はじめに 二〇一八年︑早稲田大学大学史資料センターに︑吉田嘉清氏により﹁﹃早稲田・一九五〇年・史料と証言﹄関係資料﹂
計九七七点が寄贈された︒﹃早稲田・一九五〇年・史料と証言﹄は︑同氏など有志がレッド・パージ期における早稲
田大学学生運動の記録を残すために編集・刊行していた雑誌で︑一九九七〜二〇〇五年に計七冊が刊行されている︒
今回紹介するのは︑右資料に含まれていた藤川覚宛津田左右吉書簡五四通︵封筒のみのものは除く︶である︵以下︑﹁本
書簡群﹂と表記︒以下の番号は右資料の資料番号を指す︶︒
本書簡群のうち一二通は︑右雑誌の別冊・資料篇︵二〇〇〇年︶所収の﹁新資料・津田左右吉書簡﹃裁判の日々﹄﹂
において一度翻刻がなされている︒同翻刻冒頭の編集部記に︑﹁この書簡は︑当時︑岩波書店にあって津田博士のよ ︹資料紹介︺
資 料 紹 介 吉 田 嘉 清 氏 寄 贈 ・ 藤 川 覚 宛 津 田 左 右 吉 書 簡
解 題
渡 邉 剛き相談役となった藤川覚氏︵ジャーナリスト︒のち横浜事件に連座︒本誌編集部・藤川亨の父︶あてにおくられた五十五通
の書簡中から︑裁判に関係する十二通を特輯したものである﹂とあり︑本書簡群が右資料に含まれた経緯が知られる︒
藤川覚︵ふじかわ・さとる/一九〇五〜?︶は︑編集者・翻訳家である︒一九二九年に東京帝国大学文学部哲学科選
科修了後に岩波書店入店︑戦時期には同盟通信社に移り出版部長となるが︑在職中に横浜事件で検挙された︒終戦後︑
新聞雑誌用紙割当委員となり︑日本共産党に入党︒後︑大月書店顧問となり︑﹃スターリン全集﹄﹃レーニン全集﹄﹃マ
ルクス・エンゲルス全集﹄翻訳・刊行に尽力︑一九七〇年にはソ連邦最高会議幹部会からレーニン生誕百年記念メダ
ルを授与されている 1︒藤川は岩波書店在職中に津田の担当者となり︑出版法違反事件に際してその対応にあたった︒ 岩波書店には一九三三年段階で在籍し︑一九四三年末までに退店したとされるが 2︑︻746・769︼︵一九四一年八
月四日︶によれば︑同書簡が書かれた頃に退店したようである︒
今回は︑既翻刻分を含め︑寄贈を受けた本書簡群全体を翻刻・再刻した︒その結果︑既翻刻分とは年月日や文字に
異同が出ている︒
近年の早稲田大学における津田左右吉研究
本書簡群に言及する前に︑近年の早稲田大学における津田研究について簡単に触れておきたい︒ 津田左右吉没後五〇年にあたる二〇一一年︑早稲田大学は津田の出身地に立つ美濃加茂市民ミュージアムと共同
で︑各種の記念行事を催行した︒早稲田大学では特別企画展﹁没後
50ー吉右左田津﹁ムラォ年フ﹂︑展吉右左田津を
あらためて問う〜没後
50ラ没﹃﹃ため含を考論の者壇登ムー年ォフ︑れさ行催が﹂〜てせよに後
50年津田左右吉展﹄
展示図録﹄︵美濃加茂市民ミュージアム・早稲田大学︶が刊行されている︒こうした取り組みと連動して︑同年には︑没 後五〇年記念出版として新川登亀男・早川万年編﹃史料としての﹃日本書紀﹄ 津田左右吉を読みなおす﹄︵勉誠出版︶
も刊行された︒
二〇一四〜二〇一八年度には︑私立大学戦略的研究基盤形成支援事業﹁近代日本の人文学と東アジア文化圏│東ア
ジアにおける人文学の危機と再生│﹂の第三研究グループ﹁早稲田大学と東アジア│人文学の再生に向かって│﹂が
津田を重点的に取り上げて調査・研究を行い︑各種の研究集会・シンポジウムを開催した︒その成果は︑﹃津田左右
吉とアジアの人文学﹄一〜五︵二〇一六〜二〇一九年︶︑﹁津田左右吉と早稲田大学│記憶と記録│﹂︵﹃日本思想史学﹄四八︑
二〇一六年︶︑新川登亀男編﹁国際シンポジウム﹃人文学の再建とテクストの読み方│津田左右吉をめぐって│﹄会議
録﹂︵﹃Waseda RILAS Journal﹄五︑二〇一七年︶︑渡邉義浩編﹃津田左右吉訳稿集 トマス・カーライル﹁偉人崇拝論﹂﹄
︵早稲田大学文学学術院︑二〇一九年︶として刊行され︑また早稲田大学図書館所蔵の﹃論語と孔子の思想﹄︵岩波書店︑
一九四六年︶草稿が早稲田大学東洋哲学研究室ホームページで公開された 3︒ なお︑早稲田大学における津田関係資料について付言しておく︒早稲田大学図書館では︑津田没後に寄贈された旧
蔵書が﹁津田文庫﹂となっており︑メモ・草稿・抜刷・パンフレット・遺愛品類は特別資料室所管の﹁津田左右吉伝
記資料﹂となっている 4︒これ以外の特別資料︑また大学史資料センター所蔵資料に津田関係資料が含まれている場合
もある︒
津田左右吉書簡を巡る現況 続いて︑津田書簡を巡る現況についても簡単に触れておく︒
活字化された津田書簡として基本的位置を占めるのが︑第二次﹃津田左右吉全集﹄補巻一・二︵岩波書店︑一九八九
年︶所収のそれである︒﹃津田左右吉全集﹄は︑第一次︵一九六三〜一九六六年︶︑第二次︵一九八六〜一九八九年︶と二
度刊行されており︑第二次全集は︑第一次全集全三三巻の再刊︵月報は新規︶に加え︑書簡・補遺・年譜などを収め
た補巻二巻を加えた︒
この補巻所収書簡の特徴については︑第二次全集編集に協力した今井修の言及がある 5︒そのなかで本解題にとって
重要な指摘は︑明治・大正期の書簡が特に乏しく︑昭和戦前期のものも決して豊富ではない点︑収集範囲がほぼ教え
子と近親者に限られる点である︒編集関係の宛名を探してみると︑岩波書店出版部︑吉野源三郎︑布川角佐衛門など︑
点数は乏しい︒
全集刊行後に活字化された津田書簡としては︑先述の﹃早稲田・一九五〇年・史料と証言﹄別冊・資料篇掲載の藤
川宛書簡計一二通の他︑第三次﹃和辻哲郎全集﹄別巻1・2︵岩波書店︑一九九二年︶月報掲載の和辻宛書簡計八通︑
飯田泰三監修・岩波書店編集部編﹃岩波茂雄への手紙﹄︵岩波書店︑二〇〇三年︶掲載の岩波宛書簡計二通が知られて
いる︒
早稲田大学関係のものについては︑先述の大学の取り組みの一環として︑資料紹介・翻刻が進められた︒先述の﹃史 料としての﹃日本書紀﹄ 津田左右吉を読みなおす﹄では︑藤原秀之が大学図書館所蔵の駒井和愛旧蔵資料に含まれる
駒井宛書簡一一九通の一部を紹介・翻刻し 6︑﹃津田左右吉とアジアの人文学﹄二︵二〇一六年︶では︑真辺将之が大学
史資料センター所蔵の西村朝日太郎資料に含まれる西村宛書簡四通︑田村八束穂氏寄贈資料︵田村専之助旧蔵資料︶中
の田村専之助宛書簡二九通を紹介・翻刻した 7︒また︑先述の﹁近代日本の人文学と東アジア文化圏│東アジアにおけ
る人文学の危機と再生│﹂第三研究グループ﹁早稲田大学と東アジア│人文学の再生に向かって│﹂共催のシンポジ
ウムにおける報告をもとに執筆された尾崎名津子論文において︑岩波書店所蔵の安倍能成宛書簡一通の一部が紹介・
翻刻されている 8︒ とはいえ︑第二次全集刊行以後に紹介︑活字化された書簡の量は豊富とはいえない︒こうしたなか︑今回翻刻・再
刻する藤川宛書簡は︑補巻所収分において相対的に乏しい昭和戦前期書簡︑そして︑同じく乏しい編集者宛書簡を新
たに追加する意味をもつ︒
本書簡群からみた出版法違反事件
本書簡群のうち︑もっとも史料的価値が高いのが出版法違反事件関係のものである︒ ここで簡単に事件の経過を概観しておく︒一九三九年一〇月から一二月にかけて︑津田は東京帝国大学法学部に新
設された東洋政治思想史講座に出講したが︑一二月の終講に際して津田に反感を抱く一団が非難を浴びせ︑同月中に
津田を弾劾する帝大粛正期成同盟の声明書︑﹃原理日本﹄臨時増刊号が出されるに至り︑期成同盟は内相・警保局長
に津田著書の発禁処分を要請した︒
こうした情勢を受け︑翌一九四〇年一月に津田は早稲田大学を辞職したが︑同月中に内務省による岩波茂雄への尋
問が行われ︑翌月には津田が東京刑事地方裁判所検事局で計七回の聴取を受け︑﹃古事記及日本書紀の研究﹄﹃神代史
の研究﹄が発禁︑﹃日本上代史研究﹄﹃上代日本の社会及び思想﹄が一部削除処分を受けた︒そして︑三月に津田・岩
波が出版法第二六条︵皇室の尊厳冒涜︶で起訴された︒
津田は六月から翌一九四一年二月まで計二九回の予審訊問を受け︑その後︑同年一一月から翌一九四二年一月まで
計二一回にわたって公判が行われた︒結局︑起訴事実の一部が有罪となり︑一九四二年五月には津田に禁錮三ヶ月︑
岩波に禁錮二ヶ月︵ともに執行猶予二年︶の第一審判決が下った︒検事側はこれを不服として控訴したため津田・岩波
側も控訴したが︑その後の裁判所の手続きがなされず︑一九四四年一一月︑東京控訴院において﹁時効完成により免
訴﹂の宣告を受け︑事件は終結を迎えたのであった︒
同事件については︑﹃早稲田大学百年史﹄第三巻︵早稲田大学出版部︑一九八七年︶が第七編第十二章に﹁津田左右吉
出版法違反事件﹂の一節を立て︑大学所蔵の関係資料を活用してその経過を詳述している︒その他の活字化された同
事件の基本資料については今井修が言及しているが 9︑本書簡群はそうした諸資料を補い裏付けるのみならず︑津田の
事件への対応・感情をより深くうかがい知る手がかりとなるものであり︑補巻所収書簡と付き合せて読解していく必
要があろう︒
本書簡群における事件関係記述は︑検事局の聴取開始の二日目に書かれた︻709︼︵一九四〇年二月六日︶から始
まり︑以降は予審・公判に備えた協議や書類作成に関するやり取りが続いていく︒先述の通り︑︻746・769︼︵一
九四一年八月四日︶によれば藤川は公判開始前に岩波書店を退店しており︑その後は津田の公判経過報告となっている︒
津田は戦後︑事件について聴き取りを行った大久保利謙に対して︑世間で事件を﹁官権の学問弾圧﹂と捉えるが︑
自分はあくまで﹁官権の発意﹂ではなく︑﹁官権が右翼者流の言論に引づられた﹂ものと捉えており︑﹁予審判事︑裁
判長などの司直の人々も自分には充分に理解のある態度を示して呉れた﹂と述べた A︒こうした事件観は戦後になって
形成されたものではなく︑補巻所収書簡や本書簡群の段階でうかがえるものである︒
本書簡群で注目されるのが︑書類作成に関するやり取りである︒津田は裁判に際して︑自己の学問的立場を弁明し
た①﹃上申書﹄︑②﹃神代史及ビ上代史研究史資料﹄︑③﹃神代史及ビ上代史研究史資料補遺﹄︑④﹃神代史及ビ上代
史研究史資料補遺 神代史及ビ上代史ニ関スルヨーロッパ人ノ説﹄︑⑤﹃神代史及ビ上代史研究史資料続補遺﹄︑⑥﹃﹁古事記﹂及ビ﹁日本書紀﹂ヨリノ抜萃﹄︑⑦﹃﹁古事記及日本書紀の研究﹂﹁神代史の研究﹂﹁日本上代史研究﹂﹁上 代日本の社会及び思想﹂ヨリノ抜萃﹄︑⑧﹃﹁神代史の新しい研究﹂﹁神代史の研究﹂﹁古事記及 ︵ママ︶日本書紀の新研究﹂﹁古
事記及日本書紀の研究﹂﹁日本上代史研究﹂﹁上代日本の社会及び思想﹂ニ対スル世評﹄︑⑨﹃本人の学術的研究によ
りて到達したる皇室の尊厳及び国体に関する見解│既刊書よりの抜萃﹄︑⑩﹃文学博士津田左右吉氏著作目録﹄︑そし
て控訴審に向けて再度まとめた⑪﹃上申書﹄を作成した B︒ このうち︑②〜⑤の﹁研究史資料﹂と題された一群は︑起訴事項に関係する古来の諸学説の集成とそれに対する短
評で︑作成意図は最も長文の︻751・971︼︵一九四〇年九月一〇日︶で語られている︒すなわち︑裁判官には﹁学
説の当否を判断することができない﹂ため︑﹁僕と同じことを他の学者がいつてゐるかどうか﹂︑そして﹁現代の学界
の状態﹂を理解させようとする試みであり︑︻767︼︵︹一九四〇年八月︺六日︶や︻721・762︼︵一九四〇年一二
月二三日︶で津田が調べさせている黒板勝美﹃国史の研究﹄や︑﹃島根県史﹄︑﹁チェムバレンやアストンやフロレンツ
の説﹂など︑諸家の説が集成︑批評された C︒︻712︼︵一九四〇年四月一五日︶や︻722・763︼︵一九四〇年一二
月一七日︶で言及されている﹃神代史の研究﹄に対する図書館協会の推奨や﹃史学雑誌﹄その他における紹介は︑⑧
に記載されている D︒
また︑︻753・768︼︵一九四〇年四月二一日︶の﹃支那思想と日本﹄に関する誤報への訂正依頼や E︑︻750・
770︼︵一九四二年五月二八日︶の第一審判決に対する新聞報道への訂正は︑事件の内容や経過が誤って伝えられな
いようにと願う津田の態度をよくあらわしていよう︒
こうした事件への対応は岩波書店の協力なくしては困難であり︑本書簡群からは津田の事件への対応・感情が読み
取れると同時に︑岩波書店およびその編集者との具体的な協働作業のありようがうかがえるという意味で︑史料的価
値があると評し得よう︒
他方︑津田は弁護人の態度には不満足であった︒栗田宛書簡には︑学問的態度で公判に臨もうとする津田に対する 弁護人の無理解への不満が散見され︑栗田も後年その旨を述べているが F︑︻751・971︼︵一九四〇年九月一〇日︶
その他からも︑そうした感情が伝わってくる︒
なお︑︻767︼︵︹一九四〇年八月︺六日︶は︑事件の渦中にあって母親を思う津田の心情を伝える︒津田は母親に
事件のことを知られたくなかったようだが︑新聞を毎日読む母親は事件を知ってしまった︒しかし︑﹁﹁世間には昔か
ら探 いぬ偵というのがいるからね﹂と言われただけで︑別に気にする風はなかったと先生の夫人から伺いました﹂と栗田 は伝えている G︒
本書簡群からみた津田の生活風景
本書簡群から浮かび上がってくるものとして︑研究を中心とした津田の生活風景も合わせて見逃せない︒ 編集者宛らしく︑事件前は原稿や校正︑著書再販や雑誌発行に関する書簡がほとんどである︒原稿提出の延期や︑
執筆の遅延を伝える︻698︼︵一九三五年八月九日︶︑︻704︼︵一九三九年二月二日︶などを見ると︑多忙で閉口する 津田の姿がうかびあがってくる︒一九三九年八月二二日には栗田直躬に自著の索引改訂の校正を依頼しているが H︑そ
の前日に書かれた︻705︼︵一九三九年八月一六日︶は論文執筆中の教え子の仕事を増やすことを躊躇している︒こ
うしてみると︑当時の津田の研究生活には教え子たちの協力が不可欠であったことが改めて確認され︑同時に︑津田
に献身した栗田の姿が一層強くうかびあがってもこよう︒なお︑本解題末尾に掲げた︻706︼︵一九三九年九月九日︶
同封の正誤表は︑一九三九年一一月刊行の﹃道家の思想と其の展開﹄についてのものである︒
︻701︼︵一九三八年三月九日︶で話題にされているのは︑一九三八年年頭の﹃帝国大学新聞﹄﹁回顧と展望 社会 科学﹂欄で﹁歴史学﹂を担当した羽仁五郎による記事﹁史学任務の自覚﹂とみられる I︒同記事は︑時勢に追従する学
問を批判しつつ︑﹁歴史学の本分をかたくまもり︑この重大な時期に最大の歴史学的貢献をなしたものとして︑本年
度を通じ第一に指を屈せらるべき﹂ものとして津田の業績を挙げ︑﹁時代乃至現代に最も敏感にしてしかも時勢にお
されず自ら最善最良の進路を自己の確信と自己の実力とによつてひらかねばやまぬ民衆の一人としてこの民衆を代表
して居る﹂と津田を絶賛するものであった J︒ さて︑出版法違反事件の発生によって津田の生活は大きく圧迫されることとなったが︑そのなかでも研究が停止す ることはなかった︒事件の渦中にあっても︑津田は教え子らと組織する東洋史会に出席し︑報告も行った K︒戦時下に
行われた儒教研究は︑﹃論語と孔子の思想﹄に結実している︒
本書簡群も︑事件下で教え子とともに研究を続ける津田の姿を伝える︒︻730︼︵一九四一年五月二八日︶︑︻744︼︵︹一九四一年月不明︺五日︶︑︻742︼︵︹年月不明︺八日︶は︑岩波書店の﹃哲学辞典﹄︵戦争の激化で刊行中止︶の項目執 筆にいそしむ津田の姿を伝えている︒全集補巻一所収の栗田宛書簡 Lおよび︻728︼︵一九四一年四月五日︶︑︻744︼
が伝える︑栗田︑相良克明の両名に対する風樹会 Mの研究費補助に配慮する津田の姿も見逃せない︒ なお︑︻744︼によれば︑津田は風樹会の研究費をもとに︑栗田・相良と一緒に﹁二三年がゝり﹂で行う﹁少し
大きい共同の研究題目﹂を構想していたらしい︒執筆時期は︑おそらく三月末に予審終結決定が提出され︑事件が公
判に付されることが決定した頃であろう︒そのような状況下で述べられたこの計画は︑厳しい時局であるからこそ地
に足のついた研究が必要であるという︑津田の学問に対する姿勢を示している︒
おわりに
以上︑簡略ではあるが︑藤川覚宛津田左右吉書簡の翻刻に際し︑その内容および若干の関連事項に言及した︒ 第二次全集刊行以後︑津田関係資料の整備や公開︑情報共有が進んだとは必ずしもいえないという指摘があるが N︑
今後は︑こうした研究の基盤形成が求められていよう︒その意味で︑本稿のような書簡の翻刻などの基礎的作業は︑
各方面で一層進められるべきものである︒本書簡群の翻刻が︑今後の津田研究の発展にいささかなりとも寄与すると
ころがあれば︑幸いである︒
註︵
1日典事大物人史動運会社本代︶近﹃﹂︵覚川藤﹁郎四村本﹄ 4︿日外アソシエーツ︑一九九七年﹀︶一一九〜一二〇頁︒同書の記載については︑三橋広延氏の御教示を得た︒ ︵
︒た得を答回御のと 在の川藤︑と現︑ろこ籍た在にきする資料は確認で関ない 店波書社に照会し岩会頁執三式︒本解題筆にあたり︑株四 2﹃岩波書波店八十年﹄︵岩︶書店︑一九九六年一一三︑二︶
︵
︵ -toltma.hud̲tstsute/totsuteun/ba.jpedas.www/wp:/htt 3︶
︵ ︒﹀︶年八八九 全二﹄集田吉右左所八︿収月報﹃岩波書店︑一津次第︵二 4記今井修﹁﹁津田左右吉伝︶資﹂・﹁津田文庫﹂について﹂料
︵ 二︒﹀︶年四〇〇 ︑﹄︿そム人と時代展示図録の美ミ濃アーュジ民市茂加 同そ﹁津田左右吉と田の時代﹂︵﹃津左右吉年︶︑〇九一九 田必左右吉の基礎的研究の性要・﹂︵﹃史学史の窓﹄八︑津 5て全・今井修﹁﹃津田左右吉集せ﹄︵第2次︶の完結によ︶
︵ 誠右吉を読なおす﹄︿勉み出一版︒﹀︶年一〇二︑ し本ての﹃日田書紀﹄津左料と史﹃編年万川早・男亀登 6藤原秀之﹁書津簡にみる︶田左右吉の識︑心情﹂︵新川意
︵ 簡ターが所蔵するの津田書他にしつるいて︒及もてい言 西村田・村で︑は文論津宛宛田ほン書同︑かセの刻翻の簡 吉アジアと田右左編津﹃の人文一学同︶︒六年〇二︑二﹄ 学﹁早稲田大﹂と東アジアープルア圏グジア文化﹂第三研究 研成形盤基究的略戦学大援支事と﹁近代日本の人文学業東 資ンセ料ー史学大学大田タ中所蔵資料を心に│﹂︵私立稲 7│吉早真辺将之﹁津田左右と学東京専門学校・早稲田大︶
書科店│﹂︵﹃弘前大学文社会人学〇論年九一︶二六﹄叢︑ 尾子津名崎八︑頁六波津﹁岩田務事と閲検省文内│脈の件 lnaurJoS AILRa asWed︶三〜七六三一年五七﹄︵﹃︑二〇 ストの読み方│津田左吉右をぐって│﹄会議録﹂め 8︶ポ新川登亀男編﹁国クシン際ジのテウ建再と学文人﹃ム ︵ 三三〜三四頁︒
9す没﹃﹃﹂︵料資本基るに関︶件事田津﹁修井今後
︵ 一田大学︑二〇一年﹀︶二七頁︒ ジ稲早・ムアー図録吉展﹄展示ュ﹄︿左美濃加茂市民ミ右 50田津年
︵ ったようだが︑未稿に終わ定た︶︵頁六二︶︒9註掲前︵ る身自︑たをえ伝相実記でめ録志をてっ持をい意るす筆執 五頁六七〜収七︶八所﹀年︒津田いはに間世てつに件事︑ 弘立﹄︿吉川の文館︑一九八成学史代近本日﹃7集作著史 年房書草勁﹄百のかなの一︑九謙二年︒後︑大久保利五歴 │左田津吉圧弾究研史代右﹂︵の起訴│向坂逸郎編﹃嵐の古 10 ムれ大久保利謙﹁ゆがめらたズ歴史﹂の第三節﹁ファシ︶
︵ 九全集﹄補巻二︿岩書店︑一波八〜︒九三六三頁二三﹀︶年六 井田津﹁修頁今︑七〜右左﹂︵吉津年吉左田右﹃次二第譜 岩全集﹄一〇所収月報︿九波書店︑一八七年﹀︶五右吉左 直件田躬﹁思い出㈢起訴事│の第津前次二﹃﹂︵│続︑後 ﹀︶︿岩波書店︑一九六年五六一九〜六二〇頁︒栗田二四 11 ﹄﹁津田左右吉全集編集室編集集後記﹂︵﹃津田左右吉全︶ アいそれぞれ複数箇挙示して所るン︒ンレバ︑ェ︑は④チ 島一﹄史根纂﹃掛編史県二・県︵二を︶年二︑九根一島県︑ 引堂書松︑一九一三年︶の房例用内と根島部務県根島てし し代史の新︑﹃い研究﹄︵二神を︵︑︶岩波書店一九三二年 ﹄波岩︵説総究研の史国店書︑説九三一年︶および各一上 史す関に学代上・史代神るし説の一つとて黒板﹃更訂は︑ 12 ②別早稲田大学図書館特資︑料室所蔵本で確認すると︶
ストン︑フローレンツ︑マードック︑フレイザーの説を紹介している︒なお家永三郎﹃津田左右吉の思想史的研究﹄︵岩波書店︑一九七二年︶三〇六〜三〇七頁では︑黒板﹃更訂国史の研究﹄各説上の津田説理解に対して②で示された短評が紹介されている︒
この一群は分冊状態を﹁組みかへ補訂して一括し﹂たものが﹃日本古典の研究﹄下︵岩波書店︑一九五〇年︶に再録され︑⑪とともに﹃津田左右吉全集﹄二四に収録されたが︑これは﹁明治の前半期以後昭和期に至る学者のと︑ヨウロッパ人のとを削除し﹂たものであり︵同巻﹁編集後記﹂六二〇頁︶︑右の諸説は登場しない︒︵
︵ ︒るいてし挙列を事 諸諸・誌雑示︑かほるすの家作著田記介の著紹津るけおに 新挙で頭冒を︶﹂刊後本推災図書館協会奨﹁図書目録︵震日 13 ⑧は︑﹃三図書館雑誌﹄六︶︵一九二四年︶一頁掲載の三
︵ ︶︒り と報じている︵津田四三頁が記五しの頁三誤はるいての 版日本﹄絶るとな﹂と想と思筆那支﹃︑﹁は欄﹂報月化文﹁ 14‑ 一九四〇年科四月刊行﹃︶学ペン﹄五四載の村上哲執掲 15 公資史代現﹃﹂︵判と︶生先田津﹁田栗料
︵ ︑註田栗掲前︑頁五﹀︶年六七九一房書ずすみ︿報月収 42所﹄制統想思
│続㈣│起訴事件の前後︑﹂︵い第二次﹃津田左右吉全出 11思︶﹁い出㈢│起訴事件の前後﹁︑続│﹂五〜六頁︑同思 ︵ 集九︒頁一一︑八﹀︶年七八一一︑店書波岩︿報月収所二﹄
︵ 波全集﹄九所収月報︿岩書右店︑一八九七年﹀︶七頁︒吉 16 ︶訴栗田﹁思い出㈡│起事田件の前後│﹂︵第二次﹃津左
︵ ︶︒頁 一﹄補巻一︿岩波書店︑八九全九年﹀一一〇〜一一一集吉 17 付一九三九年八月二二日︶右田宛書簡︵第二次﹃津田左栗
︵ 一︶︒面四付日一月一年八三九 18 務学羽仁五郎﹁歴史学史任の﹄聞新学大国︶﹃﹂︵覚自帝
︵書栗田宛付簡前掲註︿ ででかいな勢きむ時御﹂すらと〇述日八八年月四九一︵べ がつてゐたやうですの﹁民衆﹂は此際︑かいと家史歴の﹂ はよとかいめが方たひや思︑ますは羽仁君が僕を﹁民衆或 19 聞判なお︑津田は後の裁資新料作成にあたって︑﹁帝大︶
︵ の︒たっかなし載掲を価評田津 17︶羽に⑧︑﹀︶頁七二一〜六二一仁
︵ ︶二五︑一九九三年一要一二〜一一三頁︒﹄ 20 田と今井修﹁津田左右吉﹁大東洋史会﹂﹂︵﹃早稲記史︶学
︵︵註掲前 21 一五一九四簡書宛田栗付日二年月三︶同・付日六一月一年
︵ 17︶一五〇︑一五二頁︶︒
︵ 三店一九五七年﹀︑九〜四〇〇頁︶︒五 岩︵安倍能成﹃﹄︿波茂雄伝岩波書団体成るす対に者究助 22 一〇四九樹︑は会一風年︶一月に岩茂雄が設立した︑研波 23 ︶前掲真辺註︵7︶七三頁︒
︻706︼︵一九三九年九月九日︶同封の正誤表
〇凡例
一︑書簡は時系列で配列した︒年または月が不明のものは︑各年・月の末尾に配列し︑年月ともに不明のものは︑最
後尾に日付順に配列した︒
一︑各書簡冒頭の番号は︑﹁﹃早稲田・一九五〇年・史料と証言﹄関係資料﹂の資料番号である︒別々の資料番号が付
された封筒と本文で︑一体と認められるものは両者を結合し︑重ねて番号を付した︒
一︑﹁新資料・津田左右吉書簡﹃裁判の日々﹄﹂︵﹃早稲田・一九五〇年・史料と証言﹄別冊・資料篇︑二〇〇〇年︶で既に翻
刻されているものには日付の下に※を付した︒
一︑改行は宛先・差出人のみ修正した︒
一︑字体は現在通用のものに修正した︒
一︑仮名遣いは原則として平仮名に統一し︑濁点・句読点は適宜修正した︒
一︑封筒のみのものは翻刻を省略した︒資料番号と年代のみ左に記す︒
︻741︼ 昭和
15年3月 21日 ︻727︼ 昭和
16年3月
26日 木廣尚 剛邉渡
刻 翻
︻752︼ ︹年不明︺
10月7日 ︻738︼ ︹年月日不明︺
︻698︼ 昭和
10年8月
19日
︹封筒表︺
東京市神田区︑一ツ橋通町 岩波書店 藤川覚様
︹封筒裏︺
群馬県吾妻郡北軽井沢︑法政大学村 津田左右吉 八月十九日
︹本文︺
お手紙拝見しました︒
講座の原稿は十月発行のに間に合ふやうに
﹁東洋文化の特質﹂を書くつもりでゐました︒まだ
少しも手をつけてゐないのですから︑九月のには無理
かと思ひます︒からだの工合は東京にゐた時よりは
よほどよくなりましたが︑それでも︑あまりつめて仕事を
すると︑つかれが早く来るので︑ボツ〳〵しかできません︒
それに︑早稲田の哲学年誌といふものに書くことを頼まれ︑
休み中に何とかしようといふ返事をして置いたのですが︑
此の方もまだ着手してゐないやうな次第です︒これは
三年も前から毎年頼まれてゐたのを︑今までことわつて
来たのですが︑今年はとう〳〵承知したのです︒そんな
状態ですから︑僕としては十月のにして下されば幸です︒
もつとも書くことは大体腹案がありますから︑ボツ〳〵
書いてみてもよいのですが︑是非とも九月のにまに合はせる
お約束をすると︑期限のあることですから︑無理をしなければ
ならぬやうなことが起らぬとも限らず︑多少さうなりさうで
すから︑むりをせぬ程度で書いていつて︑もし期限までに
できたら御送りするし︑できなかつたら次のに延ばす︑といふ
ことにして下されば︑とにかく書きかけてみませう︒しかし
︹後欠︺
︻700︼ 昭和
12年9月
24日
︹葉書表︺
神田区︑一ツ橋通町 岩波書店 藤川覚様
麹町五ノ七ノ二︑津田左右吉
︹葉書裏︺
昨日は天野君の﹁道理の感覚﹂御贈
与下され︑有り難う存じます︒昨夜︑一気に
読了しました︒同君にお会ひの時もありましたら
よろしく御伝へを願ひます︒
二三日前に小林君が御いで下されたところ︑
風邪をひいて臥床中で失礼しました︒昨日
からほゞ熱が下つたので︑今日は起きました︒
もう大丈夫でせう︒同君によろしく︒
御礼かた〳〵 草々 廿四日
︻701︼ 昭和
13年3月9日
︹封筒表︺
神田区一ツ橋通町 岩波書店 藤川覚様
︹封筒裏︺
東京麹町区麹町五ノ七ノ二 津田左右吉 九日
︹本文︺
お手紙拝見︑
口絵のことについては︑別紙校正刷の余白に書いて
みましたが︑こんなことでよろしくば︑然るべく御取計
下さい︒
帝大新聞お見せ下され︑有り難う存じます︒あまり大きく
評判せられて少からず恐縮︑功八級ぐらゐに格下げ
をして欲しいと存じます︒草々
九日 津田左右吉 藤川様
新聞は御保存用のではないかと存じますが︑
此の次御めにかゝる時まで御預り致して置きます︒
︻702︼ 昭和
13年7月8日
︹封筒表︺
神田区︑一ツ橋通町 岩波書店 藤川覚様
︹封筒裏︺
麹町五ノ七ノ二 津田左右吉 八日
︹本文︺
拝啓
正誤表︑別紙のやうなことになりますから︑然るべく御計
らひを願ひます︒すべて御まかせ致しますから︑よろしく︑
元気がよければ明後十日ごろ山の方へでかけるつもり
で戻ります︒
﹁東洋思想研究﹂の原稿︑今月下旬に取まとめるはずに
致してあります︒万事︑出石福井両君に依頼して
置きましたから︑両君からいろ〳〵御相談致すことゝ存じます︒
何分よろしく御願致します︒頁数は昨年より
少し少いかと思ひます︒九月二十日ごろに出来上れば
結構と存じますが︑いかゞでせうか︒なほ費用の点︑昨年
とはいくらか違ふかと存じますが︑御序の節︑一応はしらべ
置を願ひ度いと存じます︒これは相馬氏の方へ予め話して
置きたいと考へるからであります︒草々頓首
七月八日 津田左右吉 藤川様
︻703︼ 昭和
13年8月6日
︹封筒表︺
東京市︑神田区︑一ツ橋︑二ノ三︑岩波書店 藤川覚様
︹封筒裏︺
群馬県︑吾妻郡 北軽井沢︑法政大学村 津田左右吉 八月四日
︹本文︺
お手がみ拝見︑
いろ〳〵御手数ありがたう存じます︒
御考の如く甲案︵四八〇頁︑五百部︶に従ひたいと存じます
ので︑出石福井両君の方へも其のやうに申して置きました︒
何れ両君から決定的に御依頼致すことゝ存じますから︑
其の上で︑よろしく御計らひを願ひます︒
種々御面倒をおかけすることゝ思ひますが︑何分
万事よろしきやう御願致します︒
草々頓首 四日 津田左右吉
藤川様
︻704︼ 昭和
14年2月2日
︹封筒表︺
神田区︑一ツ橋︑岩波書店 藤川覚様
︹封筒裏︺
麹町区麹町五ノ七ノ二 津田左右吉 二月二日
︹本文︺
拝復
御病気御快癒の趣︑おめでたう存じます︒
実はその後の御経過いかにやと御案じ申上げ
居りながら︑御うかゞひも致さず打過ぎましたが︑
お手紙を拝見して安心致した次第で御座います︒
なほ御病後の御摂養をひたすら祈り
上げます︒
御手紙にありました﹁支那上代思想史﹂は今年
になつたら早く書き初めるつもりでゐましたところ︑
昨年中にすべきことが今年にもちこされたりしたゝめ︑
まだ起稿の運びにまゐりませぬ︒来月にでも
なつたら筆をとることができようかと思つてゐます︒
なほ過般︑布川君から︑東洋文庫で出した
﹁道家の思想﹂の再版についてのお話がありましたので︑
そのことも考へてゐますが︑いづれお目にかゝる
機会がありましたら︑いろ〳〵御相談申上げ
たいと思ひます︒再版は文庫の方では差支が無いことに
なつてゐるさうです︒
御返事かた〳〵右まで︑
くれ〳〵もお大事に︑草々
二月二日
津田左右吉
藤川様
机下
︻705︼ 昭和
14年8月
16日
︹封筒表︺
東京市神田区︑一ツ橋︑二ノ三 岩波書店 藤川覚様
︹封筒裏︺
群馬県︑吾妻郡北軽井沢︑法政大学村 津田左右吉 八月十六日
︹本文︺
拝啓
校正につき毎々お手数を煩はし︑ありがたう
存じます︒
索引改訂の用意をそろ〳〵致さねばなるまいと
存じますから︑そのために最後の校正刷を一通
つゝお揃へ置き下され︑便宜御送りを願ひ
たいと存じます︒だれかに頼むつもりですが︑
実は頼まうとする若い人たちが︑だれもみな
今年の報告にのせる論文を書いてゐるので︑
その余裕がないかと考へ︑どうしようかと
躊躇してゐるやうな次第です︒しかし何とか
致さねばなるまいと思つてゐますから︑とにかく
その用意に前記のことだけを御願ひしておきます︒
この二三日︑こちらは涼しいといふよりは寒いほどですが︑
東京はやはりお暑いことゝ存じます︒まだ〳〵
暑さがつゞきませう︑御健康を祈ります︒
なほ校正をして下さる方によろしく御伝へ
を願ひます︒ 敬具 八月十六日 津田左右吉
藤川様
机下
︻706︼ 昭和
14年9月9日
︹封筒表︺
東京市神田区︑一ツ橋︑岩波書店 藤川覚様
︹封筒裏︺
群馬県︑吾妻郡北軽井沢︑法政大学村 津田左右吉 九月九日
︹本文︺
おはがき拝見しました︒
僕は最大限︑ここに居るつもりなので︑十六七日に帰京
する予定にして居ります︒索引の改訂は︑研究室のたれかに
してもらふことに打合はせをして置きましたから︑便宜
上︑左記へ校正刷は御送り下さい︒
板橋区︑小竹町︑二六七八︑ 栗田直躬氏
もつとも一応こちらへ御送り下されてもよろしう
ございます︒別段僕が目をとほす必要は無いと思ひ
ますが︑それでも見れば︑改訂のしかたについて何かおもひつくことが
あるかも知れませぬから︑十一日からは東京からの郵便
は三日目でなくては届かぬやうになりますが︑もし
できている分を十一日に御出し下されば十三日にはつき
ませう︒さうしますれば︑あとは一両日しかありませぬから︑
帰京の時に持つて帰り︑しごとをしてくれる人に
あつて話をすることになりませう︒あとの分は帰京後
に拙宅に御送りを願ひます︒遅くとも十七日には
帰ります︒
封入しました﹁再版のまへがき﹂原稿︑然るべく御計
らひ下さい︒これは最初に︑︵原版にある﹁まへがき﹂の
前に︶︑入れた方がよいかと思ひます︒校正のかゝりの
方のお名前を御面倒ながら御記入下さい︒
草々
九日
津田左右吉
藤川様
机下 ※正誤表添付︵解題に写真掲載︶
︻745︼ 昭和
14年9月
13日
︹封筒表︺
東京市神田区︑一ツ橋︑岩波書店︑藤原覚様
︹封筒裏︺
北軽井沢にて 津田左右吉
︹本文︺
御はがき拝見︑並に︑校正刷落手致しました︒
校正係の方に二重の手数をかけたことを感謝します︒
きれいになつてゐますが︑あちこちあけて見ますと︑しるしの
つけてないところに誤植が少しあるやうに思はれます︒
︵例へば
42頁7行 71頁3行︑
157頁 12つろことるゐてな行に横の字文に︑︑
︵
70頁7行︑︵一篇を︶
116頁 14下にうやのどな︑倒顛上行の字文に︶想思の道︵︑︶
多分校正係の方も気がついてゐられるだらうと思ひますが︑
しるしがついてゐませんから︑或は見おとしかとも存じます︒
それで一応全体をざつと目をとほし僕の気のついた箇所をおしらせ致し
ませう︒もし校了前でありましたら︑然るべく︑御計
らひを願ひます︒
十六日に帰京のつもりです︑取急ぎ右まで
早々敬具
十三日夜
津田左右吉
藤川様
︻707︼ 昭和
14年 11月5日
︹封筒表︺
東京市神田区︑一ツ橋︑岩波書店 藤川覚様
︹本文︺
﹁道家の思想とその展開﹂原稿︑並にお使で
お届け下さいました五部︑たしかに受取りました︒
東洋文庫の方は要求する部数がまだ決
定しませんから︑あとでよろしうございます︒
何れ僕からお知らせ致します︒
﹁東洋思想研究﹂の原稿の一部を先日御いでの
節に御渡しするつもりでゐて︑すつかり忘れました︒
御都合次第で一寸御使でも下されゝば何時
でも差出します︒何分よろしく御願ひ致し
ます︒早々
五日 津田左右吉
藤川様
︻708︼ 昭和
14年 11月 29日
︹封筒表︺
神田区︑一ツ橋︑岩波書店 藤川覚様
︹封筒裏︺
麹町区︑麹町五ノ七ノ二 津田左右吉
︹本文︺
拝啓
明後金曜日の夕かたから︑研究室のものが
集つて︑手軽な晩食をしながら雑談する
ことになつてをります︒御差支なくば森君と
御同道︑御いで下さいませんか︒
場所は 四谷見附外の三河屋︑ 時刻は 四時からといふことになつてゐますが︑ 御都合で五時ころでも結構でございます︒
報告の出版で御せわになつてゐますので︑皆の
ものがおちかづきになつて置きたいといふ意味で
あります︒御さしくり︑御いでを御まち申します︒
森君には別に手紙をあげませんから︑よろしく
御伝へ下さい︒早々
廿九日
津田左右吉
藤川様
︻709︼ 昭和
15年2月6日
︹封筒表︺
神田区︑一ツ橋︑岩波書店 藤川覚様
︹封筒裏︺
麹町五ノ七ノ二 津田左右吉 六日
︹本文︺
拝啓
先刻おいで下されしよし︑失礼しました︒
毎日終日ひつぱられ︑何となしに疲れます︒今週
一ぱいぐらゐかゝるらしく︑閉口してゐます︒検事は
相当に話がわかり︑普通の場合とは違つた態度で
取扱つてゐるやうに見え︑大して不愉快な思ひも
しませぬ︒勿論︑愉快ではありませぬが︒
﹁思想﹂の昭和九年五月号の﹁日本精神﹂特輯号
の残りが一部ありませんでせうか︒あつたらゆづつて
頂きたいと思ひます︒僕の思想を表示したものとして︑検事に
見せようかと思つてゐます︒見せてよいかどうか︑一寸
考へもしますが︑よからうと思はれます︒いかがで
せうね︒草々
六日夜 津田左右吉
藤川様
御主人によろしく御伝へ下さい︒先日お訪ね
下されたところ︑出かけたあとでお目にかゝれませんでした︒
︻710︼ 昭和
15年2月
19日
︹封筒表︺
神田区︑一ツ橋︑岩波書店 藤川覚様
︹封筒裏︺
麹町五ノ七ノ二 津田左右吉
︹本文︺
拝啓
先日は失礼︒
十五日でやつと片つきましたが︑なほ書面で僕の見
解を提出することにしましたので︑今それを書いてゐます︒
明日は出来上ると思ひます︒
昨日きいたことですが︑例の印刷物を見たものがあつて︑岩波もパンフレツトを
出したさうだ︑といふことをいつてゐるものがあるさうですが︑
あれは今︑少しでも世に出さない方がよいと思ひます︒然るべく
御計らひ下さい︒
今のところは︑できるだけ静観する方がよからうと
存じます︒貴族院に予算がまはると︑予算委員会で
たれかゞ何か一寸くらゐ質問でもすることがあるのではないかといふ想
像をするものもあります︒それを未然に抑へることはよいかも
知れませんが︑右翼を刺激して彼等の声を大にさせることは
よくないと思ひます︒司法部も世間の声を気にしてゐるらしい
形迹があるかと思ひます︒草々
十九日
津田左右吉
藤川様
︻711︼ 昭和
15年4月1日
︹葉書表︺
神田区︑一ツ橋︑岩波書店 藤川覚様 麹町五ノ七ノ二 津田左右吉
︹葉書裏︺
拝啓
先日御話のこと︑﹁古事記及日本書紀の研究﹂
の分だけできましたから︑一寸御使でも
お遣はし下されば幸いです︒﹁神代史の
研究﹂も同時にと思ひましたが︑此の三四日
机に向つてゐる時間が殆ど無かつたので︑
今日はまにあひませんでした︒両三日中
に致すつもりです︒草々
四月一日 早朝
︻712︼ 昭和
15年4月
15日
︹封筒表︺
神田区︑一ツ橋︑岩波書店 藤川覚様
︹封筒裏︺
麹町五ノ七ノ二 津田左右吉 十五日
︹本文︺
拝復
両度のお手紙拝見︑いろ〳〵ありがたう存じます︒
﹁神代史の研究﹂の推奨はやはり図書館協
会であつた由︑先日早大図書館で調べてもらひ
ましたところ︑わからぬといふことでありましたが︑おかげで
はつきりして愉快に存じます︒﹁記紀の研究﹂
の方は僕には全く初耳ですが︑今日栗田
氏がまゐりましたから早大で官報を一応しらべて
くれるやうに頼んでおきました︒文部時報といふもの
のあることは存じませんでしたから︑それは申しま
せんでした︒あまりお手数をかけるのも恐縮
ですから︑早大でわかることなら栗田氏などに
しらべて貰ふことにしようと思つてゐますが︑
どうしてもわからないやうでしたら︑よろしく
御願致したいと存じます︒僕のことで御奔走
下され︑お仕事の邪魔をしてはいけないとおもひながら
やはり御願することになります︒
なほ史学雑誌その他の学術雑誌に出てゐる
紹介を調べてくれるやう栗田氏に頼んでおき
ました︒
御返事かた〳〵御礼まで 敬具 十五日夕 津田左右吉
藤川様
机下
︻753・768︼ 昭和
15年4月
21 日※
︹封筒表︺
神田区︑一ツ橋︑二ノ三︑岩波書店 藤川覚様
︹封筒裏︺
麹町五ノ七ノ二 津田左右吉 廿一日
︹本文︺
拝啓
今日送つて来ました﹁科学ペン﹂四月号に
﹁支那思想と日本﹂を僕が自発的絶版に
付するやうに申込んだので︑岩波でも増刷しない
ことにした︑といふ記事があります︵
43頁文化月報︶︒
いつか一寸うけたまはつた何とか通信だか新聞だかの
記事から出たのかとも思はれますが︑何れにせよ︑
かういふことを書かれては困りますから︑事実を
知らせてやつて下さいませんか︒︵近ごろ小売
の店に此の本が見えないといふ話をきゝますが︑
実際でせうか︒先日起訴のことを書いた時︑どの新聞にも発禁書のうちにこれが
加へてあつたゝめ︑さう思つてゐるものもあるやうです︒︶
右一寸お知らせかた〳〵御願まで
早々
二十一日
津田左右吉
藤川様
机下
ついでの時でよろしいが︑五部ばかり届けて
貰ひたいと思ひますから︑係りの方に御話を
願へれば幸です︒手許に一冊も無くなつてゐますから︒
︻713︼ 昭和
15年7月
11日
︹葉書表︺
神田区︑一ツ橋町 岩波書店 藤川覚様 麹町五ノ七ノ二 津田左右吉
︹葉書裏︺
拝啓
昨日は失礼しました︒いろ〳〵ありがたう︒
さて有馬氏と会見のこと︑先方の都合が
よかつたら︑なるべく十二日または十三日の
両日のうちに願ひたいと存じます︒十四日
に山にゆけるならゆきたいと考へてゐます︒
誠に御面倒ですが︑然るべく御願します︒敬具
十一日午後
︻767︼ ︹昭和
15 年8月︺6日※
︹本文︺
拝啓
御届け下さいました書簡等︑たしかに受領
致しました︒御手数恐縮に存じます︒なほ例の
ぬきがきを作るために先般御返し致しました
黒板氏の﹁国史の研究﹂を今一度拝借致したく︑なほ
﹁島根県史﹂も一覧致したいのですが︑これは今明日と
いふほどに急ぐことでもありませんから︑その内︑栗田
氏でも参上︑頂戴することに致しませう︒
なほ変なことを申上げますが︑十三日から十六日までの
お盆のうちは旅だちをしないやうにと︑老母が
申して居りますので︑なるべくはその気にさからはぬやうに
致して居ります︒それで山にゆくことも︑できるならば
その前にと思ひます︒何しろ八十五にもなる老人
のことですから︑かういふやうなことをいつて困るのですが︑
できるだけいふまゝになつてゐるのです︒御一笑下さい︒
昨夜の御話のことについてこの点を一寸御含みおき下されば
幸です︒勿論︑木村氏の御都合を主にして御相
談下さることを希望するにかはりはありません︒
木村氏の好意を尊重するのですから︑こちらの
都合を主にするのは失礼だと思ひます︒たゞ御相
談下さる場合の一寸とした御含みまでにこのことは申上げるのみであります︒
お使をまたせておいて取急ぎ 早々敬具
六日 津田左右吉
藤川様
机下
︻714︼ 昭和
15年9月1日
︹封筒表︺
東京市神田区︑一ツ橋︑二丁目 岩波書店 藤川覚様
︹封筒裏︺
北軽井沢︑法政大学村 津田左右吉 九月一日
︹本文︺
御手紙拝見︑並に同封の書類︑たしかに受取りました︒
御多忙の折柄︑種々御尽力下され︑有難う存じます︒
栗田君から断えずたよりがあり︑一から十まで
御世話になつてゐることを承知してゐながら︑つい
御無沙汰して居りました︒なほ万事よろしく
御願申上げます︒
例年九月の中ごろまでこゝにゐますので︑今年も
ほゞそのくらゐのつもりでありますが︑予審のはじまる
前に有馬氏にも会ふ必要がありませうし︑いつかの
話では河合氏も会つてみようといふことでありましたから︑
それらに差支の無いやうに帰京の日を定めようと
思つてゐます︒有馬氏との会見は︑例の御面倒を
願つてゐる印刷の進行にもよることでありますが︑
いづれ栗田君から御相談申上げることになるだらうと
存じますから︑是亦よろしく御願致します︒
有馬氏との交渉については御面倒をおかけしなくては
なるまいと存じます︒
東京も両三日涼しいさうですが︑まだ〳〵残暑の威
力の強い日がまゐりませう︒僕は何だか少し
疲れてゐるやうですから︑こちらにゐる間に何とかして
それをなほしたいと思つてゐます︒
御返事かた〳〵右まで 敬具
九月一日 津田左右吉
藤川様
机下
︻751・971︼ 昭和
15年9月
10日
︹封筒表︺
東京市︑神田区︑一ツ橋︑二ノ三︑岩波書店 藤川覚様
︹本文︺
拝啓
其の後も相変らず御せわになつてゐることゝ存じます︒
先日︑有馬氏との会見の模様を福井栗田両氏から報知して
まゐりましたが︑有馬氏は資料の編成がへを要求し︑且つもつと
要約したものの提出を希望せられたさうです︒編成がへの要求は︑資料
の編成の方針と提出の理由とを混同せられたゝめらしく考へられます
から︑これは︑資料が検事の予審請求書に述べてある問題の
事項に対応するやうに編成してあることを諒解せられ︑また提出
の理由は資料のすべてにわたつて其の一々に存在することを納得
せられたならば︑おのづから解消するものと存ぜられます︒此の点を
よく同氏に説明してくれるやう福井氏等に依頼しておきました︒
︵資料の第一部と第二部とは︑事がらの性質上︑最初に置いたので︑
これだけは検事の請求書に述べてある順序とは違つてゐますが︑第三部からは
其の順序に従つてをるはずです︒︶次に要約したものといふことは︑
一応もつともでありますが︑要約すれば概括的になり抽象的になつて︑
効果が薄弱になりますから︑やはりあれだけのものは提出する必要
があらうと存じます︒概括的のことは検事局でも述べたのですが︑
あまり注意をひかな ︹ママ︺つたことを経験してゐます︒第一︑それでは何のことか
わかりかねると思ひます︒それでどうしても具体的に多くの例を挙げる
ことが必要と存じます︒
それから︑既存の学者の説を挙げることの可否ですが︑検事でも判事
でも理論上の説明ではわからぬから︑現代の学界の状態はどうなつて
ゐるかを一々具体的に示す必要があり︑従つて諸家の説を挙げねば
ならぬことになります︒曽て内務省の図書課で話をした時にも︑僕と
同じことを他の学者がいつてゐるかどうかといふことをきかれ︑またあとで
図書課のものが同じことを或る学者にきゝにいつたといふことを伝聞しました︒
検事局でも同様のことをきかれました︑彼等には学説の当否を判
断することができないから︑かういふことで自分の考をきめるのだらうと
思ひます︒予審判事も多分同様であらうと考へられます︒現に
﹁上代史ではどんな本がよいのですか﹂といふことを雑談の際に僕に
きゝましたから︑﹁通俗的のものはいくらもありますが︑学問的のものは
無いやうです﹂と答へておいたほどです︒さういふ通俗的な書物の知識
で判断せられては困りますから︑是非ともあれだけの資料は見せて
おく必要があらうと存じます︒﹁あなたの主張をうらがきする資料は
何でも提出してくれ﹂と判事の申しましたのは︑必しも口さきばかりの
ことではなく︑少くとも提出したものを読んでみるだけの考はあつてのことゝ
考へられます︒僕は陳述の際にあの資料を利用して一々それを説明しようと思つて
ゐます︒︵要約したものは︑かういふ役にはたちませぬ︶︑それで︑なるべくは
あの資料を削減などしないでおいて欲しいと存じます︒諸氏の
説は現に世に行はれてゐる著書に出てゐるのですから︑それを用ゐるのは︑
学術上の論著に他の学者の説を引用するのと同じであつて︑諸氏の
迷惑にはならぬことゝ考へられます︒もつともそれを見て検事などが
摘発するといふやうなことがあればいけないと思ひますが︑検事の
職掌上の習慣として多分さういふことはあるまいとおもはれます︒
しかし此の点は有馬氏の意見をきゝたいところなので︑此のことについて
同氏に相談するのはたゞ此の点だけだと考へます︒他の学者の
説を資料として用ゐるのも︑僕一個人の利益のためではなくして︑学界の
趨勢を判事にわからせるためであり︑従つてまたそれは畢竟︑学
界全体のためになることですから︑さうすることが僕にとつて良心を
傷けるものではないと信じます︒
右のやうな次第ですから︑資料の印刷はどうかこれまでのまゝで
ともかくも進行していたゞきたいと存じます︒いくらかの変更は
あるにしても︑大したことは無いやうにしたいと考へます︒実は有馬氏
には僕自身が早く帰京して十分説明しようかと思ひましたけれども︑
資料そのものをなるべく多く目の前に置いて説明した方が効果的と考へられ︑
さうして印刷の状態がまだ今日ではそこまで進んでゐないやうに
想像せられますので︑それを躊躇してゐます︒それに︑こちらにゐて
もう少し準備して置くことが残つてゐるので︵判事に説明する材料
として記紀からのぬきがきをしてゐます︶︑帰京は十四五日と致し︑
十七日に有馬氏と会見して︑委細に僕の考を話すことにしようと
考へ︑その手順にするやうに福井栗田両氏に依頼しておきました︒
一応の説明は僕に代つて栗田氏がしてくれることゝ存じます︒
予審判事にはできるだけ啓蒙的に︑詳細に︑平易に︑ゆつくり
時間をかけて説明するやうに腹案をたてゝゐる次第ですが︑
有馬氏にも相当の時間をあてゝ説明する必要があらうと存じます︒
一言にいへば︑検事の起訴は彼等の無知から来てゐると思ひますから︑
同じところから来る迷妄を︵効果の如何は別問題として︑僕の態度
としては︶判事などにさせないやうに努力しなくてはならぬと考へます︒
すべてはそこから出発したことなのです︒
何れ近日中に帰京の上︑万事申上げますが︑とりあへず右まで
御願致します︒小林君にもよろしく御伝を願ひます︒
取急ぎ早々敬具
十日午前
津田左右吉
藤川様
机下
︻771︼ ︹昭和
15年 10 月︺7日※
︹本文︺
拝啓
河合君の判決の趣︑栗田君からきゝました︒
当然のことながら裁判所が思ひきつて︑
決断したことを甚だ愉快に思ひます︒
これでかたつくかどうか︑検事の態度に
懸念はありますが︑ともかくも一審でかう
認めたことは大なる力となると思ひます︒
それだけでも思想界または学界にとつて
有意義の判決だと思ひます︒
近ごろまた胸 ︹蓑︺田の一派が法学部の攻
撃をやり出し︑今度は南原氏に
鋒さきを向けたといふことを︑昨日︑当の
南原氏からきゝました︒その刷り物か何かは
手に入らないでせうか︒一寸見たいと思ひます︒
攻撃の材料にやはり僕のことを利用して
ゐるさうですが︑南原氏には気の毒に思ひ
ます︒もし手に入るやうでしたら︑御面倒
ながら御心配を願ひたいと存じます︒
敬具
七日
津田左右吉
藤川様
机下
︻715︼ 昭和
15年 10月 15日
︹封筒表︺
神田区︑一ツ橋︑二丁目 岩波書店 藤川覚様 親展
︹封筒裏︺
麹町区麹町五ノ七ノ二 津田左右吉 十五日
︹本文︺
拝啓
先刻︑予審判事にあひましたところ︑予審の経
過を検事にきかれた時に︑かういふものが出てゐるといふ
話をした︑それで検事の方でも読んでおきたいからだらう︑
送つて置いたらよからう︑それによつて検事がどうかする
といふ意味は無いことゝ思ふ︑といふことでした︒ついでに
検事局へいつて検事にあつてきゝましたら︑やはり
同じやうなことでした︒それで四通揃ふかどうかわからぬ︑
必要な数だけしか刷つておかなかつたから︑といふ話を
しましたところ︑無ければしかたが無いが︑何とかして
四通送つてもらへないか︑といふことでしたから︑なほ
よく調べてみようといつて別れました︒それで僕の
考では︑検事にはなるべく多くのものに読ませておいた方がよからうと
思ひますから︑四通送ることに致しませう︒上級の検
事は多分読むまいとは思ひますが︑読み得る
状態にしておいた方が何かの場合によくはないかと
思ひます︒
右一寸申上げておきます︒ 敬具
十五日夕
津田左右吉
藤川様 机下
︻716︼ 昭和
15年 10月 28日
︹封筒表︺
神田区︑一ツ橋 岩波書店 藤川覚様 親展
︹封筒裏︺
麹町区麹町五ノ七ノ二 津田左右吉 十月廿八日
︹本文︺
拝啓
先刻一寸電話で申上げたましたやうに
予審がいよ〳〵始まることになりました︒
明後日から始めて︑毎週ほゞ三日ぐらゐを
それにあて︑二十回程でかたづけたいといふ判事の
話でありました︒調書の上では判事が訊問する
といふ形式になるが︑大体は僕が陳述したいことを
自由に陳述するといふ方針で進行させるから︑その順序
なども僕の方で考へてほしいといふことでありました︒
それで︑その順序の大よそを打合せておきました︒
判事などの素人にもわかるやうにして貰ひたいと
いふことをくりかへして申して居りました︒僕も
そのつもりではゐますが︑これがなか〳〵むつかしい
しごとで︑どこまでうまくゆくかと思つてゐます︒
まあ大に努力しませう︒覚え書きのやうな
ものを作つて出して貰へば調書作成の上に一層好都合だといふ
ことでしたから︑さうするつもりですが︑それを作るには
相当時間がかゝるので︑こゝにも努力の必要が
あります︒
御主人はじめ関係の諸君によろしく御伝へ
おき下さい︒草々
廿八日午後 津田左右吉
藤川様
机下
︻717・761︼ 昭和
15年 11月 15日
︹封筒表︺
神田区︑一ツ橋︑岩波書店 藤川覚様
︹封筒裏︺
麹町区麹町五ノ七ノ二 津田左右吉 十五日
︹本文︺
拝啓
先刻電話で御依頼致しました印刷物の儀は︑
催促をうけたので十八日の月曜日には持参する
旨返事をしておきましたのです︒誤植の点︹あまたありますから│挿入︺は
筆でなほしておきますから︑ともかくも明土曜
までにまに合ふやうに御配慮を願ひます︒なほ
補遺の部分は︑やはり玉沢検事に送る約束
をしておいたのですから︑その分として四通だけは御届けを願ひます︒
それから僕の分も一通︑
十一日に河合氏を訪問︑印刷物を︵補遺の分の校
正刷も同時に︶貸しておきました︒同氏から種々
助言をうけ︑なるほどと思つたこともありました︒
また都合によつては︑先般のやうな会合をしては
どうか︑いつでも出席するからとの話もありました︒
いかゞですか︑御相談を願ひます︒
有馬氏からは沙汰はありませんか︒僕はあの日の
晩でしたか︑簡単に予審の始まつたことを報告し︑
なほ御面会の上御相談したいことがあるといふことを
申添へておきました︒
今週は昨日まで三日つゞけてやりましたが︑
来週は五日ぐらゐ来てもらへないかと申して居りました︒
どうも少し急いでゐるやうです︒僕は少々疲れ
ました︒
早々頓首
十五日午後
津田左右吉
藤川様
机下
︻718︼ 昭和
15年 11月 17日
︹封筒表︺
神田区︑一ツ橋︑岩波書店 藤川覚様
︹封筒裏︺
麹町︑五ノ七ノ二 津田左右吉 十七日
︹本文︺
拝啓
昨日はわざ〳〵有りがたう存じます︒
あれから︑五時ころまで有馬氏と対談︑
種々意見をきいてまゐりました︒
時間が早かつたら帰りにお店の方へ
うかゞはうかと思つてゐましたが︑遅くなつた
のでやめました︒対談の内容はそのうち
御面晤の折申上げます︒
それから昨日申上げることを忘れましたが︑
補遺の印刷ができましたら︑︵もし誤脱の
補訂をすることになつてゐましたら︑それが
できてからでよろしうございすが︶︑例の検事
へ送る分を御届け下さるやう御配慮を
願ひます︒
有馬氏との会見の御報告かた〳〵
右まで 草々頓首
十七日
津田左右吉
藤川様
机下
︻719︼ 昭和
15年 11月 27日
︹封筒表︺
神田区︑一ツ橋︑岩波書店 藤川覚様
︹封筒裏︺
麹町区麹町五ノ七ノ二 津田左右吉 二十六日夜