著者 緒方 貞子
雑誌名 同志社アメリカ研究
号 38
ページ 1‑11
発行年 2002‑03‑20
権利 同志社大学アメリカ研究所
URL http://doi.org/10.14988/pa.2017.0000001422
〈山内〉
ただいまから緒方貞子先生によります「難民保 護の10年と将来展望」の講演を開催したいと思 います。私は司会をさせていただきますアメリカ研 究所所長山内信幸でございます。緒方先生は研 究者として国際関係論を中心に広く理論的な研 究を進めてこられ、一方でその実践者として国連 難民高等弁務官の仕事の中で精力的なご活躍を されてこられました。いわば理論と実践の両輪を お一人の中で具現化された方であり、最新刊『文 藝春秋』にご寄稿の論文の中にも、そのご活躍ぶ りが詳述されております。ご講演後、先生からの ご希望でもありますが、フロアの皆様との交流を 楽しみたいということで、質疑応答の時間も予定 しております。それでは先生、よろしくお願いいた します。
〈緒方〉
本日は大谷(實)総長、八田(英二)学長および 同志社大学の皆様から大変光栄な名誉文化博士 学位の称号をいただきましてありがとうございま す。この名誉な機会に少し話をしてはどうかとお 誘いまでいただきました。これから難民問題に捧 げました10年を回顧しながら、一体今、私どもは
どんな時代に生きているのだろうか、特に若い学 生の方々がいらっしゃっていますから、その方々 にもこういう時代に生きて、そして将来どういう方 向に向かって進んでいただきたいかということも 含めてお話したいと思っております。
グローバリゼーションの時代というふうに現代を 特徴づけるのは広く知られていることでございま す。この場合、グローバリゼーションと申します時、
大抵の場合、モノとお金と情報が自由に限りなく 広まっている時代とお考えになるだろうと思います が、もう少し考えてみますと、実は人が強いられた 形で移動している時代です。先程、キリスト教文化 センター所長のお話にもありましたように、動きたく ないが、動かなければならない人々、おそらく皆様 が想像されている以上に、そういう人々が非常に 多い時代なのです。難民、あるいは国内において 避難民と言われている人たち、国内難民、あるい は仕事を求めてどうしても自分たちのいるところか ら離れて世界中動かなければならない人たちが いる。「強いられた人間の移動の時代」、私が10年 間、難民高等弁務官として働きました結果、大きな 特徴として印象づけられていますのは、強いられ た人間の移動の時代であると感じたことです。
2001年4月20日、アメリカ研究所はアメリカ研究科と共催でアメリカ研究科創設10周 年を記念して、緒方貞子・前国連難民高等弁務官をお招きし、同志社大学名誉文化博 士の学位を贈呈する式典を同志社女子大学栄光館で挙行した。緒方氏は1991年から 2000年までの10年間、国連難民高等弁務官として世界における難民の保護や難民問 題の解決のために尽力され、その功績を称えて本学より名誉学位を贈呈することにな った。
学位贈呈式のあと、緒方氏は国連難民高等弁務官としての任務と経験を、様々なエ ピソードを交えながら、約1時間講演されたが、以下はその講演記録の全文である。
緒 方 貞 子
そもそも難民とはどういう人たちなのでしょうか。
難民条約、難民高等弁務官事務所の規定により ますと、紛争であるとか迫害であるとか、主に政 治的理由から自分の家、自分の故郷を離れて国 境を越えて他に移らなければならなくなった人た ちです。つまり普通でしたら、皆さんは自分の国 家の庇護のもとにあるわけです。外国に行こうと 思えばパスポートを得るのも自分の国家の政府か らです。ところが難民となった人はその庇護もな いのです。法的な庇護がまずない。そして他国に 庇護を求めなければならない。そういう状況にあ る人々のために国家に代わって、国家の外で庇 護を与える、そのミッションを与えられたのが難民 高等弁務官です。そもそも第二次世界大戦の終 わりにあたってヨーロッパにおける犠牲者に対し て、庇護のために法的な恩恵を与える。これが発 端でできた事務所でございます。そしてその頃は 当然ながら、主な対象者は東側の社会主義国か ら西側の自由な国へと庇護を求めて人は動いた わけです。個人個人を対象としたものでございま した。そこに盛られている原則は何か。ノンルフー ルマン(non-refoulement)と一般に言われていま すが、簡単に言ってしまうと、迫害の恐れのある 本国への追放、また送還は許されないという原則 でございます。その原則に従った国際条約に、今、
世界で140か国が加盟しておりまして、私のおりま した難民高等弁務官事務所の任務というのは、
このような原則が守られているかどうかを世界中 で見守る。そういう任務でございました。
ところがだんだん時代が変わってまいります。
最初の東側から西側に移ってきた個々の難民の 保護の時代から、1960年代になりますと、植民地 からの自立、解放を求めて主にアフリカの国々で 自分の国の植民地支配の政府に反抗して解放闘 争を始める人たちがいる。この人たちが近隣の諸 国へ逃げていくわけです。植民地解放闘争、その 犠牲者、闘争者を中心とした難民の時代がまいり ます。アルジェリア、その他アフリカの諸国で私ど もの仕事は増えていったわけてす。それからさら に時代は、東西の対立、冷たい戦争の時代にな
ってまいります。今度は西側の国々にグループと して大量に逃げてくる難民が特徴的になってまい りました。インドシナ難民、中央アメリカの難民、人 数的に一番多いのはアフガン難民でございます。
ソ連の占領下にあったアフガニスタン、そこから逃 げた難民の数は600万に近かったわけです。こう いうような冷戦時代の特色は、ある国境を越えて 大量の難民が隣国に保護を求めていった。
ところが私が難民高等弁務官になりました90年 代は、この様相がガラッと変わるわけでございま す。ベルリンの壁が壊れ、冷戦が終わる。それま ではイデオロギーと国家間の境界はぴったり合っ てたのですが、そういう境界線の意味が変わって くるわけです。共産主義圏が崩壊するわけです。
そこから来た人たちも帰ることができるようになる。
あるいは共産圏諸国の支配下にあるさまざまな 国、アフガニスタンもそうですし、アジアにおいて はベトナムであるとかカンボジアのような国々から、
自分が迫害を恐れて逃げた国へ、その国のイデ オロギー的、政治的体制が変わるわけですから 帰ることができるようになる。非常に問題が複雑 になってまいりました。その上にそれまでは東西 の冷戦という形であったさまざまな東側の国々の 政治体制が変わる。たとえばソ連邦が崩壊する。
ユーゴスラビア連邦が分解する。そうなるとイデオ ロギー的、権力的締めつけをしていた国、そこか ら逃げてきた人たちが帰るチャンスが出てくるわ けです。ソ連の崩壊が一番はっきりしているので すが、ソ連邦が崩壊し、それが15ヵ国の独立国に なった中で、さまざまな人種的な動きが始まるわ けです。私が難民高等弁務官に就任してほどな く、一番大きな問題だったのは、今まではいつも 難民を流出していたソ連邦が15ヵ国に分かれて しまった中で、ロシア人の動きを心配するようにな りました。特にロシア連邦が一番大きい独立国に なって、ソ連邦をいろんな面で継承したのですが、
15ヵ国に分かれた国の中でロシア人がいるわけ です。残って少数民族になってしまったロシア人。
違った国になったために逃げなければならないロ シア人。少数派になった人たちを守り、または帰
ってくるロシア人のために、帰ってくるためのさま ざまな権利、保護を与えるにはどうしたらいいのか。
初めは難民を出していた東側のソ連邦から、今度 は逆に法的な援助をしてほしいという申し出が出 てくるわけです。これは特筆すべき例ではござい ますが、そのような変化が起こってくる。新しい形 の解決案を探さなければならない時代になるわけ です。
またユーゴスラビアのように、セルビア系、クロ アチア系、イスラム系と3つの民族がいろんな形で 共存していたユーゴスラビアという国で民族間の 争いが起こる。セルビアはセルビア人が一番強 い支配ができるようにしたいと、クロアチアの中で 争いが起こる。イスラム系の人たちは人数的には 少ないのですが、イスラム系の人たちも十分な恩 典がほしいという形で争いが起こる。国の中での 争いが大きく特色をもった時代が始まったわけで す。1990年代になりますと、国家間の紛争はほと んどなくなります。最近ではエチオピア、エリトリア くらいだと思います。後は全部国内紛争という新 しい形の紛争が起こり、新しい難民の流出が始 まりました。
このことは私たちのように難民の保護を国家の 境界線ということで線を引いて、そこから越えた人 たちを難民として法的に保護するという形で進め てきた機関にとっては新しい形の難民の保護の 方策を求めなければならない時代になってきたわ けです。その意味では非常に難しい時代を迎え ました。いくつかの特徴がありました。難民が大 量に動きだしたんです。私が初めて解決をしなけ ればならなかった難民は、クルド族、北イラクから イラク政権の迫害、弾圧に会って近隣の国に逃 げなければならないクルド難民でした。170万人。
数字でご覧になりますとどんなにたくさんの人た ちか実感がわからないかもしれないのですが、イ ランに120万人くらいが動くんです。120万人の人 間が山間の道を動いていく。ずっーとぎっしり人 間、トラクター、車、トラックが続きます。京都の交 通マヒがどれくらいか知りませんが、どこでご覧に なった交通マヒよりもひどい交通マヒが続きまし
た。何日も何日も人が逃げていく。そういう状況で した。さらに40万人近い人はトルコに逃げようとし た。トルコとイラクの国境は非常に厳しい山で、し かもトルコにはクルド人がたくさんいて、この人た ちの反対勢力的な動きをトルコ側は警戒していま したから、なかなかトルコには逃げられない。山 の中でたくさんの人が危険な状態になる。これを どうするか。
私どもの原則から言いますと、迫害をしている 国から逃れてきた人たちを庇護国の側に立って 彼らを受け入れる、これが私どのも任務だったの ですが、トルコの場合、クルド人がたくさん来るこ とになりますと、トルコの民族的なバランスが崩れ る。トルコはNATOの一員でしたからそういう状況 を許したくないという西側の戦略的な配慮もあっ たんです。そこで余りに悲劇的な状況だったため に、人道的配慮からイラク側に降ろそうという、ア メリカ、イギリスその他NATO諸国は北イラク側に キャンプを作ってクルド人を入れる戦略をたてま した。それは今までの原則とは違った形の庇護 の対応だったわけです。そのため、私は非常に難 しい決断に迫られました。いろいろ考えたのです が、一番大事なことは人間の命を何とかして守る ことではなかろうかと考え、北イラク側に難民キャ ンプを米軍と一緒に作ったのです。それと同時 に彼らが帰ってきたイラクの中で迫害に会わない ように監視活動を続けなければならなかったわけ です。内戦の時代に入りますと、難民の庇護、保 護の問題が非常に複雑化していく。複雑化の時 代、何とか10年を過ごしてきたわけです。
もう一つたくさんの難民がいきなり大きなうねり のように逃げ始めるという状況があります。大量 難民の時代とも言えると思います。イラクの場合は 170万人。ユーゴの場合は一番多い時で約400 万人の人々の援助をしなければなりませんでし た。それは大きな連邦国家が崩壊して、いくつか の国に分かれていく。しかもその国の中には主に 3つの民族がいて、相争う。民族浄化と言われま したが、お互いに自分と反対の民族の人たちを 追い出そうという紛争が続いたわけです。難民と
してよその国へ行った人たち、自分の国の中にい ながら出身地にとどまれない、国内難民、さらに 激しい戦争。サラエボというのは冬季オリンピック まで行なったヨーロッパの文明国の主都でした が、そのサラエボの街は主にセルビア軍に包囲さ れて、物資が持ちこまれない。約30万人の街の 人たちを救うために私どもは史上もっとも長期間 の空輸をしたわけです。これはいろんな国の軍が 輸送機を出し、そこで食糧・医薬品から新聞の原 紙まで輸送したんです。どうして新聞の原紙かと いうと、新聞から情報がとれるというのはサラエボ の市民にとって生きるか死ぬかの大事な情報源 だったんです。新聞の紙の大きなロールまで輸送 しまして、そして30万人の人たちが何とか3年間 にわたって生き続けるお手伝いをしたわけです。
あるいはアフリカ大湖地域のルワンダでは、ツ チ族とフツ族という相対立する部族が争っていま したが、フツ族がツチ族を大量に虐殺する。そし て戦闘に敗れて120万人の難民が近隣のザイー ル、今はコンゴと言いますが、そこに逃れていく。
コンゴの国境を越えたところにキャンプを作る。
火山地帯で、皆さんだったら歩くのも嫌だと思うほ どの岩山でしたが、そこにキャンプを120万人分 作る。そういうことをしなければならない時代であ ったわけです。一人ひとりに「あなたは難民です か。迫害を受けたんですか」という審査をして庇 護を与えることは到底不可能でした。したがって グループ全体に何とか庇護を与え、人道援助をし なければならない。こういう時代でした。
私が難民高等弁務官になりました1991年、約 1,700万人だった難民が、一番多かった1996年 には2,600万人、私が退官しました昨年終わりに は2,200万人弱ということになりました。減ったと いう事実を申し上げたいのは、難民問題は解決 できる問題なんです。もしも自国の政府が人を迫 害するような政府からもっと民主的な安定的な政 府になったら、そしてその変化の過程で、国際社 会が十分な援助を与え、ある時期、難民が、キャ ンプ等で安定した生活を過ごすことかでき、そし て帰るのを待つことができる場合、問題を解決す
ることができるのです。モザンピークという旧ポル トガル領だった国でしたが、170万人が帰ったわ けです。ルワンダにも60〜70万人が帰ってまいり ました。皆さん、ご承知のカンボジア難民もインド シナ紛争が終わって40万人が帰った。こういう形 で難民問題を解決することもできたから、その意 味では90年代は難民問題が増えた時代であった だけではなく、国際的な努力で、また難民自身の 努力の上に立って、難民問題を解決することがで きた時代でもあったわけです。
こういう時代の中で一生懸命頑張ってきた国連 難民高等弁務官事務所の人たち、4,300〜5,000 人くらいになったこともあります。予算も私がまい りました時は年間予算が約5、6億ドル、それが10 億ドルを越える、12億ドルにもなった時代があっ たわけです。そういう中でどうやって対応したか。
いくつかご参考までに申し上げますと、まず第一 に、緊急事態が起こった時、これにすぐ対応でき るような能力を持っていなければならない。そこ で対応できないと、たくさんの犠牲者が出るわけ です。北イラクで私どもが一番苦労しましたのは、
当初の準備は約10万人くらいの難民が出てくる のではないかということで食糧や車両等を準備し ていた。ところが170万人動きますとどうにもでき ない。援助が遅れた。不十分だという批判を 方々からいただいたわけです。そこで何とか対応 できるには準備をするしか仕方がないということ で、92年、緊急対応チームを組みました。緊急事 態に対して早く物事を決断できる、早く動ける人 たちのチームの訓練にあたりました。100万人に 対応できる陣容を作ろうとすれば大組織にしない といけない。そんなことはできません。したがって 何かあった時は、最低限すぐ動ける人たちを訓練 すると同時に、待機制度、スタンド・バイ・アレンジ メント、いろんなところにいざとなったら来てくれる 人たちとの連携を考えたわけでございます。それ は政府の役人の場合もありましたし、NGOの場合 もありました。待機制度を強化して、72時間以内 に数百人の人がすぐ応援にかけつけてくれるシ ステムを開拓したわけです。これは今も続けてお
ります。たとえばアジアの地域では、昨年、一昨 年からチモールで大きな事件が起こりました。ま だまだアジアには不安定な要因がありますからア ジア太平洋地域でもいざとなった時、来てくれる 人たちのチームを組んでおく。しかしどんなにボラ ンティアの精神があって、好意によって動こうとす る方があっても、訓練を受けていないとだめなん です。緊急事態に対応するためには、緊急事態 に対応できる訓練、チームワークを作っておかな いといけない。難民高等弁務官事務所はEセンタ ーと呼んでいますが、コンピュータを使った通信教 育と現場でのチームワークをするための実地訓練 をかね合わせたプログラムを組み、アジア太平洋 地域における訓練を始めています。ただ人的準 備だけじゃ十分ではない。やはり必要な物資の 備蓄が必要です。大きな国際的な備蓄センターが コペンハーゲンにありますが、アジアにおいても作 らないといけない。世界の不安定な地域に備蓄 センターを作る。たとえばテント、毛布、とくにプラ スチックシーティングは窓、住居、テントの代わりも できます。医薬品、緊急用の食糧、乾パン等、そ れから何と申しましても、車がないと動けないの で、車両もすぐ動かせるようにおいておく。調達で きるようにしておく。また、インフォメーション・テクノ ロジー、ITは緊急事態に絶対に必要なものです。
身を守る、危険な時に身を守るものは何かという と、通信器具を持っていることです。自分はここに いる、そこに行くと危ないよという通信のシステム を持っていなければ緊急事態に対応できません。
そのためのモノも必要ですし、訓練も必要になっ てくる。まず第一に緊急事態に対応できるような 能力の強化を試みました。
皆さんはおそらく難民といえばキャンプと思わ れる。一体、キャンプとは何であるか。どうやって 作っていくのでしょうか。ルワンダの人たちがザイ ールに120万人渡ったといいましたが、私どもの事 務所では、入ってきた人たちを住まわせてもらう 交渉をまず近隣諸国の政府としなければなりませ ん。この場合、近隣の諸国の政府にしてみれば、
そんな人たちがどんどん国に入ってきたら大変な
ことになりますから、なるべく国境地域に近い、あ まり豊かじゃない土地をくれるというのが普通で す。この場所は水が全然ないから困るとか、いろ んな交渉を重ねて何とかこの人たちのしばらくの 滞在の場所、キャンプを作るという努力をいたし ます。キャンプの設定には特殊な技能が必要に なる。まずこういう場所にキャンプを置くと決める と、水回りを決めるのが大事なことです。水がな いと大変難しい。どういうふうにすれば貯水でき るか。どういうところから水を持ってくるか。水の問 題は大きな問題です。さらに衛生施設、トイレをど ういう形で何人のためにどういうところに置くか。
衛生の問題はキャンプの設営では大事です。キ ャンプのためのテントをあてがい、できれば難民 の人一人ひとりが自分たちのキャンプを作っても らう。
キャンプで生活が始まりました時に大事なこと は治安の維持です。100万人の人が来れば、犯 罪者、悪い人、弱い人、強い人いろいろあるわけ です。その中でキャンプの治安を守っていかない といけない。治安維持の責任は本来受け入れ国 にあるんですが、今、多くの難民を引き受けている 国は開発途上国がほとんどです。その場合、100 万人の治安維持にあたる警察力があるかどうか。
ないのが普通です。そこで警察力の補充である とか、さまざまな治安維持のための援助もしなけ ればならない。だんたんに落ちついてきますと、
キャンプの中の生活をどういうふうに組織化する のか一番いいかという問題になるわけです。食糧 の配給一つとってみましても、どういう人を中心に 配給したらいいだろうか。伝統的には村ごと移っ てくることが多いので、村長さんを中心にして村の 顔役の人たちがコミッティを作って、配給していく のがいいと考えられていたのですが、こういうこと をやりますと、えてして既存の権力体制をそのまま 続けるという危険があるわけです。ほとんど最近 の難民は国内紛争の犠牲者、負けたグループで す。放っておけば難民キャンプを根城にしてもう一 度逆襲をしたいという可能性の高いコミュニティが 多いわけです。その場合、既存勢力の温存の形
で進む可能性がある村の顔役に食糧の配給を委 ねるのか。何か別の方法はないかと考えた結果、
女性に配給の任務を与えることにしました。女性 の場合、自分の子どもたちに食糧をあげようとい う本能および使命感が強いものですから、女性 のグループを組織して配給に当たらせるという試 みもしてまいりました。配給制度にしても女性中心 か村の政治体制中心かという新しい選択も試み なければなかったわけです。ここで一つ、念のた めに申し上げるのは、難民キャンプはいくら負け た兵士が混じったとしても、大半は女性であり子 どもであるわけです。その中で女性、子どもに十 分配慮したモノの配給、コミュニティづくり、訓練 計画を何とかしてやっていこうと工夫をずいぶん いたしました。
学校の問題もあります。何とか子どもたちに初 等教育くらいはしてあげたいというのが私どもの望 みで、そのためにたくさんのNGOの団体が入って きて、教育の手伝いをしていただきました。国連 難民高等弁務官事務所が契約をしているNGOは 約550団体くらいあります。その中には教育を専門 とするもの、水、衛生設備を専門とするもの、いろ んな専門性があります。出足の早いNGOと、遅い けど長くいるNGOとあります。それそれの専門性 も配慮した工夫も必要でございました。他の国連 機関との提携、協力も必要だったわけです。特に、
私が難民高等弁務官をしていました10年間の新 しい課題は軍との関係だったわけです。どうして 軍との協力が課題となったかと言いますと、理由 は二つあったわけです。国内紛争の最中、一般 の文民である人道援助の従事者、職員がどうや って安全に仕事を続けていくことができるか。ボ スニアの場合には国連平和維持軍が何千人と来 ました。当然、軍の空輸を待たなければならない。
軍用機で大きな物資を運ぶわけですが、それを 私が軍司令官のような役割をしました。最も優し い軍司令官だという賞状をいただきましたが、空 軍を使っての物資の輸送。大きなトラック隊を組 み、いろんなところに人道援助の必要なところに 届けていくわけです。その場合、どうやってトラッ
ク輸送隊の安全を確保するか。このためには平 和維持軍の協力が必要となります。先に行って危 険な伏兵がいないか、地雷はないか、橋が壊れ ていないかということで軍の援助を仰いだわけで す。時々、急に襲撃されたりして非常な危険なこ とが起こった時、それに従事している運転手を避 難させたりすることも軍の支援を仰がないとでき なかったわけです。
人道援助の立場から、中立的、なるべく文民中 心の人道援助をしたい。しかし100%の安全を確 保しようとしたら仕事はできないわけです。そうい う現状の中で人命を守ることが大事です。人道 援助に頼らなければ暮らしていけない人たちにど うやって援助を与えるかという問題がたくさん出 てまいりました。難民の需要を十分配慮しながら 文民性を守りたいという原則を守りつつ、どうや って任務を果たしていくか。そのための軍の協力 は、いろんな矛盾には満ちていましたけれども、
必要だったわけです。サラエボの街は盆地にあり ます。高いところを飛んで急降下して着陸する。
そうしないと襲撃されますから。私も飛行機に乗 って何回も行きました。「この仕事はどうですか?」
と空輸をしている軍人に聞いたら「自分たちは本 当に生き甲斐を感じる。自分たちの生涯はそれ でなければ訓練で終わるんですから」と返事をい ただいたことがありますが、人道援助という形で 自分たちの使命が果たせるということは、軍の人 は軍の人で大きな生き甲斐を感じたようでござい ました。
もう一点、軍との協力で大事な問題は、どうや って難民キャンプの文民性を確保するかというこ とです。難民キャンプの中には、負けて逃げてき た軍の人たち、民兵等が入っていると申しました が、どうやってこの人たちの影響を排除するか。
これは非常に難しい問題でございました。何も90 年代に新しいことではなかったのですが、ルワン ダにしてもボスニアにしましても、どうやって一般の 婦女子を守るか。親戚関係や部族関係の近い軍 人たちが難民キャンプを乗っ取ってしまわないよ うに、防いでいくかということは大きな課題でした。
たとえばタンザニアという国に、隣のブルンジから たくさん難民が来ております。数えようによっては 80万人とも40万人とも言われます。80万人とい うのは70年代、難民としてタンザニアに行って定 着した人たちも含めて数えたものです。その難民 キャンプの中で、どうやって文民性を確立するか。
隣のブルンジからは始終文句を言われました。こ の難民キャンプはブルンジから逃げたフツ族の民 兵等が復讐のベースにしているところなんだ。そう いう中で、何とかしてキャンプで最低限の文民性 を確保する。少なくともキャンプの中で、兵隊を募 集して訓練させるということはしたくない。またキャ ンプの中に武器が流れ込むことも防ぎたい。そう なると誰かが監視しなければならない。一体誰が 監視するのでしょうか。もともとの義務から言いま すと、受け入れ国のタンザニア政府が警察なり軍 を出して監視しなければならないのですが、そん な余裕はないわけです。そこで私どもが依頼を受 け、300人近い警察官に特別の補助金を出して治 安の維持およびキャンプの文民性を確保するた めに監視をする仕事をやりました。多少はよくな ったようです。完全にはできません。ですけれど も多少はキャンプに対するブルンジ側の猜疑心を 抑えることはできたわけです。毎年私はブルンジ に行きまして大統領から文句を言われたんです が、昨年初めて文句を言われなかったものです から、大統領に「今年はあなたは私に文句を言わ なかった。つまりある程度の文民性の確保を私た ちの努力でできたと思ってらっしゃるんですね」と 言って笑ったことも覚えております。
そのようにいろんな形のパートナーが必要なん ですが、軍との協力をどういうふうに持っていくか は大きな問題でしたし、腐心もいたしました。こう して一時的に難民が何とか安定したキャンプ生活 を過ごすように私どもは努力します。ですけれど も、これが問題解決ではないことは重々承知して いただきたいと思います。難民のために何とか安 定したキャンプを作り、そこである程度の訓練も受 け、勉強もし、病気にもならないようにする。しか しそれは難民問題の永久的な解決ではないわけ
です。問題の解決はもっと大きな、その人たちが 出てきた本国の変化にかかわるものです。変化 を促す国際的な政治圧力、休戦への努力、和解 への動きをどうやって推進していくか。難民問題 の本当の解決は、そういう大きな政治的、軍事的、
経済的、社会的、国際的な協力によって初めて 成り立つものです。インドシナ難民は20年で解決 したんです。今、インドシナ難民のキャンプはどこ にもございません。大体、国へ帰ったか、庇護国 に残ったか、第三国、ベトナム難民の場合は100 万人以上の人がアメリカへ行ったわけです。そう いう形で問題の解決をみた。
その他、中央アメリカ諸国にはかなり独裁的な 軍事政権等があったわけですが、それに対して左 翼の解放運動、左翼政権を目指しての反対勢力 等々の動きがあり、結局、大体の国で民主的な国 家ができたんですが、最後に残ったのがメキシコ のグァテマラ難民でした。その問題の解決にグァ テマラも努力しました。国連の平和維持活動軍も グァテマラに帰っていった人たちがとられた土地 を何とか取り戻して安定した生活への第一歩を築 いていくようにと努力もいたしました。しかしここで、
注目するのはメキシコの対応でした。メキシコは広 い国です。土地もたくさんあります。メキシコに来 た難民に、メキシコ政府は土地を与えて農業に従 事する機会を与えた。たくさんの人が農業に従事 し、多分生産性を高めたんだと思うんです。その 上にメキシコではメキシコで生まれた子どもたち には皆、メキシコ国籍を与えたんです。したがって、
グァテマラ難民がそろそろ帰る頃には難民の半分 以上はメキシコ国籍を持つグァテマラ人だった。
そこでメキシコ政府は帰る人は返しました。残っ てメキシコ人として暮らしたい人には国籍もあるこ とですから留まることを認めることにしました。メキ シコ政府からは私に最後を見届けてほしいとの連 絡があり、グァテマラ大統領とメキシコ大統領が立 ち会いのもとに私はキャンプを閉鎖し、メキシコ人 になった人には国籍証明書を渡し、帰る人に対し てはバスに乗せてグァテマラへ帰るのを見送ると いう大変うれしい経験をしたわけでございます。
ここで申し上げたいことは、難民問題の解決は、
さまざまな協力、政治的、経済的、社会的、法的 な工夫を集めて初めてできるものだということで す。難民問題の解決は、個々の難民の問題を解 決することだけではなく、難民問題そのものを政 治的、経済的、時には平和維持軍を使うという軍 事的な手段も用いてやっていかなければならな い。そういうことを痛感したわけでございます。私 の前の時代には庇護国を中心とした難民の保護 という形で問題の解決を試みてまいりました。私 の時代には庇護国において難民を受け入れ、庇 護しながらも、むしろ流出国、難民が出てきた国 における体制変化、安全保障、それへの圧力とい う形で庇護国中心から流出国中心へ、大げさか もわからないんですが、強調の度合いが流出国 中心になっていったわけです。難民には帰るため の努力が必要です。難民帰還のための努力。そ して難民が帰った後、自分たちを追い出した、ま たは追い出さざるをえなかった人たちとの和解の 問題があります。和解プロジェクトの推進というこ とでオープンシティ計画を打ち出しました。つまり 難民が戻ってくるのに協力した市にはオープンシ ティとして優先援助を与えるという対策を立てたの です。あるオープンシティでは警察もできれば多民 族の警察にするようにと。なかなか実現できなか ったのですが、病院も多民族にする。学校も多民 族にする。こういう形でオープンシティを進めまし た。あるところまでいったんですが、そこでまた新 しい他の手段をとらなければならなかったんです。
それはあるオープンシティを訪ねた時、セルビア系 の婦人が自分の家に帰ってきた。家は大丈夫だ った。だけど一番ショックだったのは、近所の人 たち、逃げるまでは近所の仲間だった人たちが、
非常に冷たい目で見て声もかけてくれなかった。
その現実のショックは戦争で逃げた時のショック よりも大きかった。そのような話を聞いて痛感した のは、民族紛争は人と人との戦い、隣と隣との戦 いなのです。そういう厳しさの中でまた一緒に暮 らしていくところに持っていく努力はそうすぐにで きるわけじゃないのです。私が今、進めています
新しいプロジェクトがあります。難民が帰ってきて 自分の家の屋根はあったかもしれない。扉もつけ られたかもしれない。しかし、どこかで働くことを 始めなければならない。その時、何とか複数の民 族が一緒に働かなければならないような働き場を 提供していくことです。たとえば、ある街に靴工場 があった。戦争前はセルビア人もクロアチア人も イスラム系の人もその大きな靴工場で働いてい た。戦争で靴工場がなくなった。働くことができ なくなった。一緒になる機会もなくなった。そこで もう一度靴工場を作りましょう。複数の民族の人 たちが一緒に働くような靴工場、製粉所でもいい、
そういうものを作ろうじゃないか。今、そういうプロ ジェクトの工夫も始めております。何とかもう一度 コミュニティのセンスを取り戻す。これが紛争解決 の大きなヒントだと思うんです、特に民族紛争によ って特色づけられた現代においては。そういうこ とを工夫しているわけでございます。
日本でこういうお話をすると、あまりに自分たち の現実からかけ離れた問題という印象をお持ちに なるのではないかと思うんです。しかし日本は単一 民族、単一文化、単一言語というイリュージョンの 中で私たちは暮らしているのだと思います。同志 社のキャンパスにまいりますと、いかに歴史的にア メリカの影響および他のさまざまな国の人たちの思 いやり、奉仕、そこから来た連帯感がこの大学の キャンパスの中の大きな遺産として残っているかと いうことを感じるわけでございます。私はアマースト カレッジから94年に名誉博士号をいただいており ます。そしてアマースト大学に行きますと、新島先 生の肖像画もあります。異質な文化としての日本が アマーストカレッジの中て生きているという印象を持 つわけでございます。日本の中にもそういうさまざま な民族的、文化的異質なものとの交流があっても いいのではないかと思います。
それに加えまして、日本の場合は世界でいくら 今、経済が悪いと言いましても、やはり規模から いけば世界第2位の経済大国なんです。それを自 分の国が調子が悪いといってODAをカットすると いうことが許されるんでしょうか。他人のことを考
えないで暮らすということが許されるのでしょうか。
それは余りにも内向き思考だと思います。私はこ の10年、日本にあまりいなかったのですが、惨め な強いられて人が移動しなければならないような 現状の中から考えますと、日本は世の中から隔絶 された不思議な社会のようにすら思えることがあ るわけです。大学には留学生もたくさんおられる と思います。いろいろな形での他の文化、他の歴 史、他の人種との交流があると思いますので、大 学こそが国際的な連帯感、思いやり、理解の発火 点にならないといけないのではないか。そんなふ うに強く考えるわけです。
最後に一つだけ申し上げたいことかございま す。私、辞めます時に、難民救済のための奨学金 を作ることにいたしました。これは小学校の程度 は何とか難民キャンプで教育をしていると申しま したが、細々としたものでございます。中学校、高 校となるとほとんどゼロです。そこまで各国からい ただくお金が行き届かないわけです。場合によっ てはNGOが自前で、また私どもの援助で中高1、
2年くらいやっていることがあります。シエラレオー ネの難民キャンプに行った時、中学生から手紙を 沢山渡されました。自分たちは普通の生活を楽し くして学校に行って勉強していました。ある日突然、
紛争が起こって逃げないといけなくなった。命か らがらここへ来て、キャンプでは、ともかく安全な 生活はしているけれども、全く教育の機会はない。
先を考えると私は学校に行きたい。何とかしてく ださい。私はその手紙に大変動かされました。何 とか中高の人たちにも教育の機会を広げるような プログラムはないかなと思いました。
ちょうど昨年、国連難民高等弁務官事務所50 周年を迎えまして記念事業を何にしようかと皆で 討議しました。結局、教育基金を作ることにしまし た。難民の人たちが再び有為な人になるために は教育が一番大事なんです。難民キャンプでい ろんなことをしてあげることはできるけど、後まで残 るのは教育ではないか。そういうことで難民教育 基金を設けまして、何とか今、お金集めを始めて おります。また集まったお金はおそらくアフリカに
行く率が多いだろうと思います。というのはアフリ カにおける紛争が一番広がっております。アフリカ の貧困と合わせて考えますとアフリカ諸国におけ る教育援助の必要性は高いわけです。そういうと ころに中高の子どもたちを対象にして、スカラシッ プでもいい、でもその子どもたちが土地の学校に いくチャンスがあるとすれば、土地の学校への援 助もいいんじゃないでしょうか。そうすれば土地の 子どもと難民の子どもが一緒に勉強する機会もで きる。さまざまな工夫を今、いたしておりまして、難 民教育基金を設けました。これにもっともっと日本 の学生、中高生もこういうものに加わっていただ きたいんです。こういう難民教育基金をベースにし た難民と子ども、難民の学生と日本の子ども、日 本の学生との連帯感を作っていく機会を作りたい と思っています。私が難民高等弁務官を辞めま す前に、さまざまな緊急対応能力の強化とか色々 な試みがありますけれども、最後に形として残し ましたのはこの基金でございます。こういうものを 作ることによって連帯感を養っていきたいと考え ているわけです。
今日は私が大変名誉な博士号を頂戴いたしま した機会にこういうお話をすることによって、皆様 にも強いられた人間の移動の時代の解決に向け て何かと一緒に力を合わせていただきたいという 願いがあったために、お礼とお願いを兼ねた講演 をさせていただきました。ありがとうございました。
〈山内〉
緒方先生、本当に貴重なお話ありがとうござい ました。それでは質疑応答に入りたいと思います。
学生の皆さん、市民の皆さんから挙手でお願いし たいと思います。
〈フロア〉
今、日本の自衛隊のあり方について国内外を 通してさまざまな議論がなされていますが、緒方 先生、どのようにお考えなのかお聞かせください。
〈緒方〉
日本の自衛隊は人道援助のために若干、海外 に出てきていただいたことはあるんです。ルワンダ
の難民の時、空軍の輸送部隊が来まして、大事な 人間とモノの輸送にあたっていただきました。難 民流出が激しかった後です。モザンビークにも動 きをみるために少ない人数ですが、出てきてくだ さいました。西チモールへの物資の輸送に輸送 隊が出てきてくださった。私は軍は常に戦闘する という固定観念の他に、役立つサービスの力を持 っているわけです。たとえばサラエボの空輸の時 にも空の航空管制ができるのは空軍なんです。空 の管理とか、急速に必要な輸送であるとか、港湾 の荷下ろし、緊急に難民キャンプを作らなければ ならない時の工兵隊の力とかサービスをお願いし て協力していただいたことはあります。日本の自衛 隊も十分そういうところに参加していただく可能性 はあると思います。まだ日本の自衛隊から受けた サービスは限定的ではありましたが、なさった仕事 は立派でした。
〈フロア〉
パレスチナ難民の問題について。
〈緒方〉
歴史的に言いまして、パレスチナ難民のための 機関は、国連難民高等弁務官事務所ができまし た1950年の2年前、1948年にできました。第一義 的なパレスチナ難民に対する教育、その他の援 助等はパレスチナ難民のための機関がやってい るわけです。私どものところは第一義的な仕事は していないのですが、昨年6月、私はイスラエル、
ガザ、パレスチナ等を回りまして、そこの実情をよ く見て回りました。国連全体としては、今のような イスラエルとパレスチナとの間の対立の激化に非 常な心配をしておりまして、事務総長以下、いろん な形で和平、休戦、和解等に努力をしております。
パレスチナ難民に対する物資の援助等もしており ます。この間の対立については、安全保障理事 会および主要国が中心になっていて、私どもの人 道機関が出る余地は極めて限られているというの が現状でございます。しかし最も心配する対立で もございますし、私としては何かできることがあれ ば何でもしたいという用意は示しています。
〈山内〉
まだまだご質問等あるかと思いますが、スケジュ ールの関係上、打ち切らせていただきたいと思い ます。先生のご講演の最初にもありましたが、若い 方々に対して、先生のご経験を通して将来の指針 となるようなものをお話できたらいうことで、具体的 なお話を承ったと思います。とりわけ国際的、政治 的、軍事的、社会的、経済的なダイナミズムの中で 難民という最弱者の援助のための具体的方策を ご紹介いただいたと思います。いかに行動してい くか、それを身をもってお示しいただいた先生の10 年間であったと思います。我々が今後、なすべき ことを示唆的にお示しいただけたのではないかと 思って大変喜んでおります。
最後になりましたが、公私ともご多忙でご予定 のおありの中で、緒方先生にお出でいただきまし て心より感謝申しあげます。奇跡的なスケジュー ル調整をしてくださいました秘書の中村様、ありが とうございました。本日はお忙しい中、学生の皆 さん、市民の皆さん、多数ご臨席賜りまして厚く 御礼申しあげます。お名前は省かせていただきま すが、同志社大学関係者の皆様におかれては本 日のためにご尽力いただきまして、改めてここに感 謝を申しあげたいと思います。すべての皆様、本 当にありがとうございました。
〈山内〉
それでは最後にアメリカ研究科長釜田先生より 閉会の辞を承りたいと思います。
〈釜田〉
本日は大学院アメリカ研究科創設10周年を記 念する意味も込めまして、緒方先生にお越しいた だいた次第でございます。先生のお話は日本の 全体に対する問いかけであったと私は感銘深く 拝聴させていただきました。50年前の難民条約 ができましたその少し前、国際連合が発足しまし た直後に、日本の我々は世界に対してあるメッセ ージを発したことを私は改めて思い出した次第で ございます。その一文の中で「我々は全世界の国 民が等しく恐怖と欠乏から免れ、平和の地に生 存する権利を有することを確認する」と55年前、
我々は世界にメッセージを発しました。この意味 が何であったのか。緒方先生のお話を通じて、私 は再度確認させていただい次第でございます。
先生の実践を通されての日本に対する問いかけ は、我々が今後、それを受け継ぎ考えていかなけ ればならないことではないかと思います。
また、とりわけこの会場のあります同志社大学 の設立時の理想に触れていただきましたことは、
我々にとりましてこの上ない光栄であったと思っ ております。これもまた我々がそれを思い起こし、
今後考えていくべきことであると肝に命じた次第 であります。先生、本当にお忙しい中、まげて京 都までお越しいただきましてありがとうございまし た。今後ともいろんな方面での先生のご指導を 願っている次第でございます。どうぞお元気でご 活躍されることを祈念させていただきたいと思い ます。ありがとうございました。
〈山内〉
それではこれをもちまして本日の講演会を閉会さ せていただきます。長時間ありがとうございました。