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雑誌名 独逸文学

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(1)

フリードリヒ・ヘルダーリン (その3) テュービン ゲン時代 (承前) ,ワルタースハウゼン,イエーナ

,ニュルティンゲン時代

その他のタイトル Friedrich Holderlin (3)

著者 高尾 国男

雑誌名 独逸文学

巻 17

ページ A99‑A139

発行年 1972‑03‑25

URL http://hdl.handle.net/10112/00017859

(2)

一七九三年秋︑ヘルダーリンは神学の課程を終った︒彼は檮踏しつつも︑遂に生涯の分岐点に立った︒顧みれば

彼の背後には努力と苦悶との跡があり︑前途には神学卒業者として履むべき道︑即ち僧職につく義務がある︒﹁お

お/私はほぼ六年前に︑今の私のなりゆきをどういうふうに想像していたのでしょうか︒私のうちなる力をますま

す完成してゆこうとするこの打ち勝ちがたい本能を︑自然が私に与えてくれたことは幸福でしょうか︑それとも不

幸でしょうか︒﹂︵一七九三年九月︶︵九四頁︶と︑彼は母に宛てて︑過去の詩と哲学とに捧げた献身を︑途方にく

れて悲しんでいる︒しかしやがて曙の東天のように彼のゆくべき前途は次第に明けそめてきた︒上述の母に宛てた

書簡とほぼ同じ頃に︑雄々しくも彼は弟に次のことを告白している︒﹁僕は人類を愛す︒勿論われわれが最も狭い

経験においても頻々と接するような腐敗した︑奴隷的な惰弱な人類を愛するものではない︒しかし僕は腐敗した人

間のうちにおいても︑かの偉大な美しい素質を愛す︒僕は来るべき世紀の人類を愛す︒われわれの子孫はわれわれ

よりもよりよくなり︑自由は必ずくるに相違ないし︑徳は専制主義の氷の如くつめたい寒帯よりも聖なる暖かい光

を望んで自由のうちに一層栄えるであろうということは︑僕の最も幸ある希望であり︑僕を強く︑積極的に支える

信仰であるからだ︒われわれはすべての人がよりよき時代を望んで働いている時代に生活している︒啓蒙のこの萠

芽と︑人類を形成するためのこれ等の静かな希望と︑個人の努力は拡張せられ︑強められてゆくであろう︒そして

立派な実を結ぶであろう︒これが今僕の心の関与することなのだ︒これは僕の希望と活動の神聖な目的であるl

即ち未来に熟する萠芽を現代において喚起するのが僕の神聖な目的なのだ︒﹂︵九二頁︶

この書簡を読むと︑この時代の人類の思想とフランス大革命とによって昂揚された青年の理想とがいかに﹃ドン テュービンゲン時代︵承前︶

(3)

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・カルロス﹄の︑特にポーザ候の思想と言語とを借りて詩的に表現されているかがわかる︒詩人は一七八八年︑即

ちマウルブロン時代に既にこの劇を読んでいたが︑この時代に至って再びこれを熟読して︑極めて強い感化を受け

ていたことは︑この書簡からも十分推定できるし︑初稿﹃ヒュペーリオン﹄に現われている英雄主義の礼讃と︑黄

金時代への憧慢が︑このことを最も明かに証明している︒またこの思想が後年ニーチェに蘇って︑彼の唱えた超人

主義の思想などは︑ヘルダーリンの思想の流れを汲んでいるのではないか︒先に一言触れておいたシラーの感化に

ついて二︑三の例をあげると︑﹃ドン・カルロス﹄劇の第三幕︑第十場︑王とポーザ候との対面の場で︑ポーザ候

が﹁わたくしは人類を愛します︒⁝⁝今の時代はわたくしの理想に対して未熟でございます︒わたくしは来らんと

する時代の民として生きまする︒..⁝・陛下をそのようにおさせ申したのは︑人間どもでございます︒彼等は自ら選

んで自己の尊貴さを忘れ︑進んでそのような賎しい者に身を艇しめました︒彼等は︑自己の内心の偉大さに面する

ことを︑幽霊に出逢うかのように恐怖いたし︑貧弱をもって甘んじて︑卑劣なる智慧をもって自己を縛める鎖を飾

り︑それを殊勝らしく身に纒うことを美徳と称しておりまする︒⁝⁝人間と申すものは︑陛下のお考え遊ばすよう

に卑賎なものではございませぬ︒やがては長夜の夢の縛めを断ち切って︑神聖な権利の回収を要求いたす時が参り

ましょう⁝:・お眼をめぐらして︑この輝かしい天地をご覧遊ばしませ︒天地は自由の上に建設されておりまする︒

lそして自由によっていかばかり豊かにされておることでございましょう︒⁝⁝人間を元通り尊貴なものになさ

おのれ

いませ︒人民をその本来の我に返して︑人民が王政の目的となるようにl同胞の権利を己の権利と同様に神聖視

して尚ぷほかにはいかなる義務も人民を縛らぬようになさいませ︒人間が本来の我に立ち返り︑自らを重んずる心

に目覚めl気高い誇らかな自由の徳が茂ったときにI陛下︑あなた様のお国を地上の最も仕合せな国になされ

たときに︑その時にこそ︑全世界を従えることが陛下の義務となりまする・﹂と烈々たる心意気で︑人類の理想を

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100

(4)

高唱するところと軌を同じくしている︒ 高唱するところは︑ヘルダーリンが弟︾ ルダーリンが弟に

動の中心地に赴こうとしていた︒

しかし九三年八月︑九月頃の書簡を読むと︑将来計画に対する詩人の心境は︑必ずしも一定不動のものではなか

った︒伝導者となるべき運命を担って前後九年の間︑母の要請に従って斯の道にいそしんできたヘルダーリンは︑

わが子を斯の道に進ませようとして︑今日まで千難万苦を嘗めてきた母の憂苦を胸に浮かべては︑またシュトゥッ

トガルトの宗教局の強制を思うては静かな︑平安な田舎牧師の生活に身を沈めようと心に決したこともないではな

かった︒しかし友人ヘーゲルやシェリングとともに人類の偉大な精神生活にできるだけ寄与しようと互に誓い合っ

た彼は︑僧職につくことを飽くまで怖れおののいていた︒﹁あまりお金をかけないで︑沢山お金をかけるよりも多

くのことを学び︑より根本的に修養することをわたくしはよく存じています︒イェーナもスイスも戦争の恐れはご

ざいません︒﹂︵一七九三年八月︶︵九○頁︶と母に書いている文面から見ると︑家庭教師としてスイスに赴こうと

しているか︑それとも自らパンを求めながら更に精深なる学業を研讃するためか︑または自由な詩人として立つた

めか︑とに角当時ドイツの精神運動の中心地であるイエーナに赴こうとしていたことは明かである︒ところが母宛

ての次の書簡︵九三年八月末か九月初め︶によると︑母の心配を顧慮して家庭教師となって生計の道を立てるとい

う実際的な気持ちが優位を占めてきた︒Qg言筥号禺目算筐のロ展&津のロ日旨画ロ日の言の国旦日の重の厨詰屋の

冨言閂冨ロ.の.宮︶これに反し九月半ばになると︑スイスゆきを断念してイエーナを滞留の土地と決めた︒しかし

勿論かの地で家庭教師かまたは何か他の仕事をして生計の道を立てるから︑今後は母には何の苦労もかけないと附 かようにヘルダーリンの努力はすべて人類の形成︑人類の改革にかかっていたから︑勿論卒業後はドイツ精神運 宛てた上述の書簡において︑同じように烈々たる心意気で︑人類の理想を

(5)

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︵甸冒号ぢぽ号日日風ロシロ異○日目のご旨苛口酔g宮①号︾旨彦g具巴の国旦白田巽胃&閏急閉﹈98国里

荷重g宮口Pロ日房扁ご房言巨四日日四一ぐ○口浦ロ2房罫四口訂言①三色言日の言目白胃言ロ.の.程︶しかし

慈悲深い母はわが子に現実生活の苦難を嘗めさせたくない一念から︑家庭教師の良い口が見つかるまで︑家庭のわ

が身辺に留るように奨めている︒しかしまた真の意味において孝養深いフリッッは︑﹁手ぶらで遊んではいなくと

も︑母親の脛を噛って︑この世の中で母親のために何の役にも立っていないと世間の人が噂をする﹂︵九一頁︶と も︑母親の脛を噛って︑この世の幸 言している︒

︵甸一ごロの

偶々当時病を故国シュワーベンで養っていたシラーが九三年五月以来︑昔の愛人であり女友達であるフォン・カ

ルプ夫人︵甸国ロぐ目尻巴豆の依頼を受けて︑九才になるその長男フリッッのために家庭教師を需めていた︒彼

女はシラーのマンハイム以来の友達で︑シラーよりも二才年若く︑即ち一七六一年マルシャルク・フォン・オース

トハイム︵三日恩冨涛ぐ○口○の吾四目︶男爵家で初めてこの世の光を見たが︑そのとき以来弱い視力を授かってい

た︒なおその上彼女は年若くして両親と唯一人の兄弟と姉妹とを失って︑不可思議な人生の謎を胸に植えつけられ

ていた︒長じてシャルロッテ︵O冨己○詳①︶は︑フランスに傭われて︑アメリカで英国人を相手に戦い︑丁度故

国に帰ってきたばかりの士官フォン・カルプと一七八三年に結婚して︑その翌年夫の任地であるランダウに赴いた

が︑フランスの士官はその任地に家庭をもつことを許されなかったので︑シャルロッテだけがその近くのマンハイ

ムに住み︑夫フォン・カルプが毎週二︑三回マンハイムを訪れた︒文学︑芸術に理解をもち︑その上社交好きな彼

女は︑その周囲にシラーを初め︑シユトライヒァー︵の茸の甘言己や俳優ハインリヒ・ベック︵国凰ロロ呂嗣8穴︶を

集めていたが︑その中でもシラーはいつも彼女の食卓に呼ばれていた︒そんな訳でシャルロッテはシラーの愛人で いって︑母の要請を辞退している︒

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性は多く期待されません︒﹂ あるかのように見られていたかも知れないが︑当時精神の平安と調和を求めていたシラーが︑興奮性と緊張性とを もったこの神秘的な女性に真の愛を感じたかどうかは疑わしい︒この問題はここで深く追及する必要もないかもし れないが︑彼女の結婚の翌年生まれた長男が︑その後長じて九才となり︑その子の家庭教師の必要が起って︑この 年シラーがその斡旋を依頼されたのである︒これをヘーゲルから聞いたヘルダーリンは旧友シユトイトリーンを通 じてシラーにその推薦を依頼した︒そこでシユトイトリーンは九月二十日︑ルートヴィッヒスブルクPロロ菖甥 言缶︶に滞在中のシラーに書を寄せて︑母国シュワーベンと僧職という狭隆な世界を脱して︑遙かなイェーナの 地に思慕の情を寄せている﹁この少なからず前途有望な讃歌の詩人﹂を︑既にベルンに家庭教師の先約を持ってい るヘーゲルの代わりに推薦したのである︒﹁私は彼の純粋な心情と礼儀︑彼の徹底的な知識に対して保証いたしま す︒彼の才能に対して申し上げる要はありません︒彼の作品が十分これを証明しています﹂と付言している︒

かように友人シユトイトリーンの友情に富む尽力によって︑ヘルダーリンは青春時代の崇敬の的であったシラー

と︑九月の末︑最初の出会いの機会に恵まれた︒当時既に戯曲の筆を断って︑専ら歴史と美学の世界に沈潜し︑第

二の飛躍を徐ろに画策していたシラーは︑十月一日︑次のような推薦状を︑シユトイトリーンとは反対に︑可成り

用心深く慎重にフォン・カルプ夫人に書いている︒﹁私は彼と直接知り会いました︒彼の外見は大変あなたのお気

に召すことだろうと思います︒また彼は多くの人々にはお行儀もよくおとなしく見えます︒礼儀作法にもよい点が

ついています︒しかし彼はまだしっかりとおち着いたところはありませんし︑彼の知識からも彼の態度からも徹底

既に円熟の境に達し︑一切の人生を体験し終ったシラーのこのヘルダーリン観は正鵠をえたものであろう︒特に

彼が沈着を欠いていると看破したのは︑当時のヘルダーリンがまだデーモンとの戦いを持続していたという明確な

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シラーの慎重な︑遠慮勝ちな推薦状を見たフォン・カルプ夫人も一気にこれを決断することに陰膳したらしい︒

この書簡に対してその月の十八日︑彼女はイエーナから︑﹁目下夫と相談中であるが︑ヘルダーリンをもっと正確

に知るためにもう二︑三回彼と談合してくれ﹂と依頼している︒しかし勿論これは実行されていない︒そして三十

一日に至って初めて彼女の夫の最終的な同意を伝え︑ヘルダーリンの赴任をその年の降誕祭ときめ︑報酬として最

低額十二カロリーンを支払うことを約束してきた︒そしてシラーはこの回答を遅滞なく十一月上旬にはシユトイト

リーンに伝達したであろう︒ところがこれに反し彼はシャルロッテの方にはなお数週間気をもませてそのままにし

ておいたので︑十二月二日に彼女はこのことについて苦情をいってきている︒従ってそれ以前にヘルダーリンもま

たフォン・カルプ夫人に手紙を書いていなかったらしい︒

この間非常な時日を無駄に経過しているので︑学院を卒業して一三ルティンゲンの母の許で︑苛々した気持で吉

報を待っていたヘルダーリンも︑遂に我慢ができず︑十月二十日頃友人ノイッファーに︑﹁家庭教師の口もうまくゆ

かない︒回答はまだこないのだ︒そんな訳で準備もできなければ︑身仕度もできない︒母はなおいろいろのことを

前もって配慮しなければならないだろう︒そして僕は母と同じようにとても気が気じゃないんだ︒将来の地位がき

まらないと僕は全く不機嫌になるからね﹂と︑当時の心境を告白している︒その上︑﹁はっきりしたことをまだ何も

知らないかどうかシユトイトリーンに訊ねてみてくれ﹂とも書いている︒ところが十一月上旬になると︑一時不安

な気持に陥った家庭教師の地位も決定すると︑先ず別離の挨拶のために先ずブラウポイレン︵嗣冨巨富目g︶に︑

次に身仕度の準備にシュトゥットガルトヘゆき︑そこから足を延ばして低地の親戚を訪ね︑十一月二十一日︑二十 立証ともなるであろう︒坐 かつたということである︒

シラーの慎重な︑遠慮畔

この書簡に対してその月︵

に知るためにもう二︑一言 然しわれわれが甚だ遺憾とするところは︑シラーが将来ともこうした観方を決して捨てな

I

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(8)

二十六日︑コーブルクから母に宛てた手紙と︑三十日ワルタースハウゼンからシユトイトリーンに宛てた手紙

によると︑二十日にシュトゥットガルトを去って二十二日︵日曜︶ニュルンベルクに着き︑二十四日︵火曜︶はエ

ルランゲンヘの旅をつづけ︑二十五日︵水曜︶の夜遅く︑エルランゲンからバンベルクに着く︒二十六日︵木曜︶

はバンベルタからコーブルクに着き︑その晩母に旅中第一の手紙を書いている︒二十七日︵金曜︶コーブルクを発

ってワルタースハウゼンに到着している︒

ところが一七九四年一月三日︑到着一週間後に母に宛てて﹁明日はわたくしがここへ参りましてから一週間にな

ります﹂という文面と︑先きのこ通の手紙に書いてある日とは全然一致していない︒バイスナーの詳細な研究説明

によると︵六巻Ⅱ六四七頁︶ヘルダーリンは︑先きの手紙に書いたのとは違って︑二十五日︵水曜︶夕方エルラン

ゲンからもう一度一一ユルンベルクに戻り︑二十六日の午後と夕方をぶつ通しで一気に一三ルンベルクからバンベル

クに着き︑漸く二十七日にコーブルクに着き︑二十八日目的地ワルタースハウゼンに到着した︒ 離れ︑

った︒

二日にはエンッ河畔のファイインゲン︵く巴三ご需口四口Q2国目︶に旧友マーゲナウとコンッを訪れている︒十 二月の初旬宗教局の国家試験に応ずるために再びシュトゥットガルトに出向いた︒その結果は︑神学の研究におい てその熱意を認めたばかりではなく︑文献学︑殊にギリシア文献学︑哲学︑殊にカント哲学︑並びに文学を熱心に 修めたことを証明している︒最後にもう一度テュービンゲンを訪れている︒一七九三年十二月中旬に︑母の膝下を 離れ︑二十日︵金曜︶にはシュトゥットガルトを立ってテューリンゲンのワルタースハウゼンにあるカルプ家に向

ワルタースハウゼン・イエーナ・ニュルテインゲン時代

(9)

﹁君の住んでいるところの湖やアルプスの連峯を僕は実際ときどき自分の周囲にもちたいと思う︒偉大な自然が

われわれを高貴にし︑われわれを強めてくれることはどうしても否めない︒これに反し︑その広さといい︑深さと

いい︑その優雅さといい︑敏活さといい︑稀に見る実に尋常ならざる精神圏内に僕は生きている︒フォン・カルプ

夫人のごとき女性は君の住んでいるベルンでは仲々見いだしがたいだろう︒この光りにあてさせることは君の健康

のために非常に役立つに相違なかろう︒もしわれわれの間に友情がないならば︑君は君の幸運を僕にゆずってくれ

たことを少しは腹立たしく思うにちがいなかろう︒﹂︵第六巻一二七頁︶

一七九四年七月十日︑ワルタースハウゼンから︑ベルンのフォン︒シュタイガー家で同じように家庭教師をして

いる友人ヘーゲルに宛てた書簡で︑かくしきれぬほどの生の幸福と歓喜とを告白している︒まことにカルプ家の生

活は︑フランクフルトのディオティーマのもとにすごした生活とともに︑詩人にとっては彼の生涯を通じて二度と

見られぬほどの豊さと広さとを意味していた︒﹁わたくしの今住んでいる小さい村は︑都会や都会の珍らしいこと

や︑馬鹿げたことからは少々遠ざかってはいますけれど︑その位置は大変快適なところです︒城は山あいのいちば

ん美しい丘の上に立ち︑家の周囲の庭園もまた今ではわたくしに多くの楽しい時間を恵んでくれます︒﹂︵第六巻︑

一○七頁︶と祖母に報告している︒環境の美しさもさることながら︑カルプ家の人々は教養の高い︑人好きのする

極めて善良な城主をはじめ︑詩人の教え子である長男フリッッもまた善良で︑利口で︑しかも綺麗な子供であっ

た︒そればかりではなく︑ヘルダーリンの人柄を早くも呑みこんで︑詩人として進むべき道を与えてくれた豊かな

温情ある夫人を︑﹁驚嘆に値する精神の稀なエネルギーの持主﹂︵シラー宛て書簡︑二二頁︶といって讃美して

いるし︑また母に宛てては﹁従来よりは健康で︑なさねばならないことは喜んでなし︑なすことのできる僅かなこ

とに対しても期待以上の感謝を受けています︒ですから私の境涯は実に大変めぐまれています﹂︵第六巻二四

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頁︶と︑わが身の幸福を伝えている︒かように善良で聰明な人々との交際をたのしみ︑何人にも妨げられず自分の

仕事に没頭することができ︑精神的にも心情的にも清純な歓びを味うことのできる現在の恵まれた境遇の与える幸

福に浸りながらも︑なお家庭教師としての仕事をも厳格にまた忠実になし遂げていた︒

このことは当時母に与えた次の手紙からも肯かれる︒﹁毎朝七時と八時との間にコーヒーが私の室に運ばれま

す︒その後九時まで私自身のための生活ができます︒九時から十一時までが授業です︒十二時すぎに午餐をとり︑

夜は少佐のところにおろうがおるまいが︑それは私の思うどおりですが︑それと同じように︑午餐のあとで少年と

外出しようがすまいが︑自分の仕事をしようとすまいが︑それも私の思うどおりです︒三時から五時までまた授業

です︒その外の時間は︑私のものです︒夜もここで食事をとりますが︑主人も召しあがり︑私もいただくここのビ

ールは素敵なので︑ネッカーの葡萄酒を忘れがちです︒そのとき私は本当に健康だと思っています︒﹂︵一○二頁︶

また母に与えた別の手紙では︑﹁私の時間は授業と︑家の人々との社交と自分の仕事とに分れています︒私の授業

は最善の効果をあげています︒私がただの一度だけでも無理な方法を用いる必要があるなどということは全く問題

ではありません︒私が不愉快な顔つきをすると︑それで十分フリッッに利き目があります︒ですから厳格な言葉で

叱られる必要などは滅多にありません︒わたし達が一緒になっているときは︑大抵城主か夫人か私かがかわるがわ

る朗読します︒そして誰にも都合がよいように︑食事中とか︑或は散歩の途上で︑しばしば真面目と冗談とをまじ

えながら︑それについて話をします︒﹂︵二五頁︶と︑ワルタースハウゼンの生活の模様を知らせている︒

これに対し夫人もまたいかに詩人の忠勤と厳格な授業に感謝していたかは︑夫人が一つはヘルダーリンの母に宛

てた手紙で︑﹁私の夫と彼︵ヘルダーリン︶を知っている人は皆彼を大変尊重しています︒わたし達がどんなに感

謝しているか︑また彼の満足を促しうることは何事でも喜んでいたしますことを彼に得心させることができればと

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思うのです︒﹂︵六七一頁︶といっている言葉からも肯けるし︑二つにはシラー夫人に宛てた書簡で︑﹁私は善良な

ヘルダーリンをご推挙賜わったシラーに対していかに感謝しても十分にはしきれません︒他日フリッッが有為な子

供になりますれば︑それはただ彼のお蔭でございます︒彼はその職に思慮深く︑且つ不断の努力をもって勤めてお

ります︒﹂と書いている文句からも明らかである︒

こうした幸福な生活によって︑詩人は過ぎ去った年の憂謹なの三富宮から解放されたばかりではなく︑積極

的に彼の精神力は一層緊張の度を増し︑詩的空想の翼は益々その力を高めていった︒春光麗らかに春の日がワルタ

ースハウゼンの四囲の美しい景色を照らしたとき︑﹁どこにもここよりも美しい春を見なかった﹂︵二七頁︶と︑

自然の美を讃えている︒今や幼年時代このかた全く忘れられていた晴朗な情緒をもって︑再び彼は自由に森を道遙

し︑あるときは青い空と緑の野に慰めを見いだし︑またあるときは若々しい温和な自然が与える歓びの杯に口づけ

もした︒それ故この時代には軽快な音楽的律調と生の歓喜に満ちた典雅な数曲が作られている︒

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1 朝

の い

ぶ き

に 吹

き つ

つ ま

れ て

あたりは春にとり巻かれ

ぬすみみ

うっとりと憶い出を盗見するとき

ふるさと

かつて遠き故郷にありしときさながらに

太陽はいと心地よくわがために輝やき

大地と人々の心に

日の光せまるとき わが目醒める心

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108

(12)

静けき池の 柳にほの暗くつつまれ 悲しみと歓びとに深く動かされて わが心夢みもの思うとき 精霊は杜にざわめき

いのち

命と平和とを知りぬ

いまなお天上の美は花咲き われ等の心も 親しき自然の

春の歌は 月の光にさざ波も立たぬとき われはしばしばおん身を見て会釈する

﹃友の願い︑ロジーネに捧ぐ﹄ 小川の流るる

しらべ

われ等の心の調と

うるわ

いまなおこの世はかくも美しや/

(13)

青い空と緑の野原とが いまなお希望の楽しみと苦しみとがわたしのうちに生きている いまなおわたしの眼から愛の雫が滴りおちる いまなおわたしの子供じみた陽気な心はおとろえていない いまなお香ぐわしい春がわたしのうちに蘇ってくる おん身とわが身とをしろしめす

﹃ 青

春 の

神 ﹄

いまなお青春の神は おん身にほほえみかけ いまなお老ゆることなく大地の面影は 香りゆたけき杜をもとめ 慰立の杯より

み き

た の し き 神 酒 を 注 げ よ / . されば静けき谷のうちにも

はらから

いまなお兄弟のごとくとけあう

1 1 0  

(14)

そしてよりよい時代の面影がわれわれの魂の周囲に浮ぶかぎり

そしてああ/親しい眼がわれわれとともに涙するかぎり

この人生は苦しむ値うちがあるのだ

﹃ノイッファーに棒ぐ﹄

なおこの時代は︑詩人の生涯の詩歴からいえば︑所謂フランクフルト時代の盛花期へのいわば過渡期ともいうべ

き時代である︒その歌われた詩篇の数は︑他の時代に較べて極めて少ないが︑先きに挙げた生の歓喜を歌った詩の

外に︑一七九三年度の﹃新ターリア﹄第四巻︵但し出版は一七九四年十一月︶に︑﹃ヒュペーリオン断片﹄ととも

に掲載された﹃運命﹄と︑シラーの﹃年刊詩集﹄に載せてもらうつもりでいたのに︑不幸にも拒否されてしまった

﹃自然に寄せて﹄という二篇の珠玉がある︒いづれこれについては後で触れる機会を待とう︒

しかしこの時代︑特に春の頃から夏を経て秋にかけて最も力を注いだ仕事は︑何といっても小説﹃ヒュペーリオ

ン﹄であろう︒﹁僕は今ほとんど僕の小説だけに没頭している︒僕はいま構想にもっと統一を与えたいと思う︒ま

た作品全体がもっと深刻に︑その人間にはいりこんでゆくように思われる﹂︵一七九四年四月上旬︑ノイッファー

に︶と︑四月の初め友人に報告していたのが︑秋の十月になると︑﹁この夏は小説で大抵すごしてしまった︒この

こころよ

いまなお快い眼の楽しみでわたしを慰めてくれる 神々しい者l若々しいいつくしみ深い自然が 歓びの杯をわたしに手渡してくれる

!

(15)

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うちの最初の五通の書簡を君はこの冬﹃ターリア﹄誌上でご覧になるだろう︒いま第一部は殆んど全く終ってい

る︒僕の古い原稿からは殆んど一行も残らなかった︒青春から大人の真髄への大いなる過渡︑情熱から理性へ︑空

想の国から真理と自由の国への偉大な過渡は︑かようにゆっくりととり扱われる値うちがあるように思われる﹂

︵一七九四年十月十日︑ノイッファーに︶と︑同じ友人に第一部が殆んど完成したことを告げている点から見て

も︑いかに詩人がこの小説の執筆に全力を挙げていたかが想像される︒

小説﹃ヒュペーリオン﹄の不断の創作とならんで︑詩人はこの時代に更にカントの研究と美学とに絶え間ない努

力を傾倒していたことも事実である︒先きに小説の執筆に殆んど寧日がないことを報じているあの同じ手紙の中

で︑ワルタースハウゼンに住むようになってから︑詩人の心の内部に多くの変化が起り︑テュービンゲン時代にい

ちばん彼の興味の中心であった思想や個人が︑その意義を喪失して︑新しい思想と個人に心を奪われるようになっ

たと書いているが︑この点に注目すべき必要がある︒というのは︑ここで彼の所謂意義を失った古い思想とは︑恐

らくフランス大革命に関する思想を指しているのであろうし︑意義を失った個人というのは︑テュービンゲン時代

の愛人エリーゼを指しているのであろう︒そして新たに詩人の魂を奪うようになった思想とは︑恐らくカントやシ

ラー︑更にプラトーン等を読んで︑詩人の精神内部に醸しだされてきた哲学及び美学上の思想を指しているのであ

ろう︒また新たに心を奪われてきた個人とは︑城主やその夫人︑その他夫人の話相手をつとめているラウジッッ生

れの未亡人などを意味しているのではなかろうか︒殊に﹁稀有な精神と心情の持主であり︑英語とフランス語とを

話し︑カントなどをも理解していたらしいこの未亡人には︑少なからぬ関心を寄せていたようにも思われる︒

詩人はなおこの手紙で︑﹁のみならずわが国の人達は︑この最近数年のうちに直接役立つものという水平線外にあ

る思想や問題に関与することに少し馴れてきたように思われる︒今日︑世の中の人は︑美とか偉大とかに対して従来

112

(16)

よりも多くの趣味があるのではなかろうか︒戦争の噂などはもうご免だ︒そうなれば真理と芸術とが稀有な活動範

囲を体得するだろう︒勿論これに反対の意見もいろいろいわれるだろう﹂︵二○頁︶と︑友人ノイッファーに自己

の信念を披瀝している︒これはドイツ国民全体が実利と効用とを主眼とした末期啓蒙思想に飽き足らなくなって︑

精神上の偉大と美とに憧れ︑機械主義的連関に依存する怠惰な啓蒙文化を乗り越えて︑より崇高な真理と芸術の世

界に生きんとする国民の努力を︑詩人は皮層をもって感じていたからである︒しかし詩人はこれを自ら感得して︑

ただただ徒らに満足しているだけでは決してなかった︒寧ろ積極的に進んでこの深遠な思想の潮に身を托して︑こ

の崇高な使命を果たそうと努力したに相違ない︒彼の手紙を見ると︑この年の復活祭頃にはシラーの﹃優美と品

位﹄︵ロゴ閂シロ日三口三三言号︶を読んでいるし︑聖霊降臨祭頃にはカント哲学とギリシャ哲学とに読み耽り︑

そのうえまた時々自分で何かを書こうとしていた︒またイエーナヘ移る前に既にその年の七月には︑フィヒテ哲学

l恐らく﹃全知識学の基礎﹄の講義用lを読んでいたことは︑丁度その頃ノイッファーに宛てた書簡︵一二四

頁︶や︑弟カールに宛てた書簡︵一三一頁︶の中にロロ号面閉侭の日舞億百群とか国豊8の弓壁億百群というよ

うなフィヒテのよく用いる用語がでてくることからも想像される︒なお七月十日のヘーゲルに宛てた書簡には︑カ

ントとギリシャ人とが殆んど彼の読みものであり︑特に第三批判書に精通しようとしている点が明かにされてい

る︒しかしかような一途なるカント研究は︑詩人の哲学的探究心を満足させていただけではない︒寧ろこれによっ

て心の平安と慰籍とが与えられていたことは︑彼の書簡が十分これを証明している︒例えばイェーナから一三ルテ

ィンゲンの母の膝下に帰ってから︑孤独と将来の身の振り方の不安に悩んでいたとき︑﹁僕は自分に我慢がならな

いときは︑いつものようにまたカントに慰安を求めている﹂︵一七九五年十二月上旬︶と︑ノイッファーに告白し

ている︒またこのカント研究はフランクフルトに移ってからも続いている︒﹁哲学はまたしても殆んど僕の唯一の

(17)

1

I

と思う﹂と︑ニートハンマー︵国.三①雲四日日閂弓霊1房お︶に書いている︵一七九六年二月二十四日︶︒ が︑僕の実を結ばない努力によって散漫になり︑弱められた僕の精神を︑この本領において再び集中し︑強めたい 仕事だ︒僕はカントとラインホールト︵〆.F・詞①旨き画ご詔l扇圏︶に手をつけている︒そして君はその証人だ

ヘルダーリンはこの時代に詩と哲学とに全幅の努力を払っていたとはいえ︑彼の本職は教育者という職責を全う

する点にあったので︑ここで彼の教育論に触れておこう︒前年の一七九三年九月︑ヘルダーリンが家庭教師就職の

件で︑ルートヴィッヒスブルクでシラーに会ったとき︑カントの批判哲学を中心として両者の間に︑教育論とか教

育者の任務についての話が交わされたことはほぼ想像に難くない︒というのは既に知っているように︑ヘルダーリ

ンは学院時代からカント哲学に沈潜していたし︑シラーも一七八八年以来カント哲学の研究に没頭していたからで

ある︒しかしカント研究の広さ︑深さの点は別として︑年令の点から見ても郷土の偉大な先輩という点から見て

も︑この会見においてはシラーが積極的で︑ヘルダーリンが受け身であったことはほぼ断言できる︒というのは︑

ヘルダーリンが最後に家庭教師の地位が決定していよいよワルタースハウゼンに旅立つ直前︑友人マーゲナウを訪

問した際に︑彼はシラーとの会談の内容を友人に伝えたと見えて︑これをまたマーゲナウが更に他の友人に︑﹁彼

は彼に当てたシラーの規準を僕に繰り返しのべた﹂と伝えている言葉からでも十分推定されるからである︒

さてヘルダーリンの教育論の真髄がルソー︑特にカントにあったことは︑一七九四年復活祭頃にシラーに与えた

書簡からこれを読みとることができる︒生徒を人間に育成することをもって教育の大眼目としていたこと︑即ち当

時既にドイツ精神界の主潮をなしていた人間性理想の教育を唱道していたことは注目に値する︒この理想に生きた

彼は︑それ故生徒の心のうちに︑最も高貴な精神l理性即ち道徳的自由の意識を︑どんなに早く喚びおこしても

決して早過ぎることはないという確信をもっていた︒こうした考え方はルソーの教育思想とカント哲学の綜合︑

114

(18)

今は既に天真燗漫な自然の状態ではない︒すなわちこの子供の目醒めつつある力に対して社会のあらゆる影響力が

波及している︒従ってこの子供は広範な道徳関係を受けいれる本来の感受性は殆んど失っているが︑友人と友人と

の関係のような狭院な道徳関係に対しては必ずしもそうではないと︑ヘルダーリンは見ていた︒従ってヘルダーリ

ンはその子供から恩恵を求めるようなことをしない代わりに︑またその子供が彼からも恩恵を求めることがないよ

うにと万全の策を講じた︒かようにしてこの道は別に大した抵抗もなく自然のままに進んだ︒遂に子供はヘルダー

リンのいうことを理解し︑彼等は互に友達となった︒そこで彼はその子供の一切の行動を天真燗漫なこの友情とい

う権威に結びつけようとした︒しかし人間の思惟とか行動に結びついている権威というものはすべて早晩甚だしい

不適当をもたらすものであるということをも知っていたヘルダーリンは︑その子供のする一切の行動は単にその子

供のため︑彼のためになされるものではないという考え方を敢てつけ加えている︒

以上がシラーに与えた手紙の中で陳べてある彼の教育論の要旨である︒何事にも真剣な態度で臨もうとする性格

をもって生れ︑またいつも理想をかかげて自己の行動を律するという資性を賦与されていたヘルダーリンは︑教育

者として彼の人生の第一歩を踏み出すに当っても︑上述の書簡から見てもわかるように︑子供の教育に対しても可

成り慎重な態度で︑大事をとったといってもいい位である︒勿論彼の教育者としての態度には︑われわれとして別

にこれに対して異存をもつべきではない︒がしかし何といっても︑当時まだ教育には未経験な︑二十四才の青年で

あったので︑上述のシラーへの手紙で︑この子供は既に天真燗漫な自然の状態を失っているとはいっているもの

の︑この子供の能力や性格︑性情などを短時日の間に見抜くというようなことは不可能であったろう︒それどころ

かその年の七月中旬頃までは︑﹁僕の少年は正直で︑快活で︑従順で︑どんなやり方においても常規を逸したとこ

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○才−1I

ろのない︑よく調和のとれた精神力を具えた本当に善良な性質の子供だ︒そして頭から足まで絵のように美しい﹂

︵ノイッファー宛︶と︑殆んど最上級の言葉をもってこの少年を讃美している︒この言葉をわれわれは今耳にして

も︑決して教育者たるヘルダーリンが︑この少年に対する偏愛からこのような言辞を弄したとは思われない︒事実

彼はこう確信していたに違いない︒ところがそれから三ヶ月ほどたった十月十日に︑同一人のノイッファーに宛て

た書簡を読むと︑われわれの耳を疑うほどのまことに驚くべき事実が報道されている︒﹁僕の目下の外面的な職業

はしばしば僕にとって重荷になってきた︒僕は君にこのことを本当にいうことができる︒僕はその間君に対しても

沈黙していた︒というのは︑すべて在りのままのことの不愉快と︑この世はアルカディアではないという永遠の悩

みを︑僕が心の中にもっているのではないかと憶測する機因を作りすぎるだけであったから︒しかし僕はこんな子

供じみた憶病からは可なり卒業してしまっている︒でも僕は人間だ︒僕は何というても︑しばしば非常に骨の折れ

た良心的な努力の賜物を望まないわけにはゆかぬ︒僕の生徒の甚だ凡庸な才能と︑ずっと幼年期にうけた極めて欠

︑︑︑︑ 点の多い取り扱い方と︑君を困らしたくない他の事件によって︑この成果が十中八九水泡に帰しているので︑僕は

遣憾に思わざるをえない︒僕が遣憾に思うそれ自体は大した意味がある訳ではないだろう︒しかしそのために僕の

他の仕事が妨害されるということが避けられないのは︑そう無意味とは思われぬ︒我慢するということだけが君の

利得で︑一日の半分を授業で過し︑あとの半日は相手が何の得るところもないということをしばしば知るだけで︑

君にとって殆んど何の役にも立たないならば︑それもまた大変不愉快なことだろう︒﹂

親友にも︑否︑親友なればこそ仲々うち明けられなかった詩人のこの三ヶ月に亘る苦悩は︑ここに表現されてい

︑︑︑︑ ろ言葉以外においても十分想像される︒lこれはさておき︑この書簡の中にでている他の事件とは一体何を指し

ているのだろうか︒それは詩人がイエーナに移ってから︑︵即ち一七九五年一月十六日に︶母に宛てた書簡の中で

l4iⅡⅡ1111日q111I

116

(20)

11

た悪習をわたくしに注意してくれました︒そこでわたくしは最後にその子の情操と精神の状態を一層注意するよう

になりましたが︑残念ながら︑一部分はまた彼の自白によりまして︑わたくしが恐れていたよりも多くのことを発

見しました︒わたくしはこれ以上はっきりと説明することはできません︒わたくしは殆んど瞬時も彼を離せません

でした︒昼も夜も大変心配して彼を監視しました︒その子供は心身ともに恢復してきたように見えました︒で︑わ

たくしは再び希望をもってきました︒ところが最後に矢張りわたくしの監視をのがれるようになりました︒する

と︑あの悪習の結果ともいうべき強情の程度も高まりまして︑特に夏の終り頃には︑わたくしもまた殆んど健康を

損い︑快活さを失い︑その結果︑精神力の活動も相当に鈍るという始末になりました︒﹂ここに暗に悪習と示唆ざ

寸ナニー

れているのは︑勿論自濱のことである︒また教育者としてのヘルダーリンが︑少年のこの悪徳を矯正しようとし

て︑心身ともに疲労の極に達したのも十分首肯される︒そして秋とともに彼もまた心身の疲労から憂鯵の気分に襲

われてきた︒これを立証するためにわれわれはその頃シラーに宛てたフォン・カルプ夫人の書簡を読む必要があろ

う︒その八月または九月頃は︑夫人はヘルダーリン及び彼の教育の方法についてまだ賛辞を惜しまなかったし︑従

って前途に希望を懐いていた︒ところがヘルダーリンが友人ノイッファーに自己の苦衷を綿々として訴えた上述の

手紙から二週間経た十月二十五日に︑夫人がシラーに宛てた手紙には︑既に詩人の潜在的危機が明らかにされてい

る︒﹁子供の授業は困難な任務ですlヘルダーリンは大変神経質です︒ですからわたくしがこの問題について手

紙であなたに申しあげたことを気づかれないようにして下さい︒l彼は少し緊張しすぎているのではないか︒そ

して子供に対する要求もまたそうではないかと推し測られます︒﹂︵六九七頁︶

然し詩人の憂鯵は︑初めに真蟄な理想のもとに期待したほど彼の教え子が進歩しなかったという事実にのみ懸っ

l j

(21)

ていたとは思われない︒勿論このことは詩人の憂鯵の一つの原因に数えられよう︒しかし却って当時の書簡などに

はその真相がはっきり叙くられていないが︑寧ろ完成しようと一途に努力してきた創作や美学上の仕事が遂に完成

の日の目を見なかったという事実をも︑この際考慮すべきではないだろうか︒われわれはこうした場合におこる不

安と焦燥の気持を容易に想像することはできるし︑また詩的活動のうちにのみ真の自由な存在を意識しうる詩人に

とっては︑彼の能力の発展を阻む教育者としての生存がいかに苦痛であったかを想像できよう︒

流石に聰明なフォン・カルプ夫人は︑詩人の心身に危機の迫っているのを直感した︒そこで詩人をこの危機から

救いだすと同時に︑彼をして当時の精神界の偉人に接触させたいという好意から︑遂にその年の十一月の初め︑彼

女の息子とともにイェーナ郊外に居を移すことに努力した︒﹁多分僕は十一月の初めにはイェーナに行くだろう﹂

と︑友人ノイッファーに告げているヘルダーリンの手紙︵一七九四年十月十日︶からもこの間の消息は窺われる︒

今や詩人は青春時代の希望の中心点に立った︒即ち新興ドイツ観念論の哲学とドイツ古典主義の文学の発祥地に

立った︒当時の小都市イェーナが近距離にあるワイマールを含めて︑実にこの猫額の土地が︑ドイツ精神生活の牙

城としてもっていた意義は︑まことに往古のアテナイの盛時にも比すべきものがあった︒イエーナにはシラーを初

め︑W・フンポルト︑フィヒテ︑ニートハンマー︑ラインホールトなどが住み︑ワイマールにはゲーテを初め︑ヘ

ルダー︑ヴィーラント︑ジャン・パウル等ドイツ文学の巨星を数えることができる︒更にヘルダーリンがイエーナ

を去った後︑即ち一七九六年の早春にはA・W・シュレーゲルがシラーの懇請によってイエーナの地を踏み︑七月

には妻のカロリ!不も来り住み︑その年の八月には弟フリードリヒもまたこの土地を訪れている︒当時実務につい

ていたノヴァーリスもまたしばしばこの土地を訪れた︒こうしているうちに彼等の間に漸次浪漫的雰囲気が醸しだ

されてきた︒かようにこの狭い地域に精神界の偉人が暁の雲のように多く集ったばかりではなく︑彼等のこの分野

118

(22)

における活動もまた目覚ましかった︒シュワーベンの郷国に永く静養の旅をつづけて︵一七九三年八月九四年五

月︶心身ともに恢復したシラーは︑イエーナに帰るや雑誌﹃ホーレン﹄︵ロ尉国○毎口弓誤l君︶の準備にとりかか

り︑一七九五年これを公にしている︒一七九四年の夏は︑シラーがゲーテに宛てたあの有名な書簡︵一七九四年八

月二十四日︶によって︑両人の親交がいよいよ固く結ばれてきたときである︒︸−−トハンマーはフィヒテとともに

﹃哲学雑誌﹄︵口閉己三さのg三思言﹈○口目巴︶の発刊に着手していたが︑一七九五年には既にその出版の運びと

イエーナ時代のヘルダーリンに最も強い影響を与えた思想家の一人はフィヒテQo宮ppQo芹屋各国旨三のごs

l届底︶であった︒彼はエネシデス批判︵少①ロ①囚号の尿三房︶の功績によって︑先きにキール大学に転じたライ

ンホールトの後任としてイエーナ大学に新任されたのは一七九四年の復活祭であった︒当時チューリッヒにいた彼

は単身赴任の途に上り︑途中テュービンゲンに未来の同僚シラーを訪れ︑陽々たる春を望んだ彼は︑ワイマールに

枢密顧問官フォン・フォイクトに挨拶して︑意気軒昂としてイェーナに乗り込んだのは五月十八日であった︒奇し

くもその翌日は彼の三十二回目の誕生日であった︒それから二︑三日して彼のエネルギッシュな講義が始った︒そ

れは五月二十三日︑金曜日の午後六時から七時までの間であった︒その講義題目は﹃知識学即ち所謂哲学の概念に

ついて﹄︵□ず閂号ロ団品凰醜QR雪雷gg宮言行言のaRの品99ョのロ呵三8呂匡の︶であった︒これが︑

彼が今までに著手していた知識学に体系を与えた最初の試みであった︒従って彼の得意と満足は想像にかたくな

い︒また聴講生の感激も推して知るべきであった︒彼はその状況を妻のョハンナに﹁イエーナで一番大きなこの講

堂が狭すぎる位だ︒廊下にも庭にも人が溢れている︒机の上にも腰かけの上にも折り重なるように彼等は立ってい

る︒⁝⁝僕の講義は︑僕の聞いた限りでは︑一般の同意と賛成とをもって受けいれられているとのことだ︒﹂この なった︒

I

1

(23)

﹃世界史とは何か︒また何のためにこれを学ぶか﹄︵弓勝彦囚津ppq目言巴gの日国口号の言昌の再日四口ご己︲

蔚厨巴紹のg冨呂詰己を行なったときの学生の昂奮と感激とに較べられる︒これと並行に︑なおフィヒテは﹃学

者の使命に関する二︑三の講義﹄︵国己需く日行2口鴇口働ず29①園の墨日日ロロ胆号の⑦巴呂昇g︶という講演

を行なっていた︒ヘルダーリンがイエーナに移ったときの所謂フィヒテ・ブームは〃友人ノイッファーに宛てた書簡

にも現われている︒﹁フィヒテは今やイエーナの霊である︒かたじけない︑彼がそうであるとは/精神のかような

深さとエネルギーとをもった人を僕は曽て知らない︒人間の知識という最も隔絶した諸々の領域においてこの知識

の諸原理と︑それとともに法の諸原理を探究し︑規定しているということ︑そしていつも同じ精神力をもってこれ

らの諸原理から導き出された最も隔絶した︑大胆な諸々の結論を思惟し︑更に暗黒の力に抗して︑僕のような哀れ

な人間には︑こうした例証がなければ不可解の問題と思われたかも知れない情熱と正確とを兼ね具えて︑それ等の

結論を記述し︑講義しているということは︑この人について多言してはいるけれど︑勿論言い過ぎているという程

ではない︒僕は毎日フィヒテの講義を聴いている︒時々また彼と話もしている︒﹂︵第六巻︑一四○頁︶また当時ベ

ルンのヘーゲルにもフィヒテを巨人と讃美している書簡を送っていた筈だが︑惜しいことにこの手紙は今日紛失し

ている︒然しヘーゲルがまだテュービンゲンに在学中のシェリングに宛てた手紙の文句から見てそれは首肯され

る︒﹁彼はフィヒテの講義を聴いている︒そして感激をもって︑人類のために戦い︑その影響する範囲は勿論講堂

の壁の内部だけにとどまらない巨人だといっている︒﹂ここにヘルダーリンがフィヒテの影響力は単に講堂内にとど

まらないといっているのは︑フィヒテを中心として学者並びに人間の使命についての師の理念を行動によって実行

に移そうとした同志︑例えば嗣口ロ︒Q2津田g冨琶ロ日の人々を指している︒この同盟には一七九四年五月以来

120

(24)

r 法 学 研 究 の た め イ エ ー ナ 大 学 に 移 っ て き た の 言

○ 匿 肖 も 加 っ て い た

︒ し か し か よ う に フ ィ ヒ テ を

と仰いだり︑または﹁巨人﹂とほめ讃えたりしているのはヘルダーリンばかりではない︒彼よりも数年遅れてフィ

ヒテの﹃人間の使命に関する講演﹄e討団①豊日日ppm号の三29房己を聴いたシュテフェンス︵国g風呂

津島g巴の﹃わが体験﹄︵雪閉ざ壷2行三の︶によると︑﹁辛辣で尊大な表情をしたこの脊の低いずんぐりした人

は︑私に畏敬の念を起させた︒私はこの人を初めて見たとき︑これを否定することはできない︒彼の言語そのもの

には辛辣な鋭さがあり︑既に彼の聴衆の弱点を知っていた彼は︑あらゆる方法をつくして自分を理解させようとし

た︒彼は全力を傾けて︑彼の言説を証明しようとした︒しかし彼は絶対的に服従させなければならない命令によっ

て︑疑問を一つ一つ解こうとするかのように︑彼の講演は尊大であるように思われた︒﹂︵ロ①三思冨匡討国言拭

詞凰言両○日目は丙国旦﹂のご○またノヴァーリスの伝記者︑郡長1ストのいうところによると︑シュール・フ

ォルダ時代及び大学時代にノヴァーリスの父の保護をうけていたフィヒテと親交をもっていた彼は愛人ゾフィーの

死後︑テンシュテット時代にフィヒテの﹃自然法の基礎﹄︵oHpp&四mの号mz呉貝尉呂誌ロ画号卑冒凰凰gQ周

三肘のgg富津隆昌扇.弓霊︶を熟読していたことが︑当時の日記に書いてある︒﹁早朝︑フィヒテの自然法I昼

休みの後再びフィヒテ・﹂しかしノヴァーリスはヘルダーリンと同じように一時はいかにフィヒテの感化を強く受

けたにせよ︑漸次その魔法圏内から脱出しようとしていることは︑友人F・シュレーゲルに与えた手紙で立証さ

れる︒﹁フィヒテは僕の知っているあらゆる思想家のうちで最も危険な人物だ︒彼は人を彼の魔法圏内に固く魅了

︑︑

してしまう︒何人も彼のように誤解され︑憎まれたものはないだろう︒しかしそれ等の誤解もここでは十分委曲を

つくして述べられない︒君はフィヒテの魔術に対して自ら向上せんとする思想家を護るために選ばれているのだ︒

僕はこういう風に理解することがいかに僕にとってつらいことか︑それを僕は経験している︒﹂︵一七九七年六月十

(25)

四日︶ノヴァーリスにせよ︑ヘルダーリンにせよ諺一時はフィヒテの精神圏内の檎になったとはいえ︑やがてそれ

から脱却しようとしている︒特にノヴァーリスのこの手紙には早くもその努力がほのかにきざしている︒

フィヒテの自我哲学に対して批判的なのはノヴァーリスだけではない︒これはワイマールからイエーナに帰って

から間もなく︑一七九五年一月二十六日︑ヘーゲルに宛てた手紙の中に書いてある文章である︒しかしこの批判の文

章は︑既にワルタースハウゼン時代にスピノーザの哲学を読んだ直後にフィヒテの﹁最初の印刷物﹂を読んで書き

とめておいたものである︒﹁フィヒテの思弁的印刷物l﹃全知識学の基礎﹄lまた学者の使命に関する講義の印刷物

は君に非常な感興を与えるだろう︒初め僕はフィヒテに独断主義の嫌疑を大いにかけていた︒僕に推量が許される

ならば︑フィヒテはまた実に岐路に立っていたように思われるし︑まだなお岐路に立っているようにも思われる︒﹂

当時既にヘルダーリンはフィヒテの観念論の弱点を見ていた︒l絶対自我から対象に来ることはできないし︑対象

のない意識は無意味である︒それどころか︑彼は既にワルタースハウゼン時代にフィヒテを批判的に読んでスピノー

ザとこれを比較している︒かようにして数年後シェリングが発展させた観念論の道ははっきりと切り開かれていた︒

次にシラーとの関係に触れておこう︒一七九四年三月二十日頃︑ワルタースハウゼンから久し振りに旅先きのシ

ラーに手紙を書くまで︑約半年の間沈黙を守っていた︒それは未知の新しい境涯に立って︑教師としての使命に全

力を注いでいたためかもしれない︒またテュービンゲン時代からもち続けてきた小説﹃ヒュペーリオン﹄の改作

や︑カント哲学や美学の研究に従事していたためかもしれない︒しかし先きに詩人の教育思想を叙べた条でも一寸

触れておいたように︑シラーに宛てたこの最初の書簡で︑﹁私の教え子を人間に育成することが私の眼目であった

し︑また現在もそうです︒﹂と教育上の努力を詳細に報告する傍ら︑最近の作﹃運命﹄の批評と︑若し採択の場合

には﹃新ターリア﹄に発表してほしいと懇願している︒そしてこの詩は一七九四年十一月︑﹁新ターリア﹂誌上に︑

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参照

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