川■川.1 ㌦督iiiZl
教シ
大検
岡巡 礼
赤 土 の 高 の 地 理
一 昔 備 高 原 巡 検 記 ‑
1965
岡 山 大 学 教 育 学 部 社 会 科
地 理 学 教 室 編 著
7
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(ー山将)
21101162734
岡山大学附属圃義仲
お世話になった
門地の如入会い
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竹井盆地形成史を
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吹
序 にか え て
‑ ・青 備 高 原 の 比 較 地 理 学 的 研 究 序 祝
石 田 寛.・‑‑ ・・.・・・1 1 第一縞 総 論
t 赤土に上せで ・・‑・・・・・・ ・・L・・・・・・・・・・・・・・・宋 田 兄 己 2,巡検地域の地究地形あれ これ・‑ ・・‑・簾 田 克 巳 i 吉備高原 と私 ‑・‑・・‑・・・‑・・・・・・・・・‑・・米 村 昭 二 界二柵 各 輸
弟・一章 併和高原
1 概観 2 旭川にそ って 5 地形 と地井 4 盛業 5 年 中行事風俗 習恨 占 占い と方貫
弟二葦 円城高原
1 概観 2 気象気候 5 良薬 4 村の変貌 5 村閣欝遁 占 宗教
7 食生活 8 通過儀礼 9 天気占い 1 0年 中行事 11 交通
1 2 子 ども会 15 加
風
JJq・の民家 日 中学卒菜生のゆくえ 1 5 人 口流 出 とその歴史的背景 16 近世 の加茂郷 17 加茂市場の今昔 18 加茂山開拓村 弟三貴 竹荘盆地l 概観 2 気象気候 5 集落 4 土地利用 5 村の変貌
d 交通 と観光 7 農民運動 8 講粗冶合 9 通過儀礼と万雷 10 年 10 年中行事 11 生活 12 賀陽町雑感
第三綿 小研究報告 ,随想
1 地放論研究10年‑ ・・:::::‑・‑‑・‑蒲 田 正 規
2 社会科学習VCかけ る統計的 ...・・・・..・・・"・連 票 公 彦‑‑ ・・‑I.・.・・・‑A‑‑ ・・・・・‑ 129 実科の活用についての‑拭集
5 蚊家 とい うところ・・・・・・・・・・・・・・・・・‑・・岡 野 尚 子‑・・‑・‑‑・・・・・・・・・・・・.・・・.・・・・・‑‑‑・‑ ・・・・155 4 中学1如こおける地理教育#慮‑‑・・塩 EE] 一 弥
5 新 しき生活あれ これ・・・.・・‑・・ ・・・・・・・若 狭 紗 ‑‑・・‑.I‑・・・・・・‑・=・日.・・・・・・日.・・・・.l・‑ 1 5 ム
肘 舟 ‑‑‑ 肺 項 目
‑ 一 巡枚概況 巡検参加者
縞 集 後 配
虫 巡 碩 コ ‑ ス 略 図
ノ 「rI. 了 ..†
帖首ノ 任 町
.‑・ノ//∫.‑ヽヽ
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二 上山
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序 に か え て
青 柳布原 の比較地理学的研究序祝
石 田 寛
地理巡 検 シ')‑ ズ第 4集 「赤 土 高 原 の地理 」‑坪 和高原 ・円城詰原 ・竹荘盆地巡検記録が ‑ いよいよ出 るよ うにな った。音 ひに耐 えないO
学生 の納寮聴取 を中心 とし,敬 重関係者U)/ト論 をhlえた ものであ るO大型バ ?・に人 a)子 を一杯つ めこんで,狭い攻 っほい泊 をぶ っ飛 ば す旅行 が「股化 してい く今 日, リュックサ ックを背負 って 静か な山野 を三泊四 日の 日程 で歩 きなが ら, 自照 人 文 地 盤 を調べ た もので あ るれ こa)旅 U)記 緑は,′ト旅行の11とデル とい ささか 自負 してい ろ. この巡検記録が, ここに こ うして出 るの も, お節 lL旭町 ) 。円城 (加茂川町 ) 。塩野 (頚 脚 J)の各町役場 。教育褒Li会 な らびに地 元関係 者 uJ'(占泊,調速 に対す る心 からの御簸 力C)腸 であ る。 ここ に記 して#謝 す る次第 で あ る。
今年 もまた多数J)卒業生が毎年一回出版 されるこ0̲)巡楢 己録 に,研 究教育 の一端 を抵そって報告 して下 さったこ とは欣快 の9‑;りで あるO なおまた今回 は 日本 史の谷 口先生が ..‑Iii‑郡大学 人文科学研 究r‑・fT報'‑講‑一約 20号に発表 され た論文Uノー部 をさらに 具体化 して特 別範 就 くた され た。そ してまた 社会学の米村先生 は青析相投の村 々で研究 され て いる宮座 と同族 にふれ たが ら,研究の きひしぎ 4余 しさ とその重要性 を述べ た好論 を本誌の ため に特 別寄稿 されたo厚 く御礼申 し上げ る次第で あ る。
今 回の巡検 範剤 は中部青鯛市原 一 切和 高原, 円城高風 竹荘盆地 であ るo この3つ Cj同房は まこ とに興味 深 い所 であ る。旭川琉球吉備柑 京の特 色一自然的に人文的に ‑を遭惜 な く提示 して いる。
吉備高原の典 型的 な掛 ・よ砧梁川, こ とにその支流成羽川流 域 においてみられるQそこではV字 型の若い谷が旧輪姐 の隆起準平 原 を深 く刻 んで托jt,谷底に は集 落が少 な く,胸突八丁の急板 を 登 りつめ ると,そ こにかつ然 と苗原がひ らける.,田畑 .里のあるこの景観 にだれ しも帯異の眼 を
見張 るのである。
大賀台地,柑暫 台地 などの石灰岩 地鑑の ところQ)市 原が もっともみ ご とで ある0
‑ 1‑
ところが東に行 くにつれ て,平坦な拓原,険 しい谷 ・‑ 幼年期 地形の特徴 一 一はそ の特徴 を失 って行 く。巡検子 の眼 をたの し ませ て くれ る乗 しい マメロ ン(乳罪状玄武岩鰭 )も高梁川 を束に 越す と見られ ない。市梁川 か ら旭川,吉井川へ と兼 するlこつれて, おだやか なそ して なだ らか な 地形 にな ってい く。 谷底平野は広 く,平坦 な市原面 は低 くな り,集落 も高原上 よ り谷底平野に な ってい く。 すなわち侵 蝕の ステー ジが進 んでい ることを示 して いる。吉井川務域 では和束郡北部 英田郡南部にわずか蘇原集 落がみ られ る程度であ るO
そことて苗原 画の侵 蝕がす すんでい るの で,川上 誹でみ られる よ うに,数 百米の高原上 にい る こ とを忘れ させ るようにひろぴろと した地形 ではないO
昔井川はその谷底平 野が広 く,その うえ 大きな盆地 を持 ってい る. その盆地は中国山地 青傭 高 原 のなかで もっとも広 く古 くか らF醗 され,古代住居地大塊操 な集塵 退柄 があ り,周虻 ・佐伯 ・ 和気の′ト盆地 にも′J、威 榛 なが ら条里丑nTjが 誕め られ,吉井 川谷底平 野形成の古 さを示 して いるO
旭川流域の地形は,段蝕輪辿 の うえか らみ ると,きわめて幼い苗梁川の地 形 と. かな り年経 り た吉井川 の地形 との中間 ステー ジに仕舞 する とい えよ うB す なわち谷鹿平野 もある程度 発達 し, 福渡建部盆地には粂 砂 也割 も突施 されてい たのではないか と想 像される所 もあ るG
吉備 拓原 の開析皮か らみた旭川流域の位怒づ けは上 述のごとくで,侵 蝕 の ス テ ー ジがかな り 進んではいるが ,それで もなお平坦な市原面が ある硬度残 って いるO上述のか締]高原 。円城高原
.竹荘 盆地は旭 川棚 卸 こあ り,その支流錨 札 加茂JrT,皐音)'lL上流にある高原 ない し盆地 で ある。 高原 居住地 として この3つの ブロックには共通性 が多いD
低比 。生 産性 ・僻 地性 などは望 ましくない共通性で あろ うが,貨革の快適 な温湿度 ・汚染 されて いない空売 と縮 流,純朴 な人情 などは郡市 にはみ られ ない共 通利 点であ る。 この よ うな大局的共 通性 に もか かわ らず上述 の3つ の ブロ ッ クにはかな り著 しい轟異 もみ られる。
排和 と円城は苗原 の旧輪舶 の偉蝕面であ り,竹唯 は高原の 旧輪泊 の唯樹面 である。私 たちは坊 和 か ら円城 ・竹洋へ と沸北か ら西南 へ と歩 いたのであるO東 か ら西 に行 くにつ れて市原 面は高度
を凄 し,その広 さを加える.高原面 の勾配 も3つ の芯原 の うち西J‑)ものほ どゆ るやか であ るo 高度 .欠席己。広 さ,この3つの地形的要妙 ミ,変乱 産 策に大 きな膨 呼 を与え てい るO 切和か ら 旭川 の谷へお り,ある程 度谷癌のある豊岡川o)谷 をd)は りつ め,川 のlrfl上洗瓢k す なわ ち商流す
る九億川 との分 水界に,寺 あ:抄,人家 あり.幣居躯蕗が ある
。
畑昨U)卓越 す る楢原か ら,急坂 を高 度 勾 配 広 さ 地 形 面 竹 荘 盆 地 30 0‑ 4 00 も
っ
と も 平 乱 半 径 2 臥 堆 横 面 円 城 布 原 300‑ 350 か な り 平 坦 半 径 4 臥 堆 蝕 面 妨 和 布 原 300前 役 や ゝ 憤 斜 半 径 6 En 堆 蝕 面加茂川の谷へ降 り,宇甘JlEにそって再び高原 へとのは る。超秒点 をこえて上流 に行 くにつれて, 身 也は広 くなa G 広大な竹荘盆地の家並 ,町がか った集落景鰍 ま,純朴TL坪和 の漸 谷景観 とr・'D著
しい対照を示 している.,
功利L高原, 円城布原, 竹荘盆地 は旭 川中流部 に位 岨す るところU)ほほ同 じ高段の苗原 であるれ 類挿瑚引・ま実作,加茂郷 (円城 はその一部 )は傭 弧 竹芯は 備 中にそ くし,近世においてほ所街■
開院を異に し,その ため幕末風巽急 を告 げた時には,かすかすの ドラマチックLJ)軸件 もあったO
O●○
こ0)ように支軌 所領関係 を異に しなが らも所 々方 々で頭農 鋲が行われ. また,地域 の緑社宮に た映 しせつり
関係神社が雑 って行 う大祭つ ま り立会 祭の慣行がある。
ま蛙 幸作の崩壊 ・民俗B酔Lの残存 ・なに をとっても梯和の後進 ぬ 竹聾の先卦 三が きわめて対 ‑ 照的で,円城はちよ うどその中聞性 を示 している。商品 作物の封入.人 口の粗茶 辻会移動 をめぐ
る酬 郡 も3つの地域でその探刻 さが迎 って い るO自鯛 裾 と経 済 。社会 の関連究明の ケー スス.
タ ディーと して, この3つの高原はまこ とに恰好の助であ り, 自然人文の諸現象 を視聴す るに打 ってつけの土地である。
青
滑高原は地形学的 に,境港地 理学的に, そして また土地制度史的 に究明すべ き点 を多く宝蔵
している。私 は吉備高原南端の市原集落 を仰ぎ鼠る有井川 uj谷底平野 に育 ち.小学校時代 の速足 で,石遵寿.桐山o)隆起 準平原に何度 も連れて行 かれたC そU)時 は7=L'診 らしく思 っただけであ った机 その後いつ迄 もその時の 見聞や経験か よみが えってきてなつか しいD若いV字谷とその 上の平たい端原画に強 く印象づけられたのは,昭和11年井原 の遠祖 族へ行 っtL・ときである。今 ではその記憶は滑 らいだけれども,そUJ時 の興軒 と驚異 は今 も忘 れ られなしヽ せまい渓谷 を登 り 切 って急に広 く明 るい泉観に接 した時 「桃花統 」 を思 い出 した。最近10余年 間私は胸突八丁
を登 っては降 り.降 りては また登 り,研究 の村頗 塘 描 き廻 った。私は吉備高原上 の土地利用 ・ 集落形態 と耕地所有 。各種の入会権 (ことに放牧栃 をめ ぐ.'て )など. 他地域では求めがたい学
‑5‑
間的宝 を探して夢中 にな ったO学生諸君 と語 りなが ら書冊市原 を歩 き漸 くた ど りつい た峠 の綿 風̀こ一息いれ る時 は, この上 もな く炎快で,元気に若人 と一緒 に歩け ることu)宰相 感にひたれ
るの であ る。私はただただ書館 原 に鮎せ られて いたの であ る。
音節高原 についての私の考 え方 。見方か最近変化 しつつある.外地で の見開が私に広い福地 から比較検討 を促 してい る。 東部 オ‑ ス 十ラ T)ヤ山地の隆起準平原面 が. あま りに も平坦で娘 Lもな く続いて いるのを車軸 !,こ琉み しめて,そり規模 が. わが青術前 に比べて広大 であるの にただ ただび っく りt,たo契 しいユーカ リ附 '))点庶 す るニュー イングラ ンド卓状地の高原敷観 はまことに印象的 であ ったO 自助串 を1日中 とは して も坂 ら しい坂にはさしかか らない し
,
海 抜10 0 0mのこの応原の上 が ナ‑ ス トラ [)アで もっとも生 産的 な酸度地域 。人 口桐軒地域 ‑ オー ス トラ リア水準で‑なのであるO音僻笛原 に思い をいだし.私は いつの間にか曽滋の地内■蒜古詩ri原 の渡航 と比較 して いか )で,あるo
El本の隆起準平原 は大地
形
郎にみれは,所詮所期造 山地帯 の隆起蝉平原 でパ リスカ ン造山肝 (中生代造山帯 )の果 しもな く続 く隆起準平原 に較 ぺると, わが音節芯ERPな ど果 して隆起埠平 原で ござると,大 きい顕 して行えるのか と問 い返 したくもな るO今 までに私は幸いIr‑も安 き塊た るア ンカラ地 塊の一角か ら, その外核l・=ある古期造山帯 や新 川造山軒 と二度旅 してい るし(おはすか しいことたが らそのこ とを悪熟 しないで )南半球の安 定塊たる ゴンドワナ大陸の一十巧か らそれ を額 ()巻 くごとく配 列す る新 ・旧の造 山帯 の上 を千
概
一隅u)好機 とあ るいは機 上か ら,あるい は自gUuL車 か らしみじみ と眺めたの であ った。 こ うして 私は今,吉備高原 をステ‑ ジの鞄な る冶山軸 の隆起 準平原 と比較研究す るこ との必要性 朝F'p6 感 しているO多 田文男先生U
) 朝
鮮 。北支 。蛋古地形に関 す る一連a)研究 (多田文 男嘗 ・自然環 境の変貌 ,東京大学出版 軌 1!64所収 )や Willcam D Thornbury・, Princip188 0f Gelomorph3gy . John Viley& uClonβ , Nowy'OrK. 19 5ムを就み.‑LRしてみた く1っている。
割 符福原は 日本で もっ とも功型的隆起艶平原 で あ り ,そ ()なか で も高梁川 耽域が もっと もテ ィピ ィカ Jレである。 しか Lそれとで古舶 主山帯()隆起韓平原に比すれば .そe)広さ .平坦鹿綻 比酎 べ くもない。
剖 箔高原の巡険岩 上 ,世界の 砲京を知 らず の・#・を受け て!rlな らぬ。だか らとい って山oJ彼方r の空遠 くにの.;>研究0串を求めず ,脚下 を馳 しようで比なレ、かO
罪 ‑ 編 総 ‑ = ‑ J h r l J 阿
1
赤 土 に よ せ て宗 田 克 巳
吉備 高原壮いつ もわれわれが頭か らは13:れ T=いほ ど親 しみのある ところで あるoそれだけそれtn:
ふさわ しい地域性 をもった ところである。わが大学 の巡検 も繰 9かえ し練りか え しかこ束われ て , すみずみまで足跡いた らざ るな しといいたい ところで ある.それ でいて嶺回 綻 じめてのよ うを感 じ で あり ,新知見 をひさだす ことができるのである。 自然壮 変 らず^ も亦変 らず としへって よい この地 域がなぜに これほ どわれわれ を誘慾するので あろ うかO訪 ねれば必ず記するとこうがある。全 く不 忠戒 をもん だ。 学生のなかに も在学 中5回 4回 とよくも飽 きず に同行 した もの も何人か いる。そん な学生 でもレポー トをかけ とせ がむといや 改新 を して ,必ず先生かけません ,さっぱ り何 を.・かいて よいかまとま りませ ん とい う。先生 とい うものは どうもネが正直に生れついてレ、るもの とみえて , そ ういえば本当t.・tそ うか と思 ってそれ を信 じとみ ,困 ったな ぁと思 うことも再三 な らずで あるO で
もそれは杷[&に終 って ,今年 もこんなに も立派 夜ものが集 まったOこれ も吉備 高原に登 る と何をと らえても種 (たれ
)
になる とい うこともあるので あるC学生諸君 には 申しわけ食いが御了桑 を乞 う.そ こで今鹿は私がせがまれ る番に食 った。で も先生 ともなれば ,一般的な ことで授業の足 し前 く らい13:つ も りでその東めをふ さ ぐとい うこと(,'(な る。
吉備高原の土 を特 徴づけ るものは ,その色が赤色であるとい うことである.そ して これ と同 じ色 を した土は この高原か らはなれた南部 の丘陵地域で も ,いたるところみられ るOで もこの吉備高原 面上ほ ど広 くは分布 していない のである。私は この赤い 色をしてい る吉備高原周辺 の 土 放 同 じ性 'E のものであ って,この分布する拒閏は同一地形面 と考えている。従 って盲備高段姓その境域 をも っとひろげて もいいので紘 孜いか とさえ思 うo私は実をい うと割 fd''高原の境域を振るのに ,い‑iの ところ この赤土の 分布域 を もってす る以外に1・(.いのではなVlか ぐらい に思 ってい るOそん なことも あって .このたびはわ ざわ ざ赤土 をと りあげたのである。
それで と りあげた以上い くらかでもこの赤土につVL‑tの韮鍵知識 とも'なり,これが地理的に どん な ものであり ,またさ らに吉備 高原で果 す役割は どうであるかについて ,私 の常強化 してい る程度 につい て述べ てみたい. もちろん多 くの文 献を猟 した うえでの論文 でlzhので多 くの不備や ,い
かがわ しい ところのあるは十 分鬼悟ajlであるので .読者の 忌伴の夜い捌判 や指導をお掛 すると.
第 で ある。 しか し一つだけ付言 しても,きたい ことは ,この赤土地帯をあらゆる季節にわた .,て足で
‑tl.‑
ふみ しめてみたことがあ り ,また この土に作 られた作物 の育 ち具合 ,そ の食物 と しての味合いま で‑わた り通 じたつ もDである ことで ある。
赤土は ど うしてできるのか い ったい土 壮どうしてで きるのか 。その存在の状辞か らおよその こと絃わか るであろ う。俗 に石が くき ってで きるとい うが ,それ でいい とお もう。 むずか しくい えば岩石の風化 してほ ろほろになった ものに若干 の有機 分 を混 じてい る ものであるとい った らよ いであろ うo袋菜の対魚に なる ものは さらに これに水湿をふ くみ植物 の生育rL適す るもの とい う ことになっている。植物の生育云 々とい うけれ ども ,実際紘 自然のままでは 儀典はありえたいか ら ,岩石の風化 ,有機物の混入 くらい まででゆるされ ていいであろ う。 さて岩石の 風化とはいか なることか。す こし常親的に これについ て述べ てみる ことに したい。
す夜わち大 きなかたま bで ある岩石が小さな故片と してばらば らにほ ぐれること ,そ れに化学 成分がかたま りの岩石であった時よ り変 ることが考 えられる。まず破片 と してほろほろ になる こ とだけ なと りあげてみること忙 しよう。 エく山 の岩 はだか らほろほろ と岩のかけ らが くずれ 落 ち ているのをみかけるが ,これな どが風化雌 の⊥部であるO こん 夜のがつ も りつ もって厚い土め
■ ●●i 屑がで きるのであることが うなずけるo こん な風 化の しかた を機械的風化 またはばい ちん
DiBinteg‑rationとい う。なぜ こんな把かたしへ岩石がはがれるのか とい うと ,それは か も に気温の 日々年々の変化に よるといえるのである。それ とい うの紘岩石はいろいろ,D鉱物や粒子 か らできていて ,それ らのちかいが熱に対す る反応e)しかたのちがい となるのである。
す なわ ち色の娘い鉱物や部分は勲 の吸収率が 色の白い鉱物や部分 よ り大で あるので ,その膨脹 や収縮 も大であるとい うことになる。
その こと絞 これ ら異質成分の間の肌 わかれを生じることになる。 また岩石に比い くら徹宵そ う にみえて も若干の削れ Elがあるもので ,この割 れ目にはつねにい くらかの水 堤が しみ こん でい て , これが もしも練結す るよ うな ことにな ると ,その膨脹比蛍石をひきさ くことは易 々たる もので あ る。 こうして大 きなかたま りは段々 とノト音を破片 となってL,・くことは 自明の理 である.南米の7, タカマ砂浜ではかか る働 きで岩石がわれ ることが注 目され ,そ のひきさかれる時の音は ど>y ビ ュンと鉄砲 を放つ音ににて無気味で ある としへう。こ/./,乏ことか ら瓜 く分布 する砂漠 の砂 かすべ て かか る風化によってできた もので ある ことがわか るので ある。つ ぎK化学成 分が変 ることに よっ てほろほろになる方面につい て考えてみ ることに しょう。 これは:分解作用 とエばれるが化学変化 でい 6)分解 と抹少 し広い意味で解せ られている。
これにはい ろいろの働 きがあるけれ ども .そ のなか で溶解 .加水 .炭酸化 など
にu
慧って あげ てみることにL lう。溶解 のみ単純に考え られるの(I‑1岩塩とか石膏 とかの岩層 のみ の場合 にいえる ことで ,・iず この頃では論外 と していいであろ )。 加水 ,とれ壮広 くみ られる現象で ある。岩 石中の鉱物 のほとん どは水に対 してはいたってよわ く ,水 をえて膨脹 した 9柔軟になった 少するO
雨水や 地表を練れ ている水は必ず大気中の酸素 をとか しているか ら ,この水(,{ふれるtrlんい ては 酸化作用かおこなわれ ることにをる。 特に岩石中の鉱物の多 くはしへくらか鉄分 をふ くんでい て ,
この鉄分 にとの酸化作用が新著 に働 くのであるO との ことは 他の働 き以上に よくあ らわれ るので , 顕著 とい うのでは あるが ,すなわち鉄 のサ ピ色が岩石 また比その蔽片に欄 する ととKTrるO包 丁や錦 の刃のさびたと同 じことになるO.さびた ら黄 面がたた汚れ る とい うだけ にとど浸 らず して , それだけ本質が剥がれることになるのであるo鉄 の尊びた ものは普通格色である。絵具で褐色の ことをわれ われ(rLtF'ろ 色 と数え られ またそ うい っている.それ くらい士 の色の鉄 さび色はわれわ れに とってした しみ ある ものであるDそれか この岩石の風化の化学変化で あるのだ。 しか しこの 酸化作用 も地下 の どこまでもも、こ夜われるとし19わけ のものではた く,ふのす.か ら限界 がある。
その限界とい うの杖地下水面で あるB との地下 水面 まで技いわば大気中の空気 も自由にI.riL1りと める ところでもあるわけで ,井 戸を碑 ってみれば わか るととであるが ,このはんい でirl褐 色の土 がでて くるので ある。 もちろん との けんいにも多丑 の水がふ くまれでJlろこともあって ,高 い山 のすそなどの集落 の井 戸に この褐色土中の水 を飲料水 に利用 してい る例 は甚だ多いの である. し か しこれ壮地下水 とは いわずに循硬水 といわれ る。 この循項水 に(ri畑地の しもどえの
添
いのや , 下水の そのままの よう7i:ものが混 じる こと紘 とくあ かふれた ことで ,注意 しなければな らない こ とであろ う,泉近簡易水道 ブームで共同で飲料水 をかんたん にえ る施設 がされで V,‑るが ,これ で 鮭団誘鏑 が発生 してさわがれ ている例を きくが ,領現水利用 となれば いた しか ・/'tもあるまいO‑本当の地下水 とい う(7Jは ,この循環水ではを く地下水 面をたたえてい る水 のことで あって ,これL TLれげ本 当にゆるやかに婚環 してい る冊静 夜ものが多'vlo も‑'とも地下水面JjJ=.の ところで不浄 fEこの循取水を利用 するか ら ,ところに 上って壮柵浄を地下水 か よ
り
冊浄 で ありうるとい う場合もありうるOそれ で この地下水面以下ではかえ って遼 東作 用がお こなわれ て ,そのため に前述 の.
鉄分は還元Jct'れ ることt'tf3:る。
たか らこれ も井戸を触 ってみればわかることだが ,ここか らてる士絃灰色または=F'JL色 をしてい るので ある。だか ら井戸水 をえよ うとす るには授Vlところにこの骨色の砂 がざ くざ くてる ところ を目当て
由
放れはいレ、とい うことが常識で ある。炭酸化(ri現代 の日本 のよ うな湿和気候に顕著にあ らわれる もので ある。雨水 は大気中の炭酸 ガ ス をとか し,H2C0 3の溶練 とIな っている といえるD・また温帯地方の川水 も多丑にH2CO S
を含んでいる。 このH2C0 3の溶牧か岩石托働 きかけ る とい うこ とで あらわれる のであるo
いつ もひ きあいにだされ るので あるが .正長石の分解で
Ⅹ20A l2 036Sio2十2H20十CO2ー
A l203 2Sio2 2H20十4Sio2十Ⅹ2CO3
一般に結 晶JR の長石 をふ くむ岩石に 雨水が働 くと ,粘土 ・砂 ・炭酸塩溶液がで きる。 花 こう岩 が 風化 して其砂土 (ま きつ ち )がで きること もわかる ので ある。
鉄 .苦土 鉱物 (雲母 .角閃石 の如 き )が 分解 す ると ,含永酸 化鉄す なわち褐鉄鉱がで きるの で あるb よ く山 あいの湿田のすみ VE瀬褐 色の とろとろ した物部が たま ってい るの をみかけ るこ とが あるが ,これが褐 鉄鉱 のでき ている もので ,これが ぎよう結 してかた ま りに夜∵つた ものが鉱石 と して轄行 されてい るので ある。
水によくとけ る とい う石灰岩 も,このH2CO 3溶液で いち じる しくとけ るcT)であ るO もちろ ん純 粋 の水で もわずかは溶 けるが,H2 CO3溶接(7)方が よ くとけ る ことはい うまで もなレ、o この溶 けたあ との複 雑な地形を カルス ト地形 とい うこと綻 周知に属するが,ここで開港になるL73 紘 ,そ れ よ ・ilか この カル ス ト地形に存する赤色土 で ある. これ 按石灰岩中 に含 まれてい た離溶 の 不純物 である鉄 ・苦土 分であるとい う。 これを南欧 でテ ラ・ロ ツサ とよばれ てし1る。 Terra ro8Baとはred earth の意味 で ある。南欧 のかか る士につい て最初紹介されたのは辻村 太郎先生 であって ,先生比この土 の 成因か ら考 えて残液士 とエばれたO もちろん溶けの
こ
カの原 地土壌 では あるが ,赤色土 あるいは赤土 とい うべきであろ う。か くてかかる寿色土は化学的風化にお うもので ,その結果 は温 帯の湿i降地方 に明白に みとめ ら れ るが,この ことは気温 .降水ii ともI.C大 きい赤道地方で澱大 に達す るの であるOか くて赤
道地
方に ラテ ライトが成生され るの であるO ラテ ライ トはそ の質か らいえば ,赤禍粘土椋物 JE とい つ たら よい もので ,含水 7ル ミナが鉄や マyガンの酸 化物 で若 色された もので ある。Laterite
の Laterは brick 喋 瓦 の 庵 で あ っ て ,色 が 喋 瓦 色 を し て い る とい う に あらず して ,切 り口が煉瓦 のよ うにかた くな るとい うのであ る. この土の母岩 比玄武 岩 ・花 こ う 岩 .片麻岩 ・粘板岩.砂岩な ど熱 帯に分布する滴 々の岩石に発 してを b ,母 岩 との特別 の関連托 夜い ようである。 この ラテ ライ トは温帯 の風化 産物 に くらべて建碑 分SiChoI)か 1ことか特徴 で あって ,ラテ ライト地域 を・沌れ る河水には これが多丑 に浴 けてLJlる とい うか ら ,母岩中の珪 酸分 牲降 る多血 の雨水 に溶 けて
川
に どん どん ぬけ ている といえるので ある。 ところ か吉備 高原をは じ めと して西 日太の赤土 は色か らい って決 して ラテ ライ トVr/iけなV・ものが あるけ れども ,珪酸 分 にTld'ん でし、る。南洋 のボー キサ イトとして較行 され ているAlの原鉱 i・iこの ラテ ライ トの特殊 の ものであ って ,わが国の粘土質の士 が40多以上 のA lを含 みたが らもAl鉱石 と しての価値 がみ とめられないわけ紘一 にかか って このあた りに ある ようで あるO
ここらで菅備高蔽あた りに分布する赤土につい て ,その成因
な
b性質(,Cつい て少 しはかb述べ る ことに しよう。せず母岩 とい って土 がで きる以前の材料についてみ ると ,火成岩のいろいろの もの .水成岩 で も古生屑 の砂岩粘板岩あるいは これ らか ら変 成岩にな った片岩類まであるが ,それに加え てこの 地峡では洗練世の もの と考え てよいLLl砂利屑 とい って7tだ ぎょう結 した ことのない堆bfl物 がある。
良し上のいろいろ異 った母岩が風化 して .ほほ にた よう:な赤土になっているの であるb赤土 も西 日 本で顕 著 な土の〜矧 てなって紘L,・るが ,これについ て士包 学者 の間で温帯湿潤の気族が これ をつ くるのにあずか って力が あった といわれ てい る。熱帯湿潤気候 のもとに
硯
に ラテ ライ トがみ られ るがそれ を認めて ,温帯湿潤 の気侯に赤土の成因を求 める こと榊 垂めてLq然の ようで ある.だが 頚者 は 吉備高原上の赤土につい ては ,必ず しも温帯G.潤で あると考える:ては及ばない とL、も う.そ れ とも一つ この土は現代 のもの でな くて ,その表土 cf一 部 をCrJぞい てそれは少 くとも洪株時代 までさかのほ りうると考えるのであるoす なわちこの赤色 抹洪析世 に染 ‑,tられた色 で ある とい う ことで ある。か く考 えるKl.li洪希世 は実に都合 の上しrl時代で あったのであるO とい うの虻浜頼世 とい う1 0 0万年 oI)間に 4回にわた って氷期 とい う寮冷で降水丑 の多か った時期 と .そ の間の間 氷期 とい って積めて乾県 し気温 も高 くなった時期 とが あったOそ して 日本 の部厚い士は この間氷 期の問につ くられた もの とい ってよレ、のではない79・とお も う.特に よく風化 している もの托そ う
い ってせ ちがtJl夜か ろ うb間氷期 についで氷 期が訪れるのであるが ,日本 では間氷期I.,{で きた土 をと りのぞ くよ うな氷河は流れず,またこれ らを洗い托すほ との雨 も降 ったと もお もえない。それ でふるい土が いたるところでJljtく残 っているC)であ る。 でも搬: 'に接すろ地域 では早 く削 りさ ら れたが ,吉備高原 のように拳平原が隆起 して新 しい冶圏 の谷がまた十分のびてない ところでは ,
このふるレ▲土がほ とん どそ っくりそ のまま残 っているのである。
さらに土の移動 したものか ,できたその切所に止った ものかによって ,それぞれ ,丁"l範士 ・原 耕土 の名がついている。 こytらの間の若 しレ、相違は ,前者は よくこなれ てレーて粒子が こまか く , その上 ねぼ りのつよい とい うことが特徴で .後者妊粒子のこまか く ,ねぼ りつ よい よ うな部分は
と りさ られて ,よくこなれ ていない で粒子 もあらく ,ね は りを生 じない ような もので あることが 特 徴で あるOで も梅 めて低水難 のところでほ とん ど適 びさられ るJ蛸 己のない ところでできろ原横 土で あれ ば群渚にちかい よ う.,:E性質 をかびて くるととは十分考え られ る,,脚 の浪楽準平原でみ る赤土 な どはそ うした例 かとお もうbそこで考 えられ ること比 ,吉備高原でみ られ る この土 は , 吉備 高原が低水準 の時代にで きた原秋土 であるとい うことで き)る. よくこなれ ていてねはい こと
‑9‑
で ,との赤土地方で抹叔近道路 の改修 などでほ とほ と
困
りぬい てVlる。 とい うの比 ,い ちと雨で も降 るとトラックな どの希 だちのあとは深 くくぼんで ,これにいつ 溝でも水 たま りが残 る。 しか もこん な輪7t'ちを享けて利 用される と ,その ところにまた大 きな鷲 たちを生 じるとい うぐあい で . 歩 くものの利 用される路面 がなくなる。 こんな‑ ごみに砂利 をいれで もぢき沈んで しまって ,ま た もととおを じ とと'lCたる。それでい てこの ところが乾 ききる と ,その しま り('あいは全 くかた い石同様でポチの低い 自動 車はつか えて車 をこわナ とい うあbさまであるO で もこの赤土地帯 の 土地 利用壮すすんでいて ,ここを中心に雄藩 の発達は疎状塊村か散村の形を とるが ,せず エ くす みついているといえるのである。だが この土の屑か ら飲 料水 なえる ととはほ とん ど不可能 にちか く .そ のためにその水 敵 不便 でも住居か らか75:少はなれた ところ に求めねばな らん のであ るO そ してなか に絃凹地の溜 b水 に上る ものもあるが ,そん な場合t'E必ず とい って よいほ ど黄色C'C濁 っているのにか どろ くので ある。つ ま りこれ などは捉水で ある。 ここい らで この高原の赤土 と国 東のいわゆる関東 ロームを比較 してみたho関東地方 では川筋わず かをの こして台地 の ところは 全面といって よいほ ど広 くこの関東 ロームに掩われている。 これ はい うまで もなく洪併 世に活動 した周辺 の火 山,D火山灰の風化 した もので ある.全休 の厚さは約2 0mもあるが ,それが上か ら 下 まで均斉 とい うわけでな く,所によっては 浮石や,川の砂利 T.3.では さんでいて ,赤土 の席 と紘 若 干 ちが ってい るが ,同 じ原耕土 とみ なして よい とかも うQ違 うとすれば赤土屑 は母岩が717シ ブ のもの であるのにこれ 杜は じめか らボーダ‑であるとい うことである。そ して色 も関東 ロー ムは 褐 色か ら朱 色までで ,赤色 とtJ^われるほ どのものはまれ である。成分か らいえ ば全部 どの地方 の ものも安 山岩耳で ,それが よ くこなれ .そのため雨 あが りの道 で姓赤土 とおな じぐらい よくねぼ る。それでい て乾煉すると ,す こしの圧力にもば らばらの粉末にこわれる。 そのために5月か ら 4月の乾燥 期 ともなる と ,風にあふ られ たこの p‑ムは空 中高 くtレ、あが り空 を掩 うほ どで ある。雨期にねぼり乾期に塵 とな って空を掩 う拭大陸 の瀬土 (レス )で ある。「±こと手に してみる関東 ロー ムは凍土そのもので ある。
この珊束 ローム紘畑物帝に根菜類 ・芋類が適するよ うで あるが ,吉備 高原 の赤土 もまたか TT̲じ ことがいえそ うで ある。
土
紘
恩いばか りが よレ、ので絃ない 昔 か ら土 の肥沃鹿 と鼎色とは何 らか関係 もりげにいわれ てき ている。 チエル ノージェムに しろ ,レク7‑に しろ ,みんなそ の黒い ことが強調され ている。 こ れは これで認めていい。 しか し黒 く衣 くても榊 .ものはかな りつ くれるO土 の色はその化学性に 上る ものであるが ,た とえその化学性におい て劣 ってい ても ,物理 性に かい てす ぐれ ている とい うこ ともある.そ して 作物技人の作る ものであるか ら ,適地適作とレ、う
こ とで ,それをいか してつ くられる。 どんなところでも人がなが く住みつ
t
,‑た ところで あれば . 必ずそ の土地 に気朕ばか bてた く土 にま で胤 もする上うに丘って くるものであ る。そ うして生れ た ものが特産物で ある。青備 高原の赤土に どん な特産物 があげ られるか。 ます あげ られ るのは ゴボ ウにコンニ ャクで あ ろ う。 ゴボウで紘昔か ら高屋 ゴボウ ・明治 ゴTk'ウ・足守 ゴボウと名 の とお・つた ものが あるが ,覗 在ゴ ボウ作 りに専念 しとるところは芳井町の明治である ので ,明治に足 をいれてみ ることに し上 ら.おな じ明治でも池 ノ谷部 商はゴボ ウとコンニ ャクをか らませ て多丑の 出荷を している。 もち ろん赤土地帯で ある。
赤土地帯は どこで も均質 で地が探い。そのことが輯 もの的:ぐあいがレ、い らしレ、,yLA南の英抄土 地帯の ものは .ゴボ ウとい えば朝鮮人蒼 のように股の卓Vlたものがあた りまえの エうに思 ってい
るが ,明治 ゴボウは放 して股は さかない 。全 く一本 の律 のように実直でつる。
その長さも50czr内外で ,茨城 ゴボウに くらべ ると決 して長い とはいえないが ,やわ らか くて 香気の よいのでそ のにん気 をエぴ ,三原か ら岡山の間の市域 を独 占 してい るC
この50cmもある もの が前述のねばいかわ くとかた くしまる士 に#̲ま っている こと姓 ,い ざ招 る とな ると厄介 なのである。 1反歩の振 り上げに 20人夫 を襲する とVlう.それ でいせ clろでは 福山 あた りの仲罪人 が畑irnlい忙 して祝 ってもってゆ くよ うに なってい る。それ でも反当50ロー a OOflと して1D万 円 くらいにはなる らしいか ら ,畑作点村 に してはまずまず としへったところ で奉ろ う。 コポウのあとにコンニ ャクを作付け られ るが ,コンニ ャクの方 托相場 の変動 がはげ L L1い まごろでは ,以前ほ ど乗 り気 で夜い ようで あるが ,それで も地 方の常要 もあって ,ふ しょ う ぷ しよう作 られ て/,itr・るC以融 ま‑J'ポウ より‑‑1ンニ ヤクに亀点がかかれ ,コンニ ャクを余計作 っ てレlる といい吸入 り口があったほ どであるか ,それ は昔・J.)夢物蘇 りとなって し‑まった。
ゴボウとコノニ ヤクの抱き合せとし・>うが,これは:ちと猿手のちが う作物 で ,前者 は棒 状 に長 く , 後者Crlこぶ しの ように九レ、。そ,23ことで コンニ ャク杜ゴボウの ようにか た くしまる土 では困るの で ある。そ こでゴボウ独 りして土を うかせ ,これ忙芝 くさを塩入するの である。こOj芝 くさの卑 偏がかんたんでかハとい うことも ,コソ‑ JrクqJうえ しぶ られ る理 由の一つ でもある ようである。
高原面で の畑作 では屯晩 か‑ 奄問題 に在る。 と ころが ゴがウ(/Cしろコンニ ャクに しろ中耕 しな いの であるか ら,この点は有利 で ある。 このこと托四 して ここの赤土その ものの物理性が大 き く
ものをい うので ある。 とい うの牡かた くしまるこの土は 上 く水分 を吸収 し ,よくそれ を保有す る とい うこ とであるO排水 不良 とレ、うので托 あるが =且射てたえず水 分を保 っている とtJlうことは 作物 にとって大切 な土
製
に必駿条件 である。 コソニヤクの方はわ・:i^る よ うたきめこまか い土 がハI‑.
∵ it l→
いが一方排水良好でないといけない。 そこで芝草 を没入 するとい う方法 をとる ことになる。
い くら適地適作 とはい っても ,いせの世 の中は脚 が 自然 エ b使先す る世の 中で ある。水 田に ブ ドウやタバコが遠慮凌Lに うえ られだ したo軸後のはげ しい鼻薬変革 は果樹 と酪鍵で ある よう だ。それで 目だ ったことに ,いせまで果樹 綻胞対 うえて ほな らん とお もわれて いた ところに どん
どんその果樹 が うえ られ た した。 なか にも‑ブ ドウが この高原の赤土地帯に も ,ものすご く入 って きた。そ して楚地 上りも温室 と ,鉄筋 のブ ドウ園家屋が軒 をつ らねる ことにな った。姓協 の小 口 融資 の困難夜のに .50万100万の金を投 じて ,おそ るおそるや ってみた。 ところが成功 したQ いせではそ のもとで紘 とりかえ して ,せるせるもうけにな IDているO虫初に手をつけたのは井原 地区 の青野 であb ,そ れから円城 とし、うところであろ う。巡検 で円城の平坦 面上の一面赤い土の 上 にタバコ と温室の交互しているのを 見たときには誰 しも異様な感に打 たれたにちかいない.な ぜを らば投 下資本は なく労 力のみかか るタバコ と ,投 下資本の莫大 で労 力はその割にかか らない 温室 ブ ドウが余 りに も対 月鞄勺なのが削 問的 に日に.映す るか らであるO
そ れはや ってみて割 i)が よか ったとい うだけ にとどせ らない。高原赤土 のこの ブ ドウが南部千 坦部 ない し屈簸部のそれ よ り品紫の点です ぐれていることがわかったので ある。このことは市場 確保 の上に極めて有利 とな ったので あるO都市に近ハ南部地峡はいい といわれる果樹 にも大 分飽
き都市‑通勤する者の数 をま している。 こ うなれば高原のかか る方面へ の土地利用 の切 りかえは , 南部地方の河が わbとしてます ます発展してゆ くであろ うし .またそ うあるべきで ある とお もう。
ある程駐生活 の平均化がかこ・/=われ る と ,人 の求ゆる ものは丑 より質になる。果物 もうまい方が 優 先 してくるにらがいない. その うせい ものが少 くなれば より高 くなる ,高 くなるとまたそ の も のの丑 がふえる。質 も丑 もか くして向上 するようで ある。 ついでなが らも一つだけ このことにつ いてい うと ,農林省は良質米 なるものを別 に もうけ たo この ことは侮 日横線的に く・,てい る常食 G')米に .上下の味のもがい があり ,できればいい味の ものを食いたいとい う消費者 の償い か ら生 れた もので ある。 ところで との良質米 たるや ,われ われ のかな じみの沖秩平野 よ り ,山 間の泥水 油 め池潮灘 を している ようをものの方 にえやす い ことがわかりつつ あるo特 に都会 のスシ米 とし て 高原地峡のもので2倍5倍 の高値で売 られている ものが ある と開 く。 重枯 な赤土は韮枯在米 を 育て るらしい。関東 ロームにできた米 をつ くったことの ない もの仕 分らんであろ うと思 うが ,栄 に力が ない ,食 って じき腹が‑る. もち米 も同様 で ,餅 も焼い てこが して雑煮に しない と ,汁の 中で餅が とけ てしま うC ところが近頃 岡山あた りでもn宅はi;・餅 は焼い てお轍 LIiすのエPと , 気取 った臭がちらほ らあらわれかけた。 にせ文化人 もええ ところであるD こ か \んの餅 を焼 い て 推最(Q‑して よいか焼 かずに して よい か .食 って附 しば す ぐ分 るはず ,江戸 ッ子の兵似ば
カ.
クしたの が能 じゃあるまい。ここ らで花道 な らぬ脱 を チ ョンチ ョンと引 きさが ることに しょう。
以上 tJlくらか俗 っぽ くIRりす ぎた成 仏 あるが故老の細 で見 ,納車 ,感 じた‑Li‑1を しる した。
吉 備 ‑蘇.源 の赤土 これは 普騰高原 の身上で ある. 高原 の人は これを大切 てし ,これ で しあわせをつ LL・(rj
かんではしい もので ある。
2
巡 検 地域 の 地 質 地 形 あ れ これ矢掛石の別 ・jTZ港地
宗 田 克 巳
鼎痛 い=広 く分布する花
樹
岩.'rl,旭川 てそ)ては裾渡 ‑tで ,商葉州 4:そ うては備 中川面までみ られ るoそ して今度 J)巡検範囲 では南半 の竹荘盆地 と笥州 の平 坦部 の碁盤が ,この高梁川付 近の花樹 岩 のつ づ きて占め られてい ろO':‑Tr:
また 福渡か ら#,田までにみ られる流 紋岩壮右 岸 一 軒の刀口茂 .建部 Le:広 くあ らわれ てい て ,備前 蝦高峯の本宮山 もこの流紋岩 の浸食瓜峯 であるo
Lt1二.‑:
さて也 田をすぎるころ よりは ,急にJ,,i:観 が うす く {7'くなる が ,これ は岩瀬の変化に よる もの と 思わ九 ,7J。す なわ ちダ ムyFTtいか ら左岸一帯は三郡 変成帝 の変成岩域 で,,‑t.iil色の千枚 岩 や綴 色の輝 ,
T.i岩や結晶片岩 からなる。
拭一 輝姫付近 ・栃原付近 ・東排和 の坂道にみ られる緑色塊状 の も6)は輝線岩 で ,近頃 やかま しくt.^われでい る矢掛石 と同所向時代 のもので ある。特 に栃原か ら画餅和 にか すで あらわれてい る も(つは ,矢掛石そ っ くりの ものが あるo こん な岩石 ので きるのは ,できるたけ の理 由があ るの で ある。 日本 のレ、まの位紅に比 しめて陸地が できたの姓 古生代 の末か ら中生代のは じめにかけ て てあって ,それま では との位牡 はア ジア大 陸のほ と りの海底で ,大陸か らの土砂が ここに流れ こ み ,海底仕その 重み i'rj(I̲えかね て ,土砂 がつ もるたけ底 が沈 降 し ,そ のために ここにつ もった土 砂のIS{湾 は1万1ILちか くにな った もので あるoそ して こ う如 く堆積が おこ夜 わ11る と ,堆横物 自 体LF̲ある種 の力を生 じ ,それに̲よってつtJlに海 水中 か ら高い山脈 が頭 を もたげて陸 地がで きるこ とになる。かか る地殻 の働 きを過山遇触 と よんでい るが ,日本 aLI)このころの造 山蓮如 を秋 吉造 山 過勤 といい ,ヨーロッJlのパ リスカソ造山 過勤に刊応す る もの と考えられ るoそ して この陸上に
あらわれた地層は秩 父古生個 とtJlわれてtJlるが ,いせ では其の後の地 殻D変動 や改良で きれ ざれ になり ,そ のころ の毅はい まれ沸すべ くもかJlが ,それほ どの大変勉 であっただけ に ,准耕岩 も ま ともにその本来の性質 を保つ もDば か 如まな く.こE,の旭川筋 trLみ られ るように千*,岩 や結晶
115‑L
片岩に ‑2で変質 をこ うむ ってい るのである。 ここの輝 線岩も粒状 でな く ,接 衝で玄武岩 に似てい るO これは造山遅ibのは じま っている時 ,まだ海 中で火山活動 がおこなわれ ,そ の時溶岩と して 噴いた 少 ,また火山灰 と して放 出され た ものが地膚 のあいだには さまれ ,他の地層 と同時に変紫 を うけた ものといえるのである。かかる古生屑 のあいだにはさ ・よれた線 色の岩瀬は夜久野 塩基性 岩 とい って ,酉南日本の中国地方で特徴ある岩石 と して知 られているC‑「見 して層状であるか と お もえば 塊決でもあ b ,風化 しない ものが地層 のなか で′トさを ブ ロック状になってレ、て ,しか も その表面多孔質をお もわせるその孔 の部分 iこ石英充項物 が杏仁状 につま tl,番異 を模様 とな って 愛石家 を よろこぼせ ているのである。矢掛石はこんなわけで矢掛地方の常 連 でな く ,古生代 の変 成葡 (,こいたるところrLあることを伝えてお きたいO唯我岩 で紘ず っと新 しい ところで ,竹荘盆地 の大部分を占める節 ≡紀 層 と ,円城 や香川に広 く分布 する山砂利層が かずられるO第三紀層 は媒 岩及 び脚 、らな り ,礎岩でに下竹壬の二重坂の路 傍では径 51〕cTnくらい の円攻をふ くむ ものが ある。 また砂岩拭盆地底いたるところでみ られるが ,十分凝固 してい ない ものが多 く,この7m ・ 陀 ビか )7の如 き巻 貝TPオキ・yジミらしい二枚月な どが含まれ ,海底の地層で あった ことをおも わせ るが ,また コ‑クの よ う7k陸源 の もC)も含 封 してい る。山砂利仕砂利 ・砂 ・粘土 を混 じた無 届理の堆積物 で ,どこでも地表に あらわれてい るo平野 をのぞい て壮壕 も新 しい地 層であって , 現今の河原 の砂利 そ っくりのもの ,あるいはひ どく風化 して くさ って鍬で きられ るほどの もの ま であ る。大 き'Y‑・もの で性上竹雀 の俵原で径5〝lもある ものが表面培 かれてお り ,その存在IR:謎 を なげかけ てい るO
市 原 と探 しへ谷
地形は地形で福蛭 から(fL急に変る。 建部 あた りに姓広LJl脊底平野が 目をみ仕 るば か りに広 くひ らけてい る。私は 昭和1D年 この平野の一隅 で再生式住居 跡をみつけることがで 幸た。
ここでの完全な土器 と炉の位慣 なまる く敷石でぶち どっていた の紘‑i,まで も目に うかぶO石 田 先生が ここに条理 のあとを考 え られ てい るの も無理か らん と思 われる。 もっと も低い段丘面 とい え るむで 参ろ うが ,それ も堆 横面 らしい ところ が広 くみ とめ られ るOだが福渡の町 をはず れると せった くの段丘で,だれ がみ て もよくわかるほ どである。川 むこ うの久良で も ,道路ぞいの野 呂で もみん な段丘上 の非醇 で ある。 ちなみに野呂のい りロの県道にそ うて駈 疎 がみごとに あらわれ てt'、る。 ここらあた りか ら7ta川紘山地 をふか く切 りこんで曲流す る絞め とみ蛇行 で ,谷 の横断形 は Ⅴ手製そ っくりで ある。だか ら谷底 に平坦部 な ど綻見 られ なくなる。 ダ ムのつ くられる地 形 と は こんなところである。
こん な若 い谷に支谷が顕著 であること綻意外なことで ,それが歯 私的である点に意義を認 めね
ばな るiLへOそれは地形図でみてもわかるが ,東北一西南 の直線軟 の通谷 をつ くっている こ とで ある。 し、'/iでもなくこれ らは断 層谷 であって .軒下で も断届谷 では規
模
にかいてめず らしい も のばか りである。西川で中学校 の鮫庭 に立 って北方 をのぞ んだ達 しもがたしか J.・CうなずIJlたI.i/Cち がいない。その南に栃 拐‑.'の谷があD ,そ の南の延長 には小森 温泉が噴 くもの と五、もわれ る し ,鶴 田 の谷(,i ,福渡 図幅 内で直 鰍 であるたけ でな く ,赤心西富酸)打大西 か ら院 ノ庄 ま で延長する。こんな谷ばか i)歩いて谷底 の典裕の まrLなとと
だけ
に気を とられ ていると ,吉備高原 地方の土地
別 働 iほ とんど問題 にた らなしへで あろ う.剛 は 少東姉御へ の虹 己は広くこそ あるが曲折 して 急で ある.だが登 bつめた ら頂近 くの斜面にみる‑G落吐塊村 であるCそ してそ :D周囲 1..6=は水 mが 顔,:なとり'まい てい るのであるo Lか しこの程度では音節満腹の模 式地 とはレ、え ない。なるほ ど東 排和 とIk'.q一排卿 rkむすぷ道路 は等高線退路 で抹 あるが .その曲折 (rlllilだ LLへO これは.西川 の谷 と栃 IiTtL73谷に代 か Eれ たせ‑ih地塊で あるだけ に ,それ らp両方向か らの軽食の手かひど くのぴたせい とお もわれ るoそれ托簡研和 の雨の路傍か ら北方を在がめてみろことによ ってその綻げ しきが わ かるであろ うoせまい′J、さを地塊 にくt,・こむ新 しい脊 比 ,ち‑LtbVL'も大 き く深い。 このことtrl地 図だIrIみた uDでは理解 できない ところである。平坦面r t
南I,・Cわた った円城 , 弔
陽 にい たれば ,ひ ろ くもなる し ,馬原状 と4:る。レ、ず れ も急坂を登 りつ めてこの商止 に逢すろく7)で参るが ,こD面 上での道は直線 J.・r̲近 く ,路 上を走 る車中では ちっとも4 0 0mか ら・f)山頂にあることを感 じない。なかでも訳解町の青川 では ,フラノトた ことは沖所平 野 とまが うばか りで ,水 田の鞍に落差 を みたい こと8町 に及ぶと ,八丁境 の名 がつい てい・るほどで 奉るo あまつ さえ これ らの水田 (・Cい ぐ さが甘々 と しているのなみせつけ られ てirl群発を生す るの も無理 からん とい える。751ゝる平坦 面 はかって の準平原であるか ら ,レ、くら平坦て ある とレ、って も波t7)よ うに凸凹がみ られるはす で ,
ここのようにその凸凹の なレ・部 分 が 広V,・の妓まれ な例 といわねは な らぬ。 で もこ・zj北端の千木 あた りで浅い谷 かみ られ ,等福感 もこのあた りで道路に接する。 す別 っち有
荻
川の‑支流は ここ まで息 女谷をつ くって延び ているので あるC ここの韓V,谷 川 日輪池の谷 ,等 高線の接 してい ると ころが遜移点で ,これか ら下流 は折輪廻 の谷 といえるので ,新旧両谷 の接倒rlいつ もこのよ うに頼 斜変換点 となっているので あるO竹荘盆地で比九億 の土生 あた
り
に これ がみ られる. ここの河 床でk【花 こう岩 がその殺虫を さまたけて早激が若にむせんでいる。だがいかに もこの高原の盆地 にい とむが如 くみ られ る新 絵廻谷は .高梁 方面か らの もの で ,西端 の平 田の あたD
までのぴてい る狐谷 である。俵原の溜め池のある低地は旧畿担谷 で ,これは平田の十字路で南に急斜 している のが みられる。す なわ ち狐谷 の遷移 点で ある。「鮭に新編魁の脊 0)水田土地結 うす く,旧輸姫の それは短い。俵Jw.ではこの旧冶池谷か らQ)土 でE を放 い てvlるが ,その‑んの事冊を物語る もの‑‑1i‑
といえ よう。
最後にこの竹荘盆地 だけの概 観 をのべ てかきたいOこOI)盆地 の周革まを..みる('C4
007 W 内
外の と ころにか なり平 坦部があ って .これにItitい谷 らしい もCj)もつい てい る。ムLそ らくこのIbI比前述の 八丁畷所 と対応する ものとお もわれ る。 なんとなれば これに山砂利 をのせているのである。 これ に対 し新町あた りの盆 地底 とお もわれる あた りの標高は2 5 0m内外であるか ら ,か な9の高度 差 とい えるのである。 しか もこの盆地底結腐植質の粘土 の堆棟や t=I‑ I(溌炭 )まで も埋横 され ている。 こん なことか らこの盆地 はかって福原 の湖南で あった時代 が考え られる。そ して不思議 75:ことにこの底地の内側が第三紀層で ,これを と りま く商い ところが花こ う岩で ,この花 こ う岩 は丘略状に
この盆地 trLむかって張 りだ してい るので あるo 集落はそ うした丘暁に浅みれつ くよ う に立地 して6‑・り ,また この丘陵部が畑地 として節かれ ,そ CL)他 と盆地底 が水田でもAかわれ ている。‑また不怒涛と水凹域か ら比飲料 水が得 られ ないで ,この丘陵 周指か らのみそれ が得 られる。舶近 発達 した薪町の街村の親相はみんな この丘陵部で あって ,せ っか く便利 な低地に移 9なが ら飲料 汰 (I‑1との丘障部に求めている とい うあ りさまである。
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吉備高 原 と私米 村 昭 二 岡山大学に奉聴 してか ら ,はや4年 の歳月が流れたが ,月日の経過 の速 さもさる こと乍 ら ,私 に とって壮誠 に多Zii多難 な時期であ った。 そうしたなかに あって ,私 と壱備 高炉との蘇付 きは , 昭和 56年 9月 ,第6回地域研究 のときtR:始まるO昭和5 6年 といえば ,煎佳節 1年目の年で あ
り ,そ うした意味合いか ら ,吉備高原 との因縁壮早か ったとい って も よい。
これに先立 って ,旧新見正の福瀬 へ調 査に入 り
,
「名 」 を鳩成単位 とする祭花組撒 ,村落生活 を大 き く奴制するかな裁 ,か な子の親分子分領渡 が ,強 く私の社会学的興味 を呼 び起 したが .紘∴ '‑‑‑ll,
二
二 ∴∵ 二 二 二 ■∴ 二二 ‑' ''lj先任地国 際姓慣数大学社会科学研究 所時代 の 8年間 ,私の研究嶺城は ,主 として7 メ.)カ農村 」 社会学 に限 られ
,
此村 のフ ィー ル ドワークは ,その合間 を縫 ってて あり ,怨村 調査 に本格的に紺を出 したのは ,蝦後の2年間であった。.そ うした恵味 か、忙お小 て ,長年親 しんだ研究 所 を去 り, 7 メリカの文献 と離 れることは ,当時の私 忙とっては 御 前であb .正 (,E断腸 の)思い であったo岡
山 に来 て ,どの ような形で 自分の研究 を:立直 すかtr:つい て綻 ,正直 なところ 自信 めいたことは何
‑つ なか った。先 学 ,先生,友
人
は ,敵励 してgまくれたが ,何の拡 めに もな らなか った。 と もか く探 る よう女気持て三野旺したのが束尖であった。 しか し,これ を機会に何かをや られば とい う気 持 が強 く働 いたの も事 乗である。そ うした気拝 か ら文献 の収簸 ,文献 の研 究は ,長期計画 でや る こと(rCして ,先ず フ ィー ル ドに近い阿山 の特権を利用 して ,何 が できるか を誕査 し .足 腐めをし ようと考 え ,思い立 ったのがIJJ,I;瀬調査 であ った。そ うした たかで ,長里の同族 が私 (・・C与 えて くれ た印集は ,余 りに強烈であった。同族は ,我国社会学 の兼敏のなか で糖 も誇 りうる学問 的漣 産の 一つであり ,その本 質究明KtlrI.まだ未解決の分野が多 く残 され てV)るo ことに従来 ,D同族 #̲論は , 信州 ,甲府 ,東北 の釆俵に基づいた理論 であるだけ にそ この地域性が ,同族理論 に頭を与 えていない とは必ず しも言えない。 これに対 して ,その 他 で ,7J・た 棟 内 解 合 は ,関東 ,ILfI北に特徴的 な 上下的性格が弱 く,フラットであるが ,一族の結束 か固vlところにその特徴が ある。
これ綻少な くとも同族の‑類 型 と して ,取bあげ て'V,い問題 であるが ,その よって くる原田の 究 明も残された課題であD ,こ うした同族類型は一休全体 これまで論 じられて きたテ ィt=Eヵルな 同族か ら組結合に至 るプロセスの一段階 なのか どうか の位肝づけ も問題 になる。宕イ郎 占殿上の村 落は ,家格意識 がいまたか強 く ,伝麻 も空か で ,史料 も比較的保有 されてVl・73ところだけに ,同 校問題 を解明する格 好の場所でtri^ないか と思 う。 故 と青備高原 との結付 き比それに始ま ら ,それ‑ に熊る ともい ってい Vlか と思 うC
社会学は現実科学で あ り,現下の凸村吐範換期 に当面 し ,その方・Ju]を性索してVl・5とき ,今更 そんな悠長 なととを との声 もあるが .それ絃そ れ として究明すれ ばいいのであり ,又それについ ての私見 もある。 しか し ,同族問題 拭 ,日本の村請神道を解明する一つ の鍵 であり,日本文化の すぐれた遺 産を知ろ うとする人もあっていい し ,同族 研究は ,正路の ようには見えろが .今 日oD' 凸村を理解す る正 しい方法 でもあるo少 なくと も私性そ う
思レ
、,それに弟気づけ られて ,割 希高即 特 徴的な上 り ,下 り摘 ぎ乍 ら ,巌 ,鍾 ,棺 と歩;き続けた。
私が 吉備 満腹に引かれ る第二の点は .祭ネ己組鮎て ある。「鮫に ,作州('=は,「:乙」 ‑・k柵成単位 I
とす る祭妃組扱 う;か な b残存 してい る,私見に限っても4 0は ある。 なかには ,中世の名主体制 に由来する ものもある し ,奴 名体制に よる ものもある。歴史家でない私に ,起源 の問藍扶余わに
' 難 しい間組であるが ,現在を間組 として ,そ の究明に必要で可能 な限 り .歴史的 に淋源する方法 を用 いる社会学 にとって も ,この間温 結擾めて舛妹疾い。名 の分解 ・解体一 近世村落 の独立 '発 展は ,中世か ら近世 への 移行 を称す韮箪 テーマ であるが ,それに同族 の発展 .ノJ、分団化 を績ませ ることにエ‑=て・一層 グィグィッドな分析 が{・き ,問ki政一届 梢細 に匪鞘 できるので仕 たいか と思 う。
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僻に .祭妃組鰍 ,「伝統 の容器J といわれ ,伝東 と版行をよ くキー プしてい るだけに ,この面 か らする追 求1.・r̲よって .史料の欠如を補足 できるだけ でな く,同族間題の解 明にもスポ ッ トライ トを与えて くれ るもの と考え られ る。少 なくとも私 は中世か ら近世 の移行 を同族 と槻係づけて論 ずる必要が あD ,吉備高原 では地 図法 に よる 「名」 の復原 と共にそれ カ可 能 である と思 ってい る。
私は ,そ うした例を ,打穴 に ある宮代 神社に入 る未貞名 と佐居棟内 との流速にみる ととがで きた が ,そ こでは ,本当 .助当関係が ,本 家 ,分家の序列 に即応 してお り ,佐居屋敷 とその名 田を復 原することもできた。耕
卸
「三の宮」の改造名 を政近一統 ,気音神社 の友久名 と界 田‑ 枕 ,下加 茂 村 ,日吉神社につい ても同様 のことがいわれる。一例 をあげる と ,延宝4年(1 67 6)の「下加茂村 日青神社寄進扱」に 日吉神社蹄係の名と して 21名 ,名 屋敷 として 98屋敷 が あった ことが分る。 これ を野&‑につい てみることに して苦己戟方式 をあげると ,1.拾匁 冊久 名林屋 敷 佐助 1・三匁 同名新屋敢 七右軒門 1.‑=匁 同名片今 屋敷 久三郎 1.三匁 同名一段屋敷 と
ある。さ らrLこれを 「備前国i,)高和犬谷村之内野原中之先祖脊 下シ
」t
・C
上って関係づけ ろと ,助 市郎 の後嗣が佐介であ b ,松左工門柱 ,助市餌 の二男 ,七右衛門紘三男 ,久三郎壮 四男 である。本名 ,脇名の園係が同族の上下 関係 と相 即 し ,名の分解が同族の発展 ,分家 創設 と一致 している 事情が分る し ,しか も奈妃 面 ではそれが 依然名のもとに統一され て ,模能 している こと も判然 と する。
このように ,条花 組散を中核 に ,名 と同族 とを鮒連 づ けることは ,単に名 ,同族間題だけ でな く ,さ らに近世村落共同体の法 化の究明 にも通 じるの ではないか と思 ってい る。7 メ リカのす ぐ れ た社会学者 ホーマンズ(Romans) 紘 ,社会学的 観点か ら「English Villager8
0f the Thirteenth CenturyJ とい う名書 を残 し〝Thc Rural Sociology oL Medieval England〝 とVlう好玲文 を残 しているが ,あやかるわけでは決 してない が '私 も歴史社会学 の分野で いい アルJl.イ トを したいOできない迄 も ,せめて志 したいと思 って いる。 しか し ,その道は険 しく厳 しvloそれ だけ に .青備高原 をい っしょに歩いた研究室 の#.君 , 同学の友が一入嬢 しい。そ うした人達 の協力に答える上 か らも大 いに研射 しなければ ならない。
以後に ,祭祖組般 欄 連する閉尿 と して ,姐出面か らするこれ迄 のアプ ローチと並んでいt一 つ素数の内容に迄 分析 を進め る必要が ある。少な くとも吉備高原では ,そ うする必要が あ り ,i たそれ が可能では ないか と思 う。厳 しい 自然 と災厄 とに対処 して生 きなければならをV機 民にと って ・科学が幼 稚で あればあるだけ ,兼敏 は勇気 と行劫 の指針 を与えて くれ る大 きな力で あった。
天災と病気 が どれ位姓氏 を苦 しめ悩 したかは矢吹棚 「近世作爾 座付史料」忙その一端を何 うこ とができる。そ うした曲民 を慰め ,救お うと した のが宗教 であ 9 ,案毅 との仲立 ちを したのが神
.1.‑ー占」.‑I.ー
官であ り修験で あり ,黒住 敏郎 であった。彼等 比時に「処に会 して腕 を競い ,派手 な信者獲得合 戦を くiJひろげた ことが排和の各地の醇車 とな っている。分けて も既存宗教 が根 を張 った切放に
敢 て進出 し ,布教 を志 した無住教が近世末軌以降 どのよ うな経路 を経 て布教 し ,何 を以 て借着を 姓神 して行 ったかの研究は ,私見 の限りでは可能である。開山県 tR:仕他 に不 受不施 あ b ,金光教
もbで ,宗教社会学の宝庫 である。今 更宗軟 などとV}う人 も多か ろ う。そ うした科学的合理主義 (・{立つ1.か らの宗教掛 1,かって儒教 的合理主義 の立場か ら淫雨 信仰 を斥け ようと して寄宮 を断 行 した啓蒙君主と一脈相通ず るものか ある。不合理 を合理 とする曲 民の如法結一席だ忙され てい ない。その力か西欧近代化のエ トスとなった こ とはいまさ ら申す必賓 もない が ,鹿民のたかに入 りそ こに働 く生きた宗教 のカ を知 る努力比 .{・'つて もV,し,I.いや是非やって欲 しい。そ うした必要 性を曹備高原 を歩 き ,魚住教伝播の一端を垣間みることに よって LJ/L'・み痛感 した次第で あろ。
できれば 自分で も危咋研究 してみたい と思 ってい る。そ うなると ,吉備高原 と私 との因縁は なか なか切れそ うに もないC
臥 上 ,とりとめ もないことをしたためたが ,本来 性祭花組敗に陛け ち報告を啓 く予定 であ った。
それが ,史料の生理 も充分でな く,期 日もなか った こ とか ら 「盲備高原と
私
」 とい う印象記 にな った次第で あ.h 私 の不手際に よるだけ '..Lllf任が ある。せめて ,次回 の巡斡 記に本格的 レポー ト をなか せて戴 き ,その任 Id:果 させ て瀕 うことに したVl。9‑