最近の経営学関係書と問題の動向
−書評に寄せて経済学と経営学の接点を探るー
川 崎 文 治
序
経営学と経済学の接点
一日本経営学会編﹁日本の経営﹂
二 経済学からのアプローチ
Ⅲ 都留重大編﹁現代資本主義の再検討﹂
② 現代資本主義論補遺−ドッブ︑クロンロード︑.ハラン
三 経営学からのアプローチ
川・市原季一著﹁西ドイツの経済と経営﹂
② 小高泰雄編﹁産業と経営﹂
︵i︶小高泰雄稿﹁現代における産業と経営の課題﹂︑﹁長期経営計画についての一考察﹂
︵⁚11︶尾崎最稿﹁経済成長下における企業行動﹂
最近の経営学関係書と問題の動向二九
経 蛍 と 経 済
O 序
乙こに最近というのは昨年の終り頃から現在に至り︑経営学関係書というのは︑広く経営の問題に関連する経済学
関係書にも触れることを意味している︒尚右の範囲を区切りながらピックアップされたものは︑
行本(訳書を含む和書)と主要論文の数箇によったもので量的に問題の全領域をおおうものではない乙と︑∞さらに
村主として主要単
取上げられた内容乃至問題領域についても筆者なりの解釈によるものであって質的にも制限されたものである乙とを
お断りしておかねばならない︒
りうるのはせめて月刊雑誌による他ないが︑経営学関係では先に﹁経営セミナー﹂︑
刊になり︑固有の場を失い︑各研究機関誌か︑学術論文としては︑既に歴史的に確立されている﹁会計﹂︑ 又新しく動いている現実社会の中で︑どの様に経営学理論が指導的又対応的に表現されているかを比較的速かに知
(P
改題)が廃R
﹁綜
合経
営﹂
﹁企
業会
計﹂
︑
﹁産業経理﹂など会計学関係誌に散見されるものに依らねばならぬ︒さらに実務誌としての﹁マネジメント﹂
﹁近代経営﹂︑﹁生産性﹂︑
か奇特な出版元で﹁経営﹂とでも銘打って月刊誌を出してくれないものか︒この点学界の諸先輩にも促進方御願いし ﹁
ピジ
︑ネ
ス﹂
︑
﹁I
E﹂に混る珠石篇を探す他はない︒かねて感じている所だが︑何処
たい
とこ
ろで
'あ
る︒
経 営 学
と経
済 学
の
接点
日本経営学会編﹁日︐本の経営﹂
首題に入る前に経営学会最近の総括としては︑昨年秋(昭和三四年十月二九︑三十︑三一)福岡大学でもたれた第
一三
会全
国大
会の
記録
が︑
﹁日
本の
経営
﹂
(森山富日目︑昭和三十五年五月)と題して上梓された︒乙れは第一部統一論題
とし
て︑
一︑経営と地域開発(福島大渡辺哲男︑北海道大伊藤森右衛門︑運輸調査局高橋秀雄︑神戸外大金田近二︑
神戸大米花稔︑同竹中竜雄の六氏)︑二︑ビッグビジネスとスモールビジネス(東京経大吉村寿︑中央大長谷川広︑
大阪府立産業能率研村本福松の三氏)︑経営組織の基本問題(武蔵大又城一郎︑九州大副田満輝︑一橋大山城
章︑大阪市大安部隆一の四氏)に亘り︑第二部自由論題(十七氏)を経て︑第三部は統一論題の討論記録となってい
る︒夫々について詳論の余裕はないが(尚発表者で記録もれのあるのも残念である)統一論題及び自由論題さらに討
論と極めて活滋であった︒唯統一論題の三要素自体の統一がなかった点がいささか気になったが︑統一論題というの
はやはり一本にするか︑せめて類似要素に区分するかした方がよいのではなかろうか︒しかし夫々現代的課題であっ
たことは勿論である︒尚欲をいうならば筆者の参加した﹁ビッグビジネスとスモールビジネス﹂の討論会では︑夫々
吉村氏はマlケツテイング論(﹁少占企業の非価格方策﹂)を︑野口祐氏は﹁ビッグ・ビジネスの再吟味﹂を基礎論
的に︑長谷川氏は人事管理側面(﹁わが国におけるヒューマン・リレーションズの一側面l大企業と中小企業への導
入をめぐって│﹂)を極めて明快に説得力を以て展開されたのであるが︑いわゆるビッグ・ビジネスとスモールビジ
ネスと掲げられた統一論題の意味が全体として追求されることの少かったのは残念であった︒(尤も発表者の中には
自由論題から改編された万もあった様である)︒さらにビッグ・ビジネスとしてもできれば基礎論の上に︑或いはそ
の中にマiケツテイングの必然性論理や︑人事労務管理面での必然的展開情況などを綜合的にかみ合わせて論議する
というのも(その為には報告者と質問者間のみでなく報告者同志で討論することも含めて)意義あり且つ必要なこと
ではないかと思はれたDこれはしかし学会のもち万に関する問題であろう︒この点会計学界方面の討論会は参考にな
最近の経蛍学関係書と問題の動向
経 告 と 経 済
ると
思う
︒
ともあれ右の発表︑討論に強調されたビッグ・ビジネスの価格政策(管理価格)や資本の強蓄積︑技術革新とヒユl
マン
リレ
lンションズの発展など︑問題の基盤は広く国民経済構造とその分析の中に在ることが看取されるし︑逆に
ピッグ・ビジネスの経営問題は国民経済学的分析の中で︑或いはそれと共に把握されねばならぬ点が注意されねばな
らない口乙れが次に経営学と経済学の接点として取り上げようとする視角をなす︒
経 済 学 か ら の ア プ ロ ー チ
︑ ︐ ︐
z ' 4・i︐SE︑
都留重人一編﹁現代資本主義の再検討﹂
乙の点に関してここでは専ら︑いわゆる﹁現代資本主義論﹂よりするアプローチを取上げたい︒筆者としてはそれ
乙そが基本的なものと思うからである︒
現代資本主義論は乙乙数年来世界のマル経︑近経学者がそれぞれ論障をなってきたテiマであり︑とくにマルクス
学派における教条主義的解釈への批判と自己批判が︑とくにアメリカにおける独占資本擁護論批判と絡んで︑わが国
においても一昨年以来活滋に論議されており︑昭和三三年末から昨年に亘って﹁現代資本主義講座﹂(東洋経済新報社)
が刊行され︑多くの単行本︑論稿と共に︑昨年創立の﹁経済理論学会﹂の創立大会の統一テlマとなり︑又﹁経済学
史学会﹂春季大会でもこの種テlマの取り上げ方が要望されるという情況である︒筆者も亦昨年秋の九州経済学会(
於久留米大学)において﹁現代資本主義論の企業観﹂と題して︑経営学と経済学の接点について模索を誌みた次第で
ある︒その要点は以下の検討に大略再現する乙とができる︒しかし乙乙でも亦右の多くの経済学者の経済学的アプロ
ーチを追跡することは︑われわれの任務でもなく︑又能力の許すところでもないので︑それらのアプローチを最近刊
行された都留重人編﹁現代資本主義の再検討﹂(岩波書居︑昭三五)に依って整理しつつ︑首題に触れてゆきたいと思
う︒本書は先にあげた﹁現代資本主義講座﹂所収の都留教授論稿(﹁現代資本家の資本主義観﹂︑﹁近代経済学の立
場に立つ現代資本主義分析の諸問題﹂他一篇)及び﹁資本主義は変ったか﹂
(東
京出
版︑
昭一
一一
一一
一)
における論稿﹁資本
主義を変える道﹂をまとめて第二部とし︑第一部はI昭和三三年一︑二月の﹁世界﹂誌上に発表されて我が国の論壇
並びに学会に注目された﹁資本主義は変ったか﹂を問うことに始まり︑E続いて世界の著名の学者への都留教授によ
る設問(これは工の論稿を整理したもので第二部終りに記載されている)への回答がある︒諸学者は順に﹁重要な幾
つか
の間
題﹂
(ジョン・ストレイチ
l)
︑﹁資本主義は変るか?﹂
( ポ
lル・スウイージー)︑﹁変るもの変らざる
‑ア・クロンロl
ド)
︑
(シヤルル・ベトレイム)︑﹁一新しい段階﹄について﹂(モl
リス
@ド
ツブ
)︑
﹁経済力と資本主義の生存﹂ ﹁構造変化と循環性恐慌﹂
(ジ
ョン
・
K・ガルブレイス)︑﹁過少消費にたいする省察﹂
( ヤ
もの
( ポ ﹂
l
ル・
A・パラン)(スウイージーと共同作業)と論陣をはっている︒Eは同じ設問に対する日本人による寄稿
として︑﹁現代資本主義と景気循環﹂(小掠広勝)︑﹁長期繁栄の諸条件﹂(吉田義三)の二氏の論攻が政められ︑町﹁残さ
れた問題は何か﹂が都留氏によって総括されている︒右を通じて明らかなように︑テーマ及びアプローチ共に経済学
的であり直接に経営学体系におさまるものではない︒しかしそこに取扱われている問題の要素︑その性格をみるとき
われわれは現代資本主義の包蔵する歴史的な課題が相当な部分現代の経営学の問題領域と相おおうことを痛感せざる
をえない︒このことはまさに現代経済学のとくに徴視的アプローチと接合するグlテンベルクの方法や︑
(経
済学
者
ではシュナイダーがあげられているが筆者は詳らかにしない)経済学との方法的類縁関係を肯定するカlル・ハック
ス氏(後述)や﹁西ドイツの経済と経営﹂について綜合的︑提携的視角から説く市原季一民らにみられる様に︑その
方法︑内容共に今日の経営学体系を枠ゃつけるものとしての経済学的問題領域と問題意識の吸収は必須のものとなって
最近の経蛍学関係書と問題の動向
経 蛍 と 経 済
四
いるといってよいであろう︒筆者も亦経済と経営との︑経済学と経営学の相互作用こそ今日的課題と信じている(尤
もその場合経済体制観が問題だが)︒この点から﹁産業関係講座﹂(ダイヤモン下社︑昭三五)とくに第二巻小高泰雄編
﹁産
業と
経営
﹂
(昭
三五
︑五
月)
(後
述)
における企業活動の問題意識や︑﹁現代日本産業講座﹂
(岩
波書
居︑
昭三
四︑
十月第一巻)の産業論の基本的理解として﹁時代の求めている産業論は︑もっと生き生きと︑技術革新との関係にお
いて︑そしてまた技術革新を担当する産業活動の単位としての企業(会社)との関係において︑産業の生成発達とそ
の構造と機能とがとらえられなければならないであろう﹂
(I
有沢広己﹁産業論のはじめに﹂六ページ)とされる
が︑論議としては既に中間段階のものといってもよい時期にあるもので︑ 乙との中に経済・技術・経営を結ぷ新しい意識と問題領域の形成を見ることができるであろう︒
さてわれわれの分析の場である﹁現代資本主義の再検討﹂に還ろう︒乙れは纏めとして今日上枠されたものである
その前後に他の内外の多くの学者による重
一九五九など)日本生産性本部︑要な見解(とくに有沢広己氏を団長としたアメリカ経済調査専門視察団の報告書︑
があるので必ずしも結論的のものではないが︑唯問題設定と︑それぞれの問題の位置づけ︑分析の万向だけは一先ず
理解しうると思われ︑又その為には至極便利と思われるところから本書を整理するζとによって首題の意図をあらわ
してゆきたいと思う︒そのためには先ず経済学的問題領域をも必要な限り通観しておかねばならない︒
問題設定は先ずアメリカ資本主義を積極的に弁護する人々が︑いわば﹁恐慌が過去のものとなった﹂ということの
説明にあてられる三つの側面の検討から始まる︒乙こに三つの側面とは︑的技術革新の規模︑同経済政策の進化︑
例経済制度の変貌に表わされる︒
4イ)
技術革新の規模
乙れについてはとくに第二次大戦後開花した原子力利用︑オートメーション︑エレクトロニックス︑エlロノlテ
イックス︑新合成物質に衰微される第二次産業革命とも呼称される一連の﹁技術的革新と︑それに伴う設備投資とが
戦後の高原景気を説明する重要な一環を︑多くの論者によってになわされていることだけは確かである﹂
稿︑
前掲
雲︑
入
l
九ページ)が︑元来アメリカにおける技術革新そのものが︑第一には国防支出の影響に依存したこと︑(都 尚重 人
すなわち大戦の軍事技術及び工業化への政府支出が︑タダの様な値段で民聞に受継がれ補助されたという危険負担の
軽減による発展という有機的関連と︑第二に設備更新の迅速化をもたらした事情︑すなわち戦中戦後にかけてのアメ
リカ産業の享受した生産性の相対的優位と︑それに哀付けられたアメリカ工業の﹁独占皮﹂の増大︑それは又国際的
工業上の高利潤率を維持することを可能にし︑社内留保を厚くし設備更新の可能性を現実化したのであ
価格
競争
で︑
る︒乙れに加えて加速償却の特別税法がさらに自己金融を厚くしたのである︒しかし第一の軍関係政府投資に連る民
間の設備投資は暫時は維持されるとしても︑生産性競争はすでに西独︑日本等の異常な成長によって制限されると共
に︑労働力コスト高は高利潤l社内留保の可能性を安易に保証はしなくなったし︑投資率の上限はみえているといわ
乙の技術革新についてはさらに別の観点からも触れられるし︑又外国学者の見解について整理してゆ
くつもりだが︑とりあえずここでは始めの設聞にかえって都留教授と共に﹁繁栄の持続を説明する重点は技術革新に れ
る︒
(同
稿)
あるのではなく︑制度そのものの変貌にある﹂
(同
)こ
とに
思い
を致
すベ
ェき
であ
ろう
︒
(ロ)
経済政策の進化
これはかんたんにいえば﹁政府は︑税収と支出とのあいだに計画的なギャップを設けて︑総体的に景気の伸縮に寄
与しうるだけでなく︑それぞれにちがった影響力をもつもろもろの租税項目の機能を適宜利用して︑情勢に応じた刺
戟や抑制を︑経済の特定分野にたいして加えることができる﹂(同稿︑二ページ)乙とを意味し︑いわゆる﹁自動調
節装置﹂(ぎE・E
己‑
ωE
EN
円)と呼ばれる租税措置などはこの景気調整効果をもっとされるのである︒O
最近の経蛍学関係書と問題の動向
五
経 営 と 経 済
一 ム ハ
ヤ市
経済制度の変貌
さて刊にみた技術革新も︑同の経済政策も︑結局は資本主義制度の変貌に連つてはじめて資本主義的恐慌を過
去のものということができるということは︑われわれも︑これを認めざるをえないが︑それは二つの観点から分析され
る︒一つは資本主義制度の﹁無政府的﹂性格の止揚の視点から︑第二にはいわゆる﹁所得革命﹂論にあらわされる所
得分配不平等の補正の視点がそれである︒ここではわれわれの首題のために︑第一の視点から覗いてみることにする︒
きて資本主義制度の﹁無政府的﹂性格が止揚されたか否かはここでは二つの本質的要因に即して検討される︒
(同
稿
一五ページ)すなわち第一は︑無数の私的所有者による競争の時代は去って︑独占又は寡占の状態を支配的とす一 四
l
るもので︑その要点は﹁こうした状態の下では企業家が市場の価格等に依存し支配されるかわりに︑ある程度までそ
れを支配しうるという事実にほかならない﹂(同稿︑十四ページ︑傍点都尚氏)︒乙れは十九位紀の資本家にはみられなか
った
こと
で︑
G
Eの
コ
lディナー社長になると﹁わが社では税引後売上にたいして少くとも七%の利潤を得られるよ
(Z
2弓J向
︒ユ
内叶
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2
・ 印 吋
・ 印
・ 印 )
うな投資計画でなければ︑これを実施しないことにしている﹂
る︒この様な企業家精神ないし企業活動の原理︑換言すれば﹁利潤率のほうをまずきめてかかって投資計画を行うと
いう態度は︑製品価格(と市場を!川崎) と言い切っているのであ
をある程度支配しうる自信を秘めたもの﹂(同)というべく︑さらに市場
の価格に支配されぬことは︑市場の利子率にも左右されぬことと関連するもので︑﹁すなわち独占大企業は︑新投資
を社内留保で賄えるところまで(従って市場利子率に依存するような社外資金の借入を必要とせぬ程度まで)製品の
G
Mの如︑きは︑社内留保額が設備拡張資金額を上廻
(同
)の
であ
る︒
価格を高める力をもっていることを意味する﹂
るので︑余剰資金を使って︑同社製自動車を買う人々の為の消費者信用会社を作る所まで︑いっているという
(同
稿
一五
ペー
ジ
) D
昨今わが国でも盛行している寡占的大企業における長期計画の基礎をなす﹁市場占有度﹂の予測とい
うこと自体︑まさにこの様な十九世紀的市場原理を逆転するものを表わしているというべ︑きであろう︒即ちそこには
自由競争と独占との﹁中間形態﹂乃至﹁混合物﹂といわれる﹁寡占﹂競争の存在と︑それによる市場原理(価格︑需
給法則による)からの離脱︑即ち期待或いは計画利潤︑期待乃至計画留保︑そして計画投資という一連の企業家的計
画原理による市場支配︑市場占有という新事態が現われることに注意しなければならない︒これらの企業家活動原理
は又新しい経営者イデオロギーとして定着されると共に︑その内容は経営学における最近時のトッブ・マネジメント
のデシジョン・メイキングの問題としてクローズアップされているものに関連し︑経済的行為即ち経営外環境の透視
と適応を実現することが現代経営者の企業活動の始点をなすのである︒そしてその具体的志向は計画利潤であり︑計
画留保であり︑開発された研究︑技術革新の工業化への設備並びに在庫投資の期待である︒これは裏返せば利潤計画
乃至利益管理として予算統制l原価管理を経て経営内管理体系を規制するものとなり︑さらにこれらの過程で生産さ
れたものの市場占有の為には︑価格政策とマlケッテイング政策への狂奔が伴うことになら︑ざるをえない︒かくて︑
いう
事実
﹂
﹁資本主義の無政府的性格の止揚﹂のための第二の契機たる﹁市場における価格機構のはたらきが著しくにぷったと
(同
稿)
の指
摘と
なる
︒
いるといわれる(同)ように︑
問題に他ならない︒即ち寡占体のうちでも特定の大企業がプライス・リーダーとなって他の企業がこれに従い︑市況 いわゆる﹁管理価格﹂ これは第一の寡占体の活動ほどはっきりしないが︑
( 包 B
Z5 20
品宮
2 山
)
の存在をめぐる市場経済原理の歪曲の アメリカではかなり行われて
の変動に拘らず一定期間これを維持(高価格水準に)するという事実からみられることは︑換言すれば﹁価格が経済
与件変動のバロメーターでなくなったことと共に︑価格等のバロメーターを通じて伝播される悪循環の波がしばしば
中断されることをいみする﹂
(同
稿︑
一五
ペー
ジ)
であ
ろう
︒
さらにわれわれはこの様に高水準に管理された価格政策への経営者のデシジョンと共に︑後に触れる高圧的マlケ
最近の経蛍学関係吉田と問題の動向
七
経 営 と 経 済
入 ッ テ イ ン グ
(匂
円︒
ω ω
ロ円︒件︒
m m 凶
円︒
)
への必然的要請という企業活動を︑こ乙では経営学体系における販売管理の包摂と
重視︑乃至は経営過程における生産論と販売論の一体性という理解の中に投影されているのをみることができるとも
いえるであろう︒それはとくにグlテンベルクの﹁経営経済学原理﹂の体系(第一巻︑生産論︑第二巻販売論︑第三巻
財務論)及び﹁経営経済学入門﹂(池内信行監訳︑千倉書房︑昭三四)第四章﹁経営的給付生産﹂に続いて第五章﹁給付
実現(販売)﹂を位置づけて次の様に説いていることに端的に表われているといえよう︒すなわち﹁市場経済的な諸
条件のもとで活動する企業は︑その給付それ自体を︑市場へ販売するように努めねばならない︒企業からこの職分を
とりさることはできない︒したがって販売経済の領域ほど︑企業者のエネルギーの動きが決定的に重要な領域はほか
( グ
1テ
ンペ
ルグ
﹁入
門﹂
一
O
一ペ
ージ
)と
明言
し︑
にな
い﹂
しかも﹁ここに︑全体・計画経済的体制に所属する経営と
資本主義的市場経済における経営活動を生産!販売と総合的に把握
しようとするのである︒この様な経営的給付生産と給付実現(販売)の過程を総合的に把握しようとする処にわれわ の最も重要な区別の一つがある﹂
(同
)と
して
︑
れはグlテンベルク経営学の特質を見るともいいえよう︒しかし︑それはそれとしてそれだけでは尚一般論にとどま
る︒われわれはアメリカの寡占体における企業活動としての高圧販売に照らすとき︑グlテンベルクグの次の説明を
これに連るものとして理解することもできるであろう︒即ち﹁企業が︑市場で自己を貫徹しようとする場合に︑抵抗
に直面する︒そしてその抵抗を克服することが︑企業の任務である︒競争する諸企業の販売政策的万策は︑市場分前
の維持または拡大についての争いをはげしくする﹂
(同
)と
︒
乙の競争は遂に独占競争となり寡占競争となって文字
通り自己の貫徹を強行しようとしている︒グlテンベルクは︑このような市場抵抗(冨日目込者E2広告白)を克服し︑
販売市場を有利ならしめるための手段と可能性について︑ω企業の外部組織(出張員︑販売支庖)の拡大︑ω価格
これは又アメ
政策
︑ω
製品
形成
広告をあげ︑さらにそれらのための市場予測並びに市場分析の必要をとくが︑︑ω
リカにおいてさらにわが国において掛声高いマlケッテイングの諸問題に他ならない︒(ここではとくに価格政策か
ら問題は発展したが︑アメリカにおける寡占的ビッグ・ビジネスの管理価格政策については︑最近力プラン︑ダ
l
ラム︑ランチロツチ﹁ビッグ・ビジネスの価格政策﹂
(武
山泰
雄訳
︑東
洋経
済︑
昭三
五)
が訳
出さ
れた
が︑
これは今までそ
の重要性は多く指摘されながら具体的形成過程の不分明であった管理価格の研究に資する所大なるものがあるであろ
ぅ︒筆者も亦改めて検討したいと思っている︒)
さてこのような寡占態としての企業活動の原理は十九世紀的価格市場原理を歪曲するとはいえ︑それは尚市場の自
動的自己調節機能の減退を示すのみであって︑資本主義的無政府性を本質的︑根底的に変革するものではない︒それ
は依然として資本主義的競争の一形態に過ぎない︒のみならず高価格を維持し︑高圧販売を以て臨まざるをえぬとい
う圧力を伴ったものである︒たとえ寡占体相互の安定を保ったとして︑国民経済的合理性乃至は進歩が犠牲にされる
乙とはないであろうか︒しかもたとえば寡占的大企業の設備投資競争の盛行は過剰生産恐慌を招来しないかという疑
問に対しては︑現今の労働組合による供給独占の強さや︑生産性向上による賃金の上昇によって有効需要は保証され
るので﹁独占又は寡占化するほど︑投資計画の相互調整もある程度できることとなって︑﹃無政府﹄的な闇雲の突っ
ぱしりはなくなる︒その上価格機構の働きが不十分であることによる﹃伝播作用の中断﹂も経済安定化のためには︒フ
( 都
w国重人︑前掲稿︑一七ページ)という擁護的楽観論が展開されることになる︒乙れにはガルブレラスの貢献をする﹂
イスのいわゆる
5 0 5 0
︒ミ
︒問
︒︒
ロロ
件︒
同︿
0 5
ロ向
︒︒
君︒
円
(桔抗力の理論)
(邦
訳﹁
ゆた
かな
社会
﹂岩
波書
居︑
昭三
五)
にみ
られる様な調節原理(それは経営学にいう古仲良g
仲間
円︒
ロ
Uの分析に通じる)を以て代替する構想も含みつつ︑むし
ろ独占︑寡占乙そ新しい資本主義(恐慌を過去のものとする)の契機となるべき技術革新を可能にするというのであ
る︒そしてその理由としてあげられることは︑開技術発展がますます大規模かっ高価になってきた︑
伸 技 術 革 新
最近
の経
営学
関係
書と
問題
の動
向
九
経 営 と 経 済
O 四
を工業化にまでふみきるためには︑企業はかなり大きな市場を確保しているのでなければ︑危険の負担が大きすぎて
できない︑州︑独占企業または寡占企業は︑みずからの製品価格をある程度まできめて維持する力をもっていること
から︑技術革新の結果得られる超過利潤を比較的長く確保できるだけに︑それだけ技術革新への刺戟も強い︑
同 技
術革新じたいがますます﹁自動化﹂され︑企業の中のルlテインになってしまった︒概していえば︑
指導力によって新機軸がひらかれるような時代は去った(都尚重人︑前掲稿︑一八ページ)ということにある︒しかし右 一個人の創意や
の理由づけの中にひとはビッグ・ビジネスの独善的論理を看取しないであろうか︒同刊における市場占有の口実︑
ω
日における価格管理l高利潤1投資の強弁などは︑そもそも技術革新の可能性の保証を要請し︑それを正当化しようと
するものであるが︑元来技術革新の終局目標とするものは何であるか︒それは現代社会生活の合理的富裕の建設の為
に他ならない︒ところが寡占体の右の論理は︑ひたすら競争の為の︑グlテンベルクのいわゆる市場抵抗排除の為の
技術革新︑或いは技術革新のためだけの技術革新を追跡してはいないであろうか︒換言すれば国民経済的共同利益達
成という経済合理性を果して大局的に実現するものであろうか︑と問うとき尚本質的に過剰生産恐慌への懸念は︑
た
とえ寡占体による働きかけと共同して政府による財政的調節機能を以てしでも︑消すことはできぬであろう︒換言す
れば資本主義的無政府性は克服されないのである︒とすると︑われわれは乙乙で改めてこれまでの論議を総合的に︑
﹁資本主義の本性は変ったか﹂と問うことによって︑纏めることができるであろう︒
P資本主義の本性は変ったかH
このことを問う乙との中にも多くの基本的問題について︑われわれ経営学徒にとって深い関心を有つべきことがあ
るのであるが︑ここでも都留重人教授の立論(この立て方は又外国学者を含めて大体において承認されている)
t乙
沿
って眺めてゆきたい︒
教授は先ず資本主義の本性(或いは社会主義の本性との区別点)について次の様な基準から説明しようとする︒そ
(余剰生産物)がどういう形態をとるか﹂ということであり︑奴隷制︑特定階級用に︑又将来の向れは﹁サlプラス
上への元本
利潤と置きかえるとき資本主義の本性は次の三点に集約的に表現されよう︒
利潤が経済活動推進の動機である︒
利潤は私的資本の支配下にある︒
利潤はその大部分が投資に向けられる︒
(フ
ォン
ド)
用に用いられるに従って制度の本性を規定するものとなる︒われわれば今このサlプラスを
(前
掲稿
︑四
0
ページ︑傍点都w田氏
) 仔) (ロ)
レ
これらの本性を充たすべき利潤の実現について︑市場において価格形成と販売過程において採らるべき強行手段に カ
ついては既に触れたところである︒そ乙でも反省した様に︑その様な経営政策或いは企業家活動による市場原理の変
改も︑所詮は利潤のための資本主義的給付生産とその給付実現過程の寡占的在り方に他ならず︑資本主義本性の分析
は結局利潤の動向にかかわるべき点が明らかにされるといわねばならない︒
きて判・利潤動機(官︒
E
︒B
Z S )
の検討から入らう︒
これは経営学の歴史にあっても夙にフォードによる提唱(買え伊丹自己
20
でなく
8 2 R O B 2 2 0
を)
や︑最近
におけるドラッカーの主張(企業維持のための
における企業維持と営利性原則論(﹁経営学の基礎﹂)などによって基本的問題となっていることは周知の通りであ
出 口
叶 己
円 ︒
︒ ︒
ω同への利潤概念の発展的解釈)︑さらには藻利重隆博士
り︑われわれも亦現代経営学追求に当っては︑何よりも先に或いは基本に据えなければならぬ問題と考える︒
きて先にも市場占有の計画性について述べた様に戦後の企業行動はサンプル調査によっても﹁限界政入と限界費用
とを等しくさせる﹂様に生産計画を建てているものではなく︑又そんな技術的概念をはなれでも利潤極大を狙う企業
最近の経営学関係書と問題の動向
四
経 蛍 と 経 済
四
は少かったとされる(同稿︑四一ページ
) D
ること﹂であり︑最近ではさらに一歩後退して そしてむしろ企業行動を規定しているのは﹁長期に亘って利潤を安定させ
(乙れは果して後退といえるかどうかl川崎)﹁長期にわたって企業
そのものが安定的な地位を保つこと﹂へと変ってきたといわれる︒即ち
円 ︾ 円
︒ 同 伊 丹
B ω
巴自
由
N凶
昨日
︒ロ
でな
くて
2
2
ュ ミ自ω江
田町
ω昨 日 ︒ ロ
こそが企業の指導原理だといわれるのである︒これはまさに現今経営学の基本的課題としての長期計
画を動機守つけるものであり︑利潤の在り方の長期化であって︑利潤追求の変革ではないことは明らかである︒乙の点
に関し昨昭和三四年夏の長期経営計画に関する軽井沢セミナーにおける中山伊知郎博士の説く所が想起される(﹁生
産性
﹂昭
三回
︑十
月
) 0
即ちこれまでの企業行動の原理は牧獲逓減の法則(そしてカlル・ハックス教授のいうように
伝統的費用逓増曲線は︑この牧獲曲線の映像である│﹁第二次大戦後におけるドイツ経営経済学の問題﹂ビジネス・
レビュー︿己‑FZ
︒ ・ r
℃‑
∞)
に基
いて
︑
乙とによっていわば短期的︑集約・的に利潤が求められたが︑現今では技術革新の速さと規模の大きさにつれて︑設備
投資のスケールの著大︑資本の有機的構成の必然的高度化による投下資本回牧期間の長期化(これをしかし短期特別 コスト高とならぬうちに人的物的雇用を最高度ならしめるように稼動させる
償却によってもできるだけ早めようとする反対の動向が必然的に随伴するという事実も注意されねばならない)資本
回転率の鈍化が将来されるが︑乙れを克服し有利に転回させるためには長期的観点に立って︑費用逓減の時を期待す
るという原理に立た︑ざるをえないというわけである︒即ちζの利潤発生の時点までは少くとも企業の安定は必要であ
り︑さらに一旦高度の資本構成を確立すれば後退は勿論停滞さえ極力排除すべく努力されねばならない︒そこに企業
維持(それが社会的責任論で紛飾されようと否とに拘らず)或いはωゅの己門戸件吋
自民
百紅
白昨
日︒
ロの
主張
が原
理と
して
高唱されることになる︒しかしことで都留教授も指摘されるように︑資本主義企業行動を客観的に観るならば︑
た と
え
ω 2
ロ門
広三
回目
印
B X ω
片山︒ロといわれる場合でも﹁結局はある時間的一幅を念頭においての利潤確保が問題の核心であっ
て︑資本をもとにして利潤というマージンを生み出す基本的な企業原則﹂は今日でも一向に変っていないというベェき
であろう(同稿︑四一ページ
) 0
即ちマイヤl・クーによって引用されるようにつ:たにそれは寡占市場の世界では︑
市場の分け前なり商売上の地位なりを︑長期に亘って確保したいという動機と密接に結びついている﹂
冨
428
︻同開仏項目ロ関与・‑ M O H D Z
己E
g
円
O 一
R E o p
巴 印 斗
‑u
・
NO印)といわねばならない︒要するに利潤動機の現代寡占的表(ト
﹃︒
﹃ロ 同・
現に他ならないのであって︑資本主義の本性は経営計画の長期化︑企業維持原則の確立によって事も変革されるもの
ではないことを明記すべ︑きであろう︒藻利教授も主唱されるように︑むしろ資本主義的営利原則をこそ資本主義的企
業活動の基礎に据えて︑本性的変革を間わぬことの万が筋が通るといわねばならない︒
利潤は私的資本の支配下にあるという本性に対して︑利潤はもはや私的資本の支配下にないであろうかと問う
ことが次の課題である︒これは二つの観点に分けられる︒例法人税論と︑向所有と経営の分離論がそれである︒
法人税の形で利潤のかなりの部分が国家に吸い上げられ︑国民一般の福祉に使われるから︑利潤はもはや私的
(ロ)
a
資本の全面的支配下にはないというのが独占擁護論の主張である︒しかしこれに対しては︑
(i
)
国家支出の階級的
性格
︑
(H
)
法人税の消費者への転稼(価格管理などによる)を考え合わせるとき︑直ちに首首しえぬものをもっ︒
この点は次の第一表︑第二表の分析によっても亦怪しくなる︒
即ち第一表によれば戦後の法人税はなる程戦前に比して絶対額では著泊しているが︑これを利潤対純資産の割合で
みるとき(第2
表)
︑
一九
二九
年の
一
0
・六%に対して一九五六年で一一・三%と殆んど開きをみせず︑他方社内蓄積を留保金と減価償却基金についてみると︑第一表で絶対額の増大と共に︑第2表で対国民総生産割合として︑
九
二九年五・八
M m から一九五六年六・四
M m と上廻っており︑これは絶対額の増加率が法人税において高いに拘らず︑私
的資本に残留する利潤分の相対的割合は圧縮されるどころか︑むしろ相対的に高いことを表わすものといいうるであ
最近の経蛍学関係書と問題の動向
四
経 営 と 経 済 アメリ力会社利潤の動向
I 利潤合計'l'UiI1'JiHlt I iE 法 人 税A III I 税 引 後 日 潤
│ 糊
合 計 │ 配 当 │ 首 保 却基金
1929 9̲6 L4 8̲3 5̲8 2.4 3̲7
1939 6A L4 5̲0 3̲8 L2 3A
1948 32̲8 12̲5 20̲3 7̲2 6̲3
1956 43̲7 22̲1 2L7 12̲0 9̲7 16̲5
第1表
Joint Economic
都出重人,前掲稿 p.43
ソース.Productivity. Prices and Incomes.
Committee. 1957. PP. 103. 110. 115.
単位10億ドノレ
1949年は不況の年であったので特にその前年がとられた
1929年(戦前最好況時)の誠価償却基金の数字は都話氏推定
1 2 3 4 5
利潤の相対的割合
第2表
利 潤 対 純 資 産
% 58
10̲6 1929
6̲3 51 1939
7̲5 13̲6
1948
四 四 6A
2
3 4.
1L3
第 1 表を、 1929~56年間の物価値上りや経済規模の拡大の調整のた b相 対的割合で示す
利潤対純資産は税引後の利潤の純資産に対する割合であり第 l表のカパ レージよりは多い少狭い (opcit, PP. 105‑107)
社内蓄積=社内話保、+減価償却基金
都出重人、前掲稿、 P44
1956
1.
ろう︒乙れは又寡占体の吸牧した利潤の絶対額の膨大さをも証示するものである︒かくて法人税による利潤の吸上げ
にも拘らず私的資本は尚利潤の大なる部分をその支配下においているというべきであろうc尚配当金として社外流出
する分についても絶対額は地加しているものの︑これとて社内蓄積の増誌に比すれば割合は小さく︑利潤への支配権
を仰ける程のものではない︒むしろ次に問題になる較に︑配当平昨化原理などによって︑利潤の長期的安定を確保し
ょうとする意図さえ含まれるのである︒
向次にいわゆる﹁所有と経営の分離﹂論であるが︑これについては税引後の利潤部分についても︑大衆株主に分
散して︑配当のみならず利潤の支配が︑もはや﹁私的資本の支配下﹂になく︑﹁国民一般である株主の支配下﹂にあ
るというのである︒これは一九三
0
年代のはじめのパlリ@ミlンズの著名な分析︑バlナムの経営者革命論を経て現代ビッグ・ビジネス擁護論者の思想的基盤となっているものである︒しかし思想的イデオロギー的基盤を経営学的
に検討するとき︑われわれは多くの疑点をもたざるをえない︒配当の絶対額については先にも触れた通りであるが︑
その他に尚株主総会権限の後退や︑大衆株主の大多数は小株主に過ぎず︑又労倒者階級で株主たるものの数は極めて
少い
こと
︑
さらに会社経営の支配権を確保するためには︑逆に株式分散が進む程比較的少い比率の抹を集中的に所有
するにけで十分である乙と︑これらの事情から経営体内部への程力の集中的信託︑委訟による経営者支配の事情を生
むことがあるにも拘わらず︑基本的にはその優劣も結局はその会社の資本利益を高めるか否かに依るものであって︑
利潤の私的支配を免れるものではないというのが教授による反論の要旨である︒しかしよくみるとこれだけでは尚経
営体乃至制度体としての企業自体という法人の支配下にあるのか︑経営者の支配下にあるのか︑小数大株主の支配下
にあるのか︑いわゆる私的資本の支配下という点が尚明らかでない︒この点はわれわれはスウイージーが︑少数大株
主による支配過程について﹁誌から質への転換﹂という弁証法的性格を指摘していること︑換言すれば﹁大株式会社
最近の経蛍学関係書と問題の動向
五四
経 営 と 経 済
は財産の支配機能の民主化でもなく︑ 四六
(﹁資本主義発展の理論﹂中村金治訳︑三五五ページ) その廃止でもなく︑むしろ巨大財産の所有者の小グループへの支配機能の集中
ことと共に︑上林貞治郎︑井上清民によるパlリをいみする﹂
‑ミ
lンズ批判(﹁工業の経済理論﹂二七八一九ページ)に聞くべ︑きであろう︒ω殆んど完全な所有による支配︑ω
過半
数支
配︑
ω法律的周知の通りパlリ・ミlンズによる支配形態は︑
手段による支配︑ω
少数
支配
︑
ω経営者支配の五つに区分され︑之をさらに直接的支配と窮極的支配の型に分類
し
一九
三
O
年一月におけるこ百の最大級会社の比率を窮極的支配について次の様に総括したのである︒ところで付彼等の研究では産業会社に基くもので︑銀行及びその他
(第 三表 )
窮極的支配による200会社の比率
! 会 社 l資 産
Management Control 44%
Legal Device 21'
島1inorityControl 23 14
Minority Ownership 5 2 Private Ownership 6 4 In hands of recei ver
Total 100
第3表
わ ノ
トlh
つ
刊日ミ背後にある重要な独占資本・金融資本が忘れられている口さらには株式 ム
﹂ ま
一一山資本以外の社債@借入金などの借入資本の関係が省かれている︒
一自己支配形態について五形態の一つに還元することに拘泥して︑現実 誤判の独占資本
U金融資本の共同支配・相互結合などの複雑な支配形態を単会理
代治純化している︒又独占資本
H金融資本の単独支配または共同支配の場合現経﹁めにおいても︑その支配の方法は︑株式︑社債︑貸付︑取締役派遣などい
九町ろいろ組合わされているが︑この現実の組み合わせを一つ一つに分解す
いムれば︑資本の支配力を実際よりも過少評価することになる︒︑
バ目白かれらのいう経営者とは取締役会をいみするが︑これらの取締役
ミ上の資本家的ないし資本家代理的な性質が軽視されている︒また資本の支 の金融機関との関係が省かれており︑﹁経営者﹂又は﹁法律的手段﹂の
るが
︑
しかも取締役の選挙手続を中心として判断されてい
これは取締役1経営者を中心とする実務主義・手続主義にほかならない︒そのために︑実際は資本の﹁少数支 配一般が取締役の選任の支配という特殊な支配に狭く限定され︑
配﹂その他の支配であるものが︑﹁経営者支配﹂とみられている場合がある︒
同諸種の﹁法律的手段﹂による会社支配の形態は︑資本によって考案され採用され発展させられたものであり︑
それは資本の支配を維持︑強化するためのものであって︑それから分離したものではない︒﹁経営者支配﹂の形態も
又経営者がつくり出したものではなく︑資本の支配の下で形成され発展せしめられた形態にほかならないのである︒
バlリ・ミlンズのいう五形態への支配の進化(開︿己己目︒ロこのようにみるときわれわれは︑
。
1‑+>
ハ い ︒
E S
‑ )
も ︑
生産及び流通の大規模化H社会化の発展の下で︑資本によってその支配の維持︑拡大のために発展せしめられた諸形
態である乙とを看取しうるであろうし︑かくてこれらの支配の基本的対象としての利潤との関連においては︑依然と
して利潤は私的資本の支配下にあるということも明らかになるのである︒
れ第三に資本主義の本性をかえるものとして
H利潤は大部分投資に向けられなくてもよいようになったかdが問
われ
る︒
利潤と投資の関係については︑戦前税引後七O%近くが配当として社外に流出した(それは間接に投資源となった
としても)のに対して︑戦後は税引後利潤の三
Ol
五O%が配当源となり︑逆に社内留保が二Oi
二五
OM
M m
から六これはいわゆる自己金融として殆んどが投資に充てられるものである︒この点について﹁自己金融が企業
に増
大し
︑
利潤を前提とするものであることは︑非常に明白な事柄である:・それで自己金融が経営財務の部面においてとくに重
要な役割を演ずるようになるのは︑資本主義が独占の段階に入ってからのことであると考えることができる︒高度の
自己金融は当然に高利潤を要求するが︑その要求は独占によって容易に実現される﹂(岡村正人稿﹁自己金融問題﹂
最近の抗告学関係吉と間賠の動向
四 七
経 営 と 経 済
ということは寡占競争に規定される現代資本主義の本性を探るこの際本質的に受容すべきとこ
四 入 会計 六月 号一 一一 一一 ペー ジ)
ろで
あろ
う︒
1958年における企業資金調達の源泉一国際比較
│アメリカ│イギリス│西ドイツ│日 本
% % %
自 己 資 本 96A 65̲5 46̲2
株 式 1L9 127 1L6 14̲6 19̲9 546 5̲3 3̲5
被価償却費 64̲6 3LO 48̲6 28̲1
{
日 ー入 金 3̲6 1.7 345 54̲8
第4表
古畑義和「わが国における国家独占資本主義の問題によせて」
(経済評論7月)第三表
通産省調「日経J60.4.2.上り
西ドイツ 1957年
調査対象イギリス843社、西独1215社、日本193社、米国?
1.
2•.•
3 4
ところで私的資本の支配下におかれて投資に向けられる利潤
部分は右の社内留保分だけではない︒第1︑
2 ︑
4表において
みられるようにとくにアメリカにおける減価償却基金の大きな
役割をみねばならない︒けだし﹁減価償却は固定資産の獲得に
充当された投下資本を回蚊するという経営財務的作用をもたら
すものである﹂ところからら企業利潤の新たな内部留保ではな
くコストとして考えらるべき性質のものといわれるが︑﹁しかし
減価償却賓として計上しあるいは減価償却引当金として設定し
たものにおける運用面の現実をみるとき︑自己金融と減価償却
との区別はきわめて困難であると考えられる﹂(岡村正人前掲稿
二五ページ)
ので
あり
︑
そのことはW・A‑ペイトンによる減
価回政資本の利用上(戸﹀
.E ZP Es za kf gロ ロ包 括・
5
色 ・HU・N 寸∞)
制運転資本︑同設備の拡張︑付設備の取替︑
MH
負
債の
返還
︑
制特別基金の設定︑
川川
不
付株式の買入消却︑
況期の配当支払︑例株主に対して配当と共に返還︑という諸
項目があげられることにも明らかであろう︒さらに立入ってみ
ると財務的操作の手段としての減価償却の妙味が働くのである︒即ち一般に会社の収益率は変動するが︑この際配当
率を平準化し社内留保率をほぼ一定にすること︑すなわち公表純益の変動を表わさぬ為に︑減価償却が支出を伴わぬ
特殊のコストであるところから︑乙れを大きく増減させる乙とになる︒そこで﹁この場合では︑会計計算上の留保利
益は厳密な自己金融を表示するものではなく︑また︑源泉的にみて︑減価償却と自己金融との間に明確な境界線を描
くことができなくなる﹂
(前
掲稿
︑二
七ペ
ージ
)の
であ
る︒
さらに加えて︑減価償却に関しては実際問題として︑牧益力ある巨大企業︑独占企業では︑加速償却や初期高率償
却或は単なる資本維持の程度を超えた大巾の償却をなし︑いわゆる拡張政策を進めているという重要な契機がある︒
この回牧資本は外部からではなく自己金融と同様に企業における資本の循環過程から実現するもの
(問
︑二
八ペ
ージ
)
であると考えられる︒このように﹁特別償却は正常額を超える償却金の損金算入を認めるものであるから︑通常償却
の場合に比して︑税の延納がもたらされる﹂ことになり︑
府の︑無利子の貸金たる性質を有する﹂ものであり︑ 乙の初期の年度における税の軽減額は︑企業に対する︑政
﹁かくて企業は特別償却によって︑税の延納を通じて多額の資
金を利用しうることとなる﹂(渡辺進﹁特別償却と圧縮記帳﹂会計六月号一
Ol
二ページ)
ので
ある
︒
さらにわれわ
れはこの特別償却の運用内容をみることによって独占企業の自己金融性格を如実に看取することができるであろう︒
すなわち﹁特別償却によって回牧された資金を旧設備の取替に充て︑もって設備の近代化を促進することができるの
は当然であるが︑取替えるべき旧設備のない場合には︑この資金を固定設備の拡張に充てることができる︒この場合
には当該企業の生産力の増大がもたらされる︒また特別償却の対象となった固定資産が借入金によって調達されたも
のである場合には︑特別償却によって回収された資金を借入金の返済に充てることによって︑利子負担の軽減を図る
ことができる︒特別償却によって回収された資金は︑このように︑固定資産の取替︑拡張︑借入金の返済に充当し得
最近の経営学関係書と問題の動向
四九
経 営 と 経 済
五O
るのみならず︑経営資金として利用することもできる︒このように無利子の貸金は企業において利潤を生み出す資金
として活動する﹂(渡辺進︑前掲稿︑二ページ)のである︒さらに﹁固定資産はしばしば陳腐化の危険にさらされる︒
ことに近代においては需要および製品の変化によって陳腐化の危険が著るしい︒通常の減価償却では当該固定資産の
原価の国政が終らない聞に陳腐化によって廃棄する必要に迫られる場合がある︒特別償却は早期の資金回収を可能な
らしめるものであるから︑陳腐化の到来による固定資産原価の回牧不能の危険を緩和する﹂
(同 前)
ことにもなるの
であ
る︒
以上の様に特別償却を含む減価償却基金というものは一種の自己金融と解することは十分に理由のあるところであ
る︒しかもこの際﹁そのことは︑企業の資本主義的生産が高度に展開するにつれて・:(独占の段階に入るとともに)
ますます妥当する:・すなわち企業における資本主義的発展過程において︑生産技術は絶えず改良され︑機械は高度の
ものへと更新される︒そのために︑固定資産の総資産構成比は増大し﹂
岡村
正人
︑前
掲稿
︑二
八ペ
ージ
)・
:減
価償
却←
自己金融機能が顕現化するということに注意しなくてはならない︒
最後に配当について︑も一度附言するならば︑配当といえども単に社外流出して縁が切れるというものでなく︑殊
にその平衡化によって株価を維持して信用をつなぎ︑新発行を円滑化したり︑外部資金の借入れを容易ならしめるも
のである以上︑結局は投資資金の確保に連る所大なるものがあるといわねばならない︒又事実上も間接的にではある
が︑配当の多くの部分は貯蓄←投資として還帰する(但し同一資本の支配下に入るとは限らぬが)乙とを考え合わせ
るならば︑税引後利潤の行方は︑経費形態として蓄積された減価償却費と共に︑依然として大部分を投資のうちに見
出すこと︑従って利潤←投資という資本主義的本性を事も否定するものでない乙とが明らかとなるのである︒
以上刊利潤動機︑同私的資本による利潤の支配︑川一利潤←投資という資本主義の本性の三つの側面が︑寡占経済
においても依然として強力に貫かれることが明らかとなり︑資本主義はその本性において不変である乙とが確認され
たの
であ
る︒
都留教授はさらにこれに﹁資本主義社会における
F2 25 gs z
は弱まったか﹂という間を重ね
て︑その事実はわれわれも既に度々関説したように全く逆である乙と︑即ちアメリカ経済を動かす中枢はもはや金融
業の中心ウオlル街ではなく︑広告業の中心マジソン街であるーといわれる程のマlケッテイング時代であることを
指摘
され
︑
これらは新しい様相のあらわれに過ぎず本性を変えるものでないことを断じられる︒
以上に続いて資本主義の下での不況の克服の可能性の問題︑社会主義への移行の手がかりが論ぜられるが︑乙れは
経営学との接点からは距離をもつものであるのでここでは省かねばならないが︑これまでの現代資本主義論の反省か
ら資本主義の現代的本性をわれわれは逆に浮き彫りすることができたと思う︒しかもそれらの核心的分析の中にすぐ
れて経営学的課題を︑同じく重要な意味と共に接合することを見出すことができたのである︒かくて首題の経済学と
経営学の接点は又現代資本主義の本性に触れ︑それを顕わならしめる所にこそ存在することが明らかになったわけで
ある︒しかもわれわれはその本性が新しい諸様相のめざましさに拘らず事も変改されぬこと︑むしろ強力且つ大規模
長期化の性格を借びてきたととを知ったのであるが︑経営学体系における新しい要素も亦これらの本性に対応するも
のであるかどうか︑対応するとしてそれを促進するものであるかどうかによって︑資本主義の本性に仕えるものか否
かを決定される立場にあるととを自省すべき乙とにもなるであろう︒
(2)
現代資本主義論補遺
次に以上主として都留主人教授の設問と解明に沿ってきたのに対して︑回答を寄せた学者の見解の中に同じ首題の
最近の経営学関係書と問題の動向
五
経 営 と 経 済
五
在り方を探ってみたいと思う︒
前記外国諸学者の経済評論的或いは時評的論議の中からモi
リス
・ド
ッブ
︑
ヤ・ア・クロンロ!ド︑
ポー
ル・
A・
パランを取り上げよう(とくにパラン)︒
ドッブは現代資本主義論の二つの誤りをωアプリオリな根拠からする教条主義的偏向と︑同人民資本主義︑福祉
国家︑経営者社会とか累進的に社会主義佑する資本主義という現代独占擁護論にあるとし︑
身の立場は︑最近数十年聞に資本主義には若干の点で変化があったから︑資本主義の法則と傾向の作用にも若干の変 ﹁この議論における私自
容があるという立場である﹂
(都
尚重
人編
﹁現
代資
本主
義の
再検
討﹂
所枚
︑モ
lリ
ス・
ドツ
プ﹁
新し
い段
階﹂
につ
いて
︑九
五・
へ
ージ)という︒そしてこの立場から次の四つの徴候をあげる︒第一は国家独占資本主義への変化(九五ページ)︑第二
にいま進行中の生産諸力の変化(九六1七ページ)については︑レlニンに基いて﹁独占はP生産の社会化のはかりし
れない前進d
をも
たら
し︑
P技術的発明と改良の過程は社会化dし︑そして乙の腐朽化傾向が資本主義の急速な発展を
排除すると考えるのは誤りであり・:資本主義は以前とは比較にならないほど急速に発展する﹂
(九
八ペ
ージ
)段
階を
指
摘する︒しかしわれわれはこの段階規定を正しいとしても問題はさらにその推移と過程の分析にある乙とを思わねば
なるまいD第三に大企業の金融面におこった比較的副次的な意義をもっ諸変化について︑﹁その中で最も重要なのは
いわゆる﹁内部蓄積﹂︑つまり大会社のおこなう新投資において︑蓄積準備金からの﹁内部金融﹂の重要性が︑大は
ばに増大したことである﹂
(同 )
として既述の自己金融の主要性を指示すると共に(ただそれに比較的副次的な意義
を与える所以は明らかでない)﹁このことはまた︑投資の方向とそれが過剰能力の形成ならびに利潤率(ないしは独
占度の異なるセクターの間での﹁利潤率のヒエラルヒl﹂と呼ばれているもの)にたいしておよぼす作用にかんする
一連の重要な問題とも関連がある﹂
同
ことを指摘する︒すなわち﹁もし大きな独占会社が︑自己の支配下にあ