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北九州産業技術保存継承センター

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(1)

キュウ

開田, 一博

北九州産業技術保存継承センター

https://doi.org/10.15017/14001

出版情報:Kyushu University, 2008, 博士(芸術工学), 論文博士 バージョン:

権利関係:

(2)

22

第 3 章.官営八幡製鐵所開設

3-1.建設組織

3-1-1.官営八幡製鐵所建設のための陣容整備

明治 34 年(1901)の操業に先立って、先記の明治 29 年(1896)3 月に「製鐵所官制」

が公布され、工場建設の陣容が規定された。

「製鐵所官制」では「長官、技監各一人、技師(高等官)八人、技手(判任官)四十 人」という技術者陣容が決められた1 )

この公布を受けて、それぞれの役割に応じて産学官から冶金、機械、土木、建築、地 質などの専門技術者たちが集められた。

先述したように初代長官には山内堤雲、技監には大島道太郎(正六位工学博士)、8 人の技師には今泉嘉一郎(冶金)、安永義章(機械)、大日方晴晞(土木)、神谷邦淑(建 築)たちが任命された。

官制に「技師ハ上官ノ指揮ヲ承ケ製鐵ノ事ヲ掌ル」とあることから1 )、彼らはこの 事業の実質責任者であった。主な陣容については表3-1に示す通りであるが2 )、技師 はその専門性と共に視野識見が要求され、当時、製鉄所建設の管轄であった農商務省 の技術者を中心に、軍関係者等が選出された。

技手も官制に「技手ハ上官ノ指揮ヲ承ケ製鐵ノ事ニ従フ」1 )とあり、技師の下での 実務責任者として実業界を中心に広く経験者が集められた3 )。具体的には明治 29 年

(1896)から、土木、建築、機械、冶金等に関する専門技術者が徐々に採用され始め、

明治 32 年(1899)になると専門技術者の数は急増している4 )

一方、当時は、陸海軍の工廠等には建設の技術者集団があったとされており5 )、明 治 29 年(1896)の東京砲兵工廠提示資料に八幡製鐵所職員としての採用に関して、「今 般製鉄所設置ニ付テハ往々當廠在動技術官等御採用相成度・・・」とあることから6)

軍の工廠からも人材が確保されていたことがわかる。

3-1-2.建設組織と役割

「製鐵所官制」が公布された後の、明治 29 年(1896) 5 月に官営八幡製鐵所に工務部、

庶務部、経理部が置かれた7 )

この中で、製鐵所處務規程8 )に「工務部ニ於テハ左ノ事務ヲ掌ル 二.工場ノ設計 建築及管理ニ関スル事頄」とあるように、工場建設に直接関係する部門は工務部であり、

技監の大島道太郎が部長を兹任した。

この工務部に翌 30 年(1897)12 月に土木課(大日方晴晞)、建築課(神谷邦淑)、機 械課(安永義章)、検査課(小花冬吉)、経理課(今泉嘉一郎)が、翌 31 年(1898)に は築炉課(今泉嘉一郎兹務)が設置された9 )

官営八幡製鐵所の操業開始に向けた建設当時の工務部の主要な業務は、ドイツから

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この中で注目すべきことは、「工場建築の建設は機械据付も含めた一連の業務とし て、機械課が担当した」という記述があり 10) 11)12)、工場建築の建設は建築課ではな く機械課が行っていたということである。

工場建築を機械課が担当したという事実は、機械設備とともに工場建築も機械設備 一式の中に含まれてドイツから輸入されたため、工場建築は機械設備の一つとして扱 われたことによる。即ち、工場建設に際しては機械設備の設置が主で、工場建築は機 械設備に付随したものとして扱われたと考えられる。

これは鉄骨建築が発達する 19 世紀のヨーロッパでは機械技術者が工場建築の建設 を行っていたことと同様に 13)14)、日本での最初の鉄骨構造工場建築の設計と施工が建 築家あるいは建築技術者ではなく、機械技術者によって行われたことを示している。

3-1-3.建築課・土木課の役割

工場建築は機械課の担当であったが、明治 30 年(1897)当時の建築課、土木課の 担当業務は以下のようなものであった。

1)建築課

明治 30 年(1897)12 月、官営八幡製鐵所に建築課が置かれ、課長(技師)には神谷 氏 名 専 門 備 考

今泉嘉一郎 冶 金 当初の製鉄所設立計画の中心人物 工学博士「野呂景義」の弟子 小花 冬吉 冶 金 鉱山監督官 従六位 工部大学一期生

安永 義章 機 械 非職陸軍技師 工学博士 早川 宇吉 機 械 東京工業学校教授

大日方晴晞 土 木 京都府技師 従七位

神谷 邦淑 建 築 明治 24 年 7 月東京帝国大学工科大学造家学撰科卒 鈴木 敏 地 質 非職農商務省技師 従六位 理学博士

門馬 軍平 冶 金 鉱山監督官 正七位 高山甚太郎 不 明 農商務省技師(兹務)

大塚 専一 地 質 同上 (〃)理学博士

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邦淑が任命された。その下に技手や職員として全国から建設会社(鹿島組)社員、建築 設計製図助手などの実務経験者が集められた3 )

一方、明治 30 年(1897)3 月の伺い文書には「従五位 工学博士 山口半六 製鐵 所建築工事取調ヲ嘱託ス」、また明治 30 年(1897)12 月の伺い文書には「実地ニ就キ 測定計劃シ各建造物ノ設計製図圖ニ従事」15)とあり、明治 30 年(1897)12 月の建築課 設置以前から、嘱託者によって建築に関する業務が進行していたことがわかる。

建築課の業務は官営八幡製鐵所建設推進のための仮事務所や技師、技手などの官舎、

および外国人技師ならびに外国人職工長用官舎、そして本事務所 16)(写真3-1)等 の設計、建設が主な業務であった17)

写真3-1 (旧)本事務所

(2006 年 6 月 筆者撮影)

赤煉瓦造2階建、和瓦屋根、左右対称で延約 1000 ㎡の現在も外部に亀裂、変形が殆ど見られない建物である。

2)土木課

建築課と同様に明治 30 年(1897)12 月、官営八幡製鐵所に土木課が置かれ、課長

(技師)には京都府技師(従七位)であった大日方晴晞が任命された。

それ以前では明治 30 年(1897)12 月の伺い文書に 18)「土木家 小山泰交 製鐵所建 築事務嘱託ス」と出ている。業務は敷地確保のための①海岸線の浚渫および埋立て、

②造成のための地盤改良、盛土、切土および地均し、③貯水池および給排水設備、港 湾、道路などの建設および鉄道敷設といったインフラ整備であった(写真3-2)。

これらの設計、施工は図面等から判断して、すべて官営八幡製鐵所の直営で行われ た19)

尚、官営八幡製鐵所における当時の基礎材料は煉瓦中心であったため 20)、基礎施工 は明治 31 年(1898)年に設置された築炉課が担当していた21)

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写真3-2 浚渫、埋立て、護岸工事状況

(1900 年 3 月撮影)( 八幡 製 鐵 所史 料 室 所 蔵の も の を筆 者 撮 影)

製鐵所敷地を北東から写した写真で、 埋立て地護 岸の ため、 木 杭や縁 石を 使用し た当 時の施 工 状況が わか る。

遠景の煙突は陸地のところに既に建設されている工場 群である。

3-2.工場建築建設体制

3-2-1.農商務省管轄の官営八幡鐵所直営工事体制

当時の日本政府が関わる工事は、会計法第 24 条により、競争入札が原則であった

22)。しかし操業開始前の官営八幡製鐵所の建設工事では、農商務省管轄の官営八幡製 鐵所直営工事となっている。

その理由は当時の伺い文書22)から以下のようにまとめることができる。

1. 製鉄所建設は未曾有の工事であり民間では経験がないこと。

2.高品質を要する耐火煉瓦、セメント、および鉄材といった材料は国内では調達 が難しく、外国に依存せざるを得ないこと。

3.普通煉瓦のようなものでも数量が膨大であり、現地で製造場を作り、製鉄所技 監の監督のもとで製造する必要があること。

4.その他石材や木材もその産地を厳選して高品質のものを確保する必要がある こと。

3-2-2.直営作業員の確保

官営八幡製鐵所の建設は官営八幡製鐵所直営工事となったため「職工」と称した直 営作業員と日雇い人夫の確保が急務となった。

職工、人夫には工事の特性から特殊な習熟性、緊急性、継続性と多くの人数が求め られた。

この職工、人夫確保には通常の手段では確保が困難であったため、その対策として 隋意契約による採用方式が採られた 23)

3-2-3.現場組織と体制

建設工事が進展するに従って、明治 32 年(1899)5 月には官営八幡製鐵所機械課に 工場建設の現場組織として第一据付掛が設置された11)

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第一据付掛の実質的施工体制は、隋意契約により採用された直営作業員である「職 工」が 図3-1に示すように「組長」、「伍長」、「棒心」と序列的に組織化された11)24)。 そして彼等の監督の下で「職人」「人夫」が日雇い形式で雇用され、工場建設は官営八 幡製鐵所の直営工事として進められた。その作業形態は場合によっては、「職工」が職 人に混じって作業するケースや、「職工」のみで作業するケースもあった 25)

図3-1 施工体制図

3-2-4.ドイツ人技術者の招聘

設計はドイツに依頼したと先述したが、記録26)や図面サインに「G・H・H」とある ことから、明治 33 年(1900)にドイツの鉄鋼メーカーであった GUTEHOFFNUNGSHÜTTE 社(G・H・H)であることがわかる。加工および鋼材も G・H・H とされており 26)、現 存する尾倉修繕工場で使用されている鋼材の溝形構に「GUTEHOFFNUNGSHÜTTE NO 30」

などのロールマークがあることからも尾倉修繕工場の鋼材は G・H・H 製であることが 確認できる。

このドイツ企業が設計した官営八幡製鐵所の工場建設のためには、設計内容を理解 したドイツ人技術者の技術指導が必要であった。

ドイツ人技術者の招聘については八幡製鐵所八十年史26)に「明治 30 年(1897)10 月、二代目製鐵所長官となった和田維四郎 27)はドイツ人技術者による指導体制を技 師長 1 人、主任技師 2 人、その下に職工長 12 名程度と考えていた。同年、和田長官は 清国上海の漢陽製鉄所のドイツ人グスタフ・トッペ28」を招聘し、技師長に任命した。

さらに彼を通じて製銑部主任技師にカール・ハーゼ 29)を、製品部主任技師にハルト マン・シュメルツェル 30)を迎え入れた。しかし彼等は日本人を心服させるまでの技 術力が不足し、且つ自分の経験を押し付けるだけで弾力性に欠け、さしたる成果をあ げることができなかったため、明治 31 年(1898)から項次、雇用されたドイツ人職工 長達の協力のもとで、日本人技術者自らの努力によって建設が推進された」とある 31)

なお、ドイツ人技術者の中の職工長については、設計から鋼材、機械設備購入およ

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3-3.官営八幡製鐵所最初の工場建設 3-3-1.鉄骨構造建築の位置づけ

鉄骨構造建築の歴史を見たとき、わが国では鉄や錬鉄を使った建物は早くは幕末か ら見られるが、鋼を使ったいわゆる鉄骨構造による建築は 1856 年(安政 3 年)のイギ リスにおけるベッセマ―転炉法の発明による鋼の大量生産開始以降、しばらく待たざ るを得なかった。

そのような中で、わが国における鉄骨構造建築は先述したように明治 27 年(1894)

の秀英舎の建物が最初とされている 35)

しかしながら、徹底した大規模鉄骨架構という点では明治 34 年(1901)の八幡製鐵 所操業開始時の工場建築群が最初といっても過言ではない 36)

具体的には、明治期から大正期におけるわが国の鉄骨構造建築を時系列に示し た図 3-2「鋼構造の系譜」から、官営八幡製鐵所の操業開始時における工場建築群が秀英 舎の建物を除けば、わが国における最初の本格的な鉄骨構造建築であったこと がわか る。

3-3-2.尾倉修繕工場の規模

明治 34 年(1901)の官営八幡製鐵所の操業開始までに 10 数棟の工場建築が建設され たが 37)(図3-3、写真3-3)、この工場建築の中で尾倉修繕工場は、現在も当初の 形態をほぼ保持しながら、八幡製鐵所構内にあって機械修繕等に活用されている(図 3-4、写真3-4、写真3-5、写真3-6)。

尾倉修繕工場の規模は主棟と両側に下家を持つ形状で、スパン 15m、軒高 11.4m、

桁行は当初は図面では 50m と記述されている。

この尾倉修繕工場の現在の長さは 140m で、明治 33 年(1900)の竣工の後、2度に わたって増築されているが、当初の工場建築の架構は操業当時のままであり、増築部 分もその構造形式を踏襲して建設されている。なお、増築時期の記録は見当たらない。

第二期工事もかって存在した図面サインに設計者は第一期と同じ G・H・H、加工は 石川島造船と記述されていたが、現在は図面は見当たらない 38)。現地での確認から第 一期のロールマーク以外に“H

ö

ESCH N・P 14”のロールマークが多く見られる。こ れは鋼材は外国のものを使用し、加工はわが国で行ったことを示している。以前は存

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在した同図面の日付記録から増設は明治 40 年(1907)頃と考えられる。

第 三 期 の 工 事 に つ い て も 図 面 が 見 当 ら な い が 、“ S BS 6 × 3 SEITETSUSYO YAWATA ヤワタ”の八幡製鐵所草創期のロールマークがあり、自前の鋼材であること が確認できた。加工もおそらく自社と考えられる。

写真3-3 建設状況(

1899 年 6 月撮影)(八幡製鐵所史料室所蔵のものを筆者撮影)

写真から、敷地内を線路が走り、既に竣工に近い建物からまだ足場架設時の構造物の状況、散乱した建設資材 などが見てとれ、当時の建設方法と建設状況がわかる 。

写真3-4 1900 年 5 月撮影の写真

(八幡製鐵所史料室所蔵のものを筆者撮影)

北東からの写真で中央の建物が尾倉修繕工場、右側は鍛冶工場であり、1900 年 5 月の時点で建物はほぼ完成し ていることがわかる。

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写真3-5 現在の尾倉修繕工場妻側

(2006 年 6 月北西方向より筆者撮影)

写真3-4とは反対の方向からの撮影であるが、丸屋根と両サイドの下屋の形が建設当時のものと同じであ り、原形を留めていることが確認できる。

写真3-6 現在の尾倉修繕工場南壁側面 写真3-7 現在の尾倉修繕工場内部

(2006 年 6 月筆者撮影) (2006 年 6 月筆者撮影)

南側の壁は赤煉瓦で鉄骨柱が煉瓦壁から剥き出しに 丸屋根の内部と組立梁によるクレーンランウェイ なっている構造である。 ガーダー 上を クレー ンが 走行し て いる状 況で ある。

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3-3-3.工場建築の仕様

建設当初の仕様は予算書39)に「煉瓦壁、柱ハ鉄、屋根ハ生子ニシテ壱坪八拾円ノ 見積リナリ」と記述されており(写真3-8)、鉄骨構造の骨組みに、壁は赤煉瓦壁(写 真3-6)および一部は波板(生子)鉄板 40)で、屋根も波板(生子)鉄板である。

またこの予算書には土地高騰を控えるため立地場所の公言を控え、十万坪を坪単価 は三円、土工事は坪単価一円、工場工期は計画から三年目で竣工することが記述され ている。

写真3-8 建築仕様と単価を記した古文書

(八幡製鐵所史料室所蔵のものを筆者撮影)

以下に予算書の一部を記す。

建築費 地所購入

製鉄所設立ノ位 置ハ調査 会ノ決議ニ基キ已 ニ豫定シ アルモ之ヲ公ニセ ハ徒ニ買 價ヲ騰貴セシ ムル恐レアレハ公言セス 其坪数ハ銑鉄工塲ヲモ合セテ十万坪ニシテ壱坪参円ノ見積ナリ 土工事

土工トハ地均シ下水及用水等ヲ云フ 其費用平均壱坪壱円ノ見積ナリ 工塲建築

ベスメル及マルチン工塲壱千坪 ベスメル及マルチン工塲トハベスメル製鋼器鎔銑炉マルチン 製鋼炉等ヲ設備ス ル所ニシ テ鋼塊鋳造塲ベス メル器及 鋳造鍋乾燥所瓦斯 製造所モ 此ノ内ニ含ム 工塲二面ハ煉瓦壁 其他ハ壁 圍ナシ 柱ハ鉄 屋根ハ生 子ニシテ一坪平均 八拾円ノ 見積ナリ 第 二年目ニ土台ヲ築キ及材料ヲ買入レ第三年目中ニ建築ヲ終ル

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図3-2鋼構造の系譜(JSSCVOL.20NO.216、‘848.9塩原正典、開田一博)

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図3-3創立期における官営八幡製鐵所の工場配置図(八幡製鐵所土木誌より転載)

木工場・砂工場製缶工場 鍛冶工場 鋳鋼工場修繕工場 小形ロール工場 薄板ロール工場 軌条及び形鋼ロール工場

分塊ロール工場

炉工場

シーメンス・マルチン炉工場

ッセマー炉工場 (製鋼工場) 溶鉱炉(高炉工場)

中形ロール工場 大形ロール工場

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図3-4尾倉修繕工場架構図(八幡製鐵所図面センター所蔵)

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3-3-4.施工状況

明治 32 年(1899)にはドイツから鋼材が運ばれてきたが、初めて経験する大規模 な鉄骨構造建築の組立てや建て方については日本製鐵株式会社史に「小屋組も柱もリ ベットして(ドイツ)から来たものです。ところが荷傷みがあって、グニャグニャに なって来た。それを曲がったものはバラして歪取りし、“か締め”てまた、組合せて作 ったものです」とあり41、鋼材の輸送には小屋組トラスや組立柱などをピース毎に組 立てて、船積みされてきた事が確認できる。鋼材が途中の船の揺れなどによって、到 着までにかなり損傷を受けたことは容易に想像がつく。

しかしその損傷した部分を到着後の日本で修復したとあるように、当時の官営八幡 製鐵所では鋼材損傷修復の技術は既に存在した事がわかる。

3-3-5.設計寸法

官営八幡製鐵所では、建設着工に至る前までは各国の度量衡が使用されていた。そ れは八幡製鐵所史料室に所蔵されている古文書 42)の中に、明治 31 年 2 月 16 日付け 長官宛仰裁文書として「従来當所ニ於テ製鐵ニ要スル器具機械其ノ他材料ノ計量関シ 日佛英ノ度量衡併用相成リ居リ候処右ニテハ區々ニ亙リ不都合ト被存候条自今右材料 ノ計量ニ関シテハ度量衡法第五條ノ度量衡専用ノ事ニ致シ度右ニ起案ヲ具シテ仰高 裁」という内容が記されていることからわかる。

これを受けて長官通達第七号 43)に「當所ニ於テ製鐵ニ要スル器具機械其ノ他材料 ノ計量ニ使用スル度量衡ハ「メートル」法度量衡ニ據ルヘシ」としてメートル法によ る所内統一が図られた。

その結果、官営八幡製鐵所で生産される鋼材製品はインチ単位であるが、工場建築 の設計寸法はすべてメートル単位となっている。

工場建築の設計寸法がメートル単位となっているもう一つの理由としては、ドイツ 企業設計のため明治 34 年(1901)当時にドイツで使用されていた単位を採用したとい うことも考えられる。

3-3-6.G・H・H 工場建築との比較

ここに「G・H・H オーバーハウゼン 100 年史(1810-1910)」44)があり、その中に 1900 年頃の製鋼工場等の図面および写真が掲載されている。

その中から参考となる部分を抽出して以下、図3-5、図3-6、図3-7および写 真3-8、写真3-9に示す。これらの図や写真からわかることは

1.図3-5、図3-6、図3-7から G・H・H における 1900 年当時の工場屋根が丸屋根 形状のものは存在するが、三角屋根形状も見られ、官営八幡製鐵所操業開始時の 工場建築のようにすべてが丸屋根ではない。

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4および写真3-5の官営八幡製鐵所尾倉修繕工場と酷似している。

5.写真3-10の G・H・H 加工工場内部と写真3-7の官営八幡製鐵所尾倉修繕工場内 部とを比較すると、小屋トラス端部の納まり、クレーンランウェイ(走行支持)

ガーダー、柱形状など酷似している部分が多い。

などである。

以上のことより明治33年(1900)頃に竣工した官営八幡製鐵所の工場建築は、1900 年当時の G・H・H の工場建築と共通する部分が多々見られることから、官営八幡製鐵所 の工場建築の設計に際しては、G・H・H における最新の工場建築を参考に進められたも のと推測される。

図3-5 G・H・H 製鋼工場図 その1

(G・H・H オーバーハウゼン100年史より)

中央の高い建物は高炉から運ばれてきた溶銑をクレーンで吊り上げ、中央の混銑炉(高炉からの溶銑を転炉に 入れるまでのバッファー炉)に注入する機能を持つ。左の棟は混銑炉からの溶銑を鍋で受け、転炉に運ぶ役割 を持つ。右端の棟は排蒸気を利用したタービン発電機室であり、右から2番目の棟は転炉への送風機室である。

この図から屋根形状はすべて直線で、比較的緩い勾配の形をしており、製鋼工場の中でもこの混銑炉周辺 断面 のみがこの形状を留めている。

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図3-6 G・H・H 製鋼工場図 その2

(G・H・H オーバーハウゼン100年史より)

左の棟は転炉からの溶鋼を運んできて、受鋼鍋に移し、それを鋳型に入れる役割を持つ。しばらくして、溶鋼 がかたまると上部クレーンで鋳型を抜き、鋼塊(インゴット)を棟間クレーンで吊り上げて、右の棟の均熱炉 に入れる。その後クレーンで鋼塊を吊り上げ、傾斜したローラーでさらに右棟の圧延ラインに運ぶシステムで ある。この建物断面の屋根形状は急勾配の三角屋根を持つ棟と丸屋根を持つ棟の連棟という特徴を持つ。

図3-7 G・H・H 製鋼工場図 その3

(G・H・H オーバーハウゼン100年史より)

中央棟は石炭貨車を受け入れ、上部クレーンのバケットから石炭を取り出し、両サイドの石炭バンカーに運ぶ。

石炭は地下通路を燃焼室まで運ばれ、両サイドのボイラーの燃料となる。中央棟が丸屋根、両サイドが片流れ の屋根形状は図3-5の尾倉修繕工場と酷似している。

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37

写真3-9

G・H・H 製鋼工場図その3の写真(G・H・H オーバーハウゼン100年史より)

図3-7の実物写真である。 写真3-5の尾倉修繕工場の丸屋根の曲率もほぼ同じである。

写真3-10 G・H・H

加工工場(G・H・H オーバーハウゼン100年史より)

円形の小屋トラス、クレーンランウェイガーダー等が写真3-7の尾倉修繕工場内部と酷似している。

3-3-7.構造体の特色

八幡製鐵所操業開始時の工場建築の小屋組形状は、三角屋根も混在する G・H・H の工 場建築と違って、すべてが丸屋根のトラスであった(図3-4)。丸屋根設計の根拠は 不明であるが、その後の八幡製鐵所の工場建築に丸屋根は見当らないので、丸屋根の 部材は加工や運搬の面から考えて煩雑であったと推測する。

小屋組の詳細について述べると、トラス上弦材は溝形鋼 120×55 を曲率半径約 15m

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程度に曲げ加工したもので、下弦材は溝形鋼、斜材には山形鋼が使用されている。

部材と部材を接合するために手打ちのリベットが使用されており、部材接合用鋼板

(ガセットプレート)は極力、面積即ち鋼材量を尐なくする形状になるよう工夫され ている。中にはリベット本数が尐なくて済む接合部には、ガセットプレートを省略し て、直接、部材同士をリベットで結合している。このようなところにも「2-2.外国 技術の導入調査」の頄で「ドイツの製品はその特徴として原材料を最小限にとどめ」

と記述されていることを示した通り、ドイツ技術の材料を節約する姿勢が感じられる。

なお、小屋面には溝形構 250×90 の大きな部材を水平ブレースとしてクロスに配置 して小屋組の剛性を高め(図3-8)、水平力を小屋剛面として受け、柱脚剛の柱およ び妻側ブレースにその力を流す考えになっている。

小屋トラスと柱とはピン接合と仮定した構造であり、その状況を、尾倉修繕工場に 隣接していた尾倉鋳鋼工場の現存時に撮影した写真により示す(写真3-11)。

その尾倉鋳鋼工場では尾倉修繕工場と異なり、柱脚はピンとされている(図3-9)。

この場合の水平力の処理は、剛性を高められた屋根全体からの水平力を両妻壁のブレ ースなどで受け止める構造方式と考えられる(資料編 p134 参照)。

波板壁の部分では柱から取り出した胴縁受けには T 形鋼、胴縁には溝形鋼及び山形 鋼が使用され、煉瓦による腰壁との納まり部分は水切りとして Z 形鋼が使用されてい る(写真3-12)。その他、母屋には I 形鋼の I-110×55×7×5 が使用されている。

図3-8 尾倉修繕工場小屋面水平ブレース図

(八幡製鐵所図面センター所蔵)

小屋トラス間を大きな小屋ブレースで繋いで、小屋面の剛性を高め、水平荷重に対して 小屋面を版として扱 ったことがわかる。

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写真3-11 尾倉鋳鋼工場小屋トラス端部

(1983 年 筆者撮影)

小屋トラス端部の納まり状況 が、写真に見るようなものであったことが確認できる。(手前のガセットプレー トは小屋ブレース受け用である)この写真から、小屋トラス端部は完全なピン構造ではないが、繋桁上に小屋 端部が架かり、リベットで接合された状態は剛接合ではなく、ピンと仮定したことも理解できる。

図3-9 柱脚ピンの柱

(八幡製鐵所図面センター所蔵)

尾倉鋳鋼工場の柱脚部の状況である。両端ピンの柱であるため、風力などによる曲げモーメント図 に類似し た柱形状となっている。

大きなクレーンを受ける棟のクレーンランウェイガーダーは各部材を組立てて構成さ れた組立梁で、柱スパン毎に設置された単純梁構造となっているが、小さなクレーン を受ける棟(下屋)のクレーンランウェイガーダーは I 形鋼による連続梁となってい る。

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そして連続梁とするための梁接合材はリベットであり、接合位置は曲げモーメント の影響を考慮してスパンの 1/4 点近くとなっている。

同時にクレーンランウェイガーダー中央部はたわみなどの影響を考慮して、サブ合 掌から出されたアームにより吊られている(写真3-13)。

以上、これらの事例から、非常に合理的な設計であったことが理解できる。

写真3-12 Z 形鋼使用例 写真3-13 ガーダー受けサポート Z形鋼の胴縁が確認できる。(1983 年筆者撮影) 斜材でガーダーを吊っている。(1983 年筆者撮影)

構造計算書が見当らないので荷重条件等の詳細は判明しないが、「工学博士今泉嘉 一郎伝」45に「設計上の風速値を現地の風速条件に変更した」といった記述がある事 から、八幡製鐵所での設計検査によって荷重条件等は一部変更が行われたものと考え られる。

基礎は位置を示す配置図と概略の独立基礎形状図およびアンカーボルトプラン が G・H・H からの設計図面として八幡製鐵所に残されている46(図3-10)。

これに対して日本語標記 で寸法も尺単位で記され た詳細図面が同様に残されてい る19(図3-11)。このことは基礎の実施設計は日本人によって行われたことを示し ている。

この図面によると基礎形式は独立基礎でベースにコンクリートを打設し、それ以外 は煉瓦を使用している。

基礎形状は G・H・H から提示されたものはなだらかな四角錐を示しているが(図3 -10)、日本での設計では段状となっている(図3-11)。これは当初コンクリート

(21)

41

基礎杭は2間杭と3間杭の松杭を混在させて用い、1基につき 30 本から 70 本単位 で打設されている。さらに基礎と基礎との間は煉瓦積みによるアーチで連結され、上 部煉瓦壁を支える構造となっている(図3-11)。この構造形式は同時期に我国で設 計された煉瓦造(旧)本事務所16)のものと同一である(図3-12)。

先述の尾倉鋳鋼工場の基礎を調査した事例があり、その結果から、形状はなだらか な四角錐ではなく、垂直であり、材料はベースにコンクリートが使用され、その上部 は煉瓦積みであることが確認された。さらに煉瓦積の上には御影石が置かれ(図3- 13、写真3-14)、アンカーボルトは御影石をくり抜いて煉瓦部分の中に埋め込ま れ、設置されていた。

このことから日本で作成された図面と一致していることが明確となった。

図3-10 G・H・H から提示された基礎図

(八幡製鐵所図面センター所蔵)

G.H.H からの図は、なだらかな四角錐状の基礎図である。また 右図でアンカー受けに溝形鋼が明示されている。

左の図から「Nomal Sӓulen in der mittel holle & stuck」「Sӓulen der Langs wand.」 等の記 述が読み取れ、これから中央の棟の柱の基礎図、右の図からは「Ecksӓulen der def.Giebel wand.2Stück」

という記述が読み取れ、妻側の隅の基礎図、とそれぞれ考えられる。

(22)

42

図3-11

尾倉修繕工場基礎図(八幡製鐵所図面センター所蔵)

「修繕工場基礎之図」として日本語で書かれ、単位は尺となっているので、日本で設計されたものと考えられ る。図3-10の G・H・H の図と比較すると、段 状の 基礎形 状 やアン カー 止めの 形状 などに 違 いが見 られ る。

図3-12 (旧)本事務所基礎図

(八幡製鐵所図面センター所蔵)

基礎間をアーチで繋ぎ、上部煉瓦壁の重量を支える構造は上記の尾倉修繕工場基礎と類似している。

(23)

43

図3-13 尾倉鋳鋼工場基礎 写真3-14 尾倉鋳鋼工場基礎調査

(JSSC、VOL.20、NO.216‘84 8.9 塩原正典、開田一博より) (同左)

ベースをコンクリート、基礎本体は赤煉瓦という構造が、尾倉鋳鋼工場基礎調査から確認することができた。

3-3-8.使用鋼材

鋼材のサイズはドイツ鋼材のためミリメートル単位である。鋼材には前頄で述べた ようにロールマーク(写真3-15)が見られ、その中の“No 26”は幅 26mm のサイ ズを示している。主要部材は溝形鋼、山形鋼、I 形鋼、Z 形鋼、厚板等である。

注目すべきことは、振れ止めのために母屋間を丸鋼で繋ぎ、その丸鋼を止めるために 軒先端部に帽子状の形鋼(ハット形鋼)が母屋と平行して使用されていることである

(図3-14、写真3-16)。このような事例は操業開始時の尾倉修繕工場などのドイ ツ企業が設計した工場以外では見られないが、帽子状の形鋼(ハット形鋼)が存在す るということは、当時ドイツでは一般的な納まりであったものと考えられる。

写真3-15

G・H・H ロールマーク(尾倉修繕工場より 2008 年 9 月 筆者撮影)

GUTEHOFFNUNGSHÜTTE No 26 というロールマークが確認できる。

(24)

44

図3-14 尾倉修繕工場軒先納り図

(JSSC,VOL.20,NO.216‘84 8.9 塩原正典、開田一博)

I 形鋼母屋の振れ止めの為か丸鋼で結び、その端部をハット形鋼で止めている珍しい納まりであり、創立期の G・H・H 設計の建物のみに見られる事例である。

写真3-16 ハット形鋼

(1983 年 筆者撮影)

ハット形鋼が使用されていた建物であるが、現在は解体されて存在しない。

操業開始時のドイツ鋼材の性能については、既存工場からのサンプル採取による強 度試験の結果 47)、引張強度は 37~39 ㎏/㎟であり、現在の普通鋼材と比較しても大 きな差はない。併せて鋼材成分についても分析結果を表3-2に示すとおり、概略、

同様である。

このことから、官営八幡製鐵所建設時はベッセマーの転炉法の発明による鋼の大量 生産開始以降、40 年以上経過しており、それに伴いドイツでは 1900 年当時、かなり 高度な鋼材が生産されていたことがわかる。

(25)

45

当時の形を概略、残しながら、いまだに八幡製鐵所の工場の一部として使用されてい る。

図面から明治 34 年(1901)当時に、軌条および形鋼工場と大形工場が I 形状に配 置されていたことがわかり(図3-15、図3-16)、現在もその形は保持されている。

この工場の規模は並行した棟のスパンはそれぞれ 20m、それに直角の棟のスパンはお およそ 15m、桁行きの長さは 20m であり、軒高はすべて7m 程度ある。

詳細な図面は残されていないが、現在の建物の納まり状況から判断して、ディテール は尾倉修繕工場と基本的に同じである。

図3-15

軌条および形鋼工場、大形工場小屋伏図(八幡製鉄所図面センター所蔵)

図3-3では軌条および形鋼工場と大形工場は同じ長さとなっているが、この図面では軌条および形鋼工場が大 形工場より短くなっている。現状からは軌条および形鋼工場に相当する部分は、この図面に示されている以上の 長さとなっているため、図3-3に示されているようなものであったと推測する。

製品の流れは、軌条および形鋼工場の右延長方向にある分塊工場からインゴット(ブロック状の鋼塊)が運ばれ、

その延長線上で軌条および形鋼に圧延された。またインゴットは途中から直角方向に運 ばれて、大形工場で大形 鋼に圧延された。

軌条および形鋼工場

大形工場 20,000

20,000

20,000 150,000

105,000 15,000

(26)

46

図3-16

軌条および形鋼工場、大形工場側面図(八幡製鉄所図面センター所蔵)

両棟間を製品移動するために、搬送ロールが設置されていることが確認できる。

ただ大きく違うところは、すべての丸屋根棟が I 形に配列され、その中をクレーンが各 棟でそれぞれ走行する構造となっているところである(写真3-17)。

現地から確認できたことは、並行した棟を繋いでいる棟のクレーンは両端まで1台で 端から端まで走行可能であり、他の 2 棟のクレーン走行は途中で直角の棟に遮断されて、

複数のクレーンが必要となっていることである。

写真3-17 I 形状の棟の状況(2008 年 9 月筆者撮影)

図 3-15 の大形工場側から軌条および形鋼工場側を向いて筆者が撮影した。クレーン走行方向に丸屋根が見える とともに、手前にそれと直角 に丸屋根が設置されているのがわかる。

7,000

(27)

47

2.明治 34 年(1901)官営八幡製鐵所の操業開始に向けた工場建築の設計と鋼材調 達・加工および建設指導はドイツのグーテホフヌンクスヒュッテ社に依頼した。

なお、基礎の詳細設計は日本人によって行われた。

3.官営八幡製鐵所における最初の工場建築はドイツ人技術者の指導のもとで、官 営八幡製鐵所の機械技術者が建設した。

このとき建設された工場建築は、わが国における本格的な大規模鉄骨構造建築と しては最初のものである。

4.明治 34 年(1901)当時の官営八幡製鐵所の建築技術者は高等官、判任官などの 職員や外国人技術者用の官舎および官営八幡製鐵所の事務所などの設計と建設 を担当していた。

これらの事実を踏まえて、明治 34 年(1901)の官営八幡製鐵所の操業開始に伴う工 場建築の建設の体験が、わが国の鉄骨構造建築の発展への大きな契機となったと言うこ とができる。

3-4.ドイツ人技術者帰国以降の工場建築 3-4-1.官営八幡製鐵所の建設組織の充実

操業開始時の官営八幡製鐵所の施工体制は明治 32 年(1899)5 月に、工務部機械課 の中に工場建設の現場組織として第一据付掛が設置され、当初の工場建築群の施工を ドイツ人技術者指導のもとで推進したことは先に述べた。

その後、ドイツ人技術者は明治 37 年(1904)2 月までに帰国した。従って、明治 37 年(1904)2 月以降の工場建築の施工はドイツ人技術者の指導なしの、日本人だけ で行う必要があった。このため工場建設の担当組織として明治 37 年(1904)2 月に工 務部の中に工作科が設けられ48)、科長には小野正作が任命された49)

これにより工場建設組織は「掛」から「科」に格上げされ、建設推進のための組織 強化が進められた。

工作科の中で、工場建築の建設に関する業務は、やり方(芯出し)、基礎築造、鉄骨 加工、建方、屋根葺き、腰煉瓦積みなど施工に関する全てで、鳶、板金工などの専門職 人も組織のメンバーに取り込まれていたとされている50)

(28)

48

3-4-2.外国企業の設計による工場建築

明治 34 年(1901)操業開始時の官営八幡製鐵所の工場建築はドイツ企業の G・H・H に よる設計であったが、日本人による設計、施工の工場建築が出現するまでに、ドイツ 以外の外国企業の設計による工場建設を体験した。官営八幡製鐵所では、明治 37 年

(1904)2 月から同 39 年(1906)までに、ドイツ企業以外の外国企業の設計による2 つの工場建築が建設された。この2つの工場建築は設計をそれぞれアメリカとイギリ スの企業が行い、施工は前頄に記した官営八幡製鐵所の工務部工作科が担当した。

1)厚板工場

明治 38 年(1905)に操業を開始した厚板工場がその一つである(図3-17)。この 厚板工場はすでに解体されて現存しないが、設計図面のサインから設計はアメリカの モルガン社であることが判った。図面には鋼材継ぎ手の位置、納まりなどがかなり詳 細に記述されていたが、現在はその図面は存在しない51)

鋼材はロールマークからアメリカのカーネギー社の製品と確認できた 51)。この 2 社 は合併によりすでに明治 34 年(1901)に U.S スティールとして世界最大の鉄鋼メー カーを誕生させているが、この工場建築が竣工した明治 38 年(1905)においても、理 由は不明であるがまだそれぞれ、以前の名称となっている。

規模はスパン 24.384m、桁行 195m、軒高 8.306m で、屋根形状はドイツ企業設計の 丸屋根と違い、フィンクトラスの小屋組による三角屋根である。

設計寸法は現在、図面が存在しないので明確にはできないが、スパン寸法などに端 数が見られることからインチサイズであったと推測される。

この建物の特徴は小屋組の上弦材にあり、上弦材を 2 つの山形鋼(2L-3.5in×

2.5in×0.5in)と鋼板(厚み 5/8in×幅 12in)で T 形の部材を作り、それに直接、斜 材をリベットで接合していることである。この手法は後の T 形鋼の前例と見られる(図 3-18)。

図3-17 厚板工場

(JSSC、VOL.20、NO.216、‘84 8.9 塩原正典、開田一博)

24,384

(29)

49

図3-18 厚板工場上弦トラス

(JSSC、VOL.20、NO.216、‘84 8.9 塩原正典、開田一博)

2つの山形鋼と鋼板でT形鋼を形成し、ガセットプレートを省略して、鋼材量の増加はあるが 加工手間の簡素 化による人件費の削減を狙った設計手法を用いている。

これによってドイツ企業の設計例で見られた部材同士を接合するための接合用鋼板

(ガセットプレート)が不要となり、鋼材重量はやや増加するが、加工手間は省略で きる利点があり、鋼材重量より人件費を尐なくすることにウェイトを置いた設計意図 が読み取れる。これは「2-2.外国技術の導入調査」の頄で引用した、飯田賢一の「米 国の製品は量的にも質的にも思う存分の原材料を用い、他方賃金の占める部分を最小 限にとどめている」という文章を裏づけている。

2)外輪工場

現存している明治 39 年(1906)に操業を開始した外輪工場(荷馬車などの車輪の 外輪をつくる工場)がある(図3-19)。

規模はスパン 17m、桁行 96m、軒高 12m の 2 連棟で、厚板工場と同様、フィンクト ラスの小屋組みによる三角屋根形状の建物である(図3-20、写真3-18)。

外輪工場の設計はイギリスのジャクソン社であり、工場建築も機械製品と一括して 受注しているためか、建築関係図面は機械工作図の中にその一部として納められてい たが現在は見当たらない。

この建物の設計寸法はインチサイズを用いているのに対し、鋼材はセンチメートル 単位となっていることが特徴的である。設計寸法と鋼材サイズの単位が違っているこ とから、設計はイギリス企業によるものであるが、鋼材は他国から購入したものと思

(30)

50 われる。

鋼材メーカーは不明であるが、鋼材には PИ-34 といったロールマークがあり(写 真3-19)34 は 34cm に対応していることから、鋼材のサイズはセンチメートル単 位となっていることがわかる51)

構造上の特徴は、小屋組トラスと柱位置が一致していないことである。即ち、上部 柱頭間を桁で繋ぎ、その桁上に小屋組トラス端部が架かっている(写真3-20)。そ の小屋トラスの下弦材には引張り材としてフラットバーが使用されているが、剛性が 極端に弱く、建方時にはトラス頂上部を吊り上げるため、下弦材は圧縮側となって変 形を起こし、困難を極めたという言い伝えも残っている。

柱脚の剛性を高めるため、FLが基礎天端から1m嵩上されている。

写真3-18 現在の外輪工場

(2008 年 9 月筆者撮影)

図3-19 外輪工場(

JSSC、VOL.20、NO.216、‘84 8.9 塩原正典、開田一博)

(31)

51

図3-20 外輪工場小屋トラス

(JSSC、VOL.20、NO.216、‘84 8.9 塩原正典、開田一博)

下弦材は引張材としてフラットバーが使用されている。

写真3-19 外輪工場鋼材ロールマーク 写真3-20 トラス受け上部桁状況

(1983 年 筆者撮影) (1983 年 筆者撮影)

PИ-34のロールマークが見られる。 桁上に合掌が架けられている。

(32)

52

写真3-21ステイ設置状況(2008 年 9 月筆者撮影影) 写真3-22柱脚部状況(1983 年筆者撮影)

変形防止のため柱から複数の丸鋼のステイが設置されている。 FL から下方に埋設された柱状況が確認できる。

さらに現在は補強として、軒から大きな丸鋼の支え(ステイ)が設置されているが(写 真3-21)、これは操業時の振動などにより剛性不足が原因で建物に変形が生じたた めと推測される。

柱は主材が I 形鋼、斜材は山形鋼、水平ラチスは T 形鋼による組立柱で、柱脚は剛 性を上げるため、床面より 1m 低い所に埋められている(図3-19、写真3-22)。

以上、記述した2つの建物のうち、アメリカ企業設計の厚板工場からは先述のドイ ツ G・H・H 設計の建物と比較すると、特に鋼材量の節約に対する考え方の違いが見てと れる。

3-4-3.欧米企業の設計による工場建設の経験

工場建築の建設を担当した官営八幡製鐵所工作科 52の機械技術者達はドイツ、ア メリカ、イギリスの各企業設計の工場建設を体験した。その中で、前述のフラットバ ーに変形が生じるといった建方時のトラブルなどを経験しながら、彼等は部材活用の 方法や細部納まりなど、現場から種々の技術を習得したと考えられる。

このような状況下で、これまでに外国人設計の工場を施工した実績等から「各種の 鋼材が八幡で生産される以上、設計さえやれれば、日本の鋼材で、鉄骨工場を建てる ことが出来る」という景山齊の記述にも見られるように 53、自前での設計、建設とい う気運が生じていた。

(33)

53

業による設計の工場建設も担当し、より幅広い鉄骨構造技術を現場で体験するこ とになった。

3.これらの経験から、官営八幡製鐵所での鋼材生産と相まって、国産第一号の工場 建設への気運が高まっていった。

以上、ドイツ人技術者に依存した当初の工場建築の建設から、アメリカ、イギリス 企業設計の工場建設も体験することで、官営八幡製鐵所内での日本人だけによる建設 集団が強化され、鋼材の生産と相まって国産第一号の工場建設への気運が高まってい ったという事実により、ここにわが国における鉄骨構造建築の発展のための環境整備 が醸成されつつあったと見ることができる。

(34)

第 3 章.官営八幡製鐵所開設時

54 注

1)『八幡製鐵所八十年史 総合史』(八幡製鐵所所史編さん実行委員会編集 八幡製鐵鉄所発行、

昭和 55 年、非売品)p16 に記述されている。その中で「技監ハ長官ノ命ヲ承ケ技術官ヲ指揮 シ製鉄事業ヲ掌ル」「技師ハ上官ノ指揮ヲ承ケ製鉄ノ事ヲ掌ル」「技手ハ上官ノ指揮ヲ承受ケ 製鉄ノ事ニ従フ」とある。

2)八幡製鐵所史料室所蔵:『高等官官記辞令原義 自明治 29 年至同 32 年長官官房』からピック アップした。

3)八幡製鐵所史料室所蔵:『判任官以下官記辞令原義 製鉄所庶務部 自明治 29 年至明治 33 年』

によった。それによると全国から集められた社員の経歴は建設会社(鹿島組)社員、建築設 計製図助手、工事監督、大阪工業学校助教授、鉄道会社技師等々、多種多様である。大学卒 業後即採用される例は、明治 29 年(1896)7 月「宗像十郎」(東京帝国大学工科大学採鉱冶 金学科)「瀬尾巧」(〃)の名が最初に見られる。

4)八幡製鐵所史料室所蔵:『判任官以下官記辞令原義 明治 29 年,30 年,31 年,32 年 長官官 房』にある採用者の人数から判断した。

5)『鋼構造物施工の変遷(明治 29 年~昭和 25 年)、プラント事業部歴史資料原稿集 No5』(清水 泰:新日本製鐵(株)エンジニアリング事業部プラント事業部、昭和 58 年 12 月)pp9-10 6)八幡製鐵所史料室所蔵:『重要書類 人事ニ関スル部 自明治29年至同 34年 秘書科』に

よった。その中に明治 29 年「東京砲兵工廠 廠丙第一一八号」に東京砲兵工廠技術官の八 幡製鐵所職員としての採用に関して、「今般製鉄所設置ニ付テハ往々當廠在動技術官等御採 用相成度・・・」といった東京砲兵工廠技術者採用に関する書類が「提理有坂成章」で出さ れている文書がある。(提理は職名である)

7)八幡製鐵所史料室所蔵:『諸達及通牒 自明治 2 9 年至同 30 年 長官官房』によった。

8)八幡製鐵所史料室所蔵:『通達原義 自明治 29 年至同 33年 文書課』の中にある「製鐵所 處務規程」によった。

9)八幡製鐵所史料室所蔵:『高等官官記辞令原義 自明治 29 年至同 32 年 長官官房』によった。

10)『鋼構造物施工の変遷(明治 29 年~昭和 25 年)、プラント事業部歴史資料原稿集 No5』(清水 泰:新日本製鐵(株)エンジニアリング事業部プラント事業部、昭和 58 年 12 月)pp9-11 11)製鐵所総務部編纂:「八幡製鐵所 25 年史、大正 14 年 11 月」p74

12)『創立期における官営八幡製鉄所鋼構造物についてⅢ .鋼構造物の変遷と施工方法について』

(清水泰、酒井英孝:JSSC VOL.20 NO.216 ‘84 8.9 )p26

13)『日本建築技術史』(村松貞次郎:㈱地人書館、昭和 34 年)p175 にヨーロッパにおける鉄の 構造材としての応用は 18 世紀末から始まり、その開拓には造船技師や橋梁技師等が多かっ たと記されている。

14)『建築もののはじめ考』(菊地重郎:大阪建設業協会編 新建築社、昭和 48 年 2 月)の中の

「鋳鉄柱の起源と変遷」p318 にもヨーロッパにおける工場建築は長く建築家の関心外であり

(35)

55

17) 「製鐵所處務規程」には「建築課ニ於テハ左ノ事務ヲ掌ル」として「一建築工事ノ設計ニ関 スル事頄」、「一 建築工事ノ監督ニ関スル事頄」とあるが、「れい明期における工場建屋調 査 八幡製鉄所懇談会ほか JSSC VOL.13 NO.136‘77 4」の p13、p16 で「一般に建築家は 工場建築には無関心であったし、製鐵所では木造建築をやる人だけがいた」といった趣旨の ことが当時、設計を担当された方々の話として記録されている。

18)八幡製鐵所史料室所蔵:「判任官以下官記辞令原義 製鉄所庶務部」(明治 29 年~明治 33 年)

の中に経歴が記されている。それによると明治 30年 4 月まで讃岐鉄道主任技師を務めてい る。明治 30 年 12 月技手に採用され,その後、技師となる。

19)八幡製鐵所には日本語、日本の寸法を用いた修繕工場基礎等の当時の図面が部分的ではある が残されている。

20) 官営八幡製鉄所の操業開始当時の工場基礎は図面および現地調査から、すべて煉瓦造とな っていることが確認されている。

21) 『工作部門の変遷(総合編 明治 29 年~昭和 25 年)工作事業部歴史資料原稿集 No1』(清 水泰:新日本製鐵(株)エンジニアリング事業本部工作事業部、昭和 57年 10 月)p5 22) 八幡製鐵所史料室所蔵:『重要書類 但事業関係ノ部 自明治30年至同 34年秘書課』に

よった。その中の「直営工事ニ関スル勅令発布ニ付大蔵大臣ヘ協議案」に「政府ノ工事ハ総 テ競争ニ付スヘキ規程有之モ・・・民間ニ於テ未タ此種ノ 建築工事ニ慣塾セル請負無之ハ勿 論其材料タル煉瓦セメントノ如キ諸材料ニ至ル迄・・・本邦算出ノ分ハ品質劣等品種不揃ニ シテ到底使用ニ不堪・・・耐火煉瓦及セメント銕材ノ如キモ多ク外国品ヲ購入シテ・・・又 普通用煉瓦ハ其数無慮ニ千 萬個以上ヲ要スルヲ以テ特 ニ製造場ヲ仮設シテ製鐵所 技師監督 ノ下ニ製造セシメ・・・其他石材木材ニ至ル迄其産出地を撰擇シ・・・若シ・・・競争ニ付 シ最低價ノ者落札セシムル 如キ手段ヲ取ルニ至テハ何 程其監督ヲ厳密ニスルモ不 充分ナル 材料ヲ以テ不完全ナル工事ヲ落成セシムル・・・一切直営工事ト致度存候」という意 見書が 時の農商務大臣から大蔵大臣に提出されている

23) 八幡製鐵所史料室所蔵:『閣議稟請 自明治29年至同 37年 文書課』によった。その中 で明治 31 年の「随意契約ニに関スル件」で随意契約承認のため、農商務大臣大石正巳から 内閣総理大臣大隈重信宛に閣議開催要請の書類がある。

24) 『鋼構造物施工の変遷(明治 29 年~昭和 25 年)、プラント事業部歴史資料原稿集 No5』(清 水泰:新日本製鐵(株)エンジニアリング事業部プラント事業部、昭和 58 年 12 月)p10 25) 『工作部門の変遷(総合編 明治 29 年~昭和 25 年)工作事業部歴史資料原稿集 No1』(清

(36)

第 3 章.官営八幡製鐵所開設時

56

水泰:新日本製鐵(株)エンジニアリング事業本部工作事業部、昭和 57年 10 月)」p10 26)『八幡製鐵所八十年史 総合史』(八幡製鐵所所史編さん実行委員会編集 八幡製鐵鉄所発行、

昭和 55 年、非売品)pp20-21 にドイツに依頼したことが記されている。

27)『和田維四郎―日本鉱山学の先駆者―』(佐々木亮:若狭人物叢書8,1980、小浜市立図書館 蔵)によれば、明治18年東京帝国大学工科大学教授、明治22年農商務省鉱山局長、明治 25年製鋼事業調査委員、明治30年製鐵所長官、明治35年非職となっている。

28) 八幡製鐵所史料室所蔵:『外国人関係書類 明治 32 年 秘書科』の中に、雇用期限、資格(勅 任官)などの条件を記した伺い文書がある。

29) 八幡製鐵所史料室所蔵:『外国人関係書類 明治 32 年 秘書科』の中に契約書原案がある。

それによると「ボーフム」市製鐵技師、「製鐵所製銑部主任技師トシテ奉仕スヘシ」とある。

30) 八幡製鐵所史料室所蔵:『外国人関係書類 明治 32 年 秘書科』の中に契約書原案がある。

それによると「ハム」市製鐵技師、「製鐵所製品部主任技師トシテ奉仕スヘシ」とある。

31) 八幡製鐵所所史編さん実行委員会編集:「八幡製鐵所八十年史 総合史、八幡製鐵鉄所発行、

昭和 55 年、非売品」の pp22-23

32) 八幡製鐵所史料室所蔵:『外国人関係書類 明治 32 年 秘書科』の中に「外国人傭入ノ義付 上申案」がある。それによると「独逸国グーテホフヌングスヒュッテ會社ト約定ノ上傭入職 工・・・、本所機械職工長トシテ・・」とある。

33) 八幡製鐵所史料室所蔵:『外国人関係書類 明治 32 年 秘書科』の中には、鬼ケ原外国人職 工官舎第1号を与える旨の伺い文書がある。

34) 八幡製鐵所史料室所蔵:『外国人関係書類 明治 32 年 秘書科』の「外国人傭入ノ義ニ付上 申案」によった

35)『日本建築技術史』(村松貞次郎:㈱地人書館、昭和 34 年)の pp170-172 に記述がある。

それによると規模は 13.7m×12.8m×3 階建てとされている。

36)塩原正典:「創立期における官営八幡製鉄所鋼構造物についてⅡ建築構造物、JSSC、VOL.20、

NO.216‘84 8.9」p18 に「徹底した鉄骨架構としては、秀英社に次ぐ建築である」とある 37)『八幡製鐵所八十年史 資料編』(八幡製鐵所所史編さん実行委員会編集 八幡製鐵鉄所発行、

昭和 55 年、非売品)p60、「八幡製鐵所工場配置図 明治 34 年作業開始当時の八幡製鐵所」

には、銑鉄流鋳場、シーメンスマルチン炉工場、ベッセマー炉工場、分塊ロール工場、軌条 及形鋼ロール工場、大型ロール工場、中型ロール工場、小形ロール工場、薄板ロール工場、

鋳物工場、修繕工場、製缶工場、鍛冶工場、精整工場などが記さ れている。

38)『創立期における官営八幡製鉄所鋼構造物について』( JSSC VOL.20 NO.216.‘84 8.9)

の中の「Ⅱ.建築構造物」の頄で述べられているが、現在その図面は散逸して見当たらない。

39) 八幡製鐵所史料室所蔵:「製鐵事業調査曾関係書類、明治 28 年度、文書課」 によった。

40) 生子とは海鼠壁を連想するが、波型の意味もあり、当時の写真及び図面から波形鉄板と考 えられる。『日本建築技術史』で村松貞次郎博士が「屋根は鉄板シックイ塗」と書かれてい るのは海鼠壁を想定されたためではないかと推測する。

4/4

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(37)

57

44 )『 Die Gutehoffnungshütte Oberhausen 、 Reinland Zur Erinnerung an das 100jähirge Bestehen. 1810-1910』が原本である。

45)『「今泉博士傳記刊行会(非売品)』( 昭和18年7月29日発行)の pp165-166、「15.

八幡製鐵所大烟突の設計並施工」という頄目の中に記述されている。

46)ドイツのグーテホフヌンクスヒュッテ社からの図面の中に存在する。

47)八幡製鐵所で、操業開始時の工場建築から鋼材サンプル摘出により、強度試験を行った結 果による。

48)『組織からみた八幡製鉄 60 年の足跡と躍進のすがた』(小宮章:市政タイムス社、昭和 34 年 12 月、八幡製鉄史料室所蔵)の中の p26「八幡製鉄の組織の変遷」によった。

49) 八幡製鐵所史料室所蔵:「高等官 判任官雇 官記辞令録 明治 37 年文書課秘書科」によ った。彼の経歴書には陸軍工廠関係勤務の経歴が記載されている。

50) 『工作部門の変遷(総合編 明治 29 年~昭和 25 年)工作事業部歴史資料原稿集 No1』(清 水泰:新日本製鐵(株)エンジニアリング事業本部工作事業部、昭和 57年 10 月)p10 51)『創立期における官営八幡製鉄所鋼構造物についてⅡ.建築構造物』(塩原正典、開田一博:

JSSC、VOL.20、NO.216、‘84 8.9)pp21-23 厚板工場は調査時には存在したが、現在は解 体されて存在しない。また設計図面も調査時には存在したが、現在は不明である。

52) 『製鐵むかしがたり』(景山齊:昭和 39 年 2 月、非売品)には明治 41 年(1908)の製鐵所 内工員数が 7,602 人の内、工作科における工員は約 1,000 人であったという充実度が記され ている。

なお、この『製鐵むかしがたり』には著者「景山齊」が京都帝国大学工科大学機械工学科を 卒業して1後、官営八幡製鐵所 への入社の経緯から、赴任地の町の状況、社宅での暮らし、

赴任後の業務の内容とその仕事ぶりなどが詳しく語られており、創業時の官営八幡製鐵所で の職場環境や周辺の町の状況から終戦頃までの出来事、そしてそれらを通して当時の技術者 の様子を知ることができる。

53)『製鐵むかしがたり』(景山齊:昭和 39 年 2 月、非売品)pp16-22 に記述されている。

(38)

58 図版

表3-1 技師の陣容(明治 29 年~明治 32 年)は八幡製鐵所史料室所蔵:『高等官官記辞令原義 自明治 29 年至同 32 年 長官官房』を基に作成した。

表3-2鋼材分析結果(溝形鋼)は「塩原正典、開田一博:『創立期における官営八幡製鉄所鋼 構造物についてⅡ.建築構造物、JSSC、VOL.20、NO.216、pp21-23 ‘84 8.9』」から転 載した。

図3-1 施工体制図は製鐵所総務部編纂「八幡製鐵所 25 年史、大正 14 年 11 月」と清水泰著「鋼 構造物施工の変遷(明治 29 年~昭和 25 年)、プラント事業部歴史資料原稿集 No5、新 日本製鐵(株)エンジニアリング事業部プラント事業部、昭和 58 年 12 月」を基に著 者が作成した。

図3-2 鋼構造の系譜は「塩原正典、開田一博:『創立期における官営八幡製鉄所鋼構造物につ いてⅡ.建築構造物、JSSC、VOL.20、NO.216、pp21-23 ‘84 8.9』」から転載した。

図3-3 創立期の官営八幡製鐵所の工場配置計画は「八幡製鐵所土木誌、新日本製鐵㈱八幡製鐵 所、土木誌編纂委員会、昭和 51 年 11 月」資料編から転載した。

図3-4 尾倉修繕工場架構図は八幡製鐵所図面センター所蔵の図面から転載した。

図3-5~図3‐7は「G・H・H100 年史」から転載した。

図3-8 尾倉修繕工場小屋面水平ブレースは八幡製鐵所図面センター所蔵の図面から転載した。

図3-9 柱脚ピンの柱は同上。

図3-10 G・H・H から提示された基礎図は同上。

図3-11 尾倉修繕工場基礎図は同上 図3-12 旧本事務所基礎図は同上。

図3-13 尾倉鋳鋼工場基礎図は「塩原正典、開田一博:『創立期における官営八幡製鉄所鋼構 造物についてⅡ.建築構造物、JSSC、VOL.20、NO.216、pp21-23 ‘84 8.9』」から 転載した。

図3-14 尾倉修繕工場軒先納り図は八幡製鐵所図面センター所蔵の図面から転載した。

図3-15 分塊工場、軌条工場、大形工場小屋伏図は同上。

図3-16 分塊工場、軌条工場、大型工場側面図は同上。

図3-17 厚板工場は「塩原正典、開田一博:『創立期における官営八幡製鉄所鋼構造物につい てⅡ.建築構造物、JSSC、VOL.20、NO.216、pp21-23 ‘84 8.9』」から転載した。

図3-18 厚板工場上弦トラスは同上。

図3-19 外輪工場は同上。

図3-20 外輪工場小屋トラスは同上。

(39)

59

写真3-7 現在の尾倉修繕工場内部は 2006 年6月著者撮影

写真3-8 八幡製鐵所史料室に保存されている古文書を筆者撮影。

写真3-9、10は G.H.H 写真は 100 年史より転載。

写真3-11 尾倉鋳鋼工場小屋端部トラス写真は 1980 年頃に筆者撮影。

写真3-12 Z形鋼使用例は同上。

写真3-13 ガーダー受けサポートは同上。

写真3-14 尾倉鋳鋼工場基礎調査写真は同上。

写真3-15 G.H.H ロールマークは 2008 年 9 月筆者撮影。

写真3-16 ハット形鋼写真は 1980 年頃に筆者撮影。

写真3-17 I 形状の棟状況は 2008 年 9 月筆者撮影。

写真3-18 現在の外輪工場は 2008 年 9 月筆者撮影。

写真3-19 外輪工場鋼材ロールマークは 1980 年頃に筆者撮影。

写真3-20 トラス受け上部桁状況は 1980 年頃に筆者撮影。

写真3-21 ステイ設置状況は 2008 年 9 月筆者撮影。

写真3-22 柱脚部状況は 1980 年頃に筆者撮影。

参照

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