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手話の文化と声の文化 Deaf Cultures, Hearing Cultures

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手話の文化と声の文化

Deaf Cultures, Hearing Cultures

澁谷智子

Tomoko SHIBUYA

自己紹介

ただいまご紹介にあずかりました澁谷智子です。今は成蹊大学の文学部で、社会学を教えてい ます。私の卒業した学科は比較文化論という学科で、おもに文化を比較するという立場から、聞 こえる人と聞こえない人の文化の違いは何か、両者が交流するなかで生まれる誤解や摩擦とは何 なのかということに興味をもって、研究をしてきました。1997年頃から聾文化研究を始め、卒 業論文では手話ドラマの分析などをしました。2000年ごろからは、「コーダ」と呼ばれる、聞こ えない親をもつ聞こえる人たちについて研究をするようになりました。これは大学院に入って からということになります。言語と文化のズレって何なのだろうと、より深く考え始めたときに、

コーダを研究したいと思いました。今は、ヤングケアラーの研究もしています。親が障害や病気 をもっていたりすると、場合によっては子どもがその年齢よりも重い責任を負うことがあるので すが、そうした子どもたちのことをヤングケアラーと言います。今日取り上げるコーダの場合は、

皆がそうだとは思わないのですけれど、コーダの中には、銀行や病院での通訳など、子どもが通 訳するにはたいへんな内容を通訳する人たちがいて、そういう人たちはヤングケアラーというこ ともできるのではないかと考えています。

1.

用語の説明

私は、研究を始めてわりと早い時期に、手話というのはコミュニケーション手段の一つではな くて言語である、そして言語を取り巻く文化がある、という聾文化の考え方を知りました。その 辺りの用語の説明を、もう少ししたいと思います。まず「聾者」というのは何かといいますと、

生まれつき聞こえないか、音声言語獲得前に聞こえなくなって、コミュニケーションの中心を手 話においている人たちをさします。多くの場合は聾学校に通った経験をもっていたり、手話を使 う聾者のコミュニティに積極的に関わっていたりしています。それに対して、私たちのように聞 こえる人間は、生まれたときから音声のやりとりを当たり前のようにして育っていて、どういう

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ときにどういう声を使うかということを、経験によって身につけています。つまり、聞こえるコ ミュニケーションに慣れた、音声言語文化を身につけている人ということになります。そういう 意味で私たちのことを、「聴者」という言い方をします。障害に関わる分野だと、かつては「健 聴者」ということばがよく使われてきました。この「健」は 健康 の健ですね。聞こえるのが 標準的な普通の身体で、それとは違う人として 障がい者 を位置づけるという見方でした。し かし、言語と文化の面から見る場合には、そうはとらえずに、「聴者」ということばを使います。

今日はこの視点から手話の文化と声の文化について考えていきたいと思います。

2.

コーダについて

なかでも今日中心的に扱うのは、コーダと呼ばれる、聞こえない親をもつ聞こえる人たちの 経験です。コーダというのは、家族 として聞こえない人に接していて、その中で育っている。

だけど、学校では聞こえる人の世界にも接している。そういう意味で二つの世界を見ながら育っ ているので、異文化コミュニケーションとは何だろうということをわりと意識している人たちで はないかと思うからです。

今までにコーダについて書かれた本はいくつか出ています。まず、アメリカ人コーダで文化人 類学者のポール・プレストンの博士論文を日本語に訳した本として、『聞こえない親をもつ聞こ える子どもたち』があります。これは文化人類学の教科書としても使われている本で、とても面 白い本です。2009年には、『コーダの世界』という本を出したのですが、これは、私が実際にイ ンタビューをする中で集めた話などを分析しています。

つぎに、コーダ(CODA)ということばについて説明します。これは、「Children Of Deaf Adults」の頭文字をとったもので、1983年に作られた造語なんですね。これを直訳すると、「聾 の大人の子ども」ということになってしまって、英語の響きとしてはおかしい。ただ、この縮め たときの言いやすさからこの呼び方が広まりました。でも、これだと、親が聞こえなければ、聞 こえない子どもの場合も「コーダ」なのではないかと考えられます。実際、日本に紹介された当 初は誤解もあって、「自分は聾の両親をもつ聞こえない人です。私はコーダです」という言い方 もありました。たとえば、有名な聾者で木村晴美さんという方がいますが、木村さんが「私はコ ーダです」といった文章が残っています。親が聞こえなくて自分も聞こえないというときには、

今はdeaf family ということばを使うのですけれど、当時は用語の混乱もあって、「コーダ」と いうことばが使われることもあったのです。でも、実際には、コーダは、聞こえない親をもつ聞 こえる子どものみをさします。英語だけを見るとわかりにくいのですけれど、ここを押さえてお きたいと思います。

では、なぜこのようなコーダの人たちが生まれるのでしょう。じつは、聞こえない人から生ま れる子どもの90%は聞こえる人なんですね。聞こえない親と聞こえる子どもの家庭では、目を 使うコミュニケーションがよく使われます。これは必ずしも手話とは限りません。口を大きく開 けて話すような家もありますし、必要に応じて筆談をする場合もあります。でも、とにもかく にも、コーダは、 見ること を中心にした家で育っていきます。なかには、手話を身につけて、

それを第一言語とする人もいます。私は、寝言が手話というコーダにお会いしたこともあります。

声を出す人は声で寝言を言ったりするのですが、そういうコーダは、寝言のときに手が動いてい るわけですね。聾者の方はよくおわかりだと思うのですけれども、思考言語が手話なので、夢を 見るときも手話になることがあって、手が動くわけです。コーダ自身は、自分は寝ているから気

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9 づかないんですけれど、周りの人がそれを見て、「あぁ、手話で寝言を言っている」と思う。た とえば、聞こえない親が寝ている子を見て、「また手話で寝言を言ってる」と微笑んだり、結婚 した旦那さんから「結婚して15年ぐらいは、寝ているときに手が動いてたよ」と言われたとい う話が出てきたりします。その人にとっての第一言語である手話が、そのような形で出てくるん ですね。感情的にカッとしたときに思わず出てくるのが手話ということもあるそうです。

コーダの特徴は、大きく二つ挙げられます。一つは、聞こえない親の元で育った子ども時代の 経験をもっているということ。そして、もう一つは、バイモーダル・バイリンガリズムです。あ とで詳しく説明しますが、これは、手話言語と音声言語の二つを使うバイリンガリズムです。た とえば、ドイツ語と日本語のバイリンガルの場合は、両方の言語とも音声を使います。しかし、

アメリカ手話と英語のバイリンガルの場合は、一方が手や顔を使う言語なんです。こうした手話 言語と音声言語のバイリンガリズムのことを、バイモーダル・バイリンガリズムといいます。日 本手話と日本語のバイリンガルも、もちろん、バイモーダル・バイリンガルです。

こういう特徴はあるのですけれど、実際にはコーダはかなり多様です。両方の親が聞こえない 場合、片方の親だけが聞こえない場合、親の他にも兄弟やおじいちゃん・おばあちゃんに聞こえ ない人がいる場合もあります。それから、家で手話を使っていたという人もいれば、手話を使っ ていなかったという人もいます。そういう意味で、「コーダ」と一口に言っても多様なんですね。

ただ、そういう人たちはどれもコーダなのだと、コーダの国際組織である「コーダ・インターナ ショナル」では言っています。

日本では、1996年ごろからこの「コーダ」ということばが知られるようになりました。当時

『現代思想』という雑誌で「聾文化特集」が組まれまして、「コーダ」ということばの紹介があり ました。ここでは、コーダに関する情報として、先ほど言いました「コーダ・インターナショナ ル」のホームページ、それから「コーダを育てる会」のホームページ、そして、私のホームペー ジに載せているコーダ資料を紹介したいと思います。今、スクリーンにお見せしているのが「コ ーダ・インターナショナル」のホームページです。「コーダとは何?」という説明が書いてあり ますね。この組織は1983年に始まったということ、そしてコーダの体験は国を超えて似ている ところがあると書かれています。片方の親だけが聞こえない場合でも、両親が聞こえない場合で も、手話を使った家庭でもそうでない家庭でも、皆大歓迎だということを書いてあるのがこの頁 です。あと、「コーダを育てる会」という会があります。今の若い聾の親たちが集まって、聞こ える子どもに手話を教えるための会を作っているんですね。キャンプをしたり、いろいろな活動 をしているようです。こちらは、私のホームページで紹介しているコーダ資料の日本語文献リス トです。ここではできるだけ最新の情報を載せるようにしています。

最近では、コーダのDVDなどもできています。このDVDは、私を含めた7名の制作委員で 作りました。この委員の中に聞こえない人は4名いて、私にとってはこのDVDの制作プロセス 自体、ちょっとしたカルチャーショックでした。たとえば、手話通訳の映像をどう入れるか。皆 さんがテレビなどで見慣れているのは、ニュース映像の端に手話通訳が小さく枠の中にいるイメ ージだと思います。私も最初はそういうふうに手話通訳をつけるものだと思っていたんです。そ うしたら聾の制作委員から「あれは見えない」という意見が出て、手話通訳のほうの画面が大き く実際の画面のほうが小さいという画面構成になりました。そのほうがやはり見やすいんです。

でも私には手話通訳画面のほうが小さいという固定観念があったので、その一つ一つがとても勉 強になりました。

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3.

手話を使う家庭の会話

手話を使う家庭の会話は、聞こえる方はあまり見たことがないと思います。聾の皆さんはよく 知っていると思うんですけれど、一例として、ここでDVDをお見せしたいと思います。

DVDを鑑賞)

今のは、コーダの家の夕食のときにお邪魔して撮影させていただいた映像です。お子さんが二 人いまして、お兄ちゃんはこのときは中学1年生でした。野球が好きで、夕食のときは大体テ レビをつけて、お父さんと息子で野球の話で盛り上がるそうです。子ども二人は聞こえます。で も両親は聞こえないので、家の中では手話を使うという形になります。ではもう一度見てくださ い。

DVDを鑑賞)

ここでちょっと待っていただけますか。これが、手話通訳画面のほうが大きい映像です。実際 に話している話者はこちらのおばあちゃんで、先ほど映っていた家族のおばあちゃんです。お母 さんのお母さんになります。おばあちゃんは聞こえる人で、もしかしたら手話も少しできるのか もしれないんですけれども、ここは音声で話してもらったので、それに手話通訳をつけることに しました。そして、手話通訳の画面のほうが大きいという画面構成になりました。字幕は映像の 下に入れられていて、字幕部分が映像にかからないような字幕のつくり方になっています。映像 にかぶさっていると字幕が見づらいということで、その下に入れるということになりました。で はもう一度映像をお願いします。

DVDを鑑賞)

この会話では、お父さんが下の子に、「朝、通学で電車に乗るときにお兄ちゃんと一緒に行っ ているの?」ということを訊いています。その子は、「別々だよ」と手話で話しています。

4.

コーダの感じるカルチャーショック

こういうコーダは、そもそも何をカルチャーショックとして感じるのでしょうか。一番大きい のは視線の使い方です。一番トラブルが多いと言ってもいいと思います。なぜかというと、コー ダはジーッと見るわけですね。親が聞こえないので、手話を使っても使わなくても親の顔をしっ かり見て、そこからコミュニケーションを始めることに慣れているわけです。ですから、話を聞 くときは、相手の目を必ずジーッと見ます。一方、私たち聞こえる人は、ジーッとは見ないんで すね。途中で目をそらしたり適当に休みを入れたりします。ジーッと見ていると、何か意味があ るのかということを読み込んでしまうわけです。

このスライドにあるのは、二十歳ぐらいのコーダの女の子の話です。アルバイト先で男性の先 輩から仕事のやり方をいろいろと教えてもらって、その子は一生懸命聞いていました。そうした ら、あまりに視線が長いので、「こいつ、オレのこと好きなんじゃないか」と勘違いされてしま

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11 ったということです。他にも、コーダの側としては普通に見ていただけなのに、相手から「何見 てるんだ」と言われてしまったりすることもあるそうです。あと、コーダの側で感じる違和感と して多いのは、会議の時や講演会といった場での聞こえる人の様子です。皆さんは、手元に資料 がある場合、話を聞きながら一生懸命メモを取ったりするじゃないですか。下を向いていること もありますよね。それがコーダの方には非常に違和感があるみたいです。実際、コーダは、1 大勢で話を聞くときも、律儀に話し手を見て頷いているんです。たとえば、保育園の保護者会の ような場所で先生が話をしていて、保護者のほうは手元に資料があって何かメモをしているとい う状態。その中で、一生懸命に先生を見て頷いているコーダが一人いるんです。そうすると話し 手は視線をそこにセットして、そこだけを見て話すようになるとか。そういうことが起きている みたいです。あと、会社の会議などで、やはり、資料を見ながら話を聞くようなこともあります よね。あるコーダは、会議が終わって同僚が「今日は実りのある会議だった」と言っているのを 聞いて、「え? そう?」と思ったそうです。「皆、下向いてたじゃん」と思ったと言うんです よね。つまり、聞く、というときの聞き方が違うんです。あと、ちょっと笑ってしまったのは、

「恋人同士の語り」という話です。海かどこかにベンチがあって、そこで座って話をしていたら しいんですね。景色を見ながら二人が並んで話をしている。でも、コーダは、どうしても目を見 てほしくなるそうなんです。目を合わせてくれていないと、聞いてもらえている気がしない。皆 さんも異文化研究をなさっていると、コミュニケーションの様式とか価値観が感情に結びついて くるということを勉強なさっているかもしれません。「これは違う文化のやり方なんだ」と頭で 理解して、そのやり方を身につけたとしても、とっさのときに湧き上がる感情というのは、自分 の馴染んだ文化であることが多いんですね。コーダの場合は、「この人は聞こえる人だし、海を 見ながら私の話を聞いてくれているのはわかるんだけど、やっぱりこっちを見て欲しい」という 気持ちが出てしまうというんです。面白いなと思いました。

つぎは、「沈黙への慣れの違い」についての話です。お配りしている資料を見ながらお聞きく ださい。これは、大阪育ちのコーダのUさんのお話です。Uさんは両親も聞こえなくて弟も聞 こえないという四人家族で、家族の中で一人だけ聞こえるという状態で育ちました。家では両親 も弟も手話を使っていましたし、しかも家のすぐ近くに住んでいたおじさん、おばさんも聞こえ なくて、Uさんは二家族分たっぷり通訳をして育ったわけです。手話を日本語にしたり、日本 語を手話にしたりして育ちました。学校では日本語を使っていました。そんな彼女は将来結婚す るとしたら自分の声に反応してくれる人がいいと思っていて、東京の人と遠距離恋愛をして結婚 したんです。そして、東京に引っ越しました。ところが、結婚をして一緒に暮らし始めたその翌 日に、夫から「なんで喋らないの?」と言われたらしいんです。それで今日一日の話をしようと 思って、「朝起きて、ご飯つくって、それから洗濯をして、仕事に行って」というふうに話し始 めたら、「そうじゃなくて」と旦那さんに言われたそうです。Uさんにとっては、家の中で同じ 部屋にいて声がないというのは当たり前だったんですね。ところが、結婚したら、この当たり前 がひっくり返ってしまったんです。デートのときは「家の外だから特別」というか「非日常」と いう形で声を使っていたのが、結婚したら家の中が「日常」になる。そうしたら、そこで声で話 すという感覚をUさんはもっていなかったんですね。Uさんは本当に面白くてユーモアのある 人なんですけれど、どうも家では無口になってしまって、旦那さんのほうでは「あれ?」と思っ たみたいなんです。それでUさんも気にするようになったんですけれど、朝、旦那さんを送り 出したあとは、「これで話さなくていい」ってホッとしたそうです。これは、やっぱり文化ギャ ップと言っていいのではないかと思います。

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私は以前、ミシガン大学に留学していたことがあるのですが、そこでアメリカ手話の授業をと りました。そこで聾文化についても説明を受けたんですけれども、そのときに、「聾文化では二 人一緒に歩いていても必要がなければ喋らない」という記述を見て、すごくびっくりしたこと があるんです。たとえば、雨が降っていて傘をさしているようなとき。並んで歩いているよう なとき。必要がなければ喋らないんですね。聞こえる人はこういうときにくだらない話をします。

「今日は寒いですね」とか、あまり意味もなくとりとめのないことを言うんです。音声のない空 間に耐えられずに、何か間をつなぐような話をするんです。「ここに来たのは初めてですか?」

とか。でも、聞こえない人にとっては、話しづらいときには無理に話さないというのは普通のこ となんですね。傘を持っていたら片手がふさがるし、並んで歩いているときには視線が合いにく いですよね。むしろ、電車で向かい合って座るとか、ホーム越しに相手がよく見えるときとか、

そういうときのほうが話しやすい。手話ドラマなどでは、そういう場面がオーバーに使われたり します。ホーム越しの会話とか、ガラス越しの会話とか、そういうセッティングがよく出てきま す。このように、声が届く距離でのコミュニケーションの仕方と、目線が合わせやすいかどうか を考えたコミュニケーションの仕方とでは、行動様式が変わってくるわけです。Uさんにして みると、家の中でとくに話そうとしないのは当たり前のことで、視線が合っていなければ無理に 話さなくてもいいと思っていたので、旦那さんにはそれが不思議に思われたんですね。

でも面白いのはこの先なんです。じつは、その後変わっていったのはUさんではなくて、旦 那さんのほうなんです。旦那さんは、聞こえない人とは何の関係もない人だったんですけれど、

Uさんと結婚生活をしていくにつれ、たとえばUさんのことを呼ぶときに肩をトントンとやっ たりする身振りがつくようになったそうなんです。どうもUさんの場合は、声だけで話しかけ るとスルーしてしまうことがあって、それよりは視覚的なものがついていたほうが、反応が早い と旦那さんはわかったみたいで、夫婦のコミュニケーションの中で自然と視覚的な身振りが増え ていったということなんですね。Uさんは聞こえる。それから旦那さんも聞こえる。だから聞 こえる二人が夫婦生活をしているんだけれど、そこで段々と視覚的なコミュニケーションが増え ていった。これは本当に面白いと思いました。これは聾を身体障がいと考えていたら絶対に見え てこない世界だと思うんです。やはり文化変容がなされていると考えていいのではないかと思い ます。

5.

コーダへの言語と文化の継承

つぎは「聞こえる子ども(コーダ)への言語と文化の継承」についてお話していきたいと思い ます。こちらのスライドは、平成17年に文部科学省の事業の取り組みの一つとして大阪市でつ くられた子育て支援ハンドブックです。この中で、聞こえない親が自分の子育てについて書いて います。「私は、子どもが産まれるなら聞こえない子どもがいい、と思っていました。日本人が 子どもを日本語で育て、フランス人がフランス語で育てるのと同じように、聞こえない私たちは、

自分の子どもを手話で育てたい、と考えました。聞こえない自分の生き方やアイデンティティを、

同じ聞こえない子どもなら対等に伝えることもできます。それは、日本人が自分の体験や培って きた文化や言語をそのままそっくり子どもに伝え育てるのと同じです」と書いてあります。これ は、わりと最近の若い親の考え方ではないかと思います。昔は、聞こえない自分であっても、子 どもが生まれるとしたら聞こえる子どものほうがいいという考えが強くありました。遺伝する

「聞こえない」ということが、マイナスに見られていたわけですね。生まれた子どもが聞こえな

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13 いとわかったときにショックだったとおっしゃる聾者が、結構いらっしゃいます。ただ、生まれ たときにはショックだったのが、子どもが育つにつれ、逆に羨ましいと見られるようになってき たという話もわりと聞きます。それはなぜかというと、お互い聞こえない人同士なので親子で対 等に話ができるし、親が自分の経験というものを生かしながら子どもに伝えることができる。そ れから、いろんな場所に連れて行っても手話で共有することができるんですね。それが「いいな あ」と言われるようになってきたんです。さらに1990年代半ばに聞こえないことを「文化」と 捉える考え方が入ってきて、こういうふうに同じ言語と文化を子どもと共有したいと考える親も 増えてきました。しかし、そうは言っても、9割の子は聞こえて生まれてきます。コーダにして みると、これはショックなことなんです。自分は別に望んで聞こえるように生まれてきたわけで はないけれど、親は多分、聞こえない子だったらよかったと思っているのかもしれないと思うの は、切ない面もあるわけです。だけど、基本的に子どもが生まれて育っていけば、一緒にいろん な経験をしていくので、聞こえるとか聞こえないというよりもそのことを中心とした関係となっ ていくんですけれども、できればいろんなことを子どもと共有したいという思いを親はもってい るんですね。

この方は、3カ月検診で子どもに聴力検査を受けさせて、そこで子どもが聞こえることがわ かったらしいんですけれど、そのときにお医者さんや保健師に「よかったですね」と言われて、

「なんで?」という気持だったと。聞こえないことが悪いことなのかと、この方は感じたみたい です。つまり、この方は聞こえないことを言語と文化の問題として考えていたわけなんですけれ ども、世の中ではどうしても障がいという面だけでしか見てもらえなくて、その価値観がついた ことばで言われてしまうことに対して、やはり「自分の生き方って何?」とか、「自分の在り方 ってダメなの?」というような違和感をもったということですね。

今は、子どもが聞こえても聞こえなくても、手話で話しかけようとする親も出てきています。

先ほど紹介した「コーダを育てる会」でも、子どもを手話で育てようということを親が心がけて やっています。ただ、これは最近の現象で、ついこのあいだまで、やっぱり聞こえる子に手話で 話しかけていいのかと迷う親は本当に多くいました。5年前ごろでも迷っていた人は結構いると 思います。自分は聞こえないけれど、子どもは聞こえる。このときに自分が聞こえないからとい って手話で話しかけると、聞こえる子の日本語の発達が遅れるんじゃないかといった心配をして しまうんですね。あと、声のほうがもしかしたら反応があるんじゃないかって思うんですね。赤 ちゃんというのは、生まれてすぐにコミュニケーションができるわけではありません。泣くとか そういうことはできますけれど、目が合って笑いかけるとか、首を振ったりとか、そういうの は、しばらくしてからなんです。最初のころは目線もどこを見ているのかわからないという状態 で、親は手話で話しかけて反応がないと「伝わってない」と思ってしまうらしいんですね。手話 に馴染みのある方はよくわかると思うんですけれど、手話というのは、話すときの聞き手の役割 がすごく大事なんです。聞き手の頷きが決定的に重要になってくる。つまり、こちらが手話をし て相手が頷いてくれると、話し手は相手に伝わっていることがわかって、安心して次を話すこと ができる。そういう言語なので、親の気持ちとしては、赤ちゃんが頷いてくれると安心して次を 話せるということがあるんですけれど、赤ちゃんはそういうわけにはいかないですよね。そのと きに親としては「この方法でいいんだろうか?」と迷うんですね。一方で、聞こえる赤ちゃんは、

コミュニケーションがまだとれないときでも、音には反応するんです。聞こえない親にしてみる と、聞こえる子の反応を通して、こんなものにも音があったんだと知っていくことがあります。

たとえば、新聞を開く音、ビニール袋のこすれる音で子どもが起きてしまったとか。あと、昔の

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湯沸かし器はガスが点くときに音がしたんですけれど、それを聞こえる子どもが振り向いて初め て知ったとか。そういうふうに、親は、子どもの反応を見ながら音を知っていくということがあ るんですね。これ自体は本当に面白いことなんですけれど、そういうときに親は、聞こえない自 分と聞こえる子って違うんだなと思って、そのときに「やっぱり手話で話しかけていいんだろう か?」と迷いが出てきてしまうんです。

ここでまたDVDを見ていただければと思います。この方はお子さんが三人いらっしゃるんで すけれど、一番上のお子さんのときには迷っていて、声のほうがいいんじゃないかと思った。だ けど二人目が生まれたら、上の子ばかりに時間をかけられなくなったんですね。子ども一人のと きは、口の動きにも集中してやりとりすることができていたわけなんですけれど、二人目が生ま れるとそちらの世話もたいへんで、一人目の子が何かを言っていても、そこだけに時間をかけて コミュニケーションをすることができなくなった。さらに、子どもが保育園でいろんなことばを 覚えてきたときに、口の形だけを一生懸命見ていてもわからない。今でもこんなにわからなくな ってくるのに、将来はどうなるんだろうと。だから次の子は手話で話そうと思ったということな んですね。

DVDを鑑賞)

一般に、コーダは親が聞こえないから手話ができて当然だろうと思われるんです。手話ができ ないと驚かれることも多いんですけれど、親が聞こえないからといって手話をすぐに身につけら れるわけではありません。これは手話だけではなくて、他の言語、たとえば日本で育つ中国人の 子どもとか、韓国人の子どもとか、同じだと思うんですけれど、日本語を話している社会の中で 少数派言語を身につけるときには、子どもがどれだけその言語にふれる時間があるか、それから 誰が子どもに手話で話しかけているのか、たとえば何人くらいの人が話しかけているのか、どう いう立場の人が話しかけているのかということが大事になります。それから、子どもが手話と日 本語の混ざった発話をしたときに、周りの人がどう対応するかですね。手話を使う人は「これは 表現が間違っている」と感じても、意味が通じればそのままコミュニケーションを続けることが 多いんですけれども、そうすると、子どもはその表現でいいと思ってしまうんですね。その子ど もの手話表現が間違っている可能性は、すごくあるわけです。でも、そのときに直してもらわな いと、そのままそれがいいんだと思ってしまうので、それを直してもらえるかどうかということ が大事になります。これは手話を勉強する人にとっても同じです。たとえば、私も大人になって から手話を勉強したんですが、聾者と手話で話すと、相手がわかってくれてしまって、いちいち 表現を直さないで次の話にいくんですね。そうすると、こちらはその表現でいいんだと思って しまう。そうやって、いつまで経っても手話が下手なままという状況が続いた時期がありました。

ですから、やはりきちんとした手話で、どういうふうにそれを表すのかを見せてくれるモデルが すごく大事になってくるんですけれども、実際、それを普段の生活でやるのはかなり難しいとこ ろがあります。たとえば、ある5歳のコーダの子が一日をどのように過ごしているかを見てみ ましょう。まず、朝起きてからの時間。家にいるときには親と手話を使いますが、この子には妹 がいて、妹は聞こえるんですね。なので、妹と話すときには日本語になります。あと、テレビを 見るとき、本を読むときは日本語を使います。それから、幼稚園に行けば、友達も先生も日本語 を使っています。幼稚園が終わって帰るときは親が迎えに来ますが、帰る道々、親との会話は手 話ですけれど、他のお友達やそのお母さんとは日本語を使います。家に帰って来てからは手話で、

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15 そのあとの習い事では日本語を使う。そのあとは家に帰って夕食ですが、お母さんとは手話、妹 とは日本語を使う。そして寝るということになります。朝ごはんのときにはお父さんもいるので、

そのときにはお父さんと手話で話しますが、たいていの場合はお母さんの手話だけを見て育つこ とになります。つまり、この子にとってみれば、お母さんの手話が、目にする手話のすべてなん ですね。日本語のインプットは非常に多いですけれど、手話のインプットはお母さんだけという ことです。ですから、今の日本で、少数派言語である手話をコーダが自然に身につけるのはとて も難しい。親が二つの言語を混ぜないようにするとか、コーダがその年齢に合った楽しい経験を 手話でするということを積んでいかないと、やはり、コーダが手話を覚えるのは難しい面があり ます。

6.

コーダの行う通訳

つぎに、子どもがどういう通訳をしているかという話をしたいと思います。今、ここでも手話 に通訳していただいていますけれど、こうした職業的な大人の通訳の方と、子どものコーダがす る通訳の違いは何かというと、二つポイントがあります。一つ目は、親子という関係の中で通訳 をするということです。親子なので、親の考えていることもわかるし、親と生活を一緒にしてい るので、その背景もわかる。でもその分、感情も入るらしいんですね。「なんでわかってくれな いの?」という感情も入るのが、親子の関係です。それから二つ目は、子どもという立場で大人 の話を通訳することが多いということです。そうすると、その子が知っている手話の語彙は限ら れるんですね。私が聞いた中でわかりやすい例を紹介すると、たとえば、「駐車場」ということ ばを子どもが通訳しなければならなくなったんですが、その子の家では駐車場のことを「車庫」

と言っていたというんですね。なので、「チュウシャジョウ」と聞いてわからなくて、「注射する 場所」と手話に訳してしまって通じなかったという話があります。それから、他にもこんな例が あります。あるとき、聾のお父さんが、自転車屋さんで自転車の試乗をしたらしいんです。試乗 しているお父さんに、お店の人が「違和感ないですか?」と訊いたんですが、一緒にいた5 くらいのコーダは、「違和感」ということばを聞いて「わかんないですか?」と訳したそうです。

やはり、子どもが慣れていることばとそうでないことばがあるんですね。でも、子どもの年齢に 合ったことばを周りの人が使ってくれるかというと、必ずしもそうではないんです。普通の聞こ える人は、聞こえない人と話すというだけで気持ちがいっぱいいっぱいになってしまって、それ を通訳するのが子どもだということを忘れてしまうことがあります。そのため、ことばのレベル を変えられなくて、それを通訳する子どもがたいへんになってしまったりします。

子どもが通訳する内容として多いのは、日常生活に関係することです。たとえば、おばあちゃ んからの電話があったとしたら、「お正月には帰るって」とか、「何日に行くよ」とか、そういう 通訳をします。それから学校関係のこと。たとえば、先生が家庭訪問にいらしたときに、そこで 通訳したりします。でも、本来ならば大人がすると想定されている内容をコーダが通訳すること もあります。病院、区役所、銀行、警察での通訳とか、店員との交渉やお葬式の手配の通訳など、

こういうこともコーダは結構やっています。今は職業的な手話通訳者も増えてきたんですが、以 前はそうではなかったので、子どもがやることが多かったみたいです。

コーダがする通訳の方法はいろいろあります。手話を使うだけではないんですね。口を大きく 動かして親が読みやすいことばで言い直したり、指文字で表したり、手話とは違うんですけれど その家族の中だけで使っている言い方に置き換えて説明したり。あと、親の声が相手にちょっと

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わかりにくかったときには、その発言を自分の声で言い直したり、そういった形でも通訳してい ます。コーダは、親の言い方が多少違っていても、親が何を言いたいかわかるので、それを自分 の声で言い直します。

では、なぜ、コーダが通訳しなければいけなくなるのでしょうか。これは、子どもなら通訳で きるだろうと周囲が勝手に思うことが大きいようです。たとえば、子どもが風邪をひいて、親が 病院へ連れていった。子どもは病気で苦しいんだけど、お医者さんに「お母さんに伝えておいて ね」という感じで言われると、熱があっても通訳しなければいけなくなるとか。あと、コーダが 大きくなってくると、自分の成績や進路の話を他の人に聞かれるのが恥ずかしいとか、親も家族 のプライベートな話を通訳者に聞かれるのに抵抗があるとか、そういう理由で、コーダが通訳す ることがあります。あとは緊急時ですね。昔はファックスですぐに救急車が呼べなかったときも ありました。私の知っている聾者の話では、おばあちゃんが倒れて、小さい子に夜中に救急車を 呼んでもらったんですけれど、そのときに電話の向こうで、「いたずらはいけないよ」と言われ てしまったそうです。

コーダにとって、通訳はどのような体験だったかについても調べてみました。「通訳するのは 当たり前」と思っていた人は多くいました。でも、今考えるとやっぱり嫌だった、と考える人 もいて、それは単に面倒だったということのようです。たとえば、自分がテレビを見ているとき に、親が電話したいので通訳をしてくれるよう頼まれたとか。それから、やはり、子どもの立場 で大人の会話を通訳するのはちょっと無理がある、と感じた人もいます。あとは、見られるのが 恥ずかしいとか、通じないのが苦痛だったとか。ただ、通訳については、「今振り返るといい経 験」「家族との関係を深めるもの」という意見もあって、このプラスの面を、私は強調したいと 思います。今は、子どもに通訳させること自体が全部マイナスという見方をする親もいるんです けれど、そんなことはなくて、子どもの年齢に合った内容の通訳をさせることは、子どもの言語 の発達にとってもプラスになるんですね。確かに、病院で子宮筋腫の話を子どもが通訳するのは 辛いことですが、たとえば家族でファミリーレストランへ行ってスパゲッティの注文をするとき に、コーダが「僕がやりたい」と言ったら、やらせてあげていいと思います。子どもも親の役に 立てて嬉しいということもあるし、子どもの言語発達にもプラスですし、親子の関係が深まる面 もありますので、その点は強調したいと思います。

7.

バイモーダル・バイリンガリズム

最後に、バイモーダル・バイリンガリズムの話をしたいと思います。聞き慣れないことばだと 思うんですけれど、これは、二つの様式を使うバイリンガリズムということになります。手話と いうのは、手や表情などを使って発信していて、それを目で見て認識しますね。それに対して、

私は今、音声を使っていて、それを聞いて皆さんは認識しています。ですから、音声言語と手話 言語という組み合わせでは、じつは、二つの言語を同時に出すということができてしまうわけで す。たとえば私が「イヌ」と示したいときには、声でことばを発しながら、手話でもそれを表現 できてしまいます。これは他のバイリンガリズムではありえないことです。手話だと音声と方法 が重ならないから、同時に言えてしまうんです。これがものすごい誤解を生むことになるんです けれど。とにかく、物理的には、二つの言語を同時に出すことができる。これがバイモーダル・

バイリンガリズムの特徴で、それに対して、従来考えられてきた音声言語だけのバイリンガリズ ムは、様式が一つだけしかないという意味で、ユニモーダル・バイリンガリズムといわれます。

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17 こういうバイモーダル・バイリンガルにはどういう人がいるかというと、三つの種類が挙げら れます。一つ目は、家族に聾者がいる中で育った聞こえる人で、コーダがその典型です。兄弟が 聾で、小さいころから手話を見て育ったという場合にも、手話を身につける人がいます。なかに は、手話のネイティブという人もいます。二番目は、私のように、音声言語を学んだあとに手話 言語を学んだという手話学習者ですね。三番目は、手話言語を知っていて音声言語の読み書きや 発話を学んだ聾者ということになります。ただ、聾者の場合は、その言語を音で聞くという経験 はないので、どちらかというと、手話と活字を読み書きするという意味でのバイリンガルという ことで、サイン・プリント・バイリンガリズム(sign-print bilingualism)という言い方がされ ます。

面白いのはここからです。バイモーダル・バイリンガルの人同士で話をすると、どうなるでし ょう。まず、音声言語のバイリンガル同士の会話を考えてみたいと思います。たとえば、英語と 日本語のわかるバイリンガルの人同士が話をすると、日本語で話をしながら、所々で英語の単語 や英語の文章が入ってくるというように、言語が切り替わることがあります。これは、コード・

スウィッチと呼ばれます。手話言語と音声言語のバイリンガルの会話でも、コード・スウィッチ はあります。ただ、バイモーダル・バイリンガル同士の場合は、言語を切り替えるというだけで はなくて、同時に出すという方法もあるんです。それは、コード・ブレンドといわれます。コー ド・スウィッチは、それまで音声の言語で話していたのを止めて、そこだけ手話になるようなケ ースですね。一方、コード・ブレンドでは、たとえば音声で「猫は部屋に飛び込んだ」と言いな がら、手話で「ジャンプ」と表現したりします。

これについて面白い研究をした人がいて、両方の言語が上手いコーダ11名をペアにして実験 をしました。一つ目の課題は、コーダに身近な話題でバイリンガル同士で自由に会話をしてもら うというものです。たとえば学校での通訳の話などをしてもらいます。それからもう一つ目は、

ペアのうちの一人が「トムとジェリー」みたいなわかりやすいアニメを見て、もう一人に対して その要約をするというものです。実験では、この二つの課題の様子を撮影して分析しました。そ うすると、明らかな結果として見られたのは、コード・スウィッチよりもコード・ブレンドのほ うが多かったということです。両方の言語が堪能なコーダが何をやってもいいという状態で話を すると、コード・ブレンドが多くなるんです。それから、コード・スウィッチやコード・ブレン ドのなかで手話が一つだけ出てくるような場合には、それが動詞である確率が高いということも 報告されました。また、手話と音声が同時に出されるときは、その内容が同じものを表現する傾 向が強く見られました。表現した内容がほとんど同じものになっている。考え方としては、声は 一つしかないけれど、手話は右手も左手もあるので、理論上では音声と手話で別の表現をするこ ともできるわけですよね。だけど現実にはそういうことはなくて、口で言っているときは手話も 同じものを表す傾向が強い。つまり私たちの頭というのは、別々のものをいっぺんに出すのが難 しくなっているということです。

8.

まとめ

そろそろまとめに入ります。聾者の多くはバイリンガルです。日本手話だけではなく、日本語 も使って生活をしています。じつはコーダもそうなんですけれども、聾者同士の会話、そして聾 者とコーダの会話も、バイリンガル同士の会話なので、じつは手話だけではなくて、音声言語 と手話言語がよく混ざっているわけですね。話題によって、「今は日本語の度合いが強い」とか、

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「今度は手話の度合いが強くなった」とかいうことはありますが、やはり混ざっていることが多 い。手話の会話では、意思の疎通ができれば、言語が混ざっても問題視されてこなかったんです ね。間違った手話表現を使っても、それを直していたらきりがないから、直されない。でも、手 話を言語として学ぶということを考えたときにはどうでしょう? 言語として学ぶときには、適 切な語順とか、間、リズム、ことばの使い方ができていないと、手話言語表現としては、断片的 だったり稚拙なものになったりしてしまうと思います。通じればいいというのではなくて、どう いう手話でそれを伝えられるか。状況や雰囲気に合ったことばの言い回しができているかという ことですね。コーダの経験には、手話を使う文化の規範と、音声を使う文化の規範が凝縮されて います。コーダには手話ができるだろう、通訳ができるだろうという期待もかかりやすいんです けれども、やっぱりその年齢や子どものできること、気持ち、それから親子の力関係に充分な配 慮がなされていることが大切だと思います。

参考文献

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澁谷智子(2009b).「自著を語る『コーダの世界─手話の文化と声の文化』」『看護学雑誌』第37巻,第 11号,46-54頁.

澁谷智子(2011).「ろう文化と聴文化の関係を考える8 コーダは自然に手話を覚えるか」『翼』第235号,

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澁谷智子(2012).「バイモダル・バイリンガリズム─手話言語と音声言語のバイリンガリズム研究が示す 知見」『ことばと社会』第14号,330-338頁.三元社.

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Washington D.C.: Gallaudet University Press.

参照

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