中華人民共和国映画史における戯曲映画の系譜
阿 部 範 之
はじめに
中華人民共和国の映画状況に関心を持つ者にとって、文化大革命時期(以 後「文革期」と称す)の映画界が、政治的な制約によって自由な創作の道を ほぼ閉ざされていたことは周知の事実であろう。しかし、「文化大革命の十 年間には映画はほんの数本しかつくられていない」1、「文革の十年には『白 毛女』や『沙家浜』をはじめ、革命模範劇(革命様板戯)と呼ばれる八本の 京劇とバレエの映画化以外に、数本の劇映画しか製作されなかった」2という のは誤った理解に他ならず、ここで正しておきたい。確かに1960年代後半に は一部の記録映画などを除き製作は停止したが、舞台芸術を映像化した映画 が1970年以降次々と製作され(その数は数十本に上り、京劇、バレエ以外に よるものも含まれる)、さらに劇映画の製作も再開され、1973年以降未公開 作を含め約60本が撮られたことは資料からも明らかである3。そして、さら に文革期のフィルムについて言及するならば、特異性を強調するばかりでな く、かつて拙論で述べたように、前後の時期との映画史的な連続性にも目を 向けるべきではないか4。例えば、模範劇映画と呼ばれる、文革期を代表す る一つの映画ジャンルの嚆矢となった『智取威虎山』(謝鉄驪監督、1970年)
5は、「観客の視覚に訴える確固とした映像を打ち立てることで、新しい中国 映画の形を呈示してみせた」6作品として、「政治第一、芸術第二」に代表さ れる建国以降の政治至上の映画芸術観の一つの帰結、ピークとして捉えるべ きであろう。文革期の政治状況が特殊なものであり、その映画界への影響が 強烈なものであったことはもちろんだが、しかしそうした映画の周囲にある 状況にのみ依拠して判断を下すならば、その時代のフィルムが本来備えてい
『言語文化』13-4:415−442ページ 2011.
同志社大学言語文化学会 ©阿部範之
るところの意味を取り逃がす恐れがあるのではないか。このように以前私は、
映画史的な連続性を無視するような言説に対して異議を唱える目的のもと、
論述を行った。ただし紙幅の関係もあり、周到な議論を尽くすことができな かったのは、劇映画とは異なる「戯曲映画」というジャンルを巡る問題であ る。模範劇映画は、革命現代京劇やバレエなど、文革期に盛んに称揚された 模範劇という舞台上演用の演目を映像化したものであり、当然ながら劇映画 とは異なる性格を持つ。しかしそうした形態のフィルムは、文革期に突然現 れたものではない。1970年代までの中華人民共和国の映画界において、伝統 演劇を映像化したいわゆる戯曲映画は一つのジャンルとして確立し、多くの 観客を集める一方、同時代の劇映画とも興味深い関係を保っていた。本稿で 注目したいのは、この戯曲映画の系譜、中国映画界における位置についてで ある。
アメリカ、日本、フランスなど、他の地域の映画産業と同じく、中国映画 においても劇映画がその中心的地位にあることに変わりはない。ただし中国 の劇映画の歴史はまさに、国内外の政治社会情勢に大きく左右され、常にそ の干渉を受け続けてきた過程でもある。特に社会主義政権が誕生すると、新 しい創作モデルが求められ、労働者、農民、共産党軍兵士といういわゆる「労 農兵」を主人公とする内容のフィルムが劇映画の多くを占めることになる。
それまで中国映画産業を支えてきた私営映画会社は1950年代初めまで存続し たが、『武訓伝』(孫瑜監督、1950-51年)批判運動以降国営化の道をたどり、
建国以前に活躍し、香港などに移らず、大陸に残った映画人たちの多くも国 営撮影所に所属することになった。彼らの中にはその後も引き続き映画製作 に携わるものも多かったが、政治的な批判を受け、実作から退く者も少なく なく、さらには迫害を受けて非業の死を迎える者もいた。そうした映画史的 背景をもとに戯曲映画に目を移し、1950年代から60年代にフィルムを撮った 監督たちの陣容を眺めてみれば、興味深いことに、呉永剛、孫瑜、応雲衛、
楊小仲、陶金、石揮、徐蘇霊、桑弧など、建国以前から私営映画会社で活躍 してきた監督や俳優たちが非常に多いことに気づかされる。これに関して『中 国戯曲電影史』は、中華人民共和国建国後、「労農兵という新しい人物を描 くことが普遍的に求められる中で、ベテラン芸術家たちは、芸術実践におい
て一定の困難を抱えることとなった」、「彼らには新しい時代の精神の理解や 認識において確かに限界があった。このため戯曲映画は彼らが時代精神を学 び、新しい芸術方法を学び、映画芸術の実践を行う上で最も良い選択となっ た」という見解を示し、文芸政策の変化が激しく、次々と批判運動が展開す る状況下で「戯曲映画を撮ることは、政治的な保険としての一定の意味を持っ た。政治的に攻撃を受けた映画監督の一部にとって、戯曲映画などが、彼ら に撮影の任務が与えられる映画のジャンルとなった」と述べている7。この ように建国以前の「伝統」を築いた多くの経験ある映画人たちが、伝統演劇 と映画との接点を探る創作に携わったことは、当時の映画史を考える上で注 目すべき現象ではないだろうか。
その実例については第2節で言及するが、それと関連してさらに注目すべ きは、戯曲映画は、当時の映画製作の一翼を担い、多くの観客を集めながら、
革命や戦争、社会主義建設などを中心としていた劇映画とは距離を置くよう な内容を描くことが、いわば特権的に認められていた点である。当時の中国 では、政治イデオロギーが強化されていたとともに、民族伝統も重要視され ており、そうした背景のもと、戯曲映画は、限られた範囲の中ではあるもの の、政治的メッセージが強調される劇映画とは異なる内容を伝えるメディア ともなっていたのである。しかし中国映画史研究において、そのことの持つ 意味が十分検討されてきたとは言えない。
本稿は、こうした問題意識のもと、中華人民共和国建国以降の戯曲映画に ついての研究の端緒として、その初期から模範劇映画へと到る道のりを確認 し、その中国映画史的意義について検討していきたい。
1. 中国映画の一ジャンルとしての戯曲映画
中国語で戯曲という場合、通常は歌舞を中心とした崑曲や京劇などの伝統 演劇、さらに同様の形式を持つ各種の地方劇など中国発祥の演劇の総称とし て用いられることが一般的であり、本稿でもこの意味で用いることとする。
では戯曲映画とはどのようなフィルムを指すのか。ここでは例として『電影 芸術詞典』(修訂版)の説明をまずは見てみたい。
中国の民族戯曲と映画芸術形式を結び合わせた映画のジャンルの一 つ。1905年、中国で最初に撮られた作品は戯曲映画であり、有名な京 劇の老生の役者である譚鑫培が演じる『定軍山』の一場面を映像化し たものであった。1931年、中国で最初に撮られたサウンド映画である
『歌女紅牡丹』の主要な音声は、京劇『玉堂春』『穆柯寨』など様々な 戯曲の一節を集めたものであった。1948年、中国で最初に撮られたカ ラー映画作品は、梅蘭芳が主演した京劇『生死恨』であった。中華人 民共和国建国後、国営撮影所が初めて製作したカラー映画作品は、
1954年の越劇映画『梁山伯与祝英台』であった。舞台記録映画と異な るところは、戯曲映画は舞台の枠を突破することに努め、セットや実 景を取り入れ、戯曲芸術の表現手段と映画芸術の表現手段を結びつけ、
戯曲芸術の特徴を保持した上で、映画芸術の表現手段の特徴を発揮す る点にある。例としては『野猪林』(京劇)、『紅楼夢』(越劇)などが 挙げられる。8
世界的に見て、演劇の演目は、映画の有力な題材として創成期以来数え切 れないほど繰り返し取り上げられてきた。劇映画に翻案されるケースほどで はないにしろ、演劇の上演形態に近い形で映像化することも実際には珍しい ことではない。例えば日本映画でも、初期から『紅葉狩』(1899年)のよう に歌舞伎舞踊を撮った作品があるし、トーキー時期にも小津安二郎が『鏡獅 子』(1935年)を撮り、海外向けに六代目尾上菊五郎の歌舞伎舞踊を記録、
紹介している。さらに今日でも松竹は、「シネマ歌舞伎」と銘打って、歌舞 伎の映像化を次々と行っている。また建国後の中国映画に多大な影響を与え たソ連映画においても、舞台の上演を映像化したものだけでなく、スタジオ あるいはロケでの撮影を行ったものも含め、バレエの演目を扱った作品が多 数作られている。しかし中国映画史をめぐる言説では、戯曲を映像化したも のの総称としての戯曲映画を中国独特の映画ジャンルとする見方が根強い。
例えば『中国戯曲電影史』も、「戯曲映画は中国映画特有のジャンルの一つで、
もっぱら中国の戯曲の上演を撮影の対象とし、中国独特の戯曲芸術の魅力を 表し、中国戯曲を演じる大家の芸の世界や優れた中国戯曲の演目を記録し、
中国悠久の民族演劇の伝統を発揚することに力を注ぐものである」9という説 明から始まり、その独自性を疑わないが、実際のところ、中国の戯曲映画全 体から、歌舞伎やバレエ、オペラなどを映像化した他国の同様の作品とはっ きり区別できるような映像上の特徴を示すことは難しい。ただしそのことを 批判することが本稿の目的なのではない。中国において、戯曲映画の範疇に 含まれるようなフィルムが長年製作され、中国映画内において映画の一つの ジャンルとして定着し、多くの観客を集めたことは紛れもない事実であり、
そのことは伝統芸術である戯曲が、文化、芸術である以前に、娯楽として大 衆に親しまれ続けてきたことの証左でもあろう。
ただし、例えば『中国電影』1959年第6期の戯曲映画の座談会についての 特集の中で、「建国後の十年来、これほど多くの戯曲映画が撮影されたことは、
まさに大変な成果である。これは戯曲の歴史においても、映画の歴史におい ても新たな事であり、そのことは芸術遺産に対する党の政策を我々が実行す ることでこうした新しい変化が生まれたことを意味する」10という発言があ るように、戯曲映画という様式そのものへの関心が強まり、毎年一定量の作 品数が送り出されるようになるのは中華人民共和国建国以降のことである。
この点には注意を払う必要があるだろう。先に少し触れたように、社会主義 政権の誕生を機に中国映画界は変革を迫られ、それまで根強かったハリウッ ドなど西洋映画の影響をできるだけ排除しつつ、時にソ連の映画に学びなが ら、独自の方向性、いわば民族形式の創出を目指すことになった。そうした 意識の高まりの中で、伝統演劇は劇映画にとって参照すべき一つの鑑として 脚光を浴びることにもなったが11、さらに戯曲映画という様式もまた、政治 的な問題を直接指摘しにくいジャンルとして、中国映画の一翼を担うに至っ た。もちろん映画界に変革をもたらした社会主義政権の誕生が、伝統演劇の 側に何の影響ももたらさなかったはずはなく、「新中国」の誕生によって、
戯曲の世界も変革を余儀なくされ、制度改革や俳優らの意識改造などのほか、
封建的な内容や荒唐無稽なものが含まれた旧来の演目の整理、改編も積極的 に行われていた。映画界は、そうした演劇界の動向を承けて、政治的に許容 可能と判断されるに至った演目を選び、時に有名役者の芸を保存するという 目的も掲げながら、伝統演劇の映像化を進めていったのである12。
1953年以降、戯曲映画は、建国後に整理、発掘された演目のほか、新たに 編まれた歴史戯、現代の内容を伝統演劇の形式で描いた現代戯を映像化した ものなども含め、1966年までの14年間で120本あまり製作された13。映像化 される演目は、古典から現代ものまで非常に多様で、劇種(伝統演劇、地方 劇の種類)も京劇、越劇など代表的なものに限らず、様々な地方劇も含まれ るなどバリエーションは幅広く、戯曲映画の枠に収まらないようなもの、例 えば話劇、歌劇など、戯曲以外の演劇様式による同様のフィルムも登場した。
作品数、及び取り上げられる劇種の急増は、明らかに建国以降に生じた現象 である。
映画創成期以来築かれてきた戯曲と映画の強い結びつきは、このように社 会主義政権下でも続き、ある意味深化したとも言えるが、ただし建国前後に おいて、様式そのものとして戯曲映画それ自体に決定的な変化があったと言 えるかどうかは難しい。中華人民共和国建国以前に関しては、フィルムの多 くは現在失われたままで、その全容を知ることはできないが14、「40年代末 と50年代初め、香港で戯曲映画の製作が行われ、白沈は香港で戯曲映画を数 本撮影している。だから中国民族の映画の連続性という観点から見れば、戯 曲映画の撮影はずっと中断することなく続いたと言える」15という指摘もあ る。実際、現在もフィルムが残る『生死恨』(費穆監督、1947年)などは、
演劇としての原型を残し、比較的忠実に再現した部分が多いのは確かだとし ても、舞台公演をそのまま記録したものではなく、編集などの映像技術を取 り入れ、何度もの取り直しを経て完成したものである16。中華人民共和国建 国後のフィルムとの違いがあるとしてもそれは相対的なもので、カメラワー クや現像など技術的なレベルのものに止まるのではないか。建国後に製作さ れた戯曲映画作品は今でもその多くを見ることができるが、ある程度共通す る特徴として指摘できるのは、舞台ではなくスタジオで撮影されていること、
そして短編などを除いて、大半が忠実な再現ではなく、舞台で上演される演 目から一部の場面やセリフ、歌などを省略し、さらに編集など映画的処理も 行い二時間程度の内容にまとめられていることなどであろう。さらに蔡楚生 の分類によれば、建国後の戯曲映画の創作は三つの性質のものがあるという。
一つは、『蓋叫天的舞台芸術』(京劇;白沈監督、1954年)、『雁蕩山』(京劇;
岑範監督、1957年)などのように「純粋に舞台演出を記録する表現方法」、
二つ目に『梁山伯与祝英台』、『洛神』(京劇;呉祖光監督、1956年)、『十五貫』
(崑曲;陶金監督、1956年)などのように「戯曲表現の伝統的スタイルと映 画表現の特徴を結合させたやり方」、もう一つは『小姑賢』(評劇;林農監督、
1953年)、『花木蘭』(豫劇;劉国権・張辛実監督、1956年)などのように「両 者の中間状態にあり、舞台の枠は突破しているものの、不徹底で、もともと の表現形式の痕跡を若干留めているもの」である17。三つの違いは相対的な ものではあるが、建国後の戯曲映画がすべて一貫した形式のもとに製作され ていたわけではないことは、こうした分類からもうかがい知ることができる。
実際、当時戯曲映画製作に従事した映画人たちは、それぞれ苦心を重ね、そ うした新しい課題に取り組み、様々なアプローチを試みたのである。次節で は、実際の作品を例に、戯曲映画の創作実践のあり方について見ていきたい。
2. 中華人民共和国建国後の戯曲映画
国営の映画撮影所によって戯曲映画が作られ始めた時期の代表作『梁山伯 与祝英台』は、1952年10月の全国戯曲観摩演出大会で京劇「白蛇伝」(田漢 改編)とともに上演され、「伝統演目の整理改編の二つの大きな成果」18の一 つとして語られる越劇「梁山伯与祝英台」(袁雪芬・范瑞娟口述、徐進執筆)
を映像化したものである。同時期、スタジオとおぼしき場所に舞台劇同様簡 単に組まれたセットの中で、嫁に対して厳しい態度を取る母親を娘などが一 芝居打って戒めるという家庭内の物語を描いた『小姑賢』といった小品も作 られていたが、国営撮影所初のカラー作品である『梁山伯与祝英台』は、よ りスケールの大きな力作である。
監督を務めた桑弧によれば、この作品の製作を提起したのは、1952年当時、
上海の文化関連の業務を取り仕切っていた夏衍であるという。当時、華東越 劇実験劇団に属していた徐進が舞台公演用の脚本を元に映画用の脚本(電影 文学劇本)の初稿を仕上げ、それに基づき1953年前半にリハーサルやカット 割り、美術の準備、及びカラーフィルムの撮影と現像の技術的試験が行われ た。この作品に対しては周恩来ら有力政治家も関心を示しており、桑弧も次 のように述べている。「周総理は撮影状況について詳しく尋ね、舞台の『梁
山伯与祝英台』は三時間以上上演時間が必要だが、これは映画にとっては長 すぎ、それが間違いなく負担となることを理解されていた」。周は、プロッ トの一貫性を考慮した上で脚本についてのアドバイスをし、結局そうした提 案は実際に取り入れられることになったという19。約二時間の作品として フィルムが仕上がったのは1953年の終わりであった20。
既に触れたように、国営の映画撮影所は私営映画会社の作品群とは異なる 方向性を目指し、劇映画製作においても、戦争や社会主義建設に関わる作品 が大半を占めることとなった。建国以前にスクリーンをにぎわせていた男女 の恋愛を巡るプロットは、『白毛女』(王濱・水華監督、1950年)が「悲劇的 な運命を背負わされた女性が最後に救われ、愛する人と結ばれるまで」21を 軸とするメロドラマ形式を階級闘争と絡めて展開しているほか、『児女親事』
(杜生華監督、1950年)など主に農村を舞台に、婚姻法を謳い、自由結婚に 反対する親の世代の封建的な考えを批判する内容のフィルムもあったもの の、それらも含め、当時の政治的言説を補強するような意味づけなしには、
もはや物語に介入することはかなわなくなっていた。さらに1951年の『武訓 伝』批判以降、併合などの措置による私営映画会社の事実上の解体が進むと ともに、国営撮影所での製作も一時停滞し、フィルムの内容は、共産党政権 の正当性、政策の妥当性を裏書するものへとより一層偏っていくことになる。
こうした映画史の流れの中に置いてみれば、カラーフィルムによって鮮や かに描かれた『梁山伯与祝英台』の世界は、当時において非常に独特なもの と言わざるをえない。ただし、もともと私営の文華影業公司を代表する監督、
脚本家として軽妙な喜劇などを得意とし、これが国営撮影所で最初の仕事で あった桑弧にとって、越劇由来のメロドラマ的とも言えるプロット、そして 繊細に奏でられる多くの音楽や歌によって彩られる物語空間は、同時期の一 般的な劇映画のそれよりもむしろ肌にあったものだったかもしれない。『梁 山伯与祝英台』のストーリーは元の越劇の演目を踏襲したもので、時代が現 代ではないとはいえ、主人公二人はいわゆる庶民ではない。女性ながら男装 して勉学に励む祝英台は、最後に望まない結婚を強いられるものの高家の子 女であり、梁山伯は比較的貧しい家の生まれであるとしても従者を従える知 識人であった。そうした彼ら二人の出会い、交友、恋愛、そして死へと至る
過程をたどる展開は、「優美な愛情物語」22にはふさわしいものの、労農兵映 画が中心の当時のスクリーンでは類を見ないものであった。
さらに『梁山伯与祝英台』に取り入れられた演出の一部にも特筆すべき点 がある。このフィルムは冒頭、幕や舞台をイメージさせる映像が現れ、芝居 の上演を象るように始まるが、実際には全てセットにおいて、基本的に劇映 画に近いカット割で撮影されている。そして、その後作られる数多の戯曲映 画同様、実際の演劇では表現できない映画的な演出が数多く取り入れられて いる。その最も代表的なシーンはラストの場面である。祝英台が梁山伯の墓 に近づくと、暴風雨が巻き起こり、墓が割れ、そこに彼女が入ってしまうと いうクライマックスは、特殊撮影によって一種のスペクタクルとして描かれ ている。これは舞台とは異なる表現を実現した大胆な演出であると同時に、
同時期の劇映画には見られない超常現象を描いた場面である。そしてフィル ムは、墓の上を飛ぶ蝶を映したあと、死んだはずの梁山伯と祝英台が蝶のよ うに舞を踊るほのぼのとした映像によって締められるが、死後に幸福な世界 が待っていると思わせるこうしたフィナーレも、本来悲劇的な結末であるは ずのものをハッピーエンディングであるかのように装っている点で、起承転 結が明確な当時の革命乃至戦争物語には稀有な展開に他ならない。
だが同時代の劇映画とのこうした差異は、『梁山伯与祝英台』だけに見ら れるものではない。桑弧が脚本を務めた『天仙配』(黄梅戯;石揮監督、
1955年)は、その元になった黄梅戯自体が京劇などと比べ、衣装、化粧、さ らには演技などの面でも様式化された要素が少なく、またフィルムとしても 全体的に劇映画に近い演出が施されていることによって、戯曲の映像化とい うよりも、ファンタジックなミュージカル映画のような印象を強く受ける作 品であるが、それだけに通常の劇映画との違いも目を引く。『天仙配』の物 語の原型は、古くは晋代の「捜神記」に見られ、その後様々な形で文学や演 劇で描かれてきた。建国後、安徽省黄梅戯劇団の陸洪非がそれを整理し、新 しい戯曲として改編されたものを映像化したのがこのフィルムである。董永 と仙女の伝説は、陸が書いた新しい脚本では、仙女が人間の生活に憧れ、善 良な男董永を慕い、自ら下界に降りてくるという設定へと変わり、玉帝によっ て夫婦が引き裂かれるという新しいラストとともに、元の物語の「封建的観
念や宿命論的色彩が払拭され、もともとの健康的で美しい内容が十分に展開 されることとなった」という23。しかしそれでもこの物語がいわゆる神話も のであり、リアルな人間ドラマが展開するものではないことは変わらない。
しかも物語の根幹にあるのは、恋愛、結婚、そして別れという男女の関係を 巡るドラマであり、その意味で当時の劇映画の主流とはやはりかなりの距離 がある。
『天仙配』の監督を務めた石揮によれば、彼はこのフィルムを撮る任務を 受けた時には黄梅戯を見ておらず、芝居を素材としながらも、映画的技法を 駆使した、新しいタイプの神話映画といった様式のフィルムを撮ろうと考え ていたという。しかし彼は、実際に舞台を見ると、「民族的特色が鮮明で、
地方色が濃厚で、また純朴で優美で感動的な」黄梅戯の曲調に引き込まれ、
スタッフと議論を重ねた結果、「最終的に黄梅戯を基礎としながら、最大限 に映画の性能を発揮させて、神話歌舞劇映画を撮ることに決定した」という。
舞台の枠を取り除き、「舞台では表現できないものを形象化する」ことを求 めながら、それとともに本来の芝居の特徴を生かすべく、会話はなるべく減 らし、必要なセリフも音楽性を重視し、踊りに合うようになるべく韻を踏ま せるなどの工夫が図られた24。
ただし撮影において参照されたのは元の黄梅戯だけではない。監督は、友 人の京劇俳優の会話を通じて啓発を受けたほか、実際にショットをどのよう に構築するかに関しては、ソ連映画『ロミオとジュリエット』(バレエ;レフ・
アルンシュターム、レオニード・ラヴロフスキー監督、1954年)を何度も見 てアイデアを練ったことを監督は明らかにしている。彼は特に、ジュリエッ トが男爵との望まぬ結婚を強いられて絶望し、神父の所に向かう場面で、彼 女が長い道のりを踊るようにして駆けていく場面に感銘を受け、それが「バ レエであると同時に映画の手法でもあり、また巧みに舞台の枠から飛び出し た処理方法でもある」こと、また「カメラワークがダンスとうまく融合して いる」ことが忘れられないと述べている25。さらに『天仙配』を実際に見て みれば、舞台を映画的に表現するための映像上の処理が多く導入されている ことも分かる。フィルムの冒頭にある雲海に浮かぶ天宮の撮影、その中で仙 女たちが雲を払って下界の様子を見るショット、また天宮と下界とのモン
タージュなどは、まさにその例である。そのほか、仙女が下界へと降りてゆ くところや、土地の神様が現れるところ、木に顔が浮かび話をする場面、仙 女たちが織った布の上に蝶が舞いそれが絵柄となるシーンなどのように、と りわけ特撮技法を用いた映像は頻出しており、演劇に由来する演技、歌、音 楽と相俟って、リアリズムを重視することとは明らかに別の方向性を目指し たフィルムであることは容易に見て取れよう。
一方劇映画では、『画中人』(王濱監督、1958年)、『魯班の伝説』(原題『魯 班的伝説』;孫瑜監督、1958年)など、近現代以前の時代に舞台を設定し、
伝説乃至幻想的な内容を扱ったフィルムも、その後登場はする。しかしその 数はごくわずかで、一つのジャンルとして確立したとは言えない。そもそも
「古装片」と呼ばれる時代劇あるいは時代物に相当するジャンルの作品は、
同時代の香港や台湾では多く製作されており、大陸でも建国以前はもとより、
現在でもテレビドラマを含め一定の人気を集めている。しかし建国から1970 年代までの時期において、そうした劇映画はきわめて少数である。これは、
労農兵映画を推進し、革命や社会主義建設といった題材を重視した当時の状 況によるものと言えるが、ある意味戯曲映画は、そうした本来劇映画が満た すべき需要に応えるものでもあったのではないか。その点から見れば、戯曲 映画に関しては、単に伝統芸術の保存という側面だけで計ることのできない、
娯楽としての訴求力の面についても考慮すべきである。例えば「紅楼夢」、「水 滸伝」、「西遊記」、「三国志演義」といった近代以前の小説など所謂俗文学は、
昔から講談などの芸能でも親しまれてきたものであるが、当時の劇映画では 題材として取り上げられることはなかった。それに対し、戯曲映画の世界で は、『紅楼夢』(越劇;岑範監督、1962年)、『野猪林』(別題『林冲雪夜殲仇記』; 京劇;崔嵬・陳懐皚監督、1962年)、『武松』(京劇;応雲衛監督、1963年)、『孫 悟空三打白骨精』(紹劇;楊小仲監督、1960年)、『群英会』(京劇;岑範監督、
1957年)、『借東風』(京劇;岑範監督、1957年)などのように、これら章回 小説に由来する物語は有力な題材となっていた。しかもそのうちの多くは、
当時の劇映画では困難な映画的表現を取り入れるなど、独特の映画体験を観 客に与えるものでもあった。
『群英会』やその続編の『借東風』は、大作の『楊門女将』(京劇;崔嵬・
陳懐皚監督、1960年)などと同様、劇映画との距離は大きく、演劇としての 原型を多く留め、劇映画には見られない緩いテンポで物語は展開していくが、
歌や音楽、及び原作由来の物語そのものの面白さで観客を引き込むだけでな く、戦闘シーンにおいては京劇ならではのアクロバティックなアクションに よって爽快感を与えることを忘れない。さらに注目すべきは、『孫悟空三打 白骨精』である。もちろんこの戯曲そのものは、郭沫若と毛沢東の詩のやり 取りを見れば、確かに現代の寓意としての解釈も可能であり、その意味で同 時代の政治状況と完全に無関係ではないのかもしれない。郭沫若は、元の戯 曲を見たあと、「人と妖怪の区別、是非の区別」ができない三蔵法師への批 判を込めた七言律詩を書き、毛沢東がそれに和して、三蔵法師は「味方にひ きいれることができるだろうが、妖怪(帝国主義)は本質を改めるものでな いから、必ず災害(戦争)をもたらす」、そして「人びとが孫悟空の演劇を 喜んで見、孫悟空を支持するのは(中略)妖霧が現実にたちこめているから なのである」という見解を示したことは広く知られている26。しかし実際に 作品を見てみると、そうした読解の可能性も潜んではいるものの、それ以上 にストーリー自体が曲折に富み、見る者を引きつける要素に溢れていること に驚かされる。アクションも多く、また妖怪を変身させたり、空に浮かべた りするなど、『天仙配』以上に特撮もふんだんに使われているという映像表 現としての新味もあり、当時の数多のフィルムの中でも最も娯楽性に富んだ 一本と言うべきであろう。当時、『大暴れ孫悟空』(原題『大閙天宮』;万籟 鳴監督、1961-64年)や『牧笛』(特偉・銭家駿監督、1963年)など一部のア ニメ作品においても、社会主義中国の歴史的背景から逸脱した世界を描くこ とが許容されていたが、戯曲映画もまた、同時代の劇映画とは異なる時空を 同様に表現しえたのである。これに関しては、建国後は主に映画行政に携わっ ていた張駿祥も次のように述べていた。
戯曲に精通し、こうした形式の表現特徴を掌握することで、その発展 のあり方を掌握することができ、そうすることで発展のスピードを高 めることができる。もしこうした発展のあり方を掌握し、理想的な様 式をすばやく発見することができれば、今日の多くの一般的な劇映画
がうまく扱えない題材を取り上げることができるだろう。例えば多く の優美な民間伝承、神話物語といったものを最も完全に、最も適した 形で、スクリーンに表現することができるだろう。「牽牛と織女」、「白 蛇伝」などの物語、孫悟空、済癲和尚、または林冲、李逵、孟姜女、
林黛玉、崔鶯鶯などの人物をスクリーンでうまく扱える可能性も、大 いに強まるだろう。そうすれば、映画は、題材、様式の面において、
必然的に「百花斉放」し、さらに豊かになるだろう。27
こうして見てくれば、建国後の戯曲映画は確かに、限定されたジャンルに 偏っていた劇映画を補完する役割を演じてきたものとして捉えることができ よう。もちろん『蓋叫天的舞台芸術』、『梅蘭芳的舞台芸術』(京劇・崑曲;
呉祖光監督、1955-56年)、『周信芳的舞台芸術』(京劇;応雲衛・楊小仲監督、
1961年)、『尚小雲舞台芸術』(京劇;桑夫監督、1962年)など、京劇の名優 の名を掲げ、彼の演じる演目を複数集めて構成されたフィルムのように、映 像による記録という性格が比較的強く見えるものもあるため、全ての戯曲映 画がひたすらそうした役割に徹していたと言い切れるわけではない。確かに 建国後五年目に作られた『蓋叫天的舞台芸術』はカメラの動きやセットも控 えめで、演技の記録という側面が非常に濃厚であるし、『梅蘭芳的舞台芸術』
の冒頭では、梅蘭芳の生活や輝かしい役者としての軌跡も紹介されている。
しかしこれらのフィルムにしても、記録性を超えた要素が多く含まれている ことは否定しがたい。例えば『尚小雲舞台芸術』の「失子驚瘋」の演目の部 分では、わが子の行方がわからなくなった胡氏の錯乱した様子が演じられる 際に、煙と炎のショットとともに雲の上に乗った神様のような人物と子供の 映像が編集処理によって挿入されるほか、二重写しなどの特殊撮影も複数用 いられており、舞台とは異なる表現を試みようとする姿勢が強く見られる。
『梅蘭芳的舞台芸術』にしても、多くを占める演目の部分では、舞台公演の 忠実な記録ではなく、俯瞰ショットも含め、しばしばカメラ位置も変えるな ど、映画観客の視点を意識した形で映像作りがなされており、戯曲映画とし ての芸術性が考慮されていることは間違いない。いずれにしても、当時の映 画状況に即して言えば、戯曲映画というジャンルには、演劇の単なる映像化
という枠を超えた含意が認められるべきであろう。
伝統の名のもとで当時の政治、社会状況とは直接関わりのない内容を描き、
リアリズムの枠に収まらない伝奇的、時に荒唐無稽と言うべきプロットも備 えた戯曲映画は、建国後の中国映画界においては比較的自由さを持った物語 空間を築いたジャンルとして改めて評価すべきであると私は考える。ただし こうした戯曲映画のあり方も1960年代半ばから変容を迫られることになる。
次節はこの問題について、文革期の戯曲映画を中心に検討していく。
3. 文化大革命と戯曲映画
これまで確認してきたように、戯曲映画は、同時代の劇映画が表現しない 領域を取り込み、「新中国」とは別の世界を表象してみせた。ただし戯曲映 画の物語がみな、過去の時代を舞台とするものであったわけではない。浄瑠 璃や歌舞伎など日本の伝統芸能でいうところの際物(キワモノ)は「実際に 起こった事件や流行の風俗を脚色して、同時代の観客の関心を買うべく上演 された作品」28を言うが、『中国戯曲現代戯史』によれば、中国においても「伝 統演劇の演目で、当時の現実の生活を描いたものは少なくない」29。「20世紀 初めから辛亥革命前後は、現実を題材とした戯曲の創作及び上演が一つの ピークに達し」30、それ以降も「時装戯」すなわち現代の物語をそれに即し た装いで役者が演じる戯曲の創作、上演は続いていく。さらに中国共産党の 勢力下においては、同様の試みは政治宣伝を主な目的とする形で行われた。
抗日戦争、国共内戦を経て、中華人民共和国建国後も「戯曲現代戯」などの 名称で引き継がれ、伝統演劇の様式を踏襲しながらも、もっぱら政権の意図 に適う内容を描くものとなった。演劇改革が積極的に進められた建国当初や、
「現代物をかなめとする」31方針が打ち出された大躍進時期など、戯曲現代戯 に対する関心は何度か大いに高まりを見せたが、それが一気に強まったのが 1960年代前半である。
1963年正月の上海文芸界元旦祝賀会で、上海市長の柯慶施が「大いに十三 年を書く」ことを提唱し、中華人民共和国建国以降の時代を文芸の主要な題 材として社会主義を賛美するよう作家、芸術家に求めたことはその前触れで あった。そして1963年9月、毛沢東は中国共産党の中央工作会議で「演劇は、
古いものから新しいものを創出するものでなければならず、古いものから古 いものを創出し、帝王将相、才子佳人や彼らの女中や護衛の類だけを演じる ようなものであってはならない」と述べ、数日後にも「文芸部門、戯曲、映 画の方面も、古いものから新しいものを創出するという問題に力を入れなけ ればならない」という指示を送ったが、それに歩調を合わせる形で現代戯を 重視する傾向は広がっていった。1964年6月5日から約二ヵ月間、京劇現代 戯観摩演出大会という現代戯の大々的な公演が北京で開催され、全国29の京 劇団が35の演目を244ステージ上演し、毛沢東を初めとしてのべ20万人もの 観客が観劇したのはその最も象徴的な例であろう。さらにこの期間中に毛沢 東夫人の江青が行った講話は、革命模範劇を支える重要な綱領となる32。 この講話は、京劇現代劇研究競演大会の開催を「喜ばしい収穫を得た」「京 劇革命の最初の戦役」と評価し、既に記した毛沢東の見解を踏まえる形で、「革 命現代戯」の意義を次のように強調している。「京劇で革命現代戯を演じる ということに対する確信を堅固なものにしなければならない。共産党が指導 する社会主義祖国の舞台の上で、主要な地位を占めるのが労農兵ではなく、
これら歴史の真の創造者ではなく、これら国家の真の主人公ではないという ことは、考えられないことである。我々は自らの社会主義の経済的基礎を守 る文芸を創造すべきである」。彼女はこのように明言した上で、「劇場は本来 人民を教育する場所であるのだが、今舞台上にいるのは帝王将相、才子佳人 ばかりであり、それは例の封建主義、ブルジョア階級のものばかりである。
このような状況では、我々の経済的基礎をまもることはできず、かえって我々 の経済的基礎に対し、破壊的作用を起こしかねない」と警鐘を鳴らし、「我々 は革命現代戯を提唱し、建国十五年来の現実生活を反映し、我々の戯曲の舞 台の上に、当代の革命英雄の形象を塑造しなければならない。これが最も肝 要な任務である」という主張を明確に打ち出している33。
こうした状況の中で、伝統演劇をとりまく環境は急激な変化を迎えたが、
それは戯曲映画の作品傾向にも強く反映され、「1964年からの三年間に撮ら
れた2ママ6本の戯曲映画のうち、1964年の『鍘美案』を除き、それ以外は全て現
代戯の映画」で、「労農兵の登場人物を賛美する内容の少人数による短い芝 居」34が中心となる。この時期の戯曲映画は建国後の中国を舞台とするもの
が中心で、社会主義的イデオロギーに基づき勤労を称えるもの、あるいは建 国以前の苦難の記憶を呼び起こし、革命精神の重要性を強調するような内容 のものが多くを占めた。『伝槍記』(京劇;蔡振亜監督、1965年)は、銃の射 撃の修練に励む少女を主人公に据え、家に伝わる古い銃が気に入らない兄に 対し、祖父らがその来歴を伝え、諭すことで彼の改心を引き出すという物語 であり、明確な敵がいるわけでも、複雑なプロットが展開されるわけでもな く、場面も多くは家の前の空き地などであり、主要な登場人物も家族四人に 限られた派手さのない小品である。一方、『紅花曲』(錫劇;黄祖模監督、
1965年)は、『伝槍記』に比べセット数が増え、豪華となり、テンポが速く次々
と物語が展開するほか、登場人物も多く、小品とは言いがたいが、しかし話 は工場を舞台に、女性機織工たちが互いに助け合い、労働者としての意識を 高めていく様を描いた比較的単純なもので、印象に残るのはストーリーより もむしろ、挿入されるたくさんの歌の方であろう。実際、フィルムのラスト は、思想的な面で問題を抱える同僚を諭す主人公の歌がドラマティックに展 開し、その歌と歌詞を媒介に同僚の心が動かされることで、ハッピーエンディ ングが訪れるといったものになっている。この二本のフィルムはともに、伝 統的な演目にはなかった題材、プロットを積極的に扱っているが、ただしジャ ンルとしての完成度が十分に高まっている印象は受けず、まだ試行錯誤の段 階にあったと言ってよいだろう。
この時期の劇映画と戯曲映画の本数は、劇映画が1964年に26本、65年に21 本、66年に5本だったのに対し、戯曲映画がそれぞれ5本、15本、4本であっ た。1966年、文化大革命が始動すると、映画界は数年間にわたり実質的な活 動を停止したため、劇映画、戯曲映画ともに製作が行われなくなるが、その 直前の時期は、相対的に見て、現代戯映画が当時の中国映画の主流となりつ つあったと言えなくもない。文革期に入り、一部の京劇やバレエなどの演目 が革命模範劇と称され、当時の演劇、さらには文芸を代表するものとして賛 美されると、やがて映画界も模範劇の映像化という任務が与えられ、作品製 作の本格的な再開がようやく実現することになった。革命模範劇に基づく模 範劇映画は、内容、形式両面において政治性を体現すべく細心の注意を払っ て製作され、それ以前の現代戯映画にはない洗練さをもって当時を代表する
ジャンルとしての地位を築き、1970年以降、ついに劇映画に代わって一時中 国映画の中心を占めるに至った。だが興味深いことに、模範劇映画の嚆矢と なった二本、すなわち『智取威虎山』と『紅灯記』(京劇;成蔭監督、1970年)
は、ともに1960年代に製作された劇映画、前者は『林海雪原』(劉沛然監督、
1960年)、後者は『後につづく者』(原題『自有後来人』;于彦夫監督、1963年)
を元に編まれた京劇の演目に由来するフィルムである。つまり、それらは新 しい時代の戯曲映画として文革期までの映画の流れを断ち切るようでありな がら、同時にそれまで劇映画が取り上げてきた労農兵を主人公とする「新中 国」的な物語を踏襲するものでもあったと言える。この現象は注目に値しよ う。
ここで文革期のリメイク映画の全体像について確認しておきたい。まず上 記の二本同様、文革期以前に作られた劇映画を元に作られた京劇ほか舞台芸 術作品の映像化の例は以下の通りである。劇映画『奇襲』(許又新監督、
1960年)は、文革期には『奇襲白虎団』(京劇;蘇里・王炎監督、1972年)
となり、劇映画『紅色娘子軍』(謝晋監督、1960年)は、『紅色娘子軍』(バ レエ;潘文展・傅傑監督、1971年)と『紅色娘子軍』(京劇;成蔭監督、
1972年)という二つの様式の模範劇映画となった。モノクロの劇映画『平原 遊撃隊』(蘇里・武兆堤監督、1955年)は、同名のカラーの劇映画『平原遊 撃隊』(武兆堤・常甄華監督、1974年)にリメイクされたほか、『平原作戦』(京 劇;崔嵬・陳懐皚監督、1974年)も撮られている。また『白毛女』(王濱・
水華監督、1950年)の物語はそれ以前から様々な劇種の演目となってきたが、
文革期には『白毛女』(バレエ;桑弧監督、1972年)として映像化された。
1964年から66年に製作されたが、結局未完成に終わった劇映画『南海長城』(厳
寄洲監督)の物語は、劇映画『南海長城』(李俊・郝光監督、1976年)及び『磐 石湾』(京劇;謝晋・梁廷鐸監督、1976年)という二作品となって文革期の 最終晩に銀幕を飾った。そのほかアニメーション映画の『草原英雄小姐妹』(銭 運達・唐澄監督、1964年)を元にする『草原児女』(舞踊劇;傅傑監督、
1975年)も作られている。参考までに、劇映画から劇映画へのリメイクとし ては上記の『平原遊撃隊』のほか、『青松嶺』(劉国権監督、1965年)を元に、
同じ監督、同じ李仁堂の主演で撮られた『青松嶺』(1973年)、『南征北戦』(成
蔭・湯暁丹監督、1952年)に基づく『南征北戦』(成蔭・王炎監督、1974年)、
『渡江偵察記』(湯暁丹監督、1954年)に基づく『渡江偵察記』(湯化達・湯 暁丹監督、1974年)、『年青的一代』(趙明監督、1965年)に基づく『年青的 一代』(凌之浩・張恵鈞監督、1976年)がある。このように文化大革命によっ て、文革期以前の映画作品の全てが否定されたわけではなく、一部の物語は しばしば文革期に再創作の対象となっていたのである。もちろん以前の物語 の全てが許容されたわけではなく、描くべき内容の選別が行われ、多くの題 材やジャンルが文革期には消失したが、ただしそれは文革期を特徴づける唯 一の要素ではない。文革期における映画の特徴は、内容面以上に、形式面す なわち描き方の面により鮮明に表れていると私は考える。そしてリメイク作 品は、文革期以前からの変化を見る上でまさに恰好の対象と言えよう。
曲波の長編小説『林海雪原』(1957年)の一部を映像化した劇映画『林海 雪原』と、そのリメイクと言える『智取威虎山』との比較については、拙論 で既に述べているので、ここではその一部を引用して違いを確認するととも に、模範劇映画の特徴を指摘したい。前者がリアリズムを原則とする当時の 劇映画の基本的なスタイルを踏襲し、虚構性が露にならないように配慮しな がら、ストーリーを紡いでいるのに対し、「『智取威虎山』における個々の撮 影手法は、ある場面を単に再現するだけのものではなく、同時にそれ自体が 一つの世界観の反映となるべきものであった」35。『智取威虎山』は、具体的 な撮影スタイルとしては「長廻し」を基本とし、さらに各種の映画的手法の 厳密な取捨選択を通じて、人物の立ち位置、カメラの角度、ライティング、
色調など様々な面から、「あらゆる人物の中で正面人物を突出させ、正面人 物の中で英雄人物を突出させ、英雄人物の中で主要な英雄人物を突出させる」
と規定された「三突出」原則を体現する図式的な映像表現の実践を行った36。 こうした方向性は、その後の模範劇映画においても、程度の差こそあれ概ね 貫かれていると言えよう。そのことを確認するために、次はモノクロ作品の 劇映画『後につづく者』のリメイクと言うべき『紅灯記』について検討した い。
『紅灯記』は同名の戯曲37を映像化した作品である。検討の前に松浦恆雄 によるオリジナルの戯曲についての説明を引用する。
『紅灯記』の舞台は、抗日戦争中の北方のある町。鉄道労働者で地下 党員でもある李玉和が、党から受け取った極秘の暗号電報を柏山の遊 撃隊に届けるよう指示を受けるが、裏切り者が出て、李玉和と祖母の 李ばあさんは銃殺される。しかし、その遺志を受け継いだ娘の李鉄梅 が、無事日本軍の手を逃れ、暗号電報を送り届ける、という筋である。
この芝居のテーマは、祖父から父へ、父から娘へと、地下党員との連 絡用の「紅灯」に象徴される革命精神が、敵との闘争の結果もたらさ れる死と引き換えに受け継がれてゆくことにある。38
この芝居には、もう一つ革命精神の優越性を示す趣向がある。それは 祖母(李ばあさん)、父(李玉和)、娘(李鉄梅)の一家三人が、実は 全く赤の他人であったという設定である。では、この三人はどのよう にして一家となったのか。祖母の李ばあさんの夫は、もと鉄道労働者 で、玉和の親方であった。鉄梅は、玉和の兄弟子の一人娘で生まれた ばかり。一九二七年、京漢鉄道のストライキに参加した李ばあさんの 夫と兄弟子夫婦が犠牲になった。生き残った玉和は、親方の「紅灯」
を片手に、もう片手に兄弟子の赤ん坊鉄梅を抱いたまま親方の家を訪 ね、今後は玉和が李ばあさんの息子、鉄梅が孫娘ということにして、
一家三人が生きてゆくことになる。この趣向が示すのは、最も本質的 な人間の結びつきは、血縁による家族制度にあるのではなく、「紅灯」
のもとでの革命精神にあるということであろう。39
ただし、ここで示された戯曲及び戯曲映画『紅灯記』の物語の核となる要 素は、元となった『後につづく者』に既に備わっていたものでもある。つま り両者において、物語の基本的な枠組自体に違いはないのだ。異なるのは、
それがどのような演出によって表現されているかにある。モノクロフィルム で映し出される『後につづく者』の場合、例えば「深夜とか早朝とかの暗い 場面が多く、ほのかな明かりの中で展開される物語には、一種のサスペンス さえ感じられる」40という説明もあるように、もともとドラマティックな物
語を、より緊迫感のあるものへと導こうとする作り手の演出のこだわりが随 所に見られる。玉和が日本軍の宴会に招待されるシークエンスを例に取れば、
憲兵隊長の鳩山と玉和との会話のシーンにおいては、両者のそれぞれの顔の アップを何度も連続させて場面の緊張を高めているほか、その後の別室の場 面では、鳩山の高圧的態度を示すように、彼を仰角から映すショットや、椅 子に座る玉和と、立った姿勢で玉和よりも大きく映される鳩山とを同時に映 すようなショットも採用されている。一方、『紅灯記』でのこの場面は、二 人は同じ画面に映りながら、鳩山は暗い照明の中にいるのに対し、玉和には スポットライトが当たり、鳩山よりも多く光を受けている。また、『後につ づく者』とは異なり、鳩山が仰角から映されることはなく、むしろ多くの場 合、玉和は鳩山よりも大きく画面に映されるか、画面の中央の位置を占めて いる。なお、この場面に限らず、作品の中で頻出する登場人物の歌の場面に は、『智取威虎山』の場合と同様、「長廻し」を基本とした撮影方法が用いら れており、観客の目を引きつけるとともに、芝居をなるべく断ち切らないよ うにする意識はこの作品にも表れていると言えよう。
全体的に見て、『後につづく者』は、リアリズムを重視する映画観に従っ た上で、弱い立場にある主人公たち、特に娘の鉄梅が追い詰められながらい かに危機をかいくぐり、最後なんとか情報を仲間に伝えるまでの綱渡りのよ うな展開によって観客をつなぎとめるサスペンス映画的性格を強く打ち出し た作品と捉えることができよう。それに対し『紅灯記』は、基本的な物語の 枠組は踏襲しながらも、サスペンス色を排除し、英雄的主人公、その中でも 物語の途中で死を迎える父の玉和の崇高さ、偉大さを浮き上がらせようと努 めてみせたところに、原作劇映画との違いが強く表れている。『後につづく者』
では父と祖母の死の後、鉄梅は孤立無援のような状況に置かれるが、『紅灯記』
では、『後につづく者』には登場しない隣人の協力が描かれるとともに、以 前にはなかった華やかなラスト、即ち彼女を追いかけてきた日本兵らを撃退 する共産党軍の遊撃隊の活躍が、派手なアクションによって表現されること で幕が下ろされる。いわば『後につづく者』の観客が、主人公に感情移入し、
恐怖、悲しみなど様々な心の動きを追うべき存在であるとすれば、『紅灯記』
における観客は、玉和、そしてその家族を頂点とし、その裾野に多くの労働
者や兵士が位置する英雄人物たちの世界の勝利を目の当たりにし、また享受 すべき位置にあるのだ。そして、こうした一種ファンタジックな革命的世界 を効果的に支えているのが、リアリズムに貫かれた劇映画にはありえない戯 曲的演出と言えるだろう。アメリカのミュージカル映画などと同様、登場人 物たちは、セリフを話すのと同じように自然に歌い、その間、映画内の物語 上の時間は止まる。全ては人物たちの演技、歌、動作を中心に回り、そして フィルムの最後は、英雄人物たちの整然としたポーズで華麗に終わる。文革 期を彩る政治プロパガンダ映画としての模範劇映画の登場は、リアリズム中 心の歴史を歩んできた中華人民共和国映画史において、戯曲という別の芸術 形式から移植された要素を新しい映画のロジックとして活用した、ある意味 記念碑的事象と見るべきかもしれない。
次にリメイクの別の事例として、『平原作戦』について言及したい。上述 したように、元の戯曲は劇映画『平原遊撃隊』に由来するもので、同年には この作品のほか、劇映画へのリメイクもなされている。まず1955年の劇映画 から1974年の同名劇映画へのリメイクについて指摘しておけば、基本的なス トーリーや人物構成などに大きな変化は見られず、モノクロからカラーフィ ルムでの撮影となった点、また戦闘シーンにおける迫力ある爆撃の表現や空 撮の導入など、特撮技術にも進歩が見られる点が最大の違いと言えよう。た だし時代環境の変化を表すように、細部においては様々な違いがあり、多く のシーンでは、カメラワークや背景描写、人物の位置関係などが異なるほか、
一部のシークエンスでは内容も大きく改められている。物語は、日本軍と戦 う共産党軍の遊撃隊の活躍を描くもので、そうした大筋に変わりはないが、
例えば望楼を兼ねた敵のトーチカを奪い取る場面について言えば、1955年版 では二人の隊員が身分を隠して中に入り、隙を見て敵に銃などを突きつけ、
一網打尽にするという展開であったものが、リメイク版では、作品の主人公 である遊撃隊長の李向陽自らがトーチカに向かい、正攻法に近いやり方で敵 を征圧し、労役を課されていたと思われる民衆たちの協力も得て成果を挙げ る、という内容に大きく改められている。その他にも後者には、英雄的人物 の活躍を強調するような演出や設定は多いが、最も極端な例は、日本軍の松 井中隊長が初めて登場する場面であろう。松井が部下から八路軍の動向につ
いて報告を受けた途端、画面は稲光を映した夜空のショットとなり、大きな 雷鳴が響き、続いて松井らを俯瞰で映したショットに切り替わる。カメラは ゆっくりと位置を下げ、松井が急いでカーテンで隠された地図のところに行 き、そこから、李向陽の部隊の神出鬼没の動きに戸惑いを見せながらも指揮 を執る松井のドラマをしばし捉えるのだが、部下の報告が相次ぐ中、再び雷 が鳴り、窓の外では雨も降り出し、さらに電話がけたたましく鳴り、植木鉢 も倒れて割れる、というように、動揺する敵の様子をより視覚的及び音響的 に表現しようとする意識があからさまに示されている。英雄的人物を引き立 たせるために、対立する人物をことさらに貶めて描くことが求められた文革 期の文芸の傾向をここに見て取ることは容易であろう。
一方、『平原作戦』は、劇映画とは異同も多いものの、どちらかと言えば 1974年版劇映画に近い要素をより多く含んでいる。フィルムの後半、鉄道の 食糧を爆破する場面の最後、演劇の舞台ではありえないような大きな炎が激 しい爆音とともにあがる箇所はその典型であろう。『智取威虎山』など初期 の模範劇映画が、主人公に光を当て、敵役を常に暗く映すといった「三突出」
理論をなぞるようなデフォルメされた造形を強く打ち出したのに対し、この
『平原作戦』は全体的に見て、そうした要素を徐々に抑制させ、多少劇映画 の演出に近づきつつあるような印象は受ける。しかしそれでも戯曲映画なら ではの表現は当然多く見られる。共産党、毛主席といった文句が散りばめら れた歌詞のもとではあるが、伝統的な節回しに基づく歌が何度もドラマに介 入するほか、部隊の移動を表すアクロバティックな動作なども、物語の直接 的な必要性とは別に、もっぱら見る者を楽しませるために挿入されているか のようである。そのようにストーリーを円滑に進ませるのとは違った見せ場 を盛り込みながら、劇映画に存在したいくつかの場面、例えば冒頭、主人公 が命令を受けるくだりや、地下道の中の場面、隊員各自の個性を垣間見せる エピソードなどは省かれている。いわば劇映画以上に凝縮された内容を扱っ たこのフィルムは、登場人物の名前や人物関係の一部の変更も相俟って、劇 映画とは別の映画世界を展開していると見ることもできよう。
模範劇映画は、建国後の劇映画が描いてきたような革命、戦争或いは社会
主義建設にまつわる物語を扱うメディアとして確立したが、それを劇映画と は異なる手法、つまり戯曲映画の形式をもって描いた点に新しさがあった。
しかしそれはある意味、建国後の戯曲映画の展開の一つの帰結であったのか もしれない。例えば『雁蕩山』は、セリフや歌のない変り種の小品であり、
基本的に舞台の枠を出ないフィルムだが、ひたすら展開される戦闘シーンに おいて、弓矢を使った場面や、出演者が崖から降りるアクションなど、アク ロバットを中心に展開されるその迫力ある映像は、後の革命模範劇の華やか なエンディングをまさに髣髴とさせる。その意味で模範劇映画を、そうした 武勇を扱った戯曲映画の現代中国版と捉えることは可能であろう。実際のと ころ、模範劇映画はそれまでの戯曲映画のすべてを受け継いでいたわけでは なく、越劇や黄梅戯などのたおやかな美の表現の多くが軒並み排除されてい ることは否定できない41。ただ、『紅灯記』などに登場する女性たちの歌や 動きが、勇ましさを讃えながら、男性たちとはまた違った魅力を放っている ことも無視してはならない。
もちろん模範劇映画が当時の為政者の道具として機能したことは紛れもな い事実である。映画人の自由な創造を著しく制限し、映画の多様性を失わせ、
フィルムの別の可能性を放棄させた文革期の映画状況は、中国映画史におけ る悲劇として語られるべきだろう。だがそのことによって、実際に作られた フィルム群の価値が無に帰することは、本来はありえないはずである。だが 1976年、文化大革命が終息を迎えた時、隆盛を極めた模範劇映画の歴史にも 終止符が打たれることとなった42。数年の間、多くの映画製作者によって磨 かれ、一つの完成形を築いたこの映画ジャンルは、別のジャンルの発展を阻 害した代償を払うかのように、あっけなくその命を絶つこととなる。模範劇 映画は文革期のプロパガンダを代表し、そうした性格が特出したがゆえに、
新たな政治状況のもとで別の需要を掘り起こすことはもはやかなわなくなっ たのであろう。実際、中国映画はその後、文革期映画とは異なる映画像を求 めるべく、新たな方向性を模索し始めることになる。
結びに代えて
文革期以降も、戯曲映画は製作が続けられなくなったわけではない。しか
しかつてほどの影響力はなく、特に1990年代以降は作品数も減少の一途をた どった。もちろん『祥林嫂』(越劇;岑範・羅君雄監督、1978年)、『鉄弓縁』
(京劇;陳懐皚監督、1979年)、『七品芝麻官』(豫劇;謝添監督、1979年)な どのようにある程度注目を浴びた作品もあったが、多くの観客の目は、いわ ゆる「第四世代」、「第五世代」映画に代表される新しい価値観に基づくフィ ルム、さらには香港映画、外国映画へと向けられた。映画をめぐる当時の言 説においても、中国映画は演劇の杖から手を離すべき、といった主張がなさ れ43、演劇化ではなく映画化へと向かうことが現代化の道であるという映画 論が脚光を浴びた44。もちろん伝統の重要性を強調するイデオローグも多く 存在したが、彼らが主に意識したのは劇映画が長年培ってきたリアリズム伝 統であった。そうした機運のもと、建国以前に活躍した監督たちが再びクロー ズアップされることにもなったが、しかし彼らが手がけた建国後の戯曲映画 へと関心が寄せられることはなかった。文革期に頂点を極めた戯曲映画であ るが、今日では一部の戯曲愛好者が享受するソフトでしかなく、静かに衰退 への道を歩んでいるのが現状と言わざるを得ない。そしてかつてそれが一時 的ながら中国映画史の表舞台において中心的な役割を演じたことも、人々の 記憶から消え去ろうとしている。しかしそうした趨勢にかかわらず、映画研 究の領域においては、この戯曲映画にもう一度光を当て、その映画史的意義 を再検討すべきであると私は考える。本稿は紙幅の関係で議論を絞ったため、
取り上げた作品それぞれを深く掘り下げて論じることはできなかった。また 言及できなかった作品も数多く、バレエ映画、歌舞劇映画など、類似したジャ ンルのフィルムも含め、検討すべき課題はいまだ山積したままであるが、そ れらについては今後の課題としたい。
(付記)本研究は、日本学術振興会科学研究費補助金若手研究(B)(課題番号:
20720099)の助成を受けて行われた。
註
1 佐藤忠男『中国映画の100年』二玄社、2006年、160頁。
2 晏妮「文革の記憶と映画」(応雄編著『中国映画のみかた』大修館書店、2010年)、
204頁。
3 例えば、中国電影芸術研究中心、中国電影資料館編『中国影片大典(故事片・
舞台芸術片)1949.10−1976』(中国電影出版社、2001年)などを参照。また現在、
文革期の映画作品は数多くDVD化され、容易に見ることもできる。
4 拙論「中国映画史における政治と映像―文革期を中心に」『一橋論叢』2004年 3月号、56-71頁。
5 中国の映画作品の基本データは主に以下の文献に拠った;中国電影芸術研究中 心、中国電影資料館編『中国影片大典(故事片・舞台芸術片)1977−1994』中 国電影出版社、1996年;中国電影芸術研究中心、中国電影資料館編『中国影片大 典(故事片・舞台芸術片)1949.10−1976』中国電影出版社、2001年;中国電影 資料館編『中国影片大典 故事片・舞台芸術片(1931−1949.9)』中国電影出版社、
2005年。
6 拙論「中国映画史における政治と映像―文革期を中心に」、63頁。
7 高小健『中国戯曲電影史』文化芸術出版社、2005年、195-196頁。
8 許南明、富瀾、崔君衍主編『電影芸術詞典』(修訂版)、中国電影出版社、2005年、
70頁。
9 高小健『中国戯曲電影史』、3頁。
10 任桂林「虚、実、簡、繁的統一」『中国電影』1959年第6期、15頁。
11 これについては、拙論「中国映画『枯木逢春』についての一考察―民族化の 実践としての角度から」『野草』第81号、20-22頁を参照。
12 陳荒煤主編『当代中国電影』(上巻)、中国社会科学出版社、1989年、147頁。
13 ちなみに、同じ期間に製作された劇映画は約430本である。
14 その中には、日中戦争中に日本が作った国策映画会社の一つ、華北電影股份有 限公司とその外郭組織である燕京影片公司によって製作された京劇映画も含まれ る。これについては、張新民「戦争期における華北映画―華北電影股份有限公 司について」(応雄編著『中国映画のみかた』)、272-279頁、及び同「『淪陥』時 期における華北の京劇映画について―『燕影』の作品を中心に」(王徳威ほか 編『帝国主義と文学』研文出版、2010年)、412-438頁を参照。特に後者では、当 時の新聞・雑誌に掲載された文献資料やスチール写真をもとに考察した結果、そ れらの京劇映画はいずれもスタジオ内で、仮にしつらえた舞台を用いた一作品を 除き、そのほかは映画的なセットをもとに撮影が行われたことが明らかにされて いる(同前、428-429頁)。