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原始仏教における自然の多様性 池 上 要 靖 (身 延 山 大 学) は じ め に 自然 という語が 翻訳経典である漢訳経典の中でどのような意味を 持って使用されているかを探るには その原典となる経典との比較対照が 必須であることは周知である 漢語である 自然 は 元来仏教用語とし て活用されてい

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原始仏教における自然の多様性

池 上 要 靖

(身 延 山 大 学) は じ め に 自然 という語が,翻訳経典である漢訳経典の中でどのような意味を 持って使用されているかを探るには,その原典となる経典との比較対照が 必須であることは周知である。漢語である 自然 は,元来仏教用語とし て活用されていたわけではなく,道教の用語として用いられていた。その 言語としての概念は,必ずしも仏教の原語と合致するものではなかった。 しかし,それにもかかわらず,六朝期を頂点として,この語が漢訳経典の 中で多用されてきた事実は動かし難い。これは, 自然 が有する ある 事象はそれ自体として他に依存しない ,または ある事象はそれ自体が 変化する という概念が,仏教の ある事象に関する特性(svabhava) を説明する上で,他の適切な語を持ちえなかった当時の漢語の語彙から流 用し易かったためだろう。 Pali 経典において,漢訳語 自然 の原語として指摘されている語は, dhammata,pakati,sabhava などであるが,dhammata は esa buddha-nam dhammata(これは諸仏の常法である)という定型句に見られるよ うに仏と法の特性を示し,pakati,sabhavaは事象の本質を示す語とし て認識されている。

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この点に留意し,漢訳語の 自然 という概念が Pali Nikaya中のどの ような語とどの程度結びついて,どのような文脈を構成しているのかにつ いて検討し,その意味付けを 察する。 阿含経と Nikaya における 自然 の事例 阿含中に見ることができる自然の用例には,次のような文法的特徴を見 出すことができる。自然の語は実に多彩に活用されている。①には名詞と しての用法,②には副詞としての用法,③には形容詞としての用法である。 以下にその例を見ながら,Nikaya中の該当箇所との比較検討を試みる。 ①名詞としての用法 謂佛 。十二部經。一文。二歌。三記。四頌。五譬喩。六本 記。七事解。 八生傳。九廣 。十自然。十一 行。十二 現。是名 法。⑴ 訳 いわゆる仏の説かれた十二部経は,一に文,二に歌,三に記, 四に頌,五に譬喩,六に本記,七に事解,八に生伝,九に広博,十に自然, 十一に道行,十二に両現,これは名づけて法を為す。 爾時世 曰。阿 。持戒 不應思令我不 。阿 。但法自然 持戒 便得不 。阿 。有不 不應思令我 。阿 。但法自然有不 便得 。阿 。有 不應思令我喜。阿 。但法自然有 便得 喜。阿 。有喜 不應思令我止。阿 。但法自然有喜 便得止身。阿 。 有止 不應思令我 。阿 。但法自然有止 便得覺 。阿 。有 不應 思令我定。阿 。但法自然有 便得定心。阿 。有定 不應思令我見如 實知如 。阿 。但法自然有定 便得見如實知如 。阿 。有見如實知如 不應思令我厭。阿 。但法自然有見如實知如 便得厭。阿 。有厭

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不應思令我無欲。阿 。但法自然有厭 便得無欲。阿 。有無欲 不應 思令我解 。阿 。但法自然有無欲 便得解 一切婬怒癡。…中略…阿 是 法法相 法法相因。⑵ 訳 世尊は申された。 阿難よ,戒を持つ者は, 私は後悔したくな い という思いを抱いてはいけない。阿難よ,ただし法自然であるから, 戒を持つ者はすなわち(自然に)後悔しないことを得る。阿難よ,後悔の ない者は, 私は歓悦を得たい という思いを抱いてはいけない。阿難よ, ただし法自然であるから,後悔のない者はすなわち(自然に)歓悦を得る。 阿難よ,歓悦ある者は, 私は喜びを得たい という思いを抱いてはいけ ない。阿難よ,ただ法自然であるから,歓悦ある者はすなわち(自然に) 喜びを得る。阿難よ,喜びを得た者は, 私は(身に)止息を得たい と いう思いを抱いてはいけない。阿難よ,ただ法自然であるから,喜びを得 た者はすなわち(自然に)身に止息を得る。阿難よ,身に止息を得た者は, 私は楽を得たい という思いを抱いてはいけない。阿難よ,ただ法自然で あるから,身に止息を得た者はすなわち(自然に)楽に目覚めることを得 る。阿難よ,楽を得た者は, 私は入定を得たい という思いを抱いては いけない。阿難よ,ただ法自然であるから,楽を得た者はすなわち(自然 に)入定の心を得る。阿難よ,入定を得た者は, 私はあるがままの真実 を見たい という思いを抱いてはいけない。阿難よ,ただ法自然であるか ら,入定を得た者はすなわち(自然に)あるがままの真実を見る。阿難よ, あるがままの真実を見ることを得た者は, 私は厭離を得たい という思 いを抱いてはいけない。阿難よ,ただ法自然であるから,あるがままの真 実を見ることを得た者はすなわち(自然に)厭離を得る。阿難よ,厭離を 得た者は, 私は無欲を得たい という思いを抱いてはいけない。阿難よ, ただ法自然であるから,厭離を得た者はすなわち(自然に)無欲を得る。

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阿難よ,無欲を得た者は, 私は解脱を得たい という思いを抱いてはい けない。阿難よ,ただ法自然であるから,無欲を得た者はすなわち一切の 婬欲,怒欲,癡欲から解脱することを得る。……阿難よ,これが法は法相 の益となり,法が法相の因を為す。

Sılavato bhikkhave sılasampannassa nacetanaya karanıyam avippatisaro me uppajjatu ti. Dhammata esa bhikkhave,yam sılavato sılasampannassa avippatisaro uppajjati. Avippatisarissa bhikkhave na cetanaya karanıyam pamujjam me uppajjatu ti. Dhammata esa bhikkhave, yam avippatisarissa pamujjam uppajjati. Pamuditassa bhikkhave na cetanaya karanıyam pıti me uppajjatu ti. Dhammata esa bhikkhave,yam pamuditassa pıti uppajjati.Pıtimanassa bhikkhave na cetanaya karanıyam kayo me passambhatu ti. Dhammata esa bhikkhave,yam pıtimanassa kayo passambhati. Passaddhakayo bhik-khave na cetanaya karanıyam sukham vediyamıti. Dhammata esa bhikkhave, yam passaddhakayo sukham vediyati. Sukhino bhikkhave na cetanaya karanıyam cittam me samadhiyatu ti. Dhammata esa bhikkhve,yam sukhino cittam samadhiyati.Samahitassa bhikkhave na cetanaya karanıyam yathabhutam janami passamıti. Dhammata esa bhikkhave, yam samahito yathabhutam janati passati. Yathabhutam bhikkhave janato passato na cetanaya karanıyam nibbindami vira-jjamıti. Dhammata esa bhikkhave,yam yathabhutam janam passam nibbindati virajjati. Nibbindassa bhikkhave virattassa na cetanaya katanıyam vimuttinanadassanam sacchikaromı ti. Dhammata esa bhikkhave,yam nibbindo viratto vimuttinanadassanam sacchikaroti.... pe...Iti kho bhikkhave dhamma va dhamme abhisandenti,dhamma va

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dhamme paripurenti apara param ⑶ gamanaya ti. 訳 比丘たちよ,戒を持ち具足せる者にとって 後悔が私に起きな いように という思いが為されるべきではない。比丘たちよ,これは常法 であるから,戒を持ち具足せる者に後悔は生じない。比丘たちよ,後悔が 生じない者にとって 悦びが私に生じるように という思いが為されるべ きではない。比丘たちよ,これは常法であるから,後悔が生じない者に悦 びは生じる。悦べる者にとって 喜びが私に生じるように という思いが 為されるべきではない。比丘たちよ,これは常法であるから,悦べる者に 喜びが生じる。比丘たちよ,喜びの心(を得た)者にとって 私にとって 身体が軽安であるように という思いが為されるべきではない。比丘たち よ,これは常法であるから,喜びの心(を得た)者の身体は軽安である。 比丘たちよ,軽安なる身体(を得た者)は,(私が)楽を感受するよう に という思いが為されるべきではない。比丘たちよ,これは常法である から,軽安なる身体(を得た者)は楽を感受する。比丘たちよ,楽(を得 た者)は 私にとって心が入定するように という思いが為されるべきで はない。比丘たちよ,これは常法であるから,楽(を得た者)は入定する。 比丘たちよ,入定(を得た者)にとって (私は)如実に知見するように という思いが為されるべきではない。比丘たちよ,これは常法であるから, 入定した者は如実に知見する。比丘たちよ,如実に知見(を得た者)にと って (私は汚染から)厭離するように という思いが為されるべきでは ない。比丘たちよ,これは常法であるから,如実に知見(を得た者)は (汚染から)厭離する。比丘たちよ,(汚染から)厭離(した者)にとって, (私は)解脱知見をさとるように という思いが為されるべきではない。 比丘たちよ,これは常法であるから,(汚染から)厭離(した者)は解脱 知見する。…(中略)…比丘たちよ,実に諸法こそが諸法を等流し,諸法

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こそが諸法を成満し,此岸より彼岸に行くことを(完成する)。 ①では自然の名詞的用法において2種の形態を例示した。 では,十二 部経の第十の nidanaが 自然 と訳されているケースと, は出家比丘 が戒律を持つことから修行が進み,解脱知見を得る段階を説明する中で, 比丘が特別に ○○でありたい という願いを抱かなくとも,修行が進ん でゆけば 自然 にその果として次の状態を得てゆくことが説かれている 内容である。 は十二部経の nidanaを 自然 と訳している箇所であるが,このよ うな訳例には他に呉の支謙訳の 七知経 がある。 の 般泥 経 は訳⑷ 者不明であるが,白法祖訳とされる 佛般泥 経 とともに 遊行経 よ りも漢訳年代は古いとされている。そして, 七知経 も訳出は呉の時代⑸ であるから,文体も用語も六朝期よりも古い。すると 自然 と訳された nidanaとの意味上の相関はどうであろうか。nidanaは ni+ daから結 ぶ,結びつけるという原意を持ち,そこから因縁,原因,関係などの意味 がある。nidanaは表出したある事柄の元を説明することをその本意とし ていると言えるだろう。したがって,中国語としての 自然 が人為の外 にある関係性を説く意味において,nidanaとの共通項が見出される。 は,Pali文の dhammataが, 法自然 と漢訳されている例である。 阿含経典のなかで 法自然 という訳語が使われているのはこの箇所のみ であり,律などでも訳例を見ない。ただ,大乗系経典類などでは多用され ている語であることを えれば, 法自然 の語の重要性が指摘されよう。⑹ 法自然 とは 法として自ら然るなり ということを意味している。い わゆる何ものにも左右されずに,ただそれとしてあるものを意味するのが 漢訳語として の 法 自 然 で あ ろ う。Nikaya中 の dhammataを, 常

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法 と訳したのは,esa buddhanam dhammataを 佛常法 と訳す定 型句の存在による。では,この常法とはどのような意味を持つものであろ⑺ うか。他の Nikayaでは次のように述べる。

Dhammata esa bhikkhave, yada Bodhisatto matu kucchim okkanto hoti, cattaro nam deva-putta catuddisam rakkhaya upagac-chanti : Ma tam Bodhisattam va Bodhisatta-mataram va manusso va amanusso va koci va vihethesıti. Ayam ettha dhammata

⑻ .... 訳 比丘たちよ,これは常法である。ボサツが母の胎に入ったある 時,四人の神の子達が彼(ボサツ)を守護しようと,四方から近づいて来 た。 かのボサツ,あるいはボサツの母を,人や非人の誰にも傷つけさせ ない。 これがここでの常法である。 比丘。當知 佛常法。毘婆 菩 在母胎時。 念不 。有四 天子。執戈矛侍護其人。人與非人不得侵 。此是常法。⑼ 訳 諸比丘よ,まさに諸仏の常法を知るべし。毘婆 菩 が母胎に 在りしとき,心が統一されて乱れていなかった。(その時)四人の天子が, 楯や矛を取ってその人を護るために待機していた。人や人で無い者は侵す ことができなかった。これは(諸仏の)常法である。 Dhammataは①の における 法自然 と の 常法 という訳語に よって表されている。内容は, では,比丘は修行階梯において自ら修行 の目標を欲してはいけない,修行のある段階の完成が次の段階へと誘い最 終の解脱を得るという連綿とした流れを 法自然 という言葉で表してい る。 は,常法の意味をよく えねばならない。文意からすればヴィバシ ボサツが母の胎内に宿ったため,彼の誕生を妨げようとする人や非人の類 から,彼やその母を守ろうとする四人の神の子のあり方が説かれている。 このあり方こそが常法であると理解される。Nikayaでは esa dhammata

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という定型句が示される。漢訳では 佛常法 となっており,原文には buddhanam の語は無いものの,その意味するところは変わらない。ここ で esa dhammataを漢訳は 常法 とし,英訳では the ruleと訳されて いる(注8参照)。ヴィバシボサツを守ろうとする四人の意向は Ma ...(中 略)... vihethesi と optativeに maの否定語が加わり,禁止の語意が強く なる。esa dhammataはある状態がくずれることの無いように保つこと, または保たれることを意味しており,漢訳語の常法は 常 を用いること でこの意味を示し,英訳は ruleにその意味が端的に表れていると見られ よう。 と は 法自然 と 常法 といずれも訳語が異なるものの, dhammataのそれぞれの意味をよく示している。むしろ dhammataが持 つ語意のゆれ(多様性)が若干の意味のズレを起こしているようである。 法自然 とする場合は,語意に緩やかな移行,緩やかな変化が一定の条 件のもとにおきる様子を示し, 常法 といった場合は,一定の条件下で 起きている事柄が逸脱しない状態を示していると言えよう。 ②副詞としての用法 我於此處是梵。大梵。我自然有。無能 我 。我盡知 義典。千世 界於中自在。最 貴。能 變化。微妙第一。 衆生父。⑽ 訳 私はこの処において,ブラフマンにして,大ブラフマンであり, 私は自然に存在し,私を 造する者はいない。私は諸々の義典を知り尽く し,千世界の中において自在にして,最も貴く尊い。よく変化し,微妙な ること第一であり,衆生の父である。

Aham asmi Brahma Maha-brahma abhibhu anabhibhuto annad-atthu-daso vasavattıissaro katta nimmata settho sanjita vasıpita bhuta-bhavyanam.

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訳 私はブラフマン,偉大なるブラフマンであり,征服せる(者) であり,(私を)征服せる(者)なく,普く見る者であり,全能者,自在 者, 造者,化作者,最上者であり,主宰者にして,自在を得た過去と未 来の父である。 ②は 自然 の副詞的用法である。阿含経典において 自然 の語は実 に535回の例を数えるが,その中で漢語の副詞+動詞の修飾連語の使用例 が267回と最も多いのである。この修飾連語の形式で 自然 の意味を えると,副詞としての働きであるから,動詞を修飾し,この例では 自 然 に 存在する という意味から,人為的,作為的な要素を排除した あるがままに が強調される。しかし,Nikayaではそのようなニュア ンスを感じさせる語は無い。ただ,abhibhu anabhibhutoから読み取れる abhibhu(征服せる者)でありながら anabhibhuta(征服されざる者)であ るということに,何者にも左右されない存在の表明があると見られること から,漢訳語ではない中国語の 自然 が文意を際立たせるために挿入さ れた,と言えるだろう。このような例によって示されるように,副詞+動 詞の修飾連語の場合,副詞としての 自然 は漢文中への挿入であり, Pali原文にその該当する語を見出せない。挿入された 自然 は明らか に中国語としての 自然 を意味しており, あるがままに存在すること を意図して,異なる文化の神であるブラフマンという存在の特異性を,中 国人に理解し易い表現を用いたのであろう。 ③形容詞としての用法 我今 衆生之 心中 念。此人必當身 命 。生善處天上。然 後時 此人身 命 。生善處天上。於彼受自然之福。快 無比。 訳 私は今,衆生の生けるもの心中の思いを観察する。この人は必

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ず身体が壊れて命が終わって天上の善き処に生まれる。然る後に,この人 の身体が壊れて命が終わって,天上の善き処に生まれ,(その処で)彼は 比類のない心地よき自然の福を受けることを観る。

Idha aham Sariputta ekaccam puggalam evam cetasa ceto paricca pajanami: Tatha yam puggalo[patipanno tatha ca iriyati tan-ca maggam samarulho yatha kayassa bheda]param - marana sugatim saggam lokam upapajjissatıti ;tam -enam passami[aparena samayena dibbena cakkhuna visuddhena atikkantamanusakena kayas-sa bheda param - marana] sugatim kayas-saggam lokam upapannam ekantasukha vedana vediyamanam.

訳 サーリプッタよ,私はある一類の人間を,このように(自分 の)心により(その人の)心を熟知する。 この人はこのように道を実践 し,行き,道に入る。そのゆえに(この人は)身体が壊れて死後に善処, 天界に再生するだろう と。清浄で人を超えた神のような天眼によって, (この人が)身体が壊れて死後に善処,天界に再生し,専らに福の感受が あることを私は見る。 其後此地生自然粳米。無有糠 。色味 足。香潔可 。是時衆 生復取 之。 訳 その後に,この地は自然の粳米を生じた。糠などは無く,色も 味もよく,香りはさわやかで食べることができる。このときの衆生はまた これを取って食した。

Atha kho tesam Vasettha sattanam badalataya antara-hitaya akattha-pako sali patur ahosi, akano athuso sugandho tandula-pphalo. Yan tam sayam sayam-asaya aharanti,pato tam hoti pakkam pativirulham. Yan tam pato patar-asaya aharanti sayam tam hoti

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pakkam pativirulham, napadanam pannayati. Atha kho te Vasettha satta akattha-pakam salim paribhunjanta tam-bhakkha tadahara ciram dıgham addhanam atthamsu.

訳 さて,ヴァーセッタよ,これらの衆生に対して,蔓草が消え去 ってから耕さずに熟す米が現れ, 皮なく穀皮なく香りよく米粒は美しか った。これを夕方に夕食に取り出すと,早朝に,これは再び成長して熟し, 朝にこれを朝食として取り出すと,これは夕方には再び成長して熟し, (成長の)跡を知られることもなかった。さて,ヴァーセッタよ,これら の衆生は,耕さずに熟す米を食べ続け,これを食料とし,これを食するこ とを,久しく長い間続けた。 ③の漢訳文では 自然 が修飾連語として形容詞+名詞の働きを示して いるものである。形容詞+名詞の構造を持つこの形式は②と同じ修飾連語 ではあっても,名詞を修飾する形容詞の用法は,②の 自然 の副詞的用 法とは異なる使用例である。 の漢訳の要旨は,ある人が天上に生まれかわって快楽で比べようのな い 自然之 を受けることを観察するのであるが,ここで示される 自 然之 は Nikaya中の ekanta-sukhaに充当する。ekantaは 一向の, 専ら,専一の という形容詞であり,楽,幸福という意味の sukhaを修 飾する点では,形容詞+名詞の形を取り,一見すると 自然之 と整合 するが,ekanta-sukhaの複合語は形容詞の意味を有し,ekantaは文法上 副詞的に扱われ,形容詞 sukhaを修飾する。すると ekantaは 専らに, 専一に,一向に という意味になり,sukhaは 楽しい,幸福の という 意味を示し,ekanta-sukhaは 専らに幸福の という形容詞句をつくり, 続く vedanaの 感受 を修飾して 専らに幸福の感受 ,つまり文意は 天上に生まれかわった者はただ幸福だけを感受する という理解ができ

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る。すると 於彼受自然之 。快 無比。 の文意の中に,Nikayaから 示された意図を,特に 自然之 から読み取ることは難しい。文法上か ら ekanta=自然は対応するが,その語意は必ずしも適合しているとは言 えないだろう。 は と同じく漢語の修飾連語である形容詞+名詞であるが, 自然粳 米 という表現は阿含中に多く, 自然∼ の連語ではもっとも頻出して いる。このケースの特徴は, 自然 の形容詞が修飾している 粳米 の 語が物質名詞である点に注目される。粳米,いわゆる,白硬米(うるち 米)を 自然 が形容している意味はどのようなものであろうか。文意か らは,このうるち米の特徴を次のようにまとめうる。⑴手を加えずとも食 べることができる,⑵外皮や糠がついていない,⑶香りがよく色ツヤがあ る,という点である。このような特徴を有するうるち米を総称する形容詞 が 自然 である。では,Nikaya はどうであろうか。 akattha-pako sali patur ahosi,akano athuso sugandho tandula-pphalo(耕さずに熟す 米が現れた。 皮なく穀皮なく香りよく米粒は美しかった。)という文の 中,akattha-pakoの akatthaは a+kttha(Skt. krsta)で あ る か ら 働 か ざる の原意を持ち,pakaは 炊事 の意味であるので,saliという米 の種類を示す語を修飾し, 働かなくとも炊事された白硬米 と直訳され る。 働かざる とはこの場合,白硬米に対して 働かざる であるので, 田畑などを耕作しないという意味になる。また, 炊事 を示す pakaは pacであるから 料理する,熟する,煮る という意味を本来含有して いるので,ここでは 食べられる状態になっていること を示している。 このような解釈から saliという米は 耕さなくとも食べられる状態の白 硬米 を意味する。saliは単なる白硬米ではなく,耕すことなく食するこ とが可能で,色も味も良いことが示され,さらに Nikayaは,その米が自

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ら1日の間に成長して同じように幾度も食することができる,と述べてい る。 自然粳米 とは,Nikayaからの文意を加味すれば, 自ら成長して 耕すこともなく,脱穀することもなく,色も香も良く,そのままで食べる ことができる白硬米=自然粳米 と理解される。Nikaya中には漢訳の 自然 に該当する語を見出せないが,文意からすれば 自然 とは 自 ずからの状態 を意味する代用語として挿入されていることがわかる。 Nikaya=漢訳語の用例 ここでは Nikayaの原語と漢訳語とが一致している例をあげ, 察を試 みる。

④ Kataman-ca bhikkhave dhammasamadanam paccupanna-sukkhan-ca eva ayatin-ca sukhavipakam : Idha bhikkhave ekacco pakatiya na tibbaragajatiko hoti, so na abhikkhanam ragajam dukk-ham domanassam patisamvedeti;pakatiya na tibbadosajatiko hoti, so na abhikkhanam dosajam dukkham domanassam patisamvedeti; pa-katiya na tibbamohajatiko hoti, so na abhikkhanam mohajam dukk-ham domanassam patisamvedeti ...

訳 比丘たちよ,何が現在の楽と未来の楽の果報を得る法である か? 比丘たちよ,ある者は自然にはげしい貪欲を生じることはない。彼 は常に貪欲の苦や憂いを感受することもない。自然にはげしい瞋りを生じ ることはない。彼は常に瞋りの苦や憂いを感受することもない。自然には げしい愚痴を生じることはない。彼は常に愚痴の苦や憂いを感受すること もない。 ④ 云何受法現 當來亦受 報。或有一自然不重濁欲。不重濁恚。

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不重濁癡。彼不 隨欲心。受苦憂 。不 隨恚心。癡心。 訳 現在の楽やまさに(未来に)到来する楽の報いを受ける法とは 何であるか? ある一人の人がいて,自然に重く濁れる欲なく,重く濁れ る怒りなく,重く濁れる愚痴なし。彼は欲の心にたびたび従い苦を感じて 憂うることなく,怒りの心や愚痴の心にたびたび従うこともない。 この Nikaya中で pakatiyaは女性名詞の具格を取っているが,文法上 は具格からつくられる副詞句と理解される。ゆえにここでは英訳中に by nature(注20参照)とあり,漢訳中にも 自然 は副詞としての修飾連語 の働きを示している。漢訳文の特徴である省略の形式があるものの,文法 上の用例では Nikayaと漢訳が 自然 に関しては一致している例である。 文意はどうであろうか。Nikayaではブッダが現在の苦楽と未来の果報と しての苦楽について述べた部分である。ここでは現在楽と未来の果報とし ての楽を得る者のあり方について説いている。この内容については当たり 前であるが,漢訳も同様である。Nikaya,漢訳ともに現在に楽の果報を 受け,未来においても楽の果報を受ける者はどのような状態にある者かを 問いかけている。この自問に対してブッダは貪・瞋・癡の三毒を生ずるこ とのない人はそれらを受けることもなくなるのであるから,そのような状 態の人は結果として現在も未来も sukha,楽の果報を受けるのである,と 答える。この三毒から離れた状態(楽の果報を受けていること)にある人の 行為は,その状態の継続を意図せずに壊そうとする働きが為されないこと (pakati,自然)を意味している。 ここでは pakati, 自然 の両語は,副詞の働きを示す点では②に同じ 文法的特徴を示すが,文意からすればこのコンテクストがブッダの言質で ある点も 慮して,むしろ①の と の用例である, 緩やかな変化が一

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定の条件のもとにおきる様子 ある状態を保とうとする働き(esa dham-mata) に近似していると えられる。①の は出家者に起こる心の有り 様が,修行の階梯と密接に関係し,次の修行の果報を引き継ぐことが説か れ(法自然), ではヴィバシボサツの出生に関する記述で,このボサツ の誕生を守ろうとする働きが起こることは有るべき状態として esa dham-mata(常法)が説かれた。この④は因果関係を説明する点では①の に よく類似した表現といえるだろう。しかし,特に④では果報が強調され, ある状態を作り出す原因としての行為が説明されている点では,①の に も近い。それは④において abhikkhanaの語が副詞として表れている点で ある。pakatiyaと abhikkhanaはそれぞれ扱われる文節は異なるが,コ ンテクストは結びつく。pakatiyaは自然,abhikkhanaは常としての意 味と,両語ともに副詞として動詞を補足して文意を同じ形態にしている。 つまり,ここでは pakatiyaと abhikkhanaは同義異語と見ることができ, ある状態をもたらす変化は一定の条件下で成立する ことを意味してい る。このような点から,④は①の と の中間的意味を示していると え られる。 ま と め これまで見てきたように 自然 と漢訳される語について,Nikayaと 漢訳文の比較検討を試みてきた。その結果,漢訳語の 自然 には文法的 に3種の用法が確認された。それは名詞・副詞・形容詞のそれぞれの活用 である。それらの活用によって比定される Pali語は必ずしも一つではな く,また,該当する Pali語が見出せない場合もあった。それは中国語の 自然 の概念が補足語として挿入されたものと確かめられた。たとえば,

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それは次のような例によっても知られよう。 當知 佛常法。毘婆 菩 。 兜率天降 母胎。 右脇正念不 。當於爾時地 震動。放大光明普照世 界。日月 不及處皆蒙大明。幽冥衆生各相 見知其 趣。時此光明復照 宮。 天釋梵沙門婆羅門。及餘衆生普蒙大明。 天光明自然不現。 この大本経の一節に示されている文頭の 常法 は dhammata esa bhik-khave であるが,文末の 天光明自然不現 は Appamano ca ularo obhaso loke patubhavati atikkamm eva devanam devanubhavam. Ayam ettha dhammata.(そして無量の大いなる光明は神々の威力に勝 って世界に現れる。これがここでの常法である。)であり,文末に関して, 漢訳語の 自然 は諸天の光明の出現にのみ修飾の働きを示しているが, Nikayaの中では dhammataはむしろ光明全体の働きを指している。こ の場合, 自然 は文脈から挿入された副詞と見ることができ,文末の Ayam ettha dhammataの一文は省略されたと見ることができよう。

また,Nikayaでは③の に見られる ekantasukhaの用例のように, 漢訳の 自然 との語意の差異が明確に現れるものや,逆に Nikayaのコ ンテクストで中国人として理解し難い sali米については,よく 自然 の語が意味を補っている箇所も見られた。特にこの場合,インドの風土で は耕作せずとも作物が実ることは決して無理なことではなく,現在でも認 識されやすい事柄であることに対して,中国における稲作では認識し難い 事象であったろう。さらに,④の pakatiyaと abhikkhanaの例では,文 意から①の の dhammataの用例に近似しているものも確認された。 これらの用例は,全体の一部にしか過ぎず,一つ一つの例をここで検証 するには無理があるが,少ないこれらの用例から漢訳語の 自然 に含ま れる Nikayaのコンテクストが実に幅広いことが確認され,この語が持つ 意味の多様性が Nikayaから直接に結びつくケースは少なく,中国語とし

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ての解釈を容易にするための使用が多いことに留意される。

⑴ 大正1:p.188a. 般泥 経 cf.74b, 810a, 大正2:657a, 794c, 813a. いずれも十二部経に関する記述である。 は Nikayaに該当経典がない。但 し,通常十二部経は,1 sutta,2 geyya,3 veyyakarana,4 gatha, 5 udana,6 itivuttaka,7 jataka,8 vedalla,9 abbhutadhamma, 10 nidana,11 avadana,12 upadesa である。順序は必ずしも対応し てはいない。

⑵ 大正1:p.485b.

⑶ AN.Ⅴ, pp.2-4.A¯nisamsa-Vagga. GS.Ⅴ,pp.3-4: Monks,for one who is virtuous,in full possession of virtue,there is no need for the purposeful thought : May freedom from remorse arise in me. This, monks, is in accordance with nature― that for one who is virtuous,in full possession of virtue, freedom from remorse arise. Monks, for one who is free from remorse there is no need for the purposeful thought:May joy arise in me. This, Monks, is in accordance with nature ― that for one who is free from remorse joy arises.Monks,for one who is joyous there is no need for the purposeful thought: May rapture arise in me. This, monks, is in accordance with nature ― that for one who is joyous rapture arises. Monks, for one whose body is calmed there is no need for the purposeful thought:May my body be calmed. This, monks, is in accordance with nature ― that for one whose heart is enraptured the one body is calmed. Monks, for one whose body is calmed there is no need for the thought:I feel happiness. This, monks, is in accordance with nature ― that one whose body is calmed feels happiness.Monks,for one who is happy there is no need for the thought:My mind is concentrated. It follows that the happy man s mind is concentrated. Monks, for one who is concentrated there is no need for the thought:I know and see things as they really are. It follows naturally that one concentrated does so. Monks for one who knows and sees things as they really are there is no need for the thought: I feel revulsion;interest fades in me.It follows naturally that such an one feels revulsion and fading interest.Monks,for one who feels revulsion and fading interest there is no need for the thought: I realize release by

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knowing and seeing. It follows naturally that he who feels revulsion and fading interest realizes release by knowing and seeing. ...Thus, monks, one state just causes another state to swell, one state just causes the fulfillment of another state, for the sake of going from the not-beyond to the beyond.

英訳文では,natureという名詞形で訳される前半部と naturallyという副 詞形で訳される後半部があるが,Nikaya 文中では dhammata esaの定型句 であることから, This is in accordance with nature that の前半部の表現 が首肯される。 ⑷ 大正1:p.810a. cf. 421a, 中阿含七法品善法経 第一,大正2:p.728c. 増壹阿含経等法品 第三九。この2経は七知経の異訳であり,いずれも十 二部経をあげているが, 自然 と訳す例はない。訳者は,東晋の僧伽提婆 であるから七知経の訳者である支謙よりも後の訳例であるが,時代は六朝期 であり,鳩摩羅什よりも早い。 ⑸ 中村 遊行経 pp.18-20. ⑹ 例えば,玄 訳 大般若波羅蜜多経 においては, 一切如來應正等覺。 有佛法如來法自然法一切智智法 が定型句として随所に現れる。大正6: p.580a-b,; 大正7:p.608a-b, 818b. ⑺ 彿常法 は,大正1:p.3c ,4a-b ,19b,88a,101a,136b-c ;大正2: p.480b,621c,以降は 彿世 常法 p.511a,674b,726c,752c,758b. 印は当 該箇所において複数回現れるもの。 ⑻ DN.Ⅱ,pp.12-14. Mahapadana Sutta 1-17.PTS 本には17とあるが,すで に前節において17節があるため,本来ならば第18節になるべきものであるが, ここでは PTS 本のまま17節と表記した。

DB. Ⅱ, p.9 : 17a. It is the rule, brether, that, when the Bodhisat is descending into a mothers womb,four sons of the gods go toward the four quarters to protect him,saying:- Let no one,be he human,or non-human, or to the mother of the Bodhisat ! That, in such a case, is the rule. ⑼ 大正1:p.3-4.

⑽ 大正1:p.90b.

DN. Ⅰ, p.18. Brahmajala sutta, 1-2-5 DB.Ⅰ, p.31: I am Brahma,the Great Brahma,the Supreme One,the Mighty,the All-seeing,the Ruler,the Lord of all, the Maker, the Creator, the Chief of all, appointing, to each his place, the Ancient of days, the Father of all that are and are to be.

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24b, 37b, c, 38a, 39c, 47c, 50b, 63b, 90b, 116b, 119a, b, 120c, 121a, 122a, c , 123a, c, 124c, 125a, 126b, 132b, 134a , b, 137c, 138c , 139a , b , 140b , 141a ,144a,145a ,170a,172a,175c,187a,190a,205b,207a,b,222c ,267a , 280b, 281a, 282a, 283a,c,284b,285a,c ,286c,287a,290b,295c,297a,b,c, 298a, 301a, 302a, 305b, 306a, 307c, 308a, b, 312c, 314c, 315c, 316a,c,317a, b,318a,b,319a,c,320a ,b,c,326a,327b,329c,332b,337c ,339b,340a,346 b,c ,351c,356a ,357b,358b,362a,363a,367c,371b,372b,373b ,373c,374 b, 375a, c,376a,381a,382a,c,384b,c,387b,392c ,395a,399b,401b,c,404 a , 406c, 411a , 413c , 418a, 440b , 622c, 674c , 712a, b, 822a, 824c, 830a, 859b, c, 860b, 868c. 大正2:p.45a, 67b , 163a, b , 181a, 214a, 255a, 273a, 297c,303b,c ,312b,341b,361a,382a,386b,394b,414a,436a,446c,487a,500 a, 505a, 507c, 602b, 624c, 664b, 675c, 697c, 727b, 731c, 732a, b, c,733a,736 b ,737a ,743b,768a,769b,773b,774b,781a,784b,788a ,807a,808a,c,814 c , 817b, 819a, 829a, 842a, 845a, b,848b,850a,b,851c ,852a ,c,853c,854 a, 865b.( 印は複数)

大正2:p.812a.

MN.Ⅰ, p.76. Mahasıhanadasutta 12. PTS 本文中では[ ]内は省略さ れているが,文意をよく理解するために挿入している。英訳についても同様 にした。MLS.Ⅰ,p.101:Then I,Sariputta,with my mind comprehend the mind of some person thus:As that person fares along[and as he is going along and has entered that way,]so will he arise,at the breaking up of the body after dying,in a good bourn,a heaven world. After a time I see[by purified deva vision,surpassing that of men that,at the breaking up of the body after dying,]that he has arisen in a good bourn,a heaven world and is experiencing feelings that are exclusively pleasant.

大正1:p.38a. cf.p.675a.異訳である中阿含第154経 婆羅婆堂経 の 該当箇所においても, 自然粳米 とある。但し,Paliの Agganna-sutta の 内容を要約している増一阿含巻第三四の七日品第四十之一(一)後半部分 (大正2, p.737a-738a)では 是時地肥自然入地。後轉生粳米極 鮮 亦無 皮表。… (737a)とある箇所と 自然粳米 (737c)がある。 PTS 版には本文中にあるように -pphalo であるが,文意から PTS 版の footnoteにある -pphasso と理解するほうが適当であろう。 DN. Ⅲ, p.88. Agganna-sutta 16. DB. Ⅲ, pp.84-5:Then,Vasettha,when the creepers had vanished for those beings,rice appeared ripening in open spaces,

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No powder had it and husk. [Pure,]fragrant and clean grained.

Where of an evening they gathered and carried away for supper,there next morning the rice stood ripe and grown again. Where in the morning they gathered and carried away for breakfast,there in the evening it stood ripe and grown again. No break was to be seen[where the husks had been broken off].

このような例は ekantadukkhaの用例に見える。Cf.SN.Ⅲ,p.69.Upaya-vagga 60(8)Mahali. また,文法的解説は PED. p.160.

自然粳米の現れる箇所は,大正1:p.38a , b, 118a, c, 119a, 121a, 133b, 148a,b,c ,297a,308a,314c,315b,316b ,369c,371b ,417a,495a,622b,643 c, 644a , 675a , b , c , 823a, 824c.

大正2:p.584a , 620b , 621a , 737c, 789c, 819a, 858b.( 印は複数) MN.Ⅰ, p.308 Culadhammasamadanasutta (45) MLS.Ⅰ, pp.370-1 : And what,monks,is the undertaking of dhamma that is both happiness in the present as well as resulting in happiness in the future?Here, monks, someone is not full of attachment (by nature and who constantly experi-ences suffering and grief born of attachment ;he is not) full of hatred by nature (and who constantly experiences suffering and grief born of hatred ;he is not)full of confusion by nature. He does not constantly experiences suffering and grief born of attachment ...hatred...confusion. ( )内は中略箇所であるが筆者が補足した。 大正1:p.712b. cf. PED. p.379. 雲井辞典511頁。 3 大正1:p.3c. DN.Ⅱ, p.12. Mahapadana-sutta. Cf. 注⑺,⑻ 参 文献 雲井辞典 雲井昭善著 パーリ語佛教辞典 ,山喜房佛書林,1997年。 大正1 大正新修大蔵経普及版 阿含部一 大正2 大正新修大蔵経普及版 阿含部二 大正6 大正新修大蔵経普及版 般若部二 大正7 大正新修大蔵経普及版 般若部三 中村 遊行経 中村 元著 遊行経 上 仏典講座Ⅰ 大蔵出版 昭和59年。 AN.Ⅴ Anguttara-nikaya, vol.5, ed. by E. Hardy, PTS, 1979.

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DB.Ⅰ Dialogues of the Buddha,part.1,by T.W.Rhys Davids,PTS,reprint-ed in 1977.

DB.Ⅱ Dialogues of the Buddha, part.2, by T.W. and C.A.F. Rhys Davids, PTS, reprinted in 1989.

DB.Ⅲ Dialogues of the Buddha, part.3, by T.W. and C.A.F. Rhys Davids, PTS, reprinted in 1991.

DN.Ⅰ Dıgha-nikaya, vol.1, ed. by T.W. Rhys Davids and J.E. Carpenter, PTS, 1890.

DN.Ⅱ Dıgha-nikaya, vol.2, ed. by T.W. Rhys Davids and J.E. Carpenter, PTS, 1903.

DN.Ⅲ Dıgha-nikaya, vol.1, ed. by J.E. Carpenter, PTS, 1911. GS.Ⅴ Gradual Sayings, vol. 5, by F.L. Woodward, PTS, 1986. MLS.Ⅰ Middle Length Sayings, vol.1, by I.B. Horner, PTS, 1993. MN .Ⅰ Majjima-nikaya, vol.1, ed. by V. Treckner, PTS, 1888.

PED. Pali-English Dictionary,ed.by T.W.Rhys Davids and William Stede, reprinted in 1975.

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参照

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