• 検索結果がありません。

佛教大学仏教学部論集 104号(20200301)全

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2021

シェア "佛教大学仏教学部論集 104号(20200301)全"

Copied!
110
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)

Vol. C IV March 2020

C O N T E N T S

Research on the Buddha’s Teachings in the Pa¯ra¯yanavagga・・・・・・ NAMIKIWA Takayoshi … Kepler on Conics・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ TAYAMA Reishi … Jña¯nagarbha’s Satyadvayavibhan˙ga and Dharmakıˉrti’s

Prama¯n˙a Theory・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ MORIYAMA Seitetsu … Sanskrit Texts of R˙ddhipa¯da-sam˙yukta in the Lost Parts of the

Chinese Sam˙yukta¯gama・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ HOSODA Noriaki …

Articles

Modern Medicine and Buddhist Healthcare (Part 2):

Their Annotations, Supplements and Redundancies・・・・・・・・・・・・・・ MURAOKA Kiyoshi …

(2)
(3)

2 0 2 0 年 3 月

佛教大学

(4)
(5)

論 文

『スッタニパータ』第五章「パーラーヤナ・ヴァッガ」

にみる世尊の説示に関する基礎的研究

並 川 孝 儀

〔抄 録〕 原始仏教をゴータマ・ブッダの教えの仏教であると画一的に理解することは、歴史 的事実を見失う。原始仏教の時代も興起から次第に変容と展開を遂げる歴史であった。 本稿では、最古の経典といわれる『スッタニパータ』の第五章「パーラーヤナ・ヴァ ッガ」にみるゴータマ・ブッダ(世尊)の説示として伝わる教えを通して、仏教最古 に説かれた教えが実際はどうであったのかを明らかにする。その原初的な教えには、 後の伝承でゴータマ・ブッダが初転法輪で説いたとされる四諦説の原形や、三学の祖 型ともいうべき内容がみられる。また、悟りへの道程に関して一般的に「念」という 語で知られる sata や sati が、修行の第一歩として、またその根幹として説かれてい ることが明らかになった。 キーワード 最古の仏教、パーラーヤナ・ヴァッガ、四諦、三学、sata (sati) はじめに 『スッタニパータ』の第五章「パーラーヤナ・ヴァッガ」の主題は彼岸に至る道であるが故 に、ここでの世尊の教えと伝える内容には、此岸とはどのような世界なのか、どう修行すれば 悟りに至れるのか、悟りの世界はどのような境地であるのかが主として説かれている() ここでの経典(第二経より第一七経)は、若きバラモンの学生の問いに世尊が答える問答形 式で説かれているが、この問答は歴史上実際になされたという訳ではない。しかし、この第五 章の第二経から第一七経は現存する仏教の諸経典からみても最古層に属すと考えられており、 その意味からも世尊が答えた四八偈の教えは、仏教興起時代の仏教の根本的な教えが示された ものと見なせ、当時の仏教を知る上で極めて重要な資料といえる。 第五章に関しては、既に先学による興味深い研究成果()がみられるが、第五章全体から世尊 の説示内容を考察した研究はみられない。そこで、本論では第五章に説かれる世尊の教えとさ れるすべての説示を対象とし、その教えの解明を目的とする。一般に原始仏教(初期仏教)と

(6)

いわれている内容と、ここに説かれている内容は同じなのか、相違しているのかを精査し、最 初期の仏教の教え、換言すれば世尊(ゴータマ・ブッダ)の説かれた教えは何であったのかを 考察することが主たる目的である。 ここでは紙面の関係上、その基礎的研究に限ることを断っておきたい。 『スッタニパータ』第五章における世尊の説示内容は、以下のような構成でまとめることが できる。 (Ⅰ)この世における人間存在 ①  この世の「苦しみ」の様相 ①  「〜を捨てた、〜がない、〜を越えた」などの表現からみた「苦しみ」の様相 ②  「苦しみ」の原因 この世の苦しみの状態をつくっているもの ②  「〜を捨てた、〜がない、〜を越えた」などの表現からみた「苦しみ」の原因 (Ⅱ)「苦しみ」を脱する宗教的実践法とその過程 (Ⅲ)「苦しみ」から解き放たれた人とその境地 ① 悟った人 ② 悟りの境地 この構成に従って説示内容をまとめるが、以下で付された下線部分はそれぞれのテーマに直 接関わる用語であることを示している。 (Ⅰ)この世における人間存在 ① )人間の「苦しみ」の様相 ・この世〔に存在する人〕は〔真理を見極めない〕無知に覆われている。〔この世の人は〕欲 深いことによって、(勝手気ままであることによって)輝かないのである。汚れとはこの世の 人の欲求であり、限りない恐怖とはこの世の人の苦しみである(1033) ・生まれや老いや憂いや悲しみ〔という苦しみ〕をまさにこの世でよく知っており(1056) ・それら〔貪りが漏れ入ること〕によって人は死神の支配に従うことになってしまう(1100) ・この世〔に存在するもの〕を〔人が〕執着するからこそ、死の魔王が人に付きまとうのであ る(1103) ・〔身体の〕さまざまな物質的要素が〔次第に〕害われていく人々を見て〔いながら〕、勝手気 ままな〔生活を送っていれば、そうした〕人たちは〔身体の〕さまざまな物質的要素に悩まさ れる(1121) ・人々が渇愛に陥ってしまい、苦しみが生じ、老いにひしがれているのをよく観察しつつ (1123)

(7)

① )のまとめ:

この世は無知に(avijjāya)覆われている(1033) 汚れとは(abhilepanam.)この世の人の欲求(1033)

限りない恐怖(mahabbhayam.)とはこの世の人の苦しみ(dukkham)(1033)

生まれや老いや憂いや悲しみ(jātijaram. sokapariddavañ ca)〔という苦しみ〕(1056) 死神の支配に従うことになってしまう(maccuvasam. vaje)(1100) 死の魔王が(māro)人に付きまとう(1103) 勝手気ままな〔生活を送っていれば、そうした〕人々は〔身体の〕さまざまな物質的要素 に悩まされる(ruppanti rūpesu)(1121) 苦しみが生じ(santāpajāte)、老いにひしがれているのを(jarasā parete)よく観察しつ つ(1123) ① )「〜を捨てた、〜がない、〜を越えた」などの表現からみた「苦しみ」の様相 ・涅槃した仏教修行者、その人には動揺(iñjitā)はない(1041) ・この世において〔あたかも汚れと〕縫い合わせられている〔かのような存在〕(sibbanim) を超えた(1042) ・この世のどこにいようとも動揺(iñjitam.)することがなく、静まり、〔妨げを〕吹き払い、 悩み(nigho)なく、欲もないのである(1048) ・その人〔こそ〕が生まれと老い〔の苦しみ〕(jātijaran)を乗り越えた(1048、1060) ・彼岸に渡り終えた人は、心は[不毛の地のように]荒んで(khilo)はなく、望むこともな い(1059) ・悩みなく(anigho)、欲もない(1060) ・欲望の対象を捨てて、論議することから離れて(1070) ・〔観念的要素と物質的要素である身体から解脱して〕消え去った人には〔どうこう〕判断す る基準(pamān.am)など存在しない。……すべての言説の道は(vādapathā)根絶されている のである(1076) ・〔悩みや欲の〕軍(-seni-)を撃退して、悩み(nighā)なく、欲もなく修行する人々〔こそ〕 が沈黙の聖者である(1078) ・その人々〔こそ〕が〔この世の〕激流(ogha-)を渡った者(1082) ・さまざまな欲望の対象はなく(kāmā na vasanti)……議論に議論を重ねること(katham.-kathā)を超えた人(1089) ・老い〔の苦しみ〕と死神(jarāmaccu-)は滅してしまっている(1094) ・涅槃した人々は、死の魔王の支配(māra-vasānugā)に従わないし、死の魔王の奴隷(māra-ssa paddhagū)でもない(1095)

(8)

・〔真理を見極めない〕無知(avijjāya)を突き破り、了知によって得た解脱である(1107) ② )「苦しみ」の原因 この世の苦しみの状態をつくっているもの ・〔この世の人は〕欲深いことによって、(勝手気ままであることによって)輝かない(1033) ・苦しみは執着することを原因として生起する(1050)=〔その真実を〕知らないで執着すれ ば、その人は愚かで再三苦しみに遭遇する(1051) ・上において、下において、横において、中央において何かよく知るものがあっても、それら に対する喜びと入れ込みと識別作用を排除して、〔この苦しみの〕生存に止まってはならない (1055) ・執着しようとする渇愛をすべて取り去るべきである。この世〔に存在するもの〕を〔人々 が〕執着するからこそ、死の魔王が人に付きまとうのである(1103) ・この世〔に存在する〕人は、喜びに束縛されている。その人にとって思考は憶測なのである (1109) ・〔身体の〕さまざまな物質的要素が〔次第に〕害われていく人々を見て〔いながら〕、勝手気 ままな〔生活を送っていれば、そうした〕人たちは〔身体の〕さまざまな物質的要素に悩まさ れる(1121) ・人々が渇愛に陥ってしまい、苦しみが生じ、老いにひしがれているのをよく観察しつつ (1123) ② )のまとめ: 欲深いこと(vevicchā)、(勝手気まま(pamādā))→輝かない(1033) 執着(upadhi)→苦しみ(1050、1051) 喜び(nandiñ)と入れ込み(nivesanañ)と識別作用(viññān.am.)→〔苦しみの〕生存 (1055) 渇愛(tan.ham.)→執着(ādāna)(upādiyanti)→死の魔王が人に付きまとう(1103) 喜び(nandī-)→束縛(1109) 勝手気まま(pamattā)→物質的要素に悩まされる(1121) 渇愛(tan.ham.)→苦しみ、老い(1123) ② )「〜を捨てた、〜がない、〜を越えた」などの表現からみた「苦しみ」の原因 ・この世に〔存在する人の欲望の衝動による〕さまざまな流れ(sotāni)を阻止するのは〔自 己の存在を〕正しく自覚することである(1035) ・この世のどこにいようとも動揺することがなく、静まり、〔妨げを〕吹き払い、悩みなく、 欲(-āso)もないのである(1048)

(9)

・我がものというとらわれを捨て(hitvā mamāyitāni)(1056) ・〔何も〕所有する(kiñcanam.)ことなく、欲望の対象に〔まみれた〕生存に対しても執着 (kāmabhave asattam.)せず、ヴェーダ〔が何であるかを〕通達した〔真の〕バラモンをあな たは知っているはずであるが、……彼岸に渡り終えた人は、心は[不毛の地のように]荒んで はなく、望む(kam.kho)こともない(1059) ・その人はこの世において智慧があり、ヴェーダ〔が何であるかを〕通達しており、〔この〕 生存から〔次の〕生存への執着を(bhavābhave san.gam)捨てて、渇愛(tan.ho)を離れ、悩 みなく、欲(-āso)もない(1060) ・この世〔に存在するものへ〕の「執着」(san.go)であると知って、〔この〕生存から〔次 の〕生存へと導く渇愛(tan.han)をなしてはならない(1068) ・渇愛の滅尽を昼夜に見つめよ(1070) ・欲望の対象に対する貪りを離れ(vītarāgo)、何もない〔という境地〕に立って(1072) ・〔悩みや欲の〕軍(-senā-)を撃退して、悩みなく、欲(-āsā)もなく修行する人々〔こそ〕 が沈黙の聖者である(1078) ・渇愛(tan.ham.)を知り尽くして、漏れ入った〔渇愛〕(āsavāse)がなくなった、その人々 〔こそ〕が〔この世の〕激流を渡った者(1082) ・この世における好ましいものへの興味と貪り(piyarūpesu chandarāga-)を取り除くこと 〔こそ〕が、不滅なる涅槃の境地(1086) ・涅槃した人々は、絶えず寂静であって、この世〔に存在するもの〕への執着(visattikan) を乗り越えている(1087) ・さまざまな欲望の対象はなく、渇愛(tan.hā)も存在しておらず(1089) ・その人は〔何に対しても〕関心(āsayo)をもっていないし、願うことも(āsasāno)ない。 その人は智慧があっても、智慧によって〔何かを〕企てる人(kappī)ではない。何も所有す ることなく(akiñcanam.)、欲望の対象に〔まみれた〕生存に対しても執着しない、このよう な人を沈黙の聖者であると知るがよい(1091) ・何も所有する(kiñcanam.)ことがなく、執着する(ādānam.)こともないところ、これが比 類なき避難所である(1094) ・さまざまな欲望の対象への貪りを(gedham.)取り去りなさい(1098) ・現在において、もしあなたは〔何にも〕執着(gahessasi)しないならば、寂静した者とし て修行し続けるであろう(1099) ・観念的要素と物質的要素に対する貪りを離れた人(vītagedhassa)、その人には〔さまざま な貪りが〕漏れ入ること(āsavāssa)はない(1100) ・欲望の対象への興味(kāmacchandānam.)を捨て、憂いと沈鬱な心の両方(domanassāna cūbhayam., thīnassa)を取り除き、後悔(kukkuccānam.)しないように(1106)

(10)

・渇愛(tan.hāya)を捨てることによって涅槃といわれる(1109) ・それぞれの感覚にいちいち喜ばず(vedanam. nābhinandato)、そのようにして〔自己の存在 を〕正しく自覚していて修行し続けていれば、その仏教修行者の識別作用(viññān.am.)は滅 するのである(1111) (Ⅱ)「苦しみ」を脱する宗教的実践法とその過程 悟りへの道程が原因と結果の関係が認められる場合は、矢印によってその関係を示す。尚、 →は修行の過程を、⇒は理想的境地に至る過程を示すものとする。 ・この世に〔存在する人の欲望の衝動による〕さまざまな流れを阻止するのは、〔自己の存在 を〕正しく自覚することである。……智慧によって、これらの流れは塞ぎ止められる(1035) 〔自己の存在を〕正しく自覚すること(sati)→流れを阻止する 智慧→流れを塞ぎ止める ・〔学修している者や聖者でない者は〕欲望の対象を求めてはならないし、心が濁らないよう にすべきである。〔悟りへの〕善なる〔道を求めている〕者は〔この世の〕すべての存在() 〔意義を〕をよく熟知しており、〔自己の存在を〕正しく自覚していて、遊行し続けていくべき なのである(1039) すべての存在()を善く熟知して→〔自己の存在を〕正しく自覚していて(sato) →遊行し続けていく ・欲望の対象の中にあって清らかな行いを続け、渇愛を離れ、絶えず〔自己の存在を〕正しく 自覚していて、〔教えを〕深く考究して、涅槃した仏教修行者(1041) 清らかな行い、渇愛を離れ、絶えず〔自己の存在を〕正しく自覚していて(sato)、〔教 えを〕深く考究⇒涅槃した ・〔この世において、激流、生まれと老い、憂いと悲しみを乗り越える〕教えを知って、〔自己 の存在を〕正しく自覚していて、修行し続けていれば、この世〔に存在するもの〕への執着を 乗り越えられよう(1053) 〔この世において、激流、生まれと老い、憂いと悲しみを乗り越える〕教えを知って→ 〔自己の存在を〕正しく自覚していて(sato)→修行し続けていれば⇒執着を乗り越え られよう ・このように時を過ごして、〔自己の存在を〕正しく自覚していて、勝手気ままでない仏教修 行者は、修行しながら〔何事に対しても〕我がものというとらわれを捨て、生まれや老いや憂 いや悲しみ〔という苦しみ〕をまさにこの世でよく知っており、〔その〕苦しみを捨てるであ ろう(1056) 〔自己の存在を〕正しく自覚していて(sato)→修行しながら→我がものというとらわ れを捨て⇒苦しみを捨てるであろう

(11)

・この世において賢明でいて、〔自己の存在を〕正しく自覚していて、〔私の〕声を聞いたなら ば、自らが涅槃を〔体得できるように〕学修するとよい(1062) 賢明でいて、〔自己の存在を〕正しく自覚していて(sato)、〔私の〕声を聞いて→学修 する⇒涅槃を体得 ・私はこの世にどんな人が存在していようとも、議論に議論を重ねるような人を解脱させよう とはしない。〔もし〕あなたが〔教えの中でも〕最もすぐれた教えをよく知っているならば、 あなたはこの〔世の〕激流を渡ることができるのですよ(1064) 〔教えの中でも〕最もすぐれた教えをよく知っているならば⇒激流を渡る ・その寂静〔の教え〕を知って、〔自己の存在を〕正しく自覚していて、修行し続けていれば、 この世〔に存在するもの〕への執着を乗り越えられよう(1066) 寂静[の教え]を知って→〔自己の存在を〕正しく自覚していて(sato)→修行 し続けていれば⇒執着を乗り越えられよう ・〔この世には〕何もないと觀察しながら〔自己の存在を〕正しく自覚していて、〔何も〕存在 していないと〔の境地〕に立って、〔この世の〕激流を渡りなさい(1070) 何もないと觀察し→〔自己の存在を〕正しく自覚していて(satimā)→〔何も〕存在し ていないと〔の境地〕に立って⇒激流を渡れ ・すべての欲望の対象に対する貪りを離れ、何もない〔という境地〕に立って、それ以外〔の 境地〕を捨て去り、〔所有の〕想いから解き放たれた最高〔の境地〕で解脱した(1072) 欲望の対象に対して貪りを離れ→何もない〔という境地〕に立って⇒〔所有の〕想いか ら解き放たれた最高〔の境地〕で解脱した ・〔興味と貪りを取り除くことこそが不滅なる涅槃の境地である〕ことをよく知って、〔自己の 存在を〕正しく自覚していて、存在するものを目の当たりにできる〔この世で〕涅槃した人々 は、絶えず寂静であって、この世〔に存在するもの〕への執着を乗り越えている(1087) 涅槃の境地をよく知って→〔自己の存在を〕正しく自覚していて(satā)⇒涅槃して、 絶えず寂静で、執着を乗り越えている ・〔比類なき避難所である涅槃では、老いの苦しみと死神は滅してしまっている〕ことをよく 知って、〔自己の存在を〕正しく自覚していて、存在するものを目の当たりにできる〔この世 で〕涅槃した人々は(1095) 〔比類なき避難所である涅槃では、老いと死神は滅してしまっていることを〕よく知っ て→〔自己の存在を〕正しく自覚していて(satā)⇒涅槃した ・過去に存在した〔欲望の対象への貪りなど〕を干涸びさせよ。未来に〔存在するであろう〕 いかなる〔欲望の対象への貪りなど〕もあなたにはあってはならない。現在において、もしあ なたは〔何にも〕執着しないならば、寂静した者として修行し続けるであろう(1099) 〔何にも〕執着しないならば⇒寂静した者として修行し続ける

(12)

・〔執着するから死の魔王が人に付きまとうことを〕了知しつつ、〔自己の存在を〕正しく自覚 していて、この世に存在するいかなるものにも執着しないのがよい。(1104) 〔執着するから死の魔王が人に付きまとうことを〕了知し→〔自己の存在を〕正しく自 覚していて(sato)⇒いかなるものにも執着しない ・〔それには、まず〕欲望の対象への興味を捨て、憂いと沈鬱な心の両方を取り除き、後悔し ないようにすること〔である〕」(1106) 〔そして、まず〕教えに対する〔深い〕思索があり、〔続いて〕平静な心と〔自己の存在に対す る〕正しい自覚(念)によって清浄となることである。〔そして、真理を見極めない〕無知を 突き破って、了知によって解脱することである(1107) (欲望の対象に対する興味を捨て、憂いと沈鬱な心の両方を取り除き、後悔せず→) 教えに対する〔深い〕思索→平静な心と〔自己の存在に対する〕正しい自覚 (sati)(→清浄となる)⇒解脱 ・それぞれの感覚にいちいち喜ばず、そのようにして〔自己の存在を〕正しく自覚していて、 修行し続けていれば、その仏教修行者の識別作用は滅するのである(1111) 感覚に喜ばず→〔自己の存在を〕正しく自覚していて(satassa)→修行し続けていれ ば⇒識別作用は滅する ・〔そうした仏教修行者は〕何もないという〔境地に〕存在していることを『〔その境地に対す る〕喜びは〔その境地に対する〕縛りである』と知って、そのようであり、そのようであると 〔繰り返し〕了知して、そ〔の境地〕から〔出たり、また〕そ〔の境地〕で〔自在に〕観察す る。こうしたことが、修行を完成したかの真のバラモンのあるがままに〔觀察する〕智慧であ る(1115) 何もないという〔境地に〕存在していることを『〔その境地に対する〕喜びは〔その境 地に対する〕縛りである』と知って→〔繰り返し〕了知して、そ〔の境地〕から〔出た り、また〕そ〔の境地〕で観察する=完成した真のバラモンのあるがままに〔觀察す る〕智慧 ・この世〔に存在するもの〕は空であると(suññato)觀察しなさい。絶えず〔自己の存在を〕 正しく自覚していて、我〔は実在するということ〕に基づいた誤った見解を(attānudit.t.him.) 断って。そのようにすれば、死神を乗り越えられるであろう(1119) 絶えず〔自己の存在を〕正しく自覚していて(sato)→我〔は実在すると〕いった誤っ た見解を断つ→空と觀察⇒死神を乗り越えられる (Ⅱ)のまとめ 〔修行過程のパターン〕 ① 教えを了知→ sata, sati →修行⇒悟り、あるいはその順でなくとも、同様の四つの要素で

(13)

説かれるパターン ・清らかな行い、渇愛を離れ、絶えず〔自己の存在を〕正しく自覚していて(sato)、〔教え を〕深く考究⇒涅槃した(1041) ・〔この世において、激流、生まれと老い、憂いと悲しみを乗り越える〕教えを知って→ 〔自己の存在を〕正しく自覚していて(sato)→修行し続けていれば⇒執着を乗り越えら れよう(1053) ・賢明でいて、〔自己の存在を〕正しく自覚していて(sato)、〔私の〕声を聞いて→学修す る⇒涅槃を体得(1062) ・寂静[の教え]を知って→〔自己の存在を〕正しく自覚していて(sato)→修行し続けて いれば⇒執着を乗り越えられよう(1066) ② ①のパターンで修行が説かれない場合、あるいは三つの要素で説かれるパターン ・涅槃の境地をよく知って→〔自己の存在を〕正しく自覚していて(satā)⇒涅槃して、絶 えず寂静で、執着を乗り越えている(1087) ・〔涅槃の〕ことをよく知って→〔自己の存在を〕正しく自覚していて(satā)⇒涅槃した (1095) ・〔執着するから死の魔王が人に付きまとうことを〕了知し→〔自己の存在を〕正しく自覚 していて(sato)⇒いかなるものにも執着しない(1104) ・教えに対する〔深い〕思索→平静な心と〔自己の存在に対する〕正しい自覚(sati)(→ 清浄となる)⇒解脱(1107) ③ その他 (ⅰ)①と異なる四つの要素のパターン ・〔自己の存在を〕正しく自覚していて(sato)→修行しながら→我がものというとらわれ を捨て⇒苦しみを捨てるであろう(1056) ・何もないと觀察し→〔自己の存在を〕正しく自覚していて(satimā)→〔何も〕存在して いないと〔の境地〕に立って⇒激流を渡れ(1070) ・感覚に喜ばず→〔自己の存在を〕正しく自覚していて(satassa)→修行し続けていれば ⇒識別作用は滅する(1111) ・絶えず〔自己の存在を〕正しく自覚していて(sato)→我〔は実在すると〕いった誤った 見解を断つ→空と觀察⇒死神を乗り越えられる(1119) (ⅱ)②と異なる三つの要素のパターン ・すべての存在()を善く熟知して→〔自己の存在を〕正しく自覚していて(sato)→遊行し 続けていく(1039) ・欲望の対象に対して貪りを離れ→何もない〔という境地〕に立って⇒〔所有の〕想いから 解き放たれた最高〔の境地〕で解脱した(1072)

(14)

(ⅲ)二つの要素のパターン ・〔自己の存在を〕正しく自覚すること(sati)⇒流れを阻止する(1035) ・智慧⇒流れを塞ぎ止める(1035) ・〔教えの中でも〕最もすぐれた教えをよく知っているならば⇒激流を渡る(1064) (Ⅲ)「苦しみ」から解き放たれた人とその境地 ① 悟った人 ・涅槃した仏教修行者、その人には動揺はない(1041) ・〔偉大な人といわれる仏教修行者は、〕この世において〔あたかも汚れと〕縫い合わせられて いる〔かのような存在〕を超えた(1042) ・〔教えを〕深く考究すれば、この世のどこにいようとも動揺することがなく、静まり、〔妨げ を〕吹き払い、悩みもなく、欲もないのである。その人〔こそ〕が生まれと老い〔の苦しみ〕 を乗り越えた(1048) ・〔何も〕所有することなく、欲望の対象に[まみれた]生存に対しても執着せず、ヴェーダ 〔が何であるかを〕通達した〔真の〕バラモンをあなたは知っているはずであるが、その人こ そ間違いなく、この〔世の〕激流を渡ったのである。彼岸に渡り終えた人は、心は〔不毛の地 のように〕荒んではなく、望むこともない(1059) ・その人はこの世において智慧があり、ヴェーダ〔が何であるかを〕通達しており、〔この〕 生存から〔次の〕生存への執着を捨てて、渇愛を離れ、悩みなく、欲もない。その人こそ、生 まれと老い〔の苦しみ〕を乗り越えた(1060) ・欲望の対象に対する貪りを離れ、何もない〔という境地〕に立って、それ以外〔の境地〕を 捨て去り、〔所有の〕想いから解き放たれた最高〔の境地〕で解脱した人は〔他の境地に〕転 ずることなく、そ〔の最高の境地〕に立ち止まる(1072) ・観念的要素と〔物質的要素である〕身体から解脱した沈黙の聖者は〔すでにそれらが〕消え 去っているので、数えられる存在ではない(1074) ・〔観念的要素と物質的要素である身体から解脱して〕消え去った人には〔どうこう〕判断す る基準など存在しない。その人のことを〔この世の〕人々が〔あれこれと〕論じる判断基準は、 その人にはないのである。すべての存在はすっかり取り除かれているので、〔どのように存在 するのか、しないかといった〕すべての言説の道は根絶されている(1076) ・〔悩みや欲の〕軍を撃退して、悩みなく、欲もなく修行する人々〔こそ〕が沈黙の聖者であ る(1078) ・この世において、〔根本原理であるアートマンを〕見たり聞いたり思ったことや、戒と禁欲 の修行がすべて〔であるとの立場〕を捨て去って、〔また〕多くの〔他の修行〕方法をすべて 捨て去り、渇愛を知り尽くして、漏れ入った〔渇愛〕がなくなった、その人々〔こそ〕が〔こ

(15)

の世の〕激流を渡った者(1082) ・〔興味と貪りを取り除くことこそが不滅なる涅槃の境地なのである〕ことをよく知って、〔自 己の存在を〕正しく自覚していて、存在するものを目の当たりにできる〔この世で〕涅槃した 人々は、絶えず寂静で、この世〔に存在するもの〕への執着を乗り越えている(1087、cf. 1095) ・さまざまな欲望の対象はなく、渇愛も存在しておらず、議論に議論を重ねることを超えた人、 その人の解脱は他の〔沙門などの解脱なのでは〕ない(1089) ・〔何に対しても〕関心をもっていないし、願うこともない。その人は智慧があっても、智慧 によって〔何かを〕企てる人ではない。何も所有することなく、欲望の対象に〔まみれた〕生 存に対しても執着しない、このような人を沈黙の聖者と知るがよい(1091) ・〔比類なき避難所である涅槃では、老いの苦しみと死神は滅してしまっている〕ことをよく 知って、〔自己の存在を〕正しく自覚していて、存在するものを目の当たりにできる〔この世 で〕涅槃した人々は、死の魔王の支配に従わないし、死の魔王の奴隷でもない(1095) ・過去に存在した〔欲望の対象への貪りなど〕を干涸びさせよ。未来に〔存在するであろう〕 いかなる〔欲望の対象への貪りなど〕もあなたにはあってはならない。現在において、もしあ なたは〔何にも〕執着しないならば、寂静した者として修行し続けるであろう(1099) ・いかなる場合でも、観念的要素と物質的要素に対する貪りを離れた人、その人には〔さまざ まな貪りが〕漏れ入ることはない(1100) ・それぞれの感覚にいちいち喜ばず、そのようにして〔自己の存在を〕正しく自覚していて、 修行し続けていれば、その仏教修行者の識別作用は滅するのである(1111) ・何もないという〔境地に〕存在していることを『〔その境地に対する〕喜びは〔その境地に 対する〕縛りである』と知って、そのようであり、そのようであると〔繰り返し〕了知して、 そ〔の境地〕から〔出たり、また〕そ〔の境地〕で〔自在に〕観察する。こうしたことが、修 行を完成したかの真のバラモンのあるがままに〔觀察する〕智慧である(1115) ①のまとめ 涅槃した:nibbuto(1041)、-abhinibbutā(1087、1095) 動揺はない:no santi iñjitā(1041)、 iñjitam. nʻatthi(1048)

〔あたかも汚れと〕縫い合わせられている〔かのような存在〕を超えた:sibbanim accagā (1042) 静まり:santo(1048) 〔妨げを〕吹き払い:vidhūmo(1048) 悩みもなく:anigho(1048、1060)、anighā(1078) 欲もない:nirāso(1048、1060)、nirāsā(1078)

(16)

生まれと老い〔の苦しみ〕を乗り越えた:atāri so jātijaran(1048) 所有することがない:akiñcanam.(1059、1091)

生存に対する執着なく:kāmabhave asattam.(1059、1091)、bhavābhave san. gam imam. vi-sajja(1060)、tin.n.ā loke visattikan(1087)

激流を渡った:ogham imam. atāri(1059)、oghatin.n.ā(1082) 荒んでなく:akhilo(1059)

望むことはない:akam.kho(1059、願うことはない 1091) ヴェーダに通達した:vedagum.(1059)、vedagu(1060)

渇愛を離れ:vītatan.ho(1060)、 tan.hā yassa na vijjati(1089) 智慧がある:vidvā(1060)、paññān.avā(1091)、cf. ñān.am.(1115)

欲望の対象に対する貪りを離れ:sabbesu kāmesu yo vītarāgo(1072)、vītagedhassa(1100) 解脱した:vimutto(1072)

数えられる存在ではない:na upeti sam.kham.(1074)

〔あれこれ〕判断する基準などない:na pamān.am atthi(1076) 言説の道は根絶されている:samūhatā vādapathā(1076)

漏れ入った〔渇愛、貪り〕はない:anāsavāse(1082)、āsavāssa na vijjanti(1100) 寂静した:upasantā(1087)、upasanto(1099)

議論に議論を重ねることを越えた:katham.kathā ca yo tin.n.o(1089) さまざまな欲望の対象が〔存在することも〕なく:kāmā na vasanti(1089)

死の魔王の力に従わない、死の魔王の奴隷でもない:na te māra-vasānugā、 na te mārassa paddhagū(1095) ② 悟りの境地 ・この世における好ましいものに対する興味と貪りを取り除くこと〔こそ〕が、不滅なる涅槃 の境地(1086) ・何も所有することがなく、執着することもないところ、これが比類なき避難所である。それ を涅槃と私はいう。〔そこでは〕老い〔の苦しみ〕と死神は滅してしまっている(1094) ・平静な心と〔自己の存在に対する〕正しい自覚によって清浄となることである。〔そして〕 その状態が〔真理を見極めない〕無知を突き破り、〔それが〕了知によって解脱することであ る(1107) ・渇愛を捨てることによって涅槃といわれる(1109) ・如来はすべての識別作用のありさまを知り尽くし、〔識別作用が滅し、何もないと観察する〕 そうした〔仏教修行者〕が〔すでに〕解脱していながらも、解脱を究極の目的として〔今も修 行〕し続けている人(1114)

(17)

②のまとめ

理想的な境地の表現を以下にまとめる。

涅槃:「この世における好ましいものに対する興味と貪りを取り除くこと〔こそ〕が、不滅な る涅槃の境地(chandarāgavinodanam., nibbānapadam accutam.)」(1086)、「何も所有する ことなく、執着することもないところ、これが比類なき避難所である。それを涅槃と私はい う。〔そこでは〕老い〔の苦しみ〕と死神は滅してしまっている(akiñcanam. anādānam., etam. dīpam. anāparam., nibbānam. iti nam. brūmi, jarāmaccuparikkhayam.)」(1094)、「渇 愛を捨てることによって涅槃(tan.hāya vippahānena nibbānam.)」(1109)

解脱:「了知によって解脱すること(aññāvimokham.)」(1107)、「〔すでに〕解脱していながら も解脱を究極の目的として(vimuttam. tapparāyanam.)」(1114) 以上、これらから悟った人の表現を分析すると、苦の様態が消滅した状態にある人か、執着 など苦の原因が消滅した状態にある人が中心に説かれており、体得した理想の境地については 涅槃と解脱という用語で表現されている。 (結語) 第五章「パーラーヤナ・ヴァッガ」で世尊の教えと伝えられる説示内容をみてきたが、最後 に主たる留意点をまとめておきたい。 ()第五章における世尊の教えから、仏教が興起した時代に説いたとみられる説示の基本的 構造がおおよそ見て取れる。具体的には、仏教の根本思想として定着する四諦説の原形が既に みられることや、修行の過程を簡潔に説いた三学の萌芽ともいえる内容が散見できるというこ とである。 四諦説は、いうまでもなくゴータマ・ブッダが初めての説法で五人の修行者たちに説き明か したと伝えられる教えである。それは、自らが身を置く苦しみ、その苦しみが起こる原因、苦 しみのない理想の境地、そしてそこに至るための修行という四つの視座より説かれる、いわゆ る苦諦・集諦・滅諦・道諦といわれるものであるが、上記のように最古層の第五章には、苦し みの様態やその原因、苦しみを脱するための修行、そして苦しみやその原因が消滅した理想の 境地が極めて素朴にして簡潔な表現ではあるが、既にはっきりと説き示されていたことがわか る。四諦説は比較的後代の散文経典にゴータマ・ブッダの最初の説法と伝承されているが、実 際のところ最古層の経典に説かれていることから、その原形は仏教が興起した当時から説かれ ていたのである。したがって、そこでの四諦説は後に創作された伝承と同様なものとはいえな いが、その原形が説かれていたことは歴史的事実であったと理解してよいであろう。実際、古 層経典といわれる第三章の724偈と726偈には、「苦(dukkham.)」、「苦の生起(dukkhassa sambhavam.)」、「苦がすべてにおいて余すことなく消滅するところ(yattha sabbaso duk-kham. asesam. uparujjhati)」、「苦を静める道(maggam. dukkhūpasamagāminam.)」と、さら

(18)

に『ダンマパダ』190偈や『テーラ・ガーター』1098偈に「四つの真理(cattāri ariyasaccā-ni)」という用語で説かれるようになり、四諦説として次第に確立していく過程が読み取れる。 修行の基本的な項目である三学に関しても、日常的な生活における正しい行いである戒、精 神的な修行である定、智慧を身につけ悟りへと導く慧の三項目はこの段階では未だ定型的な記 述はみられないが、芽生えともいうべき表現が随所に散見できる。特に、定については他の戒 と慧の二つに比べて表現が多様で、一定はしていない。こうした状況は、精神的修行ともいえ る定がいかに試行錯誤しながら定着することになったかをよく表している。それは、禅定を重 視した当時の仏教の苦心の跡なのかもしれない。いずれにしても、こうした経緯をへて最古層 の時代から次第に三学説へとまとめられていく展開があったことを、これらの資料はよく示し ている。 このように、第五章が主題を彼岸に至る道としているだけに四諦や三学に関するような内容 が説かれるのは当然ではあるが、それらの原初的な内容がこれほど明確にすでに仏教興起の時 代から説示されていたことは興味深い。 ()「苦しみ」を脱するための宗教的実践法(修行法)、つまり「彼岸に至る道」の過程の説 示こそが第五章のテーマであるといえるが、その過程を明示している偈は一八例みられる。し かし、そこにはゴータマ・ブッダが最初に説法したと伝えられている八正道の説示はまったく みられないのである( )。修行の過程は、sata や sati(〔自己の存在を〕正しく自覚する)とい う語に続いて、√car 「行く、さまよう、実行する」や √śiks.「学ぶ、修行する、試みる」な どの動詞によって極めて簡潔に説かれているのみである。たしかに、第五章には「何かよく知 るものがあっても、それらに対する喜びと入れ込みと識別作用を排除して」(1055)、「議論す ることから離れて」(1070)、「欲望の対象に対する興味を捨て、憂いと沈鬱な心の両方を取り 除き、後悔しないように」(1106)、「それぞれの感覚にいちいち喜ばず」(1111)、「勝手気まま な〔生活を送る〕ことなく、渇愛を捨てなさい」(1123)などの修行者のあるべき実践方法が 説 か れ て お り、ま た 第 四 章「アッ タ カ・ヴァッ ガ」で も 戒(pātimokkha)や 三 昧(sam-ādhi( ) )を問われた世尊が922偈から932偈にかけて、そしてまた賢者はどのような学修(sik-khā)を身に付け、自らの垢を吹き消せるのかと問われた世尊は964偈から975偈で詳細に説い ている。しかし、そこには具体例が列挙されているものの修行法として確定しているような説 示はみられない。それだけに、こうした簡潔な修行の説示に最古の仏教における当時の根本的 立場が端的に表明されているものと受け止めることができよう。その中で何よりも顕著なのが、 一八例中の一四例(1035、1039、1041、1053、1056、1062、1066、1070、1087、1095、1104、 1107、1111、1119偈)までが sata や sati(〔自己の存在を〕正しく自覚する)を修行の第一歩 あるいは根幹と位置づけるように用いられているということである。これは極めて特質すべき 点である。これらの偈が仏教の興起時代における修行に関する根本的立場を端的に示している ものとするならば、これらの偈にみられる内容は仏教の修行法の源流として極めて重要である

(19)

といわなければならない。その解明こそが、最古の仏教の修行法を明らかにすることでもある。 ここでは、この点を指摘するにとどめ、詳しくは近く別稿にて論じる予定である。 〔注〕 ⑴ 第五章「パーラーヤナ・ヴァッガ」には世尊の教えは四八偈が説かれているが、それらの訳註 研究については、次の拙稿を参照されたい。並川孝儀「『スッタニパータ』第五章「パーラーヤ ナ・ヴァッガ」にみる世尊の説示に関する基礎的研究 第二経〜第七経 」『佛教大学 仏教学 会紀要』(佛教大学仏教学会)第24号、2019.3 pp.1-20。同「『スッタニパータ』第五章「パーラー ヤナ・ヴァッガ」にみる世尊の説示に関する基礎的研究 第八経〜第一七経 」『佛教大学 仏 教学会紀要』(佛教大学仏教学会)第25号、2020.3(予定)。 ⑵ 第五章「パーラーヤナ・ヴァッガ」の世尊の説示内容を本格的に分析した研究は、荒牧典俊に よるものがある。ゴータマ・ブッダの根本思想は、「金口」で説法した韻文経典おいてのみ現成 するのではなく次々の世代の仏弟子たちが「如是我聞」しては仏教教理へと形成していったが、 彼らが問いつづけた根本問題、言い換えればゴータマ・ブッダが仏弟子たちに課した根本問題は 次の三つであると、荒牧典俊は推測する。その三つの根本問題とは、 (一)「いったいゴータマ・ブッダの根本の宗教体験はどのような構造をもつのか」 この根本問題は、「四諦・十二支縁起」などの教理に発展する。 (二)根本の宗教体験の中心にある個体存在とは何か この根本問題は、「六処・五蘊」などの教理に発展する。 (三)どのような修行実践によってゴータマ・ブッダの根本の宗教体験が体得されるのか この根本問題は、「四念処・四禅定・四無色定」などの教理に発展する。 とする。 仏弟子たちの中でも、ゴータマ・ブッダの教えを継いだ第一世代に帰せられる韻文経典は、第 五章「パーラーヤナヴァッガ」に含まれる第二経から第一七経までの一六経などであるとする。 荒牧は、とりわけ、この第五章で直面する問題は、ゴータマ・ブッダが「直々に体験したのであ って伝承や伝聞によるものではない真理」にもとづいて禅定を修行するとき、究極的にはどのよ うに個体存在が滅するのか、すなわち個体存在が表層からして漸次に滅していくとき最深層であ るのは何か、ということであったと解釈する。具体的には、このうち根本問題の第一番目の問題 を解明するに当たり、第五経「学生メッタグーの問い」からゴータマ・ブッダの根本の宗教体験 がどのように理解されているのかを三つの問答から検証する。最初の問答は、「苦悩の根拠」の 究明がなされ、二つ目の問答では、苦悩の存在根拠である「個体存在を所有すること」をどのよ うにして放捨するのかを、最後の問答はきわめて難解ではあるがと断りつつも、「くり返し再生 する輪廻的存在でありつづけることなき」ままに説法するとは、どのようなことかを説いている、 と解釈している。 このように、第一世代の仏弟子たちは、ゴータマ・ブッダが今ここにありありとさとった根本 思想を聞いたという歓びをもって、ゴータマ・ブッダ直伝の根本の宗教体験を自らの修行実践に よって追体験し、さまざまな実践上の問題を究明しながら、ゴータマ・ブッダの根本思想を展開 させていったと結論づける。荒牧典俊「ゴータマ・ブッダの根本思想」『インド仏教』岩波書 店(『東洋思想』第巻)1988年、pp. 77-82。同「原始仏教経典の成立について 韻文経典から 散文経典へ 」『東洋学術研究』第23巻・第号、1984年、pp. 63-66。 こうした荒牧説を第五章に説かれる世尊のすべての説示から検証すると、(一)については四 諦説に関する原形は認められるものの、縁起については原初的内容がごく断片的に説かれている に過ぎず、(二)の宗教体験の中心にある個体存在とは何かについては、sata や sati など自己の 存在をあるがままに自覚する宗教体験の根本的姿勢が説かれているに過ぎず、五蘊や六処のよう な範疇の基準にかかわる用語や考え方はまったくみられず、(三)のどのような修行実践によっ てゴータマ・ブッダの根本となる宗教体験を体得できるのかについては、八正道や四念処のよう

(20)

な修行法が未だ具体的には説かれていないことがわかる。 しかし、荒牧が三分類した根本問題こそ、次第に仏教が構築されていく思想や範疇の基礎であ って、その原形や萌芽が第五章においてどの程度説かれているかは確認しておく必要はある。荒 牧説は第五章の説示が次第にそうした思想へと確立していく源流とした仮説であると理解すれば よいであろう。 ただ、筆者はこうした最古の仏教において既に思想へと確立した教えが説かれる状況にあった のかどうかについては疑問をもっている。ゴータマ・ブッダや直弟子といわれる第一世代の仏弟 子たちの時代では、仏教はあくまで悟りを求め、実践に精進し、苦悩からの脱却という宗教性に 力点が置かれていたため、思想や教理の構築はそうした時代から一定の期間を経なければならな かったのではないかと考える。つまり、悟りが必ずしも目的とならなくなると、仏教修行者たち はゴータマ・ブッダや悟りを体得した仏弟子たちの教えを遵守することが目的となり、その教え の解明につとめ、その結果、何が人々を苦しめているのか、悟りは何であったのか、その道程は どのようなものであったのかといった問題を考究して、教理化と体系化を進め、仏教の根本思想 を構築することになったと考えられる。つまり、悟りという理想的世界の実現よりもその思想的 な解明へと歴史的に変容していったと推定できる。 仏教の興起時代を伝える『スッタニパータ』の第五章には1053偈を始めとしてさまざまな用例 から窺えるように、悟りを得たゴータマ・ブッダと、彼から直に真理に基づいた教えを聞きブッ ダと同じように宗教的実践を追体験しようとした仏弟子たちの世界が、まさにこの最古層の経典 に描かれているのである。最古層の経典には、ゴータマ・ブッダと優れた仏弟子たちの宗教的属 性が救済性を除いて同じであったことを既に指摘している(並川孝儀『ゴータマ・ブッダ考』大 蔵出版2005.12 pp. 23-64)が、そのことも第五章の背景と軌を一にしている。したがって、この ような最古の経典に思想や教理がほとんど説かれていない理由は、思想として教理として未発達 の段階にあったというだけでなく、むしろ当時の仏教者にはどうすれば苦悩を離れることができ るのかという宗教的実践に目的があって、そこにはあくまで仏教修行者個人の内的な実感として の世界が何よりも前面に現れ出たからであろう。その意味からも、その時代に無我や縁起や無常 などの思想性が提唱されることで仏教がインドの文化に新基軸を打ち立てたとするのは無理があ ろう。仏教を正しく理解するには、時には宗教性と思想性とを区別して、時には一体化して論じ なければならないのである。 ⑶ dhamma を「存在」と解釈している(並川孝儀・前掲論文『佛教大学 仏教学会紀要』第24号 p .5)が、「教え」とも訳しうる可能性も大きく、この訳に関しては留保しておきたい。 ⑷ 中村元『原始仏教の生活倫理』(中村元選集〔決定版〕第17巻)1995.4春秋社 p. 68、三枝充悳 『初期仏教の思想(下)』第三文明社(レグルス文庫)1995.3 pp. 538-546を参照。 ⑸ samādhi という語は、最古層経典ではこの一例にだけみられ、古層でも『スッタニパータ』第 二章に226偈、330偈などでみられるのみで、用例は極めて少ない。しかし、『テーラ・ガーター』 などになると頻繁に用いられるようになり、とりわけ三学(戒・定・慧)での用例が顕著となる。 この921偈は世尊のことばではなく質問者の問いであり、したがって経典の形式上から後代に付 け加えられた可能性のあることを指摘しておきたい。 (なみかわ たかよし 佛教大学名誉教授) 2019年10月30日受理

(21)

論 文

ケプラーの円錐曲線論

田 山 令 史

〔抄 録〕 古代ギリシャ以来,円錐曲線論は数学の主要な柱の一つであった。十七世紀,ケプ ラーの議論は,円錐曲線を一平面上で論ずることにより,この研究の画期となった。 さらに,ケプラーはこの平面に,無限遠点と平行線の交点を想定することで,後世の 幾何学にも関連していくことになる。従来の研究は,ケプラーの、円錐曲線研究史で の位置づけ,そして後の幾何学との関連を中心にしている。この論文は,円錐曲線論 の歴史やケプラーのプラトニスムという思想的背景を論じながら,ケプラーがどのよ うに交わる平行線という着想に至ったかという点に,議論を集中する。さらにケプ ラーの円錐曲線論を透視図法の観点から検討し,先行研究が問題にしているデザルグ の幾何学との異同を明確にした。 キーワード 『メノン』、プラトニスム、『世界の調和』、アポロニュウス、射影幾何学 はじめに

ケプラー(1571-1630)は、『天文学の視覚論(Astronomiae Pars Optica, Optical Part of Astronomy, 1604)』で、楕円、放物線、そして双曲線といった円錐曲線を、焦点の位置を移 動させていくことによって、連続させる。つまり、これらの円錐曲線は、形を連続的に変化さ せながら連なる図形であることを論ずる。このとき、無限についての考えが、二つの形で表現 される。すなわち、平行線は無限遠で交わり、そして、無限遠での交点は、直線の両方の端に ある。ケプラーはこのような無限の性格を、円錐曲線群が連続して変化していく論理的条件と して語るのである。この論文では、とくに交わる平行線に至る、ケプラーの議論の詳細を追い、 透視図法と比較する。 無限遠で交わる平行線は、また、透視図法の基礎である。透視図法は空間中の対象を、画面 という二次元に捉えようとする。ここで平行線の交点は、対象と眼の位置関係によって生じる。 この交点とケプラーの論ずる交点は、経験的な絵画技法と数学的仮定といった区別をつけるこ とができる。ここでは、この区別の意味を改めて考えてみたい。

(22)

第一章  『メノン』での幾何学のアプリオリ性、魂の不滅 数学の特徴、たとえば、経験をまたずに、学習ができ、その命題の真偽が決定できる、とい った性格は、古代から哲学的議論の一つの柱になってきた。プラトンの『メノン』が、好例で ある。 『メノン』の主題は「徳」の習得である。当時、徳は国家の運営に必要な能力、政治的力量 を意味した。プラトンは、この問いに対して、さまざまな徳の具体例をあげてよしとするよう なやり方をしりぞける。それに対して、徳の本質、定義、言い換えれば、徳とは何かを知ろう とする。この主題の前提として、ソクラテスは、神々について知恵を持つ人たちから聞いたと して、このような話をする。 人の魂は不死であって、この世に生まれてくる前、すでに何度も生まれ変わってきている。 それで「魂が学んでしまっていないようなものは、何ひとつとしてないのである」()。だから、 探求とは思い起こすことだ。徳と聞けば前生を想起し、それを本当に知ろうとする気持ちがわ くのである。 ソクラテスは、メノンの召使いである子どもに幾何学の問いを解かせることで、このような 想起の思想を試してみせる。ソクラテスは、幾何学のことなど、何も知らない子供に、幾何学 の問題、正方形の辺と面積の関係を問う。 辺の長さが二倍になればその面積は、二倍になるのか。子供はそう考えているのだが、ソク ラテスは図を描きながら、その考えは誤りで、実は四倍であることを、問答を重ねるうちに納 得させていく。「君がそうだと思ったとおりに答えてくれればいいのだ」()。そして正方形の 面積を二倍にするには、その対角線を一辺とする正方形を作ればよいという考え(思わく)を 子供から引き出してみせる。このとき、何の予備知識もいらず、子供はただ、一つの図形が同 じ形、同じ大きさの小さな図形に分割されたり、小さな図形が集まって一つの図形を作ったり するのを見て、長さや大きさの等しさを了解していけばよいのである。 ソクラテス どう思う? メノン。この子が答えたことで、この子自身の思わく(思いなし)ではない ようなものが、ひとつでもあっただろうか。……しかし、われわれが少し前に言っていた ように、もともとこの子は、こうしたことを知ってはいなかったのだ。……ただしかし、 この子のなかには、この子がいま述べたようないろいろな思わくが内在していたというこ とはたしかだ。そうではないだろうか?……しかるにこの子がそうしたいろいろな思わく を得たのは、現在のこの生ではないのだとすると、いまやこういうことが明らかではない かね。 すなわち、彼はこの生涯以外の他の時において、すでにそれをもっていたのであ

(23)

り、学んでしまっていたのであるということが() こうして、魂不滅の思想と、幾何学の命題の真偽は経験的検証をまたないこと、つまり数学 のアプリオリな性格、これがあわせて論じられている。この主題は後世、さまざまな形で繰り 返されることになる。 ケプラーは『宇宙の調和』のなかで、この想起の話に繰り返し言及する。そしてアリストテ レスによる『メノン』の批判をかわして、プラトン説に立つ。  イデア論 プラトンは数学的対象を、経験世界に考えるのか、それとも経験を超えるイデア界の実在と するのか。 ソクラテスの口をかりてイデアが語られる『パイドン』は、プラトン中期の作品で、ソクラ テス刑死(B.C. 399)の日、弟子たちとの対話を描く。魂の不滅を証明していくなか、イデア の思想がここで初めて確立したとされる。 イデアは、人の知覚や知覚する場所などから独立し、それ自体としてある、()見えざるも の()、「その同一性においてつねに不変のあり方をたもつもの」()と言われる。 (幾何学の点や線は、)ただ、思考のもつ〔純粋な〕推理のはたらきによる以外は、それを 把える他の一切の手段はこばまれているのではないか。すなわちいいかえれば、それらは 視覚に把えられるようなかたちをもたないのであり……() 〈等しさ〉そのものとか、〈美〉そのものとか、おのおののまさに〈ある〉というそれ自体、 つまりはその存在そのものは、たとえいかなる変様であれ、それをみずからに許容するこ とが、はたしてあるだろうか( ) イデアは、誤りやすい感覚や知覚ではなく、不変の存在であり、理性の対象である。 プラトンの『国家』第七巻の出だしに、「洞窟のたとえ」と言われている話がある。太陽の 照らす外の世界を知らず、洞窟のなかで囚人は、実在の影を本物と思い込んでいる。感覚にと らわれる人、すなわち、私たちが囚人と言われているのだが、ここで、太陽は「善のイデア」 の例えである。善のイデアこそが、いっさいを超越する、それ自体としての存在である。 知的世界には、最後にかろうじて見てとられるものとして〈善〉の実相(イデア)がある。 いったんこれが見てとられたならば、この〈善〉の実相こそはあらゆるものにとって、す べて正しく美しいものを生み出す原因であるという結論へ、考えが至らなければならぬ()

(24)

善のイデアこそが本来の理性の対象であり、数学が関わる多と延長体、言い換えれば、数と 形とは、プラトンにとって、このような理性の対象ではない。この、プラトンの数学的対象に ついては、議論がある。 アリストテレス『形而上学』は、プラトンのイデア探究の端緒を、以下のように述べながら、 その数学的対象を、感覚の対象とイデアとの中間に置く。 だがプラトンは、さらに感覚的事物とエイドスのほかに、これら両者の中間に、数学の対 象たる事物が存在すると主張し、そしてこの数学的対象をば、一方、それらが永遠であり 不動不変である点では感覚的事物と異なり、他方、エイドスとは、数学的対象には多くの 同類のものがあるのにエイドスはいずれもそれぞれ自らは唯一単独であるという点で異な るとしている(10)。(下線筆者) イデアは唯一単独の存在であるに対して、数学的対象、たとえば、数のは、同一の演算式 に「同類」として、いくつでも出てきて、たとえば加算ができる。そして、「同類」の正三角 形は、二つ合わさって平行四辺形を作る。だから、イデアではない。 しかし、数については、これで終わらない。一般的に、存在するものはすべて、数えられる という意味で、その存在に数が関わるからである。 アリストテレスはプラトンをこうまとめる。数は、ピタゴラスの徒が考えるように、他のす べてにとってその実体性の原因(構成要素)である。そして、数は実体としての「一」に与か りながら「大と小」によって存在する。こうしてプラトンの「一」は、さらに「一」から「大 小」によって成立する「数」は、あらゆる存在の実体性の原因として、超越性を示している。 なおまた、エイドスは他のあらゆる存在の原因であるから、それぞれのエイドスの構成要 素はまたあらゆる存在の構成要素であるとかれは考えた。すなわち、質料としては「大と 小」が、実体[形相]としては「一」が、そうした原理であるとした。というのは「一」 に与かることによって「大と小」から数は存在するに至るから、というのであった(11) こうして、アリストテレスは幾何学的対象でなく、数に、このような超越的性格を見る。イ デアではないとしても、プラトンにとっては、「一」「大と小」がイデアの構成要素とされるこ とから、数は、イデアが原因となっているすべての存在に対して、超越性を持つ、こう、アリ ストテレスは言うのである。この議論は後世、新プラトン主義などで、「一」の絶対視として 再登場することになる。

(25)

 ケプラーへ。イデアと視覚 ケプラーは『世界の調和』第四巻第一章で、共感とともに『メノン』の思想を引いている。 が、数についてはその意義が、事物を数え上げるときにのみに生じると、唯名論的に考え、幾 何学的対象については、プラトン的でありながら、感覚世界とイデアの関係については、プラ トンを退ける。それが、感覚世界をその成員として持つ「世界の調和」の思想である。 調和の原形が現実となって、心のなかで輝き出ることができるには、調和は知られ得るだ けでなく、知られていなければならない。知られる可能性だけでは、感覚的調和の範型と なるには不十分なのである。したがって、何かの本質の一部が心のなかにあり、それで、 現に活動している、つまり現実態であるとき、その何かは心のなかで確立しているはずで ある。すなわち、それは調和を成す項であり、円とその一部である。いったい、心がまだ 学んだこともなく、また、外にある対象の感覚なしには、心が学ぶことができそうもない こと、そんなことの知識を、どうして持つことができるのか……私が誤ってなければ、今 日、私たちは、まことに正しく“直観”という語を使う。量は、人の心に、そして他の心 にも、直観によって知られる。感覚が欠けていたとしても。みずから、人の心は直線を理 解する。みずから、任意の一点からの距離を理解する。こうして、みずから、円の姿を思 い描く。ならば心は、直観によって、いっそう容易に作図法を見出し、図形を見るときの 目のはたらきを演ずる(もし眼があるにもかかわらず、その必要があればの話だが)。も し、心が、眼のように機能するものをまったく持たないようなことがあるとすれば、心は 心の外にあるものを知るため、自ら〈眼を〉求め、眼の構造の法則を、自ら描くとおりに 要求する筈である(もし、心が純粋で健全、故障がないとして、つまりは、心が現にある 通りのものだとして)。心に本来具わった、量の認識は、眼の性質はどうあるべきかを、 要求する。したがって、心が現にあるようにあるから、眼は、現にあるように作られてい る、逆ではない。言うまでもないことだ。幾何学、それは、物の起源より以前から神の心 と共に永遠であり、神自身であり(神自身でないようなものが神のうちにあろうか)、世 界創造の方式を神に与えた。そして、神の似姿とともに人類に渡されたのである、眼を通 して受容されたのではない(〈 〉と下線は筆者、『世界の調和』、第四巻、第一章)(12) ケプラーの調和論は、カッシーラーによって、プラトン、クザヌスを継承する、そして、近 代、現代の演繹的科学につながる一つの観念論として、歴史的に位置づけられている。ここで カッシーラーは、ケプラーを、近代科学へ、そしてとくに、カントへと至る観念論の一つの里 程として描いている。カッシーラーの力点は、プラトンからケプラー、ガリレイと連なる近代 へと至る数学的、力学的世界観への系譜である。

(26)

ケプラーでは、後のガリレイのように、想起というプラトン的思想が、認識の起源と獲得 についての思想の中心に位置する。私たちは、この二人のもとで、プラトンの思想が、し だいにその神秘的なところを脱ぎ捨て、どのようにして、純粋に論理的な意味に熟してい くのか、追うことができる。……調和は、秩序ある、幾何学的法則にしたがって分節され た宇宙(Kosmos)としての世界の直観を意味する。したがって、調和は星座の組み立て に限られるものではなく、同時に、自然のあらゆる対象と働きを包み込んで支配してい る(13) ケプラーの、このようなプラトニスムを、その円錐曲線論を理解する前提としたい。 第二章 円錐曲線  アポロニウス 一平面上に円を描き、平面の外に一点をとる。この点と円の中心を結ぶ直線を、平面に垂直 となるようにする。円周上の一点と、この円外の一点を結ぶ直線、すなわち母線の集合を、 (直)円錐と呼ぶ。円の中心と円外の点を結ぶ直線を軸という。このような円錐を二つ考え、 二つはその頂点で接しながら垂直の関係にあるとする。このダブルコーンは円錐曲線を考える 基本である。 ここで円錐に交わる一平面を考えると、交わり方によって、言い換えれば、平面が円錐を切 る、切り方によって、三通りの図形が現れる。つまり、円錐に平面を垂直に交わらせながら、 頂角を連続的に変化させる。あるいは、頂角を一定に保ちながら、平面の交わる角度の方を連 続的に変化させる。この両方の方法で、その切り口に、楕円、放物線、そして双曲線が順に現 れる。 円錐曲線の研究は、プラトンの弟子、メナイクモスが始めたとされている。ここで前者のや り方は、アリスタエウスに帰されている。後者はアポロニウス(Apollonius, c. 262-190 B.C.) の方法である。その『円錐曲線論(Conics)』は八巻から成り、四百六十七の命題を含む。 ユークリッド『原論』とならんで、幾何学第一の古典であり、ギリシャ幾何学の頂点である。 アポロニウスは、このように整理された図を描いてはいない。が、直円錐、斜円錐に限らず、 頂角を固定することは円錐を一つに限ることに等しく、やがて円錐という立体そのものも外し て、平面上で円錐曲線だけを考察する道を開く。実際、アポロニュウスは、この曲線の研究を 円錐から切り離し、平面上で行い始めた。『円錐曲線論』の第一巻第十六命題までは、楕円、 放物線、双曲線を導入するため、円錐に言及するが、次の第十七命題からは、おもに平面上で の議論になる(15) この時代は座標軸も代数的な表現法もなかった。まず座標軸を設定してから、そのなかで図 形を考察する今の方法である。アポロニウスはそのかわり、さまざまな図形における計量的関

(27)

(George A. Jennings, Modern Geometry with Applications より)(14) 係を、そのつど、図形の軸なり接線なりを座標のように使って巧みに表現している。そして、 以前の円錐曲線の扱いに比べて、直円錐と斜円錐をともに考える、ダブルコーンを使うなど、 一般性が増している。 アポロニウスはここで、楕円、放物線、双曲線、それぞれの計量的な特徴を見出した。すな わち、楕円は二定点(いまの呼び方では焦点)からの距離の和が一定の、双曲線はその差が一 定の点の集まりである。が、放物線にはこれに並ぶ定義がない。そのかわり、このような特徴 が語られる。うまく選ばれた一つの直線(軸)との交点 A をとっておいて、放物線上の一点 B からこの直線に垂線を引いて、軸との交点を C とすると、BC の二乗を AC で割るといつも 一定の値になる。このように、アポロニウスは三種の円錐曲線の計量的特徴を平面上で示した のである。 しかし、もともと円錐という一立体に、一平面が連続的に変化する角度で切り込むことで得 られる図形が、円錐曲線である。そこには、形を変化させていく曲線群の連続性が期待される。 が、アポロニウスは、三種の円錐曲線のこのような連続性を語らない。 四世紀頃、パッポスが、円錐曲線の間につながりを見出した。円錐曲線は、そのなかの一定 点と(焦点、あるいは、その一点)、その外の一直線(準線)からの距離の比(離心率)が、 一定であるような点の集まりである。とくに、この比がに等しいときが放物線、より大き いとき双曲線、より小さいとき楕円になる。 このパッポスの命題は、先に見たアポロニウスの議論から導くことができる。パッポスもア ポロニウスも、三種の円錐曲線の特徴を計量的に表現した。そして、パッポスはそれらに明確 なつながりがあることを示してみせた。アポロニウスやパッポスに対して、十七世紀、ケプ ラーはすべての円錐曲線を、無限遠を具えた一平面上で表現する。こうした上で、初めて、計

参照

関連したドキュメント

会員 工博 金沢大学教授 工学部土木建 設工学科 会員Ph .D金 沢大学教授 工学部土木建 設工学科 会員 工修 三井造船株式会社 会員

この小論の目的は,戦間期イギリスにおける経済政策形成に及ぼしたケイ

会 員 工修 福井 高専助教授 環境都市工学 科 会員 工博 金沢大学教授 工学部土木建設工学科 会員Ph .D.金 沢大学教授 工学部土木建設 工学科 会員

バックスイングの小さい ことはミートの不安がある からで初心者の時には小さ い。その構えもスマッシュ

鈴木 則宏 慶應義塾大学医学部内科(神経) 教授 祖父江 元 名古屋大学大学院神経内科学 教授 高橋 良輔 京都大学大学院臨床神経学 教授 辻 省次 東京大学大学院神経内科学

S., Oxford Advanced Learner's Dictionary of Current English, Oxford University Press, Oxford

200 インチのハイビジョンシステムを備えたハ イビジョン映像シアターやイベントホール,会 議室など用途に合わせて様々に活用できる施設

(ed.), Buddhist Extremists and Muslim Minorities: Religious Conflict in Contemporary Sri Lanka (New York: Oxford University Press, 2016), p.74; McGilvray and Raheem,.