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「生活記録運動 戦前と戦後」覚え書

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「生活記録運動 戦前と戦後」覚え書

大 串 隆 吉

は じ めに

 1950年代に勤労青年や婦人の間に急速にひろがった生活記録運動は,1960年 代半ごろには,ほぼ停滞したと評されている(1)。しかし,1960年代後半からこ んにちにかけて,生活記録と断定するかどうか議論を必要とするが,青年期教 育に生活記録的学習が導入されてきている(2)。1950年代とこんにちでは,あき らかに時代は異なっている。にもかかわらず,ふたたび生活記録的学習があら われたのは,なぜであろうか。そして,またこんにちの生活記録的学習は,

1950年代のそれから何を学ばねぽならないのだろうか。

 1950年代後半に,生活記録運動が停滞し,社会認識を獲i得する上で限界が自 覚され,克服する努力がおこなわれた。この努力は,生活記録を人間変革にと

って万能なものととらえず,人間変革,ないし社会認識の発展の中に位置づけ なおそうとするものであった。例えば,紡績女子労働者の生活記録運動に深く かかわっていた鶴見和子は,生活記録が「歴史の進行に,主体的に介入するこ とによって,その方向を変え,主体それ自身をつくりかえていこうとする立場 からかかれた,部分的な歴史の徴視的な記録」であり,それを「巨視的な歴史 の記録に収敏させていく方法論」を生みだすことを課題とした(3)。また,青年 団でおこなわれた生活記録運動では,「話し合い,生活記録は,生活の事実を 正しくみつめることからはじめようという大切な学習」であり,その意味で  「学習の基礎」である。しかし,青年団運動が農村の封建遺制や,農業経済の

面での資本の攻勢に直面したこと,原水禁運動,警職法反対運動,安保闘争等 の政治運動にとりくむなかで,地域社会,日本の社会全体の問題にとりくむ為,

社会科学の学習が生まれてきたことを指摘し,生活記録と社会科学学習のよ

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うな「ものごとの分析に欠くことのできない基礎的な知識を身につけていく学 習」とを結びつける必要を提起したω。

 このような総括と提起は,認識過程やそれにともなう人間変革のあり様を分 析する必要を提起していたと言える。生活記録を社会科学の学習や巨視的な歴 史と結びつけることは,生活記録の社会的な発生要因に社会問題があったこと から生まれざるをえないことであった。その社会問題とは,我が国の青年問題

と婦人問題である。同時に,発生要因として社会問題があったことは,社会科 学の学習と結びつくことだけでなく,様々な問題を提起していた。以下,それ を予備的に考察してみる。

一、農村の青年・婦人聞題と生活記録運動

 鶴見和子と須藤克三の所論をとりあげてみる。それは鶴見和子が,沢井余志 郎に指導された東亜紡績泊工場の生活記録グループの援助者で,その理論化に 努力したからであり,須藤克三は,山形県の生活記録運動の指導者だったから

である。

 鶴見和子は,『Social Change and the Indivisua1』(Princeton Unirersity

Press 1970),の「The Circle a Writing Group among the Textile Workers」で次のような論旨を展開した。これは鶴見の紡績女子労働者による 生活記録運動の総括的な評価である。その要点をのべよう。

 戦後の生活記録運動が,r山びこ学校』の影響を受けてはじまったことから,

戦前の生活綴り方運動の歴史を概括する。そして,無着成恭が子供達に日常の 言葉で生活体験をかかせ,その綴り方にあらわれた現実の問題をグループで討 議させることによって,子供達に合理的,自発的,自立的な集団的思考方法を 獲得させた点からみて,戦前の生活綴り方運動を受け継いでいる,と述べる。

同時に,無着は村における未来の成人の役割の学習を強調する点で,若者組,

娘宿のような組形式にみられる社会化の遺産を受けついでいる。無着は,組に よって育てられた村落における役割の質をつくり変えようとした。それは,江 口幸一の「母の死とその後」という綴り方をきっかけとしたとりくみにみられ る。江口のこの綴り方をきっかけとして,、江口を助ける為に子供達の協力を組

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織し,ひとりの子供の苦悩と心配をわかちあい,他の子供の役割を自覚させた。

この無着の社会化の方法は,完全なコミュニケーションのモデルに基礎をおい ていると言う。

 『山びこ学校』の特徴をこのようにおさえた上で,戦後の生活記録運動は,

r山びこ学校』にみられたような生活綴り方における社会化のパター一一・・ンを受け

ついでいると指摘し,泊工場の生活記録運動の経験を分析する。

 泊工場の生活記録サークルは,農家の娘としてと産業労働者としての役割の 統合(Integration)をめざしたと概括する。農家の娘としては,出稼ぎ型労 働であることから農業における家族労働の変型したものとして位置づけられる。

会社の場では被雇用者としての役割を持っている。ここでは,男子のように定 年まで働くことを期待されず,義務教育修了と結婚との間だけ働くことを期待 されているにすぎない。その雇用関係は労働基準法があるにもかかわらず,依 然として家族関係という虚構の上に成り立っている。労働組合では指導者に対 して兵卒ないし下士(aRank・and・file)の役割を持っている。組合では女子 労働者の数が圧倒的に多いにもかかわらず,指導者になるのはほんの少数であ

り,会議等で発言することも少ない。彼女等と組合役員との関係は,組合での 職務上の役割のちがいがあるが,理念上は合理的かつ平等であり,相互に独立

し,集団的で親密であり,自発的で開かれた相互援助の関係にある。しかし,

実際には,従属的な支配,被支配の関係であり,開かれていない。

 紡績女子労働者は,この三つの集団に属しながら,女子労働者と農民の妻と 母の役割の統合をめざして生活記録をおこなった。彼女達は労働組合のメンバ

ーとして理念的には両親から独立していることを学んだ。しかし,現実にぽ仕 送りをしなければならない程貧しい事を知っていた。「私の家」という生活記録 を書いて,自分だけが貧しいのではなく,みんなの家が同じように貧しいのに 気付いた。さらに,彼女達が村に帰って農民の妻となることから,「母の歴史」

を書いて,彼女らの母が忍耐強く,よく働く母親であると共に不幸な母親であ るのに気付いた。母親を不幸にしたのは,農業生産のあり方であり,戦争であ

り,伝統的な家制度だと考えたが,彼女達にとって最も重要なのは伝統的家制

度だった。

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 彼女達が母親よりも「幸福な母」になる為には,伴侶を相互理解と愛を基に 選ぶことだった。サークルの中でカップルが生まれた。このカップルに対する 嫉妬がおこり,一時サークルは危機をむかえたが,指導者の沢井余志朗の批判

と指導があって,仲間の協力による結婚式がおこなわれた(これは『仲間のな かの恋愛』河出書房としてまとめられた。)。多くの者は,村へ帰り結婚し農民 の妻となる。理念どおりにはいかなかったが,母親達とは大分ちがう家庭づく

りの努力をおこなった。

 鶴見の生活記録の評価は,沢井余志朗の不当解雇に反対する闘いや,一時帰 休があってもサ・一クルを維持して,彼女達が昔の紡績労働者とちがい労働者意 識を持ったことにふれているが,労働者として女子がどう生きるかよりも,農 村の婦人としてどう生きるかに力点がおかれている。そして,生活記録のサ・・…

クルは,農村の村落共同体的な生活様式や人間関係と,労働組合の理念に代表 されるような近代的な自我を持った共同的な生活様式・人間関係との結節点と して描かれ,後者が前者を克服していく過程一近代社会へ社会化していく過程 として評価されている。これは,封建性を持った農村婦人問題を克服していく ひとつの過程とも言うことができる。したがって,鶴見の生活記録の評価は,

紡績女子労働者を対象にしているとは言え,実際は農村の婦人問題をとりあげ たものであった。

 農村における生活記録について論じたものとして,須藤克三のそれをとりあ げてみよう。山形県の生活記録運動の指導者として日本の青年団運動にも影響 を持った須藤克三は,「むらの生活記録運動をすすめてゆくために」を,r作文

と教育』1958年7月号から翌年12月号までにかけて15回にわたって連載した。

これは,それまでの運動の総括であると共に,展望を作りだそうとして書かれ たものであり,次の順序で書かれている。1.むらではなかなかものが言えない。

2.まず書くことの抵抗感をときほぐす運動を,3.むらの中の組織の中にとけこ ませる運動を,4.まず「私」を掘りおこしていく運動,5.むらの歴史をみんな のものにする運動,6.生産のもつ意味をつかまえさせる学習として,7.労と農

とは手をつなげるか。

 これは,大きく三ッの課題にわけることができる。1.封建的な村,家の中で

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自我一私を形成する課題,2.貧しさをなくす為,農業生産を確立する課題3.

労働者と農民が手をつなぐ課題。この三つが問題になるのは「村の生活記録運 動は,封建遺制にからみついた身辺雑記のくり返しに終始しており,問題が少 しも前進していないといわれるが,それは生活記録に責任があるのではなくて,

       

               

       

      

       

       

村の生活の中で何がもっとも大事であるかの把握の問題」(傍点一引用者)(前 掲59年7月号)だと考えたからである。

 須藤は,個人が「むら」の底辺の歴史の中に埋没されて来たと指摘する。

「むらの主婦たちは,いいたいことさえも,できるだけおさえておく悲しい習 性を美徳だと思わされてきているし,どだいものを書くことさえも生活の習性 の中に置き忘れてきてしまっている。」(前掲58年8月号)。したがって,「私」

を掘りおこし,書くことの抵抗感をなくしていかねばならないが,それは一人 ではできない。「たとえ,自分だけがしゃんとして「私」をつかみとっていた ところで,どうにもならぬ場合が多い。出る釘はいたるところで打たれ,生意 気とか,出すぎ者というそしりぐらいならまだよいとして,この頃ではアカよ ばわりがまたそろ強くなってきた。そのような歴史とたたかうためには,一人 一人の「私」のほかに,むらの「みんなの私」を掘りおこす運動がとても大事 なことである。」し,その為に「むら」の組織の中にとけこんでいかねばならな

い。 (前掲58年12.月号)

 つぎに,むらの歴史を調べる意義についてふれる。農村の人たちには「つね に上からの力や目にみえない存在にたいする受け身の姿勢」があった。したが

って,「一人一人が自分の生活の歴史と,自分たちの生活の歴史とを,一一つ一 つこくめいに自分の生活の中に刻みこむ」ことによって,「むらのだいじな歴 史は,自分たちでつくる」ことをしなければならない。須藤は,農民の意識を

「私」がないことと,「上からの力」に受動的であることと特徴づけた(前掲 59年2月号)。これは,一言でくくれば農村の封建性の中でつちかわれた意識

といえよう。これを克服する為に生活記録によって「私」をつかみとり,それ と村の歴史をつくることを結びつけることによって,「私」と村を変えていく 農民を育てようとしたと言えるだろう。

 須藤が,生活記録において農業経営の問題をとりあげるのは,これが農民の

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「貧しさ」の大きな原因になっているからであり,農民にとって「生きるか死 ぬかのだいじな問題」だからである。だから「村の生活記録を通して行なわれ る生活の学習でどうすれば自分たちがもうかり,どうすれば自分たちが損する かの,しくみなり性格なりを村の人たちの生産の一つ一つと結びついて考え」

あう必要があると言う(前掲59年4月号)。とくに独占資本主義段階では農産 物の流通と価格,農家の金融と機関,家族労働の過剰燃焼について深められな ければならないとする。

 なぜ労働者と農民が手をつなぐ必要があるかを須藤がことさら述べるのは,

重要な農政問題が農民にふりかかっているが,農民は今まで受け身であったこ とから,政府の政策を問題にするよりも,政策からおこる問題を村にいる農産 物の検査や技術指導をおこなう「役人」や「月給とり」のせいにし,「村の中

で村の人と日常顔をあわせる労と農とは,水と油みたいな間柄のように思い」

こむからである。そして,「結びつきということには,基本的な認識に立つた めには,何をどのように整理し,何を共通なものにするかという,学習が大切」

であるから,各々の労働と生活の状況やおたがいがそれらを改善しあう記録を,

出しあい診断しあわなければならない。その上にたって,農政の基本問題の学 習や,労働者も地域の中の居住組織(PTAや青年団,婦人会)に入り,それ

らを組みかえていく運動に参加しなけれぽならないとする(前掲59年10月号)。

 1950年代生活記録運動の指導者であった鶴見和子と須藤克三の所論をとりあ げたのであるが,ここでおさえておかねぽならないのは,生活記録運動の基盤 には,社会問題として婦人問題,青年問題が存在していたことである。ひとっ は,農村の封建性から生ずる婦人問題,青年問題があり,鶴見にあっては主に この婦人問題にしぼられているが,須藤は,独占資本主義下の農業問題もとり あげている。その意味では須藤にあっては,生活記録運動は単に反封建を主張 するものとだけとらえられていなかった。(青年問題のあらわれについては,

「青年の学習運動一1950年代の経験から」 r講座・日本の学力・青年の学力』

日本標準,1979でふれたので省略する。)

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二,生活記録運動の戦前と戦後

 生活記録運動の基盤に,婦人問題,青年問題があるということは,1950年代 の生活記録運動だけにあるのではなく,戦前におけるそれにもあらわれていた と考えられる。戦後の生活記録運動は,r山びこ学校』の影響を受けてひろが ったことは事実であるが,このことから生活記録運動が1950年代初頭からはじ まったことにはならない。

 r生活綴方事典』(明治図書,1958年)の生活記録の項では,「生活記録運動 は,戦前からある子どもの生活綴方教育の歴史をふまえて,戦後に出てきたお

となの生活綴方運動である。戦前,大日本青年団の機関誌などで,「生活記録」

の募集をしていたことがあるが,戦後の生活記録運動につながるものではな い。」(440ページ,牧瀬菊枝の執筆)と述べている。鶴見和子の先の論文も同 じ見解から書かれており,ひとつの見解となっている。しかし,中島正美は

「長野県の生活記録運動」(r農村の変貌と青年の学習・日本の社会教育第6集』

国士社,1961年)で,長野県の戦後の生活記録運動はr山びこ学校』等の生活綴 方教育の影響を受けながらも,昭和の初期から戦時体制までの間におこなわれ た青年団の機関誌発行や,信濃毎日新聞の生活雑記欄の活動が受け継がれ,一一 つの基盤をなしていたと述べている。中島正美の記述は,より事実をはっきり

させることが必要だと考えるが,戦前の生活記録が,戦後のそれと共通の基盤 と課題を持っていたとしたら,生活記録運動を戦後の生活綴方教育運動と共に 生まれた産物とのみ評価するわけにはいかない。これは,単に事実の問題とし

てだけでなく,生活記録が目本の青年と婦人がかかえてきた問題を解決する方 法として自生的に生まれたことを意味し,それ故に彼等をめぐる教育と思想な いし精神の問題が含まれていると考えることができるからである。

 すでに,1928年プロレタリア文学の雑誌『文芸戦線』は,2月号で「無産婦 人の『生活記録』を募る」と次のような呼びかけをのせた。「題材は無産婦人

      

の生活記録であれば自由であるが,自由に大胆に,偽りのない婦人の生活を書       マ  マ     

      e

き送って欲しいと思ふ。殊に無産階級に従事する婦人,及びその夫を持たれた 婦人の感想,苦しみ,悲しみ,喜び,苦闘……実に得がたいものがなけれぽな

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らぬ筈だと思ふ。いまこそ,凡ての無産婦人諸君は,本誌のこの企てに,工場,

      

               事務所,デパ・一トメント,家庭,その他一切の窓をあけ放して諸君の生活の正

      

体を解放して頂きだい。」(傍点一引用者)さらに,雑誌『戦旗』は,1929年9 月号から婦人欄に「真夏の松本紡績女工日記」「女車掌の日誌」等をのせはじ め,11月号で「婦人欄は諸君のたゆまぬ努力によって号を追ふごとに充実して

きた,が更にあらゆる坑山,工場,農村,病院,事務所,自転車,電話局,学 校,等々に働く婦人の生活記録をどしどし送れ」,翌年3月号で「工場で,農

      

      村で,その他あらゆる職場で働いてゐる労働婦人のいつはらない生活の記録を われわれは欲してゐます。」(傍点一引用者)と呼びかけた。

 婦人の生活記録は,プロレタリア文学運動においてとりくまれており,引用 文の傍点部分にみられるように婦人の生活をリアルに発表させようとしていた。

したがって,プロレタリア文学運動において生活記録とそれにかかわってリァ リズム論が検討されねばならないことになる。(ここでは,その為の予備的考

察にとどめる。)

 プロレタリア文学運動は,1930年3月の日本プロレタリア作家同盟第二回大 会において,「記録文学」「報告文学」の必要性を指i摘し文学における記録を重 視した。これは,「革命的プロレタリアートのイデオロギーを広汎なる労働者 農民に浸透させることを以て目的としている」プロレタリア文学運動の大衆化 を計る為にとりあげられた。すなわち,「何よりも先づ大衆の実生活の中に突 入し,そこに我々自身の形式の現実的根拠を掴まなければならぬ(5)」からであ

る。ここには,文学におけるリアリズムが模索されている。

 さらに,この時期プロレタリア文学運動の理論的指導者として登場した蔵原 惟人は,『ナップ』1931年10月号に「芸術方法についての感想(後編)」を発表

       

し,その副題に「階級的分析について,生きた人間を描くということ,記録か

       

ら芸術的概括へ,結語」(傍点一引用者)とつけた。ここで,彼は,前述の日 本プロレタリア作家同盟が「報告文学」をとりあげたことを高く評価した。な ぜなら,革命的公式主義,観念主義を克服し,広範な大衆をプロレタリア文学 に導き入れるためには,最初に革命的な現実を正確に記録することを教えるこ

とが必要である。第二に,それによって広範な「物を書く」大衆を実際の闘争

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に組織し,各自の闘争の経験を交流させることができるからである。「報告文学」

「記録文学」とは,「個々の事件の正確なかつ迅速な記録であり報告である。」

これは,「非常に高い認識的意義をもつ」が,「資料的」であって,文学とな るには「共産主義的観点に立った現実の芸術的概括がなされなければならな

い。」と主張した(6)。

 蔵原の文学運動における報告文学・記録文学の位置づけはあいまいであった。

報告文学・記録文学も,その言葉どおり文学である。とすれば,これらも蔵原 の言う「共産主義的な観点にたった現実の芸術的概括」が必要とされるはずで ある。ところが,蔵原は,記録文学について「個々の事件の正確かつ迅速な記 録であり,報告」で,「非常に高い認識的意義をもつ」と特徴づけている。こ れは記録そのものの特徴ではないか。こう考えると,生活記録一報告文学・記 録文学一文学の区別と関連があきらかにされなければならなかった。

 この三者の区別と関連は,戦前において問題であっただけでなく,戦後の生 活記録運動においても問題になった。鎌田定夫は,「戦後生活記録運動の一総 括」(『作文と教育』1961年7月号)で,これらの関連と区別は中野重治,佐々 木基一,国分一太郎によって解明されており,国分の『生活綴方事典』(前掲)

の記述が総括的定義となっていると述べている。中野,佐々木,国分の各々の 定義については,あらためて検討しなければならないが,ルポルタージュ(報告 文学・記録文学)と生活記録とは,書く主体と対象との関係にちがいがある。ル ポルタージュは,書く主体が書く対象の中にいるわけではない。書く主体と対象 が分離されていることを前提として,書く主体が対象の問題性をいかにつかみ えがくかということが問題となる。すぐれたルポルタージュといわれるジョン・

リード『世界をゆるがした十日間』,細井和喜蔵『女工哀史』をみれぽよい。これ に対し,生活記録は,書く対象に書く主体が含まれているか,労働とか他者への 働きかけ等によって書く対象に対し書く主体が直接的にかかわりを持っている

ことを特徴とする。これが度々,生活記録が身近か主義といわれるゆえんである。

したがって,生活記録は,形式において私小説と同じであり,常に私小説的な ものになる危険性を持っている。しかし,生活記録の発生基盤に社会問題があ ると考えるなら,生活記録は私小説的発想を抜け出していかねぽならない。こ

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の点においてルポルタージュと同質のものを持っているのである。したがって,

認識の質がとわれ,社会科学の学習が必要となるのであるが,同時に安田武が 述べたように,生活記録運動は,「私たちの精神史全体の問題」(7)になり,単 に生活記録一記録文学・報告文学一文学の区別と関連だけでなく,私小説を作

りあげ存続させている日本人の精神史が問題になる。

 では,生活記録において,なぜ婦人の生活記録が,特別とりあげられたのだ ろうか。この点については帯刀貞代の指摘が示唆に富んでいる。帯刀は,ほと んど発言の機会を持たなかった主婦たちが,昭和恐慌期に大恐慌による生活破 かいにたいして,「身の上相談」という形をとって漸く声をあげはじめ,また,

恋愛実践の記録が自伝物語となって発表されはじめ,後年『煉瓦女工』(野沢 富美子,1940年),r女教師の記録』(平野婦美子,1940年)等を生み出す基盤を

なした,と指摘している(8)。

 生活記録はプロレタリア文学運動だけがとりあげたわけでない。これを営々 と続けた新聞に「信濃毎日新聞」(信毎と略す)がある。信毎に投稿された生 活記録は,片岡鉄兵,上田進,川端康成によってr農村青年報告』としてまと められた。(第1輯,2輯,1940年,3輯,1941年,信濃毎日新聞社)ここに 収録された生活記録は,1938年から40年の間のものから選択したものであり,

それ以前のものは収録されていない。

 すでに,信毎は1930年1月15日付に学芸欄で炬燵雑記を募集していた。その よびかけは,「炬燵かこんでの笑い話,いろり辺りでの論戦,若い衆がより合

      

っての娯楽,冬籠りの農村には幾多の挿話が転ってゐる筈,ありのままの消息 を書ぎ迭んで下さい。〔規定〕原稿用紙六枚以内」。(傍点一引用者)とある。こ のよびかけには,リアリズムをめざすものがあると共に,炬燵雑記とあるよう に,公の場に出てこない炬燵やいろりのまわりで話される日常的な問題を,新 聞という社会的な場に公表させ交流させようとした意図がよみとれる。

 この炬燵雑記には,七編が掲載され,そのあと「労働体験記録」となる。これ は,同年5月12日付信毎学芸欄の原稿募集一〇労働体験記録,○農民文芸にた いする希望,○青年団の今日の役割(各,原稿用紙10枚以内)のひとつであっ た。さらに,同年10月10日の学芸欄で,農村雑記「収穫を終えて」の課題原稿

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募集がおこなわれた。これは,「現代農村教育の批判」(論文),「女子青年団当 面の任務」(論文)と共に出されたひとつであった。したがって,編集者の意

図は,農村の文化・教育がかかえている問題,青年の活動の問題への意見,主 張と,生活記録とをたて,日常の労働・生活のリアルな記録と社会活動や文化

・教育の問題の見解を作りあげることが農村をつくりあげていくのに必要なも のであると考えていたことがうかがえる。

 この頃の信毎学芸欄には,プロレタリア文学の主張と紹介が系統的に載せら れており,上田進も度々原稿を寄せていた。日本プロレタリア作家同盟の方針や 主張も紹介されていた。先にみた報告文学についても,上田進が同年5月14日の 文芸時評に「最近プロレタリア文学の陣営内で報告文学(又は通信文学と言ふ)

の重要さが非常に問題にされてきた……。簡単に言えば報告文学は僕等プロレ タリア文学に携はる者に,現実の大衆がどんな風に視,考へ,感じて居るか,

どんな書き方が一番大衆に近い,受け容れやすいものであるかという様なこと を教へる。」と述べていた。しかし,この指摘は報告文学の独自の意義を述べ たと言うよりは,プロレタリア文学を作りあげる点からみた位置づけであって,

いわんや生活記録の意味を論じることにはならなかった。

 生活記録の意味をとらえる試みは,次のような主張として信毎の同年5月21 日付学芸欄にあらわれた。少し長くなるが全文引用してみよう。

  「労働体験記録」募集を期待(生きた経済学を持込め) 淵東謙介

  花々しい理論闘争もそれが現実の正しい姿をとりあげて,それから遊離せ  ず行はれてゐる間はいXけれども,とかく従来の理論家は,自家の理論の正  しきことを証明するために,現実の姿にはおかまひなしで,理論から理論と,

 都合のよい理論の遊戯にふけるという弊害がすくなくなかった。幸ひにいく  らか現実に忠実な理論家があったとしても,自説に都合のいい事実をのみと  りあげて,これをみせびらかし,都合の悪い方はひた隠に押しかくそうとす  る態度のみられたのは甚だ遺憾であった。これらはえらそうな「理論家」と  いふ名にわざはひされた欠陥である。百の屍理屈より,正しく掴み出された  一の現実の姿がどれほど有難いか,一理論理論でかけ声のみやかましいと  きには,さうも考へられてくるのである。

(12)

      △

 それで考へさせられることだが理論の戦ひで,あるひは推理の上で落ちつ いた「結論」が正しいかどうか,生活行動の方針として誤りないかどうか,

といふことを調べるには,つねに具体的事実の究明を怠ってはならない。云 ひ換れぽ具体的事実から「理論」を,さうして「結論」をつかみ出さなけれ ぽならない。もしこういう方法をとらなければ,その理論や結論はとんでも ないウソのかたまりでしかないであろう。しかも多くの理論家が,いつまで たっても理論家で,実際にはちっとも役に立たないのは,このわかりきった

「事実をみる」といふことに無関心であるからで,これはふかくわれわれの 遺憾としてゐたところである。

      △

 ところが,それについてい)・・機会にめぐまれた。外でもない本欄に於いて,

「労働体験記録」を募集されるといふ発表をみたので,如上の意味合ひから,

これを喜ぶとともに,この企てが好い収獲iを納めるよう希ふものである。吾 々の体験を,ありのままに描くかぎり,それ故われわれの真実の叫びである 限り,その機会を通じて,いろいろな注意されるべき具体的事実が持込まれ

るに違ひないと思ふ。具体的事実を読者のまへにつきつける,この記録は,

さらにまた理論から来た結論の正しきや否やをつきとめるためにも新しい道 を開拓してくれるであろうからである。

      △

 吾々の「労働体験記録」こそは生ける経済学生ける社会学であるべきだ。

なぜなら,日常の労働体験を通じてこそ,あらゆる資本主義社会の機構を覗 くことができるからである。資本主義社会の本質は,労働する大衆のみが本 質的に掴みうるところのものである。

 申すまでもないが,この記録を作製するに真面して,これが単なる独りよ がりの体験記録を羅列するにとどまってはならない。生々した体験と,社会 全般の観察を総合して,今日の社会の真実の姿を描くよう努むべきであろう。

個人の体験記録に陥ることは,ふかくいましむべきである。

      4

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 農村より,工場より,商店よりいつわりのない生活記録をどしどし持込め。

それらが一つに纒めあげられて,そしてそれから一定の生活方針,行動の指 針が生み出されたとき,それは絶対に誤りのない,正しき行動の理論である

にちがいない。

 この主張は,明快である。生活記録は,理論と現実を結合させる意義を持つ。

すなわち,θ,その記録にあらわれる具体的事実に資本主義社会の機構又は本 質があらわれてくるからであり,O,それらをまとめあげて,生活方針,行動 の指針が生みだされてくる,と考えられている。生活記録は,社会認識を形成 する方法として,また理論と現実を媒介させるものとして位置づけられ,そう することによってまた,生活の方針,行動の方針を生みだすものとして考えら れたのである。ここには生活記録を教育方法としてとらえる萌芽がみられると 共に,明確iに打ち出されてないがリアリズムの精神に支えられているのをかい

まみることができる。そして,注意すぺきことは,理論が空転することをいか にして克服するかという課題意識から出発していることである。

 この課題意識は,信毎主筆桐生悠々(9)の主張にもみられた。桐生は,同年6 月18日信毎の「評論一生産を一新するの決心あれ」で,「本県の次代を背負っ て立つべき青年が尚その生活に余裕ある為か,口を開けぽ必ずマルクスを引用 し,レーニソを礼讃し,そして農村現在の窮境を打開すべき実際問題に関して,

何等の意見を持ち合はせてゐないことである。かくして県下の次代農村が結局 理論倒れに終らなけれぽ幸いである。」と述べた。

 しかし,強烈な反マルクシストであった桐生は,単に「理論倒れ」になるこ とを問題視したのではなかった。彼が問題にした理論は「実生活から見て,空 理空論に等しきマルクシズム」(前掲,評論)であった。マルクシズムは,実 生活に何等益にならないものとしてとらえられていた。マルクス主義の理論は 本質的に「理論倒れ」になるととらえられていた。この点をさらにくわしく展 開したのは,信毎同年7月30日の「評論一先づ汝自身を知れ一連合青年団代議 員会にいふ」であった。これは,長野県連合青年団の不況対策(1°)への注文な いし批判であった。

(14)

 桐生は,次のように言っている。長野県連合青年団の不況対策は,「特に財 界不況の原因を,みずからの欠点を求めずして……外部制度の欠点に求め,し かも本県青年に特有なるマルクシズムのイデオロギーのみに囚はれて,その原 因,従ってその責任を全然資本主義に帰してゐるのは,自己批判の道徳と,こ れに伴ふ進歩の要素を欠」いていると批判した。そして,外部にのみ原因を求 めるのではなく,「専ら自責自在の観念に訴へて勇往万進すべき自主的,自治 的の青年」にならなけれぽならない。社会制度に原因をもとめ,それを批判する

「批判の時代は過ぎ去っている。批判を許すほど,今日の農民生活,農村生活 は悠長ではない。実行の時期である。何ものかを実行して,この生活の打開,

この窮境の自己救済を行はねばならない時期である。これを老人の,昔ながら の伝説にまかせて置くべき時代ではない。次代を負ふ青年が,これに代って立 ち,これに代って満腔の経倫を断行すべき時である。」。この意味で「先づ汝自 身を知る」ことから出発して,「しかして後,他の責任を問へ。」と主張した。

 ここにみられるように,桐生は多分に世代論的発想を持ちながら青年に期待 すること大であった。桐生の考えた具体的方策は,青年が中心となって農業経 営を確立していくことであった。すなわち,「従来の伝統を打破し,近代的な 科学を基礎として,これ(農業経営一引用者)を管理」すること,「農民の孤 立的個人主義を捨てX,共同的運動を起すほどに,自他相携へて,社会的効用 の為に,万進する」ことであった。したがって,彼は産業組合の運動を強調す ることになった。

 理論が空論となることを批判した桐生だったが,その批判の仕方と克服の方 向は,先にみた淵東謙介のそれとは相当ちがったものだった。淵東は,マルク ス主義の影響をうけながら,現実と理論との結合をめざしており,現実のなか に社会制度の本質をつかみ,それによって生活の指針を得ようとしたのに対し,

桐生は,理論(マルクス主義の)を否定し,社会制度の本質をつかむより,青 年達が農業経営の確立をおこなうことで生活を確立することを主張した。とこ

ろが,労働体験記録に応募して掲載された生活記録は,ほとんどが青年労働者の 手になるものだった。桐生にとって不満であったことは想像にかたくない。労働

体験記録修了後,生活記録の課題は,「収穫を終えて」,「農村不況対策」,「農村の

(15)

春」となる。「農村の春」募集の意図は,次のようなものだった。「農村は春。

その活動期を迎えた。農村恐慌の激しい嵐をともかくもくぐり抜けて,今や再 び種は蒔かれ,鍬はみがかれる。立上ろうとする農村,その農村のありのまま の姿を正直に平易に報告して頂きたいのです。形式はすべて自由,枚数十枚以 内」。これは,桐生の主張に基づいたものであることがみてとれる。

 少し問題を整理すれぽ,信毎にあらわれた生活記録をめぐるふたつの主張は,

次のことを意味する。社会的実践ないし,理論的認識の獲得と生活体験との関 係,又は社会認識の獲i得と生活体験を結びつける上で生活記録がどのような位 置づけになるかという問題である。これが,戦後も問題にされたのはすでにみ たとおりである。

 桐生の展開した問題は,次のことも意味した。それは,彼が,自我を問題に したことである。彼は,青年達に自からが立憲制を支持した社会改良主義者で あることを鮮明にした上で,ロシア革命と全体主義を否定して,自我を持つ必 要を力説して次のように言った。「厳にこの間の区別(全体主義と立憲制度との

区別一引用者)を明にしないのは,日本に於ける盲目的なマルクシストである。

……

ェ脳明晰なる信州の青年は一に念ひをここに致さなけれぽならない。類と なって固有の存在を捨てるよりも個を守って,自我を肯定して,真の生活を享 楽しなけれぽならない。」(11)したがって,自我を形成する為に「汝自身を知れ」

と言ったのではなかろうか。すでに須藤の所論でみたように,戦後の生活記録 運動においても自我の育成が問題にされた。それは,反封建的な意識に対比さ れた自我であった。桐生が考えていた自我は,反マルクシストで産業組合を勧 めた文脈の中で考察を深めねばならないが,なんらかの意味で生活記録が自我 の形成に役割を持つととらえられていたことは,戦後との対比で興味を呼ぶ。

 戦後の生活記録運動について言えぽ,1950年代に反封建的性格をもつ近代的 自我の育成が課題になっていたが,このような自我の育成にのみ生活記録によ る自我育成の課題をしぼるわけにはいかない。すでに須藤克三は,教師を例に とってではあるが,労働と私生活の領域で,志向する価値が異なっており,こ の分裂を克服する為に生活記録の有効性を説いた(12)。この指摘は,須藤が,

労働者が自からの住んでいる地域に無関心であることを批判し,地域活動に

(16)

参加する必要を説いたことと重なっている。この意味するところは,自からの 労働のなかで個を主張する労働者が,地域においては受け身となり個を主張し ようとせず私生活の中に閉じこもることにある。いわぽ,自我が分裂している のであり,自我をめぐる問題が,封建性に対して近代的自我を形成するという シェーマとは異なった様相をおびていることを示唆したとうけとれる。労働と 私生活が,個の中で分裂することは,1960年代の農村青年の労働者化と共に,

教師に限らず一般化した。一般化したということは,教師のような専門的労働 者のような労働者ではない,生産労働者にもひろがったことを意味する(13)。

 さて,戦前にもどろう。桐生が青年に期待したことは,すでにみ>eとおりで あるが,生活記録の応募者もほぼ青年だったことがうかがえる。したがって,

青年による青年の問題の主張があらわれていて,背景として青年問題があった と考えられる。その性格は,あらためて検討しなけれぽならない。桐生悠々は 1933年8月11日に信毎紙上に発表した「関東防空大演習を畷ふ」によって軍部 の抑圧をうけ,信毎をやめざるをえなくなった。また,信毎の学芸欄をにぎわ

していたプロレタリア文学の紹介も1932年には姿を消し,桐生が批判していた 長野県連合青年団の自主化運動もついえた。先にあげたr農村青年報告』は,

桐生退陣のあとだいぶたってから信毎に掲載された生活記録をまとめたもので ある。この出版と時期を同じくして,生活記録は,大日本青年団のとりあげる ところことなり,上田進,矢川徳光,百田宗二,城戸幡太郎等が機関誌r青年 指導』及び『青少年指導』(大日本青少年団の機関誌)で発言した。生活記録 は,共産主義運動や自由主義,民主主義の諸運動がちっ息させられた後ふたた びとりあげられることになったのである。したがって,時代の変化の中での生 活記録の位置づけ,論の変化をみていかねぽならないことになる。

(17)

〈注〉

 (1)例えぽ,rr日本生活記録セソター』発足前後」(r戦後社会教育実践史,第3巻』

民衆社 1974年)では,1950年代末におこった生活記録運動の停滞を克服する為1961

年「日本生活記録センター」が作られたが,1965年にはその活動も停止したと記されて

いる。

 (2)例えば,名古屋青年サークル連絡協議会カミ1968年からはじめた「生い立ち学習」。

高校教育では,佐野斉孝「素直に筆を」(教育科学研究会編rよみがえる高校教育』総合 労働,1980年)桑田靖之「泥まみれの戦士たち」(r教育』1980年10.月号)。高校教育の 特徴については,乾彰夫「高校生の人格発達と生活綴方の課題」(r教育実践』28号民衆 社1980年)が参考になる。乾は.ここで生活記録と生活綴方をほぼ同じ・意味で使っている。

両者の青年期教育における同質性と異質性はあらためて検討されねぽならないだろう。

 (3)鶴見和子r生活記録運動のなかで』未来社,200ページ,初出「生活記録運動の

これまでとこれから」(r日本の記録』1号,1961年12月)

 (4)吉田昇,須藤克三編r青年団ガイドブック』農村漁村文化協会 1961年 46〜56 ページ参照

 (5)日本プロレタリア作家同盟「芸術大衆化に関する決議」r戦旗』1930年7.月号

 (6)蔵原惟人r芸術方法としてのレアリズム』新日本文庫 1974年 106〜7ページ

 (7)安田武「戦争と記録」 杉浦民平・村上一郎編r記録文学への招待』南北社

1963年所収 150ページ

 (8)帯刀貞代r日本の婦人』岩波新書,1957年 136〜7ページ。ただし,「明治・大

正を通じて日本の女性たちの大きな課題であったr恋愛の自由は』,その後の広汎な実

践をとおして,この時代にほぼ常識となっていた。」というのは疑問である。

 (9)1873年〜1941年,1933年信毎退社後,翌1934年から1941年まで個人雑誌『他山の 石』を発刊し,反戦の灯をともし続けたことで高く評価されている。桐生悠々研究とし て太田雅夫『桐生悠々』紀伊国屋i新書 1970年,井出孫六r抵抗の新聞人 桐生悠々』

岩波新書 1980年がある。

 ⑩ 全国で唯一青年団自主化運動をおこなっていた長野県連合青年団は,1930年7月

の代議員会で,「現下深刻化の経済恐慌は,世界資本主義の週期的にして然かも末期的 現象とし,社会的諸関係に,即ち既存諸組織への矛盾の深下を示し,資本集中独占,金 融偏在,生産過剰に購買力減退,失業者増大と農村の窮乏化等,益々切迫せる状態とし,

必然的に現はれ来たのである。一中略一我々は青年団とし,此依存し来る原因を解剖批 判し,教養実践の指針を認識し,矛盾解消を促進せしめ,同時に現実切迫せる状態に対 しては当面の対策を樹立し,亦誤れる樹策を是正し以て処すぺきであると信ず」という 声明書を発表し,当面の対策として,電灯料値下げ,青年訓練所廃止,高級俸給者減俸

をかかげた。

 ⑪ 「評論 許すぺきも恣にすべからず」r信濃毎日新聞』1931年5月10日付

 ⑫ 須藤克三「生活記録の書き手を広げ,深めるために」r作文と教育』1958年8月号

(18)

 ⑬ 私は,「国民的教養と自己教育運動」(r講座・日本の学力・教育課程』日本標準

・1979年所収)で,佐藤毅「現代の文化の矛盾と文化革新」(r現代と思想』No. 28青木

書店 1977年)に学びながら,この分裂が意識の上で一般的になったが,客観的に相互

に規定しあってることを指摘し,労働と余暇における自己教育運動の分析を通じて,分

裂を統一する教育上の課題について述べた。

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