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(1)

社会主義国の政治文化

霜 田 美 樹 雄

ま え が き

社会主義国の政治文化

 第一次および第二次世界大戦は世界の資本主義瞬発展の帝国主義段階における植民地再分割戦争といわれた︒植民

地再分割によって自由主義的資本主義は延命するどころか逆に死の宣告を与えられた︒自由主義的資本主義は崩壊

し︑その帝国主義的支配の環の弱い部分が瓦壊して︑新体制を形成したのだ︒西欧資本主義の所産の一つたるマルク

ス・レーニン主義を立国の本旨とするソ連邦および東欧社会主義諸国が成立したばかりでなく六〇年代以降アジア・

アフリカ諸国の族生を見た︒これら諸国の成立がマクロ的には世界における資本主義的矛盾の所産でありアンチ・テ

ーゼであると見られ︑︑ミクロ的には諸国の成立と発展がその国の在来の歴史的伝統的交化諸様式からの影響を無視で

きるものではない︒これをソ連邦および東欧社会主義諸国とくにギリシャ正教を持つルーマニア︑ブルガリアおよび

ユーゴスラビア諸国について考える場合︑これら諸国はいずれもマルクス・レーニン主義にもとずき宗教に対して原

則的に否定的立場をとる国家であるが厳格な国教分離政策の遂行に当り︑思想︑表現の自由を含めた信仰の自由︑良

心の自由をどのように処理しようとしているのかはなはだ関心を持つところのものである︒

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 本稿では︑この問題に最終的焦点を当てるため︑つまり︑それら諸国で信仰の自由︑良心の自由をどのように解釈

し︑どのように対処しようとしているかの基本路線を理解する手がかりの一つを得るため︑彼ら諸国の歴史的伝統的      ︵1︶文化の受容と形成のあとを主としてギリシャ正教のとり扱い方をめぐって考察することにより所期の目的に到達せん

としたものである︒

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一、

鼡辮「紀中葉バルカン半島

      一 ルーマニア地域

 一九世紀初頭から中葉にかけて︑帝政ロシアのバルカン進出に関するマルクスの記述によれば︑﹁⁝⁝ロシア政府

はヨーロッパの南東部においてそのきわめて好都合な位置を利用した︒何百というロシアの使節がトルコ中を歩き回

ってギリシャ正教徒に正教の皇帝が彼らの首長であり︑本来の保護者であり︑抑圧された東方教会の最後の解放者で

あることをしめし︑特に南スラブ人には同じ皇帝が︑おそかれ早かれ大スラブ民族のすべての分派を一つの王権の下

に統一し︑彼らをヨーロッパの支配民族たらしめる全能のツァーリであることを指摘した︒ギリシャ正教の聖職者た

ちはさっそく︑それらの考えを広めるため大陰謀を組織した︒一八〇九年のセルビアの反乱︑一八二一年のギリシャ      ︵2︶人の蜂起は多かれ少かれ︑直接にロシアの資金と影響とによって助長された﹂︒⁝⁝このように︑ ロシアはまず第一

に宗教の同一性とそれにもとずく団結を唱道することによって目的を達しようとしたことがわかる︒では︑それら地

域の住民生活はどうであったか︒

 独立前のルーマニアについて︑マルクスは﹁ワラキア人すなわちダコ・ローマン人はドナウ河下流とドニエストル

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社会主義国の政治文化

河にはさまれた地域の主な住民で︑ひどく混血し︑ギリシャ正教会に属し︑多くの点でイタリア語に似ているラテン

系の言語を話す︒トランシルヴァニアとブコヴィナに住むワラキア人はオーストリア帝国に︑ベッサラビアに住むそ

れはロシア帝国に属している︒モルダヴァとワラキア︑すなわちダコ・ローマン人が政治的な存在を獲得しているこ

の︑ただ二つの公国に住むワラキア人は︵一九世紀中葉︶トルコ政府の名目的な宗主権のもとに︑実質的にはロシア       ︵3︶      ︵4︶に支配されているが︑彼ら自身の大公をおいている﹂︒⁝⁝このように二公国のワラキア人は﹁すくなくとも自分ら

の貴族と政治制度とを持っている︒そしてロシアのあらゆる努力にもかかわらず︑↓八四八年の反乱がよく証明して

いるように︑革命的精神が彼らのうちに浸透しているのだ︒宗教が共通しているというきずなやこれまで彼らをして

ギリシャ教会の最高主権者を彼らの本来の保護者とあおぐようにしむけてきたツァーリが同時に法王であるといった

迷信のかせにもかかわらず︑一八四八年以後のロシアの占領期間中に彼らに加えられた訣求と苦難とはこの革命的精       ︵5︶神をいやがうえにも昂揚させたにちがいないことは殆んど疑う余地が﹂なかったのである︒

      2ユーゴ︑ブルガリア地域

 他方︑独立前のユーゴスラビアやブルガリアについては次のとおりであった︒すなわち︑﹁ギリシャ南部のペロポ

ネソス半島からドナウ河まで︑黒海からアルナウトの山地まで︑キリスト教人口の主なる種族となっているといって       ︵6︶よい︒この人種はスラブ族である︒⁝⁝それは南スラブ族の名のもとに一括される︒﹂﹁それは過去一︑二〇〇年間︑

ヨーロッパの東部を占領してきた数多いスラブ族で︑⁝⁝これらの南スラ︒フ人はトルコの大部分を占めているばかり

でなく︑ダルマチア︑クロアチア︑スpベニアおよびハンガリー南部を占めている︒彼らはいずれもロシア語に良く

似た同じ言語を話している︒⁝⁝クロアチア人とダルマチア人の一部はローマ・カトリックを信じているが︑のこり

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      ︵7︶のすべてはギリシャ正教会に属している︒﹂また︑﹁カトリック教徒はローマ字のアルファベットを使用しているがギ      ︵8︶リシや正教信者は⁝⁝キリル文字を使って彼らのことばを書いている︒この事情は宗教のちがいとも関連して︑南ス       ︵9︶ラブ全領土を包含しての国民的発展をおくらせるのに役立った︒﹂

 ギリシャ正教を奉ずる南スラブ民族は︑だから﹁聖なるモスクワまたはセント・ペテルブルグの帝国印刷所で印刷

されたものには特別の正しさと正統性と神聖のかおりがあると確信しているからである︒⁝⁝セルビア人︑ブルガリ

ア人︑回教徒でないボスニア人︑マケドニアやトラキアのスラブ人農夫は彼らと同じ言葉を話すローマ・カトリック

の南スラブ人に対するよりも︑より多くの国民的共感︑より多くの接触点︑より多くの文化的交流手段をロシア人に

対して持っている︒どんな事情が生じようとも︑スラブ人はいっさいの悪から彼を救ってくれる筈の救世主の降臨を        ︵10︶       ︵11︶セント・ペテルブルグに期待しているのである︒﹂

 このようにロシアが宗教の同一性とそれにもとずく団結を強調するからには︑バルカン地域諸民族の側としても︑

これを受入れる政治的文化的基盤ももっていたのである︒

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二︑国教制度の成立

     一 キリスト教会の東西分裂

周知の如く︑西紀三一三年ローマ帝国コンスタンチヌス帝はミラノ勅令でキリスト教を公認︑三九一年テオドシウ

ス帝はそれを国教とし︑逆に異教崇拝を禁止するに及んで︑同項はローマ全土にますます強大な地盤を持つに至った

のである︒三二五年目ヵイア会議で三位一体論を正統としたことからも逆にうかがわれるように︑ローマ各地のもろ

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社会主義国の政治文化

もろの風俗習慣︑交化に同化︑影響をそれぞれうけて︑キリスト教の教義︑布教︑組織の諸方面で多元化し教会組織

相互の対立抗争を見せるに至った︒七二六年レオ三世による偶像禁止令に象徴される教義の対立︑九世紀コγスタン

チノーブル総主教フオティウスの就任によるローマ教会の反対などからついに︑一〇五四年東方教会︵コンスタンチ

ノープル︶と西方教会︵ローマ︶の決定的対立をきたすに至った︒もともと国教として保護されたキリスト教ははじ

めからアレキサンドリア︑アンチオキア︑エルサレム︑ローマなど︑ローマ帝国各地に独立組織を形成し布教活動を

つづけていたが︑東ローマ帝国の首都コンスタンチノ:プルに組織本部を置く︑いわゆる東方教会が次第に強大とな

りつつあった︒他方︑六世紀ユスティニアヌス帝に代表される如く︑皇帝は世俗国主であると同時に神学論争にも介

入し皇帝至上主義の東ローマ的特色を示したのである︒このような状況から東方教会の宗教団体としての組織は総主

教制を布くことになったのは歴史的必然といえよう︒すなわち︑信徒︑聖職者の地域代表としての宗務会議︵ソボー

ル︶︑これを統括する皇帝任命の総主教である︒このことからすべての宗務行政は国教としての保護の名目で皇帝の

恣意にコントロール可能となる︒このような国家と教会の密着ないし教会の真の主権者︑保護者は皇帝であるとのイ

メージは東方教会の特色であったし︑またそれゆえにこそ全土への徹底的布教を可能としたのである︒

 他方︑ローマ教会もアレキサンドリア︑エルサレムなどとともに初期のうちは皇帝の保護と監視のもとにあった

が︑四世紀ローマの東西分裂と五世紀西ローマ帝国の崩壊︑七︑八世紀サラセンの小アジア︑アフリカ侵攻で︑アレ       ︵12︶キサンドリア︑アンチオキア︑エルサレムなどが落ち︑八︑九世紀イタリア︑スペインなどへの侵入に当り︑ビザン

ツ帝国が必ずしも有効な救援をなし得なかった事情から︑その都度フランク諸王の助けを借りたこともあり︑地域文

化鮒相違による東方教会との神学論争とも重なり次第にビザソツ皇帝権の圏外に立つに至った︒これがローマ教会が

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国家から独立性を保つに至った事情である︒もっとも一〇〇二年ビザンツ・コンスタンチヌス八世の娘とオットー三

世の婚姻が成立していたら︑世界の歴史は大きく変っていたであろう︒少くともキリスト教と国家との関係において

ギリシャ正教とカトリックのその後における決定的対立はなかったのではないかとさえ考えられる︒彼の突然の死が

それをさまたげた︒カトリックがその保護者としての強力な政治権力者を欠いたことも︑ビザンツ側が国家と教会の

結合をきたしたことも全くの歴史的偶然にすぎなかったのではないか︒

      2 東方教会とロシア正教会

 中世にいたるとビザンツ帝国の王威もようやく衰えを見せ︑一四五三年差スマン・トルコに滅されるに及んで︑国

家の保護を失った東方教会は存亡の危機にさらされるに至った︒回教文化を携えたトルコの支配下に入ったからであ

る︒ 他方︑九世紀キエフ公国に布教された東方教会のギリシャ正教はその後次第にロシア全土に及び︑前述ビザンツ崩

壊期に当り︑モスクワ府主教は一五八九年ビザンツ東方教会より信者組織の移譲をうけて︑原則的にロシア範囲につ

き︑モスクワおよび輿地総主教制を敷く独立宗教団体となるに至った︒これがいわゆる第三口ーマ帝国ともいわれる

ロシア正教会の発足である︒

 同教会はその後ピョートル大帝時の一七二一年皇帝任命の聖職者構成員︑および皇帝任命の俗人たる宗務院長官に

よって構成される︑実質的には総主教補佐の宗務院︵シノド︶を設置することにより︑一層国家と教会の関係を密に

するに至った︒

 一方︑トルコの長期的支配下にあった東方教会は次第に盛威を失い︑一九世紀中葉にはただ余喘を保つのみとなつ

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た︒ロシア正教会がツアーの強力な支援のもとにバルカンに進出したのはこのような状況のもとであった︒帝政ロシ

ア汎スラブ主義の南下政策は単純ではない︒しかし︑少くともロシア正教会の草の根の司祭たちはトルコの圧迫をう

けつづけた幸いの薄いバルカン・ギリシャ正教徒のため身命を賭して奔走したであろうことは推測に難くない︒

三︑オスマン・トルコの支配

社会主義国の政治文化

      一 トルコのバルカン侵入

 =二世紀末成立したオスマン・トルコはメフィトニ世の一四五三年コンスタンチノープルを落し入れてビザンツ帝

国を滅し︑一六世紀にはメソポタミア︑アラビア︑北アブリヵおよび東ヨーロヅパに広大な版図を有する大帝国とな

ったが︑一七世紀中葉から衰退しはじめ︑一九世紀に入ると国内の被支配民族︑とくにバルカン諸民族の独立運動が

高まり︑他方西欧諸国の資本主義経済が帝国主義段階に突入しだすとともに︑片や帝政ロシア専制主義政治のはけ口

がいずれも瀕死の病人たるこのトルコをその対象の一つにしたために︑バルカン半島は正にこれら列強の分割戦争の

場となったのである︒

 このうちロシアとの関係について見れば︑両国とのあいだに一六世紀いらい大小一一回の露土戦争を展開してい

る︒両国の対立ないし戦争の重要な契機の一つはトルコ領内におけるキリスト教︵ギリシャ正教︶徒の処遇の問題に

端を発したことが多かった︒とくに一八二八一九年ギリシャ独立戦争︑クリミヤ戦争︑一八七七一八年露土戦争にそ

れがあらわれている︒カトリックの保護者を以て任ずるナポレオン三世がトルコに対し︑パ.レスチナの聖地監理権を

要求すれば︑ロシアのニコライ一世は制度上からも実質的なギリシャ正教・ロシア正教会の首長者としての面子にか

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けて︑トルコに対し同一の監理権およびトルコ内信者の保護を要求せざるを得なかったろう︒これが一八五三−五年

クリミヤ戦争発端の一因でもあった︒このように一連の露土戦争は宗教戦争の一面もあったのである︒

      2 ロシアとバルカン・ギリシャ正教

 一七七四年露土戦争の結果︑ロシアのエヵテリーナニ世とトルコ・スルタンとのあいだに結ばれたカイナルジ条約

は︑スルタン側の理解によれば︑ツァーリに対してトルコ内におけるギリシャ正教徒の保護権を与えたのではなく︑

ただコンスタンチノープルに教会堂を建て︑スルタンに彼のキリスト教徒の臣民をおだやかに扱ってくれと懇願する         ︵13︶権利を与えたにすぎない︑とするが︑ロシアはそうは理解していない︒その理由としてマルクスはコンスタンチノー

プルに対する永遠の郷愁がロシアの伝統的政策をつくらせるとした︒すなわち︑ノルマン・リューリックが八六二年

ノヴォゴロドに王朝確立後︑コンスタンチノープルにヨリ接近するため首都をキエフに移した︒これがキエフ国家の

成立である︒九八九年キエフ公ウラジーミルがギリシャ正教に改宗していらい︑教えは全土に広まり︑一一世紀には

キエフは宗教も︑それにもとずく文化もビザンツ帝国の後高をもって任じ︑第二のコンスタンチノープルと呼ばれ

た︒それゆえ︑トルコが衰えたとき︑コンスタンチノープルを目指してそれに代らんとすることは﹁ドイツの諸皇帝      ︵14︶がローマやイタリアの侵略をくわだてたことよりも自然なことであった﹂とする︒      ︵15︶ たしかに︑第二のローマともいわれるコンスタンチノープルはギリシャ正教徒永遠の聖地とも考えられ︑失地奪回

はギリシャ正教を奉ずるスラブ民族の共感を呼んだのであった︒

 帝政ロシアは一八〇四年カラゲオルゲヴィチによるセルビアのトルコに対する反乱につきセルビアを支援して︑有

利な地位を確保した一八一二年ブカレスト条約を結び︑一八一五年同じくセルビアのミロシュ・オブレノヴィチ指揮

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する反乱に干渉して︑一八二六年アッケルマン条約において︑ベッサラビア地方を獲得した︒またギリシャのトルコ

よりの独立戦争にも介入して一八二九年アドリアノーブル条約において︑ギリシャの独立を認めさせるとともに︑モ

ルダヴァ︑ワラキア両公国につきトルコ自身の持つよりも多くの権利を得たのである︒ロシアはこのようにトルコ各

地に反乱が起ると非回教徒︑つまりギリシャ正教徒保護の名目で︑つねに介入し︑それら地方のトルコよりの支配の

離脱︑独立をたすけたのである︒﹁ロシアがこんなにはばかるところなくトルコの細分にとりかかっているあいだに︑       ︵16︶西ヨーロッパの外交官たちは神聖化された現状の維持とトルコの不可侵性について︵のみ︶御託をならべていた︒﹂つ

まり西ヨーロヅパがなすところなく傍観している限り﹁ヨーロッパトルコの人口の一〇分の九はロシアを自分らの支       ︵17︶   ︵18︶柱︑うしろだて︑解放者︑救世主と見倣すであろう﹂とした︒

四︑汎スラブ主義

社会主義国の政治文化

      一 スラブ的統合とギリシャ正教

 エンゲルスはロシアのスラブ主義が帰着するところとして﹁コンスタンチノープルを占領すること﹂だとし︑これ

は﹁ロシア農民の宗教的伝統に強い影響力を及ぼし︑神聖なツァーリグラード防衛のために彼らを熱狂させ︑ツァー

リズムにあたらしい延命期間をあたえることになろう︒そしてひとたびロシア人がコンスタンチノープルに腰をすえ

れば︑ブルガリアやセルビアの独立と自由はおさらばだ︒盟友小国民たちはトルコ人のもとにあった方がよっぽどま

しだったことはまもなく気付くことであろう︒ツァーリが自分自身の利益ではなく彼らの利益を欲しているなどと信       ︵19︶じこむにはこれら盟友小国民のがわによほど素朴さが必要である﹂としている︒

(10)

 このようにロシアの主張する汎スラブ主義はたしかにロシアを中心とする全スラブ民族の団結と統一が標榜されて

いるし︑他方︐ロシア帝国の領域外に住むスラブ民族は︑オーストリア︑ハンガリーやオスマン・トルコという人種      ︵20︶と言語と宗教を異にする﹁他民族の歴史的発展とむすびついているような諸小民族の残骸﹂としてとどまっていたし       ︵21︶それらの﹁付属物として見なされ﹂ていた︒しかし﹁文明がしたがってまた民族的歴史的活動の欲求が彼らのあいだ

にひろがるにつれ﹂これら諸断片が民族的中心にひきよせられることは自明となってきた..とはいえ︑同じスラブ民

族でも﹁ポーランドは民族的生命の不屈の強靱性という意味で自分の力を自覚しているうえに︑スラブのロシア人に      ︵22︶公然と敵対している︒これはあきらかに汎スラブ主義を考案する使命を持つものではなかった﹂に示されるようにロ       ︵23︶シアに好意を必ずしももたないものもいた︒

 ここで注Uすべきことは同じスラブ民族でも第1表の如くポーランド人を含む西スラブ民族は宗教的にローマ・カ

トリックに属し︑ギリシャ正教を奉ずる東スラブおよび南スラブ民族と必ずしもしっくりしないばかりか︑相互の侵

略と圧政の歴史を持っていることだ︒

 したがってロシアの主張する汎スラブ主義とは全スラブ民族の統合というよりもむしろギリシャ正教を奉ずるスラ

ブ民族およびルーマニア人の団結をまず考えるといった方が妥当であろう︒

      2 南スラブ民族の独立

 露±戦争に英仏がなんらかの形でもかかわりを持つことはスルタンとそのキリスト教徒臣民との関係に干渉する機

会を持つことを意味する︒それは結果的に宗教上ラテン系つまりローマ・カトリヅクとプロテスタントがギリシャ系

すなわちギリシャ正教徒に干渉することになり︑そうなれば実際にギリシャ正教の保護者としてのツァーリと申し合

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社会主義国の政治文化

(第1表) 東ヨーロッパ諸民族と宗教 (1)

 ︑\

 \

\別

 族

\民

夢喬宗

教  宗教団体 備考

東スラブ 民族

1

ロシア人

白ロシア人 1ウクライナ人      ポーランド人     1リトワニア人

台うつ・・ビア人

    1チエク人

ブイソ系

南スラブ 民族

ラテン系

ブイソ系

スロパック人 エストニア人 クPアチア人 スロベニア人 ダルマチア人 セルビア人 マケドニア人 モンテネグロ

ボスニア地区 ブルガリア人 アルバニア人 ワラキア人

モルダヴァ人 マジャール人 ギリシャ人

1・ル・人

邦連〃〃

ポーランド

ソ 連邦

  〃 チェコスロ

ノミキア

  〃

ソ 連邦

  ぐ       

コ.一コスフ ピア   〃   〃   〃   〃   〃

  〃 ブルガリア アルノミニア

ルーマニア

ハンガリー

ギリシヤ

ト ル  コ

ギリシや正教   〃   〃

リ〃〃〃〃

  〃   〃   〃 ギリシャ正教   〃   〃 回   教

ギリシャ正教

ギリシャ正教

カトリック ギリシャ正教

正 教

カ会.教マクーツロリ

  〃   〃

   セルビア正教

  〃   〃 ブルガリア正 教会

ルーマニア正 教会   〃

ローマ・カト リック教会

ギリシャ正教

(2)

(3)

1

1

1

[註](1)

   (2)

   (3)

各民族の支配的信仰を単純化して表記したもの

歴史上の民族で,現在はほとんどクロアチア人に同化している。

クロアチア人とセルビア人の混住地区

(12)

せのできることは確実である︒﹁ラテン系キリスト教に対する宗教上の憤激はトルコ領内にすみ︑ギリシャ正教を信      ︵24︶じているいろいろな民族のあいだの一つの共通なつながりである︒﹂

 ロシアの南下政策・バルカン進出の熱望はなんといっても右のような宗教的統︸に裏付けされた︒一八六七年モス

クワでスラブ諸民族大会が召集され︑スラブ大帝国の建設が叫ばれた︒この盛り上りを背景として一八七七i八年ト

ルコの主権下にあったバルカン半島スラブ諸民族ないしギリシャ正教信仰地域の民族運動に挺子入れがなされたので

ある︑もちろん︑ロシアのバルカン援助は一八七〇年代を通じて︑新展開を見せたが七五年ボスニア︑ヘルツェゴヴ

ナでトルコへの反乱が起ると︑つづいてトルコ・バルカン各地域へ波及した︒これを契機としてロシアはトルコに干

渉し︑プレブナの戦いで勝利して︑セルビア︑モンテネグロ︑ブルガリアおよびルーマニアを独立させるに至ったの

である︒

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五︑南スラブ民族の独自性

     1 地理的風土的条件

 次に東スラブ民族と南スラブ民族の地理的社会的状況の相違についてマルクスは次のように指摘した︒一九世紀中       ︵25︶葉︑一般にヨーロッパ・トルコと呼ばれているバルカン半島は﹁南スラブ人種の相続分である﹂としその理由として       ︵26︶

[,

黶A

〇〇万の住民のうち七〇〇万は同人種に属し︑かつ一︑二〇〇年らいこの土地を所有している︒しこの地域

はスラブ系であり乍らギリシャ語を使うまばらな住民を別にすれば︑﹁南スラ︒フ人の競争相手はトルコ系あるいはア       ︵27︶ルナウト系の未開人である︒それらがあらゆる進歩に対する根強い敵対者で﹂あったのである︒南スラブ民族はこの

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社会主義国の政治文化

時期いまだ国家を形成してはいなかったが︑このうちセルビア人は有力な︑また発展の中核であることを指摘してい

る︒彼らは独自の歴史と文学を持ち︑また数のうえではるかに優勢な敵に対して二年にわたる勇敢な闘争によって

前述の独立を克ち得たのである︒それゆえ﹁トラキア︑ブルガリア︑マケドニア︑ボスニァのキリスト教徒たちはセ      ︵28︶ルピア人こそ将来の独立闘争で自分たちみんなの中心だと考え﹂ている︒

 かくてセルビア中心にスラブが固まればトルコ領内のスラブに対するロシアの直接的影響力はいよいよ目立たなく

なるのだという︒なぜなら﹁キリスト教徒として優れた地位を主張しうるためにはセルビアは自分の政治制度︑学       ︵29︶校︑科学知識︑.産業施設を西ヨーロッパから求めねばならぬ﹂からであるとする︒

 たしかに血縁関係や宗教がロシア人とセルビア人とのあいだにどのようなつながりがあろうとも両者の利害は地理

的社会的環境がことなるゆえに別の道を歩むことになろう︒

 まず第一に両者の地理的相違であって︑ロシアは内陸国で主として農産物を生産し︑またおそらくいつの日にか工

業製品をも生産するであろう︒他方︑バルカン半島はひろがりは割合いに小さいが海岸線が長く︑三つの海にかこま

れ︑うち一つは彼らが支配している︒﹁この半島は自分も独立に生産する能力が充分にあるが現在は主として通過貿      ︵30︶易をする商業地域﹂としてマルクスは評価した︒

 すなわち︑南スラブは今日でも東方市場に西方の産物を輸入することにもっとも利益を感じており︑したがって︑

トルコと南スラブは事実上ロシアとのあいだよりもむしろ西ヨーロッパとのあいだに共通の利益があるようだ︒

      2 歴史的文化条件

 .セルビアについていえば︑一八〇九年露土戦争は﹁セルビア人にトルコの主権下ではあるがトルコから離れた存在

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となる機会を与えてくれた︒セルビアは以後ロシアの直接的な保護をうけてきた︒しかしモルダヴァ︑ワラキアにお

ける如く政治的存立は新たな要求をおこさせセルビアをして西ヨーロッパとヨリ多く交通するに至らしめた︒文明が

根をはりはじめ︑商業は拡大され︑新思想がわきおこり︑このようにしてロシアの勢力のまさに中心であり︑塗塁で

あるところに︑すなわち︑スラブ人の住むセルビアあるいは正教のセルビアにおいてその改革の要求こそごくひかえ       ︵31︶目ながらも⁝⁝反ロシア進歩党をわれわれは見出すのである︒﹂このようにセルビアがバルカンの中心のように思わ

れるにはそれなりの歴史的文化的条件をもつからである︒すなわち︑セルビア人は九世紀末さいしょのセルビア王国

を建てた︒これはまもなくビザンツ帝国に滅されたが︑後者の衰退に乗じ︑一二世紀中世セルビア王国が再興され︑

めざましい発展をとげた︒一四世紀ドシヤン大王治下最盛期を迎え︑バルカン半島の大王国となり︑法典制度の整備

をはじめ文化的にも高水準に達した︒

 同世紀末トルコに潰滅的敗北を喫し︑以後五世紀トルコの支配下にあったが︑一九世紀民族運動の興隆にさいし︑

その歴史的文化的業績から︑運動の旗手と目されるに至ったのである︒さらにセルビアをはじめギリシャ︑ワラキ

ア︑モルダヴァなどトルコから独立ないし半独立した地域を除いて︑他の南スラブ人とロシア人︵東スラブ人︶とのあ

いだの社会的状況は次の点でことなる︒すなわち前里は﹁トルコ領内で自己の維持しなければならぬ回教の軍事的地

主階級に隷属しているため︑特別にくるしみがひどいのである︒この軍事的な守備隊は︑軍事も交治も司法も公務い        ︵32︶っさいを統合している︒﹂しかし︑こんなやり方が南スラブ人にふさわしいものと思いこんでいるだろうか︒一八〇

四年いらいのセルビアの歴史を見ると︑カラゲオルゲヴィチもミロシェ・オブレノヴィチも︑ののしられ︑はずかし        ︵33︶められて国を追われたことから見て︑ロシア的統治方式は南スラブ方式に合わないことを証明しているといえよう︒

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社会主義国の政治文化

      3 ルーマこア︑ブルガリア︑セルビア正教会の成立

 このような地理的文化的思考様式の相違からして︑宗教的同一性にもとずく統合は︑アッピールとしては耳によく

きこえるものであったが現実は必ずしもそれと一致するものではなかった︒すなわち︑独立前のバルカン諸民族のギ

リシャ正教徒は形式的には東方教会に属していたが︑実質的には各民族単位で半独立的宗教団体として存在している

とともに︑ロシア正教会の物心両面の援助をうけていた︒ルーマニアについて見れば︑一八五九年東方教会内で府主

教制を採用し︑半自治的宗教団体となり︑また一八七八年王国として独立後は東方教会より独立し原則的にルーマニ      ︵34︶アにつき総主教制をとる完全に独立な宗教団体たるルーマニア正教会の発足を見るに至った︒ブルガリア︑ユーゴス

ラビアについてもいえる︒すなわちユーゴについては一二一九年セルビア地区につき教会自治権確立︑一三四六年総

主教制樹立せるも︑一四世紀末中世セルビア国崩壊後︑久しくトルコの支配下にあり︑半自治組織を持っていたが︑       ︵35︶一七六六年トルコ・ムスタファ三世の許可を得て︑セルビア地区に総主教制を再建し得た︒またブルガリアについて       ︵36︶は︑九i一〇世紀にかけ東方教会に属したブルガリア正教徒は九世紀ブルガリア国家の精神的統↓に貢献し︑半自治      ︵37︶権を持つ︒トルコ支配下においては︑一八七九年教会自治権を認められ︑総主教制が樹立されたのである︒

 これら諸教会の独立はロシア正教会との絶縁を意味するものではない︒逆に︑依然としてそれとのあいだに友好関

係を持続しているばかりでなく︑ルーマニア︑ブルガリアおよびセルビアの団体組織はソボール︑シノド形式を具備

している点︑ロシア正教会のそれと一致するものであり︑その文化的影響は無視できないことを示している︒

 この形式はまたその制度上国家とのあいだに良き関係ないし調和を樹立する機能を持つものである︒すなわち

総主教制は歴史的に見て︑皇帝王国の場合は皇帝任命であり︑また皇帝によって任命された構成員によるシノド︑お

(16)

よびそれによって実質的に選ばれるソボールが宗教団体組織の中核となっている限り︑国家と良き関係が樹立される

ことは必然であろう︒

 次にこれらでわかることは︑ギリシャ正教の宗教団体組織は国家と調和的関係を保つがゆえに国家の興亡に対応し

て原則的に再構成︑改編がなされることがローマ・カトリック教会との対比で特微的なところである︒

八︑トルコの統治方式

      一 ミユレット

 トルコの異民族支配︑つまりトルコ宮廷のキリスト教臣下に対する関係についてマルクスによれば︑回教の法によ

り︑それを信じない者は不信者たる敵であるわけだが︑その不信者の﹁町が降伏すればその住民はラーナーとなる︒

もし彼らがハラチ︵人頭税︶を払うならぽ何人と錐もその家屋︑財産にふれることは出来ない︒彼らは自己の古い教

会で礼拝し︑それを修理することは出来るが︑あらたに教会を建てることはできない︒ときどき︑州知事は古い教

会︑礼拝堂の修理の名目でキリスト教徒によって新しいのが建てられていないかをしらべるために特別の使者を派遣       ︵38︶する︒町が征服された場合には︑教会は住家あるいは避難所として利用できるが︑そこでの礼拝は許されない﹂とい

う︒これによると︑被征服者としての異民族の信仰はやはり︑相当制約があることを示している︒

 次に両者間の社会生活上のかかわりについて︑キリスト教徒が支配者たる回教徒の保護をうけることに同意したこ

とによってのみ自己の生活権をうる︑とする︒すなわち︑﹁キリスト教徒が回教の法律にしたがって回教徒に支配さ

れることを甘受し︑彼等の精神的な首長たる総主教が︑同時に彼らの政治的代表者であり︑裁判長となっているのは

68

(17)

社会主義国の政治交化

この事情だけによるものである︒オスマン帝国でギリシャ正教徒のラーヤーの集団のいるとこではどこでも大主教と

主教は法によって市町村会議員であり︑ギリシャ正教徒に課せられた税金の再配分をつかさどっている︒総主教は彼

の同宗教信者の行動に関し︑トルコ宮廷に対し責任を負っている..彼は自己の教会に属するラーヤーを裁判する権限

を与えられ︑大主教や主教にかれらの管区の範囲内にかぎってその権限を委任する︒そしてトルコ宮廷の行政官︑回      ︵29︶教法官その他がその罪を執行する義務がある︒しこれによると︑トルコは異民族を直接統治することなく︑ギリシャ

正教の宗教団体を通じて間接統治していたことになる︒トルコのスラブ族征服当時はいざ知らず︑ギリシャ正教諸教

会の聖職者たちに精神的権限のみならず前記俗世的権限を︑厳重な監督と規制のもとに委任することの方が統治効率

が良いことを長い歴史的経験で体得したのであろう︒もちろん︑間接統治方式はこれだけではない︒

 たとえばワラキアとトルコとのあいだに結ばれた=二九三年の条約は﹁⁝⁝ワラキアの自治︑大主教およびボヤー      ︵40︶ル︵土地貴族︶に選出されるキリスト教信者の大公︒ワラキアはトルコに年五〇〇ピアストルを支払う︒﹂となって

おり︑また一四六〇年ワラキア公ヴァラード五世とトルコマホメットニ世とのあいだの条約は﹁⁝⁝トルコの宗主権

下におけるワラキアの自治︒一︑○○○ドウカットの貢物︒主教ならびにボヤールに選出された大公︒大公はその臣       ︵41︶下に対して生殺与奪の権を有し︑トルコから独立した講和︑開戦の権利を有す︒﹂ワラキア人に対してもギリシャ正

教徒の宗教団体を通じて自治を一定の制約下に与えていたことがわかる︑

 つまりオスマン・トルコはカリフを首長とする﹁ムスリム共同体﹂︑外交団を首長とする外国人の共同体および前      ︵42︶記の宗教指導者を首長とする﹁ミュレヅト︵共同体︶﹂の連合のようなもので︑つまり国家のなかの国家が形成されて       ︵43︶いたことになる︒もっともこのミュレット制度はビザソツ的遺制の転用ではないかと羽田氏が指摘されておられる︒

(18)

      2 ギリシャ正教徒の社会的地位

 このようなことから︑﹁⁝⁝トルコ政府のキリスト教臣民にとって︑現状とはトルコからうける抑圧の永久化にほ

かならない︒トルコの支配に抑圧されている限り︑彼らはギリシャ正教諸教会の首長︑すなわちかれらのキリスト教

徒六〇〇〇万人の支配者を自分たちの自然な保護者︑解放者と見る︒ロシアが干渉するのを防ぐためにつくられた外

交体制がヨーロッパ・トルコにおけるこれら教会のキリスト教徒一〇〇〇万人にどうしてもロシアに保護と救いを求        ︵44︶めずにはおかなくした︒﹂

 さらにオスマン・トルコ内における正教徒の社会的位置づけを示すものとして︑マルクスの次の記述は参考にな

る︒すなわち︑﹁トルコ人は居住する地方や環境をことにするに従って︑職人︑農民︑小土地所有老︑商人︑封建制

度の最低のもっとも野蛮な段階にあ.る封建的地主︑文官︑軍人にわかれている︒しかしこのように社会的地位こそま

ったくことなっているが︑トルコ人は特権的な宗教と特権的な国民に属している︒すなわち︑トルコ人だけが武器を

携帯する権利を持ち︑そしてもっとも高貴なキリスト教徒も彼がであうもっとも卑賎な回教徒に道を譲らねばならな

 ︵45︶いのだ︒﹂

 ﹁ボスニアやヘルツェ︒コヴィナにおいてはスラブ系の貴族は回教に改宗したが︑人民大衆は依然として回教徒でな

いトルコ臣民︑すなわちキリスト教徒である︒⁝⁝ヨーロッパに住むトルコ人の主要な力は⁝⁝コンスタンチノープ

ルやその他二︑三の大都市に住む暴民のうちにひそんでいる︒それは本質的にトルコ人である︒彼らは⁝⁝嫉妬心が

強く︑回教徒の特権でキリスト教徒に比較して彼らに与えられた観念上の優越権と放逸行為に対する刑罰免除を保持

  ︵46︶している︒﹂

70

(19)

社会主義国の政治交化

 トルコのバルカン支配は一般に極端な圧政のように考えられているが︑少くとも一六世紀まではそうでないとする      ︵47︶説もあるが︑逆に文化的社会的面についてはその進歩を停滞させ︑トルコの支配が発展の足枷になったことはひとし

く認めているようだ︒そして何にもまして︑マルクスの右の叙述からもわかるように︑トルコ崩壊直前時のスラブ人

の扱いがそのようなものであったのだから︑隆盛をきわめたそれ以前の四世紀はどんな苛酷な扱いだったか想像もで

きないであ.ろう︒

      3 抑圧のなかの信仰の自由

 南スラブ民族ないしギリシャ正教徒は一三世紀からのトルコの長期的支配のなかで︑右のように社会的文化的圧迫

をうけつづけていたが︑他方︑ミュレットという一種目自治組織ないし︑国家のなかの国家を通じて自己の生活権を

守ってきたことを示している︒これを信仰の自由︑良心の自由について見れば︑彼等はミュレットを通じて︑そして

それによってのみその権利を確保し得たのだ︒トルコがさいしょから信仰の自由について寛容であったとは思われな

い︒もし︑そうであればバルカン各地とくにセルビアなどにおける多くの修道院︑教会堂の徹底的破壊をどう説明し

たらよいのだろうか︒信仰の弾圧に対する消極的反抗の継続に手を焼いた結果︑しだいにミュレットの形で信仰の自

由を認めざるを得なくなったと考えるのが妥当であろう︒かれらギリシャ正教徒は長期の社会的弾圧に耐えてトルコ

からミュレットを通して信仰の自由を克ち取ったのである︒だから信仰の自由とは支配者トルコに対して闘って克ち

取ったというものでなく︑消極的抵抗を通じて︑何よりも宗教団体としての教会に団結することによってのみかち得

たのである︒消極的抵抗︑不服従運動も広い意味で権力者に対する闘争といえるかもしれないが︑これも比較の問題

であるが︑西欧人権史に対比して︑スラブ民族の歴史ないしトルコ支配下のギリシャ正教徒の歴史は︑闘争の方法と

(20)

 (第2表)       宗教と国家権力の関係図

(a)ギリシャ正教タイプ(スラブ的佃i値体系)〔東欧タイプ〕

(1)支配権力    ↑  (良き関係)

 〔団体主義〕

   ↓ ギリシャ正教

(2)侵略者権力    ↑  (良き関係)

〔団体主義〕

   ↓  ギリシャ正教

(3)民族解放権力    ↑  (良き関係)

 〔団体主義〕

   ↓ ギリシャ正教

④社会主義解放権力     ↑

 (良き関係)

 〔国教分離〕

    ↓  ギリシャ正教

(b)カトリックタイプ(ローマ・ゲルマン的価値体系)〔西欧タイプ〕

(1)空 位(2)カトリック

  ↑       ↑

〔権力模索関係〕(良き関係)

       〔団体主義〕

  ↓       ↓ カトリック   封建権力

(3)カトリック  〔封建権力〕

   ↑

(国教分離闘争)

 〔個人主義〕

   ↓  プロテスタント  (ブルジョアジー)

(4)民族国家権力

〔ブルジョア・エス   タブリッシュド〕

    ↑  (国教分離闘争)

  〔階級闘争〕

    ↓ プロレタリアート

1

キエフ国家とキリスト教 七︑タタールのくびき して︑ヨリ教会に対する団結とヨリ支配者に対する忍耐が要請されたという意味で特色を持つ︒オーバーシンプリフィケーションで表現すれば︑スラブ人にとって信仰の自由とは団結であり忍耐であった︒スラブ人にとって教会は宗教団体であると同時に政治団体︑国家であった︒教会の大主教ないし主教は同時にスラブ人の国家首長ないし地方長官であった︒教会の外に出ることないし反抗することはスラブ人全体の信仰破壊を意味しスラブ人国家の崩壊を必然化する︒ 団結と忍耐こそはスラブ人の信仰の自由を守る唯一の手段であり︑第2表の如く教会という宗教団体すなわち政治団体を通じて支配者トルコに対し良き関係を保持すること︑および宗教団体内において聖職者と信者が良き関係を保つことのみが支配者トルコの社会的弾圧を排除ないし最少限にくいとめる最良の方法であったことを長い歴史的経験を通じて体得したのであろう︒

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(21)

社会主義国の政治文化

 このような傾向はロシア・スラブ諸民族にも看取できることである︒

 一〇世紀末ビザンツ・バシレイオスニ世はバルカン地方︑小アジア地方反乱鎮定のためキエフ公国ウラジーミル公

に娘アンナの降嫁を条件に援.軍派遣を要請︒援軍による戦勝後ウラジーミルはこの約束履行をさせるためケルソンを

占領して圧力をかけ︑降嫁実現をはかった︒と同時に大公はこの地でキリスト教に改宗し︑帰国後キエフ国民に改宗

を強制して︑ギリシャ正教を国教としたのである︒降嫁とひき換えに改宗︑国教化工作をするにはそれなりの理由も       ︵48︶あったと考えられる︒田中陽児氏は﹁ビザンツ・キリスト教は初期のキリスト教とはことなり既に数百年におよぶ皇

帝翼質︑︑あるいは政教一致的な行動と性格によって︑この種の体制宗教としての政治的有効性および実践を内外に充

分にあきらかにしてきたという事実﹂から統一集権的なイデオロギー的支柱を求めていたキェブ公がこれに親近性︑

必要性を求めたとされ︑それは当然に︑﹁農民を支配し︑土地を所有することがますます権力保持の基盤となりうる        ︵49︶ような社会構造の変質﹂がキエフ国家の内部構造であったとする︒たしかにギリシャ正教布教成功の社会的条件とし      ︵50︶て初期の封建的地主制度の成立があげられ︑そのなかでの中世的な民族意識の形成に果した役割が評価されよう︒も

ちろん初期はウラジi︑ミル公の強制布教︑一〇分の一教会税の取り立てにも拘らず民衆は土着信仰を捨て切れず︑い

わゆる二重信仰の時期が長かったが︑体制化するにおよんで強固な地盤を形成したのであった︒しかし︑ モンゴル

︵タタール︶の侵入は状況を一変した︒

      2タタールの侵略       ︵51︶ タタールの本格的なロシア遠征は一二三六年にはじまった︒リャザニ︑ウラジーミル︑スズダリ︑モスクワ︑ポロ       ︵52︶ツガイ︑キエフなど多くの都市を占領し︑徹底的に破壊し︑焼払ったのだ︒そしてロシア平原の東南半のウラル山脈

(22)

からヴォルガ中流域を経てクリミア半島にいたる線より東南の地域は直接統治したが︑これより西北のロシア人諸公

国を属国として間接統治した︑これがいわゆる﹁タタールのくびき﹂といわれるものであった︒

 しかしこの間接統治はなまやさしいものでなかった︒すなわち︑統治令書︵ヤルルイク︶を得た諸公は汗が派遣し      ︵53︶た代官に協力して苛酷な微税に当らねばならなかった︒代官制度の廃止後は諸公の委託徴収として一五世紀までつづ      ︵54︶くが︑なんとしてもこの経済的重圧は︑ロシアの社会︑文化の発展を阻害したことはさけられない︒      ︵55︶ タタールの侵略はルスの民衆に限りない災厄をもたらし︑多数の人々が犠牲となり︑物質的文化的財宝が破壊さ

れ︑盗みとられた︒⁝⁝都市の手工業と市場のむすびつきは破壊された︒これがルスがヨーロッパ先進国にはなはだ      ︵56︶しく立ちおくれをとることになった大きな理由である︒だがタタールの教会に対する政策はその後転換した︒

      3 タタールと教会

 タタール支配下の教会活動についてスミルノブによれば︑﹁⁝⁝モンゴル︵タタール︶侵入の年月︑町村の没落は

ロシアの国土における経済と文化の潰滅を招いた︒重要な国土はとられ︑全人民は森林地帯に追いやられた︒キエフ

は顛覆し︑国家権力は弱化し︑分断された︒このような状況で教会の意義は一つの封建的体制をとどめたことだ︒⁝

⁝人民保護の教会は再建され︑その物質的勢力は増大した︒ことは簡単だった︒征服者は教会に布教特権と免税特権

⁝および教会所有権を保持させた︒⁝⁝教会はモンゴル ︵タタール︶の汗と︑.良い関係=o容の〇三〇〇90ωoげ①巳︒

︵ハ︒←−●アトノシニーとに立・てい薗タタールの侵略当初はすべてのものが破壊されたが・その後・笛音       ︵58︶者統治の手段として︑とくに民衆に影響力を持つ教会組織をある意味で保護したと思われる︒

 国家と教会が良き関係︑調和的状態にある理由として︑八世紀から九世紀にかけて︑地中海沿岸におけるイスラム

74

(23)

社会主義国の政治文化

       ︵59︶の侵略や︑他教会の吸収を防ぐため︑国家より独立的な存在たることをやめたとする考えもある︒タタール支配時

代︑征服者と教会とのこのような関係強化は︑キエフの弱化の時期に急速にカトリックに利益する機会の増大を繕い

 ︵60︶だとの意見もある..しかし﹁一三世紀中葉から二世紀つづいたタタールの支配のこのロシア人にふりかかった不幸

は︑ちょうど︑もっとひどい回教勢力の圧政下にあったバルカン諸民族のように︑彼らは独立国家民族であることを

やめたとき︑彼らは教会と一体となる存在をつづけたのである..まさに彼らの教会という宗教団体はこれらの非道い      ︵61︶年月のあいだ独立をかちとっていた﹂のであった︒

    八︑団体主義と信仰の自由

      1 少数者の権利について       ︵62︶ このように見てくると︑東スラブ民族はタタールの支配に忍従し︑教会という国家のなかの国家に団結し︑タター

ルとのあいだに良き関係を形成することのうちに信仰の自由を見出したのである︒タタールの統治効率的見地からと       ︵63︶はいえ︑タタールの恩恵的施策によって克ち得た自由は矢張り大きなものでなく︑また教会の団結が破壊されれば失

われるものである限り︑その団結は最大多数の最大幸福を志向するものであったことはやむを得なかった︒

 この場合︑つねに発生する異端ないし少数派の信仰︑思想︑表現の自由を如何に保障するかの問題につき当る︒こ

れについてのスラブの歴史は︑迫害︑切捨て︑転向強制ないし流刑︑放逐であり︑これに対するに二重信仰︵かくれ

信仰︶︑地下活動︑サミズダート︑ないし亡命活動であった︒それは多数老の唯一の自由獲得の手段としての団結に

対し︑それを阻害する分子として排除する︑いはば緊急避難的ないし違法性阻却的因子を持つ行為と解され︑被疎外

分子もあえてそれを甘受したのである︒スラブ民族の信仰︑思想︑表現の歴史を考察する場合︑これら疎外分子を抜

(24)

きにして考えることは出来ないし︑またしていない︒我々はレーニンが亡命後スイスを本拠として社会主義的言論著

作︑実践活動をしていてもスイス人とは決して理解せず︑当面祖国ロシアの解放をめざしたロシア・インテリゲンチ

ャと範疇化する︒それゆえ︑スラブ・ロシアのこの種の歴史は国家の内と外︑表と裏を併せて考察せねばならぬいわ

ゆる副馬性︒Ω<o犀8︑︵アドヴ﹁=一ユ︶的性格を持つものであることに注意せねばならぬ︒だが︑この性格のゆえに

こそ少数者の権利がいわばないがしろにされることにつき正当性を主張しうるものでは決してない︒

      2 団結と内部組織の交代

 スラブ民族は異民族の長期的支配による文化的社会的経済的停滞のために︑いままで世界史の檜舞台に立つことは

なかった︒反面︑苦節忍従の苦闘と自衛のための団結の強靱性をギリシャ正教信仰を通じて主として体得した︒この       ︵64︶スラブ魂のゆえにこそタタールの支配を最後ははねのけたのであり︑ポーランドのモスクワ侵略を払いのけ︑ナポレ

オンの大攻勢をもってしても如何ともすることができなかった︒また第二次大戦でナチス・ドイツの徹底的攻勢に苦

しみ抜き乍ら︑六〇〇日に及ぶレニングラードの死守を全うしたばかりでなく︑最後は相手をねじ伏せた︒冬将軍が

スラブ民族に加勢したというのはおかしい︒飢餓と酷寒はどちらにとっても同様の苦しみであり︑ただそれに耐えう

る持久力と団結心の差であった︒スラブ民族はそれを永い苦しい歴史的経験によって体得したのである︒以上をギリ      ︵65︶シや正教タイプないしスラブ的価値体系と呼称しよう︒

 一方︑このような団体主義的志向は社会構造の変質にどのように対応するのであろうか︒一七世紀末ニコンの宗教

改革にその一例が示される︒当時封建的社会構造に定着した教会組織は初期資本主義経済の漸次的興隆に見合って中

央集権奥書僚化過程のインパクトをうけ︑教会内部組織の再編成化にせまられた︒ニコン総主教はアレクセイ皇帝の

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(25)

社会主義国の政治文化

保護をさいしょはうけてこの改革を実施したのであって︑改革が単に儀典礼式の改正だけに緩少化せらるべき問題で

はない︒このように国家と教会との調和的関係のなかでその社会的発展に対応する変化は一般に内部組織の変質︑交

代によって充当される︒その意味で︑ニコンの宗教改革は西欧社会におけるルター宗教改革にも比肩すべき歴史上の      ︵66︶大事件であると考えられる︒

九︑個人主義と信仰の自由

     1 宗教改革運動

 これとの関連で︑西欧社会について考えれば︑カトリックがその字義通りフランク王国ないし西欧世界において普

遍的キリスト教であり︑その過程で西欧封建諸勢力の精神的基盤となった︒だが一六世紀啓蒙主義思想の形成に契機

してルターが一五一七年法王庁が資金調達のため免罪符を販売したことに対し抗議文を提起し︑ここに宗教改革運動

の狼火が上ったのである︒信仰について聖職老といえども何ら特権を持つものでないとして︑真実の信仰︑信仰の自

由を求めて︑腐敗した領邦教会制度一霞詳︒ユωヨに闘いを挑んだのである︒ルターやカルヴァンは︑その説き方こそ

ことなれ︑結果的には信仰の自由確保のため東邦教会制度の改革を目標としたものであった︒それは西欧において丁

度︑封建的生産様式の崩壊と初期資本主義的生産様式の交代過程に見合っていたがゆえに新興生産互層の支持を得

て︑次第に西欧を動かす大運動を展開することになるのである︒

 封建領主の支持と保護を得て領内に布教を展開すること︑経済的には領民より一〇分一教会税の強制微収と領主よ

りの免税特権を得てそれ自身封建的大土地所有者たり得たこの俗智教会制度はビザンツ国教制度と変らない︒したが

(26)

って布教制度についていえば近代までギリシャ正教とローマ・カトリックは原則的に一致していたのである︒だが近

代西欧における宗教改革運動の展開はそれを支える社会経済構造の変動に見合って強固なものとなった︒

 これに対し︑ローマ・カトリックおよびそれを支持する封建的勢力は猛烈な反撃弾圧に出で︑ここに新旧両社会勢

力の激突は西欧近代史を彩ることになる︒一方︑新興生産者層は個人の真の信仰の自由を求めてカトリック領邦教会

から大挙脱落しプロテスタント教会を形成するにつれ︑カトリックは存亡の危機に見舞われた︒この失地回復のため

イエズス会︑フランシスコ会︑ドミニコ会︑アウグスチノ会などが反撃強化をするとともに新たな布教地盤を開拓す

るため中南米︑アジア諸国に旅立った︒一六世紀フランシスコ・ザビエルのわが国へのキリシタン伝道を見ると依然

としてこの領邦教会方式をとらんとするものの如くであった.︑

 いずれにしても︑西欧においては︑当時一般的に領邦教会制度を死守せんとするカトリック教会と個人信仰者の寄

金に主として依存するいわゆる信徒単位のプロテスタント諸教会の対立激突は前述の事情で次第に後者の有利に展開

したし︑それはまた信仰の自由︑良心の自由の近代的問い直しであり︑団体主義に対する個人主義の闘いであ.つた

し︑国家と教会の癒着に対し︑それを是正する国教分離闘争であった︒

      2 階級闘争と信仰の自由

 かくて信仰の自由︑良心の自由の闘いは封建的支配権力に対する新興生産者層としての服従者側からの個人主義の

反抗闘争国教分離闘争として展開されたものであり︑両者間の対立抗争︑勢力均衡を経て︑両者間の地位逆転を一応

の完成点とした︒一六世紀フランスのユグノー戦争︑およびオランダのスペインよりの独立戦争︑一七︑八世紀以降

イギリスの清教徒革命︑名誉革命︑アメリカ独立革命およびフランス革命に表微される如く︑それは長い歴史的年月

78

(27)

社会主義国の政治文化

を必要とした︒しかし︑それはそこで終りではなかった︒新興生産者層が権力掌握後︑旧封建支配層およびそれに随

伴する聖職者︑信仰者︑宗教団体を権力および社会的地位︑財産の保持諸生活から放逐することによって︑つまり彼

等の信仰の自由︑良心の自由を事実上拒否することによって少数者の保護を含めた真の意味の自由の実現を遷延させ

たのである︒清教徒革命と名誉革命のあいだの王政復古︑ブランス革命後の権力の移動のたびに権力奪取層に対立す

る側の信仰の自由と良心の自由はつねになんらかの度合において躁みにじられた︒かくて正に幾多の辛酸を経て︑確

立された信仰の自由︑それは西欧においてこのように数世紀にわたる︑歴史的経験と何千万人の流血と落命によって

購われた︑世界における貴い共有財産であり︑それはローマ・ゲルマン的価値体系の精華であり西欧社会の輝かしい

勝利であった︒

 しかし︑なお問題は解決されない︒一九世紀中葉以降から末期にかけ西欧社会が資本主義的な発展の成熟期に突入

するにおよんで︑数多くの内部矛盾の露呈を招来した︒自由主義的資本主義崩壊の危機︑階級対立の激化と社会混迷

のなかで社会改革諸思想と運動の提起がサン・シモン︑ブーリェ︑オーエンからマルクス︑エンゲルスなどによって

なされ︑そして一応の完成が見られた︒だからマルクス主義は西欧市民社会崩壊期のアンチ・テーゼであり︑ 一九世

紀末期ローマ・ゲルマン的価値体系の輝かしい所産の一つである︒これを信仰の自由について見れば︑ブルジョア国

家からその権利を個人の私事として真実に闘いとる理論であり︑実践運動であった︒西欧における国教分離闘争は第

ニラウンドを迎えているのである︒それゆえその西欧世界においてさえ︑宗教の果す社会的機能の減退にも拘らず︑

いまなお多くの場合エスタブリッシュな宗教と他信仰ないし無神論者とのあいだに社会生活上の実質上の差別を持っ

ていること︑つまりブルジョア的秩序︑市民国家規範の根強い残存が少数者の信仰ないし不信仰の自由を実質的に阻

(28)

害していることは︑思想表現の自由を含めたこの権利の実現と保障が如何に困難であるかを実証しているのである︒       80

︷○︑スラブ社会と西欧思想の受容

      一 スラブ主義と西欧主義

 一九世紀ロシア交化思想におけるいわゆるスラブ主義と西欧主義の対立はロシアの伝統的文化様式のなかにおける

このような西欧文化摂取に際しての一つの反応である︒前者はホ︑・・ヤコフやキーレフスキーに見られる如くあくまで

も西欧の個人主義︑懐疑主義的な合理主義をかえって自由と主体性を否認するものとして批判し︑総合的理性と共同

体的意識において成立する人間の統合を主張し︑ロシアは西欧の歴史的発展とその軌を一にすることなく独自の道を

辿るものである︑とする︒専制政治と農奴制の否定︑言論表現の自由などにおいて西欧志向と〜致するも︑その実現

の方途として︑資本主義的生産関係に起因する社会の諸矛盾を階級闘争により解決せんとする西欧を腐敗せるものと

して排撃した︒スラブ精神の真の保持者は民衆であり︑その民衆が有機的に結合する共同体は君主と民衆の愛の結合

によって運営さるべしとする︒後者はμシアの新興生産者層の思想を代表するといわれるもので︑後進的なロシアの

発展が西欧社会の軌跡を辿ることによって克服されうるものとなし︑ツルゲーネフ︑カヴェ!リン︑ゲルツェン︑ペ

リンスキー︑パクーニンら︑その志向は多岐に亘るも︑ ︹八六﹁年農奴解放以後スラブ主義の反動化に対応して︑こ

の派の革命的伝統はドブロリューボブ︑チェルヌイシェフスキーらを経てナロードニキそして曲折を経てレーニンに

つながったのである︒

      2 レーこン理論の歴史的地位

(29)

社会主義国の政治文化

 若きレーニンが社会革命の理論と実践の科学としてのマルクス主義に魅せられ︑その道をあ.ゆむことになるのだ

が︑一八九五年獄中で書かれたロシア労働者階級解放のための﹃綱領案﹄前後まではなんといっても一九世紀西欧理

論の末消化はかくすべくもなかった︒つまり︑このままではローマ・ゲルマン的価値体系のロシアへの直輸入になっ

たのではないかとさえ思われる︒その後レーニンの流刑︑刑期後︑国内における党の組織化およびスイスでのプレハ

ノブとの出合いを経て次第に帝国主義時代のマルクス主義の再構成にかかったのである︒﹃何をなすべきか﹄︵一九〇

二︶に結晶化された理論が前記﹃綱領案﹄時点のそれとコペルニカス的転回を示し︑以後いわゆるこのレーニン理論

が重厚さと現実即応性を増してくる︒この理論の完成過程では遠くペステル︑チェルヌイシェフスキーをはじめラブ

ロフ︑ミハイロフスキー︑トカチョフら一九世紀ナロードニキの革命戦略戦術理論の影響を一部は受けたとも考えら

れる︒つまり︑スラブ的思考︑スラブ的価値体系のマルクス理論への浸透ともいえよう︒

 ナロードニキの理論と活動は一九世紀における帝政ロシアの正に典型的なスラブ価値体系の表現の一つであったと

はいえ︑これがレーニンによって摂取され︑マルクス理論に一部分組みこまれることによって︑西ヨーロッパの所産

としてのマルクス理論そのものがもはやローマ・ゲルマン的価値体系であることをやめ︑ましてやマルクス理論のス

ラブ化でもなく︑二〇世紀帝国主義時代における︑正にグローバルな価値体系︑全世界に通用する社会改革の理論の

一つとなり得たのである︒

 資本主義の帝国主義戦争といわれた第一次大戦により︑その弱い環の一つとしての帝政ロシアが崩壊し︑そこに世

界でさいしょの社会主義国ソビエト連邦が誕生した︒第二次帝国主義戦争の結果東欧諸国もそれに倣った︒グローバ

ルな価値体系としてのレーニン理論はしかし乍ら︑その具体的実施に当ってはそれぞれの国の歴史的伝統的文化の影

参照

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