珠理奈が着座するための 椅子である。

 このシーンをカメラはまずアイレベルで捉えるが,次第に上昇しハイアングルになっていく。す なわち視線は上昇していく。この上昇していく視線に続いて,先に「非日常」と呼んだ,珠理奈(の 霊)が5 人を訪れる一連のシーンが続く。

 回想シーンに続くことが,珠理奈が友人を訪れるという非日常的な出来事は,過去に行われたこ とが示唆される。

 そして,その「非日常」のクライマックスとして,「木」に向かって歩いていく珠理奈とその背 中を押す5 人のシーンが描かれる。

 このシーンに続く「歌唱II」では,「歌唱I」の空席に珠理奈が着座し,16 人での歌唱になっている。

カメラはハイアングルでまず16 人を捉えるが,次第に下降してきて,アイレベルでショットを終 える。

 歌唱シーンに続いて,遠ざかっていく5 人の姿が描かれる。楽しげに歩いていく5 人の姿は,

あたかもひとつの「仕事」,ひとつの訣別をやり遂げて,次へと向かう姿を描いているように見える。

 この後半部分をストーリー上に位置づけてみるならば,母校の桜の木を見ることで珠理奈との出 来事を敦子は思い起こす。ここで入る歌唱シーンの視線は「地に足のついた」高さから次第に天空 の高さへと上昇していく。これが「日常」から「非日常」,霊が存在し,霊と交感できる「非日常」

の空間への移行の区切りとなっている。

 この「非日常」の空間の中で,かつ「現在」において行われたのは,5 人と珠理奈の訣別だと考 えられる。桜の木(珠理奈が向かって歩いたのは校庭の木であることは,ここに至ってはほぼ明白 である)に向かって歩き出す珠理奈と,その背中を押す5 人。それは生者は生者として,死者は死 者として,それぞれの在るべき場所へ在らねばならないというそれぞれの決意に基づく訣別の儀式 である。完全版のストーリーを述べた際に触れたことがだが,このシーンでの5 人の服装は墓参り の時のものと同じであり,これが同じ日の出来事であると考えるのは無理がない。5 人は実は,こ の儀式のために学校を訪れたのだと考えるならば,校舎の前のシーンで同じ方向(校庭の桜の木)

をじっと見つめる5 人の姿もそれに見合った意味付けが可能になる。

 珠理奈を桜の木へと送り出す訣別の儀式を終えたところで挿入される歌唱シーンでは,珠理奈が その一員として着座している。この16 人の少女達は桜の木そのものであり,この歌が桜の木の歌 であることがここで理解できる。カメラは天空の視線から「地に足のついた」場所へと降りてくる。

「非日常」の空間はここで終焉し,「日常」の空間へと戻ってくる。最後の5 人の後ろ姿は訣別の儀 式を終え,生きている者として,前へ進もうする姿である。

 5 人が「儀式」の為に母校を訪れたのだとするならば,「歌唱I」に続く珠理奈が5 人を訪れる一 連のシーンを,この儀式を理由として捉えることができる。5 人に珠理奈の訪問が認知できていた か否かは判然とし得ない。認知できていたとしたら儀式の理由としてはなお一層明解であるし,認 知できていなかったとしても,この一連のシーン全体を,5 人と珠理奈との間にある断ち切れてい ない比喩的な表現として見るならば,やはり儀式の理由として捉えることができる。

 ここでは仮に珠理奈の訪問が実際にあった非日常的な出来事であると捉えるならば,歌唱入り版

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の描くストーリーは次のようなものになるだろう。

 友美,優子,陽菜,みなみ,敦子の5 人は高校時代の友人で,彼女らには,珠理奈という既に亡くなっ てしまったやはり高校時代の友人がいた。珠理奈は死んでからも5 人のもとを訪れていた(あえて 言えば,「成仏していなかった」)。5 人は何かのきっかけでそのことに気づき,珠理奈と訣別する ための(珠理奈を「成仏させるための」)儀式を行うことにした。そして決行の日,5 人は珠理奈 の墓に参り,珠理奈の両親を訪ね,そして母校を訪れた。目的は校庭の桜の木。珠理奈の居場所は 桜の木であり,そこに珠理奈を送り出すことが5 人の儀式だった。桜の木の下で5 人は珠理奈と 出会い,珠理奈を桜の木に送り出す。そうして5 人は母校に背を向け,前に進むために歩き出した。

 多少読み込み過ぎの部分もあるかもしれないが,大枠のストーリーはこのように読み取ることが 妥当であろう。完全版同様,珠理奈の訪問の一連のシーケンス部分をどのようにストーリー上で位 置づけるかは難しいところだが,完全版ほどの多様な解釈は生み出されない。それは他の部分がほ ぼ「何が在ったか」しか記述しておらず,二つの歌唱シーンが「日常」と「非日常」を明確に区切っ ているために,シーンを意味づけしやすくなっている。図1 は歌唱入り版のストーリーとシーケン スを図化してみたものである。

3.4 歌詞と映像との対応について

 「桜の木になろう」はMV であるので,映像は当然楽曲との何らかの関係が考えうる。ここでは 特に,映像と歌詞との対応について取り上げる。

 歌唱入り版は楽曲とほぼ等しい尺を持ち,Youtube のAKB48 公式チャンネルでも公開されてい るもので,楽曲「桜の木になろう」のMV としてはこちらが“本命”ということになろう。完全版 は「桜の木になろう」のCD に付けられたDVD に収録されているもので,CD 購入者への「オマケ」,

特典的な位置づけであり,それゆえに楽曲の倍以上の12 分のドラマとして仕上げることが出来た ものと考えられる。

 いずれの作品においても,映像は歌詞の内容をそのまま再現しているものではないので,歌詞に 沿った映像が作られているわけではない。けれども例えば,完全版では7 分39 秒の部分で「春色 の空の下を,君はひとりで歩き始めるんだ」という歌詞が入ってくるが,そのシーンでの映像は,

歌詞の入る直前に,空を背景に敦子と珠理奈のさくら色の制服を着た腕が落ちてくる桜の花びらを 掴もうとしているショットがあり,歌詞とともに制服姿の敦子と珠理奈が仰向けに寝そべっている

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ショットに変わる。まず敦子との笑顔がアップで映り,それは珠理奈の笑顔のアップに切り替わる。

さくら色の制服,桜の花びら,笑顔は「春色」をイメージしているし,空のショットから仰向けの 二人のショットに切り替わることで「空の下」を描いている。ふたりが映っているところは「君」

という言葉と整合する。全体として「春色の空の下」で「君」と一緒にいるという映像となってい て,歌詞の含む意味をイメージとして描いている。

 完全版のこの部分の映像は,ほぼ同様の内容のものが,歌唱入り版にも存在する。

 歌唱入り版1 分50 秒の部分で,「不安そうに振り向く」という歌詞が流れ,この場面では校庭 の桜の木の下の制服姿の少女にカメラがズームアップしていき,「振り向く」で,その少女がカメ ラの方を振り向くショットになっている。これに続いて歌詞は「君が無理に微笑んだ時,頬に落ち た涙は大人になるためのピリオド」と歌われるが,「君が無理に微笑んだ時」で,完全版と同じ,

敦子と珠理奈が仰向けに寝そべっているショットになる。二人が映っている部分で「君」,敦子の 笑顔は「微笑んだ」に一致する。「頬に落ちた涙は」の部分では,敦子は,つかまえた桜の花びら を珠理奈の左の目尻の下あたりの頬に,まるで「涙」のように乗せて,まるで「ピリオドを打つよ うに」指でその花びらを押している。

 完全版ではその部分の歌詞全体の表すイメージに則した映像が当てられていたのだが,歌唱入り 版では,「君」「ほほえみ」「頬に落ちた涙」「ピリオド」といった一つひとつの単語に,謂わば反応 するかのように映像が当てられている。全体としてこの部分の歌詞である「君が無理に微笑んだ時,

頬に落ちた涙は大人になるためのピリオド」と,映像の内容とは必ずしも一致していない。歌詞は,

必ずしも楽しく明るい場面を描いているわけではない。「君」は無理に微笑んでいるし,涙まで流 している。映像の方は,高校時代の親友が桜の木の下で,まだ大人になるために涙を流さなければ ならないことも知らないような笑顔で,じゃれ合っているようなシーンである。イメージとしては,

完全版で使われている「春色の空の下」の方が近い。けれども,歌詞と映像との一致の部分で見る と,「振り向く」で少女が振り向き,「君が」で敦子と珠理奈の二人の姿が映り,「微笑んだ時」では,

上を向いている敦子を横顔から捉えているカメラの方へ敦子が顔を向け彼女の笑顔が正面から捉え られ,「頬に落ちた」で敦子が珠理奈の頬に桜の花びらを乗せ,「涙は」で,敦子が花びらを置いた 場所が,涙のしずくの落ちる場所としてイメージされ,「ピリオド」の直前,敦子はいったん載せ た花びらを指で押さえている。歌詞の断片,単語レベルの単位で映像が,時に歌詞が先行し,時に 映像が先行しながらシンクロしている。これは謂わば,歌詞の単語ごとに図解を示しているような ものであり,単語の印象をより強くする。

 歌唱入り版から,他にも幾つか例を挙げるならば,「長い道」(冒頭から1 分22 秒あたり,以下 同)という歌詞と画面中央を消失点とした真っ直ぐな坂道を降りていく5 人の後ろ姿,「制服と過 ぎた日々を」(1 分27 秒)という歌詞の「制服」で画面を横切る制服姿の女子学生,「過ぎた日々を」

でその背後に私服姿で教員と話す5 人の姿,「教室の日なたの中」(2 分47 秒)の「教室」で試験 会場の大教室,ブラインドが降りているけれどもその教室の窓からは外の陽が射している。また,「満 開の季節」(3 分12 秒)という歌詞の部分では,その前のショットでみなみが学食でカレーを食べ ていて何かに気づいて慌てる表情が移り,当該歌詞の部分では画面に青年が登場し,慌てて自分の 隣の席の荷物を片付けるみなみが映る。その後の3 分24 秒から「木枯らしに震えていた冬を越え て花が咲く」の部分では,みなみの隣にその青年が座って食事をしていて「冬を越えて花が咲く」

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の部分では,二人は笑い合っている。「満開の季節」を「恋の季節」のレトリックとして「花が咲く」

様子を描いている。ちなみにこの学食の場面は完全版にもあるが,そこでの歌詞は「君が無理に微 笑んだ時 頬に落ちた涙は大人になるためのピリオド 永遠の桜の木になろう そう僕はここから 動かない」である。

 紙幅の関係で,全ての事例を挙げることができないが,こうした歌詞と映像との一致は歌唱入り 版の方に多く見出すことが出来る。明らかに,歌唱入り版においてより,歌詞の特に単語や句レベ ルでの内容と映像との一致が図られている。

3.5 完全版と歌唱入り版の所要時間に関する編集上の違いについて

 完全版12 分59 秒,歌唱入り版6 分13 秒と,歌唱入り版は完全版の約 の長さになっている。

 それぞれのシーン/シーケンスの違いは3.1 にて述べたところだが,ここで改めてシーケンスの 対応を図にしたものが図2 である。シーケンスレベルで完全版に存在して歌唱入り版に存在しない のは「路上」のシーケンスであり,その逆は「歌唱」のシーンである。それ以外のシーケンスは何 らかの形で双方に存在する。

 表5 は,各シーケンスに含まれるシーンの所要時間の対応表である。「敦子の回想」部分は完全 版では一連のショットからなるが,歌唱入り版では二つのシーンに分けられ分散して配置されてい るものを合計している。

 歌唱入り版は完全版の約半分強の長さになっているのであるから,何らかの方法でその時間が削 減されている。ここでは,それがどのように行われているのかを検討したい。

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 時間的に最も大きく削減されているのは完全版で前半部分に登場する「墓参り」の部分で,5 人 が境内を歩く部分はまるごと省略されている上に,墓地の場面も珠理奈の両親を訪問する場面の歌 唱入り版では約 の長さにまで切り詰められている。

 完全版では台詞によって5 人の関係やお参りの対象に対する心情の違いが説明されている。両親 を訪問する場面でも,5 人の現状が分かるようになっている。子どもを失った両親にとって娘を取 り巻く時間はその時点で止まってしまっているが,生きている5 人は珠理奈の死後も成長し変化し ている。その両者の間の隔たりも描き出されている。

 歌唱入り版ではそうした説明は全て省略され,「敦子と4 人が友人の墓参りをした」ということ だけを描くのみになっている。

 同様の心情の描写の省略は,珠理奈が現在の友人を訪問する一連のシーケンの中の公園で子ども と遊ぶ優子の場面でも行われている。完全版では物思いにふけって子どもの呼び声に気づかない優 子の姿が描かれるが,歌唱入り版では「子どもを連れた公園で遊んでいる優子とそこを訪れた珠理 奈」が描かれるだけになっている。

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 珠理奈が現在の5 人を訪れるその他のシーンでは,設定描写の切り詰めが行われている。例えば,

試験上の陽菜のシーンでは,完全版にある試験上の外観描写が全て削られている。それがなくとも 次のショットで,そこがどこかの大学の様な場所であり,腕章をした監督員が歩いている試験会場 の様子から,単なる大学の授業の試験ではない何かの試験が行われていることは理解される。

 学食のみなみのシーンでは,登場する青年の正面からの描写が削られ,青年は後ろ姿や体の一部 分しか画面に登場しない。けれども,みなみが青年の登場に慌てて自分の隣の席を空けたり,珠理 奈が青年をみなみの隣の席に座らせようとしたこと,それがうまく行ったことなどは分かる。

 レストランの友美のシーンでは,友美の作業を描いた部分の一部が削られ,また,珠理奈の登場 は右腕だけになっている。ぼんやりしていた友美が肩を叩かれて我に返り笑顔でまた仕事を続ける,

という描写も,歌唱入り版では「肩を叩かれて我に帰り笑顔で答える」という表現に集約されている。

 屋上の敦子のシーンでは,敦子の様子を眺めていた珠理奈が,降らそうとした桜の花びらを再び ポケットに染まうという秒sy が削られている。歌唱入り版では,結果的に花びらが降ってこない ことで,珠理奈が花びらを降らさなかったことを描いている。

 全体としては,登場人物の境遇や心情,登場人物間の関係を描く部分が省略されて,何があった のかだけが描かれ,また,状況設定についても,冗長な描写を削り何が起きているのかを鑑賞者が 理解可能なぎりぎりにまで切り詰めている。

3.6 総括

 完全版は,ストーリーとして観るならば整合性を欠いている。墓参りと5 人と珠理奈の別れの場 面の時系列上の生起順序が確定出来ないからだ。

 しかし,完全版を歌部分とドラマ部分に分けて捉えた時,ドラマ部分は,5 人と1 人との関係と 5 人の今生きている姿・現状を提示するキャラクター紹介であり,歌部分は,ストーリー上のもの ではなく死者と生者の分離と,生者は死者を墓に葬って忘れることで変わっていかねばならず,死 者はただ観ていることしか出来ないという生―死の越えようのない異界性とを象徴的儀式の情景に よって描いたものとして,謂わば観念の具象的表現であるとするならば,それは時系列上の“いつ”

起こったかを問うべきものではなく,実は,“いつも常に”起こっていること,生きている者は常に,

死者を葬り続け,忘れ続け,離れ続け,変わり続けている,ということを示しているとも考えられる。

 また,3.5 で触れた会社の屋上の敦子の場面で,珠理奈は,屋上でひとりで外を眺めている敦子 の様子を見て,ポケットから桜の花びらをつまみ出して,それを降らそうとする。しかし,屋上の 誰かに呼ばれてバトミントンのシャトルを投げ返す敦子を見て,花びらを再びポケットにしまう。

その直後シーンは珠理奈の正面からのアップに変わり,その珠理奈が画面奥方向へ振り返って奥に ある木の方へ向かって歩き出す。

 歌唱入り版では省略されている「花びらをポケットに戻す珠理奈」があることで,「降らそうと した花びらをポケットに戻して,桜の木に向かって歩き出す珠理奈」が描かれることになる。ここ での珠理奈は,5 人と訣別しようという意志を感じさせる。桜の木になろうとして歩き始める珠理 奈,振り返るとそこには5 人の友人の姿がある,彼女たちは自分の背中を押してくれる,友人に背 中を押されながら珠理奈は桜の木になる,このシーンでの5 人の友人の姿は,実は珠理奈自身の幻

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視したもの,珠理奈の心情の描写と捉えることができる。

 ストーリー上での生起順序が確定できないことをこの作品の痂皮と考えるべきではない。

 歌唱入り版は,継時的と考えて無理のないシーケンスの配置,客観的で(非焦点化された)ギリ ギリに切り詰められ,状況のみを解釈可能なショット・シーンの構成,二つの歌唱シーンで,死者 の生者訪問シーケンスを囲むことで,その“異界的現象”のフラッシュバック的解釈を可能にし,

5 人の墓参りは死者の魂を桜の木へと返す儀式(墓参りの日に実際に行われた儀式)のためだった というストーリーを作り出した。歌唱入り版は,そのストーリーを把握しようとする時に戸惑う部 分はない。ほぼひとつのストーリーが浮かんでくる。

 個々のシーンは,(台詞がなくとも,観客の日常的経験から想定可能な)ギリギリにまで切り詰 められている。完全版よりも歌詞とシーンの内容との照合には気が遣われていて,歌詞はシーンの 解釈に方向を与え,映像は歌詞を印象づける役割をはたしている。

 しかし,そこでは出来事が物語られているだけであって,観客は起きたことを知るのみに留めら れてしまう。いわばそこにはストーリーだけがありストーリーしかない。言い換えるならば,そこ には鑑賞者が独自の解釈をもって意味を再生産・再創造する余地がない,すなわち「閉じられた」

作品となっている(高田2009)。

 あえて時系列上の不定を用意することで,それを“事実”ではなく“象徴”として,時間上の偏 在へと昇華させている完全版の持つ力は歌唱入り版は持っていない。

 がしかし,歌唱入り版は,そのストーリー上の構成は明解で,歌詞の単語と映像との折々の結び つきも明解になっている。ミュージック・ビデオとしてはこのあり方の方が正しいとも言えるであ ろう。

1) http://ja.wikipedia.org/wiki/桜の木になろう(2014-07-10)

2)もともとこの「桜の木になろう」のMV の分析は,茨城大学教育学部情報文化課程の専門科目である映像工 房プロジェクトのために用意されたものである。映像工房プロジェクトは,履修学生の主体的な活動の中で 発想力や企画力,実行力やチームマネージメント力を培うことを目的としたプロジェクト授業のひとつで,

映像制作・公開・研究をその活動の内容としている。

引用文献

遠藤大輔. 2013. 『ドキュメンタリーの語り方 ボトムアップの映像論』(勁草書房).

Richie, Donald. 2006. 『映画のどこをどう読むか』(徳間書店).

高田明典. 2009. 「映像比喩解釈学のための試論」『フェリス女学院大学文学部多文化・共生コミュニケーション

論叢』, 4, pp. 3―24.

参照

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