福沢諭吉の道徳思想と人間観
一福沢の道徳教育論の前提についての考察(1)一
中 澤 鐵
ま え が き
福沢諭吉の思想の精確な解読は、日本近代教育 の創始期の思想的原像を確定していくための、重 要な作業のひとつである。福沢の教育認識は、彼 の文明論一社会・人間のトータルな変革の構想 一と分かち難く結びついており、文明化の方法 的中枢に教育が位置ついていた。彼は文明の本質 的要素を「天下衆人の精神(=智徳)発達」とと らえ、特に「智」の進歩発達にその根源的形成要 因を認めたため、人倫の道の教化を中核とする伝 統的教育観から、「智」の教授を中心的内容とす る教育観への転換をとげたのであった。しかし他 方では、彼の文明論において、文明の精神を構成 する二大領域として、常に「智」とともに「徳」
が特定されていたことを見逃すことはできない。
それは福沢の文明論が、「東洋道徳、西洋芸術」
的折衷主義の精神発達論ではなく、包括的で全体 的な人間精神の変革を構想したものであることを 示すが、そうであるが故に、上述の教育観の転換 は、同時に、「徳」と教育と文明化の関連をめぐ って複雑な問題を抱え込んだのであり、徳育論の 新たな構築を迫られることになったのである。福 沢の徳育論の検討は、彼の文明論と教育思想の理 解のために不可欠なものであることはいうまでも
ない。
この小論は、福沢の道徳教育思想を理解するた めのひとつの前提として、彼の道徳思想について 若干の考察一それは福沢の道徳思想の全体像把 握の緒にすきないが一一を加えたものである。福 沢の道徳に関わる言説は、一見して矛盾と錯綜に
満ちているようにみえる。一例をあげよう。福沢 はいう、「支那日本等に於ては君臣の倫を以て人 の天性と称し、人に君臣の倫あるは猶夫婦親子の 倫あるが如く、君臣の分は人の生前に先づ定たる ものNやうに思込み、孔子の如きも此惑溺を脱す ること能はず、(中略)元と君臣は人の生れて後 に出来たるものなれば、之を人の性と云ふ可らず」
と。これは君臣の倫の先験的妥当性の否定と改変 可能性の承認の議論である。しかし他の箇所では、
「徳義の事は古より定て動かず。(中略)孔子の 道の五倫とは、(中略)第二君臣義ありとて旦那
と家来の間には義理合を守て不実なる挙動ある可 らずとのことなり、(中略)此……五倫は聖人の 定めたる教の大綱領にして数千年の古より之を変 ず可らず。」という。ここでは先の引用文の意味と は正反対の、君臣の義の超歴史的な不変妥当性が 説かれるのである。更に徳自体についても、「文 明とは結局、人の智徳の進歩と云て可なり。」と、
徳の進歩を文明化の必須の内容として指摘しなが ら、他方では、「徳義の事は後世に至て進歩す可 らず。開關の初の徳も今日の徳も其性質に異同あ ることなb」と、徳の内容の永久不変性を揚言す るのである。以上の引用例は、全て「文明論之概 略』中のものであるが、これらの言説は、それだ けを取り出して考察すれば、全く両立不可能な混 乱した議論にみえるであろう。しかも、このよう な外見上の矛盾・撞着は、彼の道徳に関する議論 において度々見受けられるものである。だが、福 沢の道徳論の論理の糸を辿っていくと、彼の道徳 論が有する現象的な煩雑性と矛盾・対立の背後に、
その統一的な全体系が独特の相貌をもって立ち現
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われてくるのである。福沢の道徳思想の実像に迫 るためには、例えば西洋近代の道徳理念と対比し て福沢のそれを評価するだけではなく、何よりも 彼の特有の認識と論理に即して、その固有の形姿 を明らかにすることから始めなければならない。
そして以上指摘したような福沢の道徳論の特殊な 性格のために、彼の道徳思想の統一的かつ合理的 な理解を得ることは、彼の道徳教育論の正しい把 握のために必要な手続きのひとつでもあることを 強調したい。
次に、この小論に関連する限りにおいて、先行 研究について若干の論及をしておきたい。福沢研 究を困難にしているひとつの要因は、周知のよう に、福沢の思想の時代的推移の可否の問題にある。
筆者は時代的推移を度外視した解読は福沢の思想 把握の論理的整合性を保障しえないと考えるもの であり、例えば、重要な指摘を含んだ山田洗氏の 論稿「近代日本道徳思想史研究』(1972年)所 収の福沢論は、この点を無視ないし軽視した文献 解読の方法による限りにおいて、やや強引な解釈 となっている観がある。『学問のすすめ』の思想 として、「福沢における自由の通義は国家独立の ための手段であって、それ自体として追求される べき理念ではなかった。」「福沢の議論においては、
国民の大多数を占めるいわゆる貧愚者は最初から 無視されていた。」という指摘、明治10年代にお ける私徳重視論が『文明論之概略』における日本 社会の私徳偏重の批判(それは智一徳及び公徳
一私徳の関係における批判である)と現象的に は対立するものであることを捨象している点など に、そのような解釈が表れている。それは氏が、
具体的には、福沢の民衆観の変化を無視した結果 であると筆者は考えるものであるが、福沢の民衆 観とその変化を基軸として福沢の思想を考察した のが、ひろたまさき氏の『福沢諭吉研究』(1976 年)であるQ氏は、「福沢が啓蒙対象とした民衆 存在をどうとらえるかという民衆観と、個人の自
主的合理的活動を推進する主体をどの階層にみい だすかという主体設定とが、福沢の軌跡を追跡し ていく視点になる」と指摘し、福沢の説は、「日 本民衆の現実を理解せず民衆的伝統を無視または 愚昧視するところの観念的性格をもち」、初期に おける「福沢の愚民観ゆえの啓蒙意欲は、民権運 動や農民一揆などの政治対立・階級対立に直面し てその啓蒙的虚偽意識をはがされてゆき、日本の 現実と歴史への反省を迫られることとなったが、
それは民衆の現実を民衆の立場から理解する方向 にではなく、政府主導のもとにもっとも現実的効 率的な文明開化の道を模索する方向に向わせるこ ととなった。」と結論される。精緻な分析に基礎づ けられたその立論は、福沢の思想の内実を解明す ることの多大な研究であるといえるが、筆者が氏 と見解を異にする点は、思想の現実からの相対的 独立性とその能動的性格に関してである。氏は
「彼の虚構した文明世界における普遍的諸観念」
は、現実の進展の前に、虚構であるが故に「その 啓蒙的虚偽意識をはがされて」いったと述べられ るが、思想家の意識にあっては、思想は現実より も一層実在性のあるものとして意識される場合も あることも否めない。啓蒙家として立ち現れた福 沢は、精神世界における普遍的諸観念の思想的生 産性によってこそ、社会的形成力として働くべき 役割をになった者であったと考えられるのであり、
現実の進展は、「彼の虚構した文明世界における
普遍的諸観念」を、むしろ徹底・深化する方向に
思索を深める契機ともなりうることも一般的には
否定しえないからである。福沢がそれとは逆の軌
跡を辿ったのは、現実の側からの思想への作用と
いう視点に立てば、氏の述べる如く「民衆の現実
を民衆の立場から理解する方向」性を福沢が自己
の視座構造として持ちえなかったからだという論
点は重要な指摘である。民衆が一般的な常態に留
まっていた限り人間平等論の普遍的性格が承認さ
れ文明化の主体と認定されながら、農民一揆や自
由民権運動の場合のように民衆が独自の社会的勢 力として顕在化する場合には愚民論が前面に押し 出されるというのが、明治初年代から10年代に かけての福沢の思考の構造だからである。しかし、
思想自体の自己規定性とその能動的展開力の相対 的承認という、もうひとつの視点を把握しないな らば、思想(史)研究は片手落ちとなるのではな いだろうか。問題は、福沢の人間平等論と愚民観 の並存あるいは共存という事態であり、その論理 内在的根拠である。そのような思想の本質である。
そして、その後の福沢の思想の転成は、かかる思 想的本質の内在的展開としても合理的に説明され なければならないだろう。
安川寿之輔氏の『日本近代教育の思想構造』
(1970年)は、福沢の主張の具体的内容に踏み 込むことによって、彼の一般的理念とされてきた 諸観念を洗い直す作業を通じて、福沢の実像に迫 ろうとした労作であるが、ここではその「徳育・
宗教論」に関する若干の指摘をしておきたい。氏 は福沢の儒教主義反対論を分析して、それは「儒 教主義否定論ではなく改良論であった」「福沢の
『自主独立』のモラルは、儒教道徳を一定のわく の中にあうように鋳なおしたものであった。」と結 論される。しかし福沢の儒教主義批判とは、「物 ありて然る後に倫あるなり、倫ありて然る後に物 を生ずるに非ず。」とか、「物の貴きに非ず、其働 の貴きなり。」という言葉に端的に示されるような 認識論の根本的な転換を含んだものであり、丸山 真男氏の指摘する如く、ただに人間精神の一領域 として措定される道徳の内容に関わるだけでなく、
包括的な世界体系の自然哲学でありその認識論で もあった儒教ないし儒学の根元をなす倫理的価値 規範の否定でもあることを忘れてはならないだろ う。このような視座構造の根本的な転換がもたら した道徳意識の変革の意味を捨象するならば、福 沢の道徳論のもつ最も重要な意義が見失われてし まうことになるのではないだろうか。また、道徳
の儒学的な自然哲学的基礎を否定した福沢は、そ のことによって自己の道徳論に、その普遍的な原 理的立脚点を新たに見出す必要に迫られることに なるのであり、彼はそれを、ついには全く「数理」
を入れる余地のない「自然の情」という非合理な 精神の領域に見出すことになる(「徳教之説」明 治16年)のであるが、そのような道徳論の展開 の背後には上述の事実があることを無視すること はできない。しかし、以上のような留保条件を付 せば、安川氏の先述の結論には傾聴すべきものが あると思う。自然事象や社会事象の認識の学から 排除され、政治や社会的諸制度の認識と実践の学 から分離されて人間の社会的相互関係の価値規範 の領域に限局された道徳としてのその内容は、福 沢にあっては儒教道徳からの完全な訣別ではなく、
西欧的モラルと儒教道徳とが独特に親和したもの であると筆者は考えるからである。ここではその 例証として、福沢が道徳の枠組みとして儒教の八 条且とくに修身斉家治国平天下や、五常五倫を必 ずしも否定せず、むしろこの枠組みを前提に道徳 の思索が展開されたこと、「一身独立」が常に
「一国独立」と対になって論及されること、「公 智公徳」「私智私徳」の公と私の価値序列の無矛 盾的定立と、公の概念には政治社会と次元の異な
る市民社会を想定し包括する概念装置がないこと、、
を指摘するにとどめる。しかし道徳論の内容には 儒教のそれと比して重要な変革が加えられたのも 事実であり、これらの点の儒教道徳との比較検討 が福沢の道徳思想を明らかにする上で重要な課題 である。この小論では福沢の道徳思想が儒教道徳 を抱え込んでいたことを指摘するにとどまり、以 上述べたことについて十分に論ずることはできな かった。より完全な論及は後日を期したいと考え るo
牧野吉五郎氏の体系的な福沢研究の書である
『明治期啓蒙教育の研究』(1968年)について は、氏の論及される「遺伝中心主義的教育観」と
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「初期学問勧奨の方便的性格」についてのみ、こ こではとりあげておきたい。福沢の「10年代以降 の学問勧奨が明らかに彼の遺伝中心の才能開発主 義的教育観に従って行なわれるものであったこと は、明白な事実といわねばならない。」という氏の 指摘は基本的に異論はない。筆者がこの小論で述 べた福沢の「能力遺伝論」の強調点は、能力の遺 伝が士(豪農・富商を含む)対農・工・商という 出身階級によって序列づけられるという、福沢の 能力遺伝論の特異性にあった。また氏は、「初期 における福沢の楽観的学問勧奨の態度と性格が、
急務意識を伴う啓蒙活動の強調的表現としてのも のであり、教育奨励のための方便としてのもので あったことは、まちがいのないところであろう。」
と指摘される。しかし、「賢人と愚人との別は学 ぶと学ばざるとに由て出来るものなり。」という
『学問のすyめ』初編の言葉は、福沢は当時、「事 実の理論」と信じて述べたものであったが、後に 彼自らそれは「臨機の方便」であると訂正したと するのが筆者の考えである。そうでなければ、福 沢における「能力遺伝論」の最初の登場が、早く
ても、明治8、9年頃に執筆されたと考えられる
「教育の力」であることと対応しないのではない だろうか。
福沢の道徳思想を扱った他の諸論稿についての コメントは、ここでは省略する。次に、この小論 の考察と関連する視点のもとに福沢を論究してい
る、丸山真男氏と武田清子氏の所論に触れておき たい。丸山氏の福沢に関する諸論稿は、福沢研究 の古典的文献として常に参照されなければならな いものであるといえるが、ここでは氏が福沢の哲 学として高く評価している「価値判断の相対性」
についての筆者の考えを述べるに止めたい。確か に福沢の思惟方法の特質として「価値判断の相対 性」を別挾したのは氏の大きな功績といわねばな らないし、この点で福沢が当時の誰よりも抜きん 出た柔軟な思考態度の持ち主であったことも事実
である。しかし筆者が徳の変・不変の言説として 先に『文明論之概論』から引用した四つの文章を 対照してみるとき、「一定の具体的状況が彼に一 定の目的を指定させる。そうしてこの目的との関 連においてはじめて事物に対する彼の価値判断が 定って来る。従って、目的が状況に応じて推移す れば同じ事物に対する彼の価値判断も当然変化せ ざるをえない。」(「福沢諭吉の哲学」1947年)
という氏の指摘する「価値判断の相対性」の哲学 でそれらの矛盾・対立を説明することは、明らか に無理である。従って、「このことを無視して、
背後の具体的状況から切断された言説のみを問題 にするならば福沢のなかから幾多の奇怪な矛盾を 拾い出して来ることはきわめて易々たることであ る。」との氏の見解は、福沢の言説にみられる「幾 多の奇怪な矛盾」の全てについて妥当するもので はないことを、まず指摘しておきたい。さらに指 摘したいのは、福沢の「価値判断の相対性」の主 張には重要な問題性もまた含まれているというこ とである。氏は『文明論之概略』第一章冒頭の言 葉、「軽重長短善悪是非等の字は相対したる考よ り生じたるものなり。軽あらざれば重ある可らず、
善あらざれば悪ある可らず。故に軽とは重よりも 軽し、善とは悪よりも善しと云ふことにて、此と 彼と相対せざれば軽重善悪を論ず可らず。斯の如 く相対して重と定り善と定りたるものを議論の本 位と名く。」を引いて、「「概略』を貫く、いな、
ある意味では福沢の全著作に共通する思惟方法を 最も簡潔に要約している」と評価されるが、その 問題性もまたこの箇所に端的に表現されていると 筆者は考える。引用にみられるように、「軽とは 重よりも軽し(中略)斯の如く相対して重と定り
…… スるものを議論の本位と名く」という文章は、
それ自体としては無意味な同語反復である。経験
的判断によって処理できる事象に対しては、それ
で処理することも十分に可能であるとしても、既
成の観念によっては解決不能な問題や経験的判断
が価値判断の対象とされるような高度な問題の処 理は、それによっては保障されないであろう。そ こでは改めて判断の尺度そのものが問われなけれ ばならないからであり、比較すべき諸対象におけ る質的規定性としての同質性が確保ないしは抽出 されなければならないからである。真に批判的な 比較の成立は、経験的判断の手続きでは保障しえ ず、それは理論的反省の領域に属する。問題は、
福沢が「価値判断の相対性」なる思惟方法を、単 なる感覚的ないし経験的思考の次元から、どれだ け理論的(従って真に批判的かつ普遍的な)方法 として練り上げ、確立していたかということであ る。筆者の結論は、福沢はこの点で感覚的ないし 経験的判断の範囲を遂に抜け出ることはなかった とするものである。それは、丸山氏も福沢の唯一 の「ほぼ純粋な理論的著作」として認められる
「文明論之概略』の、第一、二章における「議論 の本位を定」め「西洋の文明を目的とする」手続 きの論理が、実は、論証されるべき「文明」が前 提された「文明」の論理によって弁証されるとい う循環論法によっておこなわれていることにもあ らわれている。「福沢の彪大な言論著作……のほ とんどがきわめて具体的な時事問題に対する所論 であり、」「社会、政治、文化のあらゆる領域にわ たる具体的批判はすべてその時々の現実的状況に 対する処方箋として書かれており、そうした具体 的状況から切離しては理解できぬ性質のものであ る。」(丸山)のは、相対的価値判断にもとずく福 沢の柔軟な思考活動の所産でもあるが、他方それ は、福沢の思想活動が理論的思惟を本質的にはあ まり必要としていなかったことの結果でもあると 考えるものである。このことは、丸山氏が「価値 判断の相対性」と共に高く評価される福沢の「実 験精神」についても妥当するといえよう。この点 について、氏は、「福沢が物理学を学問の『範型』
としたといふことは、つまり、この実験的精神を 学問的方法の中核に据えたことにほかならない」
「福沢の物理学主義が実験的精神と不可分であっ たこと、実験を通じての絶えざる主体的操作の必 要が、彼の哲学に於ける著しい行動的実践性を賦 与していた」「福沢が範とした所の『近代物理学』
の体系は環境に密着した日常的具体性からは決し て生れないこと、それが感性的な制約を排除した
『自由なる精神』の所産であることについて同時 代の何人よりも深い理解を持ってゐた」(「福沢 に於ける『実学』の転回」1946年)と述べてお られる。筆者もまた、物理学の認識論的意義や
「実験」的態度の重要性に着目した福沢の燗眼を 高く評価する点に於ては異論がない。しかし福沢 がそれらの点についてどれだけ本質的な認識に到 達していたかということが問題である。物理学の 認識論的基底、あるいは実験精神とは、本来、「自 由なる精神」の主体的態度といった抽象的な次元 にとどまるものではなく、直観的ないしは経験的 思考から質的に揚棄された理論的な、従って普遍 化された方法であり、方法化された認識論として 確立されていなければならないだろう。啓蒙主義 者福沢の思惟方法を、西欧啓蒙主義哲学の思惟方 法と対照するとき顕著にみられる相違性は、物理 学の根元にある認識論の直観的な、従って一般的 な承認の域を殆んど出ていない福沢と異って、西 欧啓蒙主義哲学はニュートン力学体系の根幹とな っている思惟方式の核心を理解し、その方法を自 己の哲学の思惟方式として明確な自覚をもって適 用していたということである。その核心とは、「近 代の数学的思惟の根本形式をなすと考えられた純 粋解析法」(カッシーラー『啓蒙主義の哲学』)
である。すなわち、自然の直接的観察においては、
「自然現象は観察に対し統一的過程として、また 不可分の全体性として立ち現われる」にすぎない。
しかし自然現象の解明は、「直観や直接的観察に おいてあたえられた事象の統一的な影像を分解し、
それをさまざまな構成要素へと解体しえたとき」
保障される。すなわち、「自然科学的概念構成の
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方法は『分析的』であると同時に『構成的』であ る。単純な外見をもつ事象を構成要素に分解し、
そしてこれらの要素からそれを構成的に復元する ことにより、はじめてわれわれはこの事象を認識 する。」(同上)。カッシーラーは、『新科学対話』
におけるガリレイの弾道曲線の発見の場面の叙述 を「この手続の古典的範例」と評している。福沢 のこの点への着眼は、結局のところ直観的な認識 以上には出ることがなかった。そして問題の所在 の発見から、その本質のより深い理解に至る道は、
なお遙かな距離があるということである。以上、
長々と述べてきたのは、福沢の「漸進主義」(丸 山)は、福沢の思惟方法の規定性という側面から みれば、「価値判断の相対性」の哲学を基礎とし て成り立っているが、そしてこの相対的価値判断 の哲学は、福沢の鋭敏な現実感覚の所産であり、
またそれを裏づける哲学でもあるが、他方では、
現象から本質への思考の掘り下げの方法を欠き、
問題の理論的本質的な具体的把握への方向性を弱 め、問題の時事的現象的局面の現実判断に頼って 事態に対処しようとする福沢の姿勢の限界と問題 性の根源に横たわる哲学でもあることを指摘した かったからに外ならない。福沢の思想活動の生涯 は「典型的な市民的自由主義」(丸山「『福沢諭 吉選集』第四巻解題」1952年)の立場に終始し たとはいえないのであり、その思想の変容を引き 起した思想内的要因のひとつに、上述の相対的価 値判断の思惟方法があるのであり、それは、現実 の鋭い観察の道具になりえたとともに、現実の本 質的解剖の方法論を持ちえなかったことによって 現実の動きに引きずられる側面も合わせもち、福 沢の思想的 転落 の引導ともなりえたという、
両刃の剣の性質をもったものであったということ ができよう。この点をここで指摘しておくのは、
福沢の道徳思想を分析・把握する際の視点として 重要な意味をもつと考えるからである(ついでに 指摘しておくと、福沢の思想が直観的ないしは経
験的認識の次元において包蔵していた物理学の認 識論的基礎への注目や相対的価値判断の思惟方法、
実験精神などを、理論的認識の次元に 仕上げた。
のは、丸山氏本人である)。
さて次に、福沢の思想に鋭い人間洞察を加えて おられる武田清子氏の所論を一瞥しておく。武田 氏は、「福沢が人間理解の深所に入りゆくための 貴重な諸契機を意識的、あるいは、無意識的にと らえていながらも、人間の内面性ふかく入りこむ ことの出来なかったのは何によるのであろうか?
そ泊は、彼が超越的真理の前に立つものとしての 自己認識に遂に達しえなかったことによるのでは なかろうか。(中略)『まなざし』のもとにある 主体というか、内在的には、自分の心の中を見て いるもう一つの眼(良心と云ってもいいであろう)
の前に立つ自己の発見(中略)がそこには欠如し ている。(中略)他人の妨げにならない限りにお いて、何でもしたいことをするという自由の概念 は、対人関係における行状(behavior)の問題 にすきず、人間が真の自己を実現するという課題 にはかかわっていない。従って、他者の自己実現 と己れの自己実現とを結ぶ公分母となる人間存在 の究極の基盤は問われて」いない、と指摘してい る(「福沢諭吉の人間観」1958年)。この指摘 は、道徳のそれを含む福沢の思想を考える上で、
非常に重要な指摘ではないかと思う。武田氏も引 用されているように、「斯る人民を教るには、何 んでも構はず、神道にても仏法にても、稲荷様も 水天宮様も、悉皆善良なる教なり。(中略)モラ ルスタンドアルドは千段も万段もある可し。手を 分けて教ゆ可し。」(「覚書」)といった、福沢の 思想のひとつの主調をなす徳教の便宜主義的認識 も、また、「人間の目的は唯文明に達するの一事 あるのみ。」と述べて人生の目的とされる文明とは、
「人の安楽と品位との進歩を云ふなり。」(『文明
論之概略』)と定義されるが、それ以上人生の目
的の考察へと下降していかない福沢の論理(の欠
如)も、更に、教育の目的を論じて、「教育の目 的は人生を発達して極度に導くに在り。其これを 導くは伺の為にするやと尋れば人類をして至大 の幸福を得せしめんが為なり。其至大の幸福とは 何ぞや。愛に文字の義を細に論ぜずして民間普通 の語を用れば、天下泰平家内安全、即是なり。」
(「教育論」)と述べるとき、何故「発達」が
「幸福」の根拠なのか、「幸福」とは何故「天下 泰平家内安全」に要約されるのか、といった目的 論的考察の曖昧さと平凡さも、武田氏の上述の指 摘のような、人間の本質の価値認識を本質的に必要とし ない福沢の思想の特質と重要な関連があると思う ものである。武田氏はまた、「福沢の科学主義に おける主体の概念を問うとき、(中略)智力の基 盤としての人間の理性の問題、自然科学のよりど ころである合理性を生み出す根源の問題は追求さ れていない。(中略)その動機となっているもの は人間の魂の独自性と高貴さと自由との自覚と確 信であった。」(「近代科学摂取の三つの道」1960 年)と指摘されている。人間の内面的価値の意識 が福沢において、どの程度、またどのような質に おいて成立していたかという問題は、彼の道徳思 想を考察する上で重要であると思う。人間の内的 自然の生きた様態の承認の上にこそ近代の道徳意 識は成立すると考えるからである。しかしこの点 については、筆者の問題意識として念頭にあるに とどまり、この小論で論ずることは出来なかった。
武田氏の所論の検討と合わせて後日を期したいと
思う。
1 福沢の文明論における徳の問題
福沢が生涯の社会的活動の根本目標としたのは、
日本の「文明」化であったが、それは、より具体 的には、西洋世界が固有に生み出した精神的諸価 値の日本への移植とその社会的育成であった。「西 洋の文明を目的とする事」とは、『文明論之概略』
の「議論の本位」(1)の獄化にして第二章の踊
であり、「文明論とは人の精神発達の議論なり。」② とは、同書冒頭の言葉である。福沢はいう、「文 あら
明には外に見はるX事物と内に存する精神と二様 の区別あり」鮮文明の外形のみを取る可らず、
必ず先づ文明の精神を備へて其外形に適す可きも のなかる可らず」鮮今余輩鰍羅巴の文明を目 的とすると云ふも、此文明の精神を備へんがため に、これを彼に求るの趣意なれば」(5)と。それ故、
「精神発達」論は、彼の文明(化)論の中核に位 置つくのであるが、それは、基本的な性格として は、伝統的な諸価値の連続的ないし再生的発達
(「改進」(6))ではありえず、精神「内部の底に 徹して転覆回旋の大騒乱を起」⑦し、「火より水 に変じ、無よ賄に移」(8)らしめ、「始造」(9)さ れねはならない、彼此は「文明の元素を異にし、
其元素の発育を異にし、其発育の度を異にしたる 特殊異別のもの」⑩だからである、というのが彼 の根本の認識であった。
従って、その発達とは、所与の精神の質的変換 を本質とし、前提とするものであった。ここにお いて、福沢の考察は、東西両洋に対する比較文化
・精神史的な人間精神の解剖学へと向かうことと なる。その際、歴史的軸としての野蛮・半開・文 明と、地理的(文化圏)軸としての西欧・東洋
(および東洋の一部であり、かつ特殊性を有する 日本)という、二つの分析視座の組合せで、東西 両洋の人間精神の異質性(福沢の精神改造論の前 提となるもの)と共通性(これがなければ、日本 への移植を基礎づけられない)を把握しようとす るところに、福沢の思考の特徴がある。東洋の文 明を半開の状態、西洋の文明を文明の状態とする ことによって、自国の西洋化がすなわち半開から 文明への飛躍であると統一的に理解される反面、
そのような一般的な歴史の段階的進化の問題とし てだけでは解決されない、文明の異質な性格の問 題にも着目し、日本の文明化を半開の状態からの 内在的発展の方法によって意図するのではなく、
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異質の文化である西洋文明の精神的諸価値の日本 への移植の方途によって、それの達成が目ざされ るのである9Dしたがって、この歴史的軸と地理的 軸は、微妙に交錯した関係にある。いま、それら 両軸の複合としてえられる比較文化類型というべ きものを一般的に整理して示せば、第一に、文化 圏の相違にかかわらず共通な、しかし歴史的発展 段階の相違によって異なる精神的特質(半開の日 本に対する文明の西洋という類比によって理解さ れる精神的特質の差異)、第二に、歴史的発展段 階の相異にかかわらず共通な、しかし文化圏の相 違によって異なる精神的特質(異質な文明として の日本に対する西洋という類比によって理解され るそれ)、第三に、歴史的発展段階および文化圏 の相違にかかわらず共通な精神的特質(歴史的に 不変で、地理的差異にもかかわらず共通な精神的 内容)、という三層化された人間精神の重層的な 把握が、その結果である。
そのうちで福沢が西洋に求めた精神的諸価値は、
上述の第一と第二にかかわるものであったが、し かし、文明の精神を構成する要素と彼が考えたの は、それだけではない。第三の意味において既に 日本あるいは東洋に存する精神的諸価値も文明の 精神の重要な要素であった。ただ、文明化にとっ て最も重要なものであり、文明化の当面の方策と
しても最も必要としたものが第一と第二に関わる 内容のもの一それらは日本には欠如している故 に始造されねばならぬもの一であったために、
福沢の活動はそれらに集中されたのである。その 際、既に日本に存する精神的諸価値のうち、それ らを始造し、育成する上での繭芽ともなり、発育 の土壌ともなる要素を積極的に活用することを忘 れなかった。
ところで、福沢のいう「精神発達」の「精神」
とは、その内容からいえば「智」と「徳」であっ た曾そして徳は、「情欲」と「至誠の本心」と
「意思」を要素として成り立つと理解されていた
といえる9%れ故、福沢の「精神」とV・う言葉は、
最も一般的に用いられる言葉の意味に近く、今日 の言葉でいえば、物質や肉体に対する、知識・感 情・意志の総体としての心とほぼ同義であるとい えよう。したがって、彼の精神発達論が意図した 精神の「転覆」と「始造」は、「智」の性格の根 本的な転換一それは直接的には認識論のレベル における人間精神の変革の課題である一のみな
らず、「徳」の内容の根本的な転換一したがっ て倫理の変革一をも直接の課題とした言葉なの であり、要約すれば人間の精神のトータルな、根 本からの変革が意図されたのである。
晩年の福沢は、「東洋の儒教主義と西洋の文明 主義と比較して見るに、東洋になきものは、有形 に於て数理学と、無形に於て独立心と、此二点で aφ
と、日本が西洋文明から移植すべき精神
ある。」的価値の要点を簡潔に定義したが、数理学は「智」
の、独立心は「徳」の核心をなす概念であり、こ の認識は、明治初期からの彼の一貫した見識であ
った。
「智」の性格の根本的な転換とは、「物ありて 然る後に倫あるなり、倫ありて然る後に物を生ず るに非ず。臆断を以って先づ物の倫を説き、其倫 に由て物理を害する勿れ。」asというように、自然 秩序からの倫理的価値判断の排除と、客観的存在 の第一義性の承認の主張であり、そのような意味 での認識論の変革を意味するのであるが、それが 儒教的認識論における自然的秩序と倫理的秩序の 同一視の根本的な批判として提出されたものであ るために、「数理学」や「格物窮理」を核とする 福沢の「智」についての議論は、ただに認識論の 問題であるだけでなく、倫理観の問題でもあるの である㌍「智」の主張の検討を除外しては、福沢 における道徳論の本質を論じることはできない。
また一般に、時代の転換期における新旧思想の
衝突は、何よりも道徳・倫理の問題を巡って引き
起されるのが通例であるが、福沢の議論の主調は、
智の重要性の指摘と、徳を重視する(伝統的な)
思考・精神態度への批判となっているように見え る。智の強調と徳の軽視がコインの表裏の如く現 象しているような印象を与えるのであ謹しかし
一見して奇異に思われるそのような様相は、「智」
が伝統的な倫理の変革の本質的契機であり、「智」
の強調は、旧来の倫理の批判と変革への情熱のあ らわれでもあることに想到するとき、それが時代 の転換期にあたって、時代の思想的課題と鋭く切
り結ぶ言説であることが明らかとなる。
「智」についての福沢の論旨は、比較的明解で ある。それは、福沢の理解する「智」は、上述の 比較文化類型の第一と第二にかかわるものであり、
文明対半開、西洋対東洋という、二元的で直戴的 な概念的対比によって、処理しうる性格のものだ からである。これに対し、「徳」についての福沢 の言説は、複雑な様相を呈する。彼は、あるとき には、「徳義の事は後世に至て進歩す可らず。開 闘の初の徳も今日の徳も其性質に異同あることな ⑱ といい、またあるときには、「徳教は人文
し。」の進歩と共に変化するの約束にして、日新文明の社 会には自から其社会に適するの教なきを得ず。」⑲ と説く。また、「世界中の道徳の本体は都て一様 ⑳ といい、他方では、「人の自由独立は大 なり」
切なるものにて、此一義を誤るときは、徳も脩む べからず、智も開く可からず、家も治らず、国も 立たず、天下の独立も望むべからず、一身独立し て一家独立し、一家独立して一国独立し、一国独 ⑳ 立して天下も独立すべし。」
と、東洋の儒教主義 が欠いていて西洋文明が有っている最も重要な精 神的価値のひとつである独立の精神が、徳の成立 の根本的な要因であるという。このように、まる で正反対の意味をもつことばが、福沢の時々の言 説として語られているのは、福沢の思想的な無節 操に起因するのではない。福沢の認識にあっては、
徳は、時代と国(文化圏)の違いにかかわらず基 本的には不変な内容と、時代の変化によって変化
すべき内容との、二つの内容が親和したものとし て実存すると考えられていたのであり、上述の比 較文化類型における第一と第二と第三のいすれの 要素をも具有するものと理解されていたのである。
そこに、「徳」論の展開は、二元的で直戴的な対 比によって取り扱いうる「智」論の明解な論旨と は異って、複雑で難渋な様相を呈することになるQ 福沢にあっては、文明の精神を構成する徳の内容
とは、第一と第二が不可欠であったが、しかし第 三もまた含んでいたのである。彼の状況的発言に みられる矛盾と自家撞着の様相は、その根底に首 尾の一貫した「徳」論を蔵していたことを、見逃
してはならない。
以上のような錯綜した福沢の徳義論を解きほぐ す重要な概念は、「私徳」と「公徳」である。私 徳とは、「貞実、潔白、謙遜、律義等の如き一心 の内に属するもの」であり、公徳とは、「廉恥、
公平、正中、勇強等の如き外物に接して人間の交 際上に見はる〉・・所の働」 であるという。そして、
「古来我国の人心に於て徳義と称するものは、専 ら一人の私徳のみに名を下したる文字」 であり、
「公徳の更に貴ぶ可きものは却て之を徳義の条目 に加へずして往々忘るyことあるが如し。」 とい
う。東洋には私徳のみが存し、公徳が無かったと いうのではなく、私徳のみを徳の全てと考えて、
公徳の意味での徳は捨てて顧みられなかった傾向 が強いというのである。したがって、福沢が、上 述の比較文化類型の第一と第二に相当するのが公 徳で、第三に相当するのが私徳であると認識して いたと、簡単に考えることはできない。事情はも っと複雑なのであり、その複雑さは、公徳の重要 性の強調の意味だけでなく、私徳の内容の変革の 問題にも及ぶだろう。いずれにしても、「私徳」
と「公徳」なる概念の検討は、福沢の徳義論の考 察にあたっては、避けては通れない課題のひとつ である。
なお、それと関連して重要な問題がある。福沢
一40一
は「智徳の弁」㈲で私徳公徳と併せて私智公智を 論じ、「聡明叡知の働あらざれば私徳私智を拡て 公徳公智と為す可らず」㈲と論じたが、「余輩も 此天下一般の人心に従て字義を定れば、聡明叡知 の働は之を智思の条目中に掲げて、彼の徳義と称 するものは其字義の領分を狭くして唯受身の私徳 に限らざるを得ざるなり。」鋤と述べて、福沢が重 要な意義づけを与えた公徳の徳義論としての展開 を回避したことである。そのため、徳義論の理解 は、包括的な概念的把握を可能とするのを著しく 困難にし、その時々の個別的な問題についての発 言を通して、それを窺わなければならないのが実 状である。また、智と徳はその性格を根本的に異 にするという福沢の主張と、私徳私智を公徳公智 へ発展させる媒体としての「聡明叡知の働」一 智にも徳にも均しく機能するもの一の措定とは、
どう両立するのか、精神イコール智プラス徳とす る福沢の所論との不整合性は、どう解決されるべ きかといった問題が、それに付随して派生せざる をえない。福沢の智徳論には、概して理論的体系 化の未成熟が認められるのであり、その未成熟の 限界と問題性をも含めて検討する必要がある。こ こでは、「聡明叡知の働」とは、個別的な内容の 集合として個人の頭や心の中に存在する智や徳と 異り、それらの集合体を構成する個々の分子的存 在の全てを貫通することによって、智や徳の性格 を規定する精神の働きであり、従って独特の性格 と特殊の地位を与えられた智であり、それは智で ありながら、全ての智と徳に特定の性格を刻印す る上位概念であることを指摘しておきたい。
実は、福沢の考えでは、そのような特殊な性格 と働きをもった精神的触媒は三つある。第一に 「窮理(学)」、第二に「独立の精神」、そして 第三に「聡明叡知の働」である。だから、独立心 は「徳」の核心をなす概念であると先に述べたの は、「徳」を構成するある重要な部分を「自主独 立の精神」が占めているという意味ではない。福
沢が翻訳した『童蒙教章』で、「自ら其身を動か し自ら其身を頼み一身の独〔立〕を謀る事」が第 五章としてそのように位置づけられている のを 別とすれば、福沢はそのような意味では「独立の 精神」を扱いはしなかった。それは、自主独立論 の最初の表明である明治2年2月の松山棟庵宛書 簡(「人の自由独立は大切なるものにて、此一義
を誤るときは、徳も脩むべからず、智も開く可か らず、家も治らず、国も立たず、天下の独立も望 むべからず。一身独立して一家独立し、一家独立 して一国独立し、一国独立して天下も独立すべし,」
㈲)から、明治15年の「徳育鯨論」(「徳教に 於ても自主独立の主義漸く明なるに就ては、此一 主儀に従ひ……」⑳)を経て、晩年、門下生に編 纂させた「修身要領」(「吾党の男女は、独立自 尊の主義を以て修躯世の要領となレー」BD)
に至るまで一貫している。福沢にとって、自主独 立の精神とは、それ自体が徳でありながら、智と 徳のあらゆる分子的存在に貫通して、それらに一 定の性格を刻印する普遍的な触媒なのである。智 と徳の全体に包括的な力を及ぼし、それらの性格 を根本から基礎づける上位概念なのである。
福沢が独立の精神を問題とするとき、それが徳 義の問題であることを、常に喚起しようとしたわ けではなかった。福沢の言説には、徳義の文字を 使用せずに徳義に深くかかわる論及がある。r勧 論自体がすぐれて高度な倫理の問題を含んでいる ことは既に述べた。福沢の「智」論を、その基本 的な構成因子である「窮理(学)」や「実学」の 内容の検討を含めて、倫理との相間性を考察する ことや、福沢においては常に対として意識されて いたと思われる個人(の独立)と国家(の独立)
の関係認maBZを倫理の問題として考察することも 福沢の道徳思想を理解するうえで必要な手続きで あると考える。人間相互の政治的関係や法的関係 もまた、倫理的な関係を含んでいるからである。
道徳・倫理とは、社会の成員相互間の関係を律し、
生活と行為を規制する内的及び客観化された規範 の総体であり、また広く対象一般に関係する人間 の態度を規定する内面的規範の総体であるからで ある。むしろ、福沢が徳という言葉を使用したか 否かにかかわらず、以上のような内容をもつ福沢 の言説を検討することが必要であり、それと関連 させながら、福沢が「徳」という言葉において、
何を、いかに語ったかを検討することが大切であ ろう。文明論(精神発達論)の全体的な構造との 関連のもとにおいてのみ、彼の道徳論の本質的な 意味が明らかにされうるのである。ここでは、そ の手始めとして、福沢の人間平等論を彼の愚民観 と相関させながら、彼の人間観の性格と問題性に ついて、その一斑を考察してみることにする。
〈注〉
(1)〜⑩福沢諭吉『文明論之概略』24頁、9頁、27頁、
29〜30頁、30頁、11頁、10頁、11頁、同頁、
10頁、岩波文庫(以下、福沢の著述は、全て著者名 を省略する)。
⑪ 同上書第二章、第八章、第九章を参照。
⑫ 同上書、55頁。
⑬ 『学問のす)・.め』八編、81〜2頁参照、岩波文庫。
ag 『福翁自伝』198頁、岩波文庫。
a昏 『文明論之概略』58〜9頁。
⑯ この箇所の叙述は、丸山真男「福沢における『実学』
の転回」〈『東洋文化研究』3号、昭和21年3月)
を参考にした。
⑳ たしかに、智徳相互の量的比重が文明の進化ととも に智の方へ傾斜していくことを福沢は述べている。し かし、徳の相対的比重低下にもかかわらず、徳の絶対 量は増大することを彼は指摘している。
⑱r文明論之概略』116〜7頁。
⑲ 「修身要領」.『福沢諭吉全集』(以下『全集』と 略す)第二十一巻、353頁。
②Φ 「……其細目に至ては各X多少に同じからざる所も ある可し。一一一是れは道徳の枝葉の事にして論ずるに も足らず轡むるにも足らず、唯其本体は世界中の道徳 正しく同一様なりと信じて更に疑ふ所ある可らざるな り。」(「通俗道徳論」、『全集』第十巻、118頁)。
⑳ 「中津留別の書」、『全集』第二十巻、50頁。
⑳〜⑳ 『文明論之概略』105頁、107頁、108頁。
㈲ 同上書第六章
¢⑤㈲同上書、106頁、108〜9頁。
㈲ 『童蒙教草』、『全集』第三巻、186頁以下。但 し、『童蒙教草』における道徳論が、全体として「独 立の精神」と相関していることを否定するつもりはな い。
2g)注⑳参照。
⑳ 「徳育鯨論」、『全集』第八巻、465頁。
⑳ 「修身要領」、『全集』第二十一巻、354頁。
BZ 「福沢においては、一身の独立がそれ自体において 追求されるべき理念としてではなく、家、国、天下の 独立との相対的な関係において自覚にもたらされた」
〔山田洗「福沢諭吉における個人と国家の問題」、同 『近代日本道徳思想史研究』1972年3月、未来社、
92頁)。
2 福沢の人間平等論と愚民観
福沢の一身の独立とは、精神の独立と生活の独 立の二つを中核とするものである。福沢は言う。
「独立とは自分にて自分の身を支配し他に依り すがる心なきを云ふ。自ら物事の理非を弁別して 処置を誤ることなき者は、他人の智恵に依らざる 独立なり。自から心身を労して私立の活計を為す 者は、他人の財に依らざる独立なり。」(1)
すなわち、「独立の心」(2)が一身独立の根底に あるのであるが、それは、単に豊富な知識を身に つけることではなく、あるいは受動的な精神をそ のままに学問を積み重ねるのではなく、自己の主 体的な理性の使用によって物事の理非を弁別して 処理していくような、主体的な精神の獲得とその 進歩発達を根本の性格とする知識の獲得なのであ る。それは、カントのいう啓蒙の精神(「啓蒙と は、人間が自己の未成年状態を脱却することであ る。……未成年とは、他者の指導がなければ自己 の悟性を使用し得ない状態である。」(3))と、福沢
がほとんど同一の立場一啓蒙の究極の地点一 に到達していたことを示している。そればかりか、
福沢は精神の独立を生活の独立と表裏一体の関係
一42一
において理解し、精神の独立の物質的基盤の重要 性を指摘することによって、カントの啓蒙の精神 を、さらに一歩、重要な内容においてすすめたと いうことができよう。
しかしながら、以上述べた福沢の啓蒙の立場に は、極めて重大な問題性が随伴していた。それは、
人間をその現実の多様な様態から抽象して、普遍 的で本質的な人間存在の把握へと認識を深めてい く上での不十分性と関連している。普遍的な(し たがって抽象的な)人間なる存在への概念的な把 握なくしては、現実に様々な属性を纒って実存し ている人間の、人間の平等性の認識(すべての人 間が人間としての価値において等価性を具有して いるとの認識)は不徹底たらざるをえない。しか も啓蒙が真に啓蒙の名に値するのは、全ての人間 を人間たらしめるための啓蒙、すなわち、全ての 人間に対する普遍的かつ平等な性格の啓蒙でなけ ればならない94)しかるに福沢の人間観と人間平等 論には、その歴史的に果した積極的意義の巨大さ にもかかわらず、重大な問題性が孕まれているの である。
「学問のすyめ」初篇の冒頭のことば「天は人 の上に人を造らず人の下に人を造らずと云へり。
されば天より人を生ずるには、万人は万人皆同じ 位にして、生れながら貴賎上下の差別なく(以下 略)(5)」はあまりにも有名であるが、その人間平 等論の内実は、同書二篇「人は同等なること」に
「其同等とは有様の等しきを云ふに非ず、権理通 義の等しきを云ふなり。」(6)とあるように、権理通
義(right)の平等のことである。そして、「其 有様を論ずるときは、貧富強弱智愚の差あること 甚し」⑦い現実は其人の働に与りて生じたのであ り、「人は生れながらにして貴賎貧富の別なし。
唯学問を勤て物事をよく知る者は貴人となり富人 となり、無学なる者は貧人となり下人となるなり、」
(8)、「されば賢人と愚人との別は学ぶと学ばざる (9)
という。福沢のこれ とに由て出来るものなりQ」
らのことばは、固定的先験的な封建的身分制秩序 をはっきりと否定したことばとして、当時の日本 の社会に大きな意義を与えるものであった。しか し他方では、これらのことばは、新しい差別意識 の成立を宣言することばでもあったことに留意し
たい。
「其むつかしき仕事をする者を身分重き人と名 づけ、やすき仕事をする者を身分軽き人と云ふ。垂Φ
とあるように、学問(実学)の獲得→仕事(職 業)の上昇⇒身分重くかつ富める人(「身分重 ⑪ くして貴ければ自から其家も富
〔む〕」)が無 矛盾的に予定されており、これは、人間の価値意 識の新しい貴賎上下観の表明である。それは、現 実の人間の状態が多様であることそれ自体の確認 の議論ではなく、学識と職業と財の相違による身 分的上下関係論の提出であり、また、そのような 価値序列観によって現実の人間の様態の相違を価 値論的に解釈、説明しようとすることばでもある。
すなわち、福沢の人間平等観は、一方では封建的 固定身分秩序の否定を意味しながら、他方では、
現実の貴賎貧富強弱智愚の状態の合理化(根拠づ け)の論理ともなり、また、新しい差別観の提出 をも意味したのである。もちろん、福沢が権利の 平等を主張したことの意義の重要性を無視するこ とはできない。しかし、そのことは、新しい差別 観の提出と矛盾するものではなかったことを指摘 しておきたい。福沢の人間平等観の表明は、以上 のような多義的な内容を含んで成立しているので
ある。
福沢の平等観の表明が、現実の不平等状態の解 釈の論理ともなり、新しい差別観の論理ともなる
こと、このことは、福沢の「衆心発達」論の性格
にも重大な刻印を押している。福沢は全ての人民
が等しく実学を学び得るし、また学ぶべきことを
説きながら、他面では、いわゆる「愚民」意識を
強烈に抱いていた人であった。福沢の平等論には
愚民観が影の如く随伴している望福沢はいう。
「儒者の道に誠を貴び、神仏の教に一向一心を 勧る等、下流の民間に在ては最も緊要なる事なり。
讐へば智力未だ発生せざる小児を育し、或は無智 無術なる愚民に接して、一概に徳義などは人間の さまで貴ぶ可きものに非ずと云は斗果して誤解 を生じて、徳は賎しむ可し、智恵は貴ぶ可しと心 得、其智恵を又誤解して、美徳を棄てて好智を求 むるの弊に陥り、忽ち人間の交際を覆滅するの恐 なきに非ざれば、此輩に向ては徳義の事に付き喋 ⑬ 々の弁、なかる可らず」。
福沢は、それに続けて「と難ども、誠心一向の 私徳を以て人類の本分と為し、以て世間万事を支 配せんとするが如きは、其弊も亦極て恐る可きも のなり。場所と時節とを勘弁して、其向ふ所は高 ⑭
尚の域を期せざる可らず。」
と述べており、「下 流の民間」に対する文明化を放棄した訳ではなく、
それは、文明の精神へ導くには現実的な状況判断 に基づく処方箋が必要だとの文脈における発言で はあるが、しかし、福沢自身の認識における、文 明の精神の対立概念である儒教主義と、文明の実 学の対極にある虚学の典型的なものとしての神仏 の教えが、何故「下流の民間に在ては最も緊要な
る事」であるのか、衆心発達論の内在的論理その ものからは証明不能な立論というべきである。事 実、福沢はこの点についての構想を具体的に展開 したことはなかったのである9S彼が文明の精神に 敵対するものと見傲した儒学・神仏の教えを、「下 流の民間」に対して最も緊要な必要事と考えた根 本の動機は一さきの引用文からも一部窺われる
ように一明白である。福沢は当時、国の文明化 のためには、まず国の独立を保持することが前提 であり、そのためには、何よりも国内に革命的騒 乱状態を惹起することを恐れたのであった。しか るに、福沢のさきの引用によって明らかとなるの は、当時の彼にあっては、「下流の民間」は、文 明の精神の主体的担い手となる可能性をもった存
在であるとともに、国の文明化にとって危介な、
危険な存在者でもあるという、二面性を有するも のと理解されていたということである。彼らは
「無智無術なる愚民」だから、国の文明化を危地 に陥し入れかねないという認識である。この「下 流の民間」に対する二面的な理解の仕方は、先述 の福沢の平等主義一生来の平等性と権利の平等 の承認と、実情の不平等とそれによる人間の価値 評価の是認一一一のもつ二面的な性格に、はっきり
と対応している。しかもそのような「愚民」観に 基づく立論は、先に指摘した啓蒙の究極の立場を 放榔して、教化主義への斜面を転落していく危険 を内包したものといわざるをえない。さらにそれ は、教育の平等性の否定(身分による不平等の是 認)に道を開く立論であり、あるいはコンドルセ が、「人間理性を救済すること……道徳や政治に 同じ規則を適用しなければならぬ。・…・・道徳学の
うちに哲学と物理学の方法とをとり入れるように ⑯
と述べたような、智育を徳 しようではないか。」
育の基礎として重視する思想とは、当然のことな がら背馳する思考であった。
福沢の愚民観の背景には中流階級(「ミッヅル カラッス」)が文明の推進力であるとする認識が
ある。