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Features
ofaMonastic
Group
in
the
Theravada
Sangha
K
aseStudy
of aMyanmar
Kuramoto,
Ryosuke
Every
ordainedBuddhist
monk(bhikkhu)
in
the worldis
a member ofthe
Buddhist
Stingha,
or monastic community.However,
aSangha
is
not an organizedgroup
like
theCatholic
Church.
Also,
the
history
ofthe
Sangha
is
fu11
of schism.For
example,it
is
saidthat
the earlySangha
in
ancientIndia
was
divided
into
manygroups.
Therefore,
to
understandthe
context of earlyBuddhism,
it
is
necessary todetemiine
the
monasticgroups
thatcompriseit.
Thus,
this
issue
has
become
afocus
ofdiscussion
in
Buddhist
studies[Sasaki
2000,
Ri
2001,
etc.].However,
because
there are only afew
documentary
records thatcan shed
light
on thiscontext, aphilological
approach toBuddhist
studies
is
limited.
Therefbre,
in
thispaper,
I
adopt an anthropological approachthat
is
characterizedby
fieldwork
and thataims to supplernentinfbrmation
about the
features
ofthe monasticgroups
in
theSangha.
Previous
anthropological studies on monasticgroups
in
theTheravada
Sangha
have
fbund
thatthere are nodoctrinal
differences,
but
thereis
diversity
regarding the
degree
of social recognition, thedegree
ofinstitutionalization,
clannish spirit,and so on[Ishii
1978;
Hayashi
2009;
Mendelson
1975,
etc.],However,
those studieshave
not completely consideredthe
reasonsfbr
thisdiversity.
Therefore,
using aMyanmar
gaing
or a monasticgroup
(in
theMyanmar
langutage),
I
attempted toinvestigate
the
reasonsbehind
andthe
48
パ ーリ学 仏 教 文化 学are as
fbllows
:First
, againg
is
fomied
on thebasis
of [1
】the master −pupil
relatiQnshipand [
2
]te torial connections .Second
, againg
is
not static.It
strengthensits
institutions
andboundaries
through
a close relationship with othergaings
,but
is
sometimesdisassembled
because
of the monks nlovingbeyond
thegaing
boundary
.In
this way 」gaings
are continually exposedto
such contradictorypressures
,thus
changingtheir
fbmls
dynamically
, which culminatesgaings
having
adiverse
charactetTlhis
is
merely one example of aMyanmar
Sangha
,but
it
may containhints
that couldpromQte
the understanding of theBuddhist
Sangha
.This
is
one of the waysthrough
which anthropology can contributeto
Buddhist
s加dies
. キーワー ド: ミャ ン マ ー,上座仏教,サ ン ガ, 派閥 ,ガ イ ン1
.問題 設
定
仏
教の全出家者
, 正確
に は正式
な出家者
で ある 「比丘(
p
;bhiltkhu
)
」 は, 同 じ 「サ ン ガ(
p
:sangha)
」 とい う理念的 集 合 に 属 して い る。 しか しサ ン ガ は, た と えばカ ト リッ ク教
会の よ うな組織化
された集
団で はない 。 逆に, サ ンガ の 歴 史は数 多の 分 裂に彩
られてい る。 た とえぼ古代イ ン ドにお け る初 期 サ ン ガ も, 「根 本 分 裂 」 や 「枝 末 分 裂」 の 結 果, 多 くの派 閥(
部 派)
に分か れた とい わ れて い る。初
期仏
教の あ り方を 理解
す るた め に は, こ う した派閥
の実
態を明 らかにするこ とが不 可 欠で あ り, そ れ ゆ えに仏 教学
におい て は議
論の 焦 点の 一つ と なっ て い る[
佐々 木2000
,李2001
な ど]
。 た だ し文 献資
料
が限られてい る状 況におい て は,仏教学
の文献学的
な手法だ けで は限界が あるよ うに 思 わ れ る。 そ こで本論
文で は, 現代
ミ ャ ンマ ーの上座 仏 教サ ン ガ を 事 例 と して, 現 地 調 査 を 基 礎 とす る人 類 学 的 な 手 法 に基づ き , サン ガにお ける派
閥の特
徴につ い ての デ ー タ を補完
す るこ とを 目的 と してい る。仏
教学
と人類
学は, 同じ仏教
を研究
対象
と しな が ら も, 問題
関心 や研究
手 法の違い か ら,相 互に参 照 し合える よ うな議論が発展 し に くい とい う状 況に ある。 そ れ に対 して こ の派 閥 とい う問題は, 両 方の 立場か ら接近 する こ とが 可能
な問題
で ある。 も ちろ ん,古代
イ ン ド と現代
ミャ ン マ ーの 状 況を同一視
上座 仏 教サ ンガ の派 閥と は な に か
49
するこ と はで き ない 。 しか し現地調 査を通 じて現代
ミャ ン マ ーに お ける派 閥 の 実 態を明 らか にす るこ と は, 古代イ ン ドの 状 況 を考
える上 で も,何 らかの ヒン トに なりうる と考
え る。 そ して こ うした点に こ そ,人類 学 的 な現場 研 究 が仏教学
的な文献
研究
に貢 献 し うる一 つ の 道筋があるよ うに思わ れ る。 本 論 文はそのため の 試 論で ある。も ちろん, 人 類 学におい て も既に, 上座 仏 教 サン ガの 派 閥 をめ ぐる議 論の
蓄積
が ある。 そ こで まず
, これ らの 先 行 研 究を確 認す るこ と に よっ て , 本 論 文の 問い を明確 に して お き た い。 た とえ ば石 井 米 雄 は, 上座 仏 教 の 派 閥は 「衣の着
方 や 日傘
の取扱
い な ど , もっ ぱら作
法 上の解釈
の違い に基づ く区別 で , 教 義 と は関係が な い 。 … …パ ー リ語の 経 典も,書か れ て い る文 字 こ そ違 え, その 内容は まっ た く同 一 で あ る ぼか りか,解 釈の 典 拠 としてい る注釈 書 まで ほ とんど同じで ある」[
石 井1978
:259
]
と述べ て い る。 こ の 点に おい て , 上座 仏 教の 派 閥は, た とえば大乗
仏 教の 「宗 派 」 や カ ト リッ クの 「セ ク ト」 と は異な る特徴 を もつ とい える。本 論 文で 「派 閥 」 とい う一般 的な表 現を用 い る理由
もこ こ にある。林
行 夫は, タ イ仏 教を事
例 と して , 派閥 (
林の 用語
によれ ば教 派)
を 「始 祖にあた る師を もち, 読 経 ・瞑想 法, 律 (罰 則 規 定 )に関わ る 日常の 儀 軌 作 法が差 異化 する師弟の系 譜」 と定 義 し, 競 合 関係はない, その 多 くは生 まれ て は消え る運命
にあ る, 社 会 的な認 知 度や顕 在の 仕 方に程 度の差 は あ れ ど も 理論
的には無 数に生 じ う る, とい っ た特徴 を指 摘 して い る[
林 2009b
:241 ]
。 メ ン デル ソ ン(
M
.Mendelson )
も ま た, ミャ ン マ ー に お い て 「ガ イン (1)(
m :gain
:)
」 と呼 ぼれ る派
閥が ,組
織 化 の程度
や ,派 閥意 識な どの 点 に お い て 多様で あ る とい うこ とを指 摘 し, その 多 様 性 を, 「フ ァ ク シ ョ ン (faction
)」 ガ イン・ ・ クシ ・ ]・・
1
・ 1[巫 コ
組織 化の程 度弱い
丶 〜 驢嘱一一一一一一一”一一一一 ド’
強い 派閥 意識 弱い 強い 【図
1
】「フ ァ クシ ョ ン」 と 「セ ク ト」 の対 比
50
パ ーリ学仏 教 文化 学 と 「セ ク ト(
sect)
」 とい う理 念 型 を 用 い る こ とに よっ て 整理 を 試 み て い る[
Mendelson
1975
:28
−29] 【
図1 】
。こ の よ うに人 類 学の先 行研 究で は, 派
閥
の特
徴を, 教 義 的に は ほ とん ど違 い はない が ,社
会的 な認知度
や顕
在 の仕方 , あ るい は組織化
の 程度
や派 閥 意 識に お い て多様
で ある こ とが指摘
されてい る。 しか しその理由
につ い て は十
分
な検討
がなされて い ない 。 そこ で本論文
で は ミャ ン マ ーの 「ガ イ ン」 を事
例 と して, 分 派 の原 因や 過程 を 明 ら かにす る こ と を 目指す。 本 論 文の構 成 は 以下の とお りで あ る。 まず,派 閥を 形成す る基本
原理 を確 認
す る(2 章)
。 その上で, その よ うに形成
さ れ た派 閥が 強 化さ れ る要 因(
3
章)
と,逆
に,派
閥を解
体す る要 因(4 章)
につ い て, そ れ ぞ れ考 察す る。 そ して 最後に, 派 閥を, 形成/
強化/
解体 とい う複数の要 因に よっ て揺れ動 く もの と捉える とい う動 態 的な見 方を提 示す る(5
章)
。 な お, ミャ ン マ ーで の 現 地 調 査は ,2006
年7
月 か ら2009
年9
月にか けて,断 続 的に合 計1
年8
ヶ 月間 行っ た。2
.派 閥 を形 成 す
る基 本 原 理
サ ンガ を構 成 する出家 者たちは, 現 実に は僧 院 とい う単 位に分か れて暮 ら して い る。 こ こ で い う僧 院とは, 特 定の 地 域 的 限界
(
界,p
:sima , m :thein)
に い る出家 者た ちに よっ て 構 成され, 住 職を中 心 として , 生活 ・修 行 ・日課 を共にす る共住 集 団を意 味す る。 サ ン ガの 基本 単 位は, こ う した僧 院で あ る とい えよう。 そこ で派 閥 とは, 一言で い え ば , こ うし た僧 院の連 合体の こ と を指す。 そ れで は ミャ ン マ ーに お い て , 派 閥は どの よ うな原理 で形 成 されて い るの か。 つ ま り,複 数の 僧 院は どの よ うに 一つ の ま とま りを もつ よ うにな るの か。第 1
に,師弟関
係を基 礎 とする原理 が ある。 こ の場 合の師 とは,出家 した ときの 「師僧(
p
:upajjhaya , m :u ,pa
.zehsa
.yado )
」 を 意味す る。 上座 仏 教の 出家者
は, 「受
具 足戒
式(
p
:upasampada , m :yahan
:−hkan )
」 と呼ぼれる儀 式に おい て , 師僧 か ら出 家 生 活の 規 則で ある
「律
(
p
:vinaya )」 を受け る こ とに よっ上座 仏 教サン ガの派 閥とはなに か 51 綿 と受 け 継 が れて き た 「戒 統
(
戒律の系統)
」[
森2011
:72
]
を伝 承す るの で ある。現
在
の上座仏
教サ ンガ の戒統
は, ス リラ ン カ 大寺
派よ り連 なる とい わ れて い る。 その意 味で,全世 界 の出家者
は 共 通の戒 統 に位 置づ け られ る。 しか し律
の具体的
な解釈
や その 守 り方は,師
僧 との 生活の 中でい わば 「な ま もの 」 の よ うに身体に 「鋳込 む 」 こ とに よっ て獲 得 される。 それ ゆえ に師 弟 関係の 系 譜に おい て多様 化 する傾 向に ある[
林2009a
:13
]
。 い わ ばス リ ラ ン カ大寺
派の 戒統を根 幹 として, そ こか ら多 くの 枝が個々 の 師 弟 関係 を通じて 派 生 し てい ると捉え るこ と が でき るだ ろ う。現在 の ミャ ン マ ーで は, 若 くし て 出家 し
(
多 くが10
代 前 半)
, そ の 生 涯 を出家者
として 過ごす よ うな長期 出家者
の ほ とん どが村落部出身
で あ るω 。 つ ま り出身地 で ある村の 僧 院に お い て, その僧院
の 住 職 を師僧 と して, まず
「沙 弥(
p
:samapera ,pm
:thEmane
, m :kouyin
)
」 とし て 出家 しt その 後20
歳 になっ た際 に,
再
び 同 じ師僧
の 元で 「比 丘(
m :poun
:gyi
:,ya
.han
:)
」 として出
家す る とい うの が一般 的で あ る。 師僧 と弟子 の 関係 は, 父 と子の 関係にた と え られ , 生涯に渡っ て 強い 結びっ き を もつ 。 こ うし た 師弟 関 係は, 弟 子が独 立する, つ ま り自 ら僧 院 を構え るようにな っ た後 も存 続 する。 その 結 果, 師 僧 を中心 とした ,弟 子や孫 弟子た ちの 緩や か な ま と ま りが 自生的に発生 す る の で ある。 逆にい え
ば
師
僧の 死 去に伴
い雲 散 霧 消 する とい う点で, 林の い う よ うに 「生ま れて は消え る」 ま とま りで あ る とい え る。こ う した師 弟 関 係を基礎 と した派閥 は , 特 定地域を超え うる もの で あ る。 その 一方で ,
第
2
に, 地縁関係
を基礎 と し,特
定の 地域
を拠
点 と して 活動
す る派 閥 もある。 こ れ らの 派閥
は, 「自恣(
p
:pavarapa
)
」儀礼
(3)を共に 行 う ま と ま り, とい う意 味で, ミャ ンマ ーで は一般に 自恣 派 閥(
m :pavara
頒gain
:)
と呼 ばれて い る。自
恣派閥
は, 一義
的に は自
恣儀礼
を執
行す る ための便
宜 的 な ま と ま りに過 ぎないが,僧
院間
の も め事の調停
や相
互 扶 助,僧院財
産の管
理[
cf藏本
2010
]
な ど, しば しぼ儀
礼執 行 以上の役割
を果た すこ とが あ る。 こ うした自
恣 派 閥で は, 法 臘(
出家
年 数)
の多
い 長 老(
たち)
が指導
力を発52 パ ーリ学仏 教 文 化学 揮し,各僧 院はその 指導を仰 ぐ とい う構図 が み られ る。
以上, 派 閥を形
成
する基 本 原 理 と して, 師 弟 関係 と地 縁 関 係を指摘
した。 現 実に は これ らの 原理が混 ざっ た り重 なっ た りするこ と に よっ て, 僧 院を超 え た様
々 な ま とま りが形成
されて い る。 これ らが ミャ ンマ ー に お い て 「ガイ ン 」 と呼 ばれて い る ま と ま りの 実 体で あ る(4)。 た だ しこ う して 形 成 された派 閥 とい う枠 組み は, そ れ を強化す る よ うなベ ク トル と,逆に, それ を解体
す るよ うなベ ク トル とい う,相 反す る二 つ の圧 力にさ らされ なが ら , 派 閥 と して の あ り方を常
に変化
させ てい る。 次 に, その実態
につ い てみて み た い 。3
.派
閥
を強
化
す
る要 因
は じ め に, 派 閥を強化す る要因につ い て検 討す る。 派 閥の 多 くは, メ ン デ ル ソ ンの 言 葉を借 りれ ば 「フ ァ クシ ョ ン 」 的, つ ま り自生 的なまとまりで あ り,組織 的で も排 他 的で もない 。 しか し中に は, 組織 化の 程 度 や 派 閥意 識 を 高め て い く, つ ま り 「セ ク ト 」 化 する ような派 閥 も あ る。 そ れ で は こ うし た 「セ ク ト 」 化 は どの よ うに生 じ るの か 。 こ の 問題を検 討 するため に まず, ミ ャ ンマ ーに お ける 「セ ク ト」 的
派閥
の事
例につ い て み て み よ う。王 朝 期の サ ン ガの 状況 に 言 及 して い る
各種
の史書
(S)に は,多 くの 「セ ク ト」 的派
閥が 登場 してい る。 た と えぼバ ガ ン朝 (
1044
−1287)
の崩 壊後
, サ ンガ はい くつ か の対 立項
, あ るい は争 点を軸 と して 分裂を繰 り返 した と され る。 こ の 点に つ い て生 野 善應 は , 『サ ーサ ナヴ ァ ン サ(
sasanavanpsa
, 教 史)
』(
生野1980
)
の著者
, パ ン ニ ャ ター ミ(
Pafifiasami
)
の 見解
を も とに,出家
の資格 (
上座部僧/ 非
上 座部僧 )
や律
の順 守度 (
有恥者/
無恥者 )
, そ して 居住 場所(
森 林 住)
や集 団化の程度 (
群 行者/
独 行者)
を基本 的な対立項 と して , サン ガ は分 裂 してい た と して い る[
生野1980
:369
−370
]
。 フ ァ ー ガ ソ ン(
J
.Ferguson
>
は ま た, 居 住 場 所(
森/
町)
, 修 行形 態(
瞑想/
教 学)
, 正 統性の 根 拠 (セ イロ ン系 / ビ ル マ 系, また は モ ン系/ 上 ビ ルマ 系 ) とい っ た 差 異 を軸 と して , サ ン ガ内の 対立, つ ま り排他
的 な派閥
が生じ た と して い る上座 仏 教サンガの派 閥とはなにか
53
[
Ferguson
1975
:2]
。ま た,
18
世 紀 以 降は, 王都 周 辺を中心 と して, 「偏 祖 派(
m :htoun
gain
:)
」 と 「通肩 派(
m :youn
gain
:)
」 の 争い が激 化 した とされ る。 こ れ は右 肩を露 出した 袈 裟の着
衣 法(
偏祖式)
を 主 張 す る律改革派 と, 両肩をお お っ た伝統 的な着
衣 法(
通肩式)
を踏襲
す る律 遵守派
の 間の 対立で あ る。 プラ ン ク(
P
.Pranke
)に よれ ば ,一見些細に み える この 対立 は, サ ン ガの正統 性の根 拠が ,師資相
承の 伝統にあ るか, 文 字 化 された仏 典に あ るか をめ ぐる争い で あっ た[
Pranke
2004 ]
。 つ ま り偏 袒 派 と通肩
派 とい う争い も また, 正 統 性の 根 拠 を め ぐる争い の一事例 と して 捉え るこ とがで き る 。現在 に お い て も, 「セ ク ト 」 的 派 閥は観 察さ れ る。 現 代 ミャ ン マ ーに お け る派 閥の 「セ ク ト」 化 を考 える上で重 要 なの は, 王朝 期
末
期 以来
の 国家
に よ る サ ン ガ管理 の 強 化 ・拡 大で あ る。 ミャ ン マ ーで は , 最 後の 王朝で あ るコ ン バ ウン(
Konbaung )
朝(
1752
−1885)
後 期か ら, 王権 に よ るサ ン ガ管理 の試
みが本格化
する。具
体 的に は1786
年, ボ ー ドパ ヤ ー (Bodawpaya )
王(
位1782
−1819)
が 王都
アマ ラ プー ラ(
AmarapUra
)に トゥ ダ ン マ(
Thudhamma
)
委
員 会 と呼 ばれ る仏 教浄 化 委 員 会を設 置 し, 「サ ン ガ 主 (m :thatha
.nabayin
)
」 を中
心に12
名
の長
老を委
員に 定め, 全 国の サ ン ガの 管理 にあた らせた[
Than
Tun
1986
:134
−135]
。 こ の トゥ ダン マ 委員会を中心 とす る国家サ ンガ 組織は, イ ギ リス に よ る植
民地化
の進展
か ら仏
教を守護
す るとい う大 義の も と, ミ ン ドン(
Mindon
)
王(
位 1853
−1878)
に よっ て さ らに強化 さ れ るこ と とな る。 し か しミ ン ドン 王 お よびそ の 後ろ盾を受 けた国 家サ ン ガ組 織が サン ガ管 理 を強 め るにつ れ, その 支 配か ら逃れ るよ うに, 国 家サ ン ガ 組 織か ら独立 し よ う とす る動
き が相 次 ぐこ と にな る(
Mendelson
l
975
:101
−102)
。 た と え ば シ ュ エ ジ ン(
Shwcgyin
)
派, ドワ ー ラ(
Dwara )
派 , フ ン ゲ ッ トウ ィ ン(
Hngettwin
)
派な ど, 現在
まで続
くミャ ン マ ーの 主要派閥
の 起源 は ミン ドン 王 期にある。 こ れ らの派
閥に共 通す る特徴
は, その始祖
に あ た る長 老が, 王 や王族の帰 依を受け なが ら も その影響
力 を嫌い , 独自
の律解
釈 を主張す るこ と に よっ て , 国家サ ン ガ組 織か らの自律
を勝ち取っ た点に あ る。
54
パ ーリ学 仏 教 文 化 学こ う した派 閥は
20
世 紀に入 る と, 植民地 とい う新 しい 環境に適 応す るた め に,組織
的な枠組
み や派閥
として の 自己意識
を高
めて い く。 た と えぼカ ー ビ ン(
J
.Carbine)
は, 分立 した 中で最
大 派閥
で あっ たシ ュ エ ジ ン派 を事
例 と して,1920
年 に開 催 さ れ た全シ ュ エ ジ ン派 会議
を契 機 と して, 派 閥の行 政機構
,裁 判制 度
,僧籍
登録帳
,派 閥の 歴 史 書, 長 老 の 系 譜 書な ど をつ く り, 全国的 な統一組織を 整備す る と と もに,派 閥 とし て の 自己意識 を高め て い く過程を描き 出 して い る[
Carbine
2004
:19
−34 ]
。 そ し て1980
年に近代 的 な 国家サ ン ガ組織が成立 した際も自律性
を主張 し, その結
果, シ ュ エ ジ ン派
や ドワ ー ラ派な ど合計
8 派
が , 「特
別 派 閥(
m :thi
:cha :gain
:)
」 と して公認さ れ るこ と になっ た。 つ ま り 「セ ク ト 」 と して の地位 を公的に承 認されてい る とい うこ とで あ る(7)。また
1980 年
の 国家
サ ン ガ組
織の成立 は, 非公 認なが ら も, 地 方の 自恣 派 閥, 特に民族 的な共 通性
を もつ 一部
の派 閥の 「セ ク ト」 化 も促 し て い る。 た と え ぼ タ イ 国境
に近 い , シ ャ ン(
Sh
)
州 チャ イ ン トン 町 (Kyaington)
付 近を拠 点とす る ク ー ン 派は, 国 家サ ン ガ組 織 の 成立 に伴い , 制 度 上は在 来 の最 大 派閥で ある トゥ ダン マ 派(8>に統 合 されてい る。 し か し そ の 過程で , タ イ ・ク ー ン文 字
に よっ て書か れ た独 自の 経 典 や, 独 自の 仏 教試 験 を開催
す るな ど, 「セ ク ト」 的 な ま と ま り を強め て い る[
小 島2009
:113
−116
]。 ビ ル マ 族 を中心 と した 国家サ ン ガ組
織 との差 異化を図 り, 民族 意識 を核 と し た 派閥
意識
を高
め る ケ ース は, シ ャ ン の ほ かに も, ヤ カ イン(
Rakhine
)
, モ ン(
Mon
), カ レン (Karen
) など, 少 数 民族 仏 教徒の 地 域で 顕著に観察
さ れ る。以上, ミャ ン マ ーに お け る 「セ ク ト 」 的な
派閥
の事例
を概観
した。 そ こか らい え るの は, 「セ ク ト 」 的 派 閥は 決して 単 独で形成
さ れ る もの で はな く, 持 続 的な関係の 中か ら形 成さ れ る とい うこ とで あ る。 こ の点 に おい て派 閥 は, 人類学が多
くの 議 論を重ねて き た 厂民族 」 と類似
した カテ ゴ リーで ある とみ るこ とも可能
である。 た とえ ぼ民 族 とい うカ テ ゴ リー が ,客観 的
な文化
的特 性 をもつ とい う議 論に反 対 したバ ル ト(
E
Banh )
は, 自集 団と他 集 団 との 力動
的な関係
におい て境
界が成
立 し, その境
界 に よ っ て 各 集 団の 文化
上座 仏 教サン ガの派 閥とはなにか 55 的特 性が 決 ま る とい う 「民族境界論」 を主 張 して い る [バ ル ト
1996
(1969
)]。 同様
の状
況 が派 閥
に お い て もい え る。 つ ま り派 閥の 「セ ク ト 」 化 は, 他 者他
の 派閥
や 国家サ ン ガ組織 な どとの 関係に お い て , なん らか の差 異 の
表
徴(
律
の解釈 な ど)
を活 性 化させ るこ とに よっ て 生 じ る とい え る。4
.派 閥
を
解体
す
る要 因
た だ し派 閥は強化され る一一方で は ない 。 逆 に, 派閥 を解 体す るよ うな要因 も
存在
して い る。 まず 「フ ァ クシ ョ ン」 的な派 閥, つ ま り派 閥が 自生 的 な ま と ま りにす ぎず
, そ も そ も組織
的で も排他
的で も ない場 合, 師僧の 死 去や 一 定 地域 内の 僧 院の減 少に伴い ,派閥は 自然 消 滅す る傾 向にあ る。 しか し 「セ ク ト」 的 な派 閥 も また , その凝集 力
や派 閥意識
を維持
しに くい状
況が ある。 「セ ク ト 」 的 派 閥を解 体す る要 因 と して,最 も重要だ と考
え られ るの は, 若 い 出家者た ちの 移 動性の高
さで あ る。 そ こ で 次 に こ の 点に つ い て 検 討 して み たい 。僧 院の住 職 とな り, そ れ ゆえに
派
閥の中
心 的な担い 手 となっ て い るの は, 青 少 年 期 に沙 弥 と して出 家 し, その ま ま20
歳以 降に比丘 とな るよ う な 「若年出
家者(
m :ngehpyu
)
」 た ちで ある(9)。 こ う した若年 出家者
は沙 弥 出家 後,10
代か ら20
代に か けて 「教 学(
仏 典 学 習) (
p
:pariyatti
)
」中
心の 生 活を送 り,各種
の仏
教試
験 の合格
を目指 すこ とが一般 的であ る(lo)。その た め の教 育 機 関 となっ て い るの が ,「教 学
僧 院 (
m :sathindai ?)
」 と呼 ばれ る高等 教 育 機 関で ある。 教 学僧 院 とは, その名の とお り, 教 学(
仏典学習)
に励むた め の 僧 院で あ り, 一 般的 に , 瞑想 や頭 陀行に代表
さ れ る 「体験 的修 行(
p
:patipatti
)
」 は行わ ない 。 もっ と も,若
い出
家者
に対 する仏 典 教 育 は ,多か れ少なかれ どの僧 院で も行わ れて い る。 しか し教学僧 院
の場 合,教育
カ リキュ ラムや レベ ル別の 授 業な どが整 備さ れて お り,教学
に専
念す る環 境が整
っ てい る とい う点におい て, 他の 一般 的 な僧 院 とは異 なっ てい る 。 つ ま り教 学 僧 院に おい て教学の研鑽
を積
む とい うの が, 若い 出家 者の 生活の 特 徴で ある。
56
パ ーリ 学仏 教 文 化学こ う した仏 典 学 習期の最も重 要な特 徴は,移 動 性の 高さ に あ る。 こ の 場合
の 移動 とは ,
帰
郷や旅
行 とい っ た 短期の 移 動で はな く, 滞在 する僧 院を移
り変 え るこ と を意
味
す る。 た と え ば【
表1
】
は, ヤ ン ゴ ン の「国家 仏 教学 大 学
Cll
)(
m :naingandopa
.ri
.ya
?ti
.thatha
.nate
?ka
.tho
)」 の 学生50
人 に対 して 行 ったア ンケー ト結果で あ る。 こ れ をみ る と, 大学に入 学 する まで , 数 年
単
位で僧院
を移動
してい る こ とがわか る。 こ う した若 年 出家者の 移 動 性の 高さ を別 の 角 度か ら示 して い るの が ,【
図2
】で ある。 これ を み ると都 市 部に は,10
代か ら20
代 に か けて の若い 出家 者が多い こ と, そ して こ れ らの若
い出家者
た ちの多
くが , こ の 一年 間に移動 して い るこ とが わ か る。 【表1
】ヤンゴン国家仏 教学大学の学 生の移動の実 態 ア ン ケー ト回答 時の平 均年齢 24。8歳 沙弥 出家の平 均年齢12
.1
歳 大学入 学前に滞 在し た平均僧 院数43
僧 院1
僧 院あた りの平 均滞在年 数 3,3年 出所 ) 筆者が行っ たアンケート (データ総 計50人,2007年3 月 実 施 ) く ]ooo9008007006005004003002001000
a
s
m
菖
9
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9
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【図
2
】ヤン ゴン都市 部に お け る出家者の年齢分布お よ び移 動状況 (データ総 計3
,247
人) 出 所)ヤンゴン管 区 イン セ イン郡の 「雨 安 居 僧 籍 表 」 (2006年)よ り筆 者作成 一一一一一一一一一一一一一一 一一一 一一一一一一一冒一一薗一曽一一一一一一一一一一一一一一一一一 _.匿_____ 一} 一一一一.・.P:一 一 一 『 一 一 一 一 一 一 一 一 r 悍 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 ・. 一 一 一 一 一 一一一 一一一 一一一 ・ :一 一 一 一 一 一 『 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 『 一 ■冒 一 一 一 一 一:・:・:一一一一一一 一 一一一一一一一一一一一一一一一一冖一一一一一一一一一一一冖__■一_____ 圜去 年は別の僧 院に滞在 一一一 一 一一.鹽一一一一 一 一一一一一一一一一一一一一一一一一 一一一一一一一一r}________ 口去 年も 同 じ僧 院に滞在 一 一 一一’::.■雪一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一 一一一一一一一一一一r__________ 一一■ 一 璽一:・:・一一一一一一一一一一一一一 一一一一一一一一一}____________.一_____ 一一 一 一 一一 一 一 一一一一一一一一一一一一一一一一一一}一 一一 一一一一一一一一 r_ 一一一一 一 一一 一 一 一 一一一一一一一一一一一一一一一一一一冖____一一一一一一 〜 030上 座 仏教サ ンガの派 閥とはなにか
57
そ れで は なぜ若い 出家 者た ち は, 移 動を繰 り返すの か。 その理 由は教 学僧
院毎
に,教学
の レベ ル(
初級
〜 上級)
,得
意分
野(
律
・経 ・論)
, 生活 環境
の 良さ な どに違
い が あるか らで あ る。 した がっ て若い 出家者たちは, 自分の 望 む授業や 生活 環 境を提 供 して くれ る教学 僧院
を探 して, あ るい は師僧の助 言 に し たが っ て , 複 数の教 学 僧院
を渡 り歩
くの で ある。こ の ように出家 者た ちは, 教 学僧 院を結 節 点 と して移 動を繰 り返 す。 そ し て
俯 瞰
的にみ る とこ う した移 動に は, 一 定の パ ター ン が存 在 し て い る。 な ぜ な ら教 学僧 院の 分 布に は偏 りがあるか らである。 た とえ ば【
図3 】
は, 出家
者 数が100
人 を超え る よ う な大 教 学僧 院の分 布を示 し た もの で あ る。 これ を み る と わ か る よ う に, ミャ ン マ ーの 教学 僧 院は, 管 区地 域の 都 市 部 に集 中 し て い る(12)。 都市名 (州 ・管 区名) 僧 院数 ヤ ン ゴ ン (ヤ ン ゴ ン) 89 マ ンダレー (マ ン ダレ ー)54
モ ンユ ワ (ザガ イ ン)13
タ ウン ジー (シ ャ ン) 10 バ ゴー (バ ゴ ー) 7 メ イ ッ ティーラ (マ ン ダレー)6
ヒ ン ダ ダー (エ ーヤ ーワデ イ ー) 6 ザ ガ イン (ザ ガ イン )5
マ グウェ ー (マ グ ウェ ー)5
タ ウン グー (バ ゴー)5
パ テ イ ン (エ ーヤ ーワディー) 4 ジ ヨ ービンガ ウ ツ (バ ゴ ー)4
パ コ ッ ク (マ グ ウェ ー)4
モ ーラ ミャイ ン (モ ン ) 4 全 国280
【図3
】 出家者tw
100
人 以上の教学僧 院の分布 (都 市毎 ,2007
年 時点) 出 所)宗教省 資料 [TW 2007 ]より筆 者 作 成。 教学 僧 院が都 市部
に多
い のは,多数
の学
生を抱
え る教学 僧 院を運 営す るた
58
パ ーリ学 仏 教文 化 学 め に は,水や電 気 とい っ たイ ン フ ラの ほ か , 多 くの運営
コ ス トが か か るか ら で ある。 こ うした コ ス トを賄
え るの は,都 市部
しか ない 。 また,管
区地域 に 教 学僧 院が多い の は,仏
教 試験が ミャ ン マ ー語で行わ れ るため, ミャ ン マ ー 語の 習 得が不 可 欠で あ る か らで あ る。 こ の よ う な 教学 僧 院の 分 布の ゆ えに, 若い 出 家 者た ち は,村 落
部
か ら都 市部
へ州
(
少 数 民 族 地 域)
か ら管 区(
ビ ル マ 族の 地 域)
へ と集 ま り, そこ で教学の基礎を学ん だ後,故 郷へ と 戻 っ てい く とい う大きな流れがで き あ がっ てい る。そ こで重要なの は, こ うし た
移動
は,派閥 (
公式
・非
公式)
の枠 組
み を超 えて い るとい うこ とで あ る。 教学僧 院
で は通常,学生が ど の派 閥に所 属 して い るかは問題 に しない 。 学 生の側
も, い い教
学 僧 院が あれ ぼ, 自分の 所属
し てい る派 閥でな く とも, そ こ で学
びたい と考
え る。 した が っ て ミャ ン マ ーで は, 教 学僧 院が異 なる派 閥の出家 者を受け入 れ る こ と, あ るい は逆に,出
家 者が異な る派 閥の 教 学 僧 院に滞
在す る こ とは極め て一般 的 とな っ て い る。 つ ま り, 派 閥の枠 組みが強固で あっ ても, 個々 の 出家 者は そ れ に束縛
されて い るわ けで はない とい うこ とで ある。 む しろ派 閥に固執 す る と, 世界が狭 くな る とい うデメ リッ トが あ る。その 結 果, 教学
僧院
に お い て は, 異な る派 閥 同士 の 出家 者が 「同じ釜の飯
を食 う」 こ と にな る。 こ う した 生活を若い 頃か ら続けて い る内に, 派閥
意識
は弱まる こ とに な る。 つ ま り教 学僧 院に は, 派 閥を平準化
し,出家者
の連帯
を も た らす機 能が ある とい え る。 こ の 点につ い て , ヤ ン ゴ ン の僧 院で住職
を 務めて い る トゥダ ン マ 派に属す る40
代の 比丘 は, 次の よ うに語
る。 昔は, 派 閥 間に対抗
意識
が あっ た。 た とえ ば 自分の 出 身 地で あ るザ ガ イ ン(
Sagaing)管
区 のモ ン ユ ワ(
Monywa
)町で は, 在 家 者が施 食の機会 に トゥ ダン マ 派の 出家者 とシ ュ エ ジ ン派の出家者
を一緒
に呼
んで も , 同 じテー ブル に座るこ とは な かっ た。 ま た トゥダ ンマ 派の 僧 院が主催
す る 儀 礼に は, シ ュ エ ジ ン派が参
加 する こ とはなかっ た。 しか し自
分の世 代 は, そ うし た対 抗 意識
は弱い 。 教 学 僧 院で 出会っ た友人 が た くさんい る上座 仏 教サ ンガ の派 閥と は な に か
59
か らだ。同
様
の 状 況が近 年, 「瞑 想セ ン タ ー(
m :yei
?tha)
」 を結 節 点 と して もみ ら れ る よ うに なっ てい る(13)。 つ ま り1949
年
の マ ハ ー シ ー瞑想セ ン タ ー の 設立 を皮切 りに,都 市 部を中心 に増加 した瞑想 セ ン タ ーは,在 家 者だ けで な く, 出家 者の 瞑 想 修 行 を も容 易に して い る。 そ こ で これ らの 瞑想セ ン タ ー も ま た,多
様な派 閥か ら出家 者を受け入 れ るとい う点で,教 学僧院
と同じ く,派 閥を平 準 化す る機 能 を もっ て い る。こ の ように教 学 僧 院 や 瞑 想セ ン タ ーは, 既 存の 派 閥 を 解 体 す る作 用 を も つ 一 方で , 教 学や 瞑 想の 師を中心 と し た新た な ま と ま りを生 み出す契 機 に も なっ て い る。 こ うし た教 学や 瞑想の 師は, 一 般 的に 「方 法の師 (m :nei ?
ta
.yei
hsa
.yad
。)
」 と呼ばれ, 上述 した よ うな受 具足 戒 式に お い て,律 を授ける師僧
と は異な る存 在
で あ る。 それ ゆ え に方法
の師
が も た ら す ま と ま りは, 「派 閥(
m :gain
:)」 とは呼ば れ ない 。 しか しそ れ は時 と して派 閥 以上 の結束
を もつ こ とがあ り, したが っ て, た とえ ぼ 同 じシ ュ エ ジ ン 派の 出家者
た ち が ,瞑想法の違
い に よっ て対 立 す る とい う事 態は しばしぼ観
察さ れ る(14)。もっ と も,「セ ク ト」 的派 閥を解 体す る要因 は他に も考え うる。 た と えば 世 代 交 代 に伴 う派 閥 意 識の 低 下が ある。 こ の 点にっ い て た と え ばス パ イロ
(
MSpiro
)
は, 「派 閥へ の リ クル ー ト は競 争 的で も宣
教 的な努 力 に基づ い て い る わ けで はない 。 典 型 的に は,沙 弥は自
分の 村の比丘 がメ ン バ ーで ある派
閥
で出家
す る」[
Spiro
l970
:319 ]
と指摘 して い る が, こ の 状 況は現 在で も変
わ っ て い ない 。 つ ま り 「セ ク ト」 的な派 閥で あっ て も, それ へ の所 属 は自
動 的 ・偶然 的に決ま る もの で あ り, 自覚 的な もの で は な い 。 そ れ ゆ えに世 代 交 代が進
む にっ れ て,派閥
意識
が低下
す る傾
向がみ ら れ る。ま た ,
各僧院 (
住職)
の 自律 性の 高さ もこ う した要因の 一つ で あ ろ う。 現 在, ミャ ン マ ーにあ る すべ て の僧 院は , 制 度的 には公 認9
派 閥 (トゥ ダン マ 派+8
つ の特別派
閥)
の どれ かに属
してい る。 しか し各僧院
が どの よ うに律
を解 釈 し遵 守す るか とい っ た問題 は, 住職に委 ね られてい る。 もち ろ ん師僧
60
パ ーり学 仏 教 文 化 学 の 指導は大き な影響
力を もつ が, 必ずしもそれ に従
う必要はない 。 ま た, 上 述 した よ うに 出家 者は 通 常,師僧の ほ か に, 多 くの 方法の 師を持っ て い る。 した がっ て独立 した際
に どの師
の方針
に従
うかにつ い て も,各住職
の自由
で あ る。 こ う した背
景が あ るため, た と えぼ, 一般
に特
別派 閥
は律
に厳
し く, トゥ ダン マ 派は律に緩い とい わ れて い るが ,実 際に は律
に緩
い特
別 派 閥の僧
院 もあれば, 律に厳 しい トゥ ダ ンマ 派の 僧 院 も ある, とい う状 況になっ て い る。以 上, 本章で は派 閥 を解体 す る要 因 と して,
若 い 出 家 者の 移動 性 の高 さ,
世
代交代
に伴
う派 閥
意識
の低 下
,各僧院
の自律性
の高
さ を指摘
し た。 これ らの要 因に よっ て, 「セ ク ト」 的とみ な し うるよ うな派閥
も ,次 第
に凝 集性
や派 閥意識を低 下さ せて い く。 そ れ は現在の 国家サ ンガ組 織に お け る特
別派
閥に おい て も同様
で ある。 っ ま り制度
的な枠 組みは今 後, 形 骸化 を免
れ ない だ ろう。5
.結 論
・考 察
本論文
で は ミャ ン マ ー を事例 とし て , 上座
仏教サ ン ガ に み ら れ る派 閥の 多 様 性を理解す るこ とを試みた。 改 めて その結論
を 示 す と次の よ うになる。 第1
に,派 閥
は師弟関係 (
戒統 )
お よび地 縁 関 係を基 礎 と して形 成 され る。
第
2
に, しか し,派
閥は決 して 固定 的
な もの で はない。 一 方で派 閥は, 他の派 閥 との関係 の 中で, その 組 織化や排 他性を強 化 する こ とが ある。 その 一 方で , 派 閥を超 えた出家者の 移 動は派閥
の解 体を促す こ とが ある。 本論
文 で は その背
景とし て,若 年 出家者
に とっ て の教 学の 重 要性 を指 摘 し た。 こ の よ うに相 反す るベ ク トル にさ ら さ れ な が ら,常に その あ り方を動 態 的に変 化 させてい るが ゆ えに, 派 閥は多様
な現
れ方 をして い る とい え る。もち ろ ん,本 論 文で 検討 したの は ミャ ンマ ーの 事 例にす ぎない た め , これ を一般 化す る とい うの は 限 界 が あ る。 しか し仏教 サン ガ内部の 派閥形 成
/
強化/ 解体
とい う動
きは, 「出家者
とし て い か に生 き るこ とが で きる か 」 とい う普 遍的 な 課題に対 す る, 出家者た ちの応答 と して 捉える こ とがで きる。 そ上座仏 教サンガの 派 閥 とはなに か
61
の意味
で現代
ミャ ン マ ーの 事例 は, 他の 時代 ・ 地 域の 派 閥の あ り方 を考 える 上で も,一定の 有効 性がある と考え る。最後
に本論
文の限界
につ い て記
して お き たい。本論文
の 焦点
は,派 閥形 成
の 一般 的な原 理を抽 出
す る こ とに あっ た た め, 「近 現代
」 とい う特殊性
にっ い て はあま り注 意を払わ なか っ た。 しか しサン ガ を取り巻 く環境は , い わ ゆ る 「近代 化 」 と総称 され る よ う な社 会 変 動に伴い 大き く変容 して い る。特
に 近 代 的 ・ 中央 集権 的 な国家 サ ンガ組 織の 登場に よ っ て , 国家の 制 度 的枠 組み が出家 生活 を 大 き く規 定す る よ うに なっ てい る(15)。 した が っ て 現代 社 会 に お ける派 閥
の特徴
を考
えるた めに は, 国家
サ ンガ組織
の規定 力
が どの よ うに働
い て い るの か ,出
家者は どの よ うにそ れに対抗 し, あ るい は逆にそ れ を積
極
的に利用 して い る のか , とい っ た 国家
とサ ンガの相
互 折衝
の様
態 を 明 らか に す る必要
が ある。 これ ら は今後
の 課題
と したい 。 謝 辞 本稿はパ ーリ学仏 教 文化 学会 第 27回学術 大 会で の 発 表を元に して い る。発 表に際して は森 祖道先 生 ,矢野秀 武先生,
Gyana
Ratna
Thera
先生か ら,ま た論 文執筆に際して は匿名の査 読者か ら有益 かつ 的確なコ メ ン トを賜っ た。 こ こ に記 して深 く御 礼 申し上げま す。 註 〔
1
) 「ガ イン 」 は,衆 ・組合 ・群な ど を 意味す るパ ーリ語の gana を語源 とす る。 ま た,パ ーリ語で部 ・部 派 ・部 類を意 味す る 「(
p
)nikaya 」 とい う用語が用い ら れる場 合も あ る。 ミャ ン マ ーに お い て は,沙弥と 比 丘 は,本人の 意識の上で も,社 会 的な 立 場 と い う点で も, 大 き な違い が あ る。そのた め 「出家 」 とい っ た 場合は通常 , 比丘 を指 し, 沙弥は擬似 出家な どと評さ れ るこ とも あ る。 た だ し本論 文で注目 す る 生活ス タ イ ル に おい て は,沙弥 と比丘は多 く を共 有して い る (特に10
代か ら20
代にか けて)。 そこ で本論 文で は沙 弥 と比丘 を同じ出家者 と して表 記 し,特別に区 別 し ない 。 (3
) 自恣儀礼 とは,雨安居の最終日に あ たる ダデ ィ ンジ ュ ッ (Thadingyut)月の満月 の 日に出家者が一同に集い , 律 違反の 有無につ い て相互に確認 し あ う反省 会的 な儀62
パ ーリ学 仏 教 文化 学 礼を 意味する。 (4 > ミ ャ ン マ ーで は,ウェ イ ザーと呼ぼ れる超能 力者 (出家者の場合も ある)を中心 とす る信 者集団の こ と も 「ガ ィ ン 」 と呼ばれ る [土佐 2000コ。 た だ し本 論 文の焦点 は サ ン ガ内の 「ガイン 」 に あるため, こうした ウェ イ ザー信仰 集団 と して の 「ガ イ ン」 は考 察外とす る。(
5
) 王統 史 :『大 王 統 史 (m :Maha Yaza.windogyi :)』 (18世紀 前 半 ),『玻 璃 王宮大王 統 史 (m :Hma an :Maha Yaza .windogyi :)』 (19 世 紀 前半 )な ど。 仏 教 史 書 ; 『Vamsadipani 』 (
1799
年, Prank 2004), 『Thathanalinkara−sadan 』 (1831 年,池田 2007), 『Sasanava
msappadipika 』 (1861
年 ,生野1980
)な ど。 近年の研究 は,こ う し た 対 立 が 生 じる大 き な要 因と して,パ ー リ仏 典が長 ら く 口承 文 化の 中に あっ た こ とを指 摘 して い る [cf.Collins
l
990
,1992
]。 た と えばブラ ッ クバ ーン (A . Blackburn)は,「正 式 な仏 典 (
formal
canon )」 と 「実践 的仏 典(
practical
canon )」 を 区別 し た 上で,王朝期の ス リラン カで 出家生活の基礎 と なっ て い たの は, 師僧 ・先 輩僧か ら口承に よ っ て 伝え られ る 「実践 的仏典 」 で , 文字に書か れた 「正 式な仏典」 は, ほ と ん ど用 い ら れて い なか っ た と す る [Blackbum 2001]。 「 実践 的仏典」 に基 礎 を置 くがゆ えに,師弟 関係の中で , 自然発生的に派 閥 の 違いが生 ま れ る とい う わ けで ある。 (
7
) そ の 経 緯に つ い て は, 生野 善 應i
(1982), 奥 平 龍二 (1994), 小島敬裕 (2005,2009
), 土佐桂 子 (2012
), 平木 光二 (1995)
, Tin Maung Maung Than (1988,1993
)な ど,多くの先行研究が 存在 し て い る。 詳 し くは こ れ らの研 究を参照 の こ と。 ま
た, 各派閥の 名 称お よびそこに属する出 家者 数の割 合 (
1994
年 時点)は, 以 下のよ うに なっ て い る [TW l 996:付表 ]。 トゥダンマ 価 udha a)派 (88.5%),
シ ュ エ ジン (
Shwegyin
)派 (8
.2
%), マ ハ ー ドワ ープ (Maha
−Dwara
)派 (1
.2
%),ウエ ル ウン (Weluwun )派 (
0
.7
%), ム ー ラ ー ドワー ラ (Mula
−Dwara
)派(
0
.6
%), フ ン ゲ ッ トゥイン (Hngettwin
) 派 (0,3%), マ ハ ーイン (Mahayin )派 (0.2%), ガ ナ ウィ モ ウ ッ ガ ドー (
Ganavimut
−Gado
) 派 (0.2%), ア ナ ウッチ ャ ウ ン ドワーラ (AnaUkchaung −Dwaya )派 (0.1°/ 。)。 各 派 閥の 概 要に つ い て は, Mendelson (1975), Ikuno (1987)に詳 しい。 トゥ ダン マ 派 とい う名称は, 王 朝期の トゥダンマ 委員会に 由来す る。 しか し植民 地 期に トゥダンマ 委 員会が機 能 しな くなっ て 以降, 名目的な存在 と なっ て い る。現 在の トゥダン マ 派は,特別派 閥 以外の残余 的な集 合で ある。 20歳以 降, ま たは世 帯を もっ て か ら比丘 に な る よ う な出家者は,「成年 ・老年 出 家 者 (m :to:dwe?)」 と呼 ぼれる。 統 計資料をみ る と,全比丘の 内, 若年 出家者 と成 年 ・老年 出家 者の 割 合は, 7 対
3
程 度で ある と推測で きる。また これ ら とは別に, 統 計 に は 含 ま れ ない 「一時 出家者 (m :donda
.ba
.yahan:)」,つ ま り成 人してか ら短 期上座 仏 教サンガの派閥とはなにか 63
間 出家する者も 数多く存在 す る。
ao
) こ こ で い う仏教試 験 と は,仏典やパ ー リ語の知識を問う試験の こ と で あ り,
「宗
教省 (m :
Thatha
.nayei :Wungyi
:htana
)」 主 催 の 各 種試 験初 ・中 ・上級 か らな
る 「基本試 験 (m
:pa.hta.ma .
byan
samei :bwe
:)」 や 「仏教 講師試 験 (m :danmasa .ri.ya.samei :
bwe
:)」 な どが一般的で ある。 また民 間の仏 教徒 組 織が主催する試験 も
存在して い る。 ミャ ンマ ーの仏教試験につ いて は生野 [
1975
:186
− 199]に詳 しい。 以前は教学に励む と して も,必ずし も仏教試 験を受け る わ けで はなか っ た とい う。 し た がっ て教学に秀で た長老で あっ て も,試験 合格の資格を もっ てい ない場合 も あ る。 しか し現 在 は, 出家者 とし て 自立 し て や っ て い くた め に は,仏教試 験 に合 格する こ とは不 可欠な もの になっ て い る 。 (ll
> 近 代 的 教 育 ・研究 手 法 を取 り 入 れ て創設さ れ た ミャ ン マ ーに お け る仏 教学 教育 ・研究の最高学府の こ と [奥平 2005:
33
コ。 基 本試験上級 合格 者以 上 が, 入学 試験の 受験資 格が ある。中央部の管 区地域は,エ ーヤ ーワデ ィ ー (Ayeyarwady )川流域の平原地帯 と なっ て お り,人口 の約
70
% を占め る ビ ルマ 族が 多 く居 住 して い る。 周縁の州 地域は山岳 地帯で あ り, 少数民族が多 く居 住 して い る。 各 州に は そ れ ぞ れの 地域に 住む主要 な 民族名が付け ら れて い る。 (
13
) 瞑想セ ン タ ーは, 出 家者 ・在 家者 問わず, 希望者が よ り気軽に瞑想を体 験で き る機会 を提供する こ と を 目的と して い る。 その た め通常は 町 中にあ り,修行期 間も 数日 か らせ いぜい数週 聞 程度の もの で ある こ とが多い。 ミャ ンマ ーの瞑想セ ン ター は,「ヴィ パ ッ サ ナー (p:vippasanE ,観察 )瞑 想」 を基 本 と する点で は同 じで ある。 し か し その具体的 な 方 法につ い て は, 瞑想指 導者に応 じて それ ぞ れ特 徴が あ る。著名な 瞑想 指導者と して は,マ ハ ース ィ ー (Mahasi)長老 (U
Sobhana
, 1904− 1982),モ ーゴ ウ ッ (Mogouk )長 老 (U Vimala, 1899− 1962),ス ン ル ン (
Sunlun
)長 老 (UKawi
,1877
− 1952), テ ーイ ン グー (Thee
lnn
Gu
)長老 (U
Ukk
韻ha
,1913
−1973
), パ ーア ウッ (Pa
Auk
)長 老 (U
Atinna, 1934− )な ど がい る。a4
) 筆者は,こ う し た状 況は現代に限 られた もので は な く,あ る程度 通時的にい え るので はない か と考えて い る。 つ ま り教 学 を始め と し た仏 教実践の ための 充実し た 環 境が 整 っ て い た 王都は, サ ン ガ ・ネ ッ トワークの結節点 として 重要な役割を果た して い た可能性が ある。 もっ と も王朝期に関し て は地 方の 状況が ほ とん ど わ か ら な い の で 推測の域 を 出 ない。a5
) この よ う な 国家サ ンガ組織形成は まず ,植民 地化を免れ,王権が維 持さ れ た タ イ に お いて始め られ た。つ ま り時の王 ラーマ 5 世は, 1902年に 「サンガ統 治法 」 を 制定 し,タ イ国境 内のすべ て の出家者 ・僧 院を包 摂す る中央 集権的 な タ イ ・サ ン ガの構築を 図 る。 そ れは,そ れ まで 独 自性 ・自律性を有 して い た地 方のサン ガ を統合
64 パーリ学仏 教 文化 学 し,タ イ ・サンガ の 中央機 関が末端の僧院や出家者 まで も監 督で き る体制の整備を 目指した もの で あっ た [村上