熟達心理学の構想 : 生の体験から行為の理論へ
著者 野村 幸正
発行年 2009‑12‑16
URL http://hdl.handle.net/10112/00020074
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終章 新たな行為論を目指して
Ⅰ 自己に学ぶ
1 行為すること・生きること
われわれが生きてゆくためには︑他者を含む世界と何らかのかかわりをもつことが不可欠であ
り︑突き詰めれば︑かかわりそのものが人生であるといっても過言ではない︒そのかかわりの手
だてが認知であり︑なかでも行為である︒行為の重要性には計り知れないものがあるが︑認知心
理学者は自らの理論を構築する際︑必ずしもその重要性を正当に評価してこなかったのである︒
アメーバの捕食行動に関しては︑外界の把握と捕食行動が不可分であると認める認知心理学者で
あっても︑われわれ人間の場合には︑それらを二元論的に捉えるのである︒しかし︑身体をもた
ない純粋精神でないかぎり︑われわれの認知と行為の関係も︑基本的にはアメーバのそれと大し
て変わりはない︒一切の行為を伴わない認知はありえない︒
行為は意図を具現する手だてであるが︑それは単に生命を維持するためだけにとどまるもので
はない︒むしろどのような意図の下で人生を構築するのか︑行為はわれわれがそれを構築する際
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の重要な手だてである︒このあたりがアメーバの捕食行動と根底から異なるところである︒われ
われ人間では︑意図を具現する行為の違いによって︑実際に構築される人生のあり方も随分違っ
たものになる︒なかでも︑生きる実感を伴った質の高い生き方を希求するのであれば︑それにふ
さわしい認識と行為の関係があるはずである︒としても︑はたして人生の質に直接対応するよう
な行為がそれ自体存在するのであろうか︒むしろ意図を具現するにふさわしい行為をそのつど生
成するなかで︑やがては人生の質に深く関与するような意図︑さらには行為がおのずと立ち現れ
ると考えるべきであろう︒
では︑質の高い人生とはどのようなものであろうか︒認知心理学・認知科学の視点からすれば︑
人生の質を構築する根源はまず知識ということになる︒知識は︑個々人が自らの経験を抽象し︑
また捨象するなかで体系化されたものであるが︑われわれはその最終的な所産ではなく︑むしろ
その過程を知識として自らのうちに蓄積している︒それらは手続き的知識として記憶されており︑
これが固有の場における意図を生み出し︑さらには行為の生成に深く関与していると考えられて
いる︒ 行為と知識の関係は︑知識に基づいた期待︑予期図式から行為︑そして新たな知識の獲得とな
り︑これらはつねに循環する︒図式に合致するものは受け入れられるが︑それ以外のものは排除
される︒そのため︑われわれの認知や行為はこれらの経験︑なかでもすでに獲得している知識か
ら逃れられないことになる︒だからこそ︑湯川博士のいう﹁固定観念の打破﹂︵第
4章参照︶や脱
273 終章 新たな行為論を目指して
知識が求められるが︑その実践の一つが︑たとえば知識と行為が分かちがたく結びつくことであ
る︒それが﹁知行合一﹂の意味するところである︒
知行合一とは︑認知と行為が不可分であることに言及したものであり︑限りなく自由であり︑
かつなにごとにも囚われない一体化の境地である︒この境地に至ることで︑われわれは実社会で
直面する多くの問題に対処しうるだけでなく︑境地それ自体が精神的な安らぎ︑安定感︑満足感
に結びつく︒それは紛れもなく人生の質を高めているはずである︒具体的には知行合一は﹁わか
る﹂と﹁できる﹂に乖離があることを是とせず︑双方が一致した境地を高く評価したものである︒
認知心理学からすれば︑それは形式知の獲得にとどまるのではなく︑それを超えて暗黙知︑身体
知との整合性に重きを置いたものである︒
東洋では︑その境地に至る手だてとして修行を重視し︑その道筋を体系化してきたのである︒
行為の一形態である修行はある意図を具現するための過程としてあるが︑一方では過程それ自体
が一つの目的となっている︒それは修行があらゆる階梯で過程と目的を同時に合わせ持ち︑本来
が区別できないからである︒もちろん︑意図にふさわしい修行のあり方がそれぞれにあるが︑そ
れは外部観測︑全体視野から捉えられるようなものではなく︑あくまでも個人の視点から捉えた
ものである︒個々人のうちでは︑修行を経るにつれて知識の捉え方︑行為のあり方︑なかでも知
識と行為の関係は質的に変化する︒その変化を外部観測すれば︑関係は明らかに﹁複雑﹂になっ
てゆくのであろうが︑内部観測からすればそれは﹁単純﹂になり︑さらには透明になってゆく︒
274 単純あるいは複雑のいずれにしても︑知行合一は獲得すべきものであり︑時には知識から行為
へ︑時には行為から知識へ移行してゆく︒どのような知識と行為の関係が望ましいのか︑必ずし
も明らかではない︒これらの関係として︑知識の行為化︵Knowledge into act︶︑行為の知識化
︵Knowledge through act
︶︑
行為のなかの知識
︵
Knowledge in act
︶ が考えられる
︒ もちろん
︑
これらを厳密に区別することは不可能であり︑実際には互いに関係している︒まず︑知識の行為
化は表象からの行為であり︑分かることからできることへの道筋である︒また︑行為の知識化は
自らの行為を知識として把握することであり︑できることを反省的に捉えることである︒前者で
は知識が行為に先行し︑後者では行為が知識に先行する︒これらの違いは学校教育と徒弟教育と
の違いにそれぞれ対応する︒これらに対して行為のなかの知識では︑文字通り知識と行為が相互
に関係しながら同時に進行している︒
いま︑知行合一を理想とするのであれば︑どのような知識が行為に結びつくのか︑またどのよ
うな行為が知識に結びつくのか︑これらの知識と行為の関係が問題になる︒すべての知識が行為
と合一する訳ではないとすると︑歩留まりの高い知識が︑また行為が当然望まれる︒歩留まりは
熟達化の階梯においても︑また課題の違いによっても当然異なってくる︒それだけでなく︑歩留
まりという発想がある種の価値観と時間の幅を反映している以上︑それらの違いをも色濃く反映
した知識と行為の関係が成立することになる︒とすると︑これらの関係から到達した知行合一が
質的におなじであるという保証はまったくない︒質の違いを含めた上で︑知識と行為の関係を明
275 終章 新たな行為論を目指して
らかにしてゆく必要がある︒
2 ナレッジベースドアフォーダンス
行為の生成は︑一方では状況を踏まえながら︑他方では既有の能力や知識を積極的に利用する
ことが求められる︒しかし︑これらは対峙するものではなく︑本来がひとつのものである︒前者
はマイクロレベルの変化であり︑状況さらには環境がアフォードする情報に基づいて行為がその
つど生成されてゆく︒また後者はマクロレベルでの変化に対応したものであり︑経験を介して獲
得された知識に基づいて行為が生成されてゆく︒この場合の行為は︑しかしながら生態心理学で
いうアフォーダンスによるものではない︒知識がイナクトメントを喚起し︑それによってイナク
トされた環境が立ち現れ︑その環境がアフォードするという意味からすれば︑ナレッジベースド
アフォーダンスと呼ぶべきものである︒
では︑ナレッジベースドアフォーダンスとは何か︒波多野誼余夫氏は﹁スキルの科学﹂研究会
︵二〇〇二年一〇月一三日︶でこれに言及されたが︑氏自身が明確に定義された訳ではない︒ま
た︑広く認知されている用語でもない︒いまは亡き氏からその真意を質すことはできないが︑筆
者からすれば︑ナレッジベースドアフォーダンスとは︑生態心理学でいうアフォーダンスの概念
を経験的知識にまで拡大したものである︒橋︱渡るとか穴︱入るという外界の事象と行為の関係
ではなく︑熟達化のなかで獲得された知識がアフォードし︑行為が生成されるのである︒
276 たとえば︑われわれは経験を重ねることで知識を獲得するが︑やがてその知識は他の知識と統
合され︑また再構成されるなかで独自の働きをするようになる︒図式の働きもその一つである︒
このような知識の働きによって構築された世界は︑熟達化の階梯を上るにつれて確実にリアリテ
ィをもつようになる︒このことは︑その世界が場の情報となんら乖離することがなく︑行為に必
要な新たな場の情報を生成してゆくことを意味する︒その場の情報が行為をアフォードするので
あろう︒とすると︑ナレッジベースドアフォーダンスは外部観測の所産と無関係でないにしても︑
基本的には内部観測の所産と関連すると考えられる︒内部観測された情報とナレッジベースドア
フォーダンスが統合され︑その情報に対するアフォーダンスが行為を生成してゆく︒
それだけでなく︑ナレッジベースドアフォーダンスという発想は︑従来のアフォーダンスに内
在するいくつかの問題を解決する可能性を有する︒生態心理学が知覚と行為の不可分性を強調す
ることから︑行為者の内的なメカニズムに関する議論が困難であり︑そのためエンジニアリング
につなげることも難しい︒しかし︑このような問題点を補償する新たな考えがナレッジベースド
アフォーダンスであろう︒としても︑これら双方を対峙させることは妥当な捉え方とはいえない︒
知識が熟達化のなかで獲得されたものであるとすると︑ナレッジベースドアフォーダンスはもう
一方のアフォーダンスと深い関係にあると考えてよい︒
これら双方のアフォーダンスは︑個別のアフォーダンスとして立ち現れる以前では︑本来が一
つのものである︒そこでは行為主体としての自己意識もなければ︑課題を含む世界についての対
277 終章 新たな行為論を目指して
象意識もない︒純粋経験の真只中にあって︑主客未分の一体化の事態である︒それはいかように
も分化発展する可能性を秘めた不二体としてある︵野村︑一九九九︶︒不二体の分化発展によって
生じた知識は︑頭の中にそれ自体存在する表象としての知識ではなく︑あくまでもいま・ここで
機能している知識である︒その知識は認識主体の完結型の知識ではなく︑むしろ開放系に見られ
る生成型の知識である︒生成型の知識であるからこそ︑その知識からナレッジベースドアフォー
ダンスが生じるのである︒
3 学びの場
一般には︑師匠︵教授者︶と弟子︵学習者︶との関係は比較的に安定したものであり︑また教
えるべきことがそれ自体あると考えられている︒ところが︑弟子や学習者がわざを習得し︑その
力量が増すにつれて︑やがて師匠は弟子の要望に応えられなくなり︑弟子は師匠の下を離れてゆ
く︒伝統的な学びの場で見られる守・破を超えた離である︒この段階に到達すれば︑獲得と伝授
の関係だけでなく︑師匠と弟子の関係も違ってきて当然である︒師匠と弟子との関係は師匠の力
量によっても︑また弟子の力量によっても異なり︑その関係は絶えず変化する︒しかし︑このこ
とと長年に及ぶ師弟関係で築かれた人間関係とは別物である︒あくまでもわざの習得時における
関係であるが︑現実には師弟関係そのものが崩れてゆくことも決して珍しくない︒
伝承︱学びの関係は本来が動的なものであり︑その関係はそのつど作られてゆく︒その関係を
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記述するとなれば︑師匠︱弟子︑教授者︱学習者という記述以外にない︒しかし︑実際に記述し
うるのは関係ではなく︑師匠の捉えた弟子の行為であり︑また弟子の捉えた師匠の行為である︒
しかも︑師匠の行為はもとより弟子のそれもまた多様であり︑そこに伝承の内容と学びの内容と
の違いが絶えず立ち現れてくる︒そのため︑そのつど作られる関係は︑厳密には一回限りのもの
であり︑普遍化できるようなものではない︒これが伝承︱学びの難しさを引き起こしているが︑
学びの場に身を委ねているかぎり︑その難しさを超えて新たな伝承︱学びの関係が生じることが
ある︒徒弟教育が﹁教えない﹂教育であるといわれるのも︑結局このような状況があるからであ
る︒ では︑そもそも学びの場とは何か︒それは文字通り学びを保証する場であるが︑その場が時と
場所を離れてそれ自体ある訳ではなく︑いま・ここの拡がりのなかにそのつど生成される︒そこ
では伝承する者︑学ぶ者がそれぞれに規定され︑また一方では︑その関係が学びの場を構築して
ゆく︒もちろん︑いっさいの枠組みをもたない学びの場はありえない︒現に︑師匠と弟子の関係
がまえもって規定されていることは否定できない︒としても︑動的な学びの場では︑師匠が必ず
しも師匠であるとは限らない︒時には兄弟子が師匠の役割を果たすこともある︒文字通り︑﹁弟子
の準備が整えば師が現れる﹂︵チベットの箴言︶のである︒弟子にとっての学びの場は︑実践共同
体のあり方との関係でそのつど構成されるものであって︑必ずしも制度上の師匠そのものとは限
らない︒
279 終章 新たな行為論を目指して
このことは︑新弟子が捉えた学びの場と兄弟子︑さらには師匠のそれとが重層的であり︑しか
も錯綜した構造としてあることを意味する︒熟達化のレベルの違いによって︑そのつど立ち現れ
る学びの場は質的に違ったものとなり︑段階的に積み上げられるようなものではない︒学びの場
は実践共同体に参加する人びとから構成されるが︑その参加のあり方は参加者の技量の違いを︑
また熟達化のレベルを反映したものである︒たとえば︑参加者はその技量に応じて必要な道具を
自らの身体に組み込み︑拡張された身体として実践共同体を構成している︒そのため︑学びの場
はいっそう複雑になる︒
このような学びの場では︑弟子は﹁誰から何々を学んだ﹂と明確にすることも難しい︒師匠だ
けでなく︑兄弟子からも︑時には仲間とか弟弟子からも学ぶことも少なくない︒また︑師匠が伝
えるべきことを直接弟子に教授したというよりは︑むしろかかわりのなかで︑弟子自らがそのつ
ど学ぶべきものを独自に学んでいるのであろう︒とすれば︑そこで学んだことの多くは中心化方
略というよりも︑むしろ脱中心化方略によるものである︒このような重層的な学びの場が拡がり︑
それが徒弟制のような社会システムと有機的に連携することで︑さらに新たな学びの実践共同体
が構築されてゆく︒
熟達者は場の支援と制約の相互のかかわりのなかで行為を生成してゆく︒そのかかわりは暗黙
のものであり︑その多くは記述不可能である︒としても︑参加者は場に参加してゆく過程で︑そ
のかかわりを何らかの形で感知している筈である︒たとえば︑参加者はスクリプトの連なりを支
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援と制約のなかで︑一つの意味あるまとまりとして暗黙裏に捉え︑それらから構成される行為の
姿を感知してゆく︒さらに必要なら︑この暗黙知に依拠しながらその行為を全体︵統合︶に位置
づけて捉え︑最終的に全体︵統合︶に至ることもある︒ただ︑その感知は教えられないものであ
り︑参加者が自ら学ぶだけである︒師匠はこのことを熟知しているからこそ︑学ぶ機会を与える
にとどまり︑あえてそれを教えようとはしないのである︒
Ⅱ 行為の本質
1 意図を超えた行為
古代インドの人びとは感覚によって再構成された世界こそ︑﹁世界﹂として認識してきたのであ
る︒しかし︑その感覚は主体の動き︑行為があってはじめて可能となる︒とすれば︑行為を介し
て立ち現れた世界こそ︑﹁世界﹂として認識されるべきものであろう︒その世界に棲息するわれわ
れは身体としてあり︑誕生し︑成長し︑やがて消滅するというプロセスを辿っているが︑そのプ
ロセスもまた行為に埋め込まれたものであり︑世界はその行為に応じてそのつど違った様相を見
せる︒ いま︑生命体が従う誕生︑成長︑消滅のプロセスをそのまま受け入れるのであれば︑行為は生
281 終章 新たな行為論を目指して
命を維持するそれに終始するはずである︒進化軸上でみれば︑ほとんどの生命体の行為がそれで
ある︒しかし︑われわれはこのプロセスをそのまま受け入れられず︑このプロセスに逆らう行為
を繰り返している︒それが︑たとえば断食︑禁欲︑捨身等の行為である︒そしていま︑これらの
行為を自らが目的を具現する契機として読み取るならば︑その行為は宗教的行為と呼ばれるにふ
さわしい︒
では︑生命体が従う誕生︑成長︑消滅のプロセスをそのまま受け入れる行為と︑それに逆らう
行為との違いは何か︒心理学はこの問いにどのように答えるのであろうか︒そもそも︑認知心理
学︑行為心理学が言及する行為とは︑行為者が自らの意図を具現するための動作である︒意図と
は︑目標を志向している体験であり︑一定の行為を実行しようとして努力し︑所期の成果をあげ
ようとする心理過程である︒たとえば︑行為とは歩く動作であり︑歩こうとする意図がまず起こ
り︑次に足︑手︑身体などの諸力によってはじめて歩く動作が起こる︒また︑目標とは︑生命体
の行動が︑それに至って終わるように予定された対象物や︑場所︑水準︑事態などをいう︒迷路
学習での鼠には餌そのものが目標であり︑二次的には場所が目標であるが︑われわれ人間では︑
それらを超えて精神的な意識水準に到達することも重要な目標である︒一般には︑一次目標に依
拠しながら二次目標へと連続的に移行するが︑宗教的行為では一次的目標を否定して︑はじめて
二次的目標へと至ると考えられる︒
進化軸上で見れば︑そもそも行為が適応のためであり︑生き残りのための手だてであることは
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否定しえない︒また︑個々人のレベルで見ても︑行為はそれぞれの意図に依拠したものであるが︑
この場合も最終的には適応︑生存の手だてであることには違いない︒では︑行為は生存の手だて
に過ぎないのか︑それともそれ以上のものなのか︒それ以上の意味があるとすれば︑その奥にあ
る行為の本質とは何か︒この問いは︑通常の心理学の枠を超えているが︑行為の本質に言及しな
いかぎり︑行為論は未完のままであろう︒
いま︑未完の行為論を完成させるためには︑まず行為と意図の関係に言及しなければならない
が︑これは行為の定義の見直しにも通じる︒まず︑意図をもたない行為は行為とはいえないのだ
ろうか︒生得的な本能行為では︑生命体の意図はないと思われるが︑解発刺激に喚起された本能
行動は生命体の生存を維持するためのものであり︑その関係をシステム全体として捉えれば︑そ
こには何らかの意図があるともいえる︒ただ︑その意図が外在化されているだけである︒一方︑
意図を個体内に限定するのであれば︑本能行為には意図はなく︑厳密な意味では行為とはいえな
い︒しかしいま︑意図を表象と考える立場をいったん棄却すれば︑行為の守備範囲は拡大する︒
この点に注目したのが生態心理学であり︑頭に表象という意図があり︑それを具現する行為が
ある訳ではない︒意図とは︑身体という機構が環境との関連を保ちながら実行するひとまとまり
の行為である︵第
10章参照︶︒現に︑動物の推進器官は表象に基づいたものではなく︑複数の感覚
器官への入力と連動することで︑その動きには目的に向かうことがはじめから埋め込まれること
になる︒そして︑興味深いことに熟達者にも同様のことが見受けられる︒初心者は頭の中の表象
283 終章 新たな行為論を目指して
に基づいて行為を生成するが︑熟達者ともなると感覚器官への入力に沿いながら行為を生成する︒
熟達者の行為と本能行動とを同列に扱うことはできないが︑すくなくとも熟達者のそれでは意図
が外在化されていることは充分にありうる︒
ところで︑生命体の誕生︑成長︑消滅というプロセスに逆らう行為は︑生命体がもつ本来のあ
り方︑つまり生存という意図に反する︒では︑人は何故に意図に反する行為をするのか︒行為が
意図を具現するものであるとすると︑反する行為の意図は何か︒一見すれば︑意図に反するよう
に見えるが︑実は意図を具現している可能性は否定しえない︒
その根拠は︑行為者が意識している意図のもっと深いところにある意図が具現した可能性であ
る︒双方の意図のあいだに乖離があり︑しかも後者の意図が強力であるため︑意識されることは
ない︒これは抑圧された無意識の働きを重視する見方である︒意図が深く内在化し︑時には抑圧
されていると︑一見すると意図がないように見えるとしても︑当事者の意識を超えたところで︑
本来の意図に合致した行為が生成されていると考えられる︒いま一つの理由は︑われわれがしか
るべき時間的︱空間的な拡がりのなかに生きており︑一見逆らうように見える行為も︑長い眼で
見れば︑その行為は当事者をも含めて世界の意図に合致した行為なのであろう︒いずれの理由か
らしても︑一見すれば意図とは無関係であるかのような行為も︑それ以前に意図が外在化されて
おり︑それに支援または制約されている可能性は充分にある︒
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2 カルマと無願
意図の内在化および外在化と行為との関係を見てきたが︑いずれも行為者の誕生から死までの
期間内に限定して考えたものである︒現在の心理学の考えからすれば︑この考えはきわめて妥当
なものである︒そもそも心理学は神学からの独立を求め︑神の意図ではなく人間の意図に基づい
てすべての行為が生成されると考え︑その機序を解明してきたのである︒それが心理学でいう心
であろうか︒この心をどのように人間のなかに位置づけるのか︑その定義や方法の違いから︑そ
れぞれの心理学が構築されている︒しかし︑いずれの心理学であっても︑その意図は個々人の生
きている範囲内であり︑それを超えて機能する訳ではない︒
では︑前世の経験が記憶として残り︑これが現世の行為者の意図を構成し︑行為をもたらすと
いうことはありえない話なのであろうか︒ありうるといえば︑多くの誤解を招くだろうが︑イン
ド哲学・インド心理学は現在の心理学が決して是認しようとしない可能性を延々と信じてきたの
である︒それを荒唐無稽なものとして一笑することもできるが︑進化心理学からすれば必ずしも
間違いとは言い切れないのではないか︒たとえば進化軸上では後天的なものが︑進化の後では先
験的なものとしてあることは否定しえない︒学習能力をはじめとして︑われわれが多くを生得的
にもって生まれることは否定しえないことである︒この視点からすれば︑生得的な特性は文字通
り前世の賜である︒
いま︑誕生︑成長︑消滅というプロセスを前世にまで拡大し︑そこでの意図と行為の関係に言
285 終章 新たな行為論を目指して
及すれば︑たとえば宇宙の根源力とカルマ︵業︶との関係にまでゆきつく︒まず︑宇宙の根源力
とはインド哲学でいうシャクティであり︑宇宙に遍満するエネルギーである︒これに関して︑立
川は︑﹁時間の経過を意識すると否かにかかわらず︑物理的時間は生命体にとって経過する︒そし
て︑生命体がそれを自分たちの行為の中に意識するとき︑われわれはわれわれの力を越えたもの
のなかに把えられていることを知るであろう︒﹂︵立川︑一九九三 頁一二︶というが︑われわれ
の力を超えたものこそシャクティであろうか︒
カルマとは︑佐々木によれば︑﹁意志を起点とし︑他の諸力によって実行されるところの動作で
ある︒カルマは意志を起因とし︑次に身を動かしたり︑口を動かしたりするのである︒聖者は人
間的行為の根底に宇宙力の顕現を見てとった︒仏陀もその一人であった︒彼は人間的行為を業︵カ
ルマ︶とよび︑宇宙力の顕現を意志︵意業︶とよんだ︒そして︑その意志を以て行為の起こる重
要な起因となした︒﹂︵佐々木︑一九七六 頁一一五︶︒ 一般には︑業は善因善果・悪因悪果として倫理的世界を説明するためのものとして捉えられて
いるが︑佐々木はそれに否を唱える︒彼のいう本来の業論とは︑人間の意志の重要性を認識する
ところにある︒しかも︑その意志は個人的な︑恣意的なものではなく︑普遍的であり︑必然的で
あるという︒なぜならば︑意志は普遍的︑必然的宇宙力が人間の上に現れた自己顕現に外ならな
いからである︒
では︑意志とカルマとの関係は︑認知心理学でいうところの意図と行為との関係にそのまま当
286
てはまるのであろうか︒後者の関係は前者に収束されると考えることもできるが︑一方ではカル
マと認知心理学の基本的な考えを同じレベルで扱うことには抵抗を感じる︒そこで︑ここでは行
為を意図の具現する手だてとしない︑つまり無願の見方を採るのである︒
行為を無願とする思想は宗教上の修行とも︑また優れた熟達者の行為とも深くかかわる︒無願
の思想は荘子の無為自然とも関係する︒たとえば︑身体を自由に操作しようとする意識をもつこ
とが︑かえって動きをぎこちなくすることがある︒その意識を抑えて自然に任せると︑身体は自
在になり︑なめらかな動きを取り戻す︵第
10章参照︶︒自由であるとするこだわりが囚われを生み
出すのであり︑こだわりを捨て去ることの重要性が古来より指摘されている︒しかし︑それが難
しい課題であるがために︑荘子は無為自然の立場から有為自然に戻ったといわれている︵森︑一
九七九︶︒これは二つの無心︵第
12章参照︶とも関連するものであり︑また西田幾多郎のいう純粋
経験とも通じるものがある︒
こだわりを捨て去ること︑これがすべてであろう︒こだわりさえ捨て去れば︑われわれは自然
の変化そのもののなかに自らを委ねることができ︑身体は自然の変化流動そのものを生の感覚と
して捉えることができるのであろう︒修行や熟達とは︑本来がこだわりを捨て去る手立てである
ともいえるが︑それは単なる道筋以上のものであり︑目的そのものでもある︒これが行為の本質
に言及することを難しくしているのであろう︒
宗教的行為といわれる修行は︑ある種の認識︑たとえば悟りの境地に至るという目的をもつと
287 終章 新たな行為論を目指して
しても︑それらの行為と目的との関係は直線的でもなければ︑ましてや因果関係で結ばれるよう
なものではない︒この意味で︑双方の関係は間接的であり︑それだけ修行が難しいということに
なる︒修行の一形態である︑たとえば歩くことは︑その認識に到達するための必要条件であって
も︑十分条件ではありえない︒歩きさえすればその認識に到達できるという保証はない︒それは︑
歩くことと悟りと呼ばれている高度な認識は決して因果関係で結ばれるようなものではないから
である︒ では︑宗教の教義が修行者に対して︑修行と称して歩く︑座る︑唱えるといった厳しい行為を
要求し︑それを遂行するなかで彼︵彼女︶らが高度な認識に到達しうるのは︑歩くという行為と︑
その行為を介して間接的に立ち現れた認識のあり方が布置し︑共時的な関係にあるからではない
か︒そこには歩くという行為が意識を突き破り︑その奥にある無意識と身体がうごめき︑これが
自己組織的に新たな認識をもたらすのであろうか︒
ところで︑日常の目的的行為と宗教的行為の違いは︑外部観測からすれば︑目的的行動が﹁あ
る﹂を前提にしているのに対して︑宗教的行為は﹁なる﹂ことに重きを置いている︒目的的行為
は純粋経験の分化の所産であり︑その分化以前のあり方こそ宗教的行為が希求しているものあろ
う︒換言すれば︑目的的行為は純粋経験を主客に分離し︑行為を対象化するのに対して︑宗教的
行為は主客未分の一体化に潜入する手だてである︒
では︑なぜ宗教行為は一体化を重視するのか︒それは︑分化以前の︑すなわち概念化以前の︑
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言葉にならない世界を直接つかむためである︒われわれは︑主観と客観︑心境と対象が渾然一体
となっている世界の真意を把握しうるが︑それが可能なのは︑空海のいう﹁六塵は悉く文字なり﹂
によるものであり︑書き記されているからであろう︒その文字とは知覚記号であって言語記号で
はない︒知覚記号を介して深秘の世界を捉えることができるのは︑われわれと世界がかかわりを
介してつながれているからである︒かかわりは双方向的であり︑その状況に応じて実際に行為す
ることであり︑対象化を経た情報を共有することではない︒知覚記号はかかわりのなかに埋め込
まれており︑それは情報ではなくかかわりとしてある︒そして︑かかわることで心と身体が︑さ
らには自己と世界が一体化すると︑そのなかでそのつど心が立ち現れる︒その心は一体化した︑
反省以前の生の世界を読み解いたものである︵野村︑二〇〇九︶︒