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聖 護 院 道 興 筆 『 袖 中 最 要 抄 』 の 翻 刻 と 略 注 ( 四 )

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(1)

聖護院道興筆『袖中最要抄』の翻刻と略注(四) (𠮷野) 四五 は じ め に   本稿は、 前稿   ( 1 ) に 引 き 続 き 、 東 京 大 学 国 文 学 研 究 室 蔵 『 袖 中 最 要 抄 』( 函 架 番 号 、 中 世 一 一 ・ 二 ・ 五 七 )( 以 下 『 最 要抄』と略す)の翻刻をおこない、その内容について各歌語ごとに略注を付すものである。翻刻と略注の方針は以下 の通りである。

  翻 刻 は、 歌 語 そ れ ぞ れ に つ い て、 原 文 通 り に お こ な う( 旧 字、 異 体 字 の 一 部 の み 通 行 の 字 体 に 改 め る )。 改 行 部 分 には   」を付し、小字部分は〈   〉でくくる。但し、文中に多用される「云々」についてはカッコを付さず小字とす る。 ま た、 一 行 中 に 小 字 で 二 行 書 か れ て い る 場 合 は、 / で 示 す。 虫 損 や 摺 消 な ど で 字 が 見 え な い も の の、 類 推 が 可 能 なものは[   カ ]として記し、類推出来ない場合は空欄にして略注で理由を示す。

  典 を『 新 編 国 歌 大 観 』 等 に よ っ て 挙 げ 、 つ い で 、『 最 要 抄 』 が ど の よ う に 『 袖 中 抄 』 の 注 記 を 取 り 上 げ て い る か 、 ( 2 )   [ 略 注 ] で は、 ま ず『 袖 中 抄 』 の 説 明 の 対 象 と な っ た 歌 語 が 詠 ま れ て い る 歌( 『 袖 中 最 要 抄 』 に い う「 説 哥 」) の 出          𠮷 野 朋 美 聖 護 院 道 興 筆 ﹃ 袖 中 最 要 抄 ﹄ の 翻 刻 と 略 注 ︵ 四 ︶

(2)

四六

そ の 特 徴 な ど を ▼ 以 下 に 指 摘 す る。 歌 語 に つ い て い く つ か あ る 説 の う ち の、 一 つ の 説 に つ い て の 証 歌 と な る 歌( 「 證 哥 」) が あ る 場 合 は、 そ れ に つ い て も ふ れ る。 な お、 『 袖 中 抄 』 は 高 松 宮 本『 袖 中 抄 』 を 底 本 と す る『 歌 論 歌 学 集 成 』 第 四 巻( 三 弥 井 書 店・ 二 〇 〇 〇 年 ) 所 収 本 文 を 用 い る が、 適 宜、 橋 本 不 美 男・ 後 藤 祥 子 著『 袖 中 抄 の 校 本 と 研 究 』 ( 笠 間 書 院・ 一 九 八 五 年、 底 本 は 高 松 宮 本 ) を 参 照 す る。 ま た、 文 中 の 歌 学 書 名 は、 適 宜 略 記 す る( 例、 『 和 歌 童 蒙 抄』→『童蒙抄』 )。

  本稿では二十八丁目オモテ二行目「

111   たのむのかりの事」 (『袖中抄』第十一の巻頭の歌語)から「

かの事」 (第十三末尾の歌語)までを対象とする。 153   もとめづ   第十一〈證哥八首〉 [ 略 注 ]  本 書 で は、 各 歌 語 の 説 明 に 直 結 す る 歌、 い わ ゆ る 出 典 に あ た る 歌 を「 説 哥 」、 説 明 の 一 環 と し て 或 る 説 の証歌となる歌を「證哥」と称している(ゆえに、各巻の歌語数と「説哥」の数は一致する)が、ここで は「説哥」とあるべきところを「證哥」と注記してしまっている。根本的かつ本質的な部分を誤写するほ ど「 火 急 馳

筆 」( 奥 書 ) と い う こ と か。 あ る い は、 底 本 と し た 本 文 の 誤 り を そ の ま ま 書 写 し た の か。 い ずれにせよ、 「証歌」が平安時代後期から歌合の判や歌学書にも見える術語であるのに対し、 「説哥」は馴 染みがないため、誤写が生じやすいことはあるだろう。

ら「たのもしの狩」説と「田のおもの雁」説を挙げ、その是非を検討する。その後、顕輔が「鹿狩」説を   [略注] 出典……伊勢物語・一〇段。▼『袖中抄』ではまず『伊勢物語』での歌の贈答を掲げ、内容を述べてか 一説田向のかり也此みよし野は武蔵野也」   一説たのもしのかり也 一説田のおものかりなり」 みよし野のたのむのかりもひたふるに君かかたにそよるとなく也」 111   たのむのかりの事

(3)

聖護院道興筆『袖中最要抄』の翻刻と略注(四) (𠮷野) 四七 推 し て い た こ と か ら「 鹿 狩 」 を「 雁 」 に よ そ え て い る と 論 ず る が、 『 最 要 抄 』 は『 伊 勢 物 語 』 の 歌 と も 示 さ ず、 「 一 説 」 と し て 意 味 を 簡 単 に 列 挙 す る の み で あ る。 ま た 顕 昭 が「 如 何 」 と 否 定 的 に 示 す『 童 蒙 抄 』 の「田向のかり」説も並列で挙げている。最後に当該歌における地名の場所に言及するのは、出典の歌に ついての知識を増やそうという手引書的な発想からであろうか。

「さ」文字を加えないで言うか、と記す。その他表記、色について顕昭が考証する部分は全て省略する。 ま た「 一 説 」 と し て「 く ら あ さ 」 に「 さ 」 文 字 を 加 え た 言 い 方 だ、 と い う『 袖 中 抄 』 所 引 の 下 人 の 言 を、 い。 『最要抄』本文、または道興の誤写であろう。顕昭が最初に挙げる説をそのまま「一説」として挙げ、 あ り、 『 最 要 抄 』 の「 は や く お も ひ 」 と い う 訓 は『 校 本 万 葉 集 』 に も 見 え ず、 ま た『 袖 中 抄 』 諸 本 に も な 本・類聚古集訓「とかさらましを」 、西本願寺本「とかざらましを」 )」 。▼出典詠の第三句は「早生者」で ば 」、 元 暦 校 本・ 類 聚 古 集 訓「 は や く お ひ は 」) 」、 結 句「 不 解 有 申 尾( 新 訓「 と か ず あ ら ま し を 」、 元 暦 校 集 訓「 さ く ら を の 」、 西 本 願 寺 本 訓「 さ く ら あ さ の 」) 、 三 句「 早 生 者( 新 訓・ 西 本 願 寺 本 訓「 は や く お ひ [ 略 注 ]  出 典 …… 万 葉 集・ 巻 一 二・ 寄 物 陳 思・ 三 〇 四 九・ 作 者 未 詳、 初 句「 桜 麻 之 」( 新 訓・ 元 暦 校 本・ 類 聚 古 一説くらあさといふ物ありくらゝの事歟これはさも」しをくわへもせていふ歟」   一説あさの花の中にすこしうすきすはう色なるか」あるそれをさくらあさといふなり」 二十八オ」 さくらあさのおふの下草はやくおもひいもかしたひもとかさらま」しを」 112   さくらあさの事

恒集』 、『袖中抄』所引当該歌とも結句は「こぬかわひし さ 」(但し、 『躬恒集』には「わひしき」とする本

0

  [略注] 出典……拾遺集・恋二・七六八・題知らず・凡河内躬恒/躬恒集(躬恒Ⅰ) ・二四九。▼『拾遺集』 『躬 説云すさむはつねにはもてなさぬをいへとも和哥には」物をもちゐるをすさむといふ也」 おふれとも駒もすさめぬあやめ草かりにも人のこぬかわひ」しき」 113   あやめ草こ む もすさめすの事

(ママ)

(4)

四八 文 も 存 す る ) で あ る。 標 目 の「 こ む 」 は「 こ ま 」 と あ る べ き と こ ろ。 怱 卒 の 誤 写 か。 『 袖 中 抄 』 で「 不 許 容をすさむとはいふを、和歌には許容するをすさむとはいふなり」と記す部分を、 「つねにはもてなさぬ」 「 物 を も ち ゐ る 」 と 言 い 換 え て い る。 「 不 許 容 」「 許 容 」 の 語 を 用 い な い 理 由 は 不 明。 『 和 歌 色 葉 』 上 巻 や 『色葉和難集』巻十には「すさめず(ぬ) 」を「もてなさぬ(ず) 」としており、 「もてなす」の語を用いる 点で共通するが   (3) 、『最要抄』が『和歌色葉』 『色葉和難集』等を別個に見て記しているかは疑問。

い。 し て 顕 昭 が 指 摘 す る も の だ が、 「 あ ふ き 」 と 記 さ れ な い の で、 『 最 要 抄 』 の み 見 て も 何 を さ す か わ か ら な 理 由 は 述 べ ら れ な い。 も う「 一 説 」 で い う「 か ら す あ ふ と い ふ 物 の み 」 は『 袖 中 抄 』 中、 「 烏 扇 の 実 」 と 考証する「ぬ」 「む」 「う」の相違にもふれない。表記もいくつか列挙される中で二つを採用するが、その 「 む は 玉 の 夜 」 と 詠 ん で い る こ と と 矛 盾 す る が、 そ の 点『 最 要 抄 』 は 頓 着 し な い。 ま た、 顕 昭 が 粘 り 強 く る『 喜 撰 式 』 の 一 文 を そ の ま ま 採 り「 一 説 」 と す る。 こ れ で は「 説 哥 」( 本 巻 で は「 證 哥 」 と 誤 記 ) が   [略注] 出典……天徳四年内裏歌合・恋・一六番負・中務。▼『最要抄』は顕昭が考証に用い、結果的に否定す 一説からすあふといふ物のみをもうはたまといへり」   一説夜をはぬはたまといひ髪をはむはたまと云也」烏玉とかけり鵜羽玉ともかけり」 二十八ウ」 むは玉の夜の夢たにまさしくは我おもふ事を人にみせ」はや」 114   むはたまのよるの事

[ 略 注 ]  出 典 …… 後 撰 集・ 恋 五・ 九 〇 四「 男 の つ ら う な り ゆ く こ ろ、 雨 の ふ り け れ ば つ か は し け る 」・ よ み 人 し 一説しられぬものをうたかたといふ也或はうきたる物也」又は舟也」     一説水の 淡 也 〇 池たつみ也」

(ママ)(まろカ)

ふりやめはあとたに見えぬうたかたのきえてはかなき世のたの」むかな 115   うたかたの事

(5)

聖護院道興筆『袖中最要抄』の翻刻と略注(四) (𠮷野) 四九 ら ず / 古 今 六 帖・ 第 三・ 「 う た か た 」・ 一 七 二 七、 い ず れ も 結 句「 よ を

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た の む か な 」。 ▼「 一 説 」 の う ち、 「〇池たつみ也」とある部分が未詳。 『袖中抄』では「うたかた」と「にはたづみ」が同一か否か考証して おり、そこで「にはたづみ」を「雨の降るに、庭につぼのやうにまろなる物をいふ」とする。それを「 〇

(まろ)

池 」 と 記 し た か。 二 つ め の「 一 説 」 は、 『 能 因 歌 枕 』 の 説 と し て『 袖 中 抄 』 が 挙 げ て い る 部 分 の 略 記 で あ る。

す。 の「さつをとは五月に狩する人をいふといひならはしたるはひが事なり」という説を恣意的につなげて記 述べている。また「五月に… … 」以下は、顕昭の「さつをは武士に限れり」という考証と『童蒙抄』所引 つ ひ と 」 を「 武 士 と も か け り 」 と す る が、 『 袖 中 抄 』 本 文 は「 武 士 也 」 と し て お り、 表 記 で は な く 語 義 を も「 は る さ り く れ は 」 だ が、 出 典 の 原 文 表 記 か ら 考 え て 明 ら か な 誤 り。 『 最 要 抄 』 は「 説 云 」 と し て「 さ 訓・ 西 本 願 寺 本 訓「 さ つ ひ と の 」・ 類 聚 古 集 訓・ 元 暦 校 本 訓「 さ と ひ と の 」) 。 ▼ 第 二 句 は『 袖 中 抄 』 本 文 「ゆふさりくれば」 、類聚古集訓「ゆふさりくれは」 、元暦校本「ゆふさりくれに」 )、三句「佐豆人之」 (新   [略注] 出典……万葉集・巻一〇・春雑歌・一八一六・柿本人麻呂歌集、二句「夕去来者(新訓・西本願寺本訓 五月にかりする人をさつをと云はひか事也さつをは武士にかき」れり」 ゆつきかたけと号す」   説云薩人とも武士ともかけり」ゆつきかたけとは雄略天皇此峯に御弓をつき給より」 二十九オ」 かけろふのはるさりくれはさつ人のゆつきかたけに霞たなひ」く」 116   さつ人のゆつきかたけの事

説云田おさとは田つくる物の事也又はほとゝきすともいふ」 いくはくの田をつくれはか時鳥しての田をさをあさな〳〵よふ」 117   してのたをさの事

(6)

五〇

[ 略 注 ]  出 典 …… 古 今 集・ 巻 一 九・ 雑 体・ 一 〇 一 三・ 藤 原 敏 行。 ▼ 顕 昭 が 主 張 す る「 し づ の た を さ 」 説 は 採 ら ず、 「田をさ」の語義のみを挙げる。顕昭が筆を費やす「しで」については触れず。

浪」からの「小さく、小さき波」の説明を採る。 抄』 がはじめに述べる国名説を挙げ、 その後の由来、 例歌の説明をすべて省略、 「日本紀」 での表記 「狭々 引の当該歌は「さちあれど」 。「雖」とあるので逆接でありたいところ。 「と」 「て」の誤写か。まず『袖中 「さちはあれと」 )。▼『最要抄』ではいわゆる「説哥」の第三句を「さちあれて」とするが、 『袖中抄』所 本 訓「 さ さ な み の 」) 、 第 三 句「 雖 幸 有( 新 訓・ 西 本 願 寺 本 訓・ 元 暦 校 本 訓「 さ き く あ れ ど 」、 類 聚 古 集 訓   [略注] 出典……万葉集・巻一・三〇・柿本人麻呂、初句「楽浪之(新訓・西本願寺本訓・類聚古集訓・元暦校   一説近江国の名也 一説ちいさき浪也」 さゝ浪やしかのからさきさちあれておほみや人のふねまちかねつ」 118   さゝなみやの事   第十二〈説哥十首〉

『奥義抄』で「心えず」とされる説であり、顕昭も受け入れていないが、 『最要抄』では併記している。 試 み、 さ ま ざ ま な 書 物 の 説 を 挙 げ る が、 『 最 要 抄 』 は 結 論 の み を 挙 げ る。 「 神 か 瀬 」 説 は、 『 袖 中 抄 』 所 引 抄 』「 か み か ぜ や 」) 。 ▼ 顕 昭 は「 神 風 」 を「 神 の お ほ む め ぐ み 」 と す る 理 由 が 釈 然 と し な い と し て 考 証 を   [略注] 出典……万葉集・巻四・五〇〇・碁檀越妻、初句「神風之(新訓・西本願寺本訓「かみかぜの」 、『袖中 一説みもすそ川に神か瀬と云瀬あり是を云と 云 々 」 一説神のめく□□[みの カ ]事也」 神かせや伊勢のはま荻おりふせて旅ねやすらんあらき浜へ」に」 119     かみかせやの事 二十九ウ」

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聖護院道興筆『袖中最要抄』の翻刻と略注(四) (𠮷野) 五一

『奥義抄』の説、同『和語抄』 (佚書)の説。説に軽重はつけない。 判 読 不 能 で あ っ た。 併 記 さ れ る 説 は、 ま ず『 袖 中 抄 』 で は じ め に 挙 げ ら れ る 説、 つ い で『 袖 中 抄 』 所 引 消 の よ う な 文 字 の 不 鮮 明 な 箇 所 も あ る。 □ 部 分 は、 激 し い 虫 損 と 何 ら か の 理 由 に よ り 字 が 不 鮮 明 な た め、 故意か不注意かは不明だが一丁分摺消の跡がある(五十七丁オ) 。また全体に虫損も多いが(補修済) 、摺 こ ぎ づ る 」、 類 聚 古 集 訓・ 元 暦 校 本 訓「 ほ り え こ き つ る 」、 『 袖 中 抄 』「 ほ り え こ き い つ る 」) 。 ▼ 本 書 に は、   [略注] 出典……万葉集・巻二〇・四三三六・大伴家持、二句「保理江己芸豆流(新訓・西本願寺本訓「ほりえ 一説又かち一ろ四□□□舩也」 一説十人にてこ□[く カ ]舩□□[とも カ ]云也」 一説伊豆の手舟と□[も カ ]□□[せ カ ]□□伊豆国よりつくり出せり」 さきもりのほりえこき□□[たつ カ ]るいつて舩かちとるまなく恋はしけ」けん」 120   いつて舩の事 が、 『最要抄』は結論のみ。 菅 原 伏 見 と は 違 う こ と を 例 歌 を 出 し て 説 明 し、 そ の 詠 み 方 や 他 の 地 名「 伏 見 の 田 居 」 な ど の 検 討 に 及 ぶ   [略注] 出典……古今集・雑下・九八一・よみ人しらず。▼『袖中抄』では山城国の地名である伏見と大和国の 説云大和国の名所也」   いさこゝに我世はへなんすかはらやふしみのさとのあれまくもお」し」 三十オ」 121   すかはらやふしみの事

一説川のあまりにはやくて舟のかしらをふる程にいな舟と云也もかみ」川は出雲国と云説也」 一説いねつみたる舩なり」 もかみ川のほれはくたるいな舩のいなにはあらす此月はかり」 122   いなふねの事

(8)

五二

[略注]   出典……古今集・巻二〇・東歌・陸奥歌・一〇九二。▼まず顕昭が最初に定義づける説を挙げるが、最 上 川 が 出 羽 国 に あ る こ と に ふ れ ず、 そ の ま ま『 俊 頼 髄 脳 』 の 出 雲 国 説 を 挙 げ る た め、 『 最 要 抄 』 の み を 見 ると出羽国が正しい地であることはわからない。また、二つめの説の「川のあまりにはやくて」という表 現は『袖中抄』所引の『俊頼髄脳』 (『袖中抄』では『無名抄』として引用)には見えず、あるいは他に参 看した書物があったかとも考えられる。また所引『童蒙抄』や『俊頼髄脳』に見えるような、舟が頭を振 るのは川を のぼる

000

時だという細かい説明は省略されている。

説云やり水の事也泉の尻なとよりなかるゝ川を云 あふみちのとこの山なるいさや川気のころ 〳〵 は恋つゝもあかし」 123   いさやかはの 事

  (歟 カ )」 [略注]   出典……万葉集・巻四・相聞・四八七・岡本天皇。結句「恋乍裳将有(新訓・西本願寺本訓「こひつつ もあらむ) 」。 『袖中抄』所引万葉歌も「こひつゝもあらむ」 。▼『最要抄』結句は独自異文。原文から考え ても誤写であろう。 『袖中抄』がはじめに示す地名説は挙げず、所引『和語抄』の説のみを挙げている。

は所引『俊頼髄脳』の説をまとめたもの。   本 高 松 宮 本 は じ め「 し が み 」 と す る 本 が 多 い 。『 袖 中 抄 』 が は じ め に 挙 げ る 説 を ま ず 記 す 。 併 記 す る 説 ( 4 )   [略注] 出典……拾遺集・雑秋・一一二〇・よみ人しらず、三句「しげみさえだ」 。▼三句は、 『袖中抄』でも底 一説承和の菊とも云也一本菊を承和の菊と云也」 一説黄菊の事也」 かのみゆる池辺にたてるそかきくのしかみさへたのいろのてこらさ」 124     そかきくの事 三十ウ」

野へみれは三月の月の廿日まてまたうらわかきさいたつまかな」 125   さいたつまの事

(9)

聖護院道興筆『袖中最要抄』の翻刻と略注(四) (𠮷野) 五三 説云草の名也若草也うらとはすゑ也」 [ 略 注 ]  出 典 …… 後 拾 遺 集・ 春 下・ 一 四 九・ 詞 書「 三 月 ば か り 野 草 を よ み 侍 け る 」・ 藤 原 義 孝。 ▼『 袖 中 抄 』 が は じ め に 挙 げ る 説、 つ い で 顕 昭 が「 今 案 」 と し て 述 べ る 若 草 説 を 示 し、 「 う ら 」 に つ い て も「 末 」 と す る 顕昭の説を示す。

かのように「尾」と書いている。 で は な く「 雄 」 を 意 味 し て い る こ と を 例 歌 を 出 し て 考 証 し て い る が、 『 最 要 抄 』 は 顕 昭 の 主 張 を 無 視 す る はつをといふべし」の部分を言い換えたものか。もっとも、顕昭は「はつを」は「はつ乎」と書き、 「尾」 す る。 ま た「 め と り の な き 尾 を は つ お と 云 な り 」 の 説 は、 顕 昭 の 考 証 部 分 に 記 さ れ る、 「 一 人 あ る 雄 鳥 を   [略注] 出典……万葉集・巻一四・相聞・三四六八・作者未詳。▼『袖中抄』がはじめに挙げる二説をまず略記 一説めとりのなき尾をはつおと云なり」   る事有也」 三十一オ」 一説山鳥は鏡にかけのうつれるをみて舞と也一説山鳥山の」尾をへたてゝぬれは雄の尾に鏡ありて雌のかけかうつ 山鳥のおろのはつおにかゝみかけとなふへみこそなによそりけ」め」 126   おろのはつおにかゝみかけの事

は そ の 三 島 の こ と の み を 記 す。 三 島 の 名 の う ち「 み る を 嶋 」 と あ る の は、 『 袖 中 抄 』 で は「 み な を 嶋 」 で の説を挙げ、ついで自説として明石沖にくらかけ、ふたご、みなをの三島があることを述べる。 『最要抄』 ま ず 公 任 が こ の 歌 を 三 年 間 不 審 と し て い た こ と、 そ れ が 明 石 浦 に 島 が な い こ と に よ る の だ と い う「 或 人 」 [ 略 注 ]  出 典 …… 古 今 集・ 羇 旅・ 四 〇 九・ よ み 人 し ら ず、 「 柿 本 人 麿 が 歌 な り 」 と の 左 注 あ り。 ▼『 袖 中 抄 』 は 説云明石の浦には嶋三ありくらかけ嶋ふたこ嶋みるを嶋」 ほの〳〵とあかしのうらの朝霧に嶋かくれゆく舟をしそ思ふ」 127   あかしのうらのしまの事

(10)

五四 ある   ( 5 ) 。「火急」 (奥書)ゆえの誤写か。

はじめに挙げる説、また顕昭が「俗説」とする「ひゝきのなた」を記す。 かも」 、元暦校本訓「けふみつるかも」 )。▼『最要抄』の「伊保魚」は「伊佐魚」の誤写か。 『袖中抄』で 訓・元暦校本訓「いさことる」 )、結句「今日見都流香母(新訓・西本願寺本訓・類聚古集訓「けふみつる   [略注] 出典……万葉集・巻一七・三八九三、三句「伊佐魚取」 (新訓・西本願寺本訓「いさなとり」 、類聚古集 説云播州の名所なり或はひゝきのなたとも云 昨日こそ舟出はせしか伊保魚とり比治奇のなたを今日みつる」哉」 128   ひちきのなたの事   第十三〈説哥廿五首/證哥三首〉

違いとも言えよう。 ひ る め の 歌 と い ふ 」 説 に 疑 問 を 抱 い て お り、 『 最 要 抄 』 が そ の 考 証 の 一 部 を 教 長 説 に 入 れ 説 明 す る の は 筋 説に、顕昭が考証の際に用いた「八女」の語を混ぜたような一文。ただし、顕昭は教長の「よねひる歌を の み を 挙 げ る。 も う「 一 説 」 は、 『 袖 中 抄 』 で「 教 長 卿 云 」 と し て 大 嘗 会 に 米 を 簸 る 時 女 が 謡 う 歌 と す る

るめの歌、神楽歌の末の歌を挙げて考証した後、 「ひるめの神は日神なり」とする。 『最要抄』は結論部分     志 波 志 止 止 女 牟 志 波 志 止 止 女 牟 」 。 ▼ 『 袖 中 抄 』 で は ま ず 出 典 が 神 楽 歌 で あ る こ と 、『 古 今 集 』 の ひ ( 6 )         [ 略 注 ]  出 典 …… 神 楽 歌・ 日 霊 女 歌 ・ 本・ 七 三「 伊 加 波 加 利 与 支 和 佐 志 天 加 阿 万 天 留 也 比 留 女 乃 加 見 乎

一説此哥は大嘗会に米をひるとて八乙女のうたふ哥也」 一説日神也」   いか計よきわさしてかあまてるやひるめの神をしはしとゝめん」 三十一ウ」 129   ひるめの神の事

(11)

聖護院道興筆『袖中最要抄』の翻刻と略注(四) (𠮷野) 五五

さいはりに衣はそめん雨ふれとうつろひかたしふかくそめては」 130   さいはりの事   此哥は神楽の哥也」 一説初萩也」 いかほろのそひのはりわら我衣につきよらしめよたへと思へは」 はりわらは萩原也はきとは針とも書也」 [ 略 注 ]  「 説 哥 」 出 典 …… 拾 遺 集・ 巻 一 〇・ 神 楽 歌・ 五 八 五。 神 楽 歌・ 大 前 張・ 前 張 本 末・ 三 八 /「 證 哥 」 出 典 ……万葉集・巻一四・防人歌・譬喩歌・三四三五、二句「蘇比乃波里波良(新訓・西本願寺本訓・類聚古 集 訓・ 元 暦 校 本 訓「 そ ひ の は り は ら 」、 四 句「 都 伎 与 良 之 母 与( 新 訓・ 西 本 願 寺 本 訓・ 元 暦 校 本 訓「 つ き よ ら し も よ 」、 類 聚 古 集 訓「 つ き よ ら し め よ 」) 、 結 句「 比 多 敝 登 於 毛 敝 婆( 新 訓・ 西 本 願 寺 本 訓・ 類 聚 古 集 訓・ 元 暦 校 本「 ひ た へ と お も へ ば 」) 。『 袖 中 抄 』 所 引、 結 句「 た へ と お も へ は 」   ( 7 ) 。 ▼ 『 袖 中 抄 』 で は じめに書かれる「神楽の 前

さい

歌」により「神楽の哥」とするが、同様の

一〇・一九六五)を勘案し、 「針」と「はぎ」を同韻相通で互換可能と見ての言か。 抄』で「此二首同心なり」と挙げる万葉歌の「しまの針原」 (巻七・一二六〇)と「しまのはぎはら」 (巻 説 は 見 え な い 」( 歌 論 歌 学 集 成 頭 注 ) た め、 ど こ か ら こ の 説 明 が 来 て い る の か は 不 明。 あ る い は、 『 袖 中 と も 書 也 」 と の 文 言 は、 現 存 の『 袖 中 抄 』 に は 見 え な い。 「 さ い は り 」 の 語 に つ い て は「 他 の 歌 学 書 に 所 欠 け る。 「 初 萩 」 説 は 顕 昭 の 説。 「 證 哥 」 の 後 に 挙 げ る「 は り わ ら は ……」 も 顕 昭 の 説 だ が、 「 は き と は 針 129 では引用しておらず、一貫性に

は近辺なるに」よりて也」古今の説もかくのことし」 いそのかみふりとも云也川にあらひ た 布に剱のなかれとゝまり」けるゆへに布流とは云也いそのかみならとつくる

(ママ)

  磯上ふるの中みちなか〳〵に見すは恋しとおもはましや」は」 三十二オ」 131   いそのかみの事

(12)

五六

[略注]   出典……古今集・恋四・六七九・題知らず・紀貫之。▼顕昭はまず「いそのかみふる」と続くのは、大 和国の「石上」に「布留の社」という神社があるからだとする説を挙げるが、ここではその説に触れるこ と は な い。 ま た、 顕 昭 が 挙 げ る 布 と 剱 の 話 を 引 く が、 「 洗 ひ て 立 て る 」 布 を「 あ ら ひ た 布 」 と 記 し   (8) 、 「布留」とすべきところを「布流」と書くなど、内容を理解していたとは考えにくい誤写が見える。また、 「 い そ の か み な ら

00

」 と 続 く 歌( 後 撰 集・ 雑 一・ 一 一 一 三・ 大 輔 )   (9) が あ る こ と に つ い て 、 顕 昭 は 、「 な ら の 都( 平 城 京 )」 と 石 上 は 遠 い こ と、 素 性 法 師 の 古 今 集 詠 に「 い そ の か み ふ る き 都 」 と 詠 む 歌 が あ る こ と か ら、 こ の「 ふ る き 都 」 は 平 城 京 で は な く 石 上 穴 穂 宮 や 石 上 広 高 宮 を 言 う の で あ り、 「 な ら の 都 」 と い う 言 い 方 も、 い わ ゆ る 平 城 京 よ り 広 範 囲 を さ し て い る の だ ろ う と 考 証 す る。 が、 『 最 要 抄 』 は 単 に「 近 辺 な る によりて」とするのみ。

考証する催馬楽「我家」での訓について挙げる。 ておもへや」 )。▼『最要抄』所引の「説哥」結句は誤写か。顕昭がまず述べる説をそのまま掲げ、顕昭が 本願寺本訓・類聚古集訓「わすれておもへや」 、元暦校本「わすれておもへは」 )。 『袖中抄』所引「わすれ 「たるひめの」 、類聚古集訓「たもひめの( 「も」を消し「ル」傍書) 、結句「和須礼氐於毛倍也(新訓・西   [略注] 出典……万葉集・巻一八・四〇四八・大伴家持、初句「多流比女能(新訓・西本願寺本訓・元暦校本訓 とかめけりおかしき事と」かける」 催 馬 楽 に 吾 家 □( 虫 損 )[ と カ ] 云 歌 を わ い へ ん と 云 也 顕 昭 は 近 歌 に わ い 」 へ ん を わ か い ゑ と し け れ は 同 事 也 人 の 説云奈良の我家と云也」 たるひめの浦をこく舟かちまにもならのわきへをわすれて思へ」な」 132   ならのわきへの事

  すみのえの小集楽をいてゝうつゝにもをのかめすゑを鏡とみつも」 三十二ウ 」 133   すみのえのをへうひの事

(13)

聖護院道興筆『袖中最要抄』の翻刻と略注(四) (𠮷野) 五七 説云住吉の濱にて年ことにあそふ事也其をいふ也」 [ 略 注 ]  出 典 …… 万 葉 集・ 巻 一 六・ 有 由 縁 并 雑 歌・ 三 八 〇 八、 二 句「 小 集 楽 尓 出 而( 新 訓「 を づ め に い で て 」、 西本願寺本訓「をづめ〈をはら〉にいでて」 、類聚古集訓「をつめらにいてし」 、元暦校本訓「をつめにい てゝ」 )、四句「己妻尚乎(新訓「おのづますらを」 、類聚古集訓「をのかめすらを」 、西本願寺本訓・元暦 校 本 訓「 さ か つ ま す ら を 」) 。『 袖 中 抄 』 所 引、 二 句「 小 集 楽 に い で て 」、 四 句「 お の が め す ら を 」。 ▼『 最 要 抄 』 は 標 目 で「 す み の え の を へ う

0

ひ 」 と す る が、 『 袖 中 抄 』 の 標 目 は「 を へ ら ひ 」。 誤 写 で あ ろ う。 ま た、 底 本 で は 所 引 万 葉 歌 に「 ヲ ヘ ラ 」「 ヲ ツ メ ラ 」 と の 傍 訓 が 付 さ れ て い る が『 最 要 抄 』 に は な く、 ま た 挙 げ て あ る 説 に も 訓 み が 示 さ れ な い の で、 該 本 で は「 小 集 楽 」 を「 を へ う ひ 」 と 読 む こ と に な っ て し ま う。また四句部分の「めすゑ」も『袖中抄』で「めすら」となっており、誤写と考えられる。顕昭がはじ めに挙げる説を要約して示している。 『袖中抄』では、当該万葉歌の左注についての説明が続く。

  る が ( る 箇 所 を 引 く。 「 証 哥 」 と し て 挙 げ ら れ る「 秋 の 野 に 」 は『 万 葉 集 』 巻 八・ 一 五 三 七 の 山 上 憶 良 の 歌 で あ は抜かし、 「葦の穂」も「おばな( 『最要抄』では「小花」 )」と詠むことを馬の葦毛との関連で説明してい   [略注] 出典……万葉集・巻八・秋雑歌・一五三八。▼『袖中抄』ではじめに挙げる最も一般的な「薄の穂」説 秋の野にさきたる花を手におりてかきかそふれはなゝ草の」花」 説云葦の穂の出たるをも小花と云也馬の毛をおはなあし」けと云もこのゆへなり」 萩か花おはなくす花なてしこの花をみなへし又藤はかま」あさかほの花」 134   おはなくす花の事

くなっている。 10 、 こ の 歌 を 挙 げ て も「 葦 の 穂 」 説 を 証 す る わ け で は な い の で、 何 の た め の「 証 哥 」 か 判 然 と し な )

わひしらにましらなゝきそ足曳の山のかひあるけふにやはあら」ぬ」 135   ましらの事

(14)

五八 説云猿也申をましらとよめは也日よみのさる也さるの一名をたか」と」云日吉にたかの御子と云社あり又一名いそ のたちはきと云」 匡房卿説也」   三十三オ」 [ 略 注 ]  出 典 …… 古 今 集・ 巻 一 九・ 雑 体・ 一 〇 六 七・ 凡 河 内 躬 恒。 『 袖 中 抄 』 所 引 二 句 底 本「 ま し こ な 鳴 き そ 」。 多くの『古今集』伝本は「ましらななきそ」   (

  11 。『袖中抄』の伝本では「ましこ」となっている ) (

引用する。 ふ 詞 に つ か へ り 」 と あ る と こ ろ を、 「 申 を ま し ら と よ め ば 」 と し て い る。 異 名 は『 袖 中 抄 』 の 説 明 を ほ ぼ ▼『袖中抄』の 標 目は「ましこ」 。顕昭がはじめに挙げる説を挙げるが、 「万葉集に申の字を書てましとい   12 。 )

が、 『最要抄』は説を並列するのみ。 抄』の「薄やうのやうにてある皮」説を挙げる。顕昭は「薄やう」説を否定し、竹の例を出して論証する   [略注] 出典……後撰集・恋二・六二五・藤原兼輔。▼『袖中抄』に従い、まず顕昭の説を挙げ、ついで『奥義 説云葦の管也又はあしの中のうすやう也」 難波かたかりつむあしの蘆つゝの一重も君も我やへたつる」 136   あしつゝの事

[略注] いつくの社にも川あらはみたらしとよむへきなり」 春日のゝ松しかれすはみたらしの川のなかれてたえしとそ思ふ」 説云神の御前の □ [川 カ ]也御手洗川也 御 洗 川春日の社にもあり」

(虫損)

恋せしとみたらし川にせしみそき神はうけすも成にけるかな 137   みたらし川の事

  「説哥」出典……古今集・恋一・五〇一・よみ人しらず・題知らず、結句「なりにけらしも」

。『袖中抄』 所引結句も「なりにけらしも」 。『伊勢物語』第六五段「なりにけるかな」/「證哥」出典……延喜二十一 年(九二一)三月京極御息所褒子歌合・二七、四句「みづもながれて」 (十巻本) 、「みづのながれて」 (廿

(15)

聖護院道興筆『袖中最要抄』の翻刻と略注(四) (𠮷野) 五九 巻 本 )。 『 袖 中 抄 』 所 引 和 歌 は 四 句「 河 の 流 れ て 」。 ▼『 袖 中 抄 』 に ほ ぼ 従 う が、 同 書 で「 証 哥 」 を 春 日・ 賀茂の二例挙げるところ、春日の一例のみとする。

  [ 略 注 ]  出 典 …… 万 葉 集・ 巻 一 八・ 四 〇 八 二・ 大 伴 家 持、 二 句「 比 奈 能 都 夜 故 尓( 新 訓「 ひ な の や つ こ に 」 ( 説云ゐ中にても京のおなし空といふ也」 あまさかるひなの都にあめひとしかく恋すらはいけるしるしあれ」 138     ひなのみやこの事 三十三ウ」

る。 分を断定的に挙げるのみ。なお、新訓では「ひなのやつこ」となるため、標目自体が成立しないこととな 即して「ひな」の説明から始めるが、 『最要抄』は全て省略し、 「ひなの空と都の空と同とよめる歟」の部 集・ 元 暦 校 本「 い け る し る し あ り 」) 。『 袖 中 抄 』 所 引「 い け る し る し あ り 」) 。 ▼『 袖 中 抄 』 で は 家 持 詠 に 西 本 願 寺 本 訓・ 類 聚 古 集 訓・ 元 暦 校 本 訓「 ひ な の み や こ に 」) 、 結 句「 伊 家 流 思 留 事 安 里( 新 訓・ 類 聚 古 13 、 )

検証し、否定してはいない。 「葦の柴」ではなく「葦の茎」である。誤写か。また、最後に「不受」とあるが、 『袖中抄』ではこの説を 体 が 成 立 し な く な る。 挙 げ て い る の は『 袖 中 抄 』 で「 十 郎 蔵 人 行 家 」 の 述 べ た 説 と し て 記 す も の だ が、 る。 「 に ほ 鳥 」 と す る 点 は『 古 今 六 帖 』 本 文 と 同 じ だ が、 そ の 場 合「 巣 」 と い う 単 語 が な い た め、 標 目 自 巣 の 」、 四 句「 浮 き み 沈 み ゝ」 。 ▼『 最 要 抄 』 の「 説 哥 」 の 三 句 目 は、 『 袖 中 抄 』 所 引 和 歌 と は 異 な っ て い   [略注] 出典……古今和歌六帖・第三・にほ・一五〇二、四句「うきにしづみて」 。『袖中抄』所引三句「にほの 一説にほのすはなかれゆくとも云又は葦の柴につきてうきし」つみてなかれぬなりとも云不受」 逢事のなきさによするにほ鳥のうきにしつみゝ物をこそ思へ」 139   にほのうきすの事

(16)

六〇

「田づら」と記している。 穂」が異なることを説くが、 『最要抄』はその点は考慮しない。また、 「田づく」であるべきところを全て 説 を 混 ぜ て 書 い た も の。 顕 昭 は、 「 田 づ ら 」 と「 田 づ く 」 が 異 な る こ と は も と よ り、 「 田 づ く 」 と「 か ま 上の明兼が申しけるは」として示される「田づ く 」の説、及びそれに対して顕昭が「私云」として挙げる

0

[ 略 注 ]  出 典 …… 伊 勢 物 語・ 第 五 八 段。 ▼ ま ず 顕 昭 の 説 を 挙 げ る。 次 い で 挙 げ る「 一 説 」 は、 『 袖 中 抄 』 に「 坂   田つらと云也又かま穂とも云いねをかりたるかまのちん也」   一説田つらといひて人にやとはれて稲をかりて其ちんにとるいねを」は」 三十四オ」 一説田のほとりの事也」 うちわひておちほひろふときかませは我もたつらにゆかまし物を」 140   たつらの事 説云年始に祭なとに庭つみとてにはに薪をつむ也其を」たのしきをつめとよせて云也」 あたらしきとしのはしめにかくしこそち[と脱 カ ]せをかねてたのしきをつめ 141   たのしきをつめの事

  神今食新嘗会なとにもありちとせをつめといはふ也」 [略注」   出典……古今集・巻二〇・大歌所御歌・おほなほびのうた・一〇六九。▼『最要抄』の筆跡では「ちと せ 」 の「 と 」 が ほ と ん ど 記 さ れ て い な い が、 「 と 」 が あ る と 見 な す べ き な の で あ ろ う。 説 は「 教 長 卿 云 」 として『袖中抄』に挙げられる説に、顕昭の「年始」説を合わせて記したもの。ただし顕昭は祝意を薪に 寄せて「積め」と詠むのを「いか ゞ 」とする。

説云椎木のちいさき枝也」   おそはやもなをこそまためむかつおのしゐのこやてのあひはたか」はし 142   しひのこやての事

(17)

聖護院道興筆『袖中最要抄』の翻刻と略注(四) (𠮷野) 六一 [ 略 注 ]  出 典 …… 万 葉 集・ 巻 一 四・ 相 聞・ 三 四 九 三。 三 句「 牟 可 都 乎 能( 新 訓・ 西 本 願 寺 本 訓「 む か つ を の 」) 、 四 句「 四 比 乃 故 夜 提 能( 新 訓・ 西 本 願 寺 本 訓「 し ひ の こ や て 」) 。 ▼ 顕 昭 の 述 べ る 語 義 の み を 記 す。 『 袖 中 抄』ではその他の語義説明や「こやで」と「こえだ」の五音相通、 『万葉集』の異本歌に言及している。

の記述を参考にしながら「にきたつ」と読むべきかとする。 校 本 訓「 い ま は こ き こ な 」、 類 聚 古 集 訓「 い ま は こ け こ な 」) 。 ▼ 顕 昭 の 説 を ま と め る。 顕 昭 は「 日 本 紀 」 訓・ 元 暦 校 本 訓「 な り た つ に 」) 、 結 句「 今 者 許 芸 乞 菜( 新 訓「 い ま は こ ぎ い で な 」、 西 本 願 寺 本 訓・ 元 暦 [ 略 注 ]  出 典 …… 万 葉 集・ 巻 一・ 八・ 額 田 王、 初 句「 熟 田 津 尓( 新 訓・ 西 本 願 寺 本 訓「 に き た つ に 」、 類 聚 古 集 説云熟田津とかけり伊与国にある所名 □ 也」

(云カ)

なりたつに舩のりせむと月まてはしほもかなひぬ今はこきこな」 143     なりたつの事 三十四ウ」

  ゑに」 ( に 」) 、 結 句「 安 礼 乎 良 米 也 母( 新 訓・ 西 本 願 寺 本 訓「 あ れ を ら め や も 」) 。『 袖 中 抄 』 所 引、 初 句「 お も ふ [ 略 注 ]  出 典 …… 万 葉 集・ 巻 一 五・ 三 七 三 一・ 中 臣 宅 守、 初 句「 於 毛 布 恵 尓( 新 訓・ 西 本 願 寺 本 訓「 お も ふ ゑ     一説しはしと云詞也 一説嶋の心也 一説千鳥なりと云」 思ふへにあふ物ならはしましくもいもかめかれてあれゐらめや □ 」

[文字欠]

144   しまし へ もの事

(ママ)

鳥 鳴 く な り し ま ゝ ち か ね て 」( 巻 三・ 二 六 八・ 長 屋 王 ) を 挙 げ、 結 句 が「 し ば し 待 ち か ね て 」 の 意 で あ る 四)をもとに述べる嶋説を挙げるが、三番目の「千鳥」説は『袖中抄』を曲解したか。顕昭は万葉歌「千 が は じ め に 挙 げ る 説 を 最 初 に、 次 に 他 の 万 葉 歌「 つ く し 路 の か だ の お ほ 嶋 し ま し く も 」( 巻 一 五・ 三 六 三 い ま の 体 裁 に 整 え る と き に 料 紙 を 切 断、 擦 れ て 消 え た か。 『 最 要 抄 』 は 三 つ の 説 を 並 列 し て 挙 げ る。 顕 昭 「も」と書かれていたことが推察される。当該の丁は料紙の下一文字の半分もしくは一字分が消えている。 14 、 結句 「あれをらめやも」 )。 ▼ 『最要抄』 の 「説哥」 末尾は一字欠。 「や 「屋」 」 に続く筆が見え、 )

(18)

六二

説明をしているのみである。また『最要抄』は標目「しましくも」とあるべきところを誤写している。

  [ 略 注 ]  出 典 …… 伊 勢 物 語・ 第 六 三 段、 結 句「 お も か げ に み ゆ 」 ( 一説九十くもと云事によせて云也」   一説近江国つくまの神也」 三十五オ」 一説海の藻につくもと云草あり江浦草とかけりわろき」髪にそへたる也」     百とせに一とせたらぬつくもかみ我をこふらし面かけにたつ」 145   つくもかみの事

  と せ に 」 詠 の 結 句 は『 伊 勢 物 語 』 諸 本 に よ り「 み ゆ 」「 た つ 」 と 揺 れ が あ る ( 15 。『 袖 中 抄 』 所 引「 お も か げ に み ゆ 」。 ▼「 百 )

  い た こ と が わ か る ( 釈類では、この歌を「立つ」の本文で引くものも多く(手習巻) 、「立つ」がある程度本文として流通して 16 。 ま た『 源 氏 物 語 』 の 古 注 )

要抄』の筆写態度はやはり問題である。 外は語義の説明として挙げられているわけでもなく、むしろ批判されるものであり、それを列挙する『最 い う 蜘 蛛 の こ と と 思 わ れ る が、 こ れ は「 今 云 」 と し て 顕 昭 が 批 判 し て い る 説。 『 袖 中 抄 』 で は 最 初 の 説 以 中 で の「 つ く も 神 」 の 説 明 と し て 出 て 来 る も の、 三 番 目 は「 古 物 語 」 に 出 て 来 る「 九 十 九( つ く も )」 と 三 つ の 説 の う ち、 最 初 の 説 は『 袖 中 抄 』 で 最 初 に 挙 げ る 顕 昭 の 説 を ま と め た も の、 二 番 目 は「 奥 義 抄 云 」 17 。 こ の 場 合 は『 最 要 抄 』 の 単 な る 誤 写 で は な い で あ ろ う。 『 最 要 抄 』 が 併 記 し て い く )

[ 略 注 ]  「 説 哥 」 出 典 …… 伊 勢 物 語・ 一 二 二 段、 結 句「 な き 世 な り け り 」。 『 袖 中 抄 』 所 引 結 句「 な き 世 な り け 大和物語に小女のみめのよきをみてゐてにて帯を人」のとりかへたる事のあるなりその事也」 ときかへしゐてのしたおひゆきめくりあふ瀬うれしき玉川の水」 説云山しろの名所也たのみしと云はてにてのむと云也」 山しろのゐてのたま水手にくみてたのみしかひもなき身成けり 146   いての玉水の事

(19)

聖護院道興筆『袖中最要抄』の翻刻と略注(四) (𠮷野) 六三 り」/「證哥」出典……長秋詠藻・五一〇。▼『最要抄』の「説哥」の結句「なき身成けり」は『伊勢物 語 』 諸 本 に も『 袖 中 抄 』 諸 本 に も 見 え な い 独 自 異 文   (

て挙げた後、 『大和物語』を簡略に示す。 に挙げられる『伊勢物語』や『大和物語』の概要をすべて省略、俊成の「ときかへし」詠を「證哥」とし 18 。 誤 写 か。 ま ず 顕 昭 の 語 義 説 明 を 摘 記、 『 袖 中 抄 』 )

  る表現でもあり、 またその後の 「ほたるをとほし ( 中抄』所引二句「限りなるべみ」 、三句「ともし消ち」 。▼「説哥」の第三句「年へける」は四句と重複す   [略注] 出典……伊勢物語・第三九段、二句「限りなるべみ」 、三句「ともし消ち」 、四句「年へぬるかと」 。『袖 た る 車ありそれによせてよめる哥也年へなぬかとは年へてなかく」なるといふ也」

  説云たかひこをさうそうの夜車のうちにほたるをとほしたる」 三十五ウ 」 いてゝいなはかきりなるへに年へけるとしへなぬかとなくこゑを」きけ」 147   としへなぬかの事

「説哥」三句の「年へける」に引かれて独自に解釈したか。 「としへぬなかと」という別の本文を検討している。この語は他の歌学書類にも所説がなく、 『最要抄』は の 語 義 説 明 は『 袖 中 抄 』 に 見 え ず 不 審。 顕 昭 自 身 は こ の 語 を「 心 得 に く し 」 と し て、 他 本 に あ る と い う し『最要抄』の説明だけでは簡略すぎて歌に至る状況がわからない。 『最要抄』に記される「年へなぬか」 究 』 に よ る )。 『 袖 中 抄 』 で の『 伊 勢 物 語 』 当 該 章 段 を 挙 げ て の 歌 の 説 明 を、 ご く 簡 略 に し て 挙 げ る。 た だ に 続 く「 た か ひ こ 」 は『 袖 中 抄 』 諸 本 で は「 た か き こ 」「 た か い こ 」 と 表 記 に ば ら つ き が あ る( 『 校 本 と 研 19 ……」 の説明とも齟齬するので誤写であろう。 「説云」 )

[ 略 注 ]  出 典 …… 万 葉 集・ 巻 三・ 二 六 六・ 柿 本 人 麻 呂、 四 句「 情 毛 思 努 尓( 新 訓・ 西 本 願 寺 本 訓・ 元 暦 校 本 訓 説云しのふといふ心也慕也又は心しつかなりともいふ」 あふみの海夕なみちとりなかなけは心もしぬにいにしへおもほゆ」 148   こゝろもしぬにの事

(20)

六四

「こころもしのに」 、類聚古集訓「こころもしぬに」 )。 『袖中抄』所引四句「心も 思

に」 。▼まず顕昭が挙 げる説を記す。 「又は」以下に記すのは「万葉抄」 (未詳)の記述として『袖中抄』で挙げられる説。

を挙げる。 『袖中抄』同項目には他説がなく、顕昭も証歌と単に「おしなみ」と詠む歌とを挙げるのみ。 本訓「こひつつあらずは」 )。▼『最要抄』所引「説哥」の結句は「あらすは」の誤写であろう。顕昭の説 ま し 」、 元 暦 校 本 訓「 き え か も し ま せ 」) 、 結 句「 恋 乍 不 有 者( 新 訓・ 西 本 願 寺 本 訓・ 類 聚 古 集 訓・ 元 暦 校 類聚古集訓・元暦校本訓「しのにおしなみ」 )、四句「消可毛思奈万思(新訓・西本願寺本訓「けかもしな   [略注] 出典……万葉集・巻一〇・秋相聞・二二五六・作者未詳、二句「之努尓押靡(新訓「しのにおしなべ」 、 説云しけくおしなひかすと云也 秋の穂をしのにおしなみをく露のけかもしなましこひつゝ」あらは 149   しのにおしなみの事 を挙げる。 『袖中抄』同項目にも他説なく、顕昭は「之努努」の詠み方を検討している。 のやまゆ」 、類聚古集訓「みふねのやまより」 、西本願寺本訓・元暦校本訓「みふねのやまを」 )。▼顕昭説 「 し の の に ぬ れ て 」、 類 聚 古 集 訓「 し と ゝ に 」、 元 暦 校 本 訓「 し を ゝ に 」) 、 四 句「 三 船 山 従( 新 訓「 み ふ ね   [略注] 出典……万葉集・巻一〇・春雑歌・一八三一・作者未詳、二句「之怒怒尓所沾而(新訓・西本願寺本訓 説云しとゝにぬれたる也」   朝霧にしぬゝにぬれてよふこ鳥みふね山よりなきわたる」みゆ 三十六オ 」 150   しぬゝにぬるの事

  [略注] 出典……万葉集・巻五・雑歌・八八七・山上憶良、初句「多良知子能(新訓・西本願寺本訓・元暦校本 説云いふせくと云心也欝悒とかけり」 たらちねのはゝかめみすておほゝしくいつちむきてかあかわ」かるらん」 151   おほほしくの事

(21)

聖護院道興筆『袖中最要抄』の翻刻と略注(四) (𠮷野) 六五 訓「 た ら ち し の 」、 類 聚 古 集 訓「 た ら ち ね の 」) 、 結 句「 阿 我 和 可 留 良 武( 新 訓・ 西 本 願 寺 本 訓・ 元 暦 校 本 訓「 あ か わ か る ら む 」、 類 聚 古 集 訓「 わ か わ か る ら む 」) 。 ▼ 顕 昭 説 を 挙 げ る。 『 袖 中 抄 』 同 項 目 も 他 説 な く、顕昭は証歌とともに「欝悒」の「欝」字の他訓について述べている。

「玉藻苅食」と取り違えてしまっている。 論 じ て い る。 た だ し、 出 典 の 万 葉 歌 の 結 句 は「 珠 藻 苅 麻 須 」 で あ り、 『 袖 中 抄 』 は 次 の 二 四 番 歌 の 結 句 誤ったか。 『袖中抄』では「玉藻かりし」の意で「く」は「助け詞」であり、 「玉藻苅敷」ではないことを 『 最 要 抄 』 に は 説 が 記 さ れ て い な い。 目 移 り で あ ろ う か。 初 句 は『 袖 中 抄 』 で の 踊 り 字 部 分 を「 く 」 と 見 須( 新 訓・ 西 本 願 寺 本 訓・ 類 聚 古 集 訓・ 元 暦 校 本 訓「 た ま も か り ま す 」、 『 袖 中 抄 』 所 引「 玉 藻 苅 食 」。 ▼

タマカリシク

「 射 等 籠 荷 四 間 乃( 新 訓・ 西 本 願 寺 本 訓・ 類 聚 古 集 訓・ 元 暦 校 本 訓「 い ら こ か し ま の 」、 「 結 句「 珠 藻 苅 麻 さ を 」、 類 聚 古 集 訓「 う て る を ゝ」 元 暦 校 本 訓「 う て る お ゝ」 、『 袖 中 抄 』 所 引 初 句「 う め る を ゝ」 )、 四 句   [略注] 出典… 『万葉集』巻一・雑歌・二三・麻続王、初句「打麻乎(新訓「うちそを」 、西本願寺本訓「うつあ うめるをくおみのおほきみあまなれやいらこの嶋の玉藻苅食」 152   たまもかりしくの事

男の名はさたをとこうはらおとこうなゐ男と云和泉」の男はちぬのおとこと云陳努埜とかけりおとめをはうな」ゐ 此塚の名をはもとめ塚とも乙女塚とも云也処女墓とも」かけりおとめも □ [と カ ]めのおとめとは同音也」

(虫損)

の」舟にて和泉の国の土をはこひてつきたる事也」 塚をつく事一人は同国なれは子細なし他国和泉の国の男」のつかをは当国の土にてつかせしと云程に和泉の男の親   すみなれぬ我身なけてん津の国のいくたの海は名こそ有けれ 三十六ウ 」 説云生田の川にて鳥を射て三人死たる事也」 もとめつかおまへにかゝる柴舩のきたけになれやよるかたもなし」 153   もとめつかの事

(22)

六六 おとめうはらおとめあし屋の乙女云」 [ 略 注 ]  「 説 哥 」 出 典 …… 散 木 奇 歌 集・ 巻 五・ 祝( 旅 宿 )・ 七 七 七、 「 海 路 の 心 を よ め る 」 /( 堀 河 百 首・ 雑 廿 首・一四四八「海路」 、結句「よる方をなみ」 )/「證哥」出典……『大和物語』一四七段、初句「すみわ び ぬ 」、 四 句「 い く た の 川 は 」。 ▼「 説 哥 」 と し て 挙 げ ら れ る 俊 頼 詠 は、 『 大 和 物 語 』 一 四 七 段 に 語 ら れ る 伝承をもとに菟原処女の塚を詠んだもの。ただし、顕昭所引『大和物語』には「かの塚の名をばもとめ塚 と な む い ひ け る 」 と あ る が、 『 大 和 物 語 』 伝 本 に よ っ て は「 を と め 塚 」 と 記 す も の も あ る   (

  が 妥 当 ゆ え、 こ れ は『 袖 中 抄 』 に 拠 る 誤 り と 考 え ら れ る ( あり、それは『袖中抄』でも同様であるが、 『大和物語』では「いくたの川は」であり、内容からも「川」 わびぬ」であって「すみなれぬ」ではない。ここは『最要抄』の誤写か。また四句目「いくたの海は」と 川に身を投げる際に詠んだ歌を挙げるが、その初句は『袖中抄』所引の歌も『大和物語』諸本でも「住み 性ふたりの恋の鞘当ての話であることは全くわからない。それもあってか、次に『大和物語』中で女性が にもなっておらず、また伝承のまとめであるのに「鳥を射て三人死たる」では、ひとりの女性をめぐる男 何に拠るかは不詳。あるいは『最要抄』筆者なりに伝承をまとめたものとも考えられる。が、歌語の説明 が ま ず 挙 げ る「 説 」 は『 袖 中 抄 』 に は な く、 ま た 他 の 歌 学 書 に「 も と め づ か 」 は 言 及 さ れ て い な い た め、 20 。『 最 要 抄 』 )

  は『万葉集』の「葦原処女墓」の歌を挙げ説明している) 。 以下続稿 「 を と め 塚 」 と「 も と め 塚 」 の 同 韻 相 通 説、 多 種 あ る 男 と 女 の 名 前 を、 そ の 根 拠 を 示 さ ず 列 挙 す る( 顕 昭 要抄』では「證哥」に続けて物語中の築塚についての概要を挙げ、最後に顕昭の「今案に」として挙げる 21 。 重 要 な は ず の「 も と め づ か 」 の 説 明 は、 『 最 )

   注 (

1 )  吉野「東京大学国文学研究室蔵『袖中最要抄』について」 (『東京大学国文学論集』

  『袖中最要抄』の翻刻と略注(一) 」( 『中央大学紀要 言語・文学・文化』第一〇五号・二〇一〇年三月) 、同「聖護院道興筆 2 号、二〇〇六年) 、同「聖護院道興筆

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聖護院道興筆『袖中最要抄』の翻刻と略注(四) (𠮷野) 六七 『袖中最要抄』の翻刻と略注(二) 」( 『中央大学紀要   言語・文学・文化』第一一一号・二〇一三年三月) 、同「聖護院道興筆 『袖中最要抄』の翻刻と略注(三) 」( 『中央大学紀要   言語・文学・文化』第一一九号・二〇一七年三月) 。 (

( 清濁も付すが、単独の場合はもとのままとする。 葉 集 』 に よ る 類 聚 古 集・ 元 暦 校 本 の 本 文 の 訓 を 指 摘 す る。 な お、 掲 出 の 際 新 訓・ 西 本 願 寺 本 訓 と 同 じ 場 合、 踊 り 字 を ひ ら き 2 )  た だ し、 『 最 要 抄 』 の 訓 が『 新 編 国 歌 大 観 』 本 文 に 付 さ れ る 西 本 願 寺 本 の 傍 訓・ 掲 出 さ れ る 新 訓 と 相 違 す る 場 合、 『 校 本 万

( 『色葉和難集』巻十では「すさめず」で立項され、 「すさめぬとはもてなさずといふなり」とある。 3 )  日 本 歌 学 大 系( 風 間 書 房 ) 第 三 巻『 和 歌 色 葉 』 上・ 七 で は「 す さ め ず は い さ め ぬ 也。 も て な さ ぬ 也。 」 と あ る。 同 別 巻 二

( 4 )  橋本不美男・後藤祥子著『袖中抄の校本と研究』 (以下『校本と研究』と略す) (笠間書院・一九八五年)二六三頁参照。

( 5 )  『校本と研究』では異同の指摘はない。

( 6 )  引用は日本古典文学大系『古代歌謡集』 「神楽歌」 (岩波書店・一九五七年)に拠る。

( 7 )  『校本万葉集』によると、 「比」が脱落している本文を持つ伝本もあり、 『袖中抄』はその本文に拠っているか。

( ない。 8 )  た だ『 最 要 抄 』 は 書 写 当 時 よ り 余 白 を 裁 断 さ れ た と 見 ら れ、 あ る い は 余 白 に 何 ら か の 字 の 挿 入 が 指 示 さ れ て い た か も し れ

( 二七七頁頭注による) 。 9 )  た だ し、 多 く の『 後 撰 集 』 諸 本 初 句 は「 ふ る さ と の 」。 堀 河 具 世 本 や『 奥 義 抄 』 所 引 本 文 は「 い そ の か み 」( 『 校 本 と 研 究 』

( て」 、元暦校本「てをりてか」 。『袖中抄』所引「手ををりて」となる。 10 )  た だ し、 三 句「 指 折 」 は『 校 本 万 葉 集 』 に よ る と 新 訓「 お よ び を り 」、 西 本 願 寺 本「 て を を り て 」、 類 聚 古 集 訓「 て に と り

( 11 )  『校本と研究』頭注による。

( 12 )  『校本と研究』脚注では「ましこ」に異同は示されない。

( 13 )  新訓は「都夜故尓」を「夜都故尓」の誤りとする宣長以来の訓( 『校本万葉集』 )。

( 14 )  底本とする『歌論歌学集成』の翻刻は「おもふえに」 。『校本と研究』の本文に拠る。

( 15 )  『伊勢物語』本文の引用は、日本古典文学大系(岩波書店)に拠る。

蔵)に「思かけにたつ(みゆとも) 」の本文がある。顕昭本は「みゆ」 。 16 )  山 田 清 市『 伊 勢 物 語 校 本 と 研 究 』( 桜 楓 社・ 一 九 七 七 年 ) に よ る と、 定 家 本 系 統 の う ち、 伝 二 条 為 明 筆 本( 鉄 心 斎 文 庫 旧

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六八

成』 九 年 )、 『 源 氏 釈 』 で は 時 雨 亭 叢 書 本 は「 み ゆ 」 に 傍 書 で「 た つ 」、 尊 経 閣 文 庫 本・ 吉 川 家 本 で は「 た つ 」( 『 源 氏 物 語 古 注 集 17 )  『光源氏物語抄』 (黒川本)では「たつ」 (中野幸一氏・栗山元子氏編『源氏物語古注釈叢刊・第一巻・武蔵野書院・二〇〇 語古注集成』 16 ・おうふう・二〇〇〇年) 、『紫明抄』では内閣文庫本系統の本文が「たつ」に傍書「みゆイ」となっている( 『源氏物

( 18 ・おうふう・二〇一四年) 。 18 )  注(

( 16 )山田氏前掲書、 『校本と研究』による。

( 19 )  「とほ (ぼ) し」は「ともし(灯し) 」の通韻による表記か。

( 昇氏蔵勝命本等は「もとめつか」とする。 で は「 を と め つ か 」 で あ る。 同 系 統 で は 他 に「 お と こ つ か 」 も あ る。 ま た、 天 理 大 学 御 巫 文 庫 蔵 本・ 鈴 鹿 氏 旧 蔵 本・ 久 曾 神 20   )  本多伊平『大和物語本文の研究 対校篇』 (笠間書院・一九八〇年)によると、定家自筆本系統の善本である陽明文庫蔵本 21 )  『大和物語』諸本に「海」の本文を持つ伝本はない。注 (

20 )本多氏前掲書参照。

[附記]   本作品の翻刻をご許可くださっている東京大学国文学研究室に、記して御礼申し上げる。

参照

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