論文の内容の要旨
氏名:林 智草
専攻分野の名称:博士(芸術学)
論文題名:2 楽章構成ピアノソナタの変遷 ―ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンを中心として―
18 世紀、ソナタは全盛期を迎え、L. v. ベートーヴェンも多数のソナタを作曲した。そして、彼は 4 楽 章構成をピアノソナタに取り入れ、ソナタ形式にも長大な結尾を導入するなど、ソナタの拡大化を図った。
彼の 4 楽章構成ピアノソナタは、同時代の作曲家と比較しても突出して多い。しかしその一方、拡大化と は反対方向に位置する 2 楽章構成ピアノソナタ(以下、2 楽章ソナタ)を 6 曲も作曲している。これは、非 常に興味深い事実である。
だが、今日までのベートーヴェン研究は、3 楽章以上のソナタを中心としている。2 楽章ソナタは学術、
演奏の両面において、やや軽視される傾向にある。そのため、これらを研究対象として扱い、芸術的価値 を精査することにより、正当な評価や認識が生まれると考える。またその結果として、これら作品の演奏 の機会が増していくことを願う。
先行研究では、2 楽章ソナタの起源、そしてベートーヴェンに至るまでの変遷を追っている。しかし、ベ ートーヴェンと同時代に活躍した作曲家の 2 楽章ソナタについては、研究対象から除外されている。また、
ベートーヴェンの 2 楽章ソナタ全体を見渡しては考察していない。さらに、ベートーヴェンの作品は彼の 精神性との関わりが密接であると考えられるが、そのような視点に基づいた考察は行われていない。
そこで、本研究では、19 世紀前後における 2 楽章ソナタの定型の有無を解明するために、M. クレメンテ ィおよび F. クーラウの 2 楽章ソナタを研究対象とし、分析、考察を行った。また、両作曲家が 2 楽章ソナ タを作曲した経緯についても検証した。そして、ベートーヴェンの 2 楽章ソナタも同様の分析を行い、ク レメンティらの 2 楽章ソナタとの相違点について比較、考察を行った。さらに、3、4 楽章構成を基本とす る時代に、ベートーヴェンがピアノソナタの原理を、積極的に 2 楽章構成として完成させた意図について、
彼の精神性という観点から考察を行った。以上を、第 1 章で述べた。
第 2 章では、M. クレメンティの 2 楽章ソナタについて分析を行った。調査を行った 12 曲全て、両楽章 は同一調、かつ長調であった。両楽章はともに急速なテンポであり、対比は見られない。一方、拍子は互 いの楽章に異なるものを置くことを基本とする。第 1 楽章は常にソナタ形式であり、第 2 楽章はその多く がロンド形式に基づいていた。ただし、ロンド形式は定型通りではなく、自由な構造をとる作品も見られ た。また、両楽章のモティーフの関連性は殆ど見られない。以上の分析から、アレグロ・ソナタとロンド・
フィナーレの組み合わせであると考えられる。つまり、従来のソナタから中間楽章を省略させた形である。
また、彼の 2 楽章ソナタには、ソロ・ソナタと伴奏付きソナタの 2 つの形態が存在した。調査した作品 のうち、4 曲が伴奏付きであった。このような作品は、アマチュア演奏家の増加に伴い、この時代に多く書 かれ、彼らに演奏されることを前提としている。上述の 4 曲はいずれも、クレメンティの生徒(裕福な婦 人)に献呈されている。これらは彼女たちの技量に合わせて作曲されており、高度な技術は必要としない。
しかし、平易でありながら、高い演奏効果を得られるように作曲されている。2 楽章ソナタが緩徐楽章を省 略していることも、そのような効果を生むように計算された結果である。
彼は、作曲家であると同時に、ピアノ教師や楽譜出版社の経営者など、活動は多岐に渡る。そのため、
音楽市場には人一倍敏感であり、需要に応える作品を多く作曲している。そして、伴奏付きソナタは、市 場の需要に応じた「売れる作品」であった。ゆえに、これらは当時の音楽市場を反映した作品である。伴 奏付きソナタに限れば、アマチュアに向けられた作品であるからこそ、気軽に演奏されやすい、小規模な 楽曲に仕上げたと考えられる。つまり、これらは従来のソナタの縮小版と考えられる。
第 3 章では、F. クーラウの 2 楽章ソナタ、全 4 曲について分析を行った。両楽章は常に同一調であり、
かつ長調であった。調号は最大 2 つまでであり、平易な調性が選択されている。両楽章はともに急速なテ ンポが置かれる。拍子は 1 曲を除き、2 つの楽章にはそれぞれ異なる拍子が置かれていた。形式は、例外な く第 1 楽章はソナタ形式、第 2 楽章はロンド形式であった。ただし、クーラウはロンド形式を基本としな がら一部に手を加え、やや自由な構造をとっていた。また、2 つの楽章においてモティーフの関連性は見ら れない。
以上の分析から、クーラウの 2 楽章ソナタは、従来のソナタから中間楽章を省略した構造と考えられる。
つまり、クレメンティの定型と合致する。
また、彼のピアノソナタは、初期では 3 楽章を主とするが、1820 年以降は次第に小規模化している。事 実、2 楽章ソナタは全て 1820 年以降に作曲されている。このような背景には、1820 年代には市場が大規模 なソナタを好まなくなり、楽譜出版社よりクーラウに小規模なソナタを作曲するよう要請があったことが 挙げられる。それを裏付けるかのように、クーラウは Op.52 を最後にソナタの作曲を止め、ソナチネへと 移行していく。さらに、ソナチネも初期では 3 楽章構成であるが、Op.55 以降の多くは 2 楽章を主とする。
元来ソナタの縮小版とも言えるソナチネが、さらに小規模化されている。このように、クーラウもクレメ ンティと同様に、市場の需要に応じた結果、2 楽章ソナタを作曲したと結論付けられる。
第 4 章では、L. v. ベートーヴェンの 2 楽章ソナタの分析、考察を行った。2 楽章ソナタは全 6 曲である。
両楽章が同一の長調から構成される作品は 3 曲存在した。残る 3 曲は同主調の組み合わせであり、常に短 調-長調という並びであった。また、このうち 2 曲は第 1 楽章を同主長調で終止し、第 2 楽章の調性を予 め提示していた。テンポは、急-急、緩-急、急-緩の 3 種類の組み合わせが存在した。テンポによる両 楽章の対比を意識していたと考えられる。また 1 曲を除き、両楽章は互いに異なる拍子が置かれていた。
第 1 楽章はソナタ形式を基本とする。第 2 楽章はロンド形式による作品が 3 曲、3 部形式、変奏曲形式、
変則的な形式がそれぞれ 1 曲ずつであった。また、2 つの楽章のモティーフの関連性は非常に密接であり、
明確に循環形式を用いている作品も存在した。
クレメンティらの 2 楽章ソナタは中間楽章を省略した形であったが、ベートーヴェンではそのような構 造にある作品は Op.49-2 のみであった。これまでの 2 楽章ソナタでは構造上の定型が存在したが、ベート ーヴェンでは定型を見出すことは不可能である。1 曲ごとに手法を変えていると言っても過言ではない。
そして、同主調タイプの作品について、さらに考察を行った。ベートーヴェンの全作品中、短調で始ま り、長調で終わる作品は 6 曲である。うち 3 曲が 2 楽章ピアノソナタ、1 曲がチェロソナタ、残る 2 曲は交 響曲第 5 番と第 9 番である。そして、この多くが『ハイリゲンシュタットの遺書』以降に作曲されている。
彼は「優れた人々は苦悩を突き抜けて歓喜をかち得る」と書簡で述べているが、苦悩と歓喜を最もよく 表現した作品は、上述の交響曲である。短調と長調という対比によって、これら 2 つを表している。しか し、Op.90 や 111 での同主調による対比は、交響曲とは明確に異なる。交響曲の終楽章は急速なテンポ、か つ ff で幕を閉じるのに対し、2 楽章ソナタの終楽章は緩徐楽章であり、そして pp で終わる。Op.90 や 111 の終楽章は、歓喜ではなく、救済や慰めを表現していると考えられる。交響曲の終楽章が外に向けられた 音楽であるのに対し、2 楽章ソナタではベートーヴェンの内面を静かに語ることに主眼が置かれている。そ して、2 楽章構成というのは、動と静という対極を表現するのに、最も適した楽章構成であると考えられる。
第 5 章において、これまでの結果を総括した。クレメンティ、クーラウの 2 楽章ソナタには、両者同一 の定型が存在した。それは、アレグロ・ソナタとロンド・フィナーレの組み合わせであり、従来のソナタ から中間楽章を省略した構造にある。つまり、従来のソナタと密接した関係にある。ソナタを 2 楽章とす るために、新たな試みを図った面は一切存在しない。そして、彼らの 2 楽章ソナタの構造は、19 世紀前後 の 2 楽章ソナタの定型と考えられる。また、2 楽章ソナタを作曲するようになった直接的なきっかけは両者 異なるが、時代の流れや需要に応じた結果、2 楽章ソナタを作曲している。即ち、彼らの 2 楽章ソナタは、
当時の音楽市場を反映した作品である。
一方、ベートーヴェンでは、彼らの 2 楽章ソナタの構造とは全く異なっていた。例えば、両楽章を同主 調によって構成する、両楽章をテンポによって対比を生む、また 2 つの楽章を同一のモティーフによって 関連性を高めるといった手法をとっていた。これらはクレメンティらには見られなかった。彼は、両楽章 の対比と統一性の両面を同時に確立させようと試みていたと考えられる。特に、同主調タイプでは、うち 2 曲が第 1 楽章の結尾において第 2 楽章の主調を提示しており、これにより楽章間の密接な関係を築いてい た。また、短調に始まり、長調で終わるという構造の作品は、ベートーヴェンの全作品の中でも数少ない が、このうち 3 曲が 2 楽章ソナタであった。交響曲第 5 番や第 9 番の長調による終楽章は、彼の心の叫び を高らかに表現しているのに対し、Op.90 や 111 では、彼の内面を静穏に表現するための手段として長調が 用いられている。そして、2 楽章ソナタは彼にとって、苦悩と慰めを表現するのに最も適した楽章構成であ ったと結論付けられる。
ベートーヴェンは晩年まで 2 楽章ソナタのスタイルを模索し続け、常に革新を図ろうとしていた。全 6 曲の 2 楽章ソナタが全て異なる構造にあり、定型が一切存在しないことが、それを証明している。