外人居留地に関する若干の長崎古地図について︵一︶
菱
谷
武
平
目
一、
二︑三︑
四︑五︑
六︑
七︑
入︑ 次序言古地図の編年大浦の水域と番所造成途上の居留地と地図類馬渕家の鳥影居留地図調査始末初期支那人居留地の形態内浦埋築史の展望
結言一︑序
言
昨年度︑長崎に於ける外人居留地研究の基礎的調査として県図書館︑市博物館を中心に在地の雑多感慨なる古式類の一応調査を終ったので︑
本年度は目下その整理に当って居るが︑此は可成りの日数と手数がかか
り︑而も﹁年代不明﹂のものが可成り多いので︑其年代を推定し総合調
査の上で年次的一覧の表を作ることは可成り骨が折れ︑叉疑問の点も多
い︒然し当方意図する真意は此表に依って無知寡聞にして逸脱したものや外部に流れ去った長崎古地図の類の所在が明らかになる﹁ヨスガ﹂に
なればと希ひ︑あえて﹁未定稿﹂の一覧の作製を急いだのである︒
尤も此処に広く長崎古地図の類を総合調査し様うとするのは一面﹁長
崎古地図集成﹂に連るが当面の目標は﹁外人居留地研究﹂の基盤として
の地域−長崎港湾の変遷推移︑特に将来される外人居留地の乗る出島以
南の地域が︑其出現の前後に於いて如何に推移︑変貌するかの問題に焦 点を絞ったのである︒従って此調査に於いてはe外人居留地出現前の大浦を申心とする地域図口外人居留地出現後の大浦を中心とする地域図⇔プロパーな外人居留地図と長崎古地図の当該部分図の三つに分って検討した︒ ﹁城の古趾﹂から西南へ延びた丘陵末端の海上に埋築された出島を基点に其処から南方は大きく東にくびれて湾入した所謂﹁内浦﹂は年次的に変貌があり︑而も其南端︑常盤崎から南方の更に大きく東に湾入した雄浦i大浦は外人居留地の出現に伴ひ︑其水域が埋立てられ最初の居留地平地を構成する申核地帯となるが︑其水域面積は実質可成り広い筈に不拘︑ 此雄浦は古図面には何れも細長い入江に描かれて居るにすぎない︒従って内浦を含めて此水域の﹁正確さ﹂を求めてあらゆる古地図を辿ったのがeであり︑対外貿易の推移に伴う居留地地域の拡大は嘗て前述の﹁申核地帯﹂を基点として背後の山手と前面水域の南北に延びて行く︑山手では北山手︵東山手︶から南山手へ延びるに対し︑前面水域に於いては南方は大浦川対岸の埋築に始り北方は梅ケ崎の埋築から唐館閉鎖に伴う新地蔵所の変貌を来し︑謄て内浦の形態を完膚なき迄に変貌せしめる﹁内浦血温史﹂が展開するが︑それを中心に海岸線と居留地内の推移を追うたのが口である︒ 日はe口の基盤の上で居留地自体の推移を眺め様うとしたもので居留地独自の古地図の所在を明らかにし其欠を補う含めに古繁昌の当該部分図を配置した︒現在︑全般に渡っての詳細発表の段階には至って居ないし︑叉其の為めには可成りの紙数を要するのでとりあえず先づ古地図編 ︶︵
外人居留地に関する若干の長崎古地図についてe
外人居留地に関する若干の長崎古地図についてe
年の大略を述べた上で若干の心付の点を論じて
い︒
二︑長崎古地図の編年 ﹁備忘﹂ の枝折とし度
長崎に於ける古地図編年は出島が埋墓され鎖国が実施された時期から
始って居り︑それ以前に着るものはない︒ ﹁長崎志︑正篇﹂の中に古賀
十二郎等所蔵としてL長崎港異国船入津図i鎖国以前長崎地図ノ一部し
と題して古地図が収録されて居るが此は現在︑市博物館に所蔵されて居
る﹁寛永長崎港図﹂の中の出島を含む東側︑内浦地域を除外し意図的に
専ら西側の長崎港本流の部分のみを掲載して居るにすぎないと推定され
る︒従って現在長崎古地図の申には﹁出島﹂を持たない鎖国以前の古図
は存在して居ない︒
﹁鎖国﹂を象徴する寛永年間の古地図と銘打つものは現在二幅存在する︒一つは市博物館の﹁寛永長崎港図﹂であり︑一つは県図書館の﹁寛 三一永長崎地図﹂である︒何れも後年の模写で原図を失って居るが市博物館
の﹁港図﹂は本来市役所の蔵のもので而も明治一七年原図より模写され
た事は発汗仙の附記に依って明らかである︒其年代については図面に未
だ丸山︑寄合町がなく大夫町となって居るから出島埋築から丸山︑寄合
町開設の寛永一四︑五年−二〇年の聞と見て良い︒故古賀十二郎氏は其
︵一六四一︶ O ︵一六四四−四七︶著﹁長崎開港皮﹂の中で﹁寛永一入年已年頃の長崎市街図と正保時代の
長崎市街図が長崎で最も古い地図であるといわれる﹂と述べて居られる
が︑其前者が此処にあげた博物館古習である事は言う迄もない︒
此に対し県・図書館の﹁寛永長崎地図﹂は明治三一年︑時の小松原知事
の命に依って長崎市役所々蔵の古記を模写したものである事が附記され
て居るが︑此を市博物館の﹁港図﹂と対照して見ると同一のものでない
から本来市役所には二種の寛永古図と称するものが保存され︑それが一
つは市博物館に他の一つが県図書館に︑何れも模写の形で伝ったと見て
良いであらう︒此の﹁港図﹂と﹁地図﹂を比較対照して見ると何れも同 一の筆致の手法が取られて居り市街地は正確精微︑橋は所謂﹁層累の木
廊橋﹂の特異の形で描かれ︑出島は後出の古図類と異なって丘陵先端よ
りやや内側に位置し周辺地域が鳥鰍図示されて居るが︑細部に於いては
可成りの相異が見られる︒
今︑焦点を問題の居留地基盤の東南地域の﹁内浦周辺から南方沿岸﹂
に置いて画図を対照して見ると︵図e﹁寛永古図−部分図比較﹂︶港図
に﹁大夫町﹂とある箇所は地図では既に﹁寄合町︑丸山町﹂が明らかに
較 比
応
長
永一
寛図
図
也
港
図
話⁝−
〔
菟 轡
瓢趨 ゑ
/醐 !
輪
薙摩鼓屋舷
士 つくU二
解
お
θ
8 覆 ㊤
品
形/
区画されて居り而も本島町の南端には港図に む む む む む見えない﹁薩摩蔵屋敷﹂が築地の上に記入され鳥鰍図示の常般皿台地には港図では五戸建の長屋一棟見られるのに対し地図には此無く︑代りに台地の中央部に東む む
西にかけ﹁長崎領大村む む 因幡守領境界﹂の朱線が引かれて居るから県図書館の﹁長崎地図﹂に﹁寛永﹂の時元を冠する事は困難で︑それは少くとも礁熈・ ︵一六五一︶葡船入港を契機に西日本諸藩の蔵屋敷詰が実施され次いで慶安四年︑大
村因幡守生長が養父︑大村丹後守純信の後を襲って大村家二二代を嗣ぐ
時代迄降らねばなるまい︒
故古賀氏が指摘した﹁最古の長崎図﹂ の後者 ﹁正保時代の長崎市街
図﹂は県図書館の﹁正保四年︑葡船入港二付長崎警備図﹂の部分図に外 ︶
︵
2
ならない︒此画図も原図ではなく初代館長永山氏が模写.せしめたものと
言われるが︑恐らく﹁幕府時代の長崎﹂に収録されて居る故福田忠昭氏
所蔵の古墨が原図であらう︒同書には附記が付いて居り同図の出所を明
らかにしホボ同時代の古図と推定して居るが図書館古集には可成り疑問
︵一六四七︶
がある様である︒本来此地図は正保四年︑葡王使節が軍艦二隻を卒みて通商を迫った折の長崎港警備図であり︑長崎警備役の福岡︑佐賀二藩の
外﹁後詰﹂の西日本諸藩も配置について居り図中の記載は長崎実録大成
巻七﹁南蛮船二隻入津前事﹂と一致するが基盤の地図自体を直ちに当時
代に当る事は早計の様である︒
此の葡船入港に関する古図は別に長大武藤文庫の中にも大小二枚ある
が何れも同時代の市街図としては書眉が多い︒今︑其疑点に就て︑煩雑
を避け図書館古図に限定して拾って見ると内浦南端の岬は当時未だ﹁常 ︵一六八04 ︵一六七六︶盤崎﹂である筈に﹁梅ケ崎﹂とあり光源寺は既に現在地に移って居り而 二七三〇︶も浦上剰田谷記入されて居るのであるから此地図を﹁正保時代の長崎市
街図﹂とするには一考を要するのであらう︒然し流石に警備地域の描写
には注意が払われたらしく︑大浦湾口に﹁梅ケ崎﹂とありながら其地名
出現の梅ケ崎埋築の石垣の描写はなく岬の鼻に警備の態勢は描かれて
﹁大浦番所﹂の記入はない︒而も諸藩の配置︑人員︑舟数等記録と附節
を合せるし港口の葡船脱出を阻む舟僑の描写も記録を補うに十分であら
︑つ︒ 今︑長崎最寄りの警備についた大村藩の配置を記録と企図に対照する
と次の如になる︒
長崎実録大成
肥前大村城主 入数 二千六百三人
大村丹後守 内千二拾圃人水主 陣所 大浦 舟数 三拾艘
む む む む む む
長崎町外惣見廻り 内隠艘 早船 正保古図
︵耀膨面蟄璽かけて紋章︶大村丹後守 人数 二千六百三人
む り む導者長崎
む り む む
町選外陸役
外入居留地に関する若干の長崎古地図についてe 大村藩は此非常時態に当って長崎町接続の大浦湾を中心とする自領に陣を張り海上警備と共に他藩にない長崎町外惣見廻りの﹁陸役﹂を負担し 註二た事が判るが︑此が長崎の口番所の起源である︒大村家譜に拠れば大村丹後守純信は一応﹁陸路非本懐﹂と固辞して居るが其願は通らず﹁上意重爆可有異議也純信不得已而肯之即守長崎六口番所獄屋番夜廻番等彼是陸路警固番人凡二千百十六人也﹂と見えて居る︒此処に非常時に当って長崎町に入る口々の固として一瀬口︑ 馬込口︑茂木口︑ 大浦口︑清水口︑井良林口に六つの口番所の制が立ち其勤番が獄屋番︑夜廻り番と共に大村藩の負担になっている︒後︑西山口の口番所が追加され︑此を一般に七口番所と呼んで居る︒ 叉此の正保四年の衛船来港を契機に従来の非常時海防警備の ﹁一番手︑後詰﹂の制が強化され諸藩の聞役の蔵屋敷詰が実施された事は後世に影響する所が大きい︒即ち如意以来島津を始め一四藩︑ホボ西日本の大半の大名達は聞役宅を長崎に設け付人を置いて交代して異国情勢の伝達を行った︒此制は本来封建制護持の下めの幕府主体の情報網であった筈であるが時勢の推移に伴ひ持て主客転倒して各藩主体の情報機関に変質し︑幕末維新の非常時態に至っては各藩英才をすぐっての出先機関となり各自海外二化︑ 物資の導入と各藩相互の情報探知に終始するに至り︑所謂﹁西南日本型﹂諸侯出現の温床となって居る︒ 以上の寛永︑正保の古地図を初発として爾後明治期に至る古地図類を
一応整理し﹁長崎古地図編年﹂を作った︒作製に当って煩雑を避ける為
めに先つ年代の明記された古地図を﹁当該年古図として年次的に配列し
年次を欠ぐものはそれる\年代を推定した上で一段下げて其空聞に配置
した︒その為め関連事項欄を設けて時代推定の資料を申心に簡単な説明
を付したが推定範囲の広いものは地図引上に○印を付して事項欄と点線 註一コで結んで置いた︒必中︑年代に区画をしたが︑それは年代推移を考える
上と後述の説萌の便宜上で一応五・六〇年で切ってある︒既に述べた様
に此研究の目標が﹁外人居留地の基盤﹂に焦点が置いてあるので年次的 ︶︵
外人居留地に関する若干の長崎古地図についてe
︵
D毛 編
図
地 古
本
長
者 有 所 類
聖
地 古 項
部 連
関
次
年 市県 函図 物書 舘組
舘
書図県
済
耀〃
長
書舘
誌
唄立
図 図図 朧劇評
︵︵ 入50長長内和 模摸 港碗崎崎
︶︶ 二 来来正 20ナ 付 津崎 保蘭姻︐融離離縦綱
崎崎 年22年年賦領 長長 四︶四四彼村 永永 保摸保南口大 寛寛 正︵正正前 一隠
蟹 図 肥古 古永 保寛 鷲正⁝⁝西出丸屋諸 役島山船侯 所造 設営寄崎役
置∩UZUQノ
ユユユ
永 保 寛〃〃正 く
つ に備 警 離塁 開諸 町津置 合入歯
︐長開
総
辺量 渡徳
島喜 唐
博
物門
市
ピ
50伽
21敷
︵陶
塁 堅
面 長 古
○
往
聞暖崎
氏 伽溢泌
︵ 78
瀕㈲崎︶
長収図の所古謡﹂ 港
暦史崎商港長○
西翻 元70 和× 伽天40講 溜 羅
刈暎
78。1
㎝図
騰−翫 諟福
回
す
諏馬 国込 神郷
社二玉船 園蔵 山設
船置糞
ユ
安
本
建
立
寺行
ユ
付
万
治ユ 立掛梅 山顛ケ 役寺崎 所豊海 設在岸 置地埋 二築 移 建梅 ケ 崎 地 名
延〃グ 宝 24@ 44
寛 正 数承重三寛延 永 保 安回暦治文回
161ーユユーユ@ 16/04∪6ムUムUム∪ 4Ru﹇﹂只UムU7 ワ2FUOOユZU81 W4
d
16和回 天貞
︾一ひ轟
書
舘図
県
勝
区
系
三
一口大
彼村 杵領 郡絵 之図
内大三︶林 回辰風治 因正×左
幡 畠田守 恥門
内 m版三 前 肥
版 木都 ︵三
図見 細 崎
長
﹃.:
ラ
収ヨ
所
大
成 録
実
崎
σ長
図
惣
湊
崎
長
○
輔
庫
渡辺舘館舘 書書物 図図博 県県市
三 舘
図
遊
芸舘舘 学書物 大図博 長県市
警鵬〃
県
㎝八 三月版 65申年年屋八郎 鵬謂旧臣贈
木5暦明安町永島︵ 宝図︶山狩大
糠二半灘姻縦三綱醜脹羅醸
長 肥肥肥 肥
ぎぐ図 図図 図古 古古 古享 暦和 永︐︐延⁝・三明 安ラ 虞 米 淫す 官 移移 代 建 に二 草 創 上地置天
寺岸所設︵営営徳置三里塵塵 隠造大設二塁隠米 敷三二を本島六甲 屋荷崎所寺申三崎
立
す対置 厘設 米所 里山 某氏 二部 春服
↓↓
氏真 木氏 二塁
有
崎鋳鋼所 瀬二開蔵
崎新新崎 人地ケ番徳堂瀬瀬置瀬町上ケ 唐新梅湊大聖灘南二塁浜浦梅
に∪4U ユ ら ユユ
禄 永 徳保 元〃〃宝〃正享〃 置 所 銭 鋳
に跡 記 す鋼 廃罷立 南地田土〃を地建 所築院 鋼町田 鋳塊誠
905723ユ5111 文 保
〃グ〃ク一曲〃寛グ88@ 04 U16
︾Mま
元 宝 正享 元 寛
禄 永徳保文 保
16@ 17 1717聯回
際鍛灘︶﹂小治享勝︶三 形屋和山草山 ︶町二町営町 享大壬文二文 和和戌錦唐錦
一兀屋六堂戌堂年版月版 版
港長図 図 図 崎﹁崎 崎 座 長家長 長 長 ︶挙州 州 州 政応肥 肥 肥 寛円f ︵山 図 古 和⁝ 享
す 廃
を
所 銭
地鋳町 築
浜
延
享
移
戸ニ 一0外忌門 軒表 造旧地 修く新 場置を 居を所 船魔番 唐米湊 崎二町
ケ地築梅新節す
暦和 12Q4
町
西
浜役 所
馴
物し
廃
を
方
す 跡 架るを をな所 す く橋と役 とる築馬木軒物 路造新をし四俵 道にに蔵流りし
︐下山のをよ移め山立漏水軒に 掃立︐囲び三地 をを所二藍蔵回 安
→
森
部 氏
服
有
蔵 所
土
曜く橋庫会町橋米をす崎 物設地具崎築地地蔵移ケ 俵に新武長西新新籾に三蔵
5 6 5 92 一 ユ
明 明 政 政 三 宝明ク天天寛寛グ享 4814
44−Ku!0ワ7771 1 11 2ユ﹇ノ87ワノーユ1糊
細
1
享延暦和 永明 延寛言明 安天
政 寛
馴
享
︸ひO
き 鱗畔 舘舘 物書 函嶺 市県 果汁 経書 大図 長県
書
舘
図
県
D 御 大
ユ●リ 子
︶︶丙脇 旧曲 五間74︒5三90
××摸 図17勘 図︐保﹂16弘
U5j6の解一年1・5.化
90D晶轟轟織贈鴨図椒
X0﹂絵四天16σ︶ i﹂之5.能
⁝⁝⁝.⁝⁝.⁝昌㎞−−⁝ト⁝⁝−−−−−保.⁝化⁝
天︐︐︐弘
宿
旧
事
号 ン止ゆト
厘代一米架工崎にフケ橋︐梅石設設 節を建建 使橋場場 国地台台 墨新新増
伯価佃
文 文文 置 設 所設窯 番開開 ︶道山 替村新皿 築大崎弓 場︵ケケ 居前梅漂 船舘浦佐 雲煙大稲
フ ノ政情政政 文空文文 作築立 家埋築 江前場 崎所台 ケ番御 三新崎 浦島ケ 大出梅
ワ914保保保 天天天
︶4︒.︵04 18
18
18﹁
50@ 44
18@ 侶
化 文
政
文
保 化 天 弘
b#まA
者
所 有
類
図
地 温 項
事 連
関
次
年
撫
物
博
学
舘徳早 書喜喜 図島島 県唐唐 市大津市
事 舘
国 英
高高 改堂 亥子 辛文堂
這四
嘉
ラ
木
版
く
図見 細
長
崎図
⁝古⁝−
錦
文
ラ
骨
鋸版の 新堂挿
間森5年耕16
政
安 ラ
版
木︶木 ︵肉︵ 図︵図 解高崎 沖絵長 槍古前 湊一一 崎崎 長長図
⁝⁝古⁝
6
ヘノ肉
く
図 港
崎
長
代
時 球
旧
○
月
未
五
政安
概
略脚立 三
方
大
浦月 t8
五 ㎝95 図来dmJ 略六㏄㎏騨
舞羅 地 Pna蠣㎡耀鴨無 上一
崎
奉行
長
砲 二
島 防
鴎 島 王 港伊 来藩 艦島 渥 削
可㍉
草山地 胆陸歩歩 雲上遊遊 港 開 港 知三 上崎 村長
町
手
着
埋立
︐置地 節島内人所戸舘設留 使鼠市外憩藩箱所居 国人人半休村浜二季 米鍋造魯英蘭鼠人大横二大
りゑムリ
永 政 嘉ク 安〃
ノむ政政 安安 二月
略五一来
埋六面政 方安
浦 48
14
54 18 仁永
政安
︾払㎝ひ
A
組
物
腐
市
見
御
成
落月
十
申
事
舘領
英
庫氏
腎内吉
舘
図 書県
騎尻 書三 図国 会山 国二
幅騰凱面 fn聡 元図︒塘㎎ 離鰹齢地
互 ﹈図
部 分
居
留堂
寿
耕 ラ
版
木
く
図崎
長 前 肥
㎝図地 62極借 ︶×取数 版20発空
木1初毎︵地番図
地
之曳
居
港増
長
留地 居︵ 人図
︶m旧く図全
国地︶場 外縞入留 港居里居 崎人名崎 長寝人長 地面 留慶 居図 人全 軍場 年留
里居応需 慶長 夫急 撃経
永大岩長
侵 sa餌望画m恥説濫肋直
磁人上
外
浦三品 成開所 完地学 所無医 大成鉄人に 愚書製外郷
一地機浦島 と所 上
を
運
所
翼 翼 艦
脳軍
室
を 船入 地船 所単為編︶留修 可物質及場立居管 許産と樋里埋人小 売所所米軍港外︒ 金事物 御払俵 仮貿と を︒所掌 正称上分
直役会意場ケを入る血糊運で 物物恩讐理梅島編成崎とは所会称神 館留飽大小置湊改立所俵三里南修︵出賭場長蔵務会
ユ エ フ
延 久久 久 萬 明文 文
ユ元山
応 応 慶 慶
ろ応
慶㎜ ㎜
64@65
萬 文 元 四 延 久 治 三
18@18切一
。◎
済
経
大長
舘出題舘舘物書軍書書博図図図図市県県県県
面
分 部 地
誌 居図︶島 ︶そ 之肉五 図版刊 港︵浦﹂全銅章
崎
長 年
初 治明
の﹂ 20図 翫実 の鉦松
28
Tー
S
乱︵ン軌図ヨ
居回落 留ケ合 地崎素 図田鼠 ︵留筆
51n﹁一了
陽図港︵忠 崎景崎 ﹁真長 筆浦 洲大図 月寄古 岡町治 明
渡年
辺治
三
明
社
命
協 渡
架 結 よ 締 社 約心力 渡条巡協 架好皇 橋修天社離 橋立枝清治二分 三思松日明立り
エロ ド
治 治治治 明 明明明
行 銀 八
十 第社称 誠改
立と治10
明
聞68
明 治
10
済 経 大
長
駆
渕
馬
庫
文
閣
内庫
文屋
内庫
文閣
内舘
物
学 博
岸
校
棚
深
輔
庫 辺
渡鵯皿㎜
ユ
㎜噺
H珊M鉱 ㎝11ap即 oNodf・モ睨 堅
甲 傘 地
留 居写 三年
古三一十 甘甘 長明
図
治古
明
写 年 図 六 岸 十 沿 治 地 今明 留 留 居 居 人 人 国 国 外 外 港 港 崎 興 醒⁝疲
図︶ 野 図︶年 全版年小行全版○ 内二八 発街銅二 港︵十町輔市︵治 崎 治下仁崎 長 明今左長
図
治古
明 図
古 治
明 明
当ン
ク
領 二
大遊 米豊
前ト治12
明
地
在墨
堤悪活移要事柵 水墨一着︶
女期手 港︵ 十拳 改明 良治
工26明 明 治 治
15@1620 切障お
B
︶
︵
外人居留地に関する若干の長崎古地図についてe
外人居留地に関する若干の長崎古地図についてe
者 有 所 類
図
地
項 気
事 連
関次年
占済 舘舘 庫 舘庫経書書 文 書辺大 図図 閣 図渡長 県県 内 県
図
地
之居回 回
⁝汰
ラ 図版 全木 市︵ 崎年
長二十
図二古治治明
田 図分
段 地
留居
一図
分
空
地
留 居年 年
雪濠図七 精工新十 港二港二 崎治崎治 長明長明
ラ ヘノ
図版図版 古銅古銅 台︵台︵
テ テ明 明 年 七 十
三二之治三明
留居
入 国外港消
長
図
分 部 地
回 耳近︶年 四版画 及銅三 市︵治 崎三明
r長之図
古 套
明
施事 実工 制流 図変
心川崎函 南申
22 Q5
治治 明明
良暦
改 第工
一事期終 港一
湾治26
明 工37
良治 盆明 湾罪 囚︵ 期手 二着︶ 暴走年
治30
明
30
氏 渕馬
喉越 物書 博通 市県
.α痘9n
㏄鍛
F都 鵬腋
脚誠謡− ㎡鍔
晦翻
図分 部 地
留居
図図 雛
長長湖
風明號
畑江 開
め基道た帖 鉄
の兵乱争国 旧 識配る門 西地な溺
惑生 地
留 居米留と長通外
国 人治31
明
治
32明
浦 築 を 建 駅 内 面称庁 長改仮 のと駅 子田崎 従上長
治58
明
40
切鵠き
B
洗
示・を
事
るあて
れ
さ誌 細
鋤
粗驕 鍬
嘔
砧即
図 輿
部 三
留
砂 子 星
には古図を外人居留地を﹁持たない古図﹂と﹁持った古図﹂とのAB
に大別し更にAに於いては寛保︑延享時を以て二分︑其前後を更に二分
して五・六ケ年の年数を得て居る︒Bに就いて︑安政と万延を境に区切
る事は時代推移を無視するものであるが︑此は古地図と居留地図を対照
的に配列する為めの方便であり別に意図はなくBの細分は外人居留地造
成︑完成経過を辿る時期に依って幕末と明治で区画した︒
もとより寛保︑延享で区劃するのは意味はなく本質的には元享時を以
て大別すべきであらう︒何故ならば長崎古地図の性格特色は出島築造と
其後の唐国︑ 新地町所の造営に依って顕著に浮び上って来るからであ
る︒ 一般に全国的には元線時を境に古地図類の在り方に著しい相異があ
ると言われ︑それが長崎の場合には﹁出島だけの古地図﹂ ﹁唐舘︑新地
蔵所をも持つ古地図﹂に二分出来るのであるが元線から寛保に至る六〇
年間︑内浦地域には可成りの変貌が起る時期に不拘︑皮肉にも其間の推
移を示す﹁当該年画図﹂は一つもない︒従って延享の木版三図の出現を
以て時期を劃したのである︒
表中収録の古地図の類は﹁当該年古図﹂一二種︑其他の古図類ホ寧五
〇種で合計七〇種に及んで居る︒今此を年代推移の中で﹁当該年古図﹂
に焦点を絞るとAに於いて一︵六四年︶3︑E︵五六年︶○︑皿︵六〇年︶
5︑W−︵五六年︶4の計一二種Bに於いて九種合計二一種であり古地
図の年次的偏在が見られが而もAIの ﹁天和古記﹂ には疑問の点が多 註四く︑少くともAWの時期迄で下げねばならないから︑そうすると其偏在
性は一段と顕著とならう︒従って此に依って寛永︑正保の古地図から約
百年間︑古地図編年に空白のある事が判り徳川時代の前半には疑義のあ
る僅少の﹁肉筆﹂の古図に留り︑此に対し後半に比較的古地図の現存す
る事は一面には型の小さく劃一的な﹁木版図﹂の性格に依るものであろ
︑つ︒ 其他五〇種に及ぶ古地図の類は大小雑多取りまぜて関係のものを収録
して居り︑それは極彩色の精緻な貴重のものからフリーハγドの素図に ︶
︵
6
迄及んで居る︒其中には﹁絵図︑絵画﹂も揉尊して居るが古記録申の附
図︑写真類は余り複雑になるので割合し︑男前の﹁UΦ島目国2︒08蔓﹂
に関する出島古図及唐草古聖は一応除いて居る︒極大の古地図として伊 ︵一六四四︶能忠敬の測量の写﹁肥州国絵図﹂と肥前彼杵郡之内﹁大村領絵図﹂正保 ︵一六八八︶ ︵一八三こ口年︑元隷年︑天保年の三代のものを取って居るが︑此は前者が正確な測
量図であり後者が自国領内の地理理解の推移を窺うとしたものである︒
彩色精緻の古図としては市博物舘の﹁寛永長崎港図﹂県図書舘の﹁天
和長崎港図﹂と長大の寛政初期と思われる﹁長崎港図﹂ ︵仮称︶に指を
屈するであらう︒ ﹁寛永長崎港図﹂は其特徴のある描写と最古の古図と
して一般に広く識者に知られて居るが後の二図に就いては色彩︑精緻さ
に於いて﹁より優れ﹂て居るに不拘余り知られて居ない︒それは﹁天和
長崎港図﹂が折図の形で雑多な古図類の中に残って居ること﹁天和﹂と
銘付ちながら疑問が多く改めて年代推定の必要がある為めであらう︒最
後の長大所蔵の﹁長崎港図﹂は其精巧さに於いては意図中の白眉であら
う︒此古図は大正初期︑在任申の田中啓爾先生が数葉の古註の要図を恐
れて一幅に構成されたものと言われて居り本来題字と年代を亡いで居た
ものであるが別表に配列すると﹁寛政初年﹂のものである事は忌違ひな
三五い︒心外︑古図の中には単なる部分の﹁地域図﹂に留ったもの︑主体を
市街地に置いたもの︑逆に沿岸周辺に置いたものと其性格は一様でなく
今此処に各図の特色を一々述べる余裕もないので︑話中の若干の古図に
触れながら居留地問題について心付を述べて見渡い︒
註一 県図書館には此れと共に寛永長崎港図の模写が残って居ることが最近判
註二君三 明した︒
大村家譜巻六
一長崎実録大成巻七﹁島原一図征伐之略記﹂に依ると寛永目四年の島原の乱に当り長崎奉行は出陣其問大村侯が長崎表の勤務を命ぜられ其際長崎出口五ケ所に番所を置いて居る︒此は恐くその胸髄であろう︒
・例 長崎港古葉︵AI︶は図面に馬込郷の米蔵が在り唐館はない
長崎港図︑長崎港外図長崎市及近郷之図︵AF︶は何れも大浦湾岸外人居留地に関する若工−の長崎古地図についてe
註四註五 の新道が在る︒表紙に長崎港図 南部美治天和元酉
天和元酉年写唐船居場大黒町に有之産気 文化五言年6梅ケ崎日直ル とあり年代的錯誤がある而も図面には南御崎米蔵の記載はないが唐館新地蔵所
が記載され大徳寺が本籠町に御番所が梅ケ崎の鼻に描け其処を基点に長崎大旧領の境界線が東西に引いてあるから内容的にも矛盾が多い︒ 図申に新地橋の所は水略が開けて木橋になって居る︒ 西築地には未だ俵 物役所はなく三一の蔵が見える︒ 新地蔵版の米蔵は四軒になって居ず未 だ三軒であるから寛政三一九年のものと思はれる︒
三︑大浦の水域と番所
1大村藩大浦番所の始末についで一
将来される外人居留地の中核地域を構成する平地はもと官爵1大浦の
埋立構築に依る事は言う迄もない︒此埋立構築の最初の計画図が﹁安政 註︸六未五月梅ケ崎新地築立略図﹂ ﹁長崎奉行上申書附図﹂ ︵AW︶として
残って居るが︑此に依ると大浦湾口は約一八○問の幅を持ち奥行は湾頭
まで約一四〇問︑それを下り松川︵大浦川︶を北岸の長崎寄りに極めて
不自然な形で水路を作り︑海上約一万六千坪の埋立計画になって居て当
時の我国の﹁居留地構想﹂を窺う事が出来る︒弘化年の大村郷村記﹁戸町村峻︸の懸垂之事﹂の中に﹁高履大士藩牽﹂とあって其説明
が付いて居る︒其計数に誤記のある事は明らかであるが口幅︑奥行の対
比はホぐ妥当で﹁漏斗﹂型を示じて居る︒
更に湖つた丈政年間の長崎名勝図絵の中に﹁雄浦﹂﹁道栄が浜﹂について
雄町は梅ケ崎の側らにあり旧大浦という即ち大村の城郭なり︑蒼崖水
を挾み舟人信宿す漁吹あしたに響き撞歌頭に唱ふ︑民戸数十口あり題
して雄浦亀町と言ふ 即ち鎮治十二景なり
道栄が浜は雄浦第一の勝境なりむかし大村藤善計道栄に賜ふ所由って
僑居の地とす故に面罵あり ︶︵
外人居留地に関する若干の長崎古地図についてO
と其絶景を謳って﹁雄浦﹂の絵図をのせて居る︒其絵図は梅ケ崎の鼻を
折れた大浦の是岸の口際に﹁大浦番所﹂を彼岸の鼻に﹁道栄が鼻﹂を描き其聞に漁村が散在︑描写の妙︑其水域と形態を写しては﹁絵図﹂の描
写としてはホ正確である︒
湾頭の地域を網場と言ひ︑東山手の上手﹁網場山﹂から其処に至る丘 註三陵を網場平と言う古名はつい最近迄残って居たし︑郷村記には﹁浦百姓
七拾七軒﹂と見えるから富浦内が漁村であった事は言う迄もない︒林道
栄の賜った﹁宙吹掠歌﹂にあけくれる絶勝曲馬︑数十歩に就いては長崎
地名考に﹁港内絶景之地にして松林の内に弁天の祠あり﹂と有り︑県図
書舘の極大の﹁長崎居留場全図﹂︵BI︶の申に引かれた朱引の旧海岸線
上に﹁道栄が浜﹂が記入されて居る︒それは現在︑弁天橋を渡った沢山邸
の崖際に当って居るから其処からッイ目と鼻の所に﹁道栄が鼻﹂が描か
れて居る事は附節を合せ︑恐らく﹁数十歩﹂の僑居の地が今の沢山邸あ
たりの崖上に在った事は間違ひない︒そうすれば其処が居留地出現に伴
ひ其前面が埋立てられても尚南山手の一一番として﹁切Φ一一く償Φ国︒諾一﹂
︵麗わしき眺望︶が経営者が交代しながら長く位置して行く事は今昔の
感に堪えない︒
然し此の雄浦の描写はあく迄も絵図にすぎないので︑其正確さを求め
て古地図の類を辿ったが僅かに後半のフリ二二γドの素図を除いては殆
んど期待に副うものは無い︒自軍りに当該年図に限定して調査すると時
代前半の寛永古図は内浦南方地域が鳥轍図示され常盤崎台地の実状を見
るには参考となるが大浦はその影にかくれて其真景を窺う事が出来ず︑
正保港図は当該地域以南の海防警備図でありながら実体を無視して大浦
湾入の形態は細長い入江に描かれて居る︒天和古情は既に指摘した様に
年代に疑問があるが︑それにしても精緻の古墨に不拘︑此叉大浦の描写
は極めて細い入江になって居る︒下って後半の木版図は其性格上一つの
規格に滞れる関係もあり年次的な市街の変遷︑推移には細心の注意を払ひながら沿岸︑ 周辺の関心の薄い地域に就ては殆んど修正がなく一般 に︑従来の肉筆図よりヤ﹂幅を持った円筒型に鋸られて居る︒唯嘉永古図﹁長崎細見図﹂丈が湾口の広い﹁実体﹂の漏斗型に尽れて居る事は注目すべきであらう︒但しそれも湾頭の所が切れて居り後に来る安政古図 三四との対︐照の出来ない事は遣憾である︒ 斯うした古図上の大浦形態の不正確さは恐らく天領に接しながらも大村領であった為め長崎人の認識から遠ざかった為めであらうが此は時代の推移の裡に重て脚光を俗び是正さる可きものであったと見て良い︒其 ︵一六四四︶︵一六八八︶二八三〇︶辞め大村藩の領内絵図を正保−心線1天保と辿って見たのであるが︑その天保図の﹁大浦﹂を拡大して見ると明らかに漏斗型の正確な大浦水域を得る事が出来︑それは伊能忠敬の﹁測量図﹂写に依って裏書されて居る︒従って後半の木版図時代のAW申心の肉筆の諸学図類が何れも版図と同型乃至はそれよりやや広めの漏斗型への推移を示し遂に図書館の
・ 註五
﹁長崎市及近郊之図﹂︵ω伊Pc︒・c︒ドα︶﹁長崎港図﹂︵ω日①●Q︒・H謹︶に至って完全な漏斗型になつ居る︒然し居留地出現直前の大浦地域を最も正確に描き出して居るのは現在の所︑吉田氏所蔵の﹁大浦地域図﹂ ︵仮称︶であろう︒ 此図はフリーハγドの素図で題字も年代も欠いで居るが前述の﹁安政六末五日梅ケ崎新地掃立略図﹂及﹁同年長崎奉行上申書附図﹂の原型図であると思はれる︒此処に揚げる無口﹁大浦水域と大浦番所﹂は此の吉田古図を基に図上記載の不備を右二図と﹁万延元申十月落成御見分済図﹂ ︵B1︶に依って補ひ︑以て居留地出現前の大浦の水域と番所の位置付けをし様うとしたものである︒外人居留地が大浦案に落直し︑其処に居留地が構成されて行くに就いては大浦湾口の大村藩大浦番所が一つの﹁示標﹂となって居る︒安政六年五月=二日前長崎奉行岡部駿河守の老中伺書﹁外国人へ貸渡すべき地所の件﹂の中に む む む む む む ワ む む む 地境に元大村丹後守口留番所有之当時御役所唐人番遠見番為相詰候二 付番所前より北詮方町家悪習軒取払候得は黒蓋町にて境界相立西北は常盤崎梅ケ崎海岸叉は元御台場等にて長崎会所持蔵所信外人家業之北 つ
︵ 8
蚤 瀞
π
一 ︾
蝦所薪上地ア
簡鋪丸﹂
AB︒難 長昆昆 賑二布 かばば緬
@蒲纈
朋坤相
@難
△目BO
番 所
大
浦
と
域
水 浦二 大
図
外人居留地に関する若干の長崎古地図についてe は唐人番遠見番屋敷にて平素取締向等為心得置候二付便利至極二有之とあり︑大浦番所が居留地構成の基点になって居る︒ ﹁元大村丹後守口 む留番所﹂め元が安政四年の戸町上知に依って長崎代官の支配下に入った む む む む事を意味し口留番所が先述の大村藩僅役の七口番所の一つであると見る可きであらう︒ 此口留番所の設置は非常態勢のものであったから臨時的で建場も固定 ︵一七九〇︶ 二六して居なかったらしく︑後年寛政二年︑ 大村藩の問合せに対し長崎奉行
は
七口番所建所之儀前以差無下候儀ハ差支候二付而異変之節ハ何れ成共
宣場所被仰聞次第に御差支無之可申付候
と回答して居る此事が一般七口番所が古地図に見えない理由であらうが
唯一つ大浦番所が後半の古地図に残り臆て居留地構成の基点になって居
る事は其位置的重要性が時勢の推移に伴って其性格を変質し固定化した
為めであらう︒此番所が口番制の当初から大浦湾口の梅ケ崎寄りに在っ
たとは考えられない︒長崎実録大成巻二の﹁梅ケ崎地工事﹂の一節に
昔年ハ長崎領大村領磯続ノキ潟ニテ境目不配分之処延宝入庚申年牛込
氏在勤之節荒木伝兵衛ト好者依願長崎領十善寺村ノ海辺二地形ヲ築キ 茶屋屋敷並土蔵済度老子之通被差免地内二土蔵一棟二拾八聞入三間五
戸前明ケ屋代居所ニケ所建之但年来長崎領ノ境二榜示木テモ可被建置
之処幸此築地三ア大村領トノ境界分明二相成則此所テ梅ケ崎ト名付ラ
ルとあり﹁梅ヶ崎﹂の絵図が入って居る︒此丈面から﹁地境﹂にあった筈
の大浦番所が当時﹁其処﹂に在ったとは考えられないし又絵図には可成 註七り疑問の点がある︒
此築地に依って茶屋地上に天満宮が勧請された事から﹁天神山﹂﹁梅
ケ崎﹂の地名が生じ︑其梅ケ崎土蔵が当初専ら中国船積荷倉庫の好適の場所として利用されながら一線一二年の新地弓蔵の造営に依って諸商人
あ借蔵に変化∵其所有権が移行しながら梅ゲ崎米康馬昆布蔵など通称が
イ
外人居留地に関する若干の長崎古地図についてe
変って居る︒此の実録大成の記録と絵図は大浦番所の位置について一つ
の示唆を与えるものである︒本来大浦の番所は口留番所の一つとしての
﹁難役﹂であったから南方から長崎へ入る通路︑所謂野母街道に沿う可
きであり県図書館の円山応挙筆﹁長崎港図﹂にも示されて居る様に大浦
湾頭から十善寺辻を経て市内に入る通路上に在るのが自然である︒従っ
て﹁長崎領大村領磯続の干潟﹂の所謂磯伝ひの間道である大浦湾口に陸
役の口留の番所が設定される事自体に矛盾と不自然さがある︒繕事が時
代前半の古図類に大浦番所が不鮮明であり後半の木版図に一様に大浦番
所を梅ケ崎寄りの湾口に描いて居る所以であり︑此地に固定した時︑番
所の性格が変質したと見て良からう︒
寛政から化政に至る推移は言はば幕末期の曙であり微妙な対外関係が
敏感に長崎の場で感じられて来る時期であるが︑大浦番所は文化元年の 註八難国使節︑レザノブの梅ケ崎︵米庫⁝︶上陸止宿に依って場所柄大きくク
ローズアップされて来る︒当時の記録は大村家覚書巻一五の﹁魯西亜人
梅ケ崎揚陸之事﹂に詳細見えて居るが当時の大村藩の﹁大浦固﹂の警備
配置を示す﹁大村藩番所之図﹂ ︵A4︶の崖上の警備図が県図書館に︑
崖下露西亜館内部図が市博物館に分散して上下二枚で残されて居る︒図
口はその県図書館図で極彩色の絵図面であるが図面下部には左側に切り
立った崖が描かれ︵現在の活水短大通用門側︶右側には崖下から入り込
んだ海岸線が大浦湾口迄描かれ︑其崖下の所に﹁此下灘魯西亜館也﹂と
あり崖真上に﹁問道守小番所﹂が見えて居り海岸には梅ケ崎︑常盤崎が
記入されて﹁磯辺番所﹂﹁大浦番所﹂が建って居り︑磯辺番所には﹁カ
リニ出来﹂︑大浦番所には﹁常二有之一三﹂と記入されて居る︒図面の
上部には大村長崎領界の地形が崖上端から斜に見られ︑其れから左手長
崎領側には手前に梅ヶ崎天満宮趾︑後手に唐人番長屋の一角が描かれて
居る︒右手大村領内の跡地に道路を経て︑二割に一〇軒と六軒の二区一 ハタケチ六軒の陣屋が並び其処に﹁此処総テ圃地を俄二平ケ陣屋如是建並也﹂と
記入︑各建物に其所属の分担︑氏名︑人数が見えて︑それは記録の記す
e
帥
之 所
番 藩︶
村−o
吠︵
三
図
四五〇人の動員配置を如実に示して居る︒
む む
此に依って当時非常態勢として常置の大浦番所の外に小番所二ヶ所急設された事が窺えるが大村市図書館所蔵の﹁旧藩時代の大村領交通図﹂
に大浦番所が大番所と小番所ニケ所描いてあるのは此に附節を合せる古
図であらう︒勿論大小三番所の体制は臨機の処置であったから事済と共
に小番所は廃止︑陣屋も解体され︑其処に聴て天保一四年多少位置的に むズレながら梅ケ崎台場が建設され︑奉行上申の﹁元台場﹂へと代って行
く事は言う迄もない︒此事件を契機に大村藩は再度︑七口番所の﹁建場
其他﹂を問合せて居るが﹁前以御取極之儀者被成兼候筋﹂と寛政年同様
の解答しか与えて居ないし︑更にフェートソ号事件後丈化六年五月大村
藩は三度び﹁昨今御振合二虚者猶更厳重二手当言異変之血管指図次第急
速人数差出候﹂為め建場︑居宅等に就いて具体案を提出したのに対して
も長崎奉行の附札に 書面被申立候趣を以猶面相糺候処異変之節七口番所二相成候豪い無差
支様申渡候併此節より右番所之名目附候而者迷惑些些申立異変之節番
所差出候義無差支様可致旨申立候問人数次第直二勤番所思被良計且被 申立候者共之内名熱灰相違之者茂有之二付別紙書付為心得熟達候
とあり︑﹁覚﹂として七口番所それ︽\の名目がのせてあるが大浦口は
﹁十善寺郷与惣次︑旨くめ︑同郷三次郎︑同郷市平﹂の三軒になって居
る︒ 此に依ってかかる非常の時勢に当っても依然七口番所は最初の臨時的
な﹁民家借上﹂の仮設に終始して居るのであって︑其申の大浦番所は大
浦湾口に固定化した時既に其性格を変質したと見て良い︒此事に就いて むは︑此よりニケ月早い同年三月長崎奉行が大村藩に対し﹁大浦之儀は平
む む む日番所有之候得共同人屋舗最寄と申一躰市中より手近き場所豊凶者手当 む 被申付候哉 去秋異国船渡来後別段御手当被申付候儀無之候哉﹂と平日
む む番所の大浦番所に対し同じ大浦口の﹁市中手近き唐人屋舗最寄一帯﹂の
警固に就いて問ひ正したのに対し大村藩は﹁去秋異船渡来任別段手当不
申付置︑戸町大浦手当則別帳蟻通り御座候﹂と大浦押︑大浦固︑大浦番
所平素手当等詳細報告しながら﹁市中手近の唐人屋舗最寄一帯﹂の警備
には就いて居ない旨報じて居る事で大方の推察が付くであらう︒即ち大
浦の口留番所はそれが大浦湾口に固定した時既に本来の性格を変質せし
め言はば海上警備の線上に於ける長崎港湾の沖番所に対する口番所とし
外人居留地に関する若干の長崎古地図についてe バハン ソトメて乃至は禁教︑抜販取締りの線上に於ける大村藩の外海︵一六︶番所に対する口番所としての性格が強く現われて来ると見て良い︒ 従って大浦番所の変質は唐人取締強化と相侯って﹁唐人屋舗最寄の市中近き﹂場所の警備手当を必要とし文政三年︑唐人屋舗門前に番所が設ザ立されるに至って居る︒弔事に就いて大村家覚書巻一六に﹁長崎御番所知事﹂として文政三年六月水野出羽守が大村藩留守居を呼んで左の書付を渡して居る事が見える︒ む む む む 長崎市中平素之備井唐人屋敷為取締右屋敷門外雨虎番所藍建向後家来 共差越巽南守可被申候尤も非常之節長崎警固之儀者蔵出前々通候番所 取建方併家来人数交替等之儀手長崎奉行霜被承合候即ち口留番所の非常時警備の外に新に南方通路の要衡に当る唐人屋敷門 む む む む前に番所を取り建て市中平素之備えと唐人取締りが大村藩に命ぜられた事は完全に大浦番所の性格を一変したものと言って良い︒此に依って同年九月大村藩は長崎奉行より御番所︑御台場の地面の引渡を受け普請に着手︑一二月から勤番について居る︒此勤番は平素の備であったから此から大村藩の聞役は年詰になって居り翌年には大浦梅ケ至境の新道を開拓して始めて大浦湾岸の道が開けたが翌々六年には此番所を長崎奉行の支配下に引渡す様命ぜられて居る︒ 由来長崎の地は大村藩の旧領地であり鳥居域も一番近距離にあったので両者の関係は極めて深い筈に不拘︑微妙な面では不審の点が多い︒一般聞役の中でも所謂﹁四ケ所聞役﹂の一つとして長崎奉行附人の格別な地位を持ち西南諸侯に共通の﹁異国手当﹂﹁蔵屋敷詰﹂の外に格別の負担と重任がか﹂って居る︒安政四年︑戸町上知を命ぜられた時︑それは幕府に将来さるべき外人の居留地建設の構想が有ったであらうが︑大村 三九藩は戸町代知を手近の場所に願って居るが︑稟申に 我家代々長崎御用姦盗罷在異国船渡来之節異変手当皇子口固市中廻番 牢屋警固蔵屋敷詰其外大浦江別備掃出徳望右様之節二至戸町村之儀者 長崎手近之場所田無多人数調整夫大工諸職人を始め竹束陣小屋入用之