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AHistoricalSurveyofScore−readingin J’apanese Musical Education

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Bulletin ofFaculty QfEducation,NagasakiUniversity:Curriculum and Teaching1992,No.18,35−50

我が国の音楽教育における読譜の 歴史的な変遷について[W]

<固定ド>とく移動ド>の音感と唱法の問題を根底に

古 田庄平*

(平成3年10月31日受理)

AHistoricalSurveyofScore−reading

in J apanese Musical Education

一<Fixd−Doh>and<Mova,ble−Doh>for Auditory・Sense       and Score−reading in Music一

Shyohei FURUTA*

(Received October31,1991)

はじめに

 この論文は前回の論文[V]の続稿として,音楽教育研究という雑誌を中心に唱法や読 譜指導に関する論文を検索し,考察を加える作業を続行したものである。

 ところで,この唱法や読譜指導に関する研究は昭和40年代後半になると,多くの研究や 実践が行なわれるようになり,その考え方や指導の方法などについての意見や論文なども 多く目にとまるようになってきた。特に,昭和45年には教員養成大学の教官が中心となっ た「日本音楽教育学会」が創設され発足した。翌年にはその学会誌「音楽教育学」も創刊 された。そこで今回からは,この学会誌にも目を通し,音感と唱法に関する論文を検索し,

合わせて考察を行なっていきたいと考えている。

 また,文部省では学習指導要領の改訂を行い,新しく各教科に「基礎」という領域が設 けられることになった。そこで音楽科教育ではこの基礎なる領域をどのように捉え,どの ように指導すればよいかということについての検討が行なわれることになった。したがっ て,文部省は勿論のこと,多くの研究機関や学校の教育現場などにおいても盛んにその内 容や指導の方法などについての研究が行なわれるようになったので,この「基礎」の問題

*長崎大学教育学部音楽科教室

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も含め,昭和40年代後半における読譜指導の研究や問題についての考察を行なっていきた いと思っていたが,その前に,前回の論文[V]で取り上げた2.特集「教育のなかの唱 法」(1)「固定ド唱法と移動ド唱法の比較」1)の項で取り上げるべきであった別宮貞雄の

「専門教育ではなぜ固定ドが多いか」という論文2)と,その後の「誌上シンポジュームく わたくしの唱法>」という小論集3)に対する考察が抜けてしまっていたので,それらの論 文から取り上げ論じていくことにした。

 2.特集「教育のなかの唱法」

 (1) 「固定ド唱法」と「移動ド唱法」の比較

 別宮貞雄は「専門教育ではなぜ固定ドが多いか」という論文のまず最初で「固定ドか移 動ドかという問いには,階名唱法か音名唱法かという問題と,ドレミを階名として用いる か音名として用いるかという二つの問題がからまっていて,第一の問題は純音楽的な問題 だが,第二の問題は多分にいわば音楽政治的といってもよいようなことである」と述べて いる。そしてまず前者の問題について彼は「音名唱法か,階名唱法か,どちらが音楽の根 本につながるかといえば,(この音楽というものをひろく古今東西の音楽と解すれば,そ してともかく発生的に古い方を根本的と考えれば)階名唱法の方が根本につながるといわ ざるを得ない」と述べ,さらに「音楽そのものに,絶体的な高低つまりピッチとのむすび つきがない限り,唱法としては階名唱法しかあり得ない」といっている。この説からする と彼は階名唱法の支持者のように感じられるが,彼はそのすぐ後で「音楽の専門教育にお いては音名唱法をしなければならないという考えを私は持っている」と述べている。

 その理由として彼は「十九世紀から二十世紀のヨーロッパ音楽は近世になるにしたがっ て,楽曲の中で転調という手法が徐々に多く用いられるようになっている。そのためにそ のような楽曲を階名唱法を用いて読譜をする場合に,楽曲が転調する度にく階名の読み替 え>をしなければならなくなる。そのような階名の読み替えをしなければならないという ことは,転調のある音楽を階名唱法でうたうことにとって,ひとつのマイナスである。し かしそれでも,その転調の場所が客観的に明白に定まり得るものならば,ともかく客観的 に定まった手順に従って,読み替えを行なえばよいわけであるが,転調というものが少し 複雑になってくると,ある音楽のある瞬間,現在何調にあるかということを,一意的には 決められないことが起こってくる。こういうことになると,階名唱法は転調の頻繁な音楽 の初見には適当でない」4)というように階名唱法の弱点を指摘している。

 また彼は「音楽教育の初歩のソルフェージュにこの階名唱法を用いる場合,初歩者は,

自分自身でその音楽の和声分析をすることができないのであるから,頭から教師に指示さ

れる階名を覚え込むことになるであろう。ところがソルフェージュというものは幼少者に

こそ必要なのであって,音楽理論習得の基礎となることがその上にたつ音楽理論上のより

高度な知識を前提とするようでは困るのである」といいながらも「だからといって階名唱

法が不必要であるとは思わない。専門教育の下地としてのソルフェージュ教育では,音名

唱法が必要であると思うが,複雑な音楽とは無縁な一般教育のためには,音名唱法より階

名唱法がよいという考えには私も賛成である」というように,専門教育の場合は音名唱法

を,一般教育では階名唱法を指導することに賛成している。そしてさらに彼は「特別な訓

練としての唱法は音名唱法が大切だが,その前段階としての階名感を養うためには階名唱

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古田:我が国の音楽教育における読譜の歴史的な変遷について[VI] 37

法でソルフェージュをすることを否定しない。両方ともにして一向さしつかえないどころ か,それこそ音楽にとっての十全の基礎となるのかもしれない」といっている。

 さらに,「専門教育を受ける者も一般教育を受ける。そこで,専門教育で固定ドを訓練 される一方,小学校では移動ドをやらなければならない。あるいは子どもの時,一般教育 で移動ドになれていたのに,音楽学校に入ると固定ドをやらねばならない。これは大変困っ たことである」といったように,彼はこの問題を全て専門教育の立場から捉えているよう である。それは,われわれ音楽教育研究者から見ると,主客転倒も甚だしいといわざるを

得ない。

 たしかに筆者も度々現場教師から「固定ド唱法の児童・生徒と移動ド唱法の児童・生徒 が混在していて読譜指導で混乱をして困っている」ということを聞かされているが,われ われ音楽教育研究者は,専門教育を受けている者も含め,一般教育の立場からこの問題を 捉え,一日も早く良策を考え,解決していかなければならないと考えるべきである。それ には,音楽の専門家のみならず,他教科の教育専門家などの意見をよく聞いた上で,それ らを参考にしながら,われわれ音楽教育研究者が早急に抜本的な対策を講ずる必要がある

と考える。

 3. 「誌上シンポジュームくわたくしの唱法>」

 まず長谷川良夫は「私の場合いま・これから」5)と題して,「音楽学校へ入学するまでは く移動ド>で読んでいたが,音楽学校入学を機会にく固定ド>に切りかえた」といってい る。そして,その理由として「作曲にしても,演奏(声楽・器楽を間わず)にしても,プ ロはそうでなければあり得ないからだ」といっている。さらに「戦争直後の時期にはく移 動ド>を支持したものであるが,現時点ではく固定ド>に踏み切るべきではないかと思っ ている」というように,固定ド唱法で指導することを奨励している。しかし,その理由に ついて何も述べていないのが残念である。

 次に畑中良輔は「音楽をくたのしむ>立場から」6)と題して,「芸大入学前も入学後もく 固定ド>でずっと続けましたが,卒業後,中学を教えるようになって,<固定ド>ではと ても無理なので,(その理由は述べていない)自然にく移動ド>になってしまいました。

現在は両方併用です」といっている。さらに,「<移動ド>も転調が激しかったり,無調 的な旋律になってきますと,結局は相対感覚で読んでしまいますから,<固定ド>の観念 と同じことになってしまうのです」というような興味深い体験談を述べているが,これは く移動ド>のある限界とそれに対する窮余の策といったようなもので,筆者がかねてから 命名し提唱している「相対音感的固定ド唱法」7〉という読譜の方法と同じものである。

 そして最後に彼は「どちらかにしてしまわねば気がすまないのが日本人の特質なのでしょ うか,この二つの唱法が共存することが混乱であると考える必要は全くないということで す。楽器がいじれるよう.だったら,移動と固定は共存し得るものだと考えます」というよ うに,<移動ド>とく固定ド>は共存し得るものだということを断言している。このこと は筆者もかねてより主張していることであって,この「二者共存の読譜指導」8)を実践・

普及させることこそが,我が国の学校の音楽教育における読譜指導として最良の方法だと

考えている。

 萩谷納は「専門教育につながる基礎教育を」と題した論文9)の中で,まず国語教育や数

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学教育の例を引き,音楽教育で「専門教育につながらない基礎教育とか,一般普通教育と いうものがあると考えることがおかしいと思う」といっている。それは,今日の日本の音 楽教育の中で,専門教育はく固定ド>で,一般普通教育はく移動ド>でというような考え 方をしている者に対する忠告であろうと思われる。そしてく固定ド><移動ド>それぞれ の長所・短所について論じており,特にく移動ド>については,転調のある旋律楽譜を具 体的に示しながら,その唱法の弱点を指摘した上で,結論として「小学校の六年間を固定 ド唱法で過すことができれば混乱もなく,又自然に音の高さも大体身につくのではないか と考えている」と述べている。これには筆者も同感で,どうしても二者択一をしなければ ならないというならば,筆者が提唱している「相対音感的固定ド唱法」7)によって読譜指 導を行なうべきであると考えている。

 呉暁は「理論的理解の下での共存」と題した論文1①の中で,まず「固定ドを長い間用い ていると,その正しい音高をとらえて読譜する能力を得ることができ,それは音楽をする 上で大変有効な能力となるが,しかし,固定ドを用いる場合には,論理的にも感覚的にも 音階と和声の機能を理解するよう注意をむけないと,考えなしに譜をよむことによって非 音楽的なものになりやすい」というように,固定ドの弱点を指摘している。また「移動ド の場合でも,理論的理解がなされていないと,複雑な転調を含む旋律の場合,読み替えの 問題で初見がしにくいという点がある」と固定ドの場合と同様に,移動ドの弱点について も指摘している。そしてさらに,それぞれに理論的理解が必要であることを示唆している。

また彼は,「指導にあたっては,年少者には音階と和声の機能を理解させる指導を併用し ながら,ぜひ固定ドで指導したいが,大学のクラスでは,数年前から,固定ドと移動ドを 平和共存させることにした」といっている。筆者も,大学のクラスでは,固定ドと移動ド

を平和共存させて読譜指導を行なっている11)。

 次に,永富正之は「固定したり,移動したり」と題した論文12)の中で,自分の唱法につ いて「小学校でくハニホヘト>を使った音名唱法,中学・高校は移動ド,大学は固定ド,

フランスでは固定ドであったが,ある時には反射的に昔の移動ドが顔を出すこともあり,

その時の具合で『固定したり移動したり』,時には母音唱でごまかしたり,かなり統一に 苦しまねばならなかった」と回想しながらも,「日本の現状では,一般教育に移動ド唱法 を,専門教育に固定ド唱法を採用するのは妥当な方法だと思われる」といっている。しか し,最後に彼は「専門教育の体系を立てて,そこでは固定ド唱法に統一し,その中で一般 教育の教師になることを望む者が移動ド唱法を特に習得すればよく,また一般教育を受け ただけだが更に音楽を深くきわめたい人は固定ド唱法を新たに学べばよいのであって,必 ずしもどちらかに人為的に統一する必要はないし,併用して両者に熟達することもさほど 困難なことだとも思われない」というような,やや矛盾した意見を述べている。

 また,板野平は「移動ドを加味しつつ」と題した論文13)の中で,全音,半音の問題から 音階,旋律,音程,和声に関する事項について断片的に例を上げ,具体的に練習の方法を 述べた後に,「結論として私の唱法は,一貫して固定ド唱法と移動的考え方を折衷した方 法である」と述べている。そして,その理由として,次のような3つの事項を上げている。

 ①音楽自体には固定的要因(音高)と移動的要因(調とか機能)が同時に共存している   からである。

 ②特にソルフェージュという教育的意義として,音楽を理解するということの使命があ

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古田:我が国の音楽教育における読譜の歴史的な変遷について[VI] 39

  る。そのためには絶対性と相対性について公平に音楽を理解させる必要がある。

 ③学生の実態からいって移動ド唱法も無視できず,また固定ド唱法を通しての音の把握   も重要である。歌唱,器楽など広範な基本的経験のためにも。

 このような板野の「固定ド唱法を中心に移動的考え方を折衷した方法」は確かにユニー クで注目に値するものであるが,やや高校・大学向きで,専門教育的すぎるきらいが感じ られ,小・中学校の一般教育では無理があるように思われる。

 次に安城政三は「現実に則した適切な唱法ゴ4)と題して,指導主事という立場から論を 展開しているが,これは現場の教師たちにとっては大いに参考になると思われる。そこで

まず彼は「教育は常にく教育の内容とその方法>について考える」必要があるということ を前提に「唱法それ自身の由って生ずるところを考えると,楽譜(から音楽)を読み取っ てうたうという能力を,学習の過程においてもっとも効果的に修得するという目標を内蔵

しているのである。したがってく唱法>は読譜能力をつけるための方法,手段であるから,

<楽譜>なくしては成立し得ないし,そのく記譜法>とも密接な関係がある」と定義して いる。そして,「音楽の基礎的な能力を充分に身につけることは義務教育でも専門教育で も重要事であり,特に読譜力は,楽譜を読むことによって音楽としての音を感じ,音楽の 内容を感じ取る能力であるゆえに,もっとも基本的な能力といえる。しかし,視唱の学習 は目と耳の感覚と声帯との瞬問的な連繋操作によるものであるから,一般児童生徒にとっ ては敬遠されがちである。したがって初等教育においては,機能的に無理の生じないこと と,なるべく単純で効率的なく唱法>ということが大事である」と述べている。これは基 礎基本的な能力の養成を重視する初等音楽教育にとって貴重な示唆であり注目に値するこ

とである。

 さらに彼は,「唱法は単なる音符の読み方ではなく,声と音程とが感覚的に結びついた 声帯運動であるゆえに,一度習慣付けられるとその方向転換はなかなか困難事である」と いうように,自分の体験から得た移動ド唱法と固定ド唱法の転換の難しさについて忠告的 な意見も述べている。そして最後に「一種の絶対音感とつながる教育方法であり,また音 名唱法でもある固定ド唱法は,高度な指導力を要し,少ない時間数と相侯って,現実には 小学校では無理な唱法であろうと思われる。教材になる楽曲がほとんど調性音楽によって 占められている現在,その調性組織を理解するということに音楽教育の一つの柱をおくな らば,やはり移動ド唱法が当分の間現実に則したもっとも適切な唱法であろう」と結論ず

けている。

 山田浅蔵(当時,東京都教育庁指導部副主幹であった)は「移動ドがよりベターである」

と題した論文15)の中で,まず最初に自分の唱法について「私自身は移動ドである。その理 由は至極簡単で,「固定ドでは歌えない』からである。」といっている。ところが,この 移動ドと固定ドという言葉を入れ替えた声,つまり「私自身は固定ドです。その理由は至 極簡単で,『移動ドでは歌えない』からです。」という声を,筆者は最近小・中学校の児 童・生徒や,大学の学生などから聞かされることが多い。そのような声を聞くたびに,固

定ド感覚を身につけた者が多くなったということを感じさせられている。

 ところで,彼は「唱法そのものは単なる手段であり,手段にはそれぞれに目的があって,

固定ドはく絶対音感>あるいはく絶対的な音高感>といえようし,移動ドではく相対的な

音程感>を目的とする」と定義しながら,「その目的を達してこそ手段をとりあげる価値

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がある」のだといっている。しかし,筆者はこの定義に若干の疑問を感じるのである。そ れは,唱法そのものが単なる手段であるということには異論はないのであるが,固定ドや 移動ドという唱法の目的はく絶対音感>やく絶対的な音高感>あるいは,移動ドのく相対 的な音程感>であるという点にある。筆者は,固定ドや移動ドという唱法の本来の目的は,

それによってく如何に読譜することができるか>ということであって,どちらの唱法(手 段)がその目的により適しているかということが問われているのである。したがって,山 田のいう固定ドのく絶対音感>やく絶対的な音高感>あるいは,移動ドのく相対的な音程 感>というものは,唱法(手段)の目的ではなく,それぞれの唱法がもっているく特徴>

あるいはく特質>というようなものになるのであろう。

 ともあれ彼は,個人的な考えとして,「小・中学校の(唱法の)あり方」について前述 の彼の目的論を前提に,「その目的を達してこそ手段をとりあげる価値がある」という説 を立て,「音楽教育の長い伝統から,相対的な音程感なら,移動ドを採用することによっ て,結構身につくことが実証されている。つまり,移動ドならその目的が達成できること は明らかなのである」といった,やや我田引水的で独断的な意見を述べている。そしてさ らに「国全体の教育を考えるとき,一部の実験的,塾的な営みによる不安定な手段(固定 ド唱法のことをいっていると思われる)を採用することなど,決して賢明なやり方である とは思われない」といった,排他的な意見も述べている。

 また,「大学の実態」について彼は,「大学で音楽を専門に履修した卒業生の受験者のほ とんどが,高校生や中学生でさえ歌えそうなものを,固定ドで歌い,まったくでたらめな 歌唱になっている」ところが,「この学生たちに,注意を与えて,移動ドでやり直しさせ てみると,なかなかよく歌えるのである」といい,さらに「大学では固定ド唱法によるこ との目的が十分に達成できていると勘違いしているとしか思えない」と痛烈な批判を行なっ ているが,これは大学の実態をよく知らない者の独断と偏見によるものとしかいいようが

ない。

 村谷達也も「慣れと便利さと必要度と」と題した論文16)の中で,「移動ド唱法も固定ド 唱法も基本的に絶対音感と結びつかないかぎり,両者は単に唱法のく慣れ>の違いだけで あって,どちらも相対音感を身につけるためのものであることにかわりはない」といって いる。しかし,筆者は,移動ド唱法や固定ド唱法は相対音感や絶対音感を身につけるため のものではなく,あくまでも読譜のための手段なのであると考えている。したがって,絶 対音感と結びつかない唱法の場合には,如何なる唱法といえども相対音感にたよるしか方 法がないのではないかと考えている。

 ところで,彼は合唱指揮者としての体験から,「合唱愛好者たちの音楽経験の水準がだ んだん高くなってきている現状では,合唱楽譜のなかでも,移動ド唱法だけでは数小節も いかないうちに行きづまってしまうようなことが,かなりひんぱんにある」と指摘してい る。さらに,「彼らは読譜にたいして比較的積極的な人たちであるが,移動ドに慣れてき た彼らのような大人の場合には,固定ド唱法への切換えは,現実,不可能といってもよい くらい困難である」というように,慣れた唱法の変更の難しさについて述べている。そし て「結論として,一般に必要度が高くなる将来を予想し,あるいは期待して,学校も一般 も,固定ド唱法一本になることが望ましい」と希望を述べている。

 坂田真理子は「一貫したソルフェージュ教育のために」と題した論文17)の中で,現場

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古田:我が国の音楽教育における読譜の歴史的な変遷について[W]

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(高校)教師の立場から,「専門教育も普通教育も,程度は異なっても二道はなく,本質 的には同じ」であると思われるので,「音楽に通じて正しい良い演奏をするならば,どち らでもよいと思う」。しかし,「私は教師として実際に指導する際には,高校においても大 学においても固定ドを使っている」といっている。そして,「固定ドにせよ,移動ドにせ よ唱法を論ずる前に(読譜の)正しいあり方,姿勢を教え,応用のきく力を与えなければ ならないということの方が大切です」と述べ,要するに「耳できいて憶え習った音楽だけ ができるのではなくて,楽譜を見て自分の力で正しく歌える,演奏できる,という力をつ けるためのソルフェージュが大切なのです」というように,読譜指導本来の目的というよ うなものについて述べており,貴重な意見として注目に値する。

 さらに,高校生の実態について,小中学校で移動ド唱法の指導を受けてきたにもかかわ らず「高校生になっても移動ドそのものが完全に身につかず,中途半ぱになっている」と いうように,具体的な例をあげて述べるとともに,「現実問題として,選択の時間も少な い高校だけでは,どちらの方法をとっても,決してマスター出来ません」というように,

高校の音楽教育における読譜指導の難しさを告白している。そして最後に「これからの学 校音楽教育のあり方として考えることは,小,中,高校から大学までの,一貫したソルフェ

ージュが確立されなければならない」と提唱している。

 坂本慶之祐は「一っの方法を一貫して」 8)と題して,坂田と同様に高校教師の立場から 論じている。まず彼は「私の唱法は移動ドを基本としている。しかし,それだけでは不便

な場合も多いので,随時固定ドの唱法も併用している」といっている。そして,その理由 として「調性のはっきりした転調は移動ドで読みかえることができるが,あいまいなもの や非常に短い楽句の場合は,固定ドでないと読みにくい」といっており,「移動ドではピ ゼッティあたりの合唱曲でも演奏困難ということになってしまう」というように,移動ド の限界を指摘している。

 さらに,学校音楽教育の立場について「文部省は移動ドを推賞している。移動ド唱法で も,熟達すれば教科書程度の調性のはっきりした曲はじゅうぶん歌えるし,相対音感も経 験と練習で実用になる」といいながらも,「しかし,現実の生徒の歌唱力は,高校になっ

ても,ごく簡単な旋律も正確には歌えない生徒が多い」と高校の実態について述べ,「学 校音楽の中でのこれらの指導は,一つの方法を一貫して続けて行くのでなければその成果 はのぞめないし,生徒自身も混乱することになる」というように,前述の坂田と同様,読 譜指導の「一貫性の必要」を強調している。

 次に,中学校の教師をしている山田敦子は「読譜指導を固定ドで」19)と題して,「コーラ スの練習には移動ド唱法で読譜しているうちに,指導する方でも生徒の方でもまぎらわし いことが多くなり,いつの頃からか,自然に固定ド唱法に落ち着かざるを得なくなり,現 在に至っている」というように実状について説明するとともに,「移動ド唱法は楽曲の途 中での一時的転調がしばしば行なわれる場合には自由さを欠く。しかし,感覚的に旋律感 の把握や和音感の練習に便利なことは事実である」というように移動ド唱法の利点を認め ながらも,「しかし,より深く音楽を求めようと思うなら,多少の努力をしてでも固定ド 唱法に精通すべきである」と主張している。これも移動ドの行き詰まりの結果固定ドに落 ち着かざるを得なくなったことを如実に物語っている一例である。

 小学校の教師をしている岡本俊夫は「子どもの可能性を伸ばすために」20)と題してまず,

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独自で考案したくドレミ式固定音名表>21)による「ドレミ式固定音名唱により,和音感教 育の方法を基礎教育とし,この基礎力を土台として二十年間音楽教育を実践してきた」と 述べ,そのドレミ式固定音名唱の有効性について具体的に例を上げて解説している。そし て最後にそれらを総括して,「固定音名唱は絶対的取扱いが中心となるもので,児童にみ られる効果も,音高,和音,調子,テンポ,伴奏などに対し的確な判断のできる耳を育て る」というように音名唱の効用について述べている。さらに「固定音感の教育は副次的に 自然に移動音感も可能にするが,移動階名唱の教育を一度徹底すると,絶対位置での聴き わけはできなくなる。固定音感で救えない者に移動音感の教育をするのはよいにしても,

すばらしい音感に育つ可能性のある児童を移動音感で混乱さすことは許せない」というよ うに,一旦固定ド音感が定着している者に移動ド音感を指導すると感覚混乱を起す危険が あることを忠告している。そして「唱法は,単に楽譜の読み方,歌い方の問題ではなく,

それが,聴く,作る,書く,弾く(吹く)ことへ決定的な影響を与えるものであるが,こ のことは義務教育にあっては,将来の日本民族の音楽レベルを左右することになる重要事 である」と示唆している。

 最後に,中田喜直は「音名は固定ドで,感覚は移動ドで」と題した論文圏)の冒頭で,

「結論から言えば,当然固定ドの方がよい。ただ固定ドといっても絶対音的に歌うことで なくて,感覚としては移動ド的に歌っていることが多い。それでいいわけだが呼称として 固定ドにした方がいいということである。要するにこれは呼称の問題なのだから,ドが移 動してしまうことは結局複雑になるだけである。」というように,やや強引とさえ感じら れる表現で「固定ド」というものを推奨している。これは,階名であるくドレミ>をハ長 調の音階音の音名として用い,その音階音の音感は絶対音感的な(つまり,一音一音が孤 立したような)音感ではなく,それぞれの調の調性感(音階感)を具備したく固定ド>あ るいはく固定ド唱法>を中田は提唱しているのだと筆者には推察されるが,固定ド定着者 の多くは,この感覚をほとんど具備していないので,指導者はこの点に充分注意をして指 導すべきである。またさらに彼は「音楽で大切なことは,音の正確な高低とリズムであっ て,ラとかシとかの呼称を言うことは大した意味がない」とか,「正しい音程をとるため にその呼称を利用するのなら話はわかるが,それが逆に正しい音程をとることをさまたげ るのでは意味がない。移動ドは,その間違いを実際に示している」といっているが,前者 は「正確な高低やリズムを伴わない唱法としての音名や階名は,読譜のための唱法として 実際には役に立たない」といいたかったのであろう。また,後者は「階名や音名は正しい 音程感や音高感を具備しているべきであり,それを唱法や聴音の手段として使用する際に は,あまり複雑であったり,煩雑でない方がよい」といっているのである。それはつまり

「移動ド唱法は読み替えが複雑であり,煩雑なのでよく間違いを起こす」ということをい いたかったのだと筆者は推察する。

 彼はまた,短調の唱法について,「イ短調の場合くラシド>と歌わせるのは,実際は固 定ドなのであって」移動ドというならば,短調の音階の場合も,主音をくラ>としないで くド>として長調と同じ名称のくドレミ……>を用いるべきではないかということを提唱 している。しかし筆者は,それは音感の面でかえって混乱を誘発する心配があるので,現 行通りの方がよいと考えている。

 ともあれ,これまで「教育のなかの唱法」や「わたしの唱法」に掲載された論者の多く

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古田:我が国の音楽教育における読譜の歴史的な変遷について[W]

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は,音感や唱法の問題を演奏・表現の初期的な段階の読譜(特に視唱)の方法という次元 に視点をおき論じたものが多かったが,一方角度を変え,音楽を理論・分析したり,ある いは作曲するような立場から音感や唱法の問題を考えた場合には,また異なった考え方が 生まれるのではないかと筆者は思っている。

M.昭和45年から昭和50年まで

 1.唱法と読譜指導の問題について

 さて,昭和40年代も後半になると,唱法や読譜指導についての研究や議論も益々盛んに 行なわれるようになって,それらに関する論文も多く発表されるようになった。そこでま ず本間道夫の「私の唱法」という論文器)から取り上げることにしたい。

 彼はまず,自分が一貫して移動ド唱法であり(大学3・4年は固定ドに転換〉現在学校 教育の現場でも「移動ド」を採っている理由として,

 ①「音程」が取りやすい(「調性感」を把握しやすい)。

 ②私自身「絶対音感」をもっていない。

という2点をあげている。さらに「音大3年になってソルフェージュが「固定ド」に転換 したときに(中略)混乱して一時歌唱不能になった」といっている。筆者も (「移動ド」

なので)このような現象を,音大当時体験したことがあるために,よく理解することがで きる。この混乱現象は逆に「固定ド」感覚の定着者にも起こり得るのである。それは,他 の感覚を受け入れようとする場合に「移動ド感覚」あるいは「固定ド感覚」の定着度が強 ければ強いほど,排他的な作用(心理学でいう「負の作用」)が強く働くために学習速度 が低下したり,視覚的には同じ「ド」であっても移動ドの「ド」なのか固定ドの「ド」な のか区別ができなくなるような混乱(一種の錯乱状態)に陥ることがある。したがって,

音楽教育に携わる者はこのことを充分理解・認識した上で読譜指導を行なう必要がある。

さらに彼は「この短三度(ハ長調のくレラファ>)をくラファ>とは歌えず(固定ド唱法 ではくラファ>と歌う)常に各調の音階上に構成される短三度,つまり(変イ長調の)<

ドラ>,(変二長調の)<ソミ>,(変ホ長調の)<ファレ>,(変ト長調の)<レシ>と 受けとめたわけです。そして調号の多くついた曲や,臨時記号の頻繁につく曲の場合,結 局行きついた先はピアノの口移しということでした」というように移動ド唱法の難しさ,

複雑さを嘆いているが,このことは「移動ド唱法」あるいは「移動ド感覚定着者」の特徴 を如実に物語っているものである。しかし彼は,音階上の各音の「機能性」や「調性感」

(筆者は「和声感」あるいは「終止感」のようなものと考える)が比較的楽につかめると もいっている。このことは,読譜指導の必要性の原点ともいえる問題でもあり,筆者はこ れこそ移動ド唱法の原理ともいえるもので,音楽学の楽曲分析にはなくてはならない「読 譜の本質」であると考えている。しかし,彼は最後に「現在の情勢から二十世紀への音楽 の方向を考えた場合,古典音楽やロマン音楽のみならず,いはゆる現代音楽(前衛音楽)

への飛躍は,音楽教育の分野においてさえすでに明ら.かであり,日本の伝統音楽や民謡を

も教材とすべき児童・生徒のためには当然「固定ド唱法」を採用すべきである」と結論づ

けている。これも一理あると思われるが,筆者は,小・中学校の音楽の学習に必要な読譜

能力というものは,最も単純な構成で感覚的なもの,つまり「調性感覚の陶冶を伴った固

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定ド唱法」から読譜指導を開始し,高等学校や大学で音楽を専門的に学習する段階になっ てから「移動ド唱法による読譜法あるいは和声法」を学習させるべきだと考えている。

 次に千成俊夫は「読譜指導の原理と方法」という論文鍛)の中でまず「読譜指導の原理」

について述べ,「読譜指導の方法」を論ずるために「様式感テスト」なるものを行なって いる。その中で彼はまず「読譜が成立するための基本条件」として,

 ①音楽を表現する諸記号の理解。

②音表象の形成と音楽の意昧の把握,理解。

 ③音楽を再現するための諸器官のコントロールの問題。

を揚げ,そこから「印刷された頁を観察し,そこに記されている諸記号がどのようにひび くかを,経験として記憶されている音表象との同一化を経て歌うことや楽器で演奏するこ とによって実際の音楽として再現する」という「読譜の過程」を導き出している。それに よって「様式感テスト」25)なるものを作成・実施し,その結果を分析している。そして彼 は「その結果現象として,義務教育段階ではシンボル理解にくらべて様式感の獲得はきわ めて困難であることがわかった」といっている。さらに彼はこの「研究は読譜の方法につ いての具体的な展開をなしえなかったことも含めて不十分で欠陥の多いものであった」こ とについて反省しているが,読譜指導の方法を「様式感テスト」というものによって試み たことはユニークな発想であり興味深い。

 また近藤幹雄は「教育のなかの唱法について」という論文26)の中で,まず「唱法は一面 では鳴り響く音を音階中に位置づけられた音として聴取・判別し表現する学習であり,一 面では鳴り響く音と楽譜とを対応させる学習であると考え」次のような能力の開発を指導

目標として挙げている。

 ①音高や音程を正しくうたう能力。       、  ②音高や音程を正しく判別する能力。

 ③旋律を確実に記憶し持続する能力。

 ④楽譜を正確に視唱する能力。

 ⑤聴音記譜の能力。

 ⑥旋律をひとつのまとまりある全体として把握し,美しくうたうための基礎能力。

そしてさらに彼は「移動ド唱法」と「固定ド唱法」について,

 (1)「固定ド唱法」は絶対音高感を身につけることができ,ひいては十二音の音楽のよう   な複雑な現代の音楽の読譜力も修得されるし,移調による読み替えの煩雑さがない。

 (2)「移動ド唱法」は調性・度数・音程についての感覚を育てるものであり,学校音楽の   教材はほとんど調性の音楽であるゆえに一般教育にふさわしい。

 (3)「どちらでもよい」あるいは「両者の共存」をはかろうとするものは,大体右のよう   なそれぞれの長所を認めた上で,一般教育では「移動ド」を,専門教育では「固定ド」

  を提唱している。

というように,それぞれの唱法の特徴について述べている。また,

 (1)音階成立の根拠は「比」という相対性にあるので,絶対音高に対するラベリングより   も階名というラベリングのほうが合理的である。

 (2)旋法は半音程と全音程の組合せの順序により決定され,各音は中心音との関係におい

  て(絶対音高ではなく)機能をもつものである。

(11)

古田:我が国の音楽教育における読譜の歴史的な変遷について[VI] 45

 (3)古い時代の読譜(ソルミゼーション)の原理は移動ドであった。

 (4)絶対音高に対するラベリング,即ち「固定ド唱法」には,音高そのものについて若干   の曖昧さがある。

というような理由によって彼は「移動ド唱法」を選ぶことにしたようである。そして「絶 対音高感が身につきにくい」, 「読み替えの不便さがある」など,「移動ド唱法に付随する 問題については指導方法のレベルで解決を試みたいと思う。」と述べている。

 しかし筆者は,「絶対音高感が身につきにくい」つまり「音高感が悪い」とか,「読み替 えの不便さ(煩雑さ)がある」というような問題は「移動ド唱法」や「移動ド音感」のも つ「宿命的な特性」ではないかと考えている。それはつまり,「移動ド唱法」によって定 着させられた「移動ド感覚」は,1オクターブ内の十二の音全てを「ド」や「レ」として 歌うことも可能であり,またそれらの音から相対的に「ソ」や「ラ」にあたる音程を歌い 出すこともできるのである。したがって,階名というものは,異なる2つの絶対音高を特 定(判別)したり,あるいは,音階を聴いて,それが何調の音階であるかを判別すること

は不可能に近いことなのである。したがって,彼のいう「指導方法のレベルで解決を試み る」ことは不可能であり,「移動ド感覚」を訓練すればするほど「絶対音高感」は定着さ せにくくなると思われる。

 2.楽譜の存在と読譜指導のタイミング

 文部省では新しく学習指導要領に「基礎」の領域を設定した。そこで音楽教育研究ll/

71Nα67では「基礎の指導」を「読譜指導」という角度から捉えた「読譜指導のタイミ ング」という論文を特集している。そこでは読譜指導の音感や唱法について論じるのでは なく,読譜指導の開始時期とかその必要性などについて論じられているようである。

 まず梅本尭夫は「読譜の心理」という論文貯)のなかで「読譜のレディネス」について心 理学的な見地から「音符や楽譜の大きさあるいは,色音符などによって楽譜を視覚的記号 として考えた場合の,楽譜の認知の成立にどのような心的機能が前提とされるか,そのレ ディネスのない時にどのような困難が生じるか」について述べている。このことは読譜学 習を開始しようとする指導者にとって極めて貴重な示唆であると思われる。また「聴唱か ら視唱への移行」については,聴唱による指導が長引けば長引くほど過保護になると警告 している。そしてさらに,楽譜の存在価値と読譜のメリットについて,子どもに充分理解 させた上で,読譜指導を行なうことが大切であると述べている。

 このことは楠瀬敏則もまた「音楽教育における読譜の意味」鰺)の中で現場教師の立場か ら同じことを論じており,彼は特に「楽譜の表す音の物理的な性質の面のみに目を向けら れた機械的指導は読譜をつまらないものにし,読譜嫌いを作ってしまう」と忠告を発して いる。そして「読譜をしながら音楽を教えることは,楽譜の表す音楽の客観的な面を正確 に教えると同時に,楽譜の表し得ない音楽の主観的な面(音楽的内容とか,インスピレー ションなどを含む)と楽譜の間のつながりを感じさせながら,いつも指導していくことが,

本当の音楽指導であり,また意味のある楽しい読譜指導である」と述べている。このこと

は音楽指導の本質的な問題であり,音楽を指導する教師は充分理解・認識しておく必要が

ある。さらに彼はa「拍の流れの読とり」,b「リズムパターンの指導」,c「音高の指

導」,d「フレーズの指導」など読譜指導について具体的な方法を述べている。しかし

(12)

「音高の指導」については「階名唱の際,補助手段としてくかな譜>を用いる」ことを示 唆しているのみで,音感や唱法についてはなにもふれてはいない。

 大和淳二は「公教育における読譜指導の変遷」29)について,学習指導要領に示された読 譜指導に関する問題を年代順に検索し考察を加えている。その中で特に彼は「読譜指導に 関する今後の課題」として「従来の読譜は,一つ一つの音符を階名で書いたり読んだりす ることであったが,今後は,音のまとまりやフレーズを階名や自由な音で歌うことである」

というように読譜本来の本質的な目的を指摘したものとして注目に値する。

 さらに岩淵竜太郎は「音楽教育において読譜は万能か」30)という 「読譜をめぐる諸問題 についての一般的考察」論文の中で,まず文部省が学習指導要領に示したく基礎>という 項目に対して「ソルフェージュの領域のものを音楽の基礎として児童・生徒に修得せしめ

ようとする考え方」として一応評価はしているものの,「ソルフェージュというものが音 楽の基礎であるためには,ソルフェージュが『音楽のイメージ作り』でなければならない」

といっている。そして「楽譜を読むことがソルフェージュであり基礎ではあるが,楽譜と いうものは決して音楽という目的的実体ではなく伝達手段の一種なのであるから,読譜指 導は音楽をするという目的のための手段であることを明確に位置づけた上で指導すべきで ある」と述べるとともに,音楽を指導する教師は「手段と目的とを正しく位置づけて,<

音楽をする>という目的のための手段であるというきわめて当然の考え方をたえず確立し ておく必要がある」と強調している。

 次に久米孝義は「ある読譜指導の出発」31)と題して現場教師の立場から,読譜指導につ いて詳しい実践論を述べている。彼はまず「基礎力とは何か」について「第一は,無意識・

無目的に,自然の環境により,長時間かかって経験し得た基礎力で,しかも,それは応用 力・発展性・創造性に及ぶものでなければならない。第二は,意識的・目的的に得る基礎 力でなければならない」と述べている。さらに,もうひとっ下位の基礎として彼は「指導 者がその音楽に感動して指導することと,多度数的多唱奏的な指導方法を用いる」ことに よって基礎力を定着させていくことが大切であることを強調している。そしてそれを「階 名聴唱から階名暗唱そしてアレンジ唱」といった具体的な指導方法によって定着させるこ とを提唱している。しかし,この具体的な方法は,ともすると音楽の学習が目的ではなく,

階名唱することが目的になる学習に陥る危険性を多々含んでいる。したがって,筆者は,

基礎力を身につけるための音楽学習に陥ってしまう危険性があると考えられるので,指導 者はこのことに充分留意して指導すべきである。

 特集のテーマである「読譜指導のタイミング」という視点から見ると,次の相原末治の

「二年生からの読譜指導は正しいか」32)という論文が最も注目に値する。彼はまず「二年生 からの読譜指導は正しいかという問いに対してイエスかノーで答えるのはきわめてむずか しい」と述べ,その理由として「イエスにしてもノーにしても,それを実証するだけの科 学的資料が必要であるが,それを持っていないからだ」といっている。しかし筆者は,こ の答えを裏づける科学的資料を得るための実証実験を行なうことこそ,今日のわれわれ音 楽教育研究者に与えられた重要な課題ではないかと思っている。

 ところで彼は,その科学的資料を持たないために学習指導要領と教科書を手がかりに,

まず「読譜ができるまでのプロセス」として,

 ①メロディーを正しく歌える。

(13)

古田:我が国の音楽教育における読譜の歴史的な変遷について[V日

47

 ②メロディーを階名で歌う。

③メロディーが階名で翻訳されて聞こえてくる。

 ④階名を音に翻訳する。

というような読譜指導のための4段階の学習方法を提唱している。しかし,④の階名を音 に翻訳する段階で彼は「五線上にあらわされた音の高さを階名で,あるいは音名で読むに しても,正しく早く読めなければ意味がない」というように読譜本来の目的と意義につい て明言している。このことは筆者も全く同感である。そして,それにはまず「五線譜の各 部の名称を明確にすることによって楽譜の表象力が養われる」と彼はいっている。このこ とは五線上の名称を固定化することを意味しており,それは,取りも直さず固定ド唱法を 推奨していることになるのではないだろうか。

 次の渡辺陸雄もまた「なぜハ長調から出発するか」器)という論文の中で,自分が移動ド 唱法から読譜指導を始めて失敗した例について,「読譜指導の初期の段階から,視唱の移 動性を促進させるために,いろいろな調で視唱する指導を行なったところ,児童にとって は予期以上の抵抗があった。知能的にも,音楽経験からしても,調の頭の切換えは,おと なが想像するほど簡単なものではない。それこそ学習においては混乱をまねく方が大きい といった方がよかろう」と回顧しながら「調の変化(移動ド唱法)による視唱は重労働で あった」と告白している。したがって彼は,視唱の開始段階では「習慣や直感を重視し」

ながら,「児童の発達段階を考えくハ長調>から視唱を開始するのがよい」と提言してい る。さらに移動ド唱法による読譜指導を導入する場合,特に低学年の児童の場合には「階 名暗唱曲を多くすること」や「ハ長調の音階を利用して, ほかの調への移調により,移動 ド唱法をつかませる方法」を提唱している。しかし筆者は,この階名暗唱曲を多くする方 法は,移動ド唱法の音感を定着させる方法としては有効であるが,視唱能力の促進にはあ

まり効果は期待できないと思っている。

 3.パターン認識にもとずく読譜指導

 田中正は「パターン認識にもとずく読譜指導(上)」訓)の中で,まず「中学校の音楽教 育において,最大の問題のひとつは,読譜能力の不足である」と指摘している。そしてそ れは「小学校に入って,音楽の授業が始まり,ここに系統的学習が行なわれても,わずか な時間と少ない年月によっては,音楽における文字に相当する楽譜を与えても,音符に対 する抵抗は,小学校一年生における文字の学習に対する抵抗より大きいものがある」ため になかなか進まない。まして「全国的にはこれさえ行なわれず,聴唱法によって教材が歌 われている現状であり」したがって,中学生になっても読譜能力が極めて低く,これは言 語の発達における幼児期と同一(のレベル)であると嘆いている。そして,このように読 譜能力の低い原因は「歌唱教材と読譜指導の一致しない点」にあると指摘している。

 そして彼は,中学生を対象に「小学校で習得した(音楽の旋律の〉パターン認識を利用 すれば,読譜に対する抵抗も少なく,興味ある読譜ができ,読譜能力を促進させることが できる」という仮設をたて,「読譜力調査・要素別難易度調査・弁別力調査及び教材分析」

などを行なっている。

 その読譜力調査における「2.環境別による読譜能力調査」結果の中で,筆者が特に注

目した点を指摘してみたい。それは,Bグループで72%,Cグループで12%の生徒が(調

(14)

査課題の楽譜がハ長調・四分の四・4小節の簡単な旋律であったとはいえ〉独力で視唱で きたという点である。多分この生徒たちは,この視唱の調査に対して,自分が持てる能力 を最大に発揮して積極的に視唱しようと努力したことであろうと筆者は推察するのである。

このように教師が児童・生徒一人ひとりに読譜の必要1生(この場合生徒は試験のつもりで 挑戦したことであろうと思われるが)を充分理解・認識させることができれば,生徒は自

ら積極的に,且つ真剣に努力し,素晴らしい結果を生み出すものであるということがよく 分かった。さらに筆者は,生徒が自らの力で楽譜を視唱しようと努力したことによって音 楽を獲得することができた場合には,教師は共に心から喜び賞賛してやる必要があると考 える。そうすることによって,生徒は自らの努力によって勝ち取ったく音楽する喜び>を 自覚するとともに,読譜の必要i生と音楽学習の楽しさを強く認識し,主体的に音楽学習を 展開するようになると考えられるからである。

 次に彼は「弁別力調査」と「記憶度の高い曲の分析」をもとに「ソルフェージュの作成」

を行なっている。それについては「パターン認識にもとずく読譜指導(下)」蕊)に「読譜 のプログラムの一例」として「1.ハ長音階の順次進行」について楽譜1〜8を示しなが ら,その読譜指導の方法を具体的に述べている。同様に「2.ハ長調の1の和音の分散唱」

についても楽譜9〜13を示しながら,その読譜指導の方法を具体的に述べている。さらに

「3.ハ長調の順次進行と1の和音の分散唱の混合練習」として楽譜14のA〜Eが示され ており,その後に「プログラムの作成過程の項目の一例」が23項目にわたって示されてい るが,これらの「練習教材」は段階性や系統性がよく考慮されてはいるものの,あまりに も機械的な旋律で,しかもその練習過程があまりにも複雑である。したがって筆者は,彼 が否定しているコールユーブンゲンと大差ないような感じがする。それよりも,彼が「弁 別力調査」のために小学校音楽教科書から抽出した79曲からなる「4小節のテーマ集」お)

を視唱用テキストとして利用し,生徒に階名唱させ個人的にチェックしてやるといった方 法で読譜指導を行なった方が,生徒も積極的に,且つ楽しんで視唱練習をするのではない かと思われる。

 4.日本音楽教育学会  (1)「階名」とは音の性格

 「はじめ」にも述べたが,昭和45年10月に日本音楽教育学会が発足し,第1回の研究発 表会が京都会館で行なわれ,その翌年の10月に,第2回の研究発表会が名古屋市教育会館 において開催された。その研究発表会において東川清一は「階名を考える」37)という研究 発表を行なっている。その内容は後日(昭和45年12月)発刊された「音楽教育学く創刊 号>」に論文の形で掲載された。

 そこで,まず彼は,その論文の冒頭において「<固定ドか移動ドか>と問われるが,そ れが問いの形をなしている限りにおいて,<固定ド>のドレミ……とく移動ド>のドレミ…

・は別物である。」と述べ,その理由について,「ドレミ……はそれ自体では何の意味も

もたず,使うほうの側から意味をあたえられるべき記号である」からだといっている。そ

して「<移動ド>のドレミ……は何にたいする記号だろうか」という疑問にたいして「そ

れはく音の性格Toncharakter>にたいする記号である」と先に結論を述べた上で,さら

に彼は,移動ドと固定ドのドレミ……が「それぞれ別々のモノにたいする記号である」と

(15)

古田:我が国の音楽教育における読譜の歴史的な変遷について[VI] 49

するならば「それぞれ何にたいする記号なのかの問題はさけられない。また別々のモノに たいする記号というのであれば,何故同じようにドレミ……が使われるのか」など,いく つかの疑問を提起している。そして,音の性格というものについて極めて論理的に詳しく 音階理論を展開したあと,「<階名>とは音の性格にたいする記号に他ならない」それは

「ドレミ……という音節自体がく階名>なのではなくて,性格記号として用いられてはじ めてく階名>となるのである」と結論を述べている。

 さらに彼は音色についてもふれており,「<固定ド>のドレミ……は音(符)名と解さ れる。ただしく音名>はただたんにく絶対音高記号>ではない。<音名>とは,ある音高 をあたえられた音の性格にたいする記号に他ならない」(中略)「とはいえ音名によると,

概して高さが同じなら同じようによばれるようになるので,音名はく階名>の肩代わりを することができない」とすれば,「<固定ド>は<12音音楽的絶対音高記号>でなければ ならない」ことになるので「12の記号を考案するようにすすめたい」と提案してこの論文

を閉じている。

 この東川の音階理論は確かに階名音そのものの性格について,音楽理論的な角度から理 路整然とした説得力のある説明で行なわれており,階名音の性格についてはよく理解でき るのであるが,これまで多くの音楽家や音楽教育者たちが論じてきた「移動ド唱法による 読譜の場合の,転調によって起こるく階名の読み替えの煩雑さや複雑さ>を解消する問題 について,何もふれていないのが残念に思われる。

      (次論に続く)

[註と引用及び参考文献]

[註1]拙論「我が国の音楽教育における読譜の歴史的変遷について[Vl p.31 長崎大学教育    学部教科教育学研究報告第17号 平成3年6月

[註2]別宮貞雄「専門教育ではなぜ固定ドが多いか」音楽教育研究6/ 70 No50 p.64〜71    1970 音楽之友社

[註3] 「誌上シンポジュームくわたくしの唱法>」音楽教育研究6/ 70No50p。98〜128,

   1970 音楽之友社

[註4]註2のp.65の下段からp.71の下段までの文章を勝手に筆者が要約したので,著者の意図

   を充分且つ的確に捉えていないかもしれない。その点については原文を参照されたい。

[註5]長谷川良夫「私の場合いま・これから」註3の論文集 p.98〜100

[註6]畑中良輔「音楽をくたのしむ>立場から」註3の論文集 p.100〜102

[註7]拙論「唱法としてのく固定ド>とく移動ド>の問題」音楽教育学 第16号 p.100 日本

   音楽教育学会 1986

[註8]拙論「教師教育における音楽の基礎学習について」p.42 ここでは「三者共存(固定ド・

   移動ド・未定着)」としている。長崎大学教育学部教科教育学研究報告 第15号 平成2    年6月

[註9]萩谷納「専門教育につながる基礎教育を」註3の論文集 p.102〜105

[註10]呉暁「理論的理解の下での共存」註3の論文集 p.105〜107

[註ll]註8と同じ

[註12]永富正之「固定したり,移動したり」註3の論文集 p.107〜109

[註13]板野平「移動ドを加味しつつ」註3の論文集 p.109〜lll

(16)

[註14]安城政三「現実に則した適切な唱法」註3の論文集 p.ll!〜ll3

[註15]山田浅蔵「移動ドがよりベターである」註3の論文集 p.l!3〜ll6

[註16]村谷達也「慣れと便利さと必要度と」註3の論文集 p,ll6〜ll8

[註17]坂田真理子「一貫したソルフェージュ教育のために」註3の論文集 p。ll8〜120

[註18]坂本慶之祐「一つの方法を一貫して」註3の論文集 p.120〜123

[註19]山田敦子「読譜指導を固定ドで」註3の論文集 p.123〜125

[註20]岡本俊夫「子どもの可能性を伸ばすために」註3の論文集 p.125〜126

[註21]註3の論文集のp.125中段に掲載されている「音名表」

[註22]中田喜直「音名は固定ドで,感覚は移動ドで」註3の論文集 p.127〜128

[註23]本問道夫「私の唱法」音楽教育研究7/770 No51p.104〜106 音楽之友社

[註24]千成俊夫が「読譜指導の原理と方法」音楽教育研究9/ 70 No53p,12〜23 音楽之友    社

[註25]同上書 p.!6

[註26]近藤幹雄「教育のなかの唱法」音楽教育研究1/ 71 No57 p.28〜32 音楽之友社

[註27]梅本尭夫「読譜の心理」音楽教育研究ll/ 71 No67 p,56〜63 音楽之友社

[註28]楠瀬敏則「音楽教育における読譜の意味」同上書 p.64〜71

[註29]大和淳二「公教育における読譜指導の変遷」同上書 p.72〜80

[註30]岩淵竜太郎「音楽教育において読譜は万能か」同上書 p.64〜71

[註31]久米孝義「ある読譜指導の出発」同上書 p.90〜97

[註32]相原末治「二年生からの読譜指導は正しいか」同上書 p.98〜105

[註33]渡辺陸雄「なぜハ長調から出発するか」同上書 p。106〜ll3

[註34]田中正「パターン認識にもとずく読譜指導(上)」音楽教育研究5/772 No73 p.128

   〜139 音楽之友社

[註35]田中正「パターン認識にもとずく読譜指導(下)」音楽教育研究6/ 72 No74 p.132

   〜135音楽之友社

[註36]註llと同書(上)のp.131・133・134に掲載されている1〜79の楽譜

[註37]東川清一「階名を考える」音楽教育学く創刊号> p.85〜90 日本音楽教育学会 1971

参照

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