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― ― 使用と技術

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 『ポリテイア』10巻(1)は「創作(ποιήσις)」に関する考察から始まり,創作の 中でも「真似(μίμησις)」をこととする創作を理想国から追放するべきだ,

という有名な詩人追放論が展開される(2)。プラトンは詩人追放論を展開するに あたり,複数の技術の事例を挙げる。まず寝椅子を例にあげて,創作の中で も,職人による個々の寝椅子の製作と画家による個々の寝椅子の描写とを区 別し,画家が表面的な姿を真似るだけであることを明らかにする。その後,

馬具や笛の製作を挙げて,「使用」が重要だという。そして製作者は使用者か ら製作品の善し悪しを聴いて作るという。これは,現代の使用者参加型デザ イン(3)の先駆的な主張とみることができる。

 一方でこの箇所でプラトンは,製作者は使用者と交流しても「思いなし」

にしか到達せず,製作品がどのようにあるべきかについては使用者が「知識」

をもつ,という。これは,しばしばプラトンが強調する,専門家は知識をもっ ているが素人は思いなししかもてない,という主張とは異なっているため,

研究者には悩ましい箇所である(4)。

 本論文では,現代社会が抱える技術の問題を見据えながら,プラトンが「使 用」の現場に注目したテキストを詳細に見る中で,創作現場での知のあり方 に関するプラトンの立場を明らかにしたい。それを通して,プラトンが『ポ リテイア』で描こうとした理想国の建設に関する手がかりが得られると論者 は考えている。

使用と技術

―『ポリテイア』10巻(595c6-602b11)を手がかりに―

田 坂 さつき

使用と技術

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Ⅰ 予備的考察

 プラトンが技術の事例を挙げている対話篇は多いが,それぞれ執筆年代も テーマも異なる。議論の文脈を無視して切り取って比較検討すると,プラト ンの意図と異なる解釈をする危険がある。そこで本論文ではまず,『ポリテイ ア』の冒頭から技術に関わる議論の流れを素描する。

 まず,『ポリテイア』1巻をみてみよう。ここでは,医者と馬乗者が例に挙 げられ,両者は知識を持っていることが確認され,「有能な者」は同じ技術を 善い目的にも悪い目的にも用いることができるという。これは技術を価値中 立的とみる考え方であるが(333e1-334a9),ソクラテスは以下の理由でこれ を退ける。なぜなら技術が悪をも実現できると考えると,技術とは一種の盗 みや嘘の技術となり,受け入れ難い(334a10-b6),と。そこで厳密な意味で

「技術」の本来的なあり方を規定し,そのあり方に叶った人を「技術者」と規 定する(340d2-e4)。計算間違いをする会計士や,誤診をする医者は確かにい るが,彼らはその時,厳密な意味で当の技術を行使しているとは言えない。

同様に,技術者が現に報酬を獲得する目的で技術を行使することもあるが,

このような金儲けを目的とした行為は技術の本来的なあり方にそぐわないと ソクラテスはいう。そして厳密な意味での技術者は,技術の対象者の利益を 実現することが確認される。

 ソクラテスは医術の事例を挙げて,トラシュマコスの「正義とは強者の利 益である」という主張を反駁する強力な議論を提示する。まず,医術と馬丁 の技術を事例に挙げて(342c1-7),「技術が厳密な意味で自分自身の本質を守 る限りにおいて,そのような技術が探求する利益(σύμφερον)とは,その技 術がはたらきかける対象(5)にとって利益になること以外にはない(342b4-7)。」

とする。そして,医者が強者であり,患者が弱者であるという確認をした上 で(342c8-10),正義とは強者ではなく弱者の利益を実現するものだ(342c10- d8)ということが示される。そこから,支配者である政治家は,強者である 自分自身の利益ではなく,被支配者である弱者の利益のために政治の技術を

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駆使すべきである,という結論をソクラテスは導くのである。

 現代の読者が,このようなプラトンの立場に違和感をもつとすれば(6),それ は現代社会の技術のあり方とかかわると思う(7)。現代は価値中立的な技術観,

つまり技術は善も悪も実現できる道具とする見方が優勢であろう。たとえば,

体外受精や遺伝子診断,クローン作成,原子力の技術は,その技術の実用化 が可能になった段階で,その技術の善用が検討される一方,その悪用を避け る方法も同時に検討される(8)。いわば価値中立的な技術がほぼ完成してから,

その次の実用段階で,その使用目的に照らして倫理問題が検討される。ここ から使用の善悪が問われ,使用者との関わりが始まるといえよう(9)。

 しかしプラトンは,厳密な意味で「技術」の本来的なあり方は,技術の恩 恵を受ける対象の善を実現することと明言する。例えば患者の治療にとって は健康の実現である。それは,病気という悪い状態から良い状態への技術に よる変容であり,弱者である患者の「善い状態の実現」である。したがって 厳密な意味で,技術が悪い状態を実現するということはそもそもありえない。

技術が目指すのは,「実際に善い状態」の創作である。

 我々は,このような議論が「正義」をテーマとする『ポリテイア』の第1 巻に置かれていることに注意しなければならない。善い状態を実現する技術 の事例は,正義とは何かを明らかにするために用いられているはずである。

続いて『ポリテイア』6巻をみておこう。

「正しいこと,美しいこと(見ばえのよいこと)の場合は,そう思われ るものを選ぶ人が多く,たとえ実際にはそうでなくても,とにかくそう 思われることを行い,そう思われるものを所有し,人からそう思われさ えすれば良いとする人々が多いだろう。しかし善いものとなると,もは や誰一人として,自分の所有しているものが,ただそう思われるという だけでは,満足できないのであって,実際にそうであるものを求め,単 なる思われ(評判)は,この場合にはもう誰もその価値を認めないので はないか(505d5-9(10))」

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 つまり,正義に関する判断の相対性を容認する人々であっても,善さ(有 益さ)に関しては相対性を容認しないという主張である(11)。政治家が実際に善 いものを把握し損なうと,自分たちがポリスで有益なものを得られない。こ の箇所の直前では,厳密な意味での守護者は哲学者である(503b3-4),とい うことが確認されている。すると,哲人王による理想国家を念頭に置き,ポ リスでの生活の中で善さ(有益さ)を実現出来る身近な技術をプラトンは挙 げて考察しているとみることができる。

「いろいろの正しい事柄や美しい事柄は,それらがそもそもいかなる点で 善いものであるのかが知られないでいるならば,それを知らない人を自分 たちの守護者としてみても,あまり大した価値がある守護者をもつことに はならないだろう。その点を知らないうちは,何人もそれら正や美をじゅ うぶんに知ることができないだろうと,僕は予測するのだ(506a4-7)」

 以上のように,身近な技術の事例は,実際に善い状態を実現できるゆえに,

理想国実現のモデルとして採用されているように思える。『ポリテイア』10巻 でプラトンは,外見はよく見えるが内実を伴わないものを創作する人々が,

善や正義に関して大衆を欺くために,理想国から追放すべきだと主張してい る。追放される筆頭におかれている創作が詩なので,この箇所は「詩人追放 論」として読まれてきた。しかし実際には,家具,靴,馬具,笛などを製作 する技術と対比されるのは,詩作だけではなく絵画や演劇なども含む。そし てここでは,善さ(有益さ)を実現する技術の事例を取り上げる際に,「使 用」に着目する,という他の箇所ではあまり明示的に語られていない論点が 登場する。本論文ではそれに注目する。

Ⅱ 『ポリテイア』10巻の技術事例

 『ポリテイア』10巻は,通常三部構成だと解されている(12)。まず第一部は「詩

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人追放論(595a1-608b9)」,第二部は「魂の不死の証明(608c1-613e4)」,そ して最後の第三部は「エルの神話(613e4-621d3)」である。技術の事例が集 中しているのは10巻の第一部である。第一部の議論構成は,次のようになっ ている(13)。まず,ソクラテスは理想のポリスから「真似(μίμησις)」を追放す べきであるとし,その理由を説明すべく議論は展開する(595a1-c5)。追放す る理由は二つ,一つは,市民一般に対する悪影響(595c6-605c4),次に優れ た人々も免れない悪影響(605c5-606b1)が挙げられる。そして最後に,詩を 理想のポリスに受け入れる場合の条件と現状が述べられる(607b1-608b9)。

 第一部には,技術の事例が複数挙げられている。まず,イデアと製作物と 絵画の関係を論じるいわゆる形而上学的な議論(595c6-597e9)において,「寝 椅子」と「机」の創作事例が挙げられる。次に,絵画の技術や(597e10-599a5),

ホメロスの詩に謳われた医術 ・ 戦争術 ・ 政治術が挙げられるが,いずれも善 を実現せず人々を欺いているという(599a6-601b8)。そして「手綱」「馬は銜み」

「笛」の製作が取り上げられ,製作者と使用者との交流による創作の重要性が 説かれる(601b9-602b11)。

 研究者は,これらの技術事例が挙げられる箇所の解釈に苦慮している。な ぜなら,製作者は使用者と交流しても製作品がどのようにあるべきかについ て「思いなし」にしか到達せず,使用者の方が「知識」を持つと言われてい るからである。これは,『ポリテイア』の他の巻との齟齬だけでなく,10巻の 形而上学的な議論とも整合的でないと言われてきた(14)。その結果,善の実現と の関係で「使用」を重視することの意義が過小評価されてきたように思われ る。そこで,技術の事例に注目しながら,第10巻第一部前半のテキストを分 析してみたい。

1 創作―形而上学的議論

 形而上学的な議論(595c6-597e9)は,「いつもやっている探求方法」で始 まる。

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「われわれは,われわれが同じ名前を適用するような多くのものを一ま とめにして,その一組ごとにそれぞれ一つの『エイドス(εἶδος)』とい うものを立てることにしているのだ。(596a5-9)。」

 ここは,人工物のイデアへの言及がある特異な箇所として有名である。プ ラトンがよく事例にあげる,善や美,正義等の価値に対応するイデアではな く,人間が製作する人工物である寝椅子と机のイデアが例示されているから である。

「これらの個々の多くの家具について,二つの「イデア(ἰδέα)」があ る。一つは寝椅子,一つは机である(596b1-3)。」

「私たちは次のように言うのを常としている。家具の職人は,イデアに 目を向けて,それを見つめながら,一方は個々の寝椅子(複数)を作り,

他方は個々の机(複数)を製作する。それら製作品(複数)をわれわれ は使用する。(596b4-8)」

 以後,イデアは「エイドス」だけでなく,「あるもの」「真実」「完全にある もの」と言い換えられるが,終始,職人達が製作するものは,「完全にあるも の」ではない,ということが強調され,(597a4-12),下記のような基本的枠 組みが提示される。

「寝椅子作りの職人は,(寝椅子の)エイドスを―これをわれわれは〈ま さに寝椅子であるもの〉というのだが,その「エイドス(εἶδος)」を作 るのではなくて,ある特定の寝椅子をつくるのである(597a1-3)。」画家 は「本当にあるもの(ὄντα)」に目を向けず,寝椅子と見えるもの

(φαινόμενα)を作る。それゆえ,「本性(実在)から遠ざかること三番目 の作品を生み出す(597d10-e5)」のである。

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 本論文では,人工物のイデア論争に立ち入る余裕はないが(15),議論の文脈は 重要だと思う。『ポリテイア』9巻末尾で,天上にある範型を見ながら理想国 を建設するという論述に続いて,イデアを見ながら寝椅子を製作する職人と 寝椅子の絵を描く画家の例が挙げられる。つまり,理想国建設を考えるに当 たり,身近な善さ(有益さ)の実現のモデルである技術の事例に合わせて,

人工物のイデアが登場する。たしかに『ポリテイア』5巻では,正義や美な どのイデアが知識の対象とされているが,10巻のこの箇所では,イデアと知 識との関係は一切触れられていない(16)。それどころか,この箇所では,「知識

(ἐπιστήμη)」「知っている(ἐπίστασθαι,γιγνώσκειν)」という語が一度も出て こないのである(17)。したがって,人工物のイデアと善美などのイデアとを同じ 次元のものとしてプラトンが扱っていない可能性が高い。

 知識との関係が問題になるのは,形而上学的な議論に続いて,技術や技術 を駆使して善を実現する文脈においてである。1で見たとおり善との関係で 知識が扱われるのは,プラトンにとっては自然な展開である。これらの事例 では,具体的な使用の現場という視点が導入され,使用に関する知識と技術 を持った人が,製品の善し悪しを判断できる,とプラトンはいう。これに対 して寝椅子の事例では,寝椅子を我々が使用する(596A10-13)という記述 はあるものの,具体的な製作品を使用する現場から,製作品の善し悪しを評 価する視点がない。

 形而上学的な議論においては,寝椅子という「名」をもつものの製作が問 題になる。製作者が寝椅子のイデアを見ながら製作したものは,横たわる等,

一定の機能を備え(18),他の椅子と差別化されているので,正当に「寝椅子」と 呼ばれる。人間が横たわることすらできないような椅子を製作した場合は,

それはそもそも寝椅子と呼べない。使用の場面が特定されると,個々の寝椅 子の善し悪しを評価することができる。例えば,この寝椅子は柔らかくて寝 心地がいいが,長時間寝ると老人の腰には善くない,あるいは,この寝椅子 は硬さも材質も申し分ないが,重くて大きいので掃除するときには困る,な どと。ここでは寝椅子のイデアは一つであり,個別の使用に適合した複数の

使用と技術

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イデアではない。形而上学的議論では,使用の場面を外して,イデア,個々 の寝椅子,寝椅子の絵,という存在論的な差異を抽出しているのである。も ちろん,実際に寝椅子職人が使用の場面における善さを全く考慮せずに製作 することは考えられない。職人はおそらくイデアを眺めながら,使用の場面 からニーズを聴き取り個々の寝椅子を製作するので,その使用との関わりが 次に議論される。

2 真似る人の知―諸々の技術に関して

 次にソクラテスは画家の欺きを問題にし(598a1-d7),その後悲劇詩人が知 識を持っていないのに,人を欺くことを問題にする(598d8-601c3)。

2-1 画家(598a1-d7)

「画家が真似て描写しようと試みる対象は,職人が作った製作物である

(598a3-1)」が,画家は「実際にある通りに真似るのではなく,見えると おりに真似る(598a5-b5)」,その時「画家は,その時見えている対象の わずかの部分の影像にしか触れなくてよい(598b8-9)。」

 ここまでは,形而上学的な議論を絵画に適用しただけである。次に,技術 への言及がある。

「画家は,靴つくりや大工や職人の絵を描くが,どの職人の技術につい ても「しらない」にも拘らず,優れた画家なら,子どもや考えのない大 人に,遠くから大工の絵を見せて,本当に大工だと思わせることができ る(598b8-c4)。」

 ソクラテスは,画家が描く対象のわずかな部分の影像にのみ触れて職人の 技術に触れないことが,本物ではないのに,本物であるかのように思わせる 欺きへとつながるという。欺かれる鑑賞者も批判されている。欺かれるのは

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未熟で愚かな人々で,知識と無知と真似とを区別できないことが原因だとい われる。鑑賞者が靴つくりの技術について知識を持っている人であれば,靴 職人の動作が靴製作に適合しているかどうかの判断ができる。しかし,子ど もや考えのない大人は,それを確認することなく,「靴職人の絵」だと思い,

欺かれてしまう。つまり,模倣して描く画家と鑑賞者いずれもが,見えてい る対象のわずかの部分の影像にしか触れていない。ここでは,描かれている 対象の技術に触れることの不在が問題になっている(19)。

 ここで,この箇所以降頻繁に用いられている「しっている(ἐπαίειν)」とい う語に注目してみよう。プラトンの認識論的な語法を詳細に分析した研究で 知られているライオンズによれば,これは,プラトンの対話篇の中では頻度 は低い語で,以下の様な特性がある(20)。認識論的な文脈で「思いなす」「無知で ある」と区別して用いる「知っている(ἐπίτασθαι,γιγνώσκειν)」とは区別さ れており,特に技術を意味する文脈で用いられる。そして否定文で用いられ る傾向がある(21)。知識の定義を問う対話篇『テアイテトス』の議論でも,『ポリ テイア』で知識と思いなしの区別を問題にする5巻でも,この語は認識論的 な議論の中には登場しない。

 10巻で用いられる「しらない」は,「どの職人の技術について」しらない,

というのが初出で(598c1),これ以降も「特定の技術について」という限定 がついており,特定の技術に「長けている」「精通している」という意味をも つ。この語がここに導入される議論の推移をみると,「触れている」という表 現から推移している。すなわち「真実そのものには,決して触れていない

(600e4-6)」。そして,2-1の画家の事例でも,「画家は,その時見えている対象 のわずかの部分の影像にしか触れなくてよい(598b8-9)」とある。そして,

「どの職人の技術についても「しらない」」となる。ここには触覚モデルがあ る。辞書によれば(22),この語は,耳を傾けるという,直接的な感覚が第一義で あり,そこから特定の領域に精通する専門的な知識がある,という語義が派 生している。それゆえ,特定の技術領域において,技術と関わる事柄に直接 関わりを持っているという意味がこの議論の文脈からは読み取れる。つまり,

使用と技術

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現場から離れたところで書物を通して理論を知るという意味ではなく,直接 触れることを契機とする行為の文脈で生成する知が問題になっている。

 英訳では「理解している(understand)」と訳される場合と(23),ただ「知っ ている(know)」と訳される場合とがあるが(24),ライオンズの研究に即した訳 語とはいえない。この「しっている」は否定形であるので,描く対象が持っ ている技術に触れることがないという意味で,使われているからである。し かしここでどうして靴つくり個人ではなくて,靴作りの技術について「しっ ている」となるのか,研究者は違和感を持っている(25)。同じ問題は,次の事例 においても起こる。

2-2 詩人(598d8-600e3)

 ソクラテスは,ホメロスなどの悲劇作家を次のように批判する。すなわち,

詩人たちが立派な詩を創作しているのは,作品の題材になる事柄である「あ らゆる技術,徳と悪徳に関わる人間のことや神のこと」を「知っている

(ἐπίστασθαι(26))」からだ,と思う多くの人々がいるが(598d8-599a6),詩人はそ の人々を欺いている,と指摘する。そして,詩人を「ありとあらゆる職人の 技術を心得ていて,またほかの事柄についても一人ひとりが知っている限り のすべてのことを知り,およそどのようなことについても誰よりも正確に知っ ている人」と捉えることには,警戒しなければならない,という。このよう な思いなしが偽であることを明らかにするにあたって,プラトンは技術の事 例をあげて,前の章で述べたように,善の実現(有益性)をという観点から 議論する。

 プラトンは,『ポリテイア』1巻と同じく医術を取り上げる。そして詩人が 医者の言葉を真似るだけでなく,誰かを健康にする,あるいは,医術を弟子 に伝える,ということができたかどうかを問う。答えは否である(599c1-6)。

 ソクラテスは医術の例のあとで,このような事柄ではなく,「最も重大で最 も立派なこと(μεγίστων καὶ καλλίστων 599c6-7)」について検討すべきだとし て,『ポリテイア』のテーマである善と正義の実現に近づいていく。ホメロス

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を例にあげて,ポリスに貢献する公的な面からはじめ,最後に個人に貢献す る私的な教育の面にも言及する。まず,国家の統治については(599d2-599e4),

ホメロスのおかげで統治が善くなった国(599d7-e1),ホメロスを立派な立法 者と認め,人々に益を与えた国(599e1-2)の名をあげることはできない。戦 争についても(600a1-3),ホメロスのおかげで見事な戦い振りになった戦争 はない。技術貢献について(600a4-7)も,ホメロスが技術的あるいは実用的 な事業を考案したとは,伝えられていない。教育についても(600a8-600e2),

ホメロスがピュタゴラスのような教育的指導者とて,生きる道を弟子たちが 守ったという話は伝えられていない。そして次のようにいう。

「ホメロスが,教育についてはただ真似る能力だけでなく,『認識する

(γιγνώσκειν)』能力を持った人として,本当に人間を教育し,人々をすぐ れた者にすることができたのであれば,彼はたくさんの弟子を作って,

彼らから尊敬され慕われただろう(600c3-6)。」

「ホメロスをはじめとするすべての作家(詩人)たちは,「徳(ἀρετή)

の影像(εἴδωλον)を真似るだけの人々であって,真実そのものには,決 して触れていない(600e4-6)」,と。

 プラトンが,画家に続いて詩人に対しても,描く対象について知識を要求 する議論に疑問を持つ研究者もいる(27)。しかしⅠで示したような技術モデルが あると考えればわかりやすい。もしホメロスが技術についても精通している 博識な知者であるということが事実であれば,具体的な善を実現しているは ずだ,という前提がある。そしてホメロスが,公的な事柄についても私的な 事柄についても,実際に善くする,あるいは有益にするという事実は確認さ れない(28)。その理由を,プラトンは表面の現れだけを捉え,「真実そのものに触 れていない」ことだとする。

 ここで重要なのは,ホメロスはじめ悲劇作家が真似ているのは,例えば勇 気そのものではなく,勇気ある姿,つまり「徳の影像」である。詩人は徳の

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影像,つまり徳ある人の表面的な姿をことばで語る。これに対して哲学者は,

徳そのもの,その真実をことばで語る。この対比がプラトンの念頭にあるな らば,対象について知識の基づいた正確な描写を要請することも理解できる。

表面的な「徳の影像」を本物のように見せるという欺きは,理想国の実現の ために警戒しなければならない。このような問題意識の下で,10巻冒頭の製 作者と画家の対比が再び登場する。

 2-3 画家と詩人(600e4-601c3)

 次に,ソクラテスは2-1と2-2を踏まえて,画家と詩人が靴つくり等の技術を 描く,という事例を整理してまとめる。ここでは,詩人と鑑賞者が明確に対 比されている。ここでも,描くのは人や物ではなく「技術を描く」という事 例である。

2-3-1  画家の事例(600e7-601a3)

2-3-1-1 画家自身は,靴つくり術について「しらない」。

2-3-1-2 鑑賞者は(靴つくり術について)「しらない」。

2-3-1-3 鑑賞者はただうわべの色彩と形から「観る(θεωρεῖν)」。

2-3-1-4  (画家は),鑑賞者にとって靴つくり術であると思えるものを創作 する。

2-3-2 詩人の事例(601a4-b1)

2-3-2-1 詩人もまた真似て描写する以外のことは「しらない」。

2-3-2-2  詩人はそれぞれの技術がもっている色彩とでもいうべきものを,

語句を使って塗り描く。

2-3-2-3  (鑑賞者は)詩人と同じように(しらない状況で),言葉から「観 て」思いなす。

2-3-3-1  靴つくりの技術であれ,軍の統帥であれ,さらに他の何について であれ,韻律とリズムと調べをつけて(詩人が)語るのであれば,

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よく語られているように(鑑賞者には)思えるのだ。

 詩人も画家と同様,技術については「しらない」状態で,鑑賞者は語られ たことばだけから技術を観る。つまり,靴つくり等の技術について真実その ものに触れることなく,韻律とリズムを鑑賞し,鑑賞者には「よく語られて いる」と思われる。プラトンは,技術をしっているかどうかを問題にしてい る。ソクラテスは次のように結論する。

2-3  映像を作る人,ものを真似る人は,われわれの主張では,「あるもの

(τὸ ὄν)」については何もしらず,「現われるもの(τὸ φαινομένον)」に ついて(しっている)だけである(601b9-c3(29))。

 プラトンはここで,「事柄を半分だけ語られたままで残しておかず,十分に 考察することにする」という。つまり,真実に触れていない画家や詩人の事 例説明を終えて,真実に触れている知識や技術を持つ人の側の説明をこれか ら行うのである(30)。

3 使用の場―技術者の交わり

 プラトンは3-1で製作品が「どのようにあるべきか」について,知っている のは製作品の使用者である,ということを馬具の事例を基に説明するが,理 解を得られなかったので,より根本的なところから,三つの技術のあり方と 知のあり方,そして技術者の交わりについてより詳しい説明をする。そこで,

善の実現のために使用の場の優位性が説かれる。

3-1 馬具の事例(601c7-14)

3-1-1  画家は手綱や馬銜を描く。手綱を作るのは革職人,馬銜を作るのは 鍛冶屋である。

3-1-2  手綱や馬銜がどのようなもので「あらねばならない(δεῖ εἶναι(31))」の かを,画家はしらない。

使用と技術

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3-1-3  実は,製作者である鍛冶屋や皮職人でさえ(手綱や馬銜が)どのよ うなもので「あらなければならない」のかをしらないのであって,

そのことをしっているのは,それらの使い方を「知っている

(ἐπίστασθαι(32))」人,すなわち,馬乗りだけである。

 2-3で「(靴つくりなど)個別の技術についてしらない」という語法から,

3-1-3「制作物(手綱や馬銜)がどのようなものであらなければならないかを しらない」という語法に移行し,そのまま,善し悪しに関する思いなしや信 念(Cf.601e6-7, 602a3-4)へと移行する。こここからも,技術が善を実現する という技術モデルの中で議論が展開していることがわかる。しかし,対話相 手はついていけない。そこで,3-1を説明するために,以下の議論が展開され る。

3-2 三つの技術(601c15-d3)

「あらゆるものについて,事情は同じである。それぞれのものにおいて,

三つの技術がある。すなわち,使うための技術,作るための技術,真似 るための技術(33)である(601c15-3)。」

 手綱の例で言えば,手綱を使うための技術を持っているのは馬乗りである。

作るため技術を持っているのは革職人である。そして真似るための技術を持っ ているのは,馬乗りを描く画家である。

 技術に付与された「使う」「作る」「真似る」は,藤沢は「~するための」

と訳しているが,未来分詞で表現されている。個々の現場で近い将来に実現 する,創造という動的な側面が強調されているようにみえる。つまり,現に 触れているものについて,何かを創りだす ・ 使えるようになる ・ 何かを真似 る,という目標に向けて,それらを近い将来実現する技術である。これは製 作あるいは使用の現場から離れても成り立つ,マニュアルのように静的な知 識体系ではない。そして,そのような体系的な知識とは異なった相のもとに

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捉えられている知が,具体的な製品の善し悪しを判断できる。そしてプラト ンは,この三つの技術の中で,使用するための技術を持つものが優越すると 断言するのである。

3-3 使用(601d4-7)

「ところで,道具にせよ,動物にせよ,行為にせよ,それぞれのものの よさ(ἀρετή)や美しさ(καλλός)や的確さ(ὀρθότης(34))は,それぞれが そのために作られたり生まれたりしているところの,ほかならぬ「使用

(χρεία)」ということに関わるのだ(601d4-7)。」

 この箇所は,道具の創作の領域を超え,動物や行為が生まれることへも言 及している。3-1で(手綱や馬銜が)「どのようなものであらなければならな い」のかという表現が,ここでは道具,動物,行為の「よさ(ἀρετή)」「美し さ(καλλός)」「的確さ(ὀρθότης)」へ一般化されている。この一般化におい て,プラトンは道具と対比して,人間の善さ(徳)が発現する行為まで視野 に入れている。

 藤沢が「よさ(ἀρετή)」と訳した語は,通常「徳」と訳される。2-2で「ホ メロスをはじめとするすべての作家(詩人)たちは,「徳(ἀρετή)の影像

(εἴδωλον)を真似るだけの人々であって,真実そのものには,決して触れて いない(600e4-6)」という箇所と合わせて考察すると,徳を現実の場面で実 現すること,すなわち,有徳な人が行為する場合,徳を現実の場面で使用す る,という思想をみてとることができる。したがって,静的な体系的な技術 知ではなく,それが現実の世界で善を実現する場が,「使用」の場だと言え る。動物を例に挙げれば,馬のよさが早く走ることであれば,それを使用す ることこそが,馬が世に生まれるにあたってのよさや美しさや的確さを実現 することになる。そのように考えると,「使用」に関わる場面とは,技術が善 を実現する場面とみることができる。これは,マニュアルを見ながら,使用 という現実から離れて考案する場面ではない。

使用と技術

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3-4 使用者(601d8-10)

 「すると全く必然的に,それぞれのものを使う人こそが,もっともそのも のに通じている人(ἐμπειρότατον)であり,そして,自分の使うものが実 際の使用にあたって,どのような善いところあるいは悪いところを示す かを,製作者に告げる人となるのだ(601d8-10)。」

 3-2,3-3から3-4への推論において,道具がどのようなものであらねばなら ないのかについて,使用するための技術を持った人の判断が製作者の判断を 凌駕する,と結論が導かれる。これが,3-1の事例を正当化する論証になって いる。

 この箇所は,使用者が購入の可否の判断をする以上,使用者のニーズに応 えた物を製作すべきである,という主張のように見える。しかし正確にはそ うではない。プラトンは,使用者すべてが善し悪しの判定者になるとは言わ ない。なぜなら,この箇所では,使用するための知識あるいは技術の習得を 経て,使うということに熟達した人,という条件が付いているからである。

つまり,馬乗りの訓練中でまだ技術が未修得である人や,手綱を握って振り 回すことができても馬を操れない人は,善し悪しの判定者になれないのであ る。それゆえ,使用者が善し悪しを判定するのではなく,使用の技術を持っ ている人が判定者になるのである(35)。

3-5 笛吹きと笛つくり職人との関係(601d10-e6)

 プラトンは,現代の状況とは全く異なった仕方で,製作の技術を持ってい る職人と,使用の技術を持っている技術者との関係を,笛を事例に挙げて次 のように説明する。

3-5-1  笛吹きは笛作り職人に笛のことについて,どの笛が実際に笛を吹く に当たって役に立つかを告げ(36),職人がどのような笛を作らなければ ならないかを命令する。

(17)

3-5-2 職人の方はこれに仕える。

3-5-3 笛吹きは,よい笛と悪い笛について知っていて(37)告げる。

3-5-4 職人はそれを信じて作る。

 ここに,使用者に仕える職人像がある。現代の技術は,使用者に対して強 者の立場に立っていると考え,現実の状況を「テクノファシズム」と呼び,

市民の手に技術をとり戻すべく技術者が市民と交わる「テクノデモクラシー」

を提唱する論者がいる(38)。これは,プラトンの主張と符合していると思われる。

 ここには,製作のプロセスで,職人と笛吹きの主従関係が具体的に示され ている。まず笛吹きは,笛を吹くにあたって役に立つのはどのような笛かを 教示し,それに職人は従う。この時,笛吹きは笛の善し悪しを「知っている 人」,という位置づけで,職人は笛吹きの判断を「信じている人」という位置 づけになる。ソクラテスは,これを一般化して,次のように結論する。

3-6 技術者の交わり(601e7-602a7)

3-6-1  同じ道具について,製作者の方は,①知っている人とつき合い知っ ている人から聴かなければならないゆえに,その道具の良し悪しに ついて「的確な(真なる)信念(πίστις ὀρθή)」をもつことになるわ けだし,使用者の方は,②道具の良し悪しについて「知識(ἐπιστήμη)」

をもつことになるわけだ(601e7-602a2)。

 まず製作者の側からみてみよう。①に注目すると,「同じ道具」について,

製作者と使用者がつき合い,道具の善し悪しを検討し,善い(有益な)道具 を製作するプロセスがある。これは,一つの具体的な道具についてその善し 悪しを検討して製作する動的な場である。そして②に注目すると,道具の良 し悪しについて「的確な信念」に至るのは,「知っている(εἰδέναι)」人とつ き合い知っている人から聴かなければならない」。つまり製作者は,使用の現 場で役に立つものを製作するために使用者から聴かなければならない。そし

使用と技術

(18)

て製作者は,このような共同作業を通して,製作者が的確な信念をもつのが 未来形で書かれている。つまり,製作者と使用者との交わりを経た結果とし てもつ信念なのである。

 次に同様のことが,使用者についても言える。①によると使用者は,3-4の 笛の製作の事例で明らかになったように,製作者に笛の善し悪しを命じなけ ればならない。そのために使用者と製作者との交わりが必要になる。そして

②では,道具の善し悪しの知識をもつのは製作者との交わりを経た未来のこ とになる。交わりを経て,道具の善し悪しについても知識をもつようになる のである。これは,静的なマニュアル化可能な知識ではなく,個々の具体的 な道具の製作のプロセスを経た結果として得られるのである。

 以上のように,ここでは創作において,製作者と使用者の交流という過程 が前提されているのである。具体的な個別の道具の善し悪しについて,使用 の場を重視する限り,笛吹きが製作者に命じて作る,という関係は,使用の 現場で役に立つ道具の製作が目的とされている限り動かないだろう。様々な 種類の笛の製作法は,体系化された静的な知識として存在するが,今問題に なっているのは,個別の使用の現場で,使用の専門家にとって有用な個々の 道具の創作である。これは,現場での適応性が品質評価になる限りにおいて,

使用する技術を持った人が善し悪しの判断において優越する。

 しかし研究者が疑問に思うのは,製作者は「的確な信念(πίστις ὀρθή)」に しか至らないのに対して,使用者が「知識」を持つことになる点である(39)。し ばしばプラトンが強調する専門家は知識をもっているが素人は思いなししか もてない,という主張とは異なって見える。ところが,この判断ができるの は,笛の使用に熟達した技術者に限る。笛吹きの技術を習得していない人は,

音を出すことができても,質の良い笛と劣悪で音がよくない笛とを見分ける ことができない。プラトンは,使用の現場を重視するといっても,使用する ための技術を習得した人にのみ製作品の善し悪しの知識を認めたのである。

それゆえ,製作の技術者と使用の技術者が交流することが,現場での善さ実 現には不可欠なのである。これに対して,真似の技術者は,製作の技術者と

(19)

使用の技術者との交流を行わない。それゆえ,真なる思いなしを持つことが できないのである。

3-6-2  真似る人は,自分が描く対象について,②それを使うことによって 知識を―美しくて的確かそうでないかの知識を―もつこともなく,

①知っている人と付き合い,どのようなものを描くべきかを命令さ れることによって,「的確な(真なる)思いなし(ὀρθὴ δόξα)」をも つことにもならない。

 3-6-2は,3-6-1と直接対応する。①は笛の製作者のように,使用者に聴き従 うという態度,②は笛の技術習得のように,使うための技術を習得する道で ある。詩人も画家も,いずれもとらない。つまり,描く対象の善さ(有益さ)

を知ることもなく,それについて真なる思いなしをもつこともないのである。

そこでソクラテスは,真似について次のように結論する。

3-7 真似とは(602a8-c3)

3-7-1  したがって,真似る人は,自分が真似て描写する対象について,そ の善し悪しに関する知識をもつこともなければ,的確な(真なる)

思いなしをもつこともない。

3-7-2  真似る人は,それぞれのものについて,それがどの点で善いか悪い かを知らずに,真似ることをやめないだろう。

3-7-3  (それがどの点で善いか悪いかを)何も知らない多くの人々に美しい と見えるようなもの,そのようなものを真似て描写することだろう。

3-7-4  したがって,真似という行為は,真実から遠ざかること第三番目の ものと関係する。

 画家も詩人も,描く対象の善さ(有益さ)を知っている人から聴かず,使 用するための技術を身につけようとしないため,真実に触れることなく,真

使用と技術

(20)

実から隔たったものとしか関係できない。それにもかかわらず,彼らは美し いとみえるものを真似て描くのである。

 そしてこれを鑑賞する人々も,彼らと同様,描く対象の善さ(有益さ)を 知らない。それにもかかわらず,彼らは,詩人が描いている事柄について

「知っている」と思うのである。ここに欺きが生まれる。つまり,詩は「ある こと」ではなく「現れ」を描いているにもかかわらず,それを「あること」

かのように欺く。これが,真似に長けた詩人を理想のポリスから追放する理 由である。観劇を好む人々が,美しい,正しい,と「思いなしている」こと は,「ある」ことではなく,「現れ」である。これを「あること」と見せかけ ることが,個人にとってもポリスにおいても有害なのである。それゆえ,詩 人は追放されなければならない。

Ⅲ 結びに代えて

 このように10巻には,使用の場面の優位という現在の参加型デザインを思 わせるような技術観がみてとれる(40)。製作の技術の恩恵を受ける使用者の中で,

使用に関する技術を持っている人は,使用の現場で善を実現するためには「ど のようにあるべきか」がわかる。製作する技術者は使用の技術を持っている 人に,技術が実現する事柄の善し悪しを聴かなければならない。これは体系 化された既得の知識とは別の次元にある。

 現代,製品の使用者と製作者とが乖離するために良い製品が生まれないた め,モニタリングが重要だと言われている。技術の事例を用いた議論のポイ ントは,使用者ではなくて,使用の技術を持った人から聴かなければならな い,ということであった。『ポリテイア』で提示する技術観は,高齢者社会を 迎える日本で必要が説かれている参加型ユニバーサルデザインの思想にもつ ながるが(41),プラトンは文字通りの参加を求めている。道具などの使用に熟達 したひとが製作過程から参加し,見栄えに惑わされることなく善し悪しを適 切に判断して,制作者に伝える中で,製作品が完成する。このような技術者

(21)

の交わりにおいて,実現する「創作」が,善の実現に向けた営みとみること ができる。紙を媒介にしたアンケート調査ではなく,交わりがあることが重 要である。製品の使用に熟達していない大衆はコマーシャルによる表面的な イメージ戦略に惑わされる易いので,使用の技術を持たない大衆の評価は危 険であり,人気がそのまま品質評価にはならないだろう。

 『ポリテイア』に即して言えば,次のような場合である。詩人が英雄の寝椅 子を美しい言葉で語る。詩人は,その寝椅子がその本来の目的に照らして本 当に善いものであるのかに関心がなく,美しく思われさえすればよいと思う。

大衆は有名な詩人が描いた寝椅子は,よいものと思ってしまう。その寝椅子 は,見た目は美しくても耐久性がなく性能が悪いものだとしても,大衆はそ の寝椅子をこぞって買い,その寝椅子が流通する。

 この事例を正義や美に当てはめてみる。詩人は,大衆に正しく見えること や美しく見えることだけを目指して,有徳な英雄を描く。詩の鑑賞者は,詩 が「真実を知らなくても容易に作れるしろもの(599a2-3)」だと気づかずに,

詩人が正しさや徳を知っていると思い込んで,正しく見えるものが実際に正 しいと思ってしまう。そのような大衆が,ポリスの正義について判断するこ とは,劣悪な寝椅子が流通するよりも悪影響が出ることが予想される。表面 的な報道や販売実績を上げるためのコマーシャルなどが孕む危険をプラトン は二千年前に気づいていた。これが政治的に利用されると更に危険は大きく なる。

 これを避けるには,「現れ」ではなく,「真にあるもの」に触れようとして,

善を実現しようとする技術者たちの交わりが重要である。10巻では,おそら く,善さを実現する技術モデルは,ポリスの現場で善さを実現する政治の技 術探求のために立てられている。理想国の市民は,外見はよく見えるが内実 を伴わない弁論家の言葉に欺かれてはならない。徳を身につけた理想国の市 民は,政治の技術を持った政治家と,理想国の実現に協働で関与しなければ ならない。これが,『ポリテイア』10巻の詩人追放論の根源にあるプラトンの 思想だと論者は考える。

使用と技術

(22)

 最後に,プラトンが「使用」ということを重視した意味を考えてみたい。

製作者が既に学習している知識の体系が存在していたとしても,実際にそれ が「使用」という場面で製作品というものを通して実現することをもって,

善し悪しが判断できる,といえる。「使用」という場面で,静的な知識や技術 がわれわれの生活現場で形になり実際の善さが実現する。プラトンはそのよ うな構図の中で,政治の技術や知識を考えていた。10巻のイデア導入は,製 作の技術事例に引きずられているが,「正義」のイデアを眺めながら現実の世 界で「正義」を実現する政治家のモデルと見ることができる。その時重要に なるのが,「正義」という徳を身につけた市民が理想国の実現に寄与するとい う点,そして政治家が市民の具体的な生活の場で,善さについて聴いて理想 国を建設する,という点である。このように理想国は徳ある市民との協働が 欠かせず,哲人王は専制君主の支配とは異なり,市民に仕える,という関係 で描かれている。

 以上のように,『ポリテイア』10巻の技術に関する事例は,「参加型デザイ ン」という現代の先駆的な主張を超えて,われわれに理想国の在り方(42)も示唆 していると論者は考える。

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使用と技術

(24)

注

(1) テキストは,S.R.Slings,  ed.  Platonis Rempvlicam,  2003,  Oxford  Classical  Text,を使用した。『ポリテイア』は『国家』と訳されることが一般的だが,

近代国家を連想させるこの訳語は取らない。これについては,納富信留,「「ポ リテイア」とは何か」,『理想』No.686,2011,2-13.を参照されたい。

(2) 『ポリテイア』10巻は,通常3部構成だと解されている。まず第一部は「詩 人追放論(595a1-608b9)」,第二部は「魂の不死の証明(608c1-613e4)」,そ して最後の第三部は「エルの神話(613e4-621d3)」である。

(3) 「参加型デザイン」については,村田純一,『共生のための技術哲学-「ユ ニバーサルデザイン」という思想』未来社,2006,pp.24-27を参照。

(4) 例えばハリウェルは,10巻の最初の寝椅子の事例と馬具や笛の事例の知識 の位置づけ整合的でないと言う。Cf. Halliwell, ibid., p129.

(5) テキストでは,次に「自分が支配する相手(ἀρχομένος)」とも言い換えら れているが(342c10-d1),これは始原を示すアルケーの動詞形である。知識 を原理として健康状態をコントロールできる立場であり,健康維持のために 指示を出す立場である。高圧的な支配という意味は含まれていない。

(6) プラトン研究者の間でも,ここに示された技術観に違和を感じる人は少な くない。ルークニクは,技術は技術そのものではなくそれとは別の対象を志 向するが,常にその対象の善の実現を含意しているのではない,という。

D. Roochnik, Of Art and Wisdom-Plato’s Understanding of Techne, Pennsyl- vania State University Press, 1990, pp.141-142を参照。またアーウィンは,利 己的な目的のために技術を行使することに対して,プラトンが自説を擁護し ていないと不満を漏らす。T. Irwin, Plato’s Ethics, Oxford, 1995, pp.176-177を 参照。またワレンのように,技術を価値中立なものをみて,その目的に従っ て技術が行使される,と解する論者もいる。ワレンは,技術が価値中立的だ としたうえで,プラトンの議論の難点として,戦争の技術や格闘技の技術が 技術の対象の益をもたらさないという。詳細は,E. Warren, ‘The Craft Argu- ment: An Analogy?’ in J.P. Anton & A. Preus, eds., Essays in Ancient Greek Philisophy III, State University of New York, 1989, pp.108-110を参照。これ に対して瀬口は,近現代の戦争と古代ギリシアの戦争との違いを理由にワレ ンの指摘を退けようとするが,問題はおそらくそこにはない。現代の先端技 術は資金豊富な軍事産業で精力的に開発され,その技術がわれわれの生活改 善のための技術として再利用もされる。ただその場合でも,技術は中立であ り,使用の場面との断絶がある。このように,技術開発が先行し,その後で

(25)

使用を考えるという構造そのものが,プラトンの技術観と異なるのである。

瀬口の解釈については,瀬口昌久「徳と技術」内山勝利 ・ 中畑正志編著『藤 沢令夫先生検定論文集 イリソスのほとり』世界思想社,2005年,pp.105-

106を参照。

(7) 村田によれば,プラトン研究だけではなく,技術の本質主義を避け,非本 質主義という立場に立つ現代の技術論の傾向といえる。村田純一『技術の哲 学』,2009年,岩波書店,p.153を参照。

(8) 例えば,生殖医療が関わる技術は,中立的であり,それゆえ両刃の剣とみ る見方がある。かつてのラディカル ・ フェミニズムにおいては,女性なら子 供を産まなければならないという男性支配的な権力関係の下に置かれた不妊 治療の一環としての生殖技術に批判的であった。しかし,出生前診断による 選択的中絶を権利として認めるリベラル ・ フェミニズムに立てば,女性のイ ニシアティブによってその権力関係を変革して,生殖技術を女性に有利に用 いることが可能,という立場になる。村田前掲書 pp.156-160を参照。

(9) これに対して村田は,技術の応用の倫理は問われても,技術の哲学が問わ れないという問題点を指摘する。そして,「技術の成立過程は社会的,価値的 要因と不可分であると同時に,『創造的』特徴を持つこと」,とりわけ,「この 技術の『創造性』を考慮した設計の原理が可能である」と述べている。村田 前掲書,特に pp.169-170を参照。これは,使用者に聴いて製作する,とい う仕方で「創造性」を担保する,というプラトンの考えに近いと思われる。

(10) 括弧内は翻訳者藤沢による挿入。プラトン『国家』(下)藤沢令夫訳 1987

(第11版)p.74を参照。

(11) 『テアイテトス』でも,この箇所と同じ議論が展開される。プラトン『テア イテトス』177c8-d6を参照。そこでプラトンは,技術の事例を用いてプロタ ゴラスの相対主義を批判する。すなわち,善さ(有益さ)に対する将来の判 断については,各人の思いなしが真であるのではなく,技術を持った人の思 いなしが真だという。病や嵐の時には,医術や航海術を持った専門家が知識 をもっており,知識のない素人は専門家に従う。プラトン『テアイテトス』

177e4-179b5を参照。

(12) 10巻は,全体の整合性が疑問視されている。例えば,P. Murray, Plato on Poetry-Ion, Republic 376e-398b, Republic 595-608b,  Cambridge,  1996,  pp.186-7を参照。

(13) 第一部の個々の議論相互の繋がりが読み取りにくく,内容的にも他の箇所 の議論との齟齬がある,そこから,9巻までが『ポリテイア』の本体であり,

使用と技術

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