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松本睦樹 松本睦樹 松本睦樹 − − インド省手形の起源と歴史

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(1)

インド省手形の起源と歴史

−東インド会社手形から逆インド省手形まで−

長崎大学経済学部教授

松 本 睦 樹

(2)
(3)

目 次

はじめに ……… 1

Ⅰ 18世紀における東インド会社の貿易と為替手形 ……… 9 1 為替手形と資金移動 ……… 9 2 金融危機と為替手形 ……… 20

Ⅱ 統治業務の肥大化と本国への送金 ……… 39 1 貿易の漸次開放 ……… 39 2 現地の財政と為替手形 ……… 44 3 統治費用の増大とロンドン本社 ……… 51 4 本国に向けての資金移転 ……… 59

Ⅲ インド宛為替手形による送金の始まりと展開 ……… 75 1 インド貿易の開放と本国送金 ……… 75 2 貿易と送金 ……… 80 3 インド宛為替手形の拡大 ……… 87 4 会社手形からインド省手形へ ……… 95

Ⅳ インド省手形の変質 ………107 1 送金手段から為替政策手段へ ………107 2 両ロンドン準備資産の形成と展開 ………111 3 本国での資金需要と両ロンドン準備資産 ………115 4 インド省手形とインド省残高 ………119 5 本国送金の構図 ………125

Ⅴ インド省手形の終焉〜むすびに代えて〜 ………139

【付表】 ………146

【文献目録】 ………151

(4)
(5)

はじめに

イギリスのインド統治を特徴づける現象の1つは,いわゆるインド省手形 の売却である。このインド省手形とは,文字通りに解するならば,イギリス 本国においてインド省

(1858年設置)

がインドの植民地政府宛てに発行する 為替手形

(ポンド払い込み,ルピー払い)

と言うことになる。ただ,実際には インド省が設置される前から同様の手形は発行されていたし,また1876年に は手形に加えて電信為替も発行・売却されるようになった

(1)

インド省手形はインド宛の為替手形であり,したがってインドから物産等 を購入する業者らにとって,大きな利用価値があった。実際,本国イギリス の商人のみならず,インドとの貿易に携わる多くの商人・業者らによってそ れは広く利用された。例えば,当時日本の業者がインドの原綿を輸入する際 にも同手形への依存が次第に増し,とくに1910年代には必要不可欠のものと なった。それ故にこそ,第一次大戦末期からの同手形の販売制限は,当時日 本の基軸産業であった綿業,ひいては日本資本主義そのものに重大な危機と なって現れ,結果的には台湾銀行を先兵とするアジア決済圏の構築に向かわ せる一因となったとされる

(2)

ところで,こうしたインド省手形はどのような起源を持つのであろうか。

この点では,多くの研究者はケインズの古典的名著『インドの通貨と財政』

(1913年)

を思い起こすであろう。実際,同書第5章は「インド省手形と送 金」と題され,次のような一節から始まる。

「いわゆるインド省手形による送金は,インドの制度に特有のものであって,私 の知る限りそれに相当するものは他のどこにも存在しない。インド省手形は,1 つにはインド政府がある貿易会社の後継者であるという歴史的な事情と,1つに はインド政府がイギリスにきわめて多額の送金を毎年行わなければならなかった ことに起因するものである。」(Keynes[43],

p.72 参照[訳文は主に,邦訳『ケ

インズ全集』第1巻,東洋経済新報社,76ページに依拠した])

ここで言う「ある貿易会社」とは,言うまでもなくイギリス東インド会社

(以下,新旧2つの東インド会社,およびそれらを統一する形で1708年に発足した合 1

(6)

同東インド会社について,いずれも区別することなく〈会社〉と略記)

である。そ して「多額の送金」とは,会社がインド植民地を領有し,かつその植民地支 配のためにイギリスで発生する諸経費

(いわゆる本国費など)

を支弁するため に,インド植民地の歳入の一部をイギリス側に送金していたことを指してい る。

むろん,ケインズが同書を執筆した当時,状況は大きく変化していた。既 に会社は解散し,広大なインド植民地を統治する役割はイギリス政府へと移 され

(形式上インド植民地はイギリスの君主がインド皇帝を兼ねる同君連合)

,また イギリス国内にあってはインド省が会社の本社

(および当時の監督官庁)

を継 承する形でインド植民地の統治を掌っていた。

それだけではなかった。インド宛為替手形の役割も大きな変貌を遂げてい た。すなわち,会社時代にはロンドンの本社が現地の植民地政府宛に振り出 すインド宛為替手形

(すなわち会社手形)

はもっぱらインドからイギリスへの 送金手段として利用された。それは,会社による統治が終わったあともしば らくは変わらなかった。インド省は,インドからの送金方法としてロンドン でインド植民地政府宛の為替手形

(インド省手形)

を売却し続けた。ところ が,20世紀の初頭にそれは本来の意図から離れることとなった。ケインズが 上記の著書を刊行した時代には,それは送金手段としてのみならず,ルピー 相場を維持管理するための方策として利用されるようになったのである

(3)

。 このことは,結果として研究者の間でインド省手形に対する関心を高める こととなった。実際,インド省手形に関する研究史を紐解くならば,その多 くは会社時代やその後の19世紀中の送金手段としての役割や金額の推移など を究明するものではなく,何よりも20世紀初頭のいわゆる多角的決済機構と 言う脈絡の中で,あるいはまたインドの幣制改革や金為替本位制との関連 で,同手形がどのような役割を果たしたのか,と言う点を論じていることに 気づく

(4)

。その内容をあえて要約するなら,こうである−

20世紀初頭のイギリスの貿易収支は膨大な赤字を記録しており,自らの貿

易外黒字をもってしても手当することが不可能であった。こうした状況下

で,イギリスはインドを最大限に利用した。具体的には,インドが計上する

(7)

貿易黒字をイギリスに移転することにより,イギリスは自らの貿易をファイ ナンスしたのである。この意味で,イギリスはインドを自らの国際収支の〈安 全弁〉として利用し,その道具がインド省手形に他ならなかった。同時に,

それは19世紀末からの幣制改革が用意した道筋でもあった。すなわち,1870 年代から顕著化する銀価の傾向的低落と言う状況下で,銀貨ルピーの減価が インド植民地にとって貿易などで多大な困難をもたらし,その結果19世紀末 に幣制改革が試みられ,紆余曲折を経て20世紀初頭に金為替本位制に至っ た。その際も,インド省手形が最大限に利用された,と。

そうした先行研究の成果は我々の共有財産であり,それらが果たした意義 は大きい。ただ,そうした諸研究によって明らかにされたのは,インド省手 形の当初の役割とは異なる,そして時期的には長い歴史のいわば最終局面で しかない。

本書ではそうした先行研究の成果を踏まえつつも,むしろインド省手形の 起源を解明した上で,その後の歴史を辿ると言う手続きを踏むこととする。

とりわけ焦点をあてたのは,次の2点である。

1つは,本来は商業団体にすぎなかった会社が現地を支配するようになり 本国での諸経費をも負担するようになった経緯であり,さらにその経費を手 当てするための送金方法が次第に同手形に収斂して行った背景などである。

その意味で,いわば同手形本来の役割を検証することになる。

いま1つは,そのようにして登場したインド省手形が本来の役割を超え て,大きく変貌を遂げたと言う事実である。その点については既に多くの研 究成果が存在するが,改めてその概要を確認してみたい。

本書では,このような点を中心に,またインドとイギリスとの間での資金 の流れに注目しつつ,主に数量的なデータに基づいてインド省手形の起源と 歴史を追ってみよう

(5)

(1) インド省が発行するインド植民地宛の為替手形は,後に詳しく論じるように19世紀 終わり頃に一般にCouncil Billと呼ばれるようになった。その語源については,同手形

はじめに 3

(8)

の発行主体すなわちインド省のトップであるインド大臣(Secretary of State for India in Council)あるいはその助言機関であるインド参事会(Council of India)に求めること ができる。

なお,このCouncil Billに対して我が国では一般的には〈インド省手形〉と言う語が 充てられるが,他に〈参事会手形〉と訳されることもあるし(サルカール[63]37-38 ページ 参照),また〈カウンシル・ビル〉なる語をそのまま用いることもある(東京銀 行[70]162ページ 参照)。また,1914年のチェンバレン委員会の報告書では,「便宜上,

billsと電信為替の双方をカバーするためにdraftsと言う語を用いる」と述べ(Final Re-

port[22-4],p.41, para.170 参照),以後そのような使用例も多く見られたが(例えば Shirras[49],p.298 参照),井上 巽氏はこのCouncil Draftに〈インド省証券〉と言 う語を充てている(井上 巽[57]62ページ 参照)。ただ,本稿では電信為替を含め〈イ ンド省手形〉と言う語に統一している。

ところで,インド省の設置は上述のように1858年であるが,同省が売却するインド植 民地政府宛の為替手形がCouncil Billと呼ばれるようになるのは後年である。例えば,

1870年代前半にイギリス下院に設置されたインド財政委員会の関係文書を紐解くなら,

1872年から1874年までの各会期における報告書や証言,そして付帯資料のいずれにおい てもCouncil Billなる語は使用されておらず,同意の用語としてBills drawn by the Sec- retary of Statesやthe Secretary of State's Bill on the Indian Governmentまたはthe Secretary of State's Bill,あるいは単にBills on Indiaと言った語が充てられている(Re- port[17-1],Report[17-2], First Report[17-3], Second Report[17-4],Third Report

[17-5],Report[17-6]の各報告書等を参照)。ところが,1876年会期の銀減価委員会(De- preciation of Silver Committee[18])では,質問者と幾人もの証人との間でCouncil Bill やCouncil Draft(またはCouncil Draught),あるいはDraft of Indian Council, Indian Council Draftなどの語が使用され(例えばReport[18-1], Minutes of Evidence, QQ.

520,525,575,777,1366,1448-1449,1460 参照),また報告書のIndexの小見出しでは Council Billと言う語が使用されている(Op. cit., Index, p.228 参照)。他にも1870年代 後半には,そうした表記を記載した議会資料が散見される。

おそらく,1870年代後半からCouncil Billと言う語が徐々に定着して行ったものと思 われる。ちなみに,1887-1888年の金銀委員会(Gold and Silver Commission[19])や 1892年のハーシェル委員会(Herschell Committee[20]),さらに1898年のファウラー 委員会(Fowler Committee[21])では,証言にとどまらず,報告書の正文においてさ

えCouncil Billと言う語が使用されている(例えば,金銀委員会の場合はFinal Report

[19-1], Part1, paras.25,72,192, Part2, para.66,ハーシェル委員会の場合はReport

(9)

[20-1], paras.122-123,またファウラー委員会の場合はReport[21-2], paras.22,40, 63, pp.23,26 参照)。ただ,議会資料を見る限り,その後も概してthe Secretary of State's

Billなどの表記がむしろ一般的に使用されていた。

ちなみに,インド史研究家にとって基本史料と言うべきStatistical Abstract[7]で は,Council Billと言う語が最初に登場するのは1924年に刊行された版(BPP.,1924[cmd.

2033], vol.25)においてである(それ以前は主としてBills and Telegraphic Transfers drawn on India by the Secretary of Stateが用いられていた)。この1924年と言う年が インド省手形発行最後の年であったことは皮肉と言うほかない。

(2) この点については,前田薫一[71]を初めとする先行研究があるが,とりわけ䌣見 誠良[69],張 韓模[68]が興味深い。

(3) この点は,ケインズ自身も次のように説明している。

「1900年までは,インド省手形の売却量はいずれの年においても主として本国費の支 払必要額によって左右されたが,この必要額は部分的にはその年の資本借入量に依存し た。しかし手形の売却量は,たいていの年には比較的狭い限界内ではあるが,インド大 臣が満足できる価格でインド省手形を売る機会(それは景気動向や貿易差額に依存する)

の大小によっても変動した。しかしながら1900年以来,インド省手形制度の機能は拡大 され,いまやそれは金為替本位制度維持のための一般的な機構のきわめて重要な一部と なったのである。」(Keynes[43],p.75[前掲邦訳書,79ページ]参照)

(4) この分野での研究成果のうち,優れたものとして以下のものをあげることができる。

井上 巽[57],木村 亮[62],渡辺昭一[78]。また,古くは次のようなものも参考とな る。大蔵省理財局[59],松岡孝児[73],新庄 博[66]。さらに,このテーマに関連す る研究として,有馬敏則[55],絵所秀紀[58],島崎久弥[64]なども有益である。

(5) インド省手形に関する研究のほとんどは,その起源を詳細に検討してはいない。こ の分野で基本的文献とも言うべきシラスの研究(Shirras[49])では,「これらdraftsの 歴史を詳細に追うつもりはない。」と断った上で,「1813年当時に行われたdrafts売却問題 をめぐる議論や1834年からインド大反乱までの販売システム,1857年から1862年までの ほとんど完全な停止,そしてその再開後の展開と言ったものについての興味深い説明は,

ファウラー委員会報告書の付帯資料として刊行されたヘンリー・ウォーターフィールド 卿の『インドからの送金を遂行するシステム』に関するメモで描写されている」と述べ

はじめに 5

(10)

るにとどめている。同時に,チェンバレン委員会報告書(1913年)の付帯資料にある「故 ニューマーチ氏のメモ」も比較参照するようとも記している(Shirras[49], pp.298-299 参照)。

ここで言及されているヘンリー・ウォーターフィールドとは,上記ファウラー委員会 が設置された1898年当時にインド省で会計係を務めた人物である。彼は1837年に生まれ,

ウエストミンスターで教育を受けた後の1853年に監督庁(後のインド省)に入庁した。

彼は,同委員会で上司にあたる会計課長(Accountant-General)のケイブ=ブラウン(Ed- ward Raban Cave Brown,1835-1907年)とともに,インドからの送金に関する有益な証 言を行った(Minutes of Evidence[21-1], QQ.4305-4423)。上記の「メモ」とはその証 言の付帯資料と言うべきものであり("Memorandum by Sir Henry Waterfield, K. C. S.

I., C. B., Financial Secretary to the India Office, relating to the System of effecting Remittances from India," inIndex and Appendices[21-3], pp.24-25),有益で多くの 事実を教示しており,証言当時までのインド宛為替手形に関する基本的な状況が記され ている。ただ,会社のインド宛為替手形の具体的な発行額の推移が掲げられていないこ とが残念である。また,そのメモを収めたファウラー委員会報告書では,他の付帯資料 においても,会社時代末期と言うべき1850年度以降の発行額を掲げるにとどまっている。

他方,チェンバレン委員会におけるニューマーチの「メモ」と言うのは,同委員会で インド省手形に関してやはり有益な証言を行ったインド省職員F. W.ニューマーチ(1877 年に入省し,同委員会設置当時は会計担当職員)が同委員会に提出した文書("Memoran- dum on the Sale of Council Bills and Teregraphic Transfers submitted by Mr. F. W.

Newmarch, Financial Secretary," inAppendices to the Interim Report, vol.1[22-2],

Appendix VII, pp.217-238)のことである。この「メモ」には当時のインド省手形に関

する諸状況が詳しく論じられているが,残念なことにその起源と言うべき会社時代のイ ンド宛為替手形には言及していない。

以上の点に関連して,この分野で利用される基本的史料そのものについて触れておこ う。既に述べたように,インド省手形に関する研究はインドの幣制改革ないしは金為替 本位制との関連で論じられることが多く,その際最もよく利用される史料は上記のチェ ンバレン委員会の諸史料(報告書,証言,および付帯資料)である。ただ,同委員会で はインド省手形の起源などが詳しく論じられておらず,またその付帯資料においてもイ ンド省手形の発行額は1872年度以後の推移が一覧表にして収録されているにとどまって いる(Appendices to the Interim Report, vol.1[22-2], p.232, Appendix VII, Table II 参照)。ファウラー委員会の場合は,既述のように1850年度以降の数値を掲げている。こ のように,インドの幣制改革との関連で設置された委員会では,会社時代のインド宛為

(11)

替手形の発行額については関心が少なかったようである。そうした中で,銀減価委員会 が1834年度まで遡ってインド植民地政府による本国送金について各送金手段ごとの数値 を掲げているのは興味深い(Report[18-1], pp.180-181 参照)。

はじめに 7

(12)
(13)

Ⅰ 18世紀における東インド会社の貿易と為替手形

1 為替手形と資金移動

インド省手形の起源は会社時代に求めことができる。その点に異論を唱え る向きはないであろう。実際,当時の記録を紐解くならば,会社がインド植 民地の行政を担っていた時期に,会社はイギリス国内で生じる諸経費を賄う ため,ロンドンでインド宛為替手形を売却していた。では,それはいつ頃か ら,そしてまたどのような経緯で始まったのであろうか。

ここでは,その起源を究明するに際して,まず会社の組織,そしてまた貿 易活動についていくつかの事柄を確認しておくことから始めよう。

会社は言うまでもなく本来貿易団体であった。イギリス王室から〈東イン ド〉地域との貿易を独占する特許状

(Royal Charter)

を付与され,排他的な 貿易を営む団体であった。以後,様々な経緯とともに,特許状の更新を繰り 返し,1858年に事実上解散するまでの間,長きにわたり世界史に大きな足跡 を残した。むろん,その間に同社の性格は大きく変貌した。

当初は貿易団体として発足したが,やがて現地で領主化する傾向を見せ た。その発端は18世紀中頃にベンガル一帯を領有したことに始まる。以後,

会社は貿易活動を行いつつ,同時に広大な版図を統治するようになり,かつ その版図は次第に拡大して行った。

そのことは,インド社会のみならず,会社自身に対しても大きな変化を投

げかけるようになって行った。ここで問題とすべきは,インド統治のための

費用の一部がイギリス国内において支出され,しかもその費用が次第に大き

くなって行った,と言う点である。当初,そうした費用はきわめて小さかっ

たし,かつそれを特定することも不可能であった。と言うのも,会社の収支

はすべて一体となっており,それを商業と行政とに分けて処理すると言う必

要性が唱えられるようになるのは,19世紀になってからである。したがって

また,イギリスで支弁される会社の諸経費のうち,インド植民地を統治する

ために支出された費用を〈本国費〉と呼ぶようになるのも後年のことであ

9

(14)

る。

いわんや,イギリスの対アジア貿易を独占していた17,18世紀当時の会社 にとって,アジア貿易による利潤獲得ではなく,あるいはそれと並行して,

アジア各地との為替業務によって利益をあげるなどと言う発想はなかった。

時代が植民地銀行を要請するのは,ずっと後年のことである。

ただ,18世紀以前に会社がロンドンと現地との間で為替手形を全く発行し なかったと言うわけではない。実際,インド省手形と同様,ロンドンでイン ド宛の為替手形を振り出す

(したがって資金の流れとしてはインド側から本社側 に向かう)

と言う行為そのものについて見るならば,本社取締役会が現地側 に宛てた書簡にその記録が散見される。

それらがどのような性格のものであるのかは必ずしも明らかではない。お そらく,送金を必要とする人物からの依頼を受けて本社側が認可した個別か つ例外的な便宜供与にすぎなかったであろう。また,その金額も概してきわ めて小さく,18世紀後半の場合でも年間の売却額は1万ポンドにも及ばな い

(1)

。そのためか,議会に提出した会計報告書

(2)

でも,そうした受取項目は 独立して記されておらず,その詳細は不明である。この点で,後述する本社 宛為替手形に対する支払いとは対照的である。

いずれにしても,当時ロンドン本社が発行したインド宛為替手形は,本国 での資金調達と言う明確な意図の元に振り出されたもの,別言すればインド での植民地収益を本国側に移転すると言った性格のものではな

!

!

!

!

。この 意味で,インド省手形の起源を当時のインド宛為替手形に求めることは無理 であろう。

むしろ,当時会社が発行した為替手形と言う点で目につくのは,会社の現 地機関がロンドンの本社宛に振り出したポンド払いの為替手形である

(むろ ん,それは資金の流れとしてはインド省手形の場合とは逆方向であり,いわば逆イン ド省手形と同方向と言うことになる)

。その額は,上述のインド宛為替手形のそ れの比ではない。

例えば同社が1773年のイギリス議会に提出した資料を紐解くなら,既に

1730年代には本社が多額の為替手形を支払い,その額がアジア向け商品の金

(15)

(イギリスでの買付額)

と遜色ない規模であった事実を知ることができる。

それを示すのが図1である。同図は,1732年から1769年までの期間につい て,本社の支払いのうち商品・資材の買付額,ブリオンの買付額,そして本 社宛為替手形の支払い額の推移を示したものである。それらは,いわば現地 側に対する本社側の輸出と支払いとを示すものである

(3)

同図を見れば,何よりも本国からアジアへの輸出・支払手段として1730年 代から1750年代前半期までブリオンが圧倒的な比重を占めていたことに目を 奪われるであろう。しかし,やがてブリオンのウェイトが激減し,商品・資 材の買付額と本社宛為替手形の支払額とのウェイトが大きく増えたことを見 逃してはならない。1755年度からの15年間に限って見るならば,年間の平均 支払い額はおよそブリオンが23 . 3万ポンド,商品・資材41 . 4万ポンド,そし て為替手形は34 . 5万ポンドであった。すなわち,為替手形への支払いは,ブ リオンの買付額を大きく凌駕し,商品・資材の買付額に肩を並べるほどの規 模であったと言えよう。

このことが意味することを改めて述べるならば,次のように言えるであろ う。現地で必要とされる資金

(本国向け商品の買付費用やその他の諸経費)

の財 源として,本国から現地に送られる商品やブリオンの売り上げ代金は不可欠 であった。しかし,それだけではない。現地において本社側に宛てて振り出 される為替手形も同様にきわめて重要な財源を提供した,と。

では,こうした為替手形は会社が活動するアジア諸地域のうちのいずれに おいて振り出されたものであろうか。残念ながら,上記の為替手形について 振り出し地域別のデータは見いだすことはできない。しかし,1760年代につ いては,現地側の振り出し取り状況を示すデータからその趨勢を見取ること ができる。表1がそれである

(同表で示された金額は,現地での振出額)

。同表 から明らかなように,当時本社に宛てて振り出された手形の大半は,インド の3管区からのものであった。その割合は,全体の90%近くを占めた。中で も,ベンガルからの振出額が突出していた。

他方,中国(広州)から振り出された手形は,少なくとも1760年代には決 して多くはなかった。また,他の地域,すなわちベンクーレン管区

(英領ベ

Ⅰ 18世紀における東インド会社の貿易と為替手形 11

(16)

図1東インド会社による本国からの輸出額と為替手形への支払額1732-1769年度 【備考】 (1)いずれも本社の支払額(各年度平均額)。なお,商品には,行政資材が含まれる。 (2)ブリオンと商品の買付額(本社による支払い額)が輸出額とみなされる。為替手形については,会社の現地機関が 本社宛に振り出した為替手形に対する支払い額であり,いわば本社から現地側への送金額とみなされる。 【資料出所】

Third R eport

[8

-1] ,p .

75によって作成。

(17)

ンクーレン植民地)

および当時会社が領有したセントヘレナからも同様の手形 が振り出されたが,振出額はきわめてわずかであった。

次に,インド3管区から本社宛に振り出された為替手形とは,どのような ものであったのかを検証しよう。とくに,これほど多額の手形が現地で消化 されたと言う事実に注目しつつ,その実態を垣間見ることにしよう。

現地において会社側に現金を振り込んで本社宛の為替手形を受け取ったの は,現地で会社の職に就く人びとや商人らであった。彼らはヨーロッパへの 送金手段としてそれを利用したのであり,現地で活動するヨーロッパ人に とって会社の手形は重要な送金手段の1つであった。

会社が彼らに対してこのような便宜を図るようになったのは,いつ頃から であろうか。その起源は古い。1680年に会社は退職する職員を対象にこうし た手形を振り出したと言われる

(4)

。そして,その後は退職する職員のみなら ず,その他の人びとへと対象が広がったようである

(5)

1760年代に話を戻し,当時ベンガルでどのような人びとが会社の手形を受 け取っていたのかを瞥見してみよう。現地機関は本社宛為替手形を発行した 場合,事後的にその詳細を本社側に報告した。そのうちの1通と言うべき 1764年2月20日付でベンガル知事側が本社側に宛てた書簡を取り上げ,同書 簡に記された為替手形102通について,払込人の欄を見るならば,大半は会 社関係者である。その職位もさまざまであり,組まれた為替手形の金額も支 払額ベースで数十ポンドから1万ポンドを超えるものまで大きな幅がある。

払込人のリストには,現職のベンガル知事である H.ヴァンシタータ

(単独で 4通,額面約£5

,

500,その他に業務関連と思われるもの1通,額面£1

,

000)

の他に,

表1 現地からの東インド会社本社宛手形の振り出し状況 1762-1769年度

【備考】

*

ベンクーレン管区,およびセントヘレナ。

【資料出所】Third Report[8

-

1]pp.60

-

71によって作成。

Ⅰ 18世紀における東インド会社の貿易と為替手形 13

(18)

知事補佐会議

(council)

のメンバーであり後にベンガル知事(

その後には初代 ベンガル総督)

に就任する W. へースティングズ

(2通,単独で約£7

,

000,他の 1人と連名で約£600)

など,同書簡に署名したベンガル会議のメンバー全員 の名を見いだすことができる。要するに,知事以下ベンガルの幹部職員が軒 並み名を連ねたことになる。その他にも,例えば後に密輸の廉で拘束され本 国に送還され,やがて会社側を批判する書物を刊行して世の注目を浴びるこ とになるウィリアム・ボルツ

(1通,額面£93ほど)

と言った,歴史に名を残 すことになる人物の名も見られる

(6)

むろん,会社関係者ばかりではない。この102通の為替手形の払込人欄に は少数ながらも〈自由商人〉

(free merchant)

の身分の者も確認できる

(7)

。 他のケースについてみても,同様である。当時,ベンガルでは多数の会社職 員に加え,会社とは雇用関係のない一般の商人

(すなわち自由商人)

らが会社 の為替手形を利用して,ロンドンに向けて送金していた事実が明らかとな る。

マドラスにおいても,やはり現地機関が本社側に宛てた書簡から,そうし た事実の一端を窺うことができる。マドラス知事側が本社側に宛てた書簡で は,しばしば為替手形の払込人について会社職員と自由商人に区分して記載 していたが,例えば1745年2月15日付けのそれでは,全19通,額面総額£

23 , 000近くのうち,自由商人のそれは4通,額面総額£5 , 700余りを占めて いた

(8)

。さらに,希なケースであろうが,管区間の送金に本社宛為替手形が 利用されたケースもあった

(9)

このように本社宛為替手形に対しては,インドで勤務する会社の官吏や現 地で商取引を営むイギリス人商人らにとって大きな需要があった。それは,

帰国後の生活や本国に残した家族等への仕送りのため,現地での蓄財

(の一 部)

を本国に向けて送金する必要があったためである。むろん,現地で死去 した職員の遺産を本国の親族に送金すると言う現地機関側の職責も存在した であろう

(10)

その背景にあったのは,会社職員が様々な形で私的な商取引を行うことが

認められ,現地で多大な財産を蓄える機会を有していたこと,さらに自由商

(19)

人の場合には商業圏が現地に限定され,本国との貿易を認められていなかっ たことなどの事情である

(11)

。いずれにしても,本社宛の為替手形は現地で 勤務する会社職員にとって必要不可欠であったし,また現地で商取引に従事 する自由商人らにとってもきわめて有用な送金手段であった

(12)

しかし,それだけではなかった。むしろロンドンの商人たちが当時既に積 極的にアジア貿易に乗り出しており,本社宛為替手形はその貿易・決済の環 の一辺を形成したと言う面を見落としてはならない。ロンドンの商人らは合 法・非合法を問わず,アジアにブリオンやその他の商品を送り,会社船の船 長・高級船員や現地の会社職員らとの取引を通じてさまざまなアジア物産を 調達して,本国に持ち帰った。会社の本社宛為替手形を利用するのは,送金 規模やレート,リスクなどを勘案して利用するに値する場合のみであったと 言うわけである

(13)

以上の様に,18世紀には本社が現地宛ての為替手形を発行するケースはき わめて希であり,逆に現地から恒常的に本社宛手形が振り出されてきたわけ であるが,そのことを会社内での資金の流れに位置づけてみよう。図2は,

本社とインド3管区,ならびに中国

(広東商館)

との間での資金の受払いを 図式化したものである

(それら地域の他に,セントヘレナとベンクーレンについて もインド3管区との受払いのみ示している)

。対象とした時期は,1762年度から 1764年度までの3年間であり,図で掲げた数字は当該3年間の平均額であ

る。

ここで留意すべきは,会社が現地で植民地支配を行う前と後では,会社の 性格が大きく変化したと言う事実である。ここで対象とした1762 - 1764年度 と言う期間はその移行期と言うことになるが,実際には会社は未だベンガル 一帯の広汎な地域を領有するに至っておらず,それゆえ大きな領土収入を得 るには至ってはいない。したがって,会社は何よりも貿易団体の性格を色濃 く有していた時期であると言える。図2は,この点を資金の流れと言う側面 からも確認すると言うことになる。

まず,同図の見方について説明し,かつ注意すべき点についても記してお こう。図中において,本社,インド3管区,そして中国

(広東商館)

がそれ

Ⅰ 18世紀における東インド会社の貿易と為替手形 15

(20)

図21760年代前半期における東インド会社の資金の流れ

(21)

【備考】 (1)1762

-17

64年度の平均額。いずれも点線枠内の地域の受払いベースの金額。 (2)年度の区切り(開始・終了時期)は,地域によって,さらに同じ地域でも年によって若干異なるケースがある。 (3)本社の〈受け取り〉と〈支払い〉には,インド3管区等アジア地域との受け払いが含まれる。但し,繰入金と「私貿易」勘定分 は除外した。 (4)インドおよび中国での〈輸出〉は,現地での本国向け商品買付額。 (5)

*

内訳は次の通り。インドからの手形……£366

,16

3。中国からの手形……£3

,92

4。 (6)

**

配当金の支払い(£191

,64

5)を含む。 (7)

***

現地勢力との貸借勘定での受取など。 (8)

****

中国,セントヘレナ,ベンクーレン(ブンクル)との受け払いを除く。 (9)その他 (

a

)インド3管区および各地域との資金・資材の移動に関しては,以下の計算方法をとった。 中国,ベンクーレン,セントヘレナの3地域は他の地域(インド3管区を含む)からの受取が大きく(特に中国),他方,他 地域への送金はきわめて小さい。また,それら3地域のうちセントヘレナは地理的も他地域とは大きく離れており,ベンクーレ ンや中国との直接なやり取りは無かったと考えられる。ベンクーレンと中国との間では,前者から後者へのブリオンや商品・資 材の移転が行われた可能性は否定できないが,その額を特定できないし,また全体の資金等の移動に大きく影響するほどの金額 でもない。したがって,中国,ベンクーレン,セントヘレナの3地域は,それ相互間の資金・資材の直接の移動はなく,すべて インド3管区が介在したものとして計算した。また,その金額をネット値としたのは,ベンクーレンを除いて,3地域からの他 地域(3管区を含む)への支払いがきわめて小さかったため,煩雑さを避けた結果である。 (

b

)ベンクーレンおよびセントヘレナでは,支出としては軍事・行政支出があり,また受取としては歳入,輸入商品の売上げ,お よび本社宛為替手形の発行が計上されているが,いずれの項目も金額としては小さく,ここでは煩雑さを避けるため,記載して いない。 【資料出所】

Third R eport

[8

-1]

pp.

60

-71

によって作成。

Ⅰ 18世紀における東インド会社の貿易と為替手形 17

(22)

ぞれ点線で囲まれているが,線内の数値はそれぞれの地域での受払の額を示 している。この場合とりわけ留意すべきは,その額が線内の地域の側で計上 された数値であると言う点である。例えば,インド3管区側が本社取締役会 宛に振り出した為替手形の収入は36 . 5万ポンドほどであるが,本社側では同 手形に対する支払額は36 . 6万ポンドとなっている。これは,手形が振り出さ れ,支払われるまでの期間

(手形の輸送期間やユーザンスなど)

が年度を跨ぐ と言った事情

(概して,インドで振り出された手形の多くは翌年度にロンドンで支 払われ,本社側に計上された)

などによる。

さらに,年度の区切りにも注意すべきである。と言うのも,実は,当該地 域では年度の期間

(区切り)

が必ずしも統一されておらず,地域によって若 干異なる。それはインド3管区内においてさえ必ずしも統一されていない し,大まかに言って本社,インド3管区,広東商館の3者は全く異なった。

いずれにしても,様々な理由により同じ項目であったとしても,仕向け側 と受け取り側とでは金額は一致しない(

そもそも本社については,史料の関係で インド3管区や広東商館との間の個別の受払を示すことができなかった)

。また,そ うした点とは別に,用船料が本社側のみで計上されていることも看過できな い。したがって,本社側とインド・中国とにおける商品原価

(買付額)

と仕 向先での販売額を単純に比較することは控えなければならない。

さて,そうしたことを考慮した上で,同図を見ることにしよう。まず目に

つくのは,海を越える資金の流れの中で最も大きなそれ,すなわち本社とイ

ンド・広東商館とを結ぶ貿易である。それは,例えば本社の収入のおよそ9

割がインド・中国から輸入した商品の売上げであることからも明らかであ

る。当時,会社が貿易団体であったゆえ,それは当然であろう。いわば会社

本来の姿があるにすぎない。他方,本社の支払いを見れば,やはり貿易関連

の支出が大半である。現地向け商品の費用と手形の支払いとは,いわば現地

での買付費用に充てる原資となるものであるし,また関税や用船料は貿易コ

ストと言える。しかし,より重要な点は,後年大きな比重を持つに至るイン

ド植民地経営のための諸経費

(やがて本国費と呼ばれるようになる)

がほとんど

存在しないと言うことである。ただ,その点については後述する。

(23)

これを現地側から見よう。インド3管区での本国向け商品の買付額は52 . 2 万ポンドであり,また中国での買付額は32 . 2万ポンドであった。したがって,

この時期にはインドでの買付額が中国でのそれを大きく凌いでいたことがわ かる。ただ,インドから17 . 7万ポンド

(ネット)

の資金が広東商館へと移転 した点が見逃せない

(14)

。中国での会社の諸経費はきわめて少額であったこ とを勘案するなら,そうした資金は本国向け商品の買付費用に充てられた,

別様にいえばインドで買い付けるよりも中国で買い付ける方が有利であると 言う判断から行われたと推測できる。いずれにしても,それが当時の会社に とって利益の源泉であった。すなわち,本社での巨額の輸入商品売上げ

(売 上総額239

.

2万ポンド)

がそれである。

他方,インド3管区では歳入などの植民地収入が約170万ポンドに達し,

社債の発行

(約77万ポンド)

によってそれを補った。こうした金額は,本社 宛為替手形の発行収入

(36

.

5万ポンド)

や本社側から送られてきた商品の売上 げ収入

(42

.

8万ポンド)

を凌駕した。また,現地での行政経費や社債の償還費 用なども多額に達した。付け加えるならば,セントヘレナやベンクーレンな どには支払い超過であったが,その額は決して大きなものではなかった。

ただ,インド3管区における歳入の規模は,総額で185万ポンドほどであ り,後の時期に比べるならば遙かに小さかった。また,それは本社の商品売 上額にも及ばなかった。こうした点をどのように解釈すべきかと言うなら ば,次のように言えるであろう。すなわち,1760年代とは現地における会社 の拠点がいわば〈点〉レベルであり,現地で得られる植民地収入と現地で支 出される植民地経費とがきわめて限られていた。要するに,当時会社は植民 地統治機関としての色彩を帯びるようになったものの,貿易団体としての性 格がより強かったと言える。

そして,そのことと密接に関連しているのが,インド植民地の軍事行政経 費のあり方,とくにそれが発生する地域がどこであるのかと言う点である。

当時のように,インド植民地の版図がきわめて限られていた状況下にあって は,その領域を統治するための費用が現地ではなく本国側で発生した場合で あっても,その費用はインド植民地の歳入から補填されるべきであって,し

Ⅰ 18世紀における東インド会社の貿易と為替手形 19

(24)

たがって別途インドからその分は何らかの形で送金されるべきである,と言 うような理解や認識はほとんどな

!

!

!

!

と推測される。その理由は,そうし た性格の諸経費は金額的にもきわめて小さかったことがあげられよう

(15)

。 しかしそれだけではなかった。当時は,そもそも貿易と植民地統治と言う2 つの業務を峻別すると言う考えがほとんどなかった。会社の活動を2つの両 業務に分けて捉え,それぞれの業務を会計上も区分して会社活動の実像を明 らかにすると言う発想は,当時はなかった。そうした発想が現れるのは後年 のことであった。それゆえ,そうした諸費用はいわば貿易活動の陰に隠れた 存在にすぎなかったと思われる。

以上の様に,1760年代前半には本社側が現地に宛てて為替手形を振り出 し,そのことによってインドの資金を本国側に移転する,と言った構図は成 立しなかった。そうした構図が生じる余地はなかったのである。それは,い まだ会社が現地において領有した版図が小さく,植民地経営と言う業務が大 きな比重を占めることのなかった当時にあっては,当然の帰結であった。む しろ,為替手形による資金の流れは,全くの逆方向であった。インドから本 国向けの商品を現地で

(あるいは中国経由で)

買い付けるための資金を捻出す べく,インド植民地では多額の本社宛為替手形が発行された。それは,会社 の貿易活動を補うものにすぎなかった。この意味で,いわば貿易活動がすべ てを包摂していたのである。

2 金融危機と為替手形

1757年のプラッシーの戦いはインド史上大きな転換点となった事件である が,会社はこの事件を契機にして次第に現地の統治機関へと性格を変貌さ せ,巨大な統治機構を有する組織へと転化して行くこととなった。プラッシー の名は,会社史を論じる上でもまさに転換点と言う意味で使用して差し支え ないであろう。プラッシー以前と以後とでは会社の性格は大きく異なるから である

(16)

当初,会社がベンガル一帯を領有することは会社にとってプラスになると

(25)

期待された。例えば,一連の出来事の立役者と言うべきクライブ知事は, 1765 年8月にムガルとの間にアラーハーバード協定を締結するや,翌9月には さっそく本社取締役会に宛てた書簡でその成果を綴った。その中で,新たな 領土収入が会社に多大な収入をもたらし,インドの他の地域での資金需要や 中国での商品買い付けなどを満たしてなおも余りあり,本社側に多くの剰余 をもたらすであろう,などと述べた

(17)

。 現地での巨大な歳入に期待したの である。むろん,本社側はこの情報に歓喜したし,また英国内では会社株が 高騰するなどの事態となった

(18)

。しかし,そうした予測は全く外れてしまっ た。上記協定が締結されて4年半ほど後の1770年3月には,本社側は現実を 目の当たりにして失望し,ベンガル知事側にその落胆ぶりを伝える結末と なった

(19)

他方で,こうして会社がベンガル一帯を領有し,広汎な地域の行政を担う ことになると,会社の業務も膨れあがり,最終的にはそれを担う会社職員や 私商人らの蓄財を増やすこととなった。同時に,そうした人々の蓄財が膨脹 することにより,自らが稼いだ蓄財を本国に持ち帰る際の手立て

(送金手段)

も増やすことが必要であった。会社側が公的に提供できる送金手段と言え ば,何よりも本社宛の為替手形であった。しかし,職員や私商人が必要とす る送金の規模と会社側が本来提供できる為替手形の額とは,次第に乖離する ようになった。と言うのも,後者は本社の支払い能力に依存するからである。

実際,現地では,しばしば本社側の許容限度を大きく超えて本社宛為替手形 が振り出されるようになったと言って良い

(20)

現地での本社宛為替手形の振出額と言う点では,実は1750年代末からしば しば本社側が現地側に対して振出額を制限するよう指示していたことが確認 できる。例えば,1759年3月23日付けのベンガル知事側宛て書簡において,

取締役会はベンガル管区からの取締役会宛て為替手形の発行額を特段の事情 のない限り年間2万ポンドを超えないように指示したし

(21)

,その後も同様 の指示が繰り返された

(22)

。それは,1757,1758の両年度に会社の商品売上 げ高が低迷し,他方で1759年度以降に支払いを迎える手形が巨額に達したこ との結果であろう。さらに,そうした本社の財政事情の悪化は,手形のユー

Ⅰ 18世紀における東インド会社の貿易と為替手形 21

(26)

ザンスなどにも反映した

(23)

果たして,その後インドの各管区から本社宛に振り出される為替手形の額 が一時的に大きく減少することもあった。例えば,1768年度の場合にはイン ド3管区からの振り出しは6万ポンドほどにすぎず

(中国からの振り出しはな かったが,他にセント・ヘレナからは約1万ポンド,ベンクーレンから約1

.

5万ポン ドが振り出された)

,その結果本社側の実際の支払いがそれに対応する1770年 度の本社支払い額は83 , 000ポンドであった。本社の年間支払額が10万ポンド を下回ったのは,実に1757年度以来のことであった。

しかし,まさにその1770年にベンガルでは記録的な本社宛為替手形の振り 出しを行った。当時,〈1770年のベンガル飢饉〉として知られる大飢饉がベ ンガル一帯を襲い,1, 000万人に及ぶ人びとの命を奪ったと言われ,ベンガ ルの財政にも多大な影響を及ぼした。したがって,巨額の手形発行は財政補 填と言う意味もあったかも知れない。確かに,ベンガルの歳入は1766年度を ピークにその後はむしろ減少し,1770年には1766年度の水準の8割未満と なった。その結果,ベンガルは記録的な財政赤字となった。そうした中で,

1770年末から1771年始めにかけてベンガル知事側は100万ポンドを超える本 社宛為替手形を振り出した

(24)

。さらに,マドラス・ボンベイ両管区からの 発行分も合わせると,インド3管区からの振出総額は実に130万ポンドに及 んだ

(25)

。既に述べたように,1770年には取締役会がベンガル知事側に宛て て,ベンガル領有が会社の財政に寄与しなかったと気落ちして伝えた。1770 年とはそうした年であり,まさにその年に記録的な本社宛為替手形を発行し たわけである。

表2では,1761年度からの18年間について,会社のインド植民地(インド 3管区)

の収支を時期別の平均値を掲げた。その際,1770年度のみ単年度の 数値を掲げている。

さて,この表からも1770年度の特異性が明らかである。すなわち,歳入や

本国から送られてきた商品の売上金はそれまでの5年間平均額を7%以上も

下回りながらも,他方で歳出や本国向け商品の買付費用は逆にそれまでの平

均額を大きく上回った。その結果,それらの合計を単純に比較した場合

(支

(27)

管区ベンガルマドラスボンベイ計 金額1

,07

4571731

,30

表2インド3管区の収支1761-1778年度 【備考】 (1)各年度の平均額 (2)

*

1770年度における取締役会宛手形の発行額の管区別内訳は以下のとおり(単位:£1

,00

0)。 【資料出所】

Third R eport

[8

-1] , pp.

60

-65

および

Sixth R eport

[9

-2] , pp.

362

-36

7によって作成。

Ⅰ 18世紀における東インド会社の貿易と為替手形 23

(28)

出では社債の償還費用をも加えて計算)

,1760年代の平均値が受取超過であった のに対して,1770年度には支払いが受取を凌ぐこととなった。むろん,ここ には中国などインド3管区外地域との受払は含まれていない。その不足分を 補填する為には,社債の発行や取締役会宛て手形の発行に頼るしかなかった のである。

ここで興味深いのは,1770年度の歳入の不足を起債ではなく,本社宛為替 手形の発行によって補ったと言う事実である。本社宛為替手形の発行による 収入が3管区の総収入に占める割合は実に27%を越えたことになる。むろ ん,それは同じ年に社債の償還費用が大きく嵩んだために,現地の財政と言 う視点に立つ限り,本社宛為替手形に依拠する方が望ましいであろう。と言 うのも,後者は現地の債務を本社側に移転すると言う性質のものであったか らである

(26)

。いずれにしても,現地の会社職員やヨーロッパ人商人らのニー ズに加え,こうした事情が重なって,1770年度にベンガルで記録的な額の本 社宛為替手形の振り出しが行われた。

とは言え,これほど多額の為替手形となると,もはや本社側の支払い能力 を超えていた。例えば,当時の本社の収支を瞥見するなら,アジアから輸入 した物産の売上げが年間350万ポンドほどであり,その他の収入は合わせて も100万ポンド程度にすぎなかった。そうした中で,100万ポンド以上もの手 形を引き受けることは無謀とも言うべき事態であった。実際,1771年度末に は引き受け後未払いの為替手形の総額は150万ポンドを超え,それを加えた 債務総額は一挙に膨れ,実に400万ポンド近くにも達した

(27)

言うまでもなく,こうしたベンガル総督側の行為は取締役会の反発を招い

た。取締役会は1772年9月にベンガル側に対して本社宛為替手形の発行額を

年間1万ポンド以下にするよう強い語調で指示し,また12月には今回の巨額

の本社宛為替手形のために会社が財政危機に陥ることになったとベンガル側

を強く非難した。事実,当時は茶の販売が不振であったことなどを背景

(28)

,このことが当時の会社の財政に深刻な影響を及ぼし,本社は資金繰

りに苦慮することとなった。そのため,会社側は1772年7月にイングランド

銀行に20万ポンドの短期融資を仰ぎ,その直後には30万ポンドの追加融資を

(29)

求める有様であった

(29)

。こうして,会社にとって,もはや資金ショートが 現実的な問題となる状況であった。

このように会社が経営破綻寸前にまで追い詰められるに至り,事態は大き く動くこととなった。よく知られるように,イギリス議会は単に会社を救済 するのみならず,会社の組織やそのあり方を抜本的に問うために委員会を設 置し,本格的な調査を行った

(30)

。これらの問題は,いわゆるノースの規制

(13

George III, c.

63)

と言う形で一応の決着がつけられ,会社がイギリス

議会の監督下に置かれ,また会社の統治機構が整理されることとなった。そ して,会社の財政上の窮地を救済する措置として,同法に付随する法令

(13

Gorge III, c.

64)

により国庫からの1 , 400万ポンドの借入が可能となっ

(31)

。これにより,会社は自らの存亡にも係わりかねない財政危機を乗り 越えた。

以後,会社に対する政府や議会による監督ないし締め付けが厳しくなって 行く。こうした点はよく知られている。ただ,無視できないのは,その後も インドにおいて本社宛為替手形が金額の変動を繰り返しながらもほぼ恒常的 に振り出され続けたと言う事実である。本社側は,ベンガル知事側に対して 振出額の上限などについて改めて現地側に指示するなどした

(32)

。ただ,断 固たる措置を講じることはなかった。

改めて表2に立ち戻って,この点を検討してみよう。1770年代前半

(1771

-

1774年度)

を見れば,インド3管区からの取締役会宛為替手形の振出額は,

1770年度よりは遥かに減少したものの,1760年代後半と比べるならむしろ増 えたことになる。そして,1770年代後半になるとさらにその額は増えた。

他方,社債の発行については,詳しくは後述するので,ここでは次の点を 指摘するにとどめよう。1770年代前半に社債の発行は大きく増えたが,1770 年代後半には激減した。同時に,1770年代後半には社債の償還費用が大きく 膨らみ,財政を圧迫した。

ところで,ベンガル一帯を領有して以降,会社の歳入は1765年度以降大き く増えたが,その点も同表が示すところである。そして,そうした歳入の増 大や本社宛為替手形・社債の発行により,現地では行財政経費を賄ったのみ

Ⅰ 18世紀における東インド会社の貿易と為替手形 25

(30)

ならず,ヨーロッパ向け商品の買い付けを拡大することも可能となった。実 際,商品買付額は,1770年代後半には年平均138万ポンドにも達し,ベンガ ル領有前の1760年代前半に比べ2 . 7倍となっている。それは,逆に本社側が 送ってくる商品の販売高がさほど増えなかったこととは対照的である。すな わち,本国側からの輸入商品の売上げが伸びない中で,現地での歳入や本社 宛為替手形・社債の発行によって調達した資金を本国向け商品の調達に充て たと言う構図がここから見て取れる。

以上から次のように述べることが可能であろう。1770年における本社宛為 替手形の大量発行がもたらした災禍はきわめて大きかったが,しかしその後 も本社宛為替手形の発行は現地においては貴重な財源の1つであり続けた。

すなわち,当時としては広大な版図を維持し,かつ貿易を行うには取締役会 宛て手形は社債とともに必要不可欠な財源であった。そして,そうした財源 を裏付けにして,アジア物産の買い付けは拡大することができた。したがっ て,会社にとって問題となるのは,現地でのアジア物産の買い付け拡大が本 国での販売拡大と利益の増加につながり,本社側が現地からの為替手形を しっかりと支払い,かつ現地の財政状況が安定するのか否か,と言う点であ ろう。それは,本社側のアジア物産の販売計画や会社財政を顧みることのな い,いわば野放図な本社宛為替手形の振り出しを放置すると言うことを意味 するものでは決してなかった。

さらに,会社の歴史と言う視点から読み取るべきは,当時の会社の位置づ

けであろう。すなわち,貿易団体として出発しながらも,会社はやがて現地

において領土を獲得し,かつその版図が徐々に肥大化して行くにしたがっ

て,統治機関と言う性格をも帯びるにつれ,会社のあり方も次第に変質して

行ったのである。1770年における大量の為替手形発行とそれがもたらした会

社の金融危機は,そうした移行期の矛盾が一挙に露呈したものであったとも

言えよう。植民地統治のための組織も経験もないままに広大な版図を統治す

ることの難しさ,貿易と統治とが会計上も渾然一体となったまま会社財政を

運営することの困難と言ったものが,この時期に顕著となった。そして,そ

うした問題は時間をかけて順次解決して行くしかなかったのである。

(31)

最後に,為替による送金と言う視点から改めて問題を論じるならば,次の ように言えよう。会社職員らの私的な本国への送金需要がきわめて大きく,

会社貿易はそれに十分に応えることはできなかった。もし,これに会社自身 による本国への多額の送金需要が生じた場合,一方では私的な送金を抑制し つつも,他方で貿易独占権を有する限り,それを最大限に利用すべく本国へ の輸出貿易を拡大して,現地の資金を商品の形で本国に送ると言うことにな るであろう。

(1) 18世紀後半期について見れば,一件(1人)につき£50〜£600の支払い額であった。

そうした中で,複数の件数が記され,したがって比較的金額の大きいケースとしては,

例えば1766年12月19日付けベンガル総督宛書簡に記された事例があげられる。それによ れば,同年12月4日から19日までの間に本社側が5人の人物から合わせて£2,735を受取 り,それぞれの受取人を記した22,800ルピー分のベンガル当局宛為替手形を振り出した。

同手形は,支払い期日が一覧後30日払い,また為替レートが1ルピーに対し2s.1d.であっ た(Court of Directors to Fort William,19December1766, para.5,Correspondence

[24], vol.4, p.231 参照)。この5人の職業等を調べるなら,全員がこの時期にインド

で勤務した会社職員であった。

そのうちの1人であるThomas Sheelesなる人物のケースを見よう。彼を受取人とす る手形を会社側に依頼した人物は,Mrs. Ann(Eltizabeth)Sheelesである。彼女は2 度にわたり会社側に合わせて£1,000を支払い,額面9,600ルピーの為替手形を受け取った とされる。名前から判断して,おそらくThomasの妻か母親,あるいは他の親族と思わ れる。ところで,この手形の支払先であるThomas Sheelsなる人物の経歴であるが,詳 細は不明であるものの,1762年12月に取締役会がベンガル知事側に宛てた書簡では,ベ ンガル勤務の書記官に任命した25名の中にその名を見ることができる(Fort William to Court of Directors,17December1762, para.30,Correspondence[24], vol.3, p.167 参 照)。おそらく1763年に現地に赴任したと想像される(他の4人についても,いずれも書 記官ないしは他の職位で1760年から1766年までの間の取締役会からの書簡に任命通知が 見られる)。

このように,インドに赴任した後に,イギリスでの親族や知人が現地での生活費等を 送金する手立てとして会社によるインド宛為替手形を利用したと考えられる。この意味 で,このような手形は現地で勤務する会社職員への便宜供与と言う性格のものであった

Ⅰ 18世紀における東インド会社の貿易と為替手形 27

(32)

と言える。

むろん,必ずしも会社関係者のみが対象であったと言うわけではない。手形の受取人 に会社関係者以外の人物を見いだすことは決して多くはないが,現地に派遣された宣教 師の場合もあった。例えば,1797年6月30日付けの書簡で取締役会は,キリスト教知識 普及協会(Society for Promoting Christian Knowledge)の要請を受け,聖職者2名の インド渡航を認可したことをベンガル当局側に伝え(Court of Directors to Fort William, 30June1797, para.14,Correspondence[24], vol.13, p.67 参照),さらに翌年8月1 日付け書簡では,このうちベンガルに派遣された聖職者W. T. Ringeltanble師につい て,同協会からの払い込みを受け,同人を受取人とする為替手形(480ルピー=50ポンド 相当)を振り出したとベンガル側に伝えた(Court of Directors to Fort Williamt,1st Au- gust1798, para.7,Correspondence[24], p.104)。聖職者の現地での活動費用を送金し たケースであると言える。

なお,手形の支払い条件に関して述べるなら,ベンガル宛てに関する限り,支払期日 については上記のケースのように一覧後30日払い,また為替レートは1ルピー当たり2s.

1d.が最も多かった。ただ,1770年代に多少とも変動があった。例えば,1770年3月23日

付けベンガル総督宛書簡では1ルピー当たり2s.,また1771年1月4日付け同書簡では同

じく2s.2.5d.のレートでの為替手形振り出しのケースがそれぞれ記されている(Court of

Directors to Fort William,3March1770, para.189, Correspondence[24], vol.6, pp.

51-52; Op. cit.,4January1771, para.36, Correspondence[24], vol.6, pp.69-70 参 照)。

さらに言うならば,このように本社側が現地に宛てて為替手形を振り出すのは,何も ベンガル宛てだけではなかったし,また会社職員や宗教関係者のみを対象としたわけで はなかった。実際,本社がマドラス知事側に宛てた書簡を紐解くなら,マドラス宛てに 本社が為替手形を振り出したケースを幾つか確認できる。例えば,1699年1月12日付け マドラス知事宛書簡では,一覧後30日払いの為替手形を計5通マドラス知事に宛てて振 り出したと記されている。その額面は,合わせて4,000パゴダ余りであった(Despatches from England[25], vol.11, pp.71&76)。パゴダとは南インドで流通していた金貨(な いしその単位)であり,当時のポンドとの為替レートは1パゴダにつき凡そ9シリング であった。この為替手形のレートについては確認できなかったが,上記レートと大差は なかったと思われる。そうであれば,本社側は約1,800ポンドほどを受け取ったことにな る。さらに,同じ年の12月30日付け本社からの書簡では,12月14日から30日にかけて合 わせて10通 8,800パゴダ余の為替手形をマドラス知事側に宛てて振り出したと通知してい る(Dairy and Consultation[27], vol.29[1700ed.], p.45 参照)。

参照

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