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<論説>国際経済秩序の変動と国際通商・投資法

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国際経済秩序の変動と国際通商・投資法. 1. 国際経済秩序の変動と国際通商・投資法. 柳 赫 秀. はじめに. Ⅰ.診断. 1.知識権力における変化とその帰結. (1)4つの構造的権力. (2)知識構造から由来する権力. (3)知識革命の意味:非物質化. (4)知識革命の帰結(1):経済のサービス化. (5)知識革命の帰結(2):知識と安全保障の接近. 2.‌‌権力地殻(power‌configuration)における変化:米国優位の動揺と中国の. 台頭. (1)アメリカの世紀. (2)中国の台頭と米中角逐. (3)現状の解釈. 3.アイデンティティ・ポリティックスの台頭. (1)「エニウェア族(Anywheres)」vs.「サムウェア族(Somewheres)」. (2)「トライバリズム(tribalism)」論. (3)アイデンティティ・ポリティックスの帰結. Ⅱ.何が起こっているのか?. 1.「公正で相互的な(fair‌and‌reciprocal)」貿易とは何か?. 論 ‌‌説. 横浜法学第 29 巻第 2 号(2020 年 12 月). 2. (1)トランプ政権の通商政策. (2)「自由貿易‌vs.‌公正貿易」のレトリック. (3)ガット・WTO体制における「自由貿易‌vs.‌公正貿易」のレトリック. (4)米国による「公正性」定義に対する日本の反論. 2.安全保障を理由とする貿易措置の乱用. (1)安全保障とは?. (2)安全保障貿易管理の国際枠組み. (3)安全保障貿易管理と日米. (4)ガット・WTOの規律:ガット 21条の「安全保障の例外」. (5)日本による対韓国輸出管理強化措置. (6)総括. 3.WTO体制の危機. (1)ドーハラウンドの頓挫と立法機能の停止. (2)頓挫の原因. (3)米国による上級委員会のマンデートについての問題提起. (4)展望. 4.国際投資法. (1)国際投資関係の特徴. (2)国際投資法の歴史的展開. (3)投資法の新しい展開. (4)「通商と投資のインターフェース」とその失敗. (5)新自由主義の動揺と国際投資法における葛藤・反動. (6)展望. Ⅲ.結び:自由主義国際経済秩序の展望. 国際経済秩序の変動と国際通商・投資法. 3. はじめに. 現在国際秩序が、長い間の構造的変化と最近のコロナ禍の影響の下で、大き. な曲がり角に来ていることについてはもはや異論をさしはさむことはできない. のではないだろうか。国際秩序全体が動揺する中、4年前トランプ大統領当選. のあおりをもろに受けた、国際経済秩序に至ってはさらに大きな変動に晒され. ているように思われる。はっきりいているのは、来年 1月バイデン政権が出帆. しても、現下の国際経済秩序の直面している事態に大きな変化は生じないだろ. うということである。いったい現在の揺れはどれくらいのマグニチュードによ. るものなのだろうか。そして、その変動はどのような性格のものとして捉える. べきであろうか。. かつてラギーは、第2次世界大戦後の国際経済秩序の解釈を行う際に、政. 治権威(political‌authority)は、権力(power)と正当な社会目的(legitimate‌. social‌purpose)の混合であるといった。そして、権力の変動は国際秩序の形. 態(form)の変化を予見するのみであるが、社会目的は秩序の内容(content)、. すなわち性格にかかわる。そして、ある国際レジームにおける権力の変動は、. そのレジームの手段の変化を意味する既存の「規範枠組みに基づく変化(norm-. governed‌change)」であるが、レジームの目的における変化は、「既存の規範. 枠組みそのものにおける変化(norm-transforming‌change)であるという、示. 唆に富む二分法を提示した 1)。. では、現在の国際秩序や国際経済秩序が直面している事態は、ラギーの二分. 法のどこに該当するのか。敷衍すれば、現在の「自由主義的(liberal)」国際. 秩序や国際経済秩序の直面している揺れは、自由主義の内容や性格そのものを. . 1)‌‌John‌Gerard‌Ruggie,‌“International‌regimes,‌transactions,‌and‌change:‌embedded‌liberalism‌ in‌the‌post‌war‌economic‌order”,‌in‌S.Krasner‌ed.,‌International Regimes‌(Cornell‌University‌ press,‌1983)‌p.195.. 横浜法学第 29 巻第 2 号(2020 年 12 月). 4. 変える規模や性格のものなのか、あるいは、現存秩序の中の権力の移動に伴う. 変化に過ぎないのか、あるいは、その間のどこかに位置し、新しい意味付けを. 必要としているのか。本稿は、これらの研究課題に答えるべく、まず、現下の. 国際経済秩序の変動の背景的要因を整理しながら、次に、国際経済秩序の動揺. の下で、国際通商法や国際投資法の分野において、どのような揺れや変化が見. られるのか、について見てみてから、最後に、上記の研究課題についての結論. を述べる。. 以下では、まず、Ⅰで、何が起きているのかについての現状認識を、(i)「知. 識」における革命的変化とそれが国際関係及び秩序にもたらした帰結、(ii)米. 国優位の動揺と中国の急激な台頭による権力地殻(power‌configuration)の変. 動、そして、(iii)主要先進諸国における社会階層の寸断とアイデンティティ・. ポリティックスの噴火という、3つの次元で整理する。Ⅱでは、現在国際通商. 法と国際投資法に何が起きているかを探る。まず、通商においては、トランプ. 政権以降強調されている「公正貿易」の要求の意味内容、安全保障を理由とす. る通商措置の乱用、WTO体制の危機の 3つを取り上げる。そして、国際投資. 法現状について概観してから将来の課題と展望について述べる。最後に、Ⅲで、. これまでの議論をまとめ、本稿の研究課題についての立場を示し、今後の展望. を提示したい。. Ⅰ.診断. 1996年レスターC.サローは、当時の新しい世界経済のダイナミックスを、. 地理学から「プレート・テクトニクス(plate‌tectonics)」と、生物学から「断. 続平衡説(punctuated‌equilibrium)」の概念を借用して描写して見せた 2)。. 地震や噴火といった目に見える異変が現れるまで、地下では目に見えない動. . 2)レスターC.サロー、山岡洋一/仁平和夫訳『資本主義の未来』(TBSブリタニカ、1996年)。. 国際経済秩序の変動と国際通商・投資法. 5. きが進行する。プレート・テクトニクスは、ほとんど知覚できないゆっくりし. た速度であるが、地球の表面を根底から変えてしまう変化を起こしている。経. 済のプレート・テクトニクスにも同じことが言える。所得と富の配分という経. 済の地表は動かないように思えるが、実際には毎年少しずつほとんど目に見え. ない動きがあり、それが積み重なって、比較的短い期間に購買力の分配が変. わってしまう。静かに進行している経済の地殻変動と、激しく世界を揺さぶる. 経済の地震と噴火が起こる背景には次の 5つの経済プレートがある。(i)共産. 主義の終焉、(ii)人工頭脳産業の時代の到来、(iii)人類が経験したことのな. い人口動態、(iv)グローバル経済、そして、(v)覇権国家のいない時代である。. 経済世界の形を決定するこれらの5つのプレートは、技術とイデオロギーが混. ざりあった液体の上に浮かんでいて、技術とイデオロギーの変化とその相互作. 用によって、経済プレートを動かす流れが生まれる。. そして、サローはこれらの力がどんな動きをしているか、それに適応するた. めに何をしなければならないのかを理解するために「断続平衡説」を借りる。. 通常種の進化は非常にゆっくりと進むために、人間の時間間隔では認識できな. いが、時々環境が突然変化し、進化が大きく飛躍する、生物学者が「断絶平衡」. と呼ぶ現象が起こる。生物の世界も、社会制度も、経済システムも、平衡断絶. 期に入るまで、構造は揺るがないものに見えても何かがゆっくりと変わってき. ていたが、平衡断絶期が終わると構造は根底から変わっており、勝者になる条. 件は平衡断絶期の前と後ろでは全く違う。平衡断絶期の間はすべてが流動的で. あり、不均衡が常態になり、不確実性が支配的になる。1990年代の世界は平. 衡断絶期にあり、経済の5つのプレートが同時に動きながら変化が進行してい. る。平衡断絶期には、技術とイデオロギーは、古いものも新しいものも歯車が. かみ合っていない。新しい経済の仕組みが定着するには、技術とイデオロギー. の間の矛盾がなくなり、両者が調和したものとなる必要があるというのである。. サローの枠組みで今日の世界の現状を診断したらどうなるのか。5つの経済. プレートは現在どうなっているだろうか。25年経った今日も平衡断絶期が続. 横浜法学第 29 巻第 2 号(2020 年 12 月). 6. いているのか。あるいは、今年に入って始まった新型コロナウィルスのパンデ. ミックがプレート・テクトニクスを一気に顕在化させ、世界は改めて平衡断絶. 期に突入したのか。技術とイデオロギーとの間の矛盾はあるのか。それは今後. の国際秩序の覇者争いにどのような影響を与えるのか。. I.では、現在の国際経済秩序の変容如何という壮大なテーマについて、ソロー. の枠組みを念頭に置きながら、主にS. ストレンジの国際政治経済の理論的枠. 組みを借用し、できるだけ簡明で構造的な解説を試みる。ソローがあげた、5. つの経済プレートのうち、特に、(ii)人工頭脳産業の時代の到来、‌(iv)グロー. バル経済、そして、(v)覇権国家のいない時代の 3つがここの枠組みと関連. する。. 今日の状況を理解するためには、(1)何よりも権力の源泉の一つである「知. 識」における革命的変化とそれが国際関係及び国際秩序にもたらしている帰結. と、(2)従来の権力地殻(power‌configuration)における変動、すなわち、米. 国優位の動揺と中国の急激な台頭、そして、(3)新自由主義に基づくグローバ. リゼーションの深化がもたらした主要先進諸国における社会階層の寸断とアイ. デンティティ・ポリティックスの噴火という、3つ要因について考える必要が. ある。. 1.知識権力における変化とその帰結 (1)4つの構造的権力. S.‌ストレンジは、名著『国際政治経済学入門─国家と市場』の中で、国際. 政治経済(the‌politics‌of‌international‌economic‌relations)を理解するためには、. 市場に対する国家の影響と国家に対する市場諸力の影響を同時にみなければな. らないが、両者の関係を決める権力(power)には、構造的権力(structural‌. power)と関係的権力(relational‌power)の両方があるという 3)。関係的権力. は、彼女が批判する現実主義者(realists)たちが使う一般的な権力─他人が. 望まないことをやらせることのできる力─を意味しているが、構造的権力は、. 国際経済秩序の変動と国際通商・投資法. 7. 国家、その機関、企業及び科学者・専門家集団がその中で活動するグローバル. な政治経済の構造を形成し、決定する力を指す。構造的権力は、経済的な力と. 政治的な力の両方を包含し、物事がいかにあるべきかを決める力であり、その. 中で国家同士が関わり、国家が個人や会社集団と関わる枠組みを作り上げる力. である。このような構造的権力は、単一構造をなすのでなく、4つの互いに区. 別されながらも、関係づけられる構造からなっている。すなわち、4つの構造. 的権力は、まるでピラミッドの三角錐の4つの面のように、安全保障(security)、. 生産(production)、金融(finance)及び知識(knowledge)の 4つから構成. され、お互いに有機的にかかわって影響し合っている。なお、それぞれの構造. 的権力は、永久普遍なものではなく、時代や社会の変動によって変わる。. (2)知識構造から由来する権力. 今日国際秩序において生じている変化、特に国際経済秩序をリードしてきた. 米国の態度に生じている変化の背景を理解するためには、何よりも 4つの構造. 的権力のうち、知識構造から由来する権力における発展と変化、そして、その. 影響について知る必要がある。今日国際経済秩序における動揺と混とんは、何. よりも知識権力をめぐって生じている急激で革命的変化と、それが他の3つの. 権力に影響を与え合っていることに起因するといって過言ではない。. もともと知識構造から由来する権力はわかりにくいものである。国際関係に. おける科学技術の役割を系統的に整理して論理関係を明確にする作業が長い間. あまり進まなかったことも同じ脈絡で理解することができよう。そのために、. 20世紀後半まで科学技術が国際関係を規定する主役とは考えられてこなかっ. た 4)。ちょうど半世紀前にトーマス・クーンのお陰で「科学革命」という言葉. . 3)‌‌S.‌ストレンジ、西川潤・佐藤元彦訳『国際政治経済学入門─国家と市場』(東洋経済、 1994年)第 2章参照。. 4)武者小路公秀・蝋山道雄編『国際学─理論と展望』294頁。. 横浜法学第 29 巻第 2 号(2020 年 12 月). 8. が流行ったが、ここ数十年の間に情報技術(I&T)において起きている変化は. まさに「革命」と呼ぶにふさわしい。. この「知識革命」により、まず、国家間の競争は知識構造におけるリーダー. シップをとるための競争になった 5)。富の源泉が土地と賦存資源であった時代. では領土獲得をめぐる競争だったことが、今や科学技術における最先端をめ. ぐる競争になったのである。今日の 5Gの展開をめぐる国家・企業間の競争を. 思い浮かべれば十分であろう。それこそ軍事的優位、経済的繁栄、耐え強さ. (invulnerability)及び支配的地位の獲得のためのキーなのである。次に、知識. 構造における変化は、国家間の知識(先端技術)の獲得とアクセスの格差をも. たらした。特に、米国は知識の獲得において優位にあるだけでなく、その伝達. (疎通)手段としての英語の絶対的優位を享有することになった。最後の帰結. は、権力、社会的地位及び影響力が、社会内部だけでなく、国境を超えて、資. 本の豊富さ(capital-rich)よりも、情報量(information-rich)により依存する. ようになった。資本の所有と蓄積でなく、信用(credit)へアクセスするため. の情報の重要性が増してきたのである。それとともに高等教育とそれを受けた. 者同士のネットワークであるトランスナショナルな管理階級が台頭することに. なる。このような変化により、誰が何から得をし、そのために誰かは損をし、. あるいは、誰が誰かより少ない利益しか得られなかったのかという、いつの時. 代にも変わらぬ政治分析マップが変わることになった。. (3)知識革命の意味:非物質化. 今日の知識革命は何よりも情報と通信技術の発達に端を発するといって過言. ではない。19世紀後半から第一次世界大戦までの第 1次グローバリゼーショ. ンの時代は交通運送費の削減によってもたらされた。それに対して、1990年. 代に入って本格化する第 2次グローバリゼーションの時代には、IT革命によ. . 5)以下、ストレンジ『前掲書』(注3)136─138頁による。. 国際経済秩序の変動と国際通商・投資法. 9. る「経済のグローバル化」、「金融化」とともに経済の「情報化」が生じたこと. で、サプライチェーンがグローバル化し、製造業とサービス業の垣根が崩れつ. つあるのは周知のことである 6)。. つい最近『資本主義の新しい形』の中で、1970年代以降に進展した資本主. 義の構造変化を「資本主義の非物質主義的転回」として規定した諸富は、す. でに1960年代以降何人もの先駆的な学者たちが資本主義の非物質化現象を指. 摘してきたとする 7)。1960年代のフリッツ・マッパルブの『知識産業』の議. 論、1970年代のあの有名なダニエル・ベルの『脱工業化社会』、そして、ピー. ター・ドラッカーの『ポスト資本主義社会』などである。マッパルブは、早く. も1960年代に伝統的な生産要素である資本、労働、土地に加え、知識という. 新しい経済的資源が経済発展に決定的に重要な役割を果たす「知識経済化」の. 傾向を、ベルは、資本主義の非物質化傾向を「脱工業化」と括り、工業社会に. おける「「物的資本」から「知的資本」への移行を予見し、そして、ドラッカー. は、ポスト資本主義社会では、最も重要な経済的資源、もはや資本や労働では. なく、「知識」であると指摘した。. 諸富は、資本主義社会の変化を『知識』という非物質的要素を媒介として捉. えた先人たちの議論を踏まえて、現代資本主義を「資本主義の非物質主義的転. 回」というキー概念で読み解いてみせる。「資本主義の非物質主義的転回」とは、. 現代資本主義が生産と消費の両面で「物的なもの」から「非物質的なもの」へ. 重点を移行させることを意味する。今は企業の競争優位源泉が非物質化し、生. 産を決める資本も、労働も、そして、消費も非物質化したのである。. (4)知識革命の帰結(1):経済のサービス化. . 6)‌‌とりあえず岩田一正・日本経済研究センター編『2060デジタル資本主義』(日本経済新聞 出版社、2019年)が参考になる。. 7)諸富徹『資本主義の新しい形』(岩波書店、2020年)。. 横浜法学第 29 巻第 2 号(2020 年 12 月). 10. サービス産業(第 3次産業)は、金融、通信、流通、運輸、建設、観光、環境、‌. 弁護士や会計士といった自由職業等幅広い分野を含む。社会政策に関わる医療. や教育等の分野や、文化、娯楽、旅行等もサービス産業である 8)。ペティ=ク. ラークの法則によれば、国の1人当たりの所得が増えると、その国の産業間の. シェアは第1次産業から第 2次産業へ、さらには第 3次産業へシフトする。現. 在主要先進国の場合、第3次産業の比重が軒並み 70%前後にのぼる。. サービスが国境を越えて取引されることを「サービス貿易(trade‌in‌. services)」という。「サービス貿易」というタームは、1970年代以降台頭し. た国際的な専門家集団である「認識共同体(epistemic‌community)」によっ. て、OECD後援の下で、鋳造されたものであるが 9)、やがてガット・ウルグア. イラウンドにおいてアジェンダ設定を主導し、WTO「サービス貿易に関する. 一般協定(GATS)」が制定されたことは周知のことである 10)。WTO体制の. GATSに基づくサービス貿易の自由化の目まぐるしい進展が、「資本主義の非. 物質主義的転回」の下での「製造業のサービス産業化」を支えたことは言うま. でもない。. 諸富によれば 11)、1970年代から 1980年代に進む経済の「金融化」は情報通. 信技術の発達による経済の「情報化(IT化)」と結びつく。情報化はまたサー. ビス産業を革新し、その生産性を引き上げただけでなく、やがてその波は製造. 業にも及び、あらゆる産業が情報化することで製造業とサービス業の垣根が崩. . 8)とりあえずGATSのサービス分類を参照。. 9)‌‌W.J.Drake‌and‌K.Nicolaidis,‌“Ideas,‌interests,‌and‌institutionalization‌:‌‘trade‌in‌services’‌and‌ the‌Uruguay‌Round”‌46─1‌International Organization‌(Winter‌1992)‌p.37.. 10)‌‌認識共同体とは「特定の分野において専門性と能力が認められ、その分野ないし問題領 域内で、政策上有効な知識について権威を持って発言できる(トランスナショナルな) 専門家のネットワーク」と定義される。城山英明『国際行政論』(有斐閣、2013年)174頁。. 11)諸富『前掲書』(注 7)第 3章を参照。. 国際経済秩序の変動と国際通商・投資法. 11. れつつある「製造業のサービス産業化(servitization)」)現象を指摘する。「製. 造業のサービス産業化」はペティ=クラークの法則のいう産業間の重点移行だ. けでなく、第2次産業たる製造業そのものがサービス産業としての色彩を強め. ることである。. 日本(企業)は「資本主義の非物質主義的転回」の中で「経済の非物質化」. が進むという巨大な変化の重要性を認識できず、「ものづくり」神話に執着し. た結果、無形資産投資が停滞し、「製造業のサービス産業化」の流れに乗り遅. れたと指摘されてきた。それは第4次産業革命と「デジタル化」への手遅れを. 意味し、日本(企業)への大きな課題を突き付けている。今日の「デジタル庁」. 設立の動きがその一つの例である。. (5)知識革命の帰結(2):知識と安全保障の接近. このように現在「知識革命」が資本主義そのものに大きな変化をもたらして. いるが、それによって国際秩序、特に国際経済秩序にはいかなる帰結をもたら. されたか。ストレンジのいう4つの構造的権力は互いに有機的に関係している. ために、知識構造における変動は当然他の3つの構造的権力のすべてに波及す. るが、ここでは安全保障との関連について述べる。. 安全保障から由来する権力とは、ある主体が脅威に直面している他の主体に. 安全(security)を提供することによって得られる力である 12)。それによって. 安全を与える主体は、富の生産、消費において特別に有利な立場に置かれ、あ. るいは、特別な権利や特権を享有する。安全をめぐる構造が「誰が何を得るの. か」を規定するのである。今日の国際社会における安全保障をめぐる構造は主. に物理的暴力を独占する国家を中心に形成されている。その意味で安全を提供. する力は、まずは軍事力を意味し、国家は他の主体に対する軍事的優位の構築. . 12)ストレンジ『前掲書』(注 3)67頁。. 横浜法学第 29 巻第 2 号(2020 年 12 月). 12. 及び維持を図る。現在の米国は、他のいかなる主体と比べても、圧倒的な軍事. 力を有し、それに基づく特別な権利や利益を享有している。日米安保条約に基. づく日米関係を考えればわかりやすい。. ある主体の安全保障権力は、その主体の経済発展水準や産業化の程度、勢力. 均衡や地政学的条件などの国際システムの構造、技術発達などによって影響さ. れる。今日においては、デジタル革命が象徴する科学技術の発達の重要性が格. 段と大きくなってきた。「知識革命」をリードし、競争を制する者が、軍事と. 経済の両方をとることができるのである。そして、軍事戦略において、人や在. 来式兵器システムより、軍事情報や戦時通信がより重要になった。今や安全. 保障の関心は、大気圏を超え宇宙へと達し、宇宙における競争へ及んでいく。. 各国は熾烈な「知識外交」を繰り広げ、国際・国内の両平面における知的財. 産権法制の整備だけでなく、自国に有利な制度・法的枠組みの設定を試みる。. 米国が早くも1984年通商法において国際的な知的財産権の法的枠組みを提唱. し、世界貿易機構(WTO)の中に知的財産権の貿易関連の側面に関する協定. (TRIPS)を入れた所以である。. 他方で、国防や安保において、GAFAの存在のように、民間依存の度合い. が増えてきた。米国があれだけ一民間企業のファーウェイを警戒し、締め出す. ことに熱心な所以である。その延長線上のことであるが、もはや軍需品と凡庸. 品との区分があいまいになってきたように、安全保障と他の領域との境界が不. 分明になった。後述するトランプ政権による安全保障を理由とする貿易措置の. 乱用により、通商政策と安全保障の接近現象が見られるようになったのである。. 2.‌‌権力地殻(power‌configuration)における変化:米国優位の動揺 と中国の台頭. (1)アメリカの世紀. 20世紀は「アメリカの世紀」(the‌American‌century)と呼ばれる 13)。80年. 近く前にヘンリー・ルースが命名したとされる。「世界で最も強力で活気のあ. 国際経済秩序の変動と国際通商・投資法. 13. る国家」で、「民主主義的原理」、「法の下における平等」と「機会均等」とい. う価値を掲げて「真にアメリカ的な国際主義」を実践した歴史上唯一の国であ. る。1989年冷戦終了後はまさに覇権国として世界に君臨した 14)。. 米国は、20世紀後半を通じて、ストレンジのいう 4つの構造的権力のすべ. てにおいて、他国を圧倒し覇権国としての地位を維持してきた 15)。冷戦初期. の 1950年代に原子爆弾や宇宙開発の分野でソビエト連邦に優位を許し、安全. 保障と知識の両面で、ソビエトに並ばれたことがあり、1971年ブレトン・ウッ. ズ体制の崩壊に伴う市場の台頭及び多極化の進行、そして、1980年代生産の. 面で日本の挑戦に直面したことがあるが、それ以外には常に 4つの権力のすべ. てにおいて優位を保ち、冷戦終了後は他の追随を許さない圧倒的な軍事力を誇. り 16)、米国文化や英語は普遍的な地位を獲得した「ソフト・パワー」として. 世界を席巻してきた。. 特に、米国は、その同盟国と協力して、「自由主義国際秩序」(liberal‌inter-. national‌order)を打ち立てて切り盛りしてきた。アイケンベリーは、自由主. 義国際秩序は、決まった原則や実行の束として定式化されている訳ではないが、. 開かれた市場、数々の国際組織、安全保障上の協力、法の支配及び民主主義社. 会間の連帯などの側面が備わっている秩序であるという。その秩序の下で、米. . 13)‌‌ダワーは「アメリカの世紀」を「暴力的なアメリカの世紀」と呼んだ。ジョン・W・ダワー、 田中利幸訳『アメリカ‌暴力の世紀』(岩波書店、2017年)。. 14)‌‌20 世紀に入って米国という国家がいかにグローバル資本主義(global‌capitalism)を作り 上げ、世界に伝播させたかについては、Leo‌Panitch‌and‌Sam‌Gindin,‌The Making Global Capitalism: The Political Economy of American Empire‌(Verso,‌2012) を参照。. 15)‌‌米国の衰退を説明するために発達した国際レジーム論に対して、ストレンジはそもそも 衰退していないと批判した。S.Strange,‌“Cave! Hic dragones:‌a‌critique‌of‌regime‌analysis”,‌ in‌S.D.Krasner‌(ed.),‌International Regimes‌(Cornell‌University‌Press),‌p.337.. 16)‌‌現在米国の軍事費は世界 2位から 10位までの国々の軍事費の合計より多いことは周知 の通りである。. 横浜法学第 29 巻第 2 号(2020 年 12 月). 14. 国は、数々の同盟を維持し、世界経済を安定させ、協力関係を築き、「自由世. 界」の価値を広めてきた 17)。そして、1949年トルーマン大統領が、大統領就. 任演説で、古い帝国主義時代が幕を閉じ、「低開発の地域」(underdeveloped‌. areas)に科学進歩と産業発展の利益を及ぼす計画を発表し、いわば「開発の. 時代」(the‌era‌of‌development)を先導してきた 18)。. もう一つ重要なことは、米国のリードする自由主義的国際秩序が多角主義. (multilateralism)に基づいていたことである。ラギーは、多角主義を「3か国. またはそれ以上の国々の間の関係が一般化された行為基準に基づいて整序され. る制度的な形態」と定義する 19)。確かに、多角主義はしばしば米国の身勝手. なダブル・スタンダードにさいなまれてきたが、それでもアド・ホックの取極. やパワー・ポリティックスに基づく関係と対照される。アイケンベリーは、多. 角主義の源泉を、相互依存のもたらす機能的需要、ヘゲモニー国の戦略的な選. 択に加えて、米国の法と制度に基づく政治伝統に貫かれたシビック・ナショナ. リズム(civic‌nationalism)に求めている 20)。多角主義がいわば米国という国. の生い立ちと結びついていて、米国抜きの多角主義は想像しにくいことをほの. めかしているように思われる。従って、米国優位の揺らぎは、ストレンジのい. う4つの権力の一つ一つについてだけでなく、自由主義的で、多角主義的な国. 際秩序の存続如何という問題につながるのである。. . 17)‌‌G.‌John‌Ikenberry,‌“The‌end‌of‌liberal‌international‌order?”‌94─1 International Affairs‌(2018)‌ p.23.. 18)‌‌YOO‌Hyuck-Soo,‌“Development‌issues‌in‌the‌discourse‌of‌global‌constitutionalism”‌in‌ Takao‌Suami‌et‌al‌(eds.),‌Global Constitutionalism from European and East Asian Perspectives‌. (Cambridge‌University‌Press‌,‌2018),‌pp.351─376.. 19)‌‌J.G.Ruggie‌(ed.),‌Multilateralism Matters: The Theory and Praxis of an Institutional Form‌ (Columbia‌University‌Press,‌1993)p.11.. 20)‌‌G.‌John‌Ikenberry,‌“Is‌American‌Multilateralism‌in‌Decline?”,‌1─3‌Perspectives on Politics p.542.. 国際経済秩序の変動と国際通商・投資法. 15. その米国の優越的地位、そして、それに基づいている自由主義国際秩序が、. 特に中国の急速な台頭(sudden‌rising)とともに動揺している。. (2)中国の台頭と米中角逐. 中国の台頭については今更強調する必要もないくらいである。2010年 8月. に日本のGDPを抜き世界 2位の経済大国になったことを言うことで十分であ. ろう。問題は、中国の台頭が、世界中で、特に米国との関係で様々な問題を引. き起こしていることである。もともとリーマンショックまで米国と中国の間で. は通商関係において円満な関係が維持されていた。当初米国をはじめとする欧. 米のエリートたちは、中国のWTO加入が象徴するように、中国が世界経済に. 編入され、順調に経済発展を成し遂げるなら、成長した中産階級の言論の自由. などの要求により、中国大陸に西欧的な「良き統治」が到来すると期待してい. た。しかし、その期待がとうとう外れ、習近平国家主席の権威主義的体制が強. 化されただけでなく、中国の技術水準が目覚ましい進歩を遂げるにつれて、欧. 米諸国、特に、米国の対中国政策が一変した。. 米国は、依然として競争優位を持っているにもかかわらず、中国の追い上げ. の速さと、一路一帯政策のなりふり構わぬ進め方に焦りを隠せず、対中国包囲. 網の構築に乗り出した。「米国は、市場原理ではなく、政治的理由により、法. 律を用いて中国製品を市場から排除しようと動き出した」のである 21)。デジタ. ル・技術覇権を守るための「経済の鉄のカーテン」(economic‌iron‌curtain)22)‌. が、日常品か軍事技術か問わず、米国と中国を分け隔てるようになった。2015. . 21)‌‌小原凡司・桒原響子『米中新冷戦の幕開け』(東京経済新報社、2019年)4頁。中国に対 する欧米の警戒心を表す言葉が権威主義国家による世論操作をさす「シャープ・パワー」. (sharp‌power)である。とりあえず、The‌Economist‌(Dec.‌16th‌2017)‌p.9 と小原・桒原 の第 2章を参照。. 22)The‌Economist‌(May‌18th‌2019)‌“Special‌Report‌:‌China‌and‌America”.‌p.3.. 横浜法学第 29 巻第 2 号(2020 年 12 月). 16. 年中国は「中国製造 2025」を発表し 23)、人工知能(AI)や量子コンピューター. など先端技術の特許出願において、中国が先端10分野のうち 9分野で首位に. 立つなど、日米両国は中国に大きく溝をあけられる 24)。. 米国は、中国の動きに対応するために、米国のデジタル・技術覇権を守るべ. く、三位一体の法改革、すなわち、国防長官をヘッドとする国防授権法 2019. を 2018年 8月に成立させ、財務長官をヘッドとする外国投資リスク審査近代. 化法、商務長官をヘッドとする輸出管理改革法をそれぞれ制定し施行した。日. 経新聞の「核心」コーナーは、米国の技術死守の様子を「入り鉄砲に出女」と. 奇抜な比喩をして見せた 25)。また、他の連邦機関においても法改正がなされ、. 司法省の「チャイナ・イニシアティブ」、国土安全保障省は新しい「国家リス. ク管理センター」、国務省「グローバル管理センター」には新しいミッション. が与えられ、その任務が強化され、すでに活動がスタートした。. (3)現状の解釈. 現在の米中の角逐をどのように考えるべきか?その解釈をめぐっては、(i). 米国と中国が 2極をなし「新冷戦」の状態にいるという見方、(ii)覇権国不在. の「Gゼロ」の主張、特に、その変形として米国、欧州とアジアが並存する「ア. ジアの時代」が始まったという見方、そして、(iii)いまだ米国は覇権国とし. ての実体を維持しているという見方など、多様な見方が世間の認知を勝ち取る. ためにきしめいている。. (i)‌‌すでに 1990年代初めに中嶋峰雄が「米中新冷戦」を言い出してから、. 2019年年 5月The‌Economist 誌が「新しい種類の冷戦」(a‌new‌kind‌of‌. cold‌war)という特集を組むに至った 26)。同じような主張をする小原・. . 23)‌‌「中国製造 2025」については、小原・桒原『前掲書』(注21)第 3章を参照。. 24)日経 2020年 2月 12日日刊 1頁。. 25)日経 2018年 10月 29日日刊 6頁。. 国際経済秩序の変動と国際通商・投資法. 17. 桒原によれば、冷戦とは「直接的に武力を用いず、経済・外交・情報な. どを手段として行う国際的対立抗争」で、「双方が軍事衝突を避けつつ、. 自らの優勢を獲得しようとする行動の相互作用」である。そして、米中. 関係は、世界の覇権を争う「政治体制間競争」として構造化したとみる. べきであると主張する 27)。. ‌‌ これらの見方は「現状認識」であって、かつて、勢力均衡の機能する. 冷戦時代のような 2極体制の方が、それが機能しない 1極体制より優れ. ているとしたK.‌ワルツのような「規範認識」に基づいているわけでない. ことをまず指摘しておく 28)。ジャナン・ガネシュは、冷戦というのは、2. つの大国が角突き合わせているだけでなく、何らかの構造が存在し、残. りの世界の多くがいずれかの陣営に取り込まれている事態を指すが、現. 在はそのような意味での構造も秩序も存在しないと「新冷戦」論者を批. 判する 29)。. (ⅱ)‌‌上記の米中 2極対置というG2の見方に対して、8年前にイアン・ブレ. マーは『「Gゼロ」後の世界』という著作を出して以来、世界が 1つの国、. あるいは、一つのブロックが解決策を強いる力を持たない方向に向かっ. ているという主張が相次いている 30)。ジョン・ミアシャイマは、冷戦後. 米国を中心に栄えた自由主義国際秩序は、自由民主主義の不拡散、国際. 移動の増大によるナショナリズムの復活及び行き過ぎたグローバル化の. もたらした不均等発展という3つの要因により崩壊しかけていると主張. . 26)‌‌The‌Economist‌(May‌18th‌2019)‌“Special‌Report‌ :‌China‌and‌America”.‌N.‌Fergusonは 2019年通商戦争以後米中の間で「冷戦 II」が始まったという。“The‌new‌Cold‌War?‌It’s‌ with‌China,‌and‌it‌has‌already‌begun”‌New‌York‌Times‌Dec.‌17‌2019.. 27)小原・桒原『前掲書』(注 21)4頁。 28)‌‌ケネス・ワォルツ、河野・岡垣訳『国際政治の理論』(勁草書房、2010年)の第 5章を参照。 29)日経朝刊「オピニオン」2020年 4月 10日 6頁。 30)イアン・ブレマー、北沢格訳『「Gゼロ」後の世界』(日本経済新聞出版社、2012年)。. 横浜法学第 29 巻第 2 号(2020 年 12 月). 18. する。今後の世界は、現実主義の支配する多極化した国際秩序になるが、. 新国際秩序の役割は、世界経済の管理、軍備管理及び気候変動のような. 地球公共財問題の対応に限定され、その中で米国と中国がいわばサブ秩. 序を主導すると主張する 31)。. ‌‌ 「Gゼロ」や多極化という状態は、秩序を率いる覇権国ないし支配的な. 権力が不在である不安定な状態として否定的に描かれるのが普通である. が、P.カンナは、世界秩序が一つの国や同一の価値観に基づく秩序であ. る必要はないという。すなわち、19世紀の欧州化、20世紀の米国化に続. いて、21世紀に入ってからアジア化(asianization)という現象が現れて. いて、今後の世界は米国、欧州、アジアの3つからなるシステムによっ. て築かれるべきであると主張する 32)。世界の力が 3つの勢力に配分され. つつあることを前提にした、事実上の「Gゼロ」の主張であるが、中国. の覇権の可能性も否定するユニークな主張である。ただし、「アジア」が. 一つの「極」をなすという部分を含めて、世間一般の通念とかけ離れた. いまだ試論の域を超えるものでないといえよう。. (ⅲ)‌‌最後は、本稿の立っている立場であるが、中国の台頭が経済と軍事面で. 目まぐるしいことは事実であるが、いまだ米国の力には到底及ばないと. する見方である。ストレンジの4つの構造的権力を想起してほしい。中. 国の目覚ましい経済的な成長、先端技術分野における躍進、急増する軍. 事費などから、安全保障、生産及び知識分野で中国の挑戦が続いている. が、いまだどの分野においても、米国のそれを凌駕していない。確かに、. ナイのいうように、トランプ大統領になってから米国のソフト・パワー. . 31)‌‌John‌Mearsheimer,‌“Bound‌to‌Fail:‌The‌Rise‌and‌Fall‌of‌the‌Liberal‌International‌Order”,‌ 43─4‌International Security‌(Spring‌2019),‌pp.‌7─50.. 32)‌‌Parag‌Khanna,‌The Future is Asian‌(Simon‌&Schuster,‌2019).‌そして、日本経済新聞 2020 年 2月 20日、6頁。. 国際経済秩序の変動と国際通商・投資法. 19. は大幅に低下したが、まだ修復不能であるとまでは言えない。しかも、. 自らの覇権を譲り渡したくないと言わんばかりに米国が想像を絶する中. 国けん制を続けている間は、中国を含む他国の挑戦は至難の業であろう。. ただし、トランプ政権の新型コロナウィルスのパンデミック対応ぶりか. ら見て、今後米国地位の相対的な低下に拍車がかかる可能性は否定でき. ないと思われる。. 問題は、唯一の超大国として現行秩序を立ち上げ、維持してきた米国の衰退. と脱線によって、自由主義と多角主義に基づく国際秩序が危機に向かっている. ことである。この状態が長期化するならば、リーダーの役割を果たさない米国. の現状を憂える声が一層高まるだろう。. 3.アイデンティティ・ポリティックスの台頭 今日の国際(経済)秩序の変容を考える際に、前2者に劣らず重要な要因は、. 新自由主義に基づくグローバリゼーションの深化がもたらした社会階層の寸断. とその表れとしてのアイデンティティ・ポリティックスの噴火である。とりわ. け先進諸国における極右政党の躍進と移民排斥運動の蔓延、イギリスのEU脱. 退(Brexit)決定、そして、米国におけるトランプ政権の誕生がその最たるも. のである。以下では、D.‌グッドハートの「エニウェア族」と「サムウェア族」. の議論と、A.チュアの「トライバリズム(tribalism)」論の紹介を中心に今日. の現状について考えてみる。. (1)‌‌「エニウェア族(Anywheres)」vs.「サムウェア族(Somewheres)」 世界の既存のエリート層を震撼させたトランプ大統領の当選の背景に 33)、. . 33)‌‌フクヤマは、最近の著書の序文で、「ドナルド・トランプが大統領に選出されていなけ れば、本書は生まれなかった。」といっている。F.フクヤマ、山田文訳『IDENTITY』(朝 日新聞出版、2019年)9頁。. 横浜法学第 29 巻第 2 号(2020 年 12 月). 20. ラストベルト(Rust‌Belt)といわれる、アメリカ合衆国の中西部地域と大西. 洋岸中部地域の一部に渡る、脱工業化が進んでいる地帯の白人労働者層の圧倒. 的な支持があったことは周知のことである 34)。フクヤマの言うように、政治. 的左派の失策の積み重ねで、もともと彼らの武器だったアイデンティティ・ポ. リティックスが右派の手中にわたり、都市部のエリート層から、所得も中産層. としてのステイタスも、脅かされていた白人中産層が結束し、トランプの選挙. 運動を通じて固まっていった 35)。. D.グッドハートは、ベストセラー『The‌Road‌to‌Somewhere(どこかに続. く道)』の中で、2016年世界を震撼させた 2つの出来事─トランプ当選とイギ. リスのBrexit 決定─は、先進民主主義における新しい価値分断の表れである. という。敷衍すれば、イギリスは、「Anywheres」と「Somewheres」と呼ば. れる 2つのグループに分かれている。前者は、「どこでも(anywhere)」生き. ていける人々で、経済発展と社会的自由の強化という「2重のリベラリズム」. を広く支持する高学歴の都市居住者で、イギリス社会の20~ 25%を占める。. グローバル化の恩恵を受けた勝ち組で、長年イギリス政治を牛耳て来た。それ. に対して、後者は「ある場所(半径30キロあまり)(somewhere)」で一生暮. らしている、低学力の労働者や農家を中心に、人口の 50%を占める。保守的. で親交を大事にするので、Anywheres よりもグループ・アイデンティティを. 強く持っている。グローバル化の波に乗っていない人々で、長年政治には無関. 心であったが、最近自分たちの不満が無視され続けていることにいら立ち、逆. 襲した結果がBrexit であるという。グッドハートが指摘するもう一つの変化. は、階級や経済問題については従来の価値グループの間で交差・収斂現象がみ. られる一方、文化的な意味における安全やアイデンティティにおいてはますま. . 34)‌‌これについては、ジョーン・C・ウィリアムズ著、山田・井上訳『アメリカを動かす「ホ ワイト・ワーキング・クラス」という人々』(集英社、2017年)を参照せよ。. 35)フクヤマ『前掲書』(注 33)224頁。. 国際経済秩序の変動と国際通商・投資法. 21. す分散していることである 36)。. (2)「トライバリズム(tribalism)」論. A.チュアの「トライバリズム(tribalism)」論も、アイデンティティ・ポリ. ティックスという同じ現象を別の言葉で表現している 37)。彼女は、人間は本. 来種族生活をする動物(tribal‌animal)でグループ・アイデンティティは所与. のものであるが、従来政治学や国際関係においてトライバリズムの力は議論の. 対象に含まれてこなかった。政治家はイデオロギーに、経済学は人間組織の重. 要単位として国民国家を想定して、議論した。そのために今日世界で起きてい. ることだけでなく、自分の社会で起きていることすら正しく見ることのできな. い状態が招かれた。ベトナム、アフガニスタンやイラクで起きていることは、. まさに「トライブ(tribe)」の理解なしには、正しくとらえることはできない. という。. 対岸の火事だと思われたトライバル・ポリティックスが民主主義の国の米国. で花咲いたのがトランプ現象の出現である。米国国民の誰もが民主主義の統. 合力を疑わなかったが、今や民主主義はゼロ・サムの政治的トライバリズム. (political‌tribalism)へ堕ちたのである。. その背景には、まず、人口構成における変化で、長い間マジョリティをな. していた白人の人口が減少したことであり、次は、白人の中で「コースタル・. エリートたち(coastal‌elites)」と呼ばれる「市場を支配するマイノリティー」. (market-dominant‌minority)が出現したことである。長い間市場を支配する. グループを出さないで相対的にまとまっていた白人社会に階級ラインが引かれ. . 36)‌‌David‌Goodhart,‌The Road to Somewhere: The New Tribes Shaping British Politics, (Penguin‌ Books,‌2017)‌p.ix.. 37)‌‌Amy‌Chua,‌”Tribal‌World‌:‌Group‌Identity‌Is‌All”,‌Foreign Affairs‌(July/August‌2018)‌p.25,‌ Also,‌Amy‌Chua,‌Political Tribes : Group Instinct and the Fate of Nations‌(Penguin‌Press,‌2018).. 横浜法学第 29 巻第 2 号(2020 年 12 月). 22. るようになったのである。コースタル・エリートたちは、どのエスニシティに. も属さないで、世俗主義・多文化主義・性的少数者への寛容さ・移民に好意的. で、進歩的政治を好むという、コスモポリタン的な価値を享有し、文化的に別. カテゴリーをなしたことから、白人労働者階級という「本物(real)」のアメ. リカ人たちの結束をもたらし、トライバリズムの政治化が生じたというのであ. る。政治的トライバリズムの下では、人々は、他のトライブに属する人々を、. 単に見解や考えが異なる反対者でなく、不道徳で、悪魔で、非アメリカ人であ. ると罵る。. (3)アイデンティティ・ポリティックスの帰結. フクヤマによれば、現代の自由民主主義諸国は、「尊厳の承認を渇望する心. の働き」である「テューモス(thymos)」の問題を完全に解決して来なかった. という。「テューモス」には、「アイソサミア(isothymia =対等願望)」と「メ. ガロサミア(megalothymia =優越願望)の 2つがあるが、テューモスには自. 由民主主義を脅かす可能性が潜んでいた。50年にわたる自由主義的な世界秩. 序の中で進んだグローバリゼーションの恩恵がすべての人々に均等にわたらな. いで、とりわけ先進民主主義の国内で格差が劇的に拡大した。そして、知識革. 命によりインターネットが大量伝達のプラットフォームを提供した時に、民主. 主義の価値が拡大するどころか、「アイデンティティの政治」が台頭したので. ある 38)。1980年代と 90年代に(多)文化をめぐる政治の中で初めて登場した「ア. イデンティティの政治」はいまや先進民主主義諸国と自由主義国際秩序の存立. と未来を左右する主要要素となった。. フクヤマはアイデンティティやアイデンティティの政治に対処する処方箋を. いくつか提示しているが 39)、本稿ではアイデンティティ・ポリティックスが. . 38)フクヤマ『前掲書』(注 33)224頁。. 39)フクヤマ『前掲書』14頁。. 国際経済秩序の変動と国際通商・投資法. 23. 国際秩序に落としている影響に注目することで十分であろう。. まず、「アイデンティティの政治」が、自由主義国際秩序の下で進んでいる. グローバリゼーションの流れを止めるか、後退させる可能性を持っていること. である。Somewhere階層が、グローバリゼーションのもたらす富より、国民. 国家の中の安全やアイデンティティを重視すると、主権と自治の名の下で国民. 国家に回帰する求心力がはたらく 40)。次に、中長期的には、統合を推し進め. てきたEUが危機に直面することである。というのは、EUはドイツ、フラン. スを中心とするコアグループと、ユーロ圏から離脱する第 2グループ、さらに. 距離を置く第 3グループへと多層化していく。こうしてEUはより緩やかな連. 合体へと変わっていく危険性が指摘される 41)。第三に、多くの場合「アイデ. ンティティの政治」は移民排斥と結びつく。移民がもたらす多様性と繁栄より、. トライバリズムの力学が働くのである。現在 2.7 億人もの移民による本国への. 送金額が先進諸国の提供するODA(政府開発援助)総額を大きく上回ること. を考えると 42)、移民排斥のもたらす影響には甚大なものがある。最後に、今. のトランプ政権のように、「アイデンティティの政治」は自由貿易に対して否. 定的であることである。ナショナリズムに基づいて主権と規制権を守護するた. めに保護貿易と「管理貿易」へ流れがちになる。. . 40)Goodhard,‌supra‌note‌36.,‌P.26.. 41)‌‌https://www3.nhk.or.jp/news/html/20191227/k10012229021000.html(最終アクセス日: 2020年 11月 15日).. 42)‌‌https://www.sankeibiz.jp/macro/news/181022/mcb1810220500006-n1.htm(最終アクセ ス日:2020年 11月 16日).. 横浜法学第 29 巻第 2 号(2020 年 12 月). 24. Ⅱ.何が起こっているのか?. 第 I部では、現行国際(経済)秩序の基底における3つの構造的変動要因に. ついてみてきたが、第Ⅱ部では、それらが国際経済秩序にどのように影響して. いるのかについてより具体的にてみていきたい。. 1つ目は、トランプ政権の登場によりよりクローズ・アップされるように. なった、国際通商の基調が、「自由・無差別」貿易から「公正で相互的な」貿. 易へ力点が移動していることの意味についてである。2つ目は、安全保障を理. 由とする貿易措置の多用(乱用)による「貿易政策と安全保障の接近」現象を. 取り上げる。3番目は、戦後国際経済体制の 3つの柱の 1つであり、多角主義. のシンボルであるWTOの直面している危機について見る。最後に、国際投資. レジームにおいて生じている葛藤について見る。. 1.「公正で相互的な(fair‌and‌reciprocal)」貿易とは何か? 2020年 2月 5日午前 11時(日本時間)から行われたトランプ大統領の大. 統領就任後3回目の一般教書演説には、現在の国際経済秩序の現住所が如. 実に現れている。4年前の大統領選挙キャンペーンの時から繰り返し強調し. てきた「アメリカ・ファースト」の象徴するナショナリズムが演説の隅々. に横たわり、第2次世界大戦後米国の対外政策の主要基調である国際主義. (internationalism)の漂いはどこからも嗅ぐことができなかった。そこには第. 2次世界大戦後米国が打ち立てきた国際経済秩序の「自由・無差別・多角主義」. (free,‌nondiscriminatory‌and‌multilateralism)の標語は跡形もなく消えている。. 自由・無差別な貿易の代わりに、何度も強調されたのは「公正で相互的な」(fair‌. and‌reciprocal)な貿易であり、WTOに象徴される多角主義の代わりの二国間. 主義であり、その先駆けであるカナダ、メキシコとのNAFTAの再交渉でい. かに米国に有利な結果になったか延々と自慢していた。Iで見てきたように、. 今の米国の通商政策の基調に見られる変化は、トランプ大統領個人のパーソナ. 国際経済秩序の変動と国際通商・投資法. 25. リティによるものが大きいが、それだけでは説明がつかない構造的な変動が起. こりつつあることに留意すべきである。. (1)トランプ政権の通商政策. トランプ大統領当選後最初に公表されたUSTRの「2017年通商政策アジェ. ンダ及び 2016年年次報告書」では、2017年の通商政策目標であるとともに、. あらゆる行動の指導原則は、「すべての米国人にとってより自由でより公正な. (freer‌and‌fairer)やり方で貿易を拡大する」ことであると宣言する。そして、. 2017年の優先課題として、(i)WTOの紛争解決手続が米国の権益を侵食する. ことのないように、米国の通商政策に対する主権を守ること、(ii)貿易救済法. と、通商法 301条をはじめとする、あらゆる米国の通商法を厳格かつ有効に執. 行すること、(iii)米国生産者が他国の市場に公正かつ相互的なアクセスを享. 有するためにあらゆることを行うこと、最後に、(iv)以上のために、新しく. てより有効な貿易協定を交渉すること、を挙げている。. 問題は、これらの目標が、多数国間の交渉でなく、二国間交渉によって、あ. るいは、上記の目標が貫徹していない既存の通商協定を再交渉するか改定する. ことによって、そして、単独行動主義(unilateralism)によって達成されてい. ることである。実際に、トランプ大統領は、就任早々(i)TPPから脱退し、(ii). NAFTAや米韓FTAの再交渉に着手し、(iii)1962年通商拡大法 232条とい. う、タンスにしまっていた古い通商法を持ち出して手入れし、(iv)議論して. いた国境調整税の導入を取りやめる、などを行った。就任後丸 3年以上が経過. した現在NAFTAと米韓FTA交渉はトランプ大統領の自画自賛の下で終了. し、1962年通商拡大法 232条に基づく安全保障を理由とする追加関税の賦課. という単独行動主義へひた走ってきたことは周知の通りである。. 気を付けなければならない点は、トランプ政権の主な通商政策の基調は、ト. ランプ政権独自のものでなく、従来の政権の路線と根本において変わるもので. はないことである。貿易が自由であると同時に公正であるべきことは代々の. 横浜法学第 29 巻第 2 号(2020 年 12 月). 26. USTRの変わらぬスローガンであったし 43)、歴代米国政権は、多国間の交渉. と二国間交渉を並行し、1980年代のレーガン政権のように、必要な時には通. 商法301条を振りかざして単独行動主義へ走ることを厭わなかった。. ただし、1980年代のレーガン政権とトランプ政権が決定的に違うのは、レー. ガン政権時の米国の単独行動主義には、確かに米国の優位への不安がなかった. わけではないが、崩壊寸前のガット体制を立て直すためである、ある種の「正. 当性(legitimacy)」があった。故R.ヒューデックは当時の米国の単独行動主. 義は、国内における市民の抵抗権同様、ガット体制を救うための「正当化さ. れ得る不服従(justified‌disobedience)」に値すると主張した 44)。そして、バー. ヤドとエリオットは、米国の単独行動主義を攻勢的な多角主義のためのツール. (tool‌to‌aggressive‌multilateralism)であると評した 45)。ウルグアイラウンド. 時のガット事務局長であるダンケルはのちに「それ(米国の単独行動主義)は. 米国が多角的な通商体制のためにやった最高のものであった。ウルグアイラウ. ンドにおいて、ルール・ベース・システムを強化する努力のせいで、世界が一. つにまとまることができた。」と評したのである 46)。. (2)「自由貿易‌vs.‌公正貿易」のレトリック. トランプ政権の通商政策目標であるとともに指導原則である「すべての米国. 人にとってより自由でより公正な(freer‌and‌fairer)やり方で貿易を拡大する」. . 43)‌‌1984 年当時のUSTRのヤイタ―は、米国通商政策の基調は「自由で開かれた、ただ し、衡平な競技場における公正な貿易(“free‌and‌open,‌but‌fair‌trade,‌on‌a‌level‌playing‌ field”)であると強調した。. 44)‌‌詳しくはR.E.Hudec,‌The GATT Legal System and World Trade Diplomacy,‌Praeger,‌1975‌ を参照せよ。. 45)‌‌T.O.Bayard‌and‌K.A.Elliott,‌Reciprocity and Retaliation in U.S. Trade Policy‌(Institute‌for‌ International‌Economics,‌1994),‌ch.13.. 46)‌‌D.A.‌Irwin,‌“The‌False‌Promise‌of‌Protectionism‌:‌Why‌Trump’s‌Trade‌Policy‌Could‌ Backfire”,‌Foreign Affairs‌(May/June‌2017)‌p.45.. 国際経済秩序の変動と国際通商・投資法. 27. とは、どういうことを意味するのか。「自由貿易」と「公正貿易」が横並びになっ. ているのはどういう意味であり、そもそも可能であるのか。. 不思議に思われるかもしれないが、「より自由な貿易(freer‌trade)」は「公. 正な貿易(fair‌trade)」とは背中合わせの関係にある。「より自由な貿易」とは、. 各国が自分たちのお家の事情を踏まえつつ交渉によって貿易を自由化していく. ことであるが、貿易自由化は公正なやり方で行われる(不公正なやり方で行わ. れてはならない)ことが求められている。というのは、ある国で貿易を自由化. していくためには、海外市場へ進出するために国内市場を明け渡すことやむな. しと割り切る輸出産業と、主に国内市場で販売する在来産業の場合とは、利害. 関係が大きく異なる。貿易の自由化が実現するためには、貿易自由化のもたら. す輸入競争に晒される後者の不安に応える必要がある。そのために、一定の場. 合輸入競争から国内産業を保護する貿易救済手続(trade-remedy‌procedures). が考案された訳であるが、その際米国では輸入競争の原因を公正なものと不公. 正なものに分けて対応するやり方がとられたのである 47)。. 問題は、「(不)公正」概念のとらえにくさ(elusiveness)と、そのレトリッ. クに随伴する帰結である。. まず、前者の問題であるが、何が「(不)公正」であるかの判断は、基本的. に規範的なもので、ある社会の政治的な決定にかかる問題である。今日の「(不). 公正」概念には第2次世界大戦後覇権国である米国社会のそれが色濃く投影さ. れている。そして、「(不)公正」概念は、永久不変なものでなく、時代ととも. に変化するもので、19世紀後半に現れてから絶えずその外延が拡大されてき. た。当初輸入競争をめぐり打ち立てられたが、1970年代に入って他国市場へ. の参入障壁、すなわち同等なアクセス(equal‌access)の拒否に対しても不公. 正のレッテルが張られた。最後に、「(不)公正」概念には、主に輸入競争にさ. . 47)柳赫秀『ガット 19条と国際経済法の機能』(東京大学出版会、1994年)第 2章。. 横浜法学第 29 巻第 2 号(2020 年 12 月). 28. らされる民間企業や政治家がそう思っているイメージや行為が中核にある。そ. れが集約されているのが「衡平な競技場論」(argument‌for‌level‌playing‌field). である。すなわち、競技が衡平であるためには運動場が平らであるべきでどち. らかのサイドに不利な仕掛けがあってはならないことをいう。「平ら」かどう. かは市場における既存の生産者を基準にして判断される。. 次に、「(不)公正」のレトリックは、貿易自由化に反対する勢力だけでなく、. 一般大衆に対してもとても強力な訴える力を有する。当初貿易自由化を進める. ために保護を求める勢力との妥協策として組み込まれたのであるが、のちに「不. 公正貿易慣行に対抗するために報復措置を用いるのは保護主義でなく、貿易歪. 曲行為から自由な世界市場を守るための行動である。」48)というレトリックに. 変わっていった。それとともに、貿易自由化は、公正なやり方で行われなけれ. ばならないだけでなく、不公正な結果をもたらしてはならないという結果の平. 等が主張されるまでになった。. 「(不)公正」概念の内包・外延が拡大する中で、それと結びついた相互主. 義(reciprocity)概念は、一昔前の貿易相手国のがともに利益を得る(mutual‌. interests)ポジティブな意味の「互恵主義」から、同等な取扱いが得られなけ. れば報復を辞さないネガティブな意味の「相互主義」に代わってきた。トラン. プ政権の求める「より自由でより公正な(freer‌and‌fairer)やり方」は以上の. すべての側面を合わせ持っていると言えよう。. (3)ガット・WTO体制における「自由貿易‌vs.‌公正貿易」のレトリック. ガット・WTO体制においては「自由貿易‌vs.‌公正貿易」のレトリックはど. のような位置づけを与えられているのか。国際平面と国内平面が分析のレベル. として異なることは言うまでもないが、戦後の国際経済秩序の一角を占める. . 48)D.A.‌Irwin,‌supra‌note‌46.. 国際経済秩序の変動と国際通商・投資法. 29. ガット・WTO体制には、その形成と維持を主導した覇権国米国の影響が色濃. く反映されている。その「影響」は、単なる米国社会の国内政治経済や規範意. 識のスピルオーバーを超え、ガット・WTO体制の規範内容にまで及んでいる。. ガットは、1934年から 1943年の間に米国の 1934年互恵通商協定法に基づ. いて締結された30余りの二国間通商協定の経験を多角化したものである。し. たがって、ガットの貿易自由化は、各国内における貿易自由化を望む産業と輸. 入競争から保護を求める産業間の妥協と、その妥協に基づく貿易自由化の互恵. 性が確保されなければならない宿命を背負っている 49)。. この宿命には、ガットにおける貿易自由化は、各国の産業=生産者間の互恵. 性が確保されなければならないこと、そして、その互恵性が貿易政治における. 国内的妥協を担保するという意味が込められている。貿易自由化レジームとし. てのガットには生産者の立場の優位という生産者バイアスと、それに基づく互. 恵性(相互主義)の確保が至上命令として刻印されているのである。多角的貿. 易自由化レジームであるガットにおいては、貿易自由化が互恵的に進み、その. 利益が最恵国待遇によってすべての締約国に均霑される間は表面化しないが、. 互恵的均霑の流れが止まるか、レジームの一部に逸脱が生じたら、たちまち貿. 易の不公正性が相互主義の要求として顕在化し、国内貿易政治における妥協に. 生じた亀裂が貿易救済手続へ重くのしかかることになる。貿易自由化と貿易救. 済手続のジレンマである。. 不公正のクレームが出るもう一つの理由は、個々の貿易自由化ディールにお. ける互恵性(first-difference‌reciprocity)の確保が必ずしもレジーム全体の最. 適のパフォーマンス(full‌reciprocity)を意味しないことである 50)。ゲームの. プレーヤーの数が多い多角的レジームにおいてよく起こることであるが、契約. . 49)‌‌柳赫秀「国際通商法における『公正・不公正貿易の区分』のレゾン・デートル(二)」『エ コノミア』第41巻第 2号(1990年 9月)38─52頁。. 50)‌‌Jagdish‌Bhagwati,‌The World Trading System at Risk‌(Princeton‌University‌Press,‌1991),‌p.50.. 横浜法学第 29 巻第 2 号(2020 年 12 月). 30. 的な性格を帯びる貿易自由化レジームにおいては、上記の二つの相互性の間の. ズレがたえず思わぬ形で噴出しかねない。関税障壁の削減が成功裏に進行した. ことで非関税障壁の問題が顕在化した1970年代以降のガット、そして、2000. 年代に入って中国の加入とBRICsの影響力増大によって米国・EU主導が脅. かされたことで危機に直面しているWTOの歴史がそれを証明している。. しかし、「(不)公正」概念とそれと結びついた相互主義の主張には、前述し. た「(不)公正」概念の曖昧さと規範的な主張内容の論理一貫性の問題はさる. ことながら、実際にそれをいかに評価し、どのように適用するのかという厄介. な問題が備わっている。すなわち、(i)不公正主張の操作可能性(workability). ─どのレベルで、どのように事実判定をして政府措置を特定するのか、(ii)‌. 主張内容の責任主体性(帰属問題)─政府の(意図的な)生ぬるい執行(lax‌. enforcement)の場合のように、どこまで国家の責任に帰すべきか、の問題で. ある 51)。. (4)米国による「公正性」定義に対する日本の反論. 米国主導の「自由貿易‌vs.‌公正貿易」のレトリックに対していち早く反旗. を翻したのは日本であった。日本は、1980年代にピークを迎えた日米貿易摩. 擦を通じて、米国をはじめとする世界中の国々から散々「不公正な国」、「歩. み寄れない資本主義(irreconcilable‌capitalism)」などと批判された 52)。そ. して、日米貿易不均衡是正のための「日米構造協議(Structural‌Impediment‌. Initiative)」の開始を余儀なくされ、とうとう国内市場開放における数値目標. . 51)‌‌Kenneth‌W.‌Abbott,‌“Defensive‌Unfairness:‌The‌Normative‌Structure‌of‌Section‌301”,‌in‌ Jagdish‌N.‌Bhagwatiand‌Robert‌E.‌Hudec‌eds.‌Fair trade and Harmonization: Prerequisites for free trade?‌Vol.II‌(MIT‌Press,‌1996)‌p.448.. 52)‌‌Fred‌Bergsten‌and‌Marcus‌Noland,‌Reconcilable Difference?‌(Institute‌of‌International‌ Economics,‌1993).. 国際経済秩序の変動と国際通商・投資法. 31. まで突き付けられた。. 日本政府は、ウルグアイラウンドの目途が立った1992年に当時の通商産業. 省の肝入れと鉄鋼産業の資金で1980年代後半発足した「公正貿易センター」. を通じて日本版「不公正貿易報告書」を発表した 53)。同報告書は、米国・EC. に倣い、主要貿易相手国の通商政策・措置を「告発」する第1部と、WTO協. 定の解説と主要紛争解決事例を分析する第2部からなっていたが、年々内容を. 充実させ、2000年代に入ってからは経済連携協定・投資協定の第 3部が追加. され、2020年ですでに 29回目を迎えている。. 同報告書は「序論 本報告書について」において、報告書の主要目的として、. (1)WTO協定、経済連携協定等の国際ルールの遵守の確保、(2)国際ルール. についての理解促進を掲げつつ、貿易政策・措置の「公正性」についての基本. 的視点として「ルール志向型基準」と「結果志向型基準」を提示する。同報告. 書がよって立つ「ルール志向型基準」とは、各国の貿易政策・措置の公正性を. 評価するにあたって国際的に合意されたルールを基準とすることである。それ. に対して、「結果志向型基準」とは、特定国との貿易に関し貿易収支の不均衡や、. 特定産品の輸出の低迷といった自国の意に沿わない「結果」が生じている場合. に、その「結果」のみを理由に、相手国が採用する政策・措置を「不公正」ま. たは「不合理」と認定する基準である。. 同報告書の採用するルールとは、第一は、WTO協定で、第二は、WTO協. 定以外の国際条約、国際法上の基本原則その他の国際慣習法である。後者は、. WTO協定が対象とする分野又はWTO協定が対象としない分野について締結. . 53)‌‌公正貿易センターは、米国輸出の際に最も頻繁にダンピングの疑いをけられてアンチ・ ダンピング税の対象になっていた鉄鋼産業が資金を提供して立ち上げられたある種の日 本型ロビー団体であった。設立されてから通商産業省の肝入れでガット・WTO紛争事 例の研究・米国やECの貿易救済手続運用状況の調査と報告書刊行、関係国への研究調 査の実施及び JICAからの委託事業で途上国官僚へ国際通商投資関連教育の実施などの 事業を行っていた。. 横浜法学第 29 巻第 2 号(2020 年 12 月). 32. される国際条約や、国際法秩序を支えるその他の国際法規範であり、WTO協. 定を補充するものである 54)。. 同報告書が、「ルール志向」基準を採用した背景には、まず、1990‌年代前半. に米国が、しばしば相手国の貿易政策・措置を「結果志向」的基準で評価する. 傾向が台頭し、特定の外国産品の市場シェアや輸入額等の具体的な結果の達成. (数値目標)を相手国に要求したことである。同報告書は、そのようなやり方. では、客観性が欠如するだけでなく、容易に「管理貿易」に転化しかねないと. 指摘する。次に、1995年のWTO発足でそれなりに有効な国際ルールがそろっ. たことである。ただし、報告書は、もし有効な国際ルールが存在しない場合に. は、まずルールの定立を期すべきであり、国際ルールなしに公正・不公正を論. ずるべきではないとの立場である。. 1990年代初めに同報告書が刊行され「ルール志向」が日本の通商政策の基. 本的理念になったことは、大きな転換であった。というのは、1980年代まで. のガット時代日本は、ECとともに、貿易紛争を、法的解決手段よりも、交渉. を通じて円満に収める国として数えられていたからである。日本が、ルールに. 基づく解決を基本的理念として掲げるようになったのは、まず、ガット加入時. ヨーロッパの国々を含む14の国によるガット 35条の「不適用条項」の援用が. 1980年代初めまでに解消したこと 55)、次に、ウルグアイラウンドの進行とと. もに日米貿易摩擦が収束しかけたこと、最後に、日本における法学の実証主義. 的な風土などが背景として考えられる。言い換えれば、ルール志向を標榜し難. . 54)‌‌WTO協定以外の国際条約の例としては、経済連携協定・自由貿易協定、投資協定、二 国間の経済・通商事項を規律する二国間条約、WTO以外の多数国間条約が挙げられる。 また、成文法の形をとらない国際法上の基本原則その他の国際慣習法はすべての国家が 当然に遵守すべき規範である。. 55)‌‌日本企業の低賃金に基づく優れた競争力を知っていたヨーロッパ諸国は、日本のガット 加入の際に、特定の国との間で法律関係を生じさせない35条を援用し、日本に対する 差別待遇を続けた。日本に対する諸国の35条援用は 1980年代初めまで続いた。. 国際経済秩序の変動と国際通商・投資法. 33. くしてきた外枠が外れ、法実証主義的スタン�

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