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博士学位論文審査要旨

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博士学位論文審査要旨

論文提出者:沼田 あや子

論文題目 :発達障害児を育てる母親のしなやかな覚悟の物語

―日常生活で紡がれる物語を探求する質的研究

審査委員:

主査 田中浩司(首都大学東京人文科学研究科准教授)

副査 杉田真衣(首都大学東京人文科学研究科准教授)

浜谷直人(首都大学東京人文科学研究科名誉教授)

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本論文の課題

本研究は、発達障害を持つ子どもの母親が日常を生きる有り様を描出し、専門機関などにおけ る母親への有効な支援の在り方について新たな視点を提供することを研究課題とする。その際、

研究する人間(著者)の個人的な経験に基づく、先行研究における言説への違和感を研究の出発 点とし、同時に、支援機関において支援者として実践する経験のなかで蓄積した支援の不全感を 尊重して研究課題に接近し解明しようとする態度を自覚的に保つ点に本研究の特徴がある。

障害を持った子どもの家族、母親に関する研究では、障害児の母親を、子どもの障害の告知時 のショックなどに始まり、子どもが育つ過程での幾多のライフイベントにおける困難に伴うスト レスを克服し、母親が人間的に成長すると描いてきたが、著者は、それらの諸研究の言説を、「葛 藤乗り越え物語」と概括する。そのような言説は、母親の育児に対して、その枠組みに合わせて、

母親を変容させようとする心理に陥り、母親が自律的に育児をするうえで、否定的な影響を生み 出す問題点があるのみならず、著者の経験からは、発達障害児の母親は、そのような言説では補 足しきれていない、子のケアに向かう主体的な生き方があると考える。日常のケアの中で母親が 紡いでいる、もう一つの別の物語があると仮定し、それを探索し描出することが本研究の第一の 課題である。

また、医療、療育施設など専門機関における発達障害児の支援事業における母親相談において は、母親は子どもの発達や障害の軽減のための支援に必要な存在として位置づき、母親支援は周 辺的な位置に置かれている。そういう場面においては、支援者は母親に対して、子の発達や障害 の特性を告げる、困難な状況における対応を助言するといった、支援者から母親への一方的な支 援になる傾向があるとする。そのような支援だけでは、子のケアを引き受け、生活を主体的に生 きている、母親への支援として不適切であるとする。第一の研究課題で描出した、母親が日常を 生きるもう一つの物語を考慮しながら、日常生活における母親の子へのケアに向かう力を支援す る可能性について、新たな視点を見出すことが、本研究の第二の課題である。

本論文の構成

序章 研究テーマと研究者の関係 第Ⅰ部 発達障害児を育てる母親の研究

第1章「障害児の母親」に関する先行研究の検討 1.障害児の母親の育児負担という問題

(1)家族生活調査から母親のストレスへの注目

(2)母親へのソーシャルサポート研究

(3)母親の献身を問い直す研究

2.障害児の母親の心理的葛藤という問題

(1)母親の障害受容研究とその批判

(2)葛藤の変容と日常生活の関係についての研究 3.先行研究の批判的検討

(3)

(1)育児負担という現実と、それでも育児に向かう力

(2)乗り越える・成長するという発達観を疑う

(3)日常生活に着目して母親像を豊かにする 第2章 問いを探求する

1.本論の問いの所在 2.ナラティヴ・アプローチ

第Ⅱ部 発達障害児をもつ母親によるしなやかな実践の物語

第3章 日常生活におけるケアのなかでの我が子探求 1.問題と目的

2.研究方法の選択 3.調査 4.結果 5.考察

(1)ケアのなかの我が子探求 ―ケア理論との一致

(2)ケアする人を支えるもの ―支援実践のための考察

(3)葛藤をともなう二者関係は閉じられているか 6.本章のまとめと課題

第4章 母親による父親とのつながりを形成・維持するプロセス 1.問題と目的

2.研究方法の選択 3.調査 4.結果 5.考察

(1)つながりを維持していく道

(2)母親が物語る父親 ~二つの像の共存

(3)“家族をつなぐことの引き受け”のとらえ方 ―支援実践のための考察 6.本章のまとめと課題

第Ⅲ部 母親と他者の対話が紡ぐ物語

第5章 迷いのなかにいる母親 ―親子のつながりについての再ストーリー化 の対話プロセス

1.母親を支えるための問題と目的

(1)主体的な生活者としての母親のある一面

(2)生き方にも及ぶ迷い

(3)迷いの語り、その背景の仮説

(4)母親のなにに寄り添うことができるのか 2.研究方法の問題と目的

(1)語りをもとにした仮説生成の課題 (2)当事者とおこなう検証

(3)対話志向のインタビューの試み

(4)仮説を開くことによる再ストーリー化の可能性 3.方法

(4)

4.結果と考察

(1)対話のプロセス

(2)対話の転機の考察

(3)新しいテーマ・新しい言葉を創出する理論の考察 5.本章のまとめと課題

第6章 母親として生活していく物語 ―三つの研究の総括 1.生きるために必要な母子の依存関係を開く

2.母親として生活していくという受動的で能動的な物語 3.発達障害児の母親の語りを支える

終章 まとめ

1.本論の意義と課題

2.発達障害児の母親研究の今後の展開 引用文献 付録

本論文の概要

序章 研究テーマと研究者の関係

質的研究では、「研究する人間」が、研究へのアプローチ、分析、考察にとりわけ大きく関与し、

それを明示することが求められる。序章では研究・支援する人間でもある著者と研究テーマの関 係を示している。

著者は、自身の子育て生活において発達障害児の母親と出会っている。母親たちと子育て仲間 として日常を共にするなかで聞いた言葉が本研究の原点になっている。その後、大学で発達障害 について学び、発達障害児の母親に関する言説は、日常生活での母親と距離があると感じ、母親 の日常生活に立脚した研究の必要性を感じて研究することとなる。

また、著者は臨床発達心理士の資格取得後、発達相談員として発達障害児の療育や相談業務に 携わってきたが、支援事業では、母親に子どもの発達特性を告げる、対応を助言するなど、母親 支援は周辺的な位置に置かれていて、母親の生活を考慮した十分な支援ができない状況にあると 感じてきた。

以上の著者の経験から、研究対象を「発達障害児を育てる母親」であることを明示した。ただし、

先行研究には、「自閉症スペクトラム障害、注意・欠如多動性障害、学習障害」をもつ子だけでな く、広く「障害児を育てる母親」を対象としている。

また、支援実践の場で相対するのはほとんどが母親であり、現代の日本社会ではケア役割を担っ ているのは母親が圧倒的に多いという事実を脱色しないために、対象は、家族、養育者ではなく、

「母親」に限定した。

第Ⅰ部 発達障害児を育てる母親の研究

第1章 「障害児の母親」に関する先行研究の検討

障害児の母親研究が扱った2つのテーマに関する研究成果への批判的検討を行った。

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1. 障害児の母親の育児負担という問題

1970年代に育児負担が研究の俎上にのり、母親のストレスは子への悪影響として問題視された。

1980年代に入り、それに対するソーシャルサポートが検討され、家族の困難がストレスとして外 在化され、母親がサポート対象とされた意義は大きかった。母親へのソーシャルサポートの有効 性がいくつかに分類されて測定されたが、「心理面へのサポート」ニーズは高いにもかかわらず、

サポートの質と有効性の関連は明らかになっていないことに注目する必要がある。1990 年代に、

母親による障害児への献身を問い直し、母親が子のケアを一手に担う家族のあり方が問題とされ、

母子はお互い自立したうえで共生するべきという“脱家族論”が提唱されるが、家族の実態に合 ってないとして批判された。

以上を受けて、障害児を育てる育児負担という問題は、中根(2005)の母親の「ケアへ向かう 力」を否定しないソーシャルサポートのあり方を検討する段階にあるとする。

2. 障害児の母親の心理的葛藤という問題

障害受容の段階論、慢性悲哀説、螺旋形モデルなどは、障害児の母親は困難を乗り越え人間的 に成長する生涯発達理論の影響を受けながら、結果的に障害児を育てることの負の側面を照射す ることになり、それが批判された。現在、障害受容から生活の具体的な研究の文脈へシフトして いるとする。実際、母親の心理変容を見る視点を障害受容に置かずに、日常生活を丹念に聴き取 り、ケアと結びつけた研究が行われてきた。これらの研究は当事者を置き去りにしない目配りに あるという意義がある。

3.先行研究の批判的検討

ストレス研究が障害児育児に対して否定的な価値づけを生み出したという批判と、脱家族論が 当事者の日常生活への視点を欠いているという批判を乗り越えるために、家族の「ケアへ向かう 力」に着目する。発達障害児の育児の負担という現実を踏まえ、ケアに向かう力への「心理的支 え」の具体的なあり方を検討する必要がある。

発達心理学における生涯発達理論を背景に、障害児の親になることと人間的成長を結びつけ、

母親の語りから「葛藤乗り越え物語」が析出されたが、これが、支援において母親をこの物語に 向けて変容させようとする可能性を指摘し、主流となった物語を疑い、もうひとつの物語を見よ うとする視点の必要性を述べている。

日常生活のケアから母親を理解する研究、つまり、①障害受容ありきではない、②家庭という フィールドが意識されている、③乗り越え・成長物語ではない物語の可能性を示しているが、新 しい母親像を提示し始めている。しかし、発達障害児を育てる母親を対象にした研究はまだ不十 分であり、また、子どもへの具体的な関わりまでは明らかにされていない。

第2章 問いを探求する 1.本論の問いの所在

発達障害児を育てる日常生活におけるケアに着目して、「葛藤乗り越え物語」ではない物語を探 求し、そこから心理的支えとなる支援を検討する研究を目指し、研究目的を示した。

発達障害児を育てる日常生活のケアのプロセスを知り、ケアのなかでどのような物語を紡 いでいるのかを探求する。

発達障害児を育てる母親の父親への関わりを知り、家族のなかの母親としてどのような物

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語を紡いでいるのかを探求する。

①と②をふまえて、心理的支えとなる支援実践の検討をおこなう。

2.ナラティヴ・アプローチ

本論は研究者の固有の経験が、研究対象 者が筋立てる物語に影響を与えていると とらえるナラティヴ・アプローチを用いて 問いに迫る。背景に、マイノリティの言葉 にならない言葉を重要視する、ギリガンな どのフェミニズム心理学の流れがある。さ らに、他者の言葉にならない言葉と向き合 うときに解釈に必要なものは聞き手の「自 己」の人生であるため、研究の過程で自己の個人的経験を自覚的に保つ。

第Ⅱ部 発達障害児をもつ母親によるしなやかな実践の物語

第3章 日常生活におけるケアのなかでの我が子探求

母親の日常生活における子への関わりについて母親9名に約 60 分の半構造化インタビューを し、修正版グラウンデッド・セオリー・アプローチ(以下M-GTA)を用いて分析した。インタビュ ーでは、①朝起きてからの一日の流れ、②幼児期の生活について、③療育開始、小学校入学後の 生活について、の3点を聞いた。分析テーマは分析作業をすすめていくなかで「母親によるケア プロセス」となった。結果図を図―1に示す。

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〈ストーリーライン〉

発達障害をもつ子との関わりにおいて母親は、≪我が子像の探求≫を軸にしている。子と接する 日常で子に対して感じる〔心の引っ掛かりに向き合う〕ことが、子を注意深く見つめ、〔子の実相 を見つめる〕ことにつながる。〔子の実相を見つめる〕ことによって、また新たな気づきから生じ る〔心の引っ掛かりに向き合う〕ことになる。このような、障害をもつ我が子が、障害特性を含め て“どういう子か”を掴もうとする≪我が子像の探求≫により、≪子への複合的関わり≫が変わっ てくる。≪子への複合的関わり≫は[今日生活するための行為][将来のための行為][ほどほどに する行為]の三つの行為目的から成り立っており、どの行為目的が強まるかは母親がもつ現在の 我が子像によって変化する。

母親は現在を生きながらも未来予測と過去の振り返りをする。未来に意識が向くと≪近い将来を イメージ≫して実現可能な目標を考える。そしてその先の未来に意識が向くと子の行く末を案じ、

≪見通し困難≫にぶつかる。これらの未来予測が[将来のための行為]と相互に影響を与え合う。

一方、過去を振り返ると≪奮闘経験≫が想起され、これまでの≪経験の自負≫から母子の成長に 思い至り、≪二人三脚の喜び≫につながる。母親の喜びの感情は[ほどほどにする行為]と相互に 影響し合う。

母親の不安や喜びは、子の能力を見る時に母親がもつ[成長している]実感と[成長の停滞]の実 感との間で揺れる≪子の成長実感の揺れ≫とも相互に影響し合う。発達障害をもつ子は学習が積 み重なっていく領域と積み重なりにくい領域の差が大きい。そのため、成長は行きつ戻りつのス モールステップであり、母親の気持ちは喜びと不安のあいだで揺れ動く。しかし、揺れ動きながら も,≪我が子像の探求≫をあきらめない限り、バランスは保たれている。

日常生活における発達障害児への関わりプロセスのコアは≪我が子像の探求≫であり、そこを 中心にして≪子への複合的な関わり≫を実践し、≪子の成長実感の揺れ≫によって過去を振り返 ったり、未来を予測したりしている。ストレスや葛藤とは異なる、我が子探求の物語の存在が浮 かびあがった。ケアが作り出す母親と子の専心的な二者関係があり、「ケア対象を知ろうとする気 持ち」「過去の経験」「未来の希望」が母親の生活を維持する気持ちを支えていると考察した。

第4章 母親による父親とのつながりを形成・維持するプロセス

家庭というフィールドで、母親は父親にどのように関わっているのかについて母親 10 名に約 60分の半構造化インタビューをし、その語りをM-GTAを用いて分析した。インタビューでは、① 育児という点において父親はどうか、②障害があるとわかったとき父親の反応はどうだったか、

の2点を質問した。

分析テーマは、分析作業をすすめるなかで、「父親との関わりプロセス」から「父親とのつなが り形成プロセス」となった。

〈ストーリーライン〉

母親は、子に障害の疑いをもったときに父親との不安の温度差があると感じる。生活のなかで発 達障害にまつわるトラブルが多い一方、父親が子育てに関わる時間が少なく、母親任せとなり,

母親と父親の認識の差は開いく。夫婦は足並みが揃わず、≪悩み多き我が家≫だと感じている。

その状況への対処として、母親は正反対の二つを同時におこなう。ひとつは、父親へ直接働き かけ子育てに巻き込もうとする≪父親巻き込み行動≫である。もうひとつは、問題すべてに対処 するのではなく、問題によっては意識的に棚上げする≪意識的棚上げ≫である。

このように対立を回避する母親の思惑とは別に、父親は「“俺のやり方”固持」しながら、父 親ペースで子と関わり、≪父親なりの経験≫を積む。母親は、父親の本質的な部分とそこに関わ る問題を変化させようとはせずに、≪自分なりの落とし所≫を見つけてやり過ごそうとする。つ まり、問題が残るのは仕方がないと自分を納得させる一種の諦めである。一方で、父親の言動に 肯定的な説明をつけようと、裏にある気持ちを良い方に推測する≪“優しい”推測≫をおこなっ ている。そして、父親が同じように悩みを抱えている「悩む者同士」かもしれないと思い至る。

≪自分なりの落とし所≫を見つけることを経由して、夫婦に対して徐々に肯定的な受け止めが 可能になり、≪ちぐはぐな自分たちの肯定≫をするようになる。そして決して世間でいう“良い 夫婦”ではない自分たちのやり方を「うちのやり方」として受け入れていく。

母親なりに置かれた状況をとらえ直すことと並行して、父親のペースで子と関わる経験を重ね ていく。その経験により、父親なりに我が子への理解を深めて、母親は≪父親も親≫なのだと感 じ取る。そして、父親とは子の受け止め方は違っても、「子への思いは同じ」であると感じる。

母親は、それぞれ別のペース・やり方で子育てをしているため、協力体制ができているという 実感はない。しかし、同じように悩み,子を思っていることに気づき、結局自分たちは同じとこ

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ろにいるのだという感覚をもつ(≪同じ舟に乗っている≫)。

母親は≪意識的棚上げ≫をすることによって、父親とのズレと共存する道を受け身でありなが らも主体的に選んでいた。この態度は、家族を維持するためにはズレたままの状態を引き受ける しかなかったと言える。また、母親の父親に対する見方が多様になったのは、否定的見方から肯 定的見方に変容したのではなく、見方の引き出しが増えていた。母親は、父親とのすれ違いを乗 り越えて理解し合うのではなく、すれ違いと共存していく「引き受け」によって自分たちなりの やり方を見つけており、母親のなかに家族をつなぐことを引き受ける物語を見ることができた。

インタビュー協力者のなかには分析結果と一致しない母親がおり、この引き受けの物語をすべ ての母親に求めることはできないという課題が残った。

第Ⅲ部 母親と他者の対話が紡ぐ物語

第5章 迷いのなかにいる母親 ―親子のつながりについての再ストーリー化の対話プロセス 3章と第4章で、主体的な生活者としての母親の姿を描いたが、インタビュイーのなかに、

後悔や自問自答の言葉が不規則に現れる、生活全体に及ぶ「迷いの語り」をする母親がいた。迷 いの母親の背景には、子育ての被傷性(傷つき体験)があると考え、そのような母親に寄り添う ことができるのかという問いをたてた。「子育ての被傷性」仮説を、インタビュアーの思いを開示 しながら対等な関係を目指し、お互いに言葉を重ねる対話志向のインタビューによって検証する ことを試みた。対話のなかで仮説を開くことで、「人が物語を語り直すことでそれを変更する」再 ストーリー化(Clandinin, 2006/2011)の可能性があると考えた。

対象者は、第4章の調査で迷いの語りをした1名。約60分の非構造化インタビューで、仮説(被 傷性)について尋ねることから始め、「合意や理解には到達しない」という前提に立ち、「相手の 発言に応える」「今この瞬間を大切にする」「自分の感情に向き合う」「不確実性に耐える」の制約 に従い対話を継続した。

対話プロセスにおいて、「母親自身の傷つきへの焦点化」「理解できるという想定を手放す」「断 絶の物語の容認」「オルタナティヴ・ストーリーへの関心」と名づけた4つの転機があった。

【転機1】一般的な親子のつながりに対して苛立ちと疑問を呈したことに筆者が強い関心をもち、

「詳しく聞かせてほしい」と要請したら、自身の傷つきについて集中的に語り始めた。

【転機2】自分たち親子を理解されない感覚があると言いエピソードを語る。その後、筆者は「理 解するという想定」を手放さざるを得なくなった。

【転機3】我が子が見ている世界が自分とは全く異なることが「怖い」と言い、「それならKくん も怖いと思っているかも」と返すと、「ものすごい断絶があるということですね」と語り、二人と も、親子に断絶があることを認めざるを得なくなり、「断絶の物語」が図らずも誕生した。ずっと 断絶の物語の萌芽はあったのに、筆者の想定がそれを阻んでいた(迷いの語りとなっていた)可 能性を内省した。筆者は、発達障害が個性ではなく障害であることを初めて強く実感する。

【転機4】断絶の物語を共有後、「それでも一緒に暮らしているのはどういうことか」を投げかけ た。「思い出」という言葉が生まれ、幼少期の思い出によって一瞬だけつながった感覚があったと 語った。断絶だけではなく、「20年間生活を共にしているからこそ」「思い出があり」「一瞬のつな がりがある」という再ストーリー化が成されたといえる。

この対話のプロセスにおいて、①話したいことのズレを抱えたまま対話を続けると新しいテー

(9)

マが生まれる。②新しい言葉を生まれる直前に対話が途切れ、相手の言葉のみに集中している。

自分の想定を手放し、相手の言葉にのみ意識を集中することが、もう一つの物語の契機となる。

2.母親として生活していくという受動的で能動的な物語

母親は、障害児を育てるという強いられた状況に対して、「引き受け」の覚悟をもち、その覚悟 を何度も更新させているのではないか。それは葛藤を乗り越え成長しようとする能動性ではなく、

母親として家族と生活していくことを引き受けるという受動的な能動性である。それは、自分で 好んで選んだ道ではないが無理矢理押しつけられたわけでもない態度である。「ケアへ向かう力」

を尊重する家族のイメージである。母親の人生が我が子に浸食される(専心的な二者関係、迷い)

ことを否定せず、そのなかで他者とともに自分なりの物語を紡ぐことの可能性が見てとれる。

3.発達障害児の母親の語りを支える

「しなやかな実践の物語」と「迷い」は、「母親として生活していく覚悟の物語」に包摂される。

「母親として生活していく」ことは自明とされ、言説空間には表れにくかったが、それが母親の 実践と迷いで構成されている。しなやかな実践の物 語は日常生活に必要であり細く長く継続する、一方 で迷いは状況によって巻き込まれるものである(図 5-1)

発達障害児の子育てには脆弱性があるが、母親は 物語をしなやかに書き換えることでその脆弱性に 対応している。母親が紡ぐしなやかな覚悟の物語は、

ひとりの人間の生き方であり、多様な物語が存在す る。「母親の心理的支えとなる支援」とは、母親と の対話において、その人固有の物語を書き換える証 人となることである。

終章 まとめ

1.本論の意義と課題

言説空間での位置づけ:「母親として生活していく覚悟の物語」は、母親が生活しながら意味づけ るものであり、振り返った時に意味づけられる「葛藤乗り越え物語」に代わるものではなく、日 常生活で紡がれる物語を付加したといえ、発達障害児を育てる母親像に彩を加えた。

研究方法への示唆:一定数の母親に共通するモデルを生成し示した後に、研究者かつ支援者とし ての倫理的責任に要請されるかたちで「捨象された個別性」に着目し、迷いの語りをする母親と の対話を試みた。支援実践での態度と一貫させてフィールドと理論化を行き来する研究を実施し たことは意義がある。

支援実践への示唆:具体的な支援方法について、本論の研究から得られたものは対話の重要性で ある。支援者も自分を開き、自分の想定を手放すことによって語りに明らかな変化があることに 加え、筆者自身の支援実践にも変化があるた。そのプロセスをすべて記述したことは実践への示 唆である。

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本論の課題:残された課題として5つを示した。①子の障害特性によって物語の脆弱性は異なる かどうかを明らかにすること。②子育ての被傷性について、第Ⅱ部でインタビューした母親に確 認すること。③障害児の母親役割を、性別役割分業というジェンダー的視点から考察すること。

④支援実践現場での対話の公的機関での実現可能性について検討すること。

2.発達障害児の母親研究の展開

最後に、本論の結果について社会問題との関係を述べている。

調査協力者が子育てをした2000年前後から現在まで、母親の就労状況は変化しており、それに ともない養育環境も変化している。依然として、障害児を育てる母親が正規職として働くことに は制約があるが、近年の保育所の障害児の受け入れ、家庭内育児分担、公的な障害児支援の変化 にともない、発達障害児を育てる母親の心理は変化しているのか、調査が望まれる。

就労状況が変化しても「ケアは母親がやって当然の社会構造」が不変であれば、家庭内の育児 分担は変わらない。そうであれば、「母親の受動的な能動性」を肯定しているだけでなく、社会構 造に切り込んだ研究の必要性がある。個別の心理支援だけではなく、コミュニティにおける具体 的な支援を検討することは、社会学、社会福祉学、教育学、保育学を架橋する課題である。

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審査結果

著者自身の障害児の母親たちとの個人的経験と、専門職としての母親への支援実践から、発達 障害児を育てる母親には、もう一つの物語があるとの仮説をたて、データ収集から分析、考察の 研究の全過程にわたって、一貫して研究視座を「障害児の母親の日常生活」において、その内実 を具体的かつ豊かに描出した研究である。

従来の障害児の母親の障害受容研究やストレス研究などが、母親の内外からの問題を発見し、

その問題を解決することを目指した問題解決型の研究とすれば、この研究は、問題発掘型の研究 と言うことができる。研究で発掘された母親の日常の具体的な心理は、「我が子を知りたいという 思い」「生活を維持させたいという思い」、「これらの引き受けの覚悟」であり、それらは、「ケア のなかでの我が子探求の物語」であり、「家族をつなぐことを引き受ける物語」という二つの物語 であった。それらを総括して、先行研究の言説にみられた「葛藤乗り越え物語」という大きな物 語とは異なる、もう一つの物語として「しなやかな覚悟の物語」として提起した。これは、この 領域の研究としてオリジナルリティがあり、先行研究に新たな知見を加えるものと評価すること ができる。

また、発掘した物語に即して母親を支援する在り方として、従来の支援者が母親に障害児の諸 特性を伝えたり、対応策を助言していたのに対して、お互いが対等な関係の中で対話することの 可能性を提示した。支援者自身が、「自分が母親を理解できる」という自らの想定を手放して、自 らを開放し、対話の過程で、母親が「覚悟の物語」を更新・変容し、再ストーリー化する目撃者に なるという支援の在り方を示したことは、支援実践に一つの可能性を提起するものとして評価で きる。

一方、課題もある。個人的な経験に根差して研究することで、想定した障害児の母親が、一定 の社会階層の範囲に狭められてしまった。家族の多様化が進んでいるなかで、多様な母親が存在 し、発掘した物語が、どの範囲まで妥当であるのかという点についてさらなる検討が必要である。

また、主に ASDという発達障害児を対象にしているが、他の発達障害児であれば、母親の日常の 物語は、異なる様相を示すことが考えられ、この点でも、さらなる研究が必要である

また、提起した対話による支援実践について、現実に制度として実施されている制約が多い事 業において、いかに実現可能かについての検討が十分ではなく、その点では、沼田自身が今後自 らの支援実践において、創造し構築することが期待される。

229日、午後3時から2時間の公開審査の場で、沼田は、研究の成果と意義について的確に応 答するとともに、その限界についても明確にし、指摘された課題を真摯に受けとめた。なお、残 された課題はあるものの、本研究が意義は大きく、今後のさらなる発展を期待し、審査員一同、

一致して沼田あや子に博士(教育学)を授与することが適当と判断した。

参照

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