著者 酒詰 治男
雑誌名 同志社大学歴史資料館館報
号 19
ページ 34‑43
発行年 2016‑10‑31
権利 同志社大学歴史資料館
URL http://doi.org/10.14988/pa.2017.0000015515
講演会「縄文貝塚研究と酒詰仲男」講演録3
「同志社文学」から「貝塚」へ
甲南女子大学名誉教授
酒詰治男
こんにちは。仲男の親戚の治男でござい ます。多少、門前の小僧ではあったのです が、やはり門外漢でして、その分気楽に、
話に多少誤りがあっても当たり前だとお許 し願えるのではないかと勝手に思っていま す。気軽に話させていただきます。ただし、
この講演のお話をいただいたときに、本当 のことを言うと、何をお話ししようかと悩 んだのです。
仲男の芸術的な側面、文学や絵画はどう
かとのご提案に、少し乗りかけたのですが、考えてみると、あまり知らないというか、結果は知って いる、作品はあるのですが、特に絵画は明らかに誰かに習った形跡もあるのですけれど、もう一つよ く分かりません。突きとめたところで話が10分ぐらいで終わってしまいそうですので。
結局曲がりなりにも、高校時代まで父母の膝下で育ちました。物心つくのが大体四つ五つですから、
考えてみると10年ぐらいしか両親と付き合いがないというと大げさな言い方ですが、むしろ学生さん のほうが大人として付き合っておられて、わたしは例えば父と本気で酒を酌み交わしたことがないの です。病気のとき以外はだいぶ仲男は飲んだと思います。わたしも相当飲みますので、そういうこと があればとても面白かったと思います。残念ながらそういう付き合いがなかったので、一番聞きたか った本音のところを聞きそびれているというところがあります。ですから、まさに門前の小僧で、近 くにいただけの見聞を皆さんにお話しするしかないのです。
用意していただいた資料が皆さんのお手元にあると思います。大きく4枚に分かれていて、1枚目 に仲男の簡単な年譜が出してあります。生まれが1902年、明治35年、亡くなったのが1965年、63歳で す。ざっと6行ぐらいあります中ほどを見ていただきたいのですが、検挙と書いてあります。これは 昭和8年、1933年に特高警察につかまりまして、教壇から拉致されたということです。今度いろいろ 調べましたけれども、そして後でできればお話ししたいのですが、仲男がこの同志社で過ごした数年 というのは、日本の一番ひどい時代の一つです。大正デモクラシーといって、大変民主的で自由な雰 囲気が漂っていたような感じがしなくはないのですが、しかし同じ頃、例えば治安維持法が施行され ています。それの最初の逮捕例が実は同志社の学生だったということを、最近読みかじっていて見つ けました。そのような時代でした。ですから、検挙というのが出てきますが、ある意味では当然でし
た。なぜ当然かというのは後でお話しするつ もりです。
同志社大学では英文学の学生だったわけで す。さらに仲男の一番の関心は文学にあった ようです。それも自ら創作し、かなり作品を 書いています。学生時代は何に関心があった かというと、そのことしか関心がない、みん なで文芸雑誌を出すというのが彼の同志社時 代の一番の関心でした。ただしそれがとうと う出なかったというのがあります1)。いずれ にしても、彼は大方向転換を強いられるわけ
です。逮捕は当然失職に結びついたわけで、普通の考えからいうと、せっかく中学の英語の先生にな ったのだから、一生穏やかに過ごしたらと思うわけですが、そうはいかなかったわけです。ここで大 転換を強いられて、大きく仲男の生涯が二つに分かれると言いましょうか、1933年ですから31歳、亡 くなったのが65年で63歳ですから、年限的にもちょうど中ほどで全く違った人生を歩むということに なります。
開成中学に就職して、検挙される辺りまでを一つ目の青年期とします。それ以降、二つ目を考古学、
貝塚研究の時代というように大きく二つに分けてお話をします。ただし、時間の制約がありますので、
ややかいつまんだ話になると思います。
最初の写真[写真1]ですが、これが仲男の幼少年期で、残っている写真には大抵裏書や、アルバ ムに貼ってあって解説文がついているのですが、これだけはいくら探しても何もありあません。向か って右から2人目が仲男当人です。帽子を持っているので、多分開成中学入学時のものです。中学は 開成中学に入りました。右端が父親の酒詰米次郎です。左端が母親の土岐満寿。満寿子というのもあ るのですが、仲男は大半というか普通、満寿という、満つるに寿と書いて満寿と表記しています。そ の隣りは満寿のお母さんでして、仲男にとっておばあちゃんの土岐ハツです。父の米次郎は、茨城県 の出身です。
このあいだ、あまりありがたくない話で有名になりました小貝川という利根川の支流があります。
氾濫しましたけれど、昔から氾濫する暴れ川です。米次郎のおじいさんのお父さん、3代前ぐらいが 治水工事に功があったというので、いまだに碑が残っていて見に行ったことがあります。大変不思議 な話です。こちらの土岐満寿のほうは名門と言いましょうか、美濃の武家土岐家の出身です。こちら も実は京都に最後定着していまして、お父さんのほう、つまりハツの夫は土岐長寛といいますが、イ ンクラインの工事に携わりまして、そこで殉職したという記録が蹴上に碑となって残っています。つ まり、奇しくもと申すべきでしょうけれども、両方とも水力学といいますか、水に関わりのある仕事 に因縁がありました。
そういうわけではないのでしょうが、実は結婚の当初から夫婦仲が大変水くさいといいましょうか、
[写真1] 父母、祖母他家族と
疎遠でして、こういうのはありかと思うのですが、仲男は生まれてすぐこのおばあちゃんの里子に出 されまして、もともと両親と一緒には過ごさなかったのです。6歳のときに初めて両親のところに泊 まりに行ったけれども、嫌になって途中で帰ってきたということがありまして、とても不思議なので す。このような経歴があります。とりわけ父親と疎遠です。仲男は父親を嫌っているフシがあります。
かなりひどいことを言っています。どこまで本当かは分かりません2)が、最後は詐欺師のようなこと をしていたというような記述まで出てきます。
いずれにせよ、後にも少し出てきますが、著作物で酒詰仲男が土岐仲男と名乗る3)ことがあります。
それほどに仲男は土岐好きです。土岐の家に育てられたというところが大きいのでしょう。土岐一家 は東京の大森に本拠があります。それと同時に、今お話ししたように、土岐満寿は京都にも地縁があ ります。ですから仲男は子どもの頃から結構東京と京都を往復しているというところがあります。た だし、この頃にはすでに父親と母親の仲はかなり険悪でして、開成中学3年のときに京都の一中に転 校します。京都に移りまして、ほんの1、2年間ぐらいのことですが、そこで例えば生態学の今西錦 司や、森田一郎という京都外国語大学の創設者、あるいは田中美知太郎という哲学者と付き合いがあ ったようです。彼らとは大変濃密な付き合いを一生続けています。
その後に同志社の予科に入ります。この辺りからすでに創作を始めます。フィクションの創作です。
そういう記述が出てきまして、その後はもっぱら文学の話ばかりです。少し驚くほどです。いろいろ な友達と語らって、何か文学の雑誌、文芸誌を作ったという話がたくさん出てまいります。その中で も一番の中心が「同志社文学」[写真2]という雑誌です。ご存じの方も多いと思いますが、「同志社 文学」という雑誌を創設します。ただしこれを調べてみると、明治時代から同じタイトルの雑誌が存 在しているということが分かりまして、その他いろいろ詮索してみたのですが結局、仲男が残したノ ートによると、「同志社文学」というのを出したのか出さなかったのかよく分からない4)のです。そ れで思いたちまして、皆さんの背中から100mの所に同志社大学図書館がありますが、そこにこの
「同志社文学」があるというのを突きとめまして、ちょうどひと月ほど前に調べにまいりました。い ろいろなことが分かりました。仲男たちが出したがっていた「同志社文学」は3代目で、明治に1回、
大正に1回出ていて、いずれも途中で立ち消えになっています。ですからいわば新たな装いで試みた わけです。
その奥付5)のところをコピーして持ってきま したが、この仲男たちの同志社文学の一番の特 徴は、それまでが比較的全学的な雑誌であった のですが、これはほとんど英文学科に特化した、
英文関係の人ばかりが書いているような雑誌で す。例えば代表幹事、これは英文学科長ではな いかと思います。和田琳熊という有名な人のよ うです。和田洋一のお父さんに当たる人です。
この人が発刊の辞を書いています。ご存じの方
[写真2] 同志社文学 創刊記念、1924(大正13)年 西寮にて、右から深津、堀田、荒木、酒詰、青木(後)、
西の各氏
も多いのではないかと思いますが、例えば園頼三さん、大塚節治さんという名前があります。この辺 りは幹事、先生がたです。その他、わたしにだけなじみが深いのかもしれませんが、岡橋祐先生とい う立命館大学の英語の先生、あるいは児玉實用先生、桜井忠一先生の名前が雑誌仲間の名前として挙 げてあります。それからもう一人、これは要注意の人物だとわたしは思うのですが、山川幸世という ある意味有名人です。幸いな世の中と書きますが、生粋のマルクス主義者のようです。同志社大学の 時代からそうだったようで、卒業後築地小劇場に移りまして演劇界で活躍した人6)です。
年に3回刊行する予定と出ています。ここに持ってきましたのは、創刊号の奥付です。まとめて予 約すると1カ年1円50銭です。丸善、教文館、平野書店、きっとなつかしいと思われる方もいらっし ゃるのではないかと思います。そういうところから発売されています。
これの1号に早速土岐仲男の名前で作品を見つけました。『平行線』、われわれの議論は平行線をた どったという、その平行線です。まさに学園当局と大学生が大激論を交わすというのが演劇仕立てに なっていまして、これは戯曲です。3号の『梅雨』と7号の『火鉢を買う』、この二つはいずれも4、
5枚の短編小説です。何とも面白くないと言いましょうか、若いカップルがどん底の生活、これは明 らかにすぐ仲男自身であるということが分かるのですが、どうやら同棲生活を送っているという身辺 雑記に類する話が出てきます。フランスの自然主義が日本に入ってきて、私小説として開花しました が、その頃のなごりではないかというものです。ただし、少し感心したのですが、文章がとてもしっ かりしていると思います。
ついでに言っておきますが、失礼な言い方をしますが、考古学者の皆さんがいつも発表論文でごく しっかりした文章を書かれているとわたしはあまり思っていません。仲男は報告文、しかも日記など も、疲労困憊して帰ってきたはずのその夜に、あるいは次の朝のこともありますが、日記を残してい まして、文章がしっかりしているのです。これはやはりすごいことだと思います。それは学生時代に 鍛えた文学の雑誌刊行にまつわる活動のおかげではないかと思っています。要約しますと、同志社時 代というのは、同志社の学内誌に限らず外のものも含めまして、さまざまな雑誌を出す試みをしてい ます。最後まで行けるかどうか自信がありませんので、このあたりでネタをばらしておきますが、
「 同志社文学> から 貝塚> へ」というわたしの今日の演題は、思わせぶりということではないつも りですが、何の話かと言うと、学生時代は「同志社文学」でありましたけども、考古学の時代になり ますと「貝塚」という雑誌が彼の活動の原点であったろう7)と思い、その辺りからこのようなタイト ルをつけたということです。
一つ補足しておきます。ただしこの学生時代、雑誌の話ばかりしましたが、既にリウマチにかかっ ておりました。かなり重症でした。京都大学付属病院に三ヶ月入院して、学業が遅れるという話が出 てきます。さらにこれは聞いた方も多いかもしれませんが、応援団団長をやるという少し穏やかでな い話が出てきます。さらに同志社の応援歌をつくるというのがあります。応援歌をつくるというのは、
多少文学活動と関わりがあるのですが、応援団の団長というのは、わたしのような世代の人間には意 外な取り合わせであるような気がします。そういうことが出てきます。
いつ英語の勉強をしたのかよく分かりません。英語の勉強はしたのでしょう。東京の開成中学はか
なりの名門校、受験校で、多分この頃からそうであったのではないかと思います。よくそこで英語の 先生になれたものだとわたしは感心します。先ほど申しましたように開成は母校ではあるのですが、
いつの間にか英語も勉強していたのだとは思います。卒業論文は英文学のシングという人の『海へ騎 り行く人々』8)という、精確にはアイルランドの作家です。さらにアイルランドの西のほうに小さな アラン島という諸島があります。そこの漁師のことを書いた戯曲だそうです。そういう作品で卒論を 書きます。わたしの目からすると、みごと母校の東京の開成中学に就職いたします。
この辺りからは資料が尽きまして、手元に持ってきましたが、この『貝塚に学ぶ』に書いてあるこ と9)なのですが、開成中学の同僚たちとあまりなじめないのです。あまり親しくなれないのですが、
1人だけ例外がいて、石田外茂一という先生です。今回いろいろ調べものをしていて、一番大きな収 穫の一つ、とても面白そうな先生で、東大の英文でかなり秀才であったそうです。この人ととりわけ 気が合いまして、それで2人で語らって歴史研究、それも科学的な方法で歴史を勉強し直そうという 決意をします。その割にはすごく習熟が早いのですが、わたしの目からするとかなり一流の雑誌に、
日本国家の起源に関わるような論文を発表するのです。先ほど話が出てきましたが、仲男のほうでは なく、多分この石田外茂一先生のほうではないかと思います。鳥居龍蔵にとても褒められるというよ うな、いつそのようなところまで行けたのかという感じがわたしにはしますが、そのような論文を発 表しています10)。
そして数年がたちます。先ほど申しましたように、授業中に官憲が教室に入ってきて引っ張られま す。お渡しした資料の終りから2枚目に再現していますが、そのときに多分中学生としてたまたま教 室におられたのではないかと思いますが、中村真一郎という仏文学者が「私の履歴書」という日本経 済新聞の連載ものの記事11)で逮捕のときの様子を書いておられます。後でお読みいただきたいと思い ます。これだけ見ると、とても唐突ですが、わたしが今回いろいろと調べものをしていて、このよう な事態も当然だろうといういくつかの事実を突きとめました。
一つは、まずこの時代に英語英文というのは、それだけでも駄目です。駄目と言うか、にらまれて も仕方ないのです。同時に先ほど申しました山川幸世が学生の頃からかなりのマルキストでして、し かも仲男が東京に出るや、たちまち多分一番の仲良しの1人となったに違いないのです。どうやら仲 男の下宿先をアジトにして活動していたようなのです。この二つだけで既にだいぶ危険なのですが、
先ほど申しましたように、さらに歴史を科学的に勉強し直す、個人でやるのは勝手でしょうが、その 成果をたちまち、例えば最後は岩波の「思想」などに発表しています。これはただでさえ目を付けら れるものです。三つ重なっていますので、かなりいじめられたようで、1カ月収監されまして、出て 来たら前歯が5、6本なかったようです。これは日記にも出てきますけれども、治すお金がずっとな かったようで、結婚の寸前まで前歯が欠けていたというのがその頃の他人の仲男評によく出てきます。
何本か前歯がない状態、つまり拷問されたのです。ただし、仲男だけではなく、当時はこういうもの の考え方をする人がみんななめた辛酸です。初めはもっぱらマルクス主義を対象にしていたようなの ですが、だんだん皇国史観と言いましょうか、国体維持に問題になるようなものが取り締まられると いうことになります。同志社大学も実はキリスト教の棄教を迫られるような事態に陥った時代があっ
たようです。有名な話は、京都は亀岡の大本教の弾圧ですが、高橋和巳がこれを題材に『邪宗門』と いうとても面白い小説、ほとんどドキュメンタリーを書いていますけれども、つまり神道以外のあら ゆる宗教が弾圧されたわけです。
勾留されたマルクス主義者の多くが転向を迫られるのです。簡単には出してくれない、転向したか どうかを確かめるのです。転向したというのが確かに分かると出してもらえる人もいた。仲男は幸い 1カ月で出してもらえました。何か手を回したとの話もあります。先ほど言った一中の友達の親かな にか知りませんが、そういう話もあったようです。しかしわたしは、仲男は転向はしなかったけども 潜行した、深く潜り込んだ、つまり土の中に潜り込んだのだと思います。皆さんにお渡ししてある一 番おしまいの資料は、この前たまたまわたしが東京に行ったとき 原発事故以来東京には行くまい と心に決めていたのですが今回やむを得ず行きました 、その東京で友人がこのような記事12)が出 ていたとくれたのです。東京版の記事なので、多分ここにおられる皆さんはほとんどご存じないと思 います。これは朝日新聞の記事です。つまり皇居内の貝塚を発掘した、遺跡を発掘した、そこで天皇 陛下に説明したという話です。それだけといえばそれだけなのですが、これはやはりわたしが今お話 ししているような側面からして、ついにここで仲男は科学的な歴史の調査で、その成果を天皇に解説 するということになったわけです。ですからある意味転向ではなく潜行、考古学で地面の底に潜行し た仲男の勝利であったのではないかというように思います。皆さんとわたしは世代が違いますので、
変なことを言っているように聞こえるかもしれませんが、わたしとしてはそういう気がします。
時間のこともあって、これ以降は他の講演者の皆さんのお話にも出てまいりましたので、もうあま り付け加えることはないのですが、例えば大山史前学研究所、ここに拾われた感じなのですが、給料 があったわけではなく、無給で良いからここで仕事をさせてくれと言って仕事をして、まず貝塚地名 表に着目し、日本中の貝塚を調べあげてその地名表をつくるという、この時代すでに自らのテーマを 設定して、これがまさに仲男のライフワークになるのだと思います。その出だしがこの研究所なので す。ただし給金はなしです。幸い、所長の大山柏さんという人の援助で、H報公会というのに推薦さ れます。わたしにはほとんどなじみがないのですが、要するにこの時代この手の研究助成制度がたく さんあったようです。その一つでこのHというのは服部時計店が主宰するもので、今でも工学関係で はかなり有名な財政援助だそうです。補助金は年に60円です。この頃の60円は今のいくらかというと、
ほとんど90万円だそうです。これを3年間もらったようで、これが仲男の唯一の、生活費にも多少使 っていたのではないかと思いますが、研究費でした。このお金で研究しまくりまして、その手前でま ず神奈川県の貝塚の徹底調査から始めたと自分でも書いています。これが少しやり過ぎだったようで、
大山史前学研究所でたちまち顰蹙を買うのです。お前1人で出過ぎたことをするなという感じで、出 入り差し止めになります。
それで、先ほど申しました資金をもとに、もっぱら初めは1人で発掘するという、先ほどトラクタ ーが出ている発掘現場が写っていましたが、1人で発掘というすごいことをした時代がありました。
写真が変わっています。[写真3]すみません、申し忘れました。これは開成中学で、右端が石田外 茂一先生です。後に民俗学で業績を残されまして、富山県の五箇山という今は温泉で有名みたいです、
そこが寒村だった頃に家族で籠られまし て、そこで民俗調査をされたということ です。その他いろいろ活躍され、晩年は 陶芸家で有名なのだそうです。開成中学 の同僚と日光に親睦旅行をしたときの一 コマのようです。
石部先生がお見えですが、すみません、
無断で先生の写真をお借りしました。
[写真4]これは石部先生のお宅で、東 京の千葉県への入り口の平井です。土曜 会の会合が開かれていて、その一コマで す。昭和20年のクリスマスです。よく見 ると、左の上に石部先生が写っています。
その横に星があるのは、これはクリスマ ス・ツリーの星です。右の3人目が岡田 茂弘先生です。中央が仲男ですが、その 一人おいて右隣が篠遠喜彦先生というハ ワイのビショップ博物館に移られた仲間 です。
話が飛んでしまいました。この時代に 資料参照のために東大に行っています。
そのときにひょこひょこと長谷部言人先生が寄って来られて、雑誌などで一応名前は覚えられていた ようで、「酒詰です」と名乗りを上げたら、「ああ君かね」というので、「実は人類学教室に人手が要 るのだが君も来ないかね」という話になったのだそうです。人の就職の話というのは、実にそういう 運というものが付きまとうというのが、わたしもこの年になっていろいろと思い当たるフシがありま す。まさに僥倖と申しましょうか、言ってみれば東大の人類学教室に就任したての長谷部先生に拾わ れたわけです。これで初めて経済的にも少し安心して考古学に専念できることになります。ただし、
お分かりのようにたちまち戦争の時代でして、東大も学生はもちろんのこと、教員も一部は動員され ます。何よりも教室ともども疎開しなければいけない、遺物や資料などを救うために、飛騨の高山に 教室ごと疎開するというようなことが起こりました。仲男はそれで翻弄されるというか、大変苦労し まして、その後岡山にしばらく籠った後、一時はもう研究を辞めようかというような感じが日記を見 ていると窺われるのです。なかなか東大に戻らなかったのですが、やっと戻りまして、住宅難の時代 ですから、大学の研究室にかなり長く住みついていたようです。その後熱海の大邸宅にわたしも半年 ぐらい住んだことがありまして、お弟子さんの1人の知り合いの別荘だったようです。その熱海で仲 男は喘息を発症しまして、この後わたしの仲男のイメージはずっと、今は薬がかなり発達しています
[写真3] 東京開成中学校の教員仲間と、
1932(昭和7)年春、百華園にて、右から石田外茂一、酒詰
[写真4] 1920(昭和25)年クリスマスの土曜会、
篠遠喜彦、石部正志、岡田茂弘他の各氏
けれども、わたしの父親像はぜんそく男です。これは本当に近くにいる人間にもつらい病気です。と ても暗い、家がずっと暗かったという残念な思い出があります。
その後、東京のどちらかというと東のほう、これも今回の調査の成果の一つなのですが、仲男はど ちらかというと東京の東のほうになじみがあったということが分かりました。大森がまず入り口、こ れは東とは言いにくいのですが、品川の手前です。さらに開成中学が日暮里なのです。日暮里という 地名は知っているのですが、東京番組をテレビではやっていますが、日暮里はなかなか映らない、少 し外れという感じのところです。ただしここはすでに道灌山という遺跡が発見された時代で、そこが 仲男の発掘の、遺物を拾ってくる最初の試みの場所となったようです。
時間がまいりました。何とか無理にまとめます。先の東京での単独調査の時代に国学院大学と縁が できまして、大場磐雄先生という国学院の御大の先生が、仲男が浪人していて所属がなかったもので、
発掘を任せたのです。それで国学院の学生さんたちと親しくなりまして、その数人と語らって貝塚研 究会をつくりました。そして「貝塚」という雑誌、4ページぐらいのパンフレットで、今日外箱だけ 持ってきましたけれど、既刊号を全部集めてもこれくらいのパンフレットです。これは原則としては 月に1回刊行したみたいなのですが、ただし仲男が京都に移ってからも編集の後継者がありまして、
ずっとかなりの期間出ていたようです。戦争中当然途切れます。戦争が終わってから、これがもう一 遍再現しまして、まず土曜会という会合、月1回第4土曜日と書いてあったような気がします。誰か の自宅を利用しながら会合を開いて、何が行われたかというと、貝塚情報の交換です。それから発掘 の情報、資料に関する見聞など、町の考古学者も含めまして、みんなで集まって定期的に議論しあっ て、それを「貝塚」というパンフレットにして出していったという、ある意味では大変地味な、ささ やかな試みです。
これはだたし、どうやら当時の特に東京一円の考古学界にとってはかなり大きな意味を持ったと言 われています。その一コマがこれ[写真4]で、その一員であるこの篠遠先生という方が、ご存じな い方が多いと思いますが、自由学園の出身の人でして、仲男の東京での本拠は東のほうと申しました が、ここで一挙に西のほうに、今でいうひばりが丘、保谷、田無、西武池袋線と新宿線の両方に田無 があって混同されるので、仲男のいたほうはひばりが丘という団地の名前に変わりましたけれども、
そちらに移りました。そこでこの篠遠先生のお父さんに土地を借りて掘っ立て小屋を建てるのです。
これは時代状況からしてすごいことだと思います。それが多分同僚の耳に届いて嫉妬されたのではな いかとわたしは半分本気で思っているのですが、せっかく家を建てたのに2年目ぐらいで転任です。
転任というと聞こえが良いのですが人気制、教員および大学院生が投票をしまして、この先生はもう 専任教員に要らない、という決定がなされた。仲男はさすがに自分では書いておりませんが、あまり にも発掘ばかりしているので、このあいだ数えてみましたら戦前と戦後の東京時代、30と40の間の遺 跡を発掘しています。これはすごい数なので、大学にいる暇がほとんどないのです。どこかに必ず調 査に行っているわけで、とりわけ院生となじみがなかったというのがありまして、ついに昭和27年に 投票されて、あなたはもう東大在籍は終わりというのを突きつけられるわけです。そういう結果から 母校同志社に来させていただくという事態が生じたわけです。
ほとんど意味のないように見える5枚目の写 真[写真5]ですが、先ほどどなたかのご指摘 にもありましたとおり、東京オリンピックは 1964年、亡くなったのが65年ですから、これは 亡くなる直前の写真で、多分このときに東京で わたしは仲男と最後に会って、四谷でトンカツ をおごってもらったのではないかと、服装から して思います。つまりこのときわたしも最後に 仲男に会っているのですが、何でこの写真をこ こにもってきたかと申しますと、わたしはこの 写真がなぜか昔から結構好きなのです。仲男が
よく写っているというのではなく、かなり仲男の時代を象徴的に示している、つまり生まれたのは世 紀の変わり目の1902年、学生時代は大正デモクラシー、分かりやすいと思いますが、亡くなったのが オリンピックの次の年でして、わたしは東京におりましたが、東京はとんでもないことになった、東 京だけでなく日本列島全体が改造された年でして、多分これは仲男が「あー」というような想いで世 の中を最後に睨んでいる、という感じがわたしにはします。つまり考古学が日本中の大規模な開発に 追いまくられる時代の始まり、ですから多分遺跡保存の運動など、そういうものが全部絡んでいるの だと思います。わたしはこの写真を見ると、そういう事態を思わずにいられないというところがあり ます。
以上です、大変お粗末でした。 (了)
註
1)幼年期から開成中学への就職にいたるまでの記録は「私の履歴」と題された大学ノートで8ページばか りの自筆のメモしか残されていない。それによれば「同志社文学」の刊行は仲男卒業の年のことである。
2)母方、つまり土岐家に言わば取り込まれていたので、仲男は米次郎を中心とする酒詰への非難のなかで 育てられたらしい。ただし手短なメモからも、満寿の方も相当の「発展家」であったことが窺われる一方 で、米次郎は東京外国語大学のロシア語科を卒業( )後、書店、絵はがき屋、料理屋、下宿屋などの生 業に携わり、画家、役者などと好んでつきあっていた様子が窺われ、さほど一方的な中傷の対象となる人 格とも思えないフシがある。
3)ときに「土岐仲雄」の異文もある。これらは単に筆名というよりも、むしろ当局による検閲への対策で あった性格が濃厚である。なお日記類は、もちろん、検挙の前後数年のみ欠落している。
4)在学中に刊行されたとの明確な言及は見当たらない。上の写真が唯一の「証拠」だが、これにも日付そ の他の手がかりは得られない。
5)「同志社文學」、昭和2(1927) 年12月発行。
6)山川幸世(1904―74)、演出家、世間的には長谷川泰子をめぐる詩人中原中也との確執の方が名高いか もしれない。
7)当代の知的関心の対象を、同学の士との討論・研鑽を通して雑誌の刊行という形に顕在化させてゆくと
[写真5] オリンピック・スタジアムで(1965年 )
いうのが仲男の一貫した流儀であった。
8)Riders to the Seaは John Millington Synge(1871‑1909)の1904年の戯曲。
9)『貝塚に学ぶ』、学生社、1967年、新装版 2001 年。この他にも『貝塚』、柏書房、1981年、『酒詰仲男 調査・日録』、第1〜12集、東京大学総合博物館、酒詰治男編、2008〜14年などを適宜使用した。
10)「日本国家成立過程小論」、「思想」、岩波書店、1931年。なお、鳥居龍蔵の目にとまったのは石田外茂一 のものではなく酒詰仲男の論文であったとのご指摘を、この講演の直後に白石太一郎氏からいただいた。
11)中村真一郎、「衝撃」と題された新聞記事、日本経済新聞社、1993年5月9日。後に単行本『私の履歴 書』(ふらんす堂、1997年)に収められた。
12)「東京風土記」、朝日新聞、2014年5月20日。なお問題の遺跡は「旧本丸西貝塚」。
あとがき
本稿は2015年秋、同志社大学で催された「縄文貝塚研究と酒詰仲男」展に際して、10月11日に開催された 講演会で筆者が行った講演に加筆・訂正を行ったものである。展示会開催にあたっては、資料の選出、運搬、
展示から、講演当日の会場設営にいたるまで、大学歴史資料館の若林邦彦先生をはじめ、館のスタッフ・学 生の方々に多大なご尽力を頂戴した。そもそもの門外漢の小生まで発表者として講演会にお招きくださった のも若林先生である。ここに記して御礼申しあげる。
なお講演時には、若林先生に写真スライドの映写までお願いしたものの、途中から発表者の写真への配慮 が疎かになり、聴衆を迷子にしてしまった。本文中の[写真]は、元来あるべきだった位置に示してある。
なお、仲男の妻、小生の母にあたる静枝への言及がまったく脱落していることも悔やまれる。東大に就職後 ほどなく結婚し、高山および岡山(静枝の実家)への疎開にも同行し、その後の仲男の研究及び闘病生活を 全面的に支えたのもこの静枝である。
最後に、全体を統べられ丁重なご挨拶を頂戴した松藤和人先生、そして本誌掲載にあたって拙い講演の内 容を文字に書き出していただいたうえ、編集にまで携わっていただいた浜中邦弘先生にも心より感謝申しあ げる。