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サカニクシャン時代のマトゥラーにおける

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サカニクシャン時代のマトゥラーにおける   マニバドラ信仰の社会背景について

       通商路と仏教遺跡の奉献者を手がかりに 高 呑同

毒兀 英

1.はじめに

 法華経の陀羅尼品にはVaisravanaやHaritlの陀羅尼が見られ、ヤクシャの大将軍Vaisravana が法華経信奉者の守護者として描かれているが、これも、古代インド社会におけるヤクシャ信 仰の隆盛を物語る一例であると考えられる、サカ=クシャン時代に政治経済の拠点として栄え たマトゥラー市の周辺地域からは、数多くのヤクシャ・ヤクシニー像が発見されている 吊者        けハはかつて、マトゥラー考占博物館のカタログに掲載されているサカ;クシャン時代を中心とす

るヤクシャ像やヤクシニー像を整理してみたことがあったが、特に気になったものが単独に.1三 神のごとく礼拝されていたと想像される二体のマニバドラL  1 larpibhadra )の像であった マ

トウラーで発見されたこれら二体の巨人なマニバドラ・ヤクシャに対する信仰の背景を、サカ

=クシャン時代の通商路との関係で考えてみたい

2.マトゥラー市周辺で発見された二体のマニバドラ像

 マトゥラーdiの南24キロ地点のアグラ=マトゥラー街道東側にあるパールカム.Parkham.

から、紀元前二世紀の半ば頃と考えられるヤクシャ像が多数発見されている 特に注目される ものが1882 83年に発見された、土地のノy々がdevataと呼んでいた巨大な灰色の砂岩製ヤク

      イパシャ像である一台座を含め高さ2.6メートルあり、ドーティーを着したデップリとした腹をした

ヤクシャ像で、立ち方は一種の支脚遊脚のスタイ1レをとっている 両腕は脇の部分から欠損し、

顔も破壊されているが、台座上に紀元前2世紀中葉頃のブラーフミー文字で書かれた、

  「マニバドラを崇拝する集団{NlanibhadrapUgya[N lapibhadra congregation] )に属すS   人の兄弟によって聖なるものの像C bhagavato pratima)が造られた一クニカの弟子のゴー       パレ

  ミトラカの作である」

という碑文から、そのヤクシャ像がマニバドラであることが解っている.その他、パールカム       からは「ナフサミトラの請いによる」という碑文を帯びたクベラ像(マトウラー博収蔵番号エス        ロリ1266)と判読不可能な碑文の断片が刻されたクベラ像(マトウラー博収蔵番号1264iも発見さ

(2)

30 法華kiヒ研究 第一16 }」・

れている、更に、パールカムから同じ街道沿いに北に約6キロの地点で、ナーガの霊廟があっ たCargaOn(マトウラーから南に約16キロ程の地点)から南に約3キロの地点にあるバローダ        ごつ

〔Baroda)村でもヤクシャ像の断片が発見されている.頭部・左腕とヒ P身の一部{高さ127 1/1・.jと、足の部分と基壇部(高さ1.347m ,から成り、パールカムのマニバドラ像よ:1大きい3.6 mくらいの高さの巨大なヤクシャ像であったと推測されている、.彫刻は痕跡をとどめぬほど破 損しているが、大きな耳飾りや、背面に彫刻された四つの房が付いたネックレスと腰帯などが パールカムのマニバドラ像と類似していることによリマニバドラ像であったと考えられている、

 ヤクシャ信仰とは、人の生に欠かせない「水、を象徴する樹木とその生命力がdevata[「半 神半ノ\♪であるヤクシャやその女性形であるヤクシニーとして崇め )れ人々の礼拝の対象とさ れた信仰とされる.香華灯火や、時として人肉や動物の肉・魚が供物とされ、子孫繁栄・物質 的繁栄・旅行の安全などが、様々なヤクシャやヤクシニーが宿るとされた聖樹に祈願されてい た 」ilLなまぐさい供犠的要素が希薄になるに伴い、次第にジャイナ教や仏教にも受け人れられ、

様々なヤクシャ像やヤクシニー像がストゥーパの塔門や欄楯などの建築物を荘厳する彫刻のモ チーフとして盛んに利用されるようになっていた.

 このようなヤクシャの中でもクベラは、カーベリー川とナルマダー川の合流地点で行った厳 しい呂:行によリシヴァ神によってヤクシャの頭領に任じられ、黄金のメル山の四分の一の富を        しの管理し、その富をノ\々に分け与え、その黄金により人々を不死にするく1:在と考えられていた,

      り  

マニバドラはクベラに次ぐランクを占めるクベラ軍の司令官とされる Ram Nath Nlisraによ ると、尺8〃14.VCtli(t〔VU 5,1−6)では、マニバドラは四.丁・のヤクシャを率いて羅刹を打ち破ったと され、、W〃∂励〃αr〃では、 Svetagiri l l|脈のMandara山に住み、様々な姿をしたヤクシャにか        リリしずかれている、と述べられている Slisraは、マニバドラは特に東インドで礼拝されたヤク       にロく

シャであったが、Mαノ1∂〃1の・〃〆i1.3])には、マニバドラと弟P[lrnabhadraがガンダーラ地方に 相当するとされるBrahmavatlの守護神であると述べられ、ガンダーラ地方にも縁あるヤクシャ       にコであ・)たという、更に] risraはマニパドラが旅行者や貿易商が信仰の対象としたdevataであっ          し ばたことを指摘している 」五〃2々励∂〃/ αのAaSvamedha Parvaでは、ノ\戦争に勝利はしたがすべ

ての富を失ったユディシュティラにVyasaが亡くなった者たちの供養のためAaSvamedhaの 供儀を行うべきであると勧め、その助言のために嘗てNlarut王が残した金塊を取りに行くよう に促す場面で、金塊を掘り起こしに行く前に、山中で、バラモンたちに三つの日を有する N工ahadeva i Siva神)に対して火の祭1)を行わせ、次に1 rahadevaの従者である恐ろしい存在 たち〔ghostly beings)をf共養し、更にクベラとマニバドラに対する供儀を行い⑭ルノ2∂1)ノ?〃αrσ   にぱ65.1−8川1[1]devataに対し畏怖と尊崇の念が示されている

 また、Ma/2∂励αMζ!中の「ナラ:E物語一の部分〔皿.61.120−125)では、夫のナラ王に置き去 りにされ、夫を探して求め恐ろしい呂:行林に入ったダマヤンティー妃が、蛇に飲み込まれそう

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→十力=1ノシ: ン時伐.「)マト・t・ラーにお:十るマニハトラ㍑師ソパ1.1 こ背景;:ついて   t「

になったり、彼女を蛇から救った木こりに性的危害を加えられそうになったり、不可思議な苦 行者たちに遭遇したりした後に、やっとの思いで葦の茂る水辺にたどり着き、そこでたまたま キャンプしていた隊商のノ.々に救いを求めた場而で、彼女が隊商の長シュチに夫ナラ.Eを見て いないかと尋ねると、隊商長は、

  1  r美しい女よ、私の言葉をお聞きなさい=美しい微笑の女よ、私はシュチという隊商長で   す=誉れ高き.女よ、私はナラという名の人に会ったことがあ:)ません。私は人の住まぬこ   の恐ろしい森で、象、豹、水牛、熊、鹿をみましたが 我々に夜叉の王マニバドラ・隊商        パコ

  の守護神)の御加護がありますように」

と述べ、マニバドラの加護を祈願する場面が描かれ、マニバドラが貿易商や旅行者の守:1神と して尊崇されていた様が描かれている.

3.マトゥラーとサカ=クシャン時代の通商路

 次に、2m〜3mもあるような巨ノこなヤクシャ像がマトウラー郊外地域で信仰されていた背 景について、サカ=クシャン時代の通商路との関係から考えてみようと思う

 遠く釈尊の時代から、Uuarapatha l北道)とDak§inapatha l南道}という主要幹線通商路が 発展L、前者によって東のパータリプトラや更に東のガンジスi[11口にf、:・:置したTEImraliptiと西 北インドのタキシラが結ばれ、後者によってウッタルフラデーシュ州北部に位置していた舎衛 城!.S1 avastD と西インドのUjjainやデカン高原のPratiSτhana l現、 Palτan )とい・.・た都市が 結ばれでいたことが知られている サカ=クシャン時代の頃にはこの二つの幹線道路ヒの中継 諸都巾に繋がる様々な支脈的通商路ネットワークも各地域に形成され、あたかも全インドが通 商路の綱で覆われているような状況が出現していたらしい Shiva G. Bajpaiはマトウラー il la(huril 1)をこの古代イシドの通商路上の regi{}na]nietropolis として発展し、各地域を結ぶ        り

通商路ヒの拠点都市てあった姿を検証している

 Bajipaiによると、マト「 rラーは主要幹線路であったUriarapthaに3つのルートで繋がって

      く パ

いたという 第一のルートは、マトゥラーからYalnuna lll沿いに進み、 Delhi/古のlndraprastha 郊外Gajziabadの南];(」35kmのBu]andshahar jlJりとされるi・{fσ)Varanaを通り、1 leerur c..  Delhi

北東60km辺:!IとSaharanpur〔Dell〕iの北北東170km辺り}でUuarapthaに合流するルートで、

第二のルートは、マトゥラーから現在のデリーを通り、国道1弓・線をチャンデでガル万面に 150km程行った地点にあるハリヤナ州のKurukshetra(有名なバラタ戦争の場とされるKuruk−

setra 1を経て、 Ambala.デリー=アンバラ道路沿いにデリー北1∫約210km地点}辺:)で UttaiJ .i pathaに合流するルートであったという、更に、第三のルートは、ヤムナーlll沿いに進 みR()hltaka(デリー北西約70キロ地点のRohtak.、ISkari:デリー西方164km地点にあるHisal1 寸ゴの北西約20km地点にあるAggalapura[又はAgrodaka、現代のAgroha)、Udumbara{ハ

31

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32 法華文化研究.第46号}

      6hiva G. Bajpaiによる通商路図)

キスタンのP,3thankot )を経てSakala tSialkot)でUttarapathaに合流するというルートであっ たという、囚みに、この第三ルートの支脈として、1$kari(Hisar )やSairiSaka(Haryana州の Sirsa)を経てPunjab地方のSibipura(Shorkot }に至り、そこからインダス川沿いの道を用い Kurram渓谷を通ってアフガニスタンのJelalabadに向かう道や、西にはKapiSaとKandahar

{アレクサンドラポリス)を結ぶ幹線道路に繋がる路もあったという.

 更に、マトウラーはRoruka{Sindhu−Sauvlra地方の首都でパキスタンのSukkur南方のRohri ] やインド・ギリシア時代のPatalene(インダス河口の都市、現、パキスタンのシンド地方)な        じいど 西インドの諸都市にも主に2つの主なルートによってアクセスがあったらしい、、マトウラー

からインドラプラスタを経て、Rohlraka〔現、 Rohtak }、Rang 1工ahai t Bikaner Jlヒ方のタール砂 漠地帯Suratgarh付近)、 Sutlej川とrndus川の合i斤ζする辺りのSui Viharを経て現代の西イン

ドSurar地方にあったBarygaza(又はBarbaricum、 Bharukaccha・現、 Bharuch )などの海港

(5)

廿力=クシャン時代のマト・Jラーにおけるマニバドラ信仰の社会背㌧そについて「高橋

都市に行くルートが一つ.次に、マトゥラーからカティヤワール半島先端のDwarkaなどの SauraStraの海港都市に向かうルートとして、現在のジャイブ∋レ北方約50klnの地点にある Bairata(古のViraτanagara )を経て、現在のラージャスターン州Ajilner北方に1立置するPush−

kar[占のPushkara  )を経てAravali山脈の西側の尾根沿いに進むルートもあったという.更 に、Pushkarからは、南に1 ladya. mika!現在のAjmerから190kln地点のRajasthan州Chitta−

rugarh }に向かう道もあり、そこから更にMalwa−Guj1・at地方の通商艮各ネットワークに繋が:〕、

Bharukaccha・又はBarygaza  ]などの重要な海港都市へと繋がっていたといわれる.

 マトゥラーから南には、インド・ギリシアのタキシラ王アンテでオコスに派遣されたギリシ ア人ヘリオドロスがヴィシュヌ信仰を表明した碑文が発見されたBesnagarや、ヴィシュヌ神 の浮き彫;)で有名なUdayagiri窟院が近くにあるVidiSaやSaici硯、 Bhopal郊外)に至る通 商路が特に利用されたようである VidiSaでは、 Kosambl lアラハバード・fJ『近のSahajatiを 経てIIadva Pradesh 」 i 1のSatna riiの南約15kmの地点にあるBharhuて遺跡を経由して西インド に向かう古のDakSinapad〕aルートと接続していた, VidiSaから西に向かい、 Ujjainl(現、Ujjain I を経て更に西へ進みBharukaccha{又はBalygaza、現Bharし1ch〕に至り、西インド0)アパラー        いリンタ地方やシンド地方に繋がるルートも利用されていたらしい・

 Uiiainlから南インドへのメインルートは、更に南下T一て1 ladhya Pradesh・1 「・I Kargone県 Maheshwar辺りとされるAvanti国の首都NlahiSnユatiを経てAurangabadから南に約60kmの Paithan l古のPrati§iana}に至った Paithanからは、 卜島南端部の至る所に繋がる道があっ たという.Ujjaimから西には、 Kalyana・現、ムンバイの北Kalyan)、Si−upiii aka:ムンバイ近 郊のThane地域のNala S(:)paraに相当)やCemUla等の海港都市や、南にはTagara( Paithan の南、(⊃smanabad地方σ)Ter辺;1.、 Andhra、 Kuntala i現代のナーグフルから南にハイデラ バードに至る幹線道の中間点Adhilabad付:近)、Vanavasl lタミルナドゥ州Salem県Metturか       ミ  ハら約20km地点付近1、PUnnata、 Tamilakamなどの都[iiに繋がるルートも存在したという.

4,マトゥラーとガンジス川流域地帯との交流

 ガンジス川流域地帯へのルートとしてはUttrapathaがあったが、マトウラーは、当初、この 幹線道路の一辺境都市に過ぎなかったらしい、元々はAhlccharra〔Uttarpradesh州Bareilly県 Ramnagar!寸近1、Saketa L Ayodhya・、 Sravastl・ブッダの時代のコーサラ国の首都舎衛城:

Balrampur近くのSahet Mahet)、Kuginagara〔Gorakpur近◇、釈尊が最後に鍛冶一l lチュンダ の供養を受けた地として知られるPav負、釈尊の時代のヴァッジ部族連合の中 L・地であったVaisah

(ハトナ北方約50knl地点)やMithila(ネパールのJanakpurから東インドのDharbanga辺り)

を通る 北の道」が主に利用されていたが、しかし、後代にはガンジス川沿いに1 lastinapura

(現代のMeerut北東ガンジス月1沿いの地域にあったという)やSankaSa l Agraの束FarrLikhabad

33

(6)

31 法華文化研究1第46号:

地方のFatehgarhの西に位置するSankissa Basantapura  )を経てKanyakubja t・Lucknow東方 にf立置するKanaLij)に至り、更にPrayaga(Allahabad辺り)へと進んでVaranasl{現、ベナ レス に至:1、そこからPataiiputra・現在のPatna)、Campa・釈尊時代のアンガ国の百都 現、ビハール州都のバトナから束130km地点のMungerの東のガンジス川南岸辺り)、Kajangaia

(現ジャ1レカンド州Sahibganji県Rajmahal地域)を経てガンジス河LIのTalnralipti l現、 Tam一        にン

Iuk〕に至るという「中央の道」が専ら用いられるようになったという

 この「中央の道」にハラレルに、マトゥラーからヤムナー川沿いに、Allahabadの手前約5(り km辺りに比定されるKauSaInblに向かい、 Prayaga(現、 Ailahabad)で「中央の道一に繋がる

「南の道」が利用されていた KauSamblでは、先に見たように、南インドへのDakSinapatha

(南道1が交;1、サータヴァーハナ王朝の首都であったPrati§;hana Paithan ]と結ばれていた  ヒマラヤ山麓沿いを通る「北の道」は釈尊の時代に特に利用され、「中央の道」ヒの様々な拠 点都市は、歴史時代の初めから頻繁に日的地とされ、マウルヤ朝以降も顕著なr∫:在であり続け、

「南の路」は、サカ=クシャン時代にマトゥラーが政治的にも経済的にも.屯要性が増すにつれ、

       トごニレ 1−31Hi紀に最も利用されるに至った通商路であったと考えられている

5、仏教碑文に見る仏教遺跡と他地域に住む人々との交流

 以ヒのように、釈尊の時代から発展したUttarapathaとDk$inapa, thaが延長され、他の交易 路と複雑に結びつきあいながら、全インドが陸路や海路を用いた全インドを網羅する通商路の

ネットワークによってカバーされる状況が存在したらしい.マトウラー、VidiSa、 Ujiai 、 KauSambl、 PratiS!h,i na、 Tamlaliptiなどの都市が中継ポイントとなり、それらから地域ごとの 支脈流通路が展開していたようである,.このような流通路を用いた「物」や「人」の流れを検 証する術として、通商路上に在った様々な仏教遺跡における他地域からの奉献者を調べること

によってその...・部が理解できると思う=

 静谷IE雄先生は1インドfム教碑銘目録1の中で、 Mathuraの1{川il・il kLl]には、西北インドの       しニハスワット地方に相当するUddivanaからの寄進者や、中央アジアのバダクシャーン・Va:d]

      にり

aksa 1 出身の寄進者や、 Kosam l現、 Allahabad )やDeoriya出il銘丈と同じ祈願丈を有する

      しごニゆ      ヒじレ      にル

「東方系の文字一で記された碑文、明らかにイラン系の寄進者やサカ族の信者の寄進例があるこ とを指摘している.

 マトウラーからの路とバールフットからの路の交差するVidi6a近くにあるSai/ clの仏塔で発 見された904碑工中にはMathuraとのつながりを直接的に示す明らかにマトゥラーで製作され       た赤色砂岩製の菩薩像や弥勒菩薩像の寄進例もあるが、この遺跡が主に地元のVidiSa近郊の奉くニい

. 1

献者らによって支えられていたことが奉げられた数多くの碑文からわかる

 興味深いのは、約1000キロも離れたマガダ地方(Kekaτeyaka)からの寄進者による寄進が2

(7)

サカ=クシ. ・ン時代のマトゥラーにお1ナるマニハドラ信f∫i:の社会背景についてr高1喬

パ ハ      コ

例、約60キロ離れたUjjainからの寄進者の寄進が62例、VidigaとUjjainの問辺りにあったAvanti 国のKuraraghar〔現、 Kurawar)に比定されるKoraghara, Kurghara, Kuraraと碑文中で呼ば       ドユれた.L地からの奉献者の寄進が60例以卜認められることである 更に、 Ujjainの近くの地名と       コされるNlorashihikata I Morajahik!a)からの寄進例が4例や、 Madya Pradesh州のGwali()r地        いけ

方のTonkに比定されるNandinagaraや、約700キロも離れたPshkat・a(Rajasrhan州Ajmer近

〔 ・.1

くのPushkar .,からの寄進例10例、更には、 UjjainからPratistanaに向かう幹線ヒでナルマダー       にンの川沿岸にあったとい孝)れるNlahlsmatl[現、 Nlaheshwar辺り)からの奉献者も10例あり、遠隔

地に住んでいた優婆塞・優婆夷がSRficlに詣でてU,塔を荘厳する欄楯などの石材を寄進してい たことがわかっている

 ガンジス川流域地帯とVidiSaを結ぶ交易路.ヒのBharhutからは209碑文が報告されている       こりここでは、「.南の路」上にあったKaugamblからの奉献者が1例、Uttarapathaの執着地Pata]ipu一

1 べ1

traからの奉献者が3例あり、また、直線距離で300キロ以上離れたVidisaからの奉献者の寄進

    いり

が5例認められる点も興味深い.

 西 インドの石窟群に関しては、Iunnar石窟で報告されている30碑文の内、千数百キロ離れた パンジャーブ地方と比定されるGata地方からの奉献者が2例あり、その内の1例〔:静谷[1録r一f:1

      エヨ  434)はギリシア人による寄進である.更に、Bharukacchaからの.奉献者が1例、約150キロ程       いコ離れたMunbai北西のKalvana l現、 Kalvan iからの奉献.者が1例、ムンバ川÷1方のCainula

       メ

1現、Chaul .]からの奉献者が2例存 在する、

 KarlI石窟寺院からは35碑文が報告されているが、約100キロ程離れたムンバイの北方にf、:・:置        りり

するSoparaからの寄進者の寄進例が2件、 MysorのVanavasiの古名Vejayalnati〔或いはByz−

      ド 

antion=X ijayadurga Jと考えられる地域からの奉献者のケースや、特に注目されるのがインド 亜大陸の東側クリシュナ川.下流でAmalavati近くとされるDhAnyaka?akaに比定されるDhe一        ユセト      じ ハ

1〕しlkakataから来た寄進者による寄進が17例認められることで、その内6例がギリシア人の名を 有している

Vsl

 Bedsaの石窟寺院からは3例の碑文が報告されているが、 Nasikの住人の奉献例が興味深く、

      リリ更にKanheri窟院の27碑文中、Kalyan 現、 Kalyan 1の住人の寄}匡が8例、Soparaの住人によ      

る寄進が1例認められる

 以ヒのように、マトウラーでは、遠く中央アジアやスワット、マガ ダ地方からのイラン系・

廿力系fム教徒の寄進が認められ、Saficl遺跡では、時代的にBC2〜BC1世紀頃の碑文が殆どと 思われるが、近くのVidiSaやUjlain、そのrP問辺りKurawarのみならず、 Madya PradeshW 1 1 のG aiiorやマトeラー、更にはや東のマガダ地方、ラージャスターン州のアジメール近くの Pushkaraや、UjjainからPaithanに行く途中にあったゴーダヴァリjll沿いの都MahiSmatl 現、

Maheshwar)など、数百キロから1千キロ以ヒも離れた遠隔地から訪れた寄進者が為した寄進

35

(8)

36 法華文化研究[第46号)

が記録されているのである、KaugamblからUjjainに向かう通商路上にあったBharhutでは、

KauSambiの信者らの他、東のパータリプトラやSariclの仏塔があったVidiSaからやってきた 仏教徒の寄進も伝えられている,西インドの石窟寺院群では、KalyanやBharukaccha、 Sopara など西インドの海港都市の富裕な仏教徒の寄進が目立つが、遠くパンジャーブ地方や、インド 亜大陸の東側のクリシュナ川下流域のAmaravatl近くのDhanyakatakaに居住していたと考え

られるギリシア人仏教徒の寄進など、インドの西海岸側から東海岸に向けての通商路の利用と 文物や人の流れを想像することができる寄進の事例が見て取れ、比丘・比丘尼、優婆塞・優婆 夷が遠く離れた寺院を信仰の対象とし、通商路のネットワークが寄進者や巡礼者の移動に頗る 利用されていた様を伺うことが出来る。

6.仏教碑文に見る遠隔地に住む商人層らの寄進例

 静谷正雄先生はSaficlに奉献された碑文の内、 Ujjainの住人である寄進者が62件であること        にコを指摘しているが、それらの中で比丘による寄進3件と比丘尼による寄進7件を除く碑文の内

15件が男性信者、32件が女性信者によるもので、それら在家信者の内、1静谷目録』1186番の碑 丈には「商人(vaneja)」であるIsidataという名前が記録されている、サーンチーの碑文はV、

塔の欄楯などに用いられた石材に刻まれていた関係で比較的短い簡潔な銘文が多いが、それら は比較的富裕な優婆塞や優婆夷による寄進であったとみられ、その中の一つに奉献者が「商人」

であることが述べられている.更に、VidiSaとUjjainの間辺りにあったとされるKoragharaか

〔r・L)

らの寄進銘4例には、「組合の頭領」Csethin)の存在が述べられ、Junnar石窟からの碑文では、

t一

 ︶

ムンバイ近くのKalyanaの「鍛冶工」(suvaロakara,による水槽の寄進や「会計係」[heranika)

        にりによる塔院の寄進例が存在する一Karll石窟では、マイソー戊レ地方のVanavasiから来た「組合        ほめの頭領」が石の堂を寄進し、Dhenukakata(クリシュナlll下流のDhanyakataka)から来た「香

      こでい       くマノ

商」c ghaipdhika  )が「石の入り口」を寄進し、「大工」t x−adhaki )の寄進者の存在も知られて

      

tt }

いる 更には、「商人の聚落」!vaniya−gama )が寄進者として挙げられてもいる、また、頂        にでり者」(gahapatDの親族の女性が寄進した碑文や、「医者」(veja)とその家族による寄進も存在

J>      (r._、

する、Bedsa窟院にも或る「組合の頭領(sethin)の息子」が寄進した例もあり、Kanheri石窟        ごココではKalyana在住の「組合員.(negama)である優婆塞が家族とともに寄進した例や、ムンバ

イ南方のCumula(現代のChaul)に住む「会計係」(heranika[の子供が水槽を寄進した例、

(1,

Soparaの「組合員」の優婆塞が水槽を寄進した例が認められる・

 以上のように、サカ・クシャン時代の通商路を利用して、遠隔地に住む優婆塞・優婆夷が寺 院に大規模・小規模様々な寄進を行っていたケースが報告されているが、それらの中には、「商 人」、「組合の頭領:や「長者」、「会計係」、「香商」、何らかの「組合の構成員」、「大工」や「鍛 冶工」などの商業従事者や手工業者らが存在したことが記録されており、当時の社会において

(9)

サカ=クシ ;tン時代のマト・trラーにおけるマニパドラ信仰の社会背景について「高橋1

商業活動に従事していた様々な種類の人々の存在が明らかにされている 比丘や比斤尼、富裕 な優婆塞、優婆夷による通商路を用いた寺院巡りが行われていたことが想像できる.以上見て きた仏塔や白窟寺院などへの奉献銘は、サカ=クシャン時代の高度に発展した通商路ネットワー クが商品等の「物」の流通のみならず、「人の移動」をも促していた様を伝えていると考えられ るが、それら数百キロから千キロ以上離れた遠隔地からの奉献者らは、自らの職種を述べてい ない人たちも、当時の商業活動の恩恵を得て富を獲得した社会の富裕者層に属するノ\々であっ たことが想像できる.

7.おわりに

 マトゥラーからVidiSaに向かう通商路沿いの地域からヤクシャの大将軍で富の守護者である とされたクベラや巨大なマニバドラの像が複数発見されている事実は、通商路を利川した流通 や経済活動、ノ、の移動との関係に照らし合わして考えるとその必然性が理解できると思われる  クベラは富と不死を授けるdevataであり、マニバドラは旅行者や貿易商が守護神として信仰 の対象としたdevataであったという パールカムやバローダ村で発見されたマニバドラ・ヤク シャが商人層に信仰されていたことを直接的に示す碑丈は発見されてはいないが、仏教遺跡参 1)に通商路を利用していた遠隔地に住む人々の移動を示す仏教碑文は多数存在する 更に、同 じくマトe・ラーからX idiSaに向かう通商路一ヒにあったと考えられるGwa]ior地ノ」のPawavaか らも台座を含めてL6m程の高さのマニバドラ像が発見されており、頭部と右手は欠損している が、パールカムのマニバドラと同じような太鼓腹をした特徴的な姿をし、左手には巾着を持ち 富を司る機能を示し、刻まれた碑文からもマニバドラの信仰が一部のバラモンらによって行わ       くいレれていた様を伝えている

 2m以ヒもあるような巨大なマニバドラ・ヤクシャ像の発見されたバローダ付やパールカム は、マトウラーからヴィディシャに至る主要通商路沿いにあったと考えられる.その路は更に UjjainやBharukaccaなど西インドの開港都市や、東に行けばバールフットやサハジャーティー

を通ってガンジス川流域地帯の都市らを結ぶ通商路と繋がっており、パールカムやバローダの マニバドラ像が通商路を利用した貿易商らに信仰され庇護された可能性が想像できるのである  特に、クシャン時代の通商の様∫・を述べる資料 エリュウトラー海案内証には、政治的な 環境変化のため、西方への中国の絹やその他の商品の交易に、BactriaからPushkaravarlを経 てマトゥラーに至る西北インドの幹線道路が主に用いられ、そこからUjjainを経てBarygaza らぐはBharukaccha・現、西インドSurat地方のBharuch  )へもたらされていたと述べられてい

   バい

るし、更には、中国産の絹織物と絹糸の束の貿易には、BactriaからUttarapathaを通りマトr ・       いココラー経由でBarygazaへゆくルートが用いられていたとも述べられている.

 マトゥラーからウッジャインに向かう通商路はクシャン時代にはシ1レクロード貿易の主要幹

37

(10)

3S 法華文化研究 第46);

線通商路であり、その通商路沿いに設けられた巨大なマニバドラ・ヤクシャ像を祀る祠は、当 時の活発な商業活動を支えた貿易商たちや旅行者らにとって道中の安全を祈願する祠堂として 機能していたのかもしれない.RaIn Nath MisraはSα〃1vlttta. t i!ech a c l.208]に、マガダ国に マニバドラの祠堂(caitva、制底)があり、Manimala(摩尼肱陀羅)と呼ばれていたことを指

      トハハ

摘している パールカムやバローダ村、そしてGwalior地方のPawaya〔Janshi付近}で発見 された1.6 ni  L 3 mの高さをしたマニバドラ像も、そういったManimalaに祀られ、通商路を行 き交う商人や旅行者、更にはパールカムで発見されたマニバドラ像に刻された碑文にあるよう に、マトウラー地域に在って「マニバドラを崇拝する集団〔Ma1〕ibhadrap〔1gya)」に属し、マ ニバドラを拠り所としていた人々に安心を与えていたヤクシャ像であったのかもしれない

11  JPh,Vogel.(. cit(i/rv.grlt( o.f t12(・.・レ(ヅ7〔・o!θgi( a!.1/ttseion at 1・/af!?itra. Indologica[Book王一louse. Delhi.1971.

12 コ+う=クシャン時代のマトウラーにおけるヤクシャ信仰に関する一考察・」印度學佛教睾研プ巳第5]巻第   1号、2002年12月

{3 J.Ph. Vogel.θ∫λビit,.PLC1.

〔4  H.Luders. NIathura Inseripti .)ns.§139 5 fbid..§140

・6  fbki..§1.11

c.7 」,Ph. Vog. el,θ∫).cit..p,92, C23

〔8  Ram Naih Misra,1セたsノπ/( u/t a〃〔/fc・θ〃ogra♪1 r.i・, Mullshiram Nlan()harlaL Delhi,1981, p.61.

9・ノ「bi(i..P.8u

「10 Loe.( ↓t, Artu]yaka Parva 33.1・10.1−5:J, A. B,van Buitenen. trans.&ed., Thc .1 /ah{ih/lc〃 atcl, The Unix・ersiry   of Chicago Press,1975, P.490.

〔111fl〃 (/..P.81

[12:L(二)c.cir,

1131∫ろ (∫.p.8U

{14 M.N. Dutt,.lfahctb/larclt(i. Vol.7、 Parimal Publications, Delhi、1994 reprint.p,433.

c. 15 ・,ヒ村勝彦、1原典訳マハーバーラゲ3巻、ちくま書房、2002年、174頁

(16 ・/Shiva G. Balpai.  ). fa th ir rc?:Trade Routes、 Commerce and Co[nmunication])と〕ttems、 fr〔}m Post−Maurvaiコ   Period[o the End〔}f Kuミai〕a Pel めd,.lfctthitra;th ・Cit!tt(ra!Hc・ritctge..Doris! leth Srini、 asan ed.一.Amer−

  ican Instituie of工ndian Studies. New Delhi.19δ9.

↓17・ ∫bid.. P.47

〔18.Loc.cit.

ll91 Loc,cii.

・2r)  Loc.ci[.

(2F因みに、 Tamralipti 現、 Tamluk.経由で、カリンガ地方のDantapura{・『説にはオリッサ州のPuri)、

  ケララ地方のT]・opina、マハラーシュトラ地方のPerumala或いはChaulを経てシンド地方のPatalaに至る   という泣にも繋がっていたという,Lee.cit...ガンジス川の河口から、海路を利用し半島の東西に散在した   海港都rl∫との交流も矢口られ、特に、アーンドラ地方で有名な都市や海港都1}∫としては、 Dhanvakataka、

(11)

35.

36

(37}

弓8 39.

40

41.

42.

43.

44!

U51

...生6.

47

.:48.

〔49:.

.50.

5].

152...

      サカ=クシャン時代のマトゥラーにおけるマニハドラ信仰の社会背景について 高僑

   Amala\arl、 Nagarjしmak〔)nda、 VijyayaPuri、 Tamilakaln、 Kollapattとma.s・文いはKaveripattillam.、そ _て    Madm aなどが挙げられている/1Lry( .c・/ t,.

・221Jasじ)n Neels. Earatv Blt〔∫(〃list Trr〃is川i.slsioJiω7げア, θ(/〆・.Yn t!{lt)γム、  BriU, Leiden・B〔.)ston,2011, 

p.19S.

.231 二青弁?}目f王.. 577  2.1  二青争?; 日∫最.: 585

25) . 青予ぞ}日茎ま. 622

・2(シ  ニ青ll?}目f三ξ.1 6()6.607,608

27} :青1}7i目儂ま_ 632,642.66・1 2s. .青]}7ミ目垂.≠: 1668,1669

291 :青;7,:目茅よ: 791.S58,877.934,949.985.1043.1072,1]04,1665.1125.2S,1259,1270.1579,1665 30:  ⊇青li 7}目皇X二 766.770

31. 7青}ぞミ目il5二 776♂)1/主参}照 :766,777,8]4,816,82@, S21,S22.823,824,825,826,827.828,829,830.831,832.

   833,835.S41,δ42.872,906,9]1,963.989,1{.)04,]Of)9, 1〔)10,1()11,]Ol2.1013,1〔.)14, ll}15,1016. 工ol7. 1〔)18.

   1019.1(〕55,ll13,ユ164.]177,1179.ll81、ll86,1188,]189.1191.1192.]]97,1201,1231.]262,1267.14〔・)3.14]3,

   1..115.1.ll9,1565,1620.1622,1627.

32.Koragha] a :80].967、972,1〔〕73.]{.}75,]{〕96.1162,1254,1264,1288      Kurghai a:836−7.1〔[29−31,1 (」 9. 5. ll46. ll98,125D、1336,1577,1607,1653、

     Ku1 ara :S60,893.869,90],943.952,966,]U32−6、1038−.U,1103. ll56. ll61.1374,1377,1578. 139・.1,1395,

   1396,1397,1398.1399、14工7,1.工29.1430,1−152.H53、1454,1.▲78,1503,1521,1562.1563,1582.160S,165{.}.1652,

   1654

33. 二苗:「ミ「1∫よこ: 869,1057.1496,]262  Nl(.)1 ajabhikata.

34.. 二青口γ}ll夕良L 779,780,909,929,931,932,973、987, lOO6, lO66.1067, IO6S lO69.1(.)70,1071,1076. llO6, Il.10、

   1142,ll66,ll67.ll69.ll71,123(.),]249、1261、1340,1353.1412.1−132,1・1313,147−1、1499.〕500,157S.1596.

       =  t            t1       −  e        「fiトr}日〕:.ij「.

:青垂谷日31]s・

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青茎7ミ目flI 二青華召こ目i ii:

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971.97.1. ]i.)83.6. 1461、 1−・1 、 14Sイ. 1666.

979.ll(.〕1.1]02,1105,1]57.1222,1232,1233,]23−;、]L)3,S

212 197,238.240 219,221,236,256.3{}・1 434,−ll37

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!58,469 496、497

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492.494.495.4gS.499,50()、5L)2−]2 495,!9,S、50(〕,5↓)3.5{)5,509

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463,47〔1,472.473.479.・IS{},・185,4S6 168

静谷IE!1佳 ..イ ン ドV、孝欠麟12名日Sま1 .寸《楽二5㍉彗コ[㌣「「」、 P.S9{f卑足1番}」・776Cつ;.じ参llrl

943、952,967,1254

39

(12)

40 法.華疋化研究1第46号 :.

c53 /『静谷目録:456

〔54  :青・}ZミLI垂弐: 458

(55  1 静?}目鍵ま二 489

ほ6 :静谷n録1492

〔5㍗ 二静谷目録:494

〔58  :⇒青争?}目鍵ま二 502

〔59

(60 c61.

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{63 64

〔65.

∫毒争ぞミ目鍵豪: 511

静谷目録:512 1 静谷目録:171

丁青1}?}[1垂景: 470,472,473,485

:静谷目録!469

.青}ぞミ且鍵呈二 16δ]ユlh王P

杉本卓洲一Yaks.aと.菩薩一Mathuraaの仏教をめぐって一」1金沢大学文学部論集 行動科学篇3、:pp81  一82、永田郁「インド占代初期におけるヤクシャの神像彫刻について」:名古屋大学博物館報告tl No,19,2003、

 Pp.59−60,)杉本先生はPawayaのマニバドラ像を紀元前1111:紀頃のものとし、台座碑文を次のように訳し  ている∵.Eにして主 :s\ ami.)なるSivanamdiの紀元fsanivarsara 第四fl三、夏分2月の12H、このi.iに、

 ギ)レド〔 goSrhi・なるNlanibhadraに誠信を捧げる人たち ・Nlanibhadra−bhakta1、胎児を得たことを喜べる  ノ、々 .garbhasukhitah )が、尊き c・bhavax・ato .j: lanibhadraの像i pratima )を設立した.ギ1レドに対し、

 尊き方・:bhagaval)は長寿(ayu!、弁舌(vac 1]、幸福〔kalyana)、繁栄(abhyudaya}を与えんことを  idSatu, バラモンなるGotama. Karalnara.バラモンなるRudradasa、 Sivatu ada} a :OSambhuti. Jiva.

 Khalhjabala、 Si、 anemi, Sivabhadra. Kulnaka. Dhanadevaの寄進cda.,一{杉本,θ膓).cit,. p,82.1

(661 ilfred H, Scoff, T!lイ・/ c・ii♪uhts qf thc Eア、・〃lr(tea;?Sea、 NIunshiram Nlanohar]al, New Delhi.197−1, p.42&

  pP.187・189.

{671 ノ「b〆ぱ.pp.268−271,

(. 68.Ram Nath Misra.θ♪,ビit,, p.81.:1南伝大蔵経1第12巻相応部有掲篇第十の四、摩尼蹟陀の項cpp.362−363 i  に、釈尊が摩掲陀國の摩尼出ξ陀羅迦制底の摩1.ピ蹟陀夜叉の住居に滞在していた時、摩尼肢陀夜叉がi{{:尊に詣  でて正念を確立した.ものには安楽を得て吉祥で怒りよi)解脱すると讃嘆するのに対し、世尊が正念を得たも  のは確かに安楽を得て吉祥であるが、怒りより解脱するのではなく、すべての生きとし生けるものを慈しむ  が故に、1.・かなる怒りもないのだ、と述べる話が収録され、マガダ国の摩尼趾陀迦制底が言及されている:

(13)

ll

Summary

AConsideration on the Social Background of the Cult of Manibhadra Yaksa in Mathura

      ■       ●

       during Saka−Kushan Period

Takahide TAKAHAsHI

Many Yak§a images have been reported from Mathura and its sLlr1・ounding regk)n.

Among rhem, what aτtracts us is E!huge Yak§a image, whose height being 2.6 nlerers、

found froin Parkhaln. Still more huge N Ianibhadra ilnage, whose height is estiinared about 3.6 meters、 has aiso been reported from the nearby Baroda village. It so happened that they had been found in the area along the ancient trade r(.)ute c(.)nnecting l工athura

and VidiSa and further to Ujjain and other trading centers of Saka−Kushan pe1 iod.

Besides. it is known that Manibhadra YakSa was the guardian 〔ノζT〃 ηof traders and travelers fエ・om the Epic literature. In this paper, we try to examine the nature of the cult

of)、lal)ibhadra、 by observing the condition of a1〕cient Indian trade routes, espec三ally in 1・elati⊂▲nてo the importance of NIathura as a regiolユal metropohce. VVe also rryてo examine the m⊂)bilitv of Buddhist lav devotees, who seeln to have utilized the network of trade routes in Ancient India. by examining Buddhist dedicatory inscril⊃tions not only in Nlathura but also in Saficr、 Bharhut, Julmar. Ksrlil and in Bedsa. Not⊂)nly monks an⊂l nuns、 but also Upasakas and Upasikas、 who gained wealth throLigh commercial activities,

living in far−away distant regions seeIn to have visited those Buddhist Sttlpas and Cave teinples t⊂)pay homages. The Ma口ibhadra images found ill Mathura may ha、 e provided safe cradles f()r those travellers yvh()しlsed the rrade routes.

参照

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