カトリック穏健派と詩的想像力 : サウスウェルと コンスタブルをめぐって
著者 勝山 貴之
雑誌名 主流
号 70
ページ 1‑17
発行年 2008‑11‑10
権利 同志社大学英文学会
URL http://doi.org/10.14988/pa.2017.0000015213
1
カトリック穏健派と詩的想像力
ー サ ウ ス ウ ェ ル と コ ン ス タ ブ ル を め ぐ っ て 一
勝 山 貴 之
I鴫序
アリソン・シェル (AllisonShell)は,彼女の著書の中で当時のイングラ ンド社会におけるカトリックを二つに分類している.まず英雄的カトリック として,国教忌避者 (therecusant),証聖者 (theconfessor,すなわち殉 教はしなかったが迫害に抗って信仰を守った者),追放者 (theexile),殉教 者 (themartyr),そして更に陰謀者 (theconspIr叫or)といった人々を一 括りにしている.そしていまひとつはカトリック現実主義者とでも呼ぶべき 人々であり,特別な場合だけ国教徒となる者 (theoccasional conformists) や隠れカトリック (thecrypto‑Catholics)などがこれに含まれるという (6).
しかしここでシェルのいうカトリック現実主義者,あるいはカトリック穏健 派と見倣される人々の存在は歴史の陰に隠れて従来あまり取り沙汰されるこ とはなかった.あえてこうしたカトリックのコミュニティに光をあてた研究 といえば,ジョン・ボ、ツシー (JohnBossy)のTheEnglish Cαtholic Community (1975)が重要であろう.ボッシーの研究は,制度上の処罰を 避けたカトリックたち,すなわち国教忌避者という汚名だけを避けようとし たカトリック信者たちの存在の重要性を強調するパイオニア的研究である.
また近年では,アレクサンドラ・ウォルシャム (AlexandraWalsham)の Church pα,pists (1993)や,マイケル・ケスティアー (MichaelQuestier) のConversion,Politics αnd Religion in England (1996),および同じくケ ステイアーのCαtholicismαndCommunity in Eαrly Modern England
2 カトリック穏健派と詩的想像力一サウスウェルとコンスタブルをめぐって (2006)などの研究はいずれもカトリック穏健派の存在を解明するのに貢献 しており注目に値する.これらの研究が明らかにしているように,宗教改輩 が断行された後も,何度も改宗を繰り返しカトリックとプロテスタントの 聞を揺れ動く者や,何年にも渡って改宗を嬉賭する者がいたことも否定でき ない.カトリック穏健派の人々は地下活動をしていたわけではなく,プロテ スタントたちとも交わり,彼らが手にするのと同じ書物を手にしていたこと は事実である.J. J.スカリスブリック(J.J. Scarisbrick)やイーモン・ダフィ (Eamon Duffy)などの修正論者が主張するように,大陸で宗教改革の原動 力となった精神はイングランドでは顕著であったとは言い難く,民衆からす れば,プロテスタント信仰はむしろヘンリー八世や彼を取り巻く聖職者たち によって民衆におしつけられたものであるという主張もあながち否定できな いであろう.こうした時代において,当時のカトリック詩人たちの作品をと おして展開される詩的想像力の世界が,いかにカトリック穏健派といわれる 人々の内的葛藤を代弁するものとなりえたか,ということについて考えてみ ることは重要であると思われる.
この小論では,特に1580年代後半から 1590年代の時期におけるカトリッ ク勢力の詩作に目を向け なかでもキャンピオンやパーソンズに続いてロー マのイエズス会からイングランドに送り込まれたイエズス会士ロパート・サ ウスウェル (RobertSouthwell)の作品を端緒に,カトリックへと転向する ため故国を逃れたヘンリー・コンスタブル (HenryConstable)の作品を取 り上げてみたい.二人の詩人の作品分析をとおして,両者が共有していたで あろう詩的想像力の世界を解明するとともに,彼らの作品がいかにカトリッ ク穏健派はもとより,プロテスタントたちの聞にも受容されたかという問題 を考察してみたい.
カトリック穏健派と詩的想像力一サウスウェルとコンスタブルをめぐって‑ 3
1I.カトリック穏健派
アレクサンドラ・ウォルシャムは,カトリック対プロテスタントといった 二項対立の構図は,近代初期における教会や社会にはなじまないと主張する (8) .確かに両者の聞に明確な境界線を引くことは難しい.そもそも 16世 紀イングランドは,カトリック社会が宗教改革によってプロテスタント社会 に変貌していく過渡期であり,修道院の解散や聖像破壊などが行われたが,
カトリックの装束を纏った聖職者による洗礼式や葬儀,コーパス・クリステイ などの中世儀式,そして民衆キャロルなどの中に歌われた処女崇拝は,形を 変えることなく伝承されていた.またエリザベス自身が一般にロイヤル・タッ チ (Roya1Touch)と呼ばれる方法により,療癒という病を治療するための 奇跡の儀式を,民衆のためにメアリの時代から引き続き行なっており,カト リ ッ ク 的 宗 教 儀 式 が 形 骸 化 し つ つ も な お 受 け 継 が れ て い た の で あ る (Wa1sham 16. Thomas 197‑211).
1570年代までは,カトリック聖職者たちも旧教の信徒たちが英国国教会 の礼拝に参列することを激しく非難し,むしろ国教忌避の証として国の命じ た教会集会への参加を拒否する姿勢を明確に打ち出すよう説いていた. しか し政府の旧教弾圧が進むにつれ,カトリック聖職者たちも徐々に信徒たちが 国教会へ足を運ぶことに対して寛容な態度を取るようになり.1600年頃ま でには旧教信徒による英国国教会の礼拝への形式的参加を容認するように なったのである.ウォルシャムは カトリックでありながら国教会の礼拝へ と足を運ぶ人々,すなわちカトリック穏健派を指す用語としての Church papist"ということばが.1596年に,イエズス会士トマス。ライト (Thomas Wright)によって使用された例を挙げている(9 ).1おそらくこうした語が 使用されるようになった背景には,既に以前からカトリック穏健派の人たち の存在が確認され,一般的にそうした名称で呼ぴならわされていたことが推 測されるのである 2
4 カトリック穏健派と詩的想像力 サウスウェルとコンスタブルをめぐってー エリザベスの宗教政策を考えるなら,平民たちが定められた日に教会に集 い,礼拝に参加することは,国王至上法に従い国家への忠誠を誓う臣民とし ての務めに他ならなかった刑罰はあくまで国教忌避者を対象に施行され,
教会に通い,女王への絶対的服従を誓うカトリック穏健派を標的にすること はなかったのである.むしろカトリックの処刑は,その宗教的信条の故に行 われたことも事実であるが,同時に国家の敵であり現政権に対する潜在的反 逆者であるが故に執り行なわれたといえる.従って,初期近代のイングラン ドにおいて,教会へ通うことは宗教的行為であるとともに,きわめて政治的 な行為であったといえるであろう.
この時代には,国教徒を装うために教会に足を運ぶことそのものが罪とは ならないと説く匠名原稿がしばしば回覧されたという.チチェスターの副監 督の地位を剥奪され,サセックスのモンタギュー卿のお抱え司祭となってい たアルパン・ラングデ}ル (AlbanLangdale)は,国教忌避者たちをかく まう貴族たちの不安と動揺を鎮めるため,ただ教会に通い,形ばかりの礼拝 へ参列するだけであるなら罪にはならず,表面的に英国国教会に恭順の姿勢 を示すことは認められると主張していた財産の没収や世襲相続権の剥奪,
更には投獄や処刑といった厳罰を避けるためにプロテスタントを装うことは 問題ではないとし聖書の例を挙げて,キリストの弟子のニコダマスやアリ マテアのヨセフが神の国の到来を待ちつつ,巧みに体制側の捜索の手を逃れ たことを彼は説いた(Walsham51‑53).またハル(Hull)の属司教ロパートe
パースグラヴ (RobertPursglove)も,君主に対する世俗的な忠誠を示すた めだけならば,教会へ通うことは容認されるとの立場を取っており,カンパ ランドやウエストモーランドの聖職者たちも,カルヴイン主義の礼拝に信頼 を置くことさえなければ.教会の礼拝への参加は許されると民衆に語りかけ ていたのである (Walsham54).更に.1590年代初頭,ランカシャーのカ トリック聖職者トマス・ベル (ThomasBell)はラングデールやパースグラ ヴの主張を踏まえつつ,家族や地所を守るために体制側にあえて服従の姿勢
カトリック穏健派と詩的想像力一サウスウェルとコンスタブルをめぐって‑ 5 を示すことをカトリックの英雄的行為として賞賛する一連のパンフレットを 民衆の聞に広めたという
(Walsham5 6 ‑ 5 8 ) .
もちろんロパート・パーソンズ
( R o b e r tP e r s o n s )
やジョージ・ブラック ウェル( G e o r g e
Bla c k w e
ll)といったイエズス会のカトリック強硬派が,こ うした世俗的な意見を敵対視し民衆を惑わす邪説として非難を浴びせてい たことは事実である.しかし1 5 8 0
年代および1 5 9 0
年代においては,カトリッ ク信者が便宜的に国教会の礼拝に参列することが広範に容認されるようにな りつつあったことは否めない.だからといってカトリック教徒であるにもか かわらず,政治的理由からプロテスタントの礼拝に参加することの矛盾や葛 藤が人々の胸から解消されたわけではなかった.このカトリック穏健派の 人々の内なる葛藤に訴えかけたものこそ サウスウェルの詩であったのであ る.血.サウスウェルの宗教詩
カトリック復興のためにイングランドに潜入したイエズス会士としてはエ ドマンド・キャンピオン
(EdmundCampion)
やロパート・パ}ソンズが 知られているが,ロパート・サウスウェルもまたヘンリー・ガーネット( H e n r y G a r n e t t )
とともに,1 5 8 6
年,極秘のうちに英国へ上陸した1 5 9 1
年, イングランド当局はカトリック教徒への罰則強化命令を出し翌年の1 5 9 2
年6
月2 6
日に,サウスウェルはリチヤード・トプクリフ( R i c h a r dT o p c l i f f )
の手によって逮捕され投獄された獄中生活においてサウスウェルに与えら れたものは,聖書と聖ベルナルトの作品だけで¥ベンも紙も許されなかったことから,彼の作品はすべて彼の逮捕前に書かれたものとされている.
生前のサウスウェルの作品は,印刷としてではなく原稿の形で回覧され,
宮廷や大学においてかなりの評判を呼んで、いたという.彼の処刑前や処刑直 後の時期に,かなりの数の読者を想定することのできうる書物としてロンド
6 カトリック穏健派と詩的想像力一サウスウェルとコンスタブルをめぐってー ンの書籍商の聞で出版企画が進められたことも,この事実を裏付けるもので ある.おそらくこうした企画は,サウスウェルの手書き原稿を目にする機会 に恵まれなかった者たちゃ,宮廷や大学に属さない一般読者 (non‑elite readers)に向けての出版・販売を意図したものであったのであろう.サウ スウェルの『聖ペテロの嘆き
J
(8αint Peters Complaint)は,彼の処刑の 行なわれた1595年だけでも三つの版が出ている.うち二つはジョン・ウル フ (JohnWolfe)の出版によるもので,もうひとつはガブリエル・カウッ ド (GabrielCawood)によるものである.ウルフの出版が最も早いものの ようだが,相次ぐ出版の背景には原稿の獲得競争があったようで,ここから もサウスウェルの原稿に対する関心の高さがうかがわれる.また出版業者た ちは,様々な策を講じて,当局との衝突を避けようとしていた形跡が見うけ られ,カトリック色の極めて強い聖母マリア CVirginMary)に関わる題材 の詩は,後になってジョン・パズ、ピー (JohnBusby)により『聖ベテロの 嘆き』の補遺であるMαn胞の中で発表されている.検閲の動きは鈍く,原 稿は国教忌避の証拠としてジョン・ボルト (JohnBolt)に提出されたにも かかわらず,ガブリエル・カウッドによって1595年4月5日に書籍出版登 録が行なわれている.またそれ以前にウルフは教会側の出版許可を得ていた らしいことも知られている.出版された詩集は好評で.1596年.1597年, 1599年.1600年.1602年.1605年と版を重ね.1595年から 1640年のおお よそ半世紀の閑に13版が印刷され,補遣は3版が刷られた.おそらくサウ スウェルの詩は,カトリック穏健派の読者を中心に,多くのプロテスタント の読者までをも獲得したものと思われる (Shell61‑63).何故サウスウェルの詩がカトリック穏健派をはじめプロテスタントの読者 の関心を集めることができたのか,という問題は興味深い.1545年から47 年のトリエント公会議が悔俊の秘蹟の有効性を強調して以来 (Doctrineof Contrition) .新約聖書の中に描かれたベテロの悔俊とマグダラのマリアの 悔俊という二つのエピソードはイタリア宗教詩の二大テーマとなった.イタ
カトリック穏健派と詩的想像力一サウスウェルとコンスタブルをめぐって一 7 リアの詩人ルイジ・タンシルロ (LuigiTansillo)の『聖ピエトロの嘆きj(Lα La
g r i m e d i
,Sαn P o e t r o )
や,エラスモ・ヴァルヴァソン (ErasmoValvasone) の『マグダレナの嘆き j( L
αLα: g r i m e d o l l
αMαdαl e n
α, 1530).ジョゼッベ@ポリクレティ (GiuseppePolicretDの『マダレナの改心j
( L
αc o n v e r s w n e diM
αdd
αl e n
α1588)など,これらのエピソードに着想を得た作品が,次々 に生み出された.こうしたイタリアの流行を,イングランドへ伝えたのがサ ウスウェルである(吉田 45).プロテスタントにとって新約聖書は,詩の題材としてあまりにも神聖であ るばかりか,特にゴスペルと呼ばれるマタイ,マルコ,ルカ,ヨハネの書は,
偶像崇拝であるとの批判を引き起こしやすいため,詩の中に取り入れられ誼 われることはなかった.カルヴイニストは,情熱的な物語を推奨しないため,
ベテロやマグダラのマリアの嘆きは,取り上げ難い話題であったことも事実 である. しかしサウスウェルは,ベテロやマグダラのマリアを語り手として 使いつつ,機悔の主題を描き出していることから,詩の中で道徳的要素が強 調され,プロテスタントたちの真正面からの攻撃を回避することができたの であろう.
またサウスウェルが,当時流行していた世俗詩 (secularpoems)を批判し,
人々の関心を宗教詩 (sacredpoetry)に向けようとしたことは,彼の詩の 特徴としてしばしば指摘される点である (Shell67).サウスウェルは,詩 が神への愛を讃えることを素材とせず,世俗の愛を聖なる愛であるかのごと
くに除え,これを崇めることを真正面から非難した
Poets by abusing their talent, and making the follies and fayninges of love, the customary subject of their base endevours, have so discredited this facultie, that a Poet, a Lover, and a Liar, are by many reckoned but three words of one signification. But the vanity of men, cannot counterpoyse the authority of God,
8 カトリック穏健派と詩的想像力一サウスウェルとコンスタブルをめぐ、ってー
who de1ivering many partes of Scripture in verse, and by his Apost1e willing us to exercise our devotion in Himnes and Spirituall Sonnets, warranteth the Arte to bee good, and the use al1owab1e.
(Poems in Manuscripts "The Author to his 10ving Cosen,"
McDona1d 1)
サウスウェルは,巷にあふれる世俗詩の流行を軽蔑しむしろ詩作をとおし て神への信仰を表現すべきであると主張したのである.
こうした観点から,サウスウェルは聖書の人物を語り手とするイタリア詩 の流行に倣って戻を誘う長詩(long1achryma1 e1egy)というジャンルを イングランドに紹介した.聖書の中の人物の嘆きを表現しながら,主人公の 感情に読者の感情を重ね合わせつつ,やがて抽象化された悔恨そのものが,
真理に関する眠想へと繋がるあたりが,サウスウェルの特徴といえるであろ
っ .
How can I live, that have my 1ife deny'de? What can I hope, that 10st my hope in feare?
羽市attrust to one that trewth it se1f defyde? What good in him that did his god forsweare?
Iftyrans b100dy thretts had me dismay'd: Or smart of cruell torments made me ye1de, There had bene some pretence to be afray' de, I should have fought before I 10st the feilde. But 0 infamous foy1e: a maydens breathe
Did b10we me downe, and b1ast my sou1e to death. (Poems in Manuscripts Saint Peters Comp1aynte," McDona1d 29)
カトリック穏健派と詩的想像力一サウスウェルとコンスタブルをめぐって‑ 9 詩行の中では,些細な出来事からキリストを裏切ったベテロの苦悩が窺われ
る.更に詩行に詠われたマグダラのマリアもまた自らの苦悩を口にする.
Remorse doth teach my guiltie thoughts to know,l How cheap 1 sould, that Christ so dearly bought.lFau1ts long unfelt doth conscience now bewraye,l Which cares must cure, and teares must wash awayeぶ"(Poems i
出nManuscripts Ma町ryMa昭gd白ale凶nlSbl山ushλ"M壮1cDo叩na叫ald32勾).これらの詩行か らは,キリストに対する自らの裏切りについてのベテロやマグダラのマリア の葛藤が窺われる.そしてこうした彼らの悔恨が,体制側の摘発を恐れて自 らの信仰を公にすることができないカトリック穏健派の人々の苦悩と重ね合 わされる部分があったことは容易に想像できる.同時に,カトリック穏、健派 のみならずプロテスタントたちにとっても,聖書のエピソードに基づいた詩 的想像であり,聖者としてではなく,罪深い人間の苦悩の表現として共鳴で
きる部分があったことが推測できるのである.
サウスウェルの詩は,多くの読者をつかんだばかりでなく,他の詩人たち にも影響を与え,彼の主題を模倣する者が, 1590年代後半,数多く登場した.
ニコラス・ブレトン (NicholasBreton)のMαrieMαgαdαlensLove (1595), W.ブロクサプ(W.Broxup)のStPeters pα,th to the Joys of Heaven (1598), サミュエル・ロウランド (SamuelRowland)のTheBetrα:ying of Christ (1598) ,ガ」ヴェズ・マーカム (GervaseMarkham)のTheTeαrs of the Beloved: Or, the Lαmentαtion of Sαint John (1600), Mαrie Mαgdαlens Lαmentαtions (1601), G.エリス (G.Ellis)のTheLαmentαtion of the Lost Sheepe (1605)などはすべて,サウスウェルの影響のもとで執筆され たと考えられる.これらの作品は,内面化された嘆きと新約の最初の4書か らの登場人物,ベテロ,マグダラのマリア,ヨハネらの後悔を表現している.
そしてこれらのほとんどが,プロテスタントの手になる作品であり,
I
嘆き j (lamentation)という主題が,そして人間の罪深さの自覚という主題その ものが,カトリックとプロテスタント双方に受け入れられたことの証といえ10カトリック穏健派と詩的想像力一サウスウェルとコンスタブルをめぐってー るだろう.サウスウェルが宣教師詩人 (missoinarypoet)であり,限られ た読者のためだけに創作したという考えは誤りであって,彼の序文を読めば,
サウスウェルが他の詩人やカトリックでない者にも受け入れられるよう,広 く読者に向けて創作していることが窺える.詩的想像力においては,たとえ 作者が国教忌避者のカトリック殉教者であろうと,カトリック穏健派をはじ めプロテスタント読者の共感を呼び起こし人々に受け入れられるであろう ことを,サウスウェルは予想していたと思われる.
N司コンスタブルのソネット
サウスウェルの影響を受けた詩人のひとりに,国教徒からカトリックへと 転向したヘンリー・コンスタブルがいる.若き日のコンスタブルは,プロテ スタントとして,パリでフランスの新教徒であるユグノ一派擁護のパンフ レット ExamenPacifique de 1αDoctrine des Hugunotsの執筆を手がけたり もしたといわれている 3しかしコンスタブルは,
1 5 8 9
年もしくは遅くとも1 5 9 0
年までにはカトリックへと改宗し,1 5 9 1
年にこれを公にした.1 5 9 1
年 の夏遅く,エセックスの遠征軍に加わってフランスに渡った彼は,その地で カトリックであることを公言したという 4カトリック亡命者や追放者の直面 する問題は,カトリック勢力に組みする外国とプロテスタントを国教とする 祖国のどちらに忠誠心を抱くかという問題であった.この点についてコンス タブルは親交のあったエセックス伯爵への手紙の中で明快に自分の立場を言 明している. Though1 am passionately affectionated to my Religion. Though 1 am not in the number of those which wish th restituition thereof with the servitude of my country to a forrein Tyranny"(Grundy 37).コンスタブルは,たとえ自分がカトリック信仰を表明しようと,エリザ ベスに対する忠誠心を失ってはいないことを断言している.ここからカトリック勤皇主義としての彼のイデオロギー的立場を窺い知ることができる
カトリック穏健派と詩的想像力ーサウスウェルとコンスタブルをめぐって 11 が,こうした彼の姿勢がカトリック穏健派の人々の政治・宗教的立場と共鳴 するものであったことは充分納得のいくところである 5
コンスタブルのソネット集『デイアナj(Diαnα)の出版は, 1592年のこ とであるが,おそらく彼の宗教詩 (spiritua1poems)は,彼の改宗の後,
1592年ごろまでの聞に書かれたのではないかとコンスタブルの詩集の編者 ジョーン・グランデイ (JoanGrundy)は推測している (Grundy50与9).
詩集『デイアナ』では,自らの行いのせいで女王のもとを去らねばならなかっ た詩人の捧げる詩作品を,再び受け入れてもらうよう嘆願する姿勢が印象的 である.
Seuer勺fromsweete Content, my liues sole light; Banisht by ouer‑weening wit from my desire: This poore acceptance one1y 1 require,
That though my fau1t haue forc'd me from thy sight; Yet that thou wou1dst (my sorrowes to require)
Review these Sonnets, pictures of thy praise; Wherein each woe thy wondrous worth doth raise, Though first thy worth bereft me of de1ight.
(To his absent Diana," Grundy 109) 更にコンスタブルが,完壁無比な女王の存在を讃え,それが故に「地獄の苦
しみを,いや煉獄の苦痛」を与えるのだとカトリック的詩的想像を重ねてい る点は興味深い.
Most sacred prince why shou1d 1 thee thus prayse Which both of sin and sorrow cause hast beene Proude hast thow made thy 1and of such a Queene Thy neighboures enviouse of thy happie dayes.
12カトリック穏健派と詩的想像力ーサウスウェルとコンスタブルをめぐってー
Thus sin thow causd envye 1 meane and pride Thus fire and darknesse doe proceed from thee The very paynes which men in hell abide Oh no not hell but purgatorie this
Whose sowles some say by Angells punish'd be For thow art shee from whome this torment is.
(To the Queene touching the cruell effects of her perfections," Grundy 138)
信仰は違えども,女王への忠誠と祖国に対する愛国心は変ることのない彼の 心情は,カトリック穏健派たちの心情と見事に共鳴するものであろう.そし て彼の詩には,君主への忠誠心と個人の信仰の問題が混在した形で描き出さ れている点は特観的である.
Such as retyr'd from sight of men, lyke thee by penance seeke the ioyes of heaven to wynne;
in desartes make theyr paradyce begynne: and even amonge wylde beastes do Angells see. In such a place my sowle doth seeme to bee
when in my body she laments her synne: and none but brutall passions fyndes therin, except they be sent downe from heaven to mee.
(To St Mary Magdalen," Grundy 191‑192) 彼の宗教詩には,サウスウェルの影響が色濃く見られる.サウスウェルの詠 んだマグダラのマリアを題材にしながら,自分自身の境遇を彼女の嘆きに重 ね合わせていることが窺える.女王への忠誠を誓いながらも自らの信仰の故 にあえて荒涼たる異国の地で天上の至福を見出そうとする詩人の姿に,カト
カトリック穏健派と詩的想像力一サウスウェルとコンスタブルをめぐって‑13 リック穏健派は共感を覚えたに違いない.そしてこうした主題は,カトリッ ク穏健派のみならずプロテスタントたちにとっても充分理解できる個人の内 的葛藤であったのではないだろうか.
コンスタブルは同時代人にとっては時代を代表する詩人と考えられていた (Grundy 59‑70). 1591年にシドニー(Sidney)の『アストロフェルとステラ』
(A8trophelαnd Stellα)が出版され,ソネットの流行が始まっていくのであ るとすれば, 1592年に出版されたコンスタブルの『デイアナ』は,ソネッ
ト・ブーム初期の詩集のひとつということが出来るであろう.コンスタブル の詩の収められたtheHarington and Marsh MSSの存在を考慮すれば,同 じく 1592年に出版されたサミユエル・ダニエル (SamuelDaniel)のソネッ ト集『ディーリアj(Delia)との類似性も,むしろダニエルがコンスタブル に影響を受けた可能性を指摘することができるかもしれない.
またシェイクスピアやドレイトン (MichaelDrayton)がコンスタブ、ルの ソネットを知っていた可能性も指摘され,特に1594年に出版されたドレイ トンの『アイデイアの鏡j(Idea '8 Mirrour)には,明らかにコンスタブル の影響が見られるとされている.その他,パーンズ (Barnes),パーンフィー ルド (Barnfield),グリフィン (Griffin)などの詩人にもコンスタブルは影 響を与えたという (Grundy63). コンスタブルに対して寄せられた同時代 人の賞賛といえば,やはりジョンソン (Jonson)が彼の『下生えj(Under‑ Woods)の AnOde"において,コンスタブルをシドニーとならび称する 詩 人 と し て 寄 せ た 賛 辞 と い う こ と に な る で あ ろ う Hathnot great Sydney, Stella set,l Where never Star shone brighter yet?1 Or Constables Ambrosiack Musel Made Dian not his notes refuse?" (XXVII, 25‑8) (Herford VIII 238).ジョンソンばかりか, ドレイトンもまたコンスタブル をシドニーとともに賞賛している. Manythere be excelling in this kind,l Whose well trick'd rimes with all invention swell! Let each commend as best shalllike his minde,l Some Sidney, Constable, some Danielf' (Hebel
14カトリック穏健派と詩的想像力一サウスウェルとコンスタブルをめぐってー 1 485).国教忌避者であるにもかかわらず,コンスタブルの詩は多くの読者 を獲得し,他の詩人たちにも読まれ,評価され,模倣されたらしいことがわ かる.サウスウェルとともに,コンスタブルの創造した詩的世界は,カトリッ ク穏健派の心情を代弁したばかりでなく,それとともにプロテスタントの同 情や共感もまた勝ち得たといえるであろう.
v .
結びイングランドにおけるカトリック復興を願ってイングランドへ潜入しや がて殉教したサウスウェルの詩は,多くの読者の目に留まり,更に出版もさ れて,他の詩人たちに多大な影響を与えた.また国教を忌避し大陸に逃れ たカトリック改宗者ヘンリー・コンスタブルは,サウスウェルの詩における べテロやマグダラのマリアの主題に影響を受け,同時に女王に対する忠誠を 表明することにより,本国のカトリック穏健派のみならず,プロテスタント たちの関心も集めることに成功していたように思われる.これらカトリック 詩人たちの詩的想像力は両派の宗教的確執を越えて,ある程度共有されえた ものではなかったか.カトリック穏健派もプロテスタントも,共に同じよう な読者体験を共有し,そこでは自らの内的信仰の問題と王権への忠誠心とい う主題に共鳴しえたのではないだろうか.それは政治イデオロギーや個別の 宗教イデオロギーを超えたところに結ぼれる,文学的地平であったと考えた い.こうした観点からすると,サウスウェルやコンスタブルらは,カトリッ ク穏健派と心の粋を結ぶことに成功しそればかりかそれぞれの信ずる信仰 はプロテスタントたちと違えど,彼らと同じ詩的想像の世界に生きえたよう に思われる.そしてその詩的想像の世界を,その時代を生きた人々もまた共 有していたと思われるのである.時期を同じくして,アンソニー・マンデイ
( A n t h o n y Munday)
を中心とする劇作家たちの合作によって『サー・トマス・モア』が書かれたことや,エセックス伯爵がカトリック信者たちとの交流を
カトリック穏健派と詩的想像力一サウスウェルとコンスタブルをめぐってー 15
続 け て い た こ と , 更 に は シ ェ イ ク ス ピ ア が カ ト リ ッ ク 信 者 で あ っ た の で は な いかという憶測も,こうした時代の流れの中で説明されるべきものであろう 6 カ ト リ ッ ク か プ ロ テ ス タ ン ト か と い っ た 作 者 の 宗 教 的 ア イ デ ン テ イ テ ィ を 問 う ば か り で は , 近 代 初 期 の 文 学 的 想 像 力 の 世 界 は 語 り き れ な い の で は な い だ ろうか.
注
1Some call them Churche‑papistes, other Scismatiques . . . demi‑catholickes, or catholique‑like protestant剖,or external protestantes, and internall catholikes."
2ウオルシャムは,OEDによれば Churchpapist"の初出は1601年であるが,既に 1582年にGeorgeGiffordのDiαloguebetweenαPα:pistαndαProtestαntの中で使 用されていることを指摘している.彼女は おそらく印刷されたものとしてこの語 が登場する以前から,会話の中では使用されていたはずであると推測する
3このパンフレットExαmenPacifique de 1αDoctrine des Hugunotsは, 1589年に匿 名で出版され,その後TheCαtholic Moderαtorの題名で英訳出版された
4彼の告白をめぐっては,当時の友人の生々しい証言が残されている. (Constable) spake very broad in the maintenance of the Popish religion at a supper in Sir Roger Williamぶchambers,and that, fearing lest he should be sent back into England, he took his horses the next morning and rode away" (Grundy 34).
5カトリック亡命者や追放者の直面する問題は,スペイン国王フェリペ (Philip)に 対する態度であったと思われる.フェリペは,ヨーロッパ最大のカトリック国王で あることに相違ないが,イングランドの敵であることもまた否めない事実である.
当然のことながら,反スペイン主義を標携する者たちは,スコットランド支持派と ならざるを得なかった.スコットランドのジェームズはカトリックではなかったが,
カトリック信徒に対して寛容な態度を示す可能性があった. (スペイン王に対抗で きる勢力としてフランスと組みする可能性もあったと考えられる.)またカトリッ ク亡命者や追放者たちは,イエズス会にたいして,彼らがスペイン勢力と結びつい ていることから敵対姿勢も示していた.コンスタブルはこうした状況のなか,最善 の方法としてジェームズに接近し,カトリシズムへの改宗を薦めている もちろん ジェームズにとっても,事柄はそれほど単純で、はないため,この会見は失敗に終わっ ている.
6マンデイが隠れカトリックであった可能性をHamiltonは彼女の著書Anthony Mundαyαnd the 0αtholics, 1560目1633.の中で力説している.またEssex伯爵は,
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1593年に国境忌避者SirThomas Treshamの釈放に手を貸したとされ,後の裁判 でカトリック擁護を糾弾された.更に近年シェイクスピアが隠れカトリックであっ たと主張する研究警が注目を浴びている.Richard Wilson. Secret Shαkespeαre: Studies in Theαtre, Religionαnd Resistαnce.などはその急先鋒であろう
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