ディスカッション(特集2 多様化の進むモンゴル世 界)
雑誌名 東西南北
巻 2002
ページ 118‑125
発行年 2002‑03‑20
URL http://id.nii.ac.jp/1073/00003609/
司会後半の司会を務めます佐治です︒よろ
しくお願いします︒
最初に質問をお受けしていきますが︑どの
先生にということでご質問ください︒それか
ら︑差し支えなければ所属やお名前を先にお
っしゃってください︒
参会者内モンゴル自治区︑シリンゴル地区
出身のエルデニバートルと申します︒大正大
学大学院におります︒私はブレンサインさん
に二つの質問をしたいと思います︒実は質問
はたくさんありますが︑時間がないので︑気
になっている二つの質問をします︒
一つは︑ブレンサインさんが最後のまとめ
のところで︑漢人の入植に対するモンゴル人
側の対応には二つのパターンがあり︑その第
一のほうはチャハル︑ウランチャブ地域であ 特集2○多様化の進むモンゴル世界 ディスカッション
ると言われましたが︑内モンゴル地区の他の
地域︑例えばフルンポイル︑オルドス︑ある
いはアラシャン地域はどのパターンに入るの
でしょうか︒
もう一つは︑ブレンサインさんの報告を聞
きました私の感想ですが︑一つ大きなところ
が欠けているのではないでしょうか︒どうい
うことかと申しますと︑モンゴル人に対して
漢人あるいは入植者についてはよく論じられ
ましたが︑私はこのプロセスの中で清朝がす
ごく大事なところだと思っているのです︒モ
ンゴル人と満洲人の関係は︑もちろん他のと
ころで論じられるのかもしれませんが︑私は
満洲人は中国を支配したけれども最終的に自
分が漢化してしまい︑同時にモンゴル民族の
あくまでも一部を道連れにしたと見ておりま す︒そういった意味では︑ホルチン地方のモ ンゴル王公が北京に大きな豪邸を建てるとい うことは︑ブレンサインさんが先ほど︑清朝 時代にすごく発展したとおっしゃいましたが︑ 私としてはちょっと理解に苦しんでいるんで す︒これがはたして発展なのか︑と︒ ブレンサインフルンボイルやアラシャン といった地域はどのタイプに入るのかという 質問なんですが︑フルンボィルは八○年代に 開放地域として指定され︑そこのモンゴル人 集団社会は農地化にさらされました︒
農地化と言っても︑時代によって特色があ
ると思います︒例えば清朝時代の農地化は︑
王公とモンゴル人個人が漢人を招き入れたこ
ともあるし︑中華民国時代には︑軍閥によっ
て大量のモンゴルの土地の払い下げが行なわ
〃 8
−
れた︒中華人民共和国が成立した後は︑国の
いろいろな計画は内モンゴルのためになるも
のだという説得のもとに国営農場がつくられ
た︒
そういった意味では︑私のこのパターンと
いうのは︑あくまでも一九五○年代ぐらいま
でにつくり上げられた内モンゴルの状況をま
とめたものです︒ですから︑すべてをこの二
つのパターンに入れることはできないかもし
れません︒それ以上のパターンがあるかもし
れません︒例えばフルンポィルの場合は第三
のパターンとも言えるかもしれません︒
私は歴史を勉強していますが︑私の研究は
この一五○年の間に︑内モンゴル人は漢人社
会から押し寄せてくる波に対してどういう対
応をしたか︑それを立体的にまとめたもので
す︒アラシャンは︑農地化されるにはまった
くふさわしくない地域で︑フルンボィルと異
なるし︑漢人と一緒には暮らせない︑土地を
明け渡す︑あくまでも牧畜をやっていくとい
うパターンをとらざるをえないということで︑
もしかしたらウランチャブに近いかもしれま
せん︒
それから︑清朝時代に発展したという点に ついて︑私は﹁発展﹂という言葉は使ってい なかったという記憶があります︒私の研究の 中では︑清朝の皇帝とモンゴル王公の特殊な 関係が東モンゴルの社会平和に大きく影響し た︑と考えていますが︑王公が北京で豪邸を 櫛えることが発展だとは考えていません︒そ ういう用語を使ったのであれば︑それは私の 日本語の問題で︑私の本意とするところでは ありません︒
なぜ彼らは北京で豪邸を構えたかというと︑
北京の皇室と親戚関係にありました︒北京に
毎年頻繁に人が行きまして︑王公の娘が皇帝
の妃だったりすることが多かった︒それで北
京で非常に高い地位を持っていたので︑北京
で豪邸を構えました︒でも︑それが発展かと
いうと︑そうではありません︒
次に︑満洲人が自分たちが漢化されて一部
のモンゴル人を道連れにした︑という発言で
すが︑ホルチン部族と満洲人との特殊な関係
に道連れという言葉をお使いになるのは︑私
としてはよくわかりません︒
満洲人は︑モンゴル人をあくまでも別の民
族と見てきたわけです︒中国の近代的な軍事
組織がつくられたのは大体一九世紀の末頃の ことですが︑そのころから清朝にとってモン ゴル遊牧軍団は戦略的な役割︑軍事的な意味 を失って︑今度はモンゴルの土地を開放して 税を取るというふうに扱ってきた︒
ですから︑満洲人とは別の道を歩んだので
はないかと思います︒支配者としての満洲人
とどういう関係にあったかは︑また考えなけ
ればいけないことだろうと思いますが︒
司会時間が限られていますので︑なるべく
質問をまとめて︑一緒に答えられるものは一
緒に答えていただきたいと思います︒
参会者ゲレルトと申します︒ボルド−さん
に質問します︒私はこの話を二回聞いていま
すが︑ブフ文化の象徴的体系という図の真ん
中あたりに︑儀礼的空間構造というのが書い
てあります︒その中で生命力の強化というこ
とを言っていますが︑この生命力というのは︑
シャーマニズムに基づくものなのか︒シャー
マニズムに基づくものであるならば︑シャー
マニズムにおける生命力とは何を意味するの
か︒次に︑ノトックの神の化身と言っていま
すね︒このノトックの神というのは︑具体的
にはどういうものなのか︒第三は︑オボをど
う考えているのか︒オポからノトックの神に
〃 9 − −
なっていると︑そのように考えられるのか︒
そして第四は︑﹁ブフ﹂という言葉をどうい
うふうに考えているのか︑お聞きしたいと思
います︒ もう一つは︑1先生にお聞きしたいんです
が︑ユ先生は﹁モンゴル民族﹂ということば
を使っていないんですが︑1先生は﹁モンゴ
ル民族﹂がいつごろ成立したと考えていらっ
しゃるのでしょうか︒
司会それでは︑ボルド−さんのほうからお
願いします︒
パー・ボルドー難しい質問ばかりですが︑
まず共同体の生命力の強化というのはどのよ
うな意味で使っているかということですね︒
もちろん私はシャーマニズムとの関連で使っ
ていますが︑特に生命力というのは︑ジャン
ガーの授与およびダルハラホ儀礼︑つまり引
退の儀式などとの関連から考察したわけです︒
ジャンガーは力士が首につけているもので
すが︑ジャンガーがどのように与えられるか
というと︑今では業績を上げれば︑行政機関
から業績をたたえられて直接授与される場合
がありますし︑もう一つは︑すでにジャンガ
ーを持っていた有名な力士が引退するときに ジャンガーを若い力士に手渡すという︑二つ のパターンがあると思います︒
最近はジャンガーは既製品を授与していま
すが︑そのもともとの由来は︑先ほど申しま
したオボ祭りなどの小規模なブフ大会で優勝
したり上位に入ったりすると︑大体指ぐらい
の幅のある絹の切れを渡すんです︒そして六
四名以上のブフ大会で優勝したら︑三角の︑
もうちょっと大きい切れを渡す︒この三角の
ホシォ1
切れを小ジャンガーと言います︒小ジャンガ
ゴル
ーを三回もらった力士が︑絹を結んだ本ジャ
ンガーというのをもらうんです︒本ジャンガ
ーをもらって︑力士は初めてそのジャンガー
をつける︒そのときに︑それまでの業績でも
らった細い絹の切れや三角ジャンガーを全部
それにつけるんです︒それがジャンガーです︒
なぜジャンガーを授与するかというと︑オ
ボ祭りは本来シャーマニズム的要素を持って
いるんですけれども︑広い意味ではテンゲル︑
つまり天神を祭ったりすると言われています︒ ノトアク より狭い意味では︑小規模な遊牧共同体が一
つのオボを所有していまして︑それを祭るわ
けです︒そのときにこれは土地の神様︑その
遊牧地域の神様だと︑非常に具体的な意味で 認識しているわけです︒
雨乞いの祭りという解釈もされていますが︑
私の理解では︑オポ祭りはその共同体の一つ
の宗教儀礼であると思います︒ですから︑オ
ボ祭りをするときに土地の神様にヤギや羊や
馬などをいけにえにするわけです︒殺さずに
そのままささげる︒そのとき︑ヤギなら首に︑
馬ならたてがみに五色の絹切れをつけるわけ
です︒その絹切れはセテルと呼ばれ︑セテル
をつけた家畜は神聖な家畜として︑その後な
ぐったり殺したり売ったりすることは許され
ず︑つまり神のものとして野生化されます︒
それが死んだときには︑同じ色の家畜と取り
かえます︒あるいはそれが年を取ってきたら︑
同じ色の家畜を並べておいて︑セテルを取り
かえる︒それらの儀礼はセテルレホと呼ばれ
ます︒
前回の発表のときにもゲレルトさんはそう
いう質問をされて︑セテルレホというのはそ
もそもチベット語から来ているとおっしゃい
ましたが︑W・サインチョクトさんもチベッ
ト語から来ていると言っています︒一言で言
えばセテルレホには神霊化とか︑寿命を延ば
すとか︑あるいは生命を吹き込むとか︑そう
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−
いう意味が含まれているわけです︒
もう一つ︑シャーマニズムの儀礼で︑オン
ゴラホというのがあります︒オンゴラホは︑
祖霊を意味するオンゴンを動詞化したもので
すけれども︑その本来の意味が若干変わった
ものではないかと思います︒
ですからオンゴラホ︑セテルレホ︑ダルハ
ラホなどは︑いわゆる聖別するという意味で︑
地域によってその意味が微妙に違うこともあ
りますが︑全体としては聖別するという意味
があります︒力士のジャンガーも最初は︑オ
ボ祭りのセテルのように聖別との関連から来
ている︒力士が聖別されることによって︑土
地の神様の化身として見られるということ︑
これは江上さんの研究でも言われていること
ですが︑そういうことで共同体のシンボルで
ある力士にジャンガーをやって︑その共同体
の生命力を強めていく︑ということになると
考えられます︒
もう一つ重要なのは︑オポ祭りで他の共同
体の力士に優勝されると︑その共同体は弱ま
るというので︑その力士を共同体の境界あた
うず
りで殺して︑その力士をオボの下の埋め物と
して埋めるんです︒万が一それが成功しなか ったときには︑その力士がいる土地の象徴的 なものを盗むとか︑そういうことがあります︒ ですから︑これは明らかに共同体の生命力の 強化・再生儀礼です︒
オポ祭りのことはその関連で申し上げたの
ですが︑ブフというものをどのように思って
いるか︒ブフの語源は︑私はあまり考察した
こともないし︑言語学的にどう解釈するのか
わかりませんが︑今では少なくともモンゴル
相模の競技そのものと力士という︑両方の意
味を持っています︒特に日常生活の中ではブ
フというのは力士を指す場合が非常に多いの
ですが︑モンゴル人は︑どの場合が相撲でど
の場合が力士かということをその場その場で
うまく使い分けられるわけです︒
そして︑これは偶然かもしれませんが︑モ
ンゴル語でシャーマンを表す言葉は︑﹁ブフ﹂
と書いて﹁ブー﹂と言います︒モンゴル文字
では読み方は違っていますが︑書き方は全く
同じです︒それがどのような関連を持ってい
るかは︑私はまだ考察していません︒静岡大
学のヤンハイイン先生のお話によると︑オル
ドスあたりでは力士のことを﹁ブー﹂と言っ
たりするということなので︑たぶんこの二つ も何かの関連があるのだろうと思います︒ ユヒョヂョン大変難しい問題を提起さ れたと思います︒
モンゴル人の形成について一般的にいわれ
ているのは︑一三世紀にチンギス・ハーンが
登場しまして︑それまでモンゴル高原にいた
さまざまな遊牧集団を一つにまとめた結果と
して︑モンゴル人が生まれたということです︒
ただ︑私から見てこの説明には少し無理があ
るように思われます︒この際︑私が問題にし
ているのは︑そうやって出来上がったとされ
る﹁モンゴル人﹂がすぐに各地に出かけてい
きはじめ︑中には高原に戻れずに散らばった
まま今日に至っている人びとが多いという事
実です︒つまり︑モンゴル高原にいたさまざ
まな遊牧集団がチンギス・ハーンの登場を契
機に一つの大きな集団として新たに形成され
たという説明そのものは︑それとして説得力
をもっているのですが︑そうやって出来上が
ったものがはたして﹁民族﹂なのかというこ
とが問題なのです︒
民族の形成をめぐってはさまざまなことが
いわれているですが︑どの説明にしろ︑﹁民
族﹂というものは︑どこかの会社の株主総会
I 2 I ‑
や和光大学同窓会みたいに︑短時間で簡単に
出来上がるものではない︒とすると︑チンギ
ス・ハーンによってまとめられて出来上がっ
たといわれるものは︑﹁民族﹂そのものでは
なく︑いずれそれにたどりつくかも知れない
というぐらいのものだったと考えるべきでは
ないか︒
それにしても︑出かけたところでそのまま
散らばっていた人びとが今日に至るまでずっ
と自分は﹁モンゴル人﹂だという意識を保っ
てきたというのは︑やはり簡単なことではな
い︒
ここで一つ思い出したいのは︑いわゆる
﹁自称モンゴル化﹂というものです︒つまり
自らをモンゴル人だと思いたい気持ち︑その
ための努力やふるまいということですが︑モ
ンゴル高原以外の地に散らばった人びとのな
かには︑こうした﹁自称モンゴル化﹂の過程
が長い間続いてきたといえるのではないでし
ょうか︒そしてこの過程こそ︑彼らが﹁モン
ゴル人﹂として形成される過程そのものだっ
たといえるのではないでしょうか︒もとより︑
このプロセスにおいては﹁モンゴル化﹂とは
逆の方向への歩み︑つまり他の民族への合流 や︑あるいは個別の民族としての歩みも同時 にあったはずです︒とすると︑チンギス・ハ ーンによって﹁モンゴル人﹂の形成に向けて の端緒がつけられて以降今日に至るまでの歴 史は︑﹁モンゴル人﹂の形成過程であると同時 に︑その解消︑そこからの離脱をも含んだ過 程でもあったといえるのではないでしょうか︒ こうした意味から︑私は︑モンゴル人はチン ギス・ハーン以来形成されつつある︑と同時 に消滅しつつもあるといえると思います︒
以上が︑ゲレルトさんのご質問に対する取
りあえずの答えですが︑ここに少し補足をす
るために﹁飛び地の捨て子﹂の状況について
もう少し触れたいと思います︒先ほどもお話
したように︑いま話題になっているアフガニ
スタンにもハザール人とモゴール人という名
の﹁モンゴル系﹂の民族集団がいます︒ハザ
ールは︑いわゆる﹁北部同盟﹂側についてい
るというか︑その中に入っていると伝えられ
ています︒これに対してモゴールは︑﹁北部
同盟﹂とは敵対しているタリバンの中核をな
すパシュトゥーンの居住地域にいます︒もと
より︑モゴール人の存在が最後に確認された
のは一九五○年代であり︑いまもかれらがモ ゴールとして存続しているかどうかは分かり ません︒
この二つの民族集団は︑いずれもモンゴル
帝国時代の屯田兵の末商であったとされてい
ますが︑モンゴル草原の出でないことは明ら
かです︒こうした例は他にもありまして︑現
在︑五五あるとされる中国の﹁少数民族﹂の
なかでそれぞれ個別の民族として認定されて
いる東郷︵トンシャン︶︑土︵トゥ︶︑保安
︵バオァンⅡボウナン︶︑裕固︵ユーグ︶︑達
斡關︵ダウール︶などの諸民族は︑モンゴル
語系の民族として一括されることもあります
が︑言葉以外の面でも︑チンギス・ハーンま
たはモンゴル帝国と深い関係をもっている場
合もあります︒東郷族は元代の色目人軍隊の
末商とされていますし︑土族の自称の︵チャ
ガン︶モングォルは︑白いモンゴルという意
味で︑これは高原のモンゴル人をハラ︵黒い︶
モンゴルと呼ぶことに対する対概念として生
まれたといわれます︒しかしかれら土族の祖
先はモンゴル軍団内の外人部隊とされていて︑
これも高原のモンゴル人︑つまりチンギス・
ハーンによってモンゴル高原でまとめられた
人びとの末商ではないのです︒この人びとの
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中にも﹁自称モンゴル化﹂は行なわれていた
と思われますが︑しかしそれが例えば雲南の
モンゴル人などに比べてかなり低いものであ
ったからこそ︑それぞれ個別の民族としての
﹁識別﹂につながったと見るべきでしょう︒
中国の﹁識別工作﹂が︑どの民族の場合にお
いても客観的な事実や状況に応じていつも綴
密に行なわれたとは必ずしもいえないという
ことは私も承知していますが︑しかしだから
といって丸っきりデタラメなものであったと
はとうていいえず︑やはりそれなりに真面目
な作業の結果であると見るべきだと思います︒
もっとも﹁識別工作﹂が︑その意図が何であ
れ︑結果で近隣関係にある小さい諸民族を︑
かなり距離のある他の諸民族と同じく扱い︑
それぞれ別々のものとして認定したために︑
近隣関係にある諸民族同士が連合して生きる
道をかなり困難にしたことは否めませんが︒
以上のような理由で︑私は︑モンゴル国や
日本のモンゴル研究者のほとんどが︑今紹介
した﹁モンゴル語系﹂の諸民族をも一括して
﹁モンゴル人﹂としてみなし︑その個別具体
的な状況をあまり重視しないことに対しては
感心しません︒そう考えることに積極的な意 義はあまりないと考えるのです︒繰り返しに なりますが︑その関係性に着目しつつも︑あ くまでもそれを固定的に考えるのではなく︑ 可変的なものとして捉え︑その変化︑変容そ のものをより綿密に見ていくことこそ︑モン ゴルを見る上でも︑そしてそれを通して民族 や民族生活一般を見ていく上でも大切だと思 います︒ 司会それでは︑最後の質問にいたします︒ どうぞ︒ 参会者総合研究大学院大学の西村と申しま す︒とても興味深いお話をどうもありがとう ございました︒
ボルド−さんにちょっとお伺いしたいんで
すけれども︑これは全く個人的な興味から出
てきたもので︑あまり本質的な問題ではない
のかもしれませんが︑話の中で強豪力士の屍
盗みという話がありました︒それで︑ふと思
いついたのは︑﹁モンゴル秘史﹂の中でシャ
ーマンのデブ・テンゲルがございますね︒そ
の後︑力士の死体がなくなります︒あの事件
そのものを︑例えば東京外大の蓮見先生など
は聖俗革命の一つであるととらえられて︑僕
らもそう習ったんですが︑その考え方をしま すと︑とても強い力士が亡くなる︑もしくは シャーマン系の人間が亡くなるということは︑ 当時とすれば本来的な罪であったはずなわけ ですね︒ところが︑その罪を隠すために屍隠 しをした︒そしてさらにそれに何らかの意味 づけをして︑先ほどのお話にあったような︑ 強い力士が亡くなったときにああするこうす るという話が全モンゴル的に広がっていると いうお話でしたので︑そちらとの関係性は考 えられるかどうか︒それが一点です︒
もう一つは︑非常に瓊末な問題なんですけ
れども︑力士の入場のときに鷹の舞い︑獅子
の跳躍︑ラクダの小走りというのがあったと
思うんですが︑ラクダの小走りというのが僕
は理解できないんです︒なぜかといいますと︑
ラクダはすごく檸猛ですね︒僕ら外国人が見
ていると檸猛さを象徴するシーンとしては︑
発情期に入るとすごい勢いでもって首で押さ
え合いしますね︒そんなシーンしか思い浮か
ばないんですが︑モンゴル人にとってラクダ
の強さというものを象徴するときに︑小走り
というものがどういうものであるのか︑ちょ
っと興味があります︒
もう一点︑モンゴルデールがありますね︒
I2フーーーー
普通ですとモンゴル人はデールを着てブフを
やります︒あれは帯がついていますね︒今︑
草原の人たちが相撲をやろうといったときに
は︑デールはぬぎませんね︒大抵はすそを巻
き上げて︑帯で巻き直して相撲を取るわけで
す︒みんながみんな相撲の衣装を着るわけで
はないわけです︒持ってもいないわけですか
戸h−O
そうなると︑相撲の衣装はいつどういう形
でああいう形になる必然性が出てきたのか︒
もしかすると︑最初におっしゃったように︑
帯をただ腰に巻くだけの形が最も古いもので
はなかったかということでしたが︑そういう
関係があるのではないかと思ったんです︒
ブフの衣装というものは何なんだろうか︒
これは余談ですが︑僕が別の方から聞いた話
では︑シャーマンの衣装と非常に関係がある
と︒さっきボルド−さんもおっしゃいました
が︑シャーマンとブフ︑オポとブフ︑この二
つが同一であったという可能性は捨てられな
いという話がありましたが︑シャーマンの衣
装とブフの衣装との関連性について︑何か考
えられることがあるのか︒その点についてお
聞きしたいと思います︒ バー・ボルドIまず第一のご質問ですけ れども︑力士の屍盗みと﹁モンゴル秘史﹂の 中に出てくるシャーマンの遺体失院というか︑ いなくなったということが関係性を持つかど うかはっきり分かりません︒
﹁秘史﹂にはブフに関する記載が数カ所あ
ります︒最初のは︑チンギス・ハーンがある
日︑異母弟のベルグティとジュルキン部族の
国の相撲取りだったブリ・ボコという力士と
でブフを取らせ︑ブリ・ボコを殺すという記
載です︒その後に︑ジュルキン族はすっかり
チンギス・ハーンに服属してしまうわけです︒
二回目に出てくるのは︑シャーマンを殺す
くだりです︒そのシャーマンというのは︑当
時の非常に大きなシャーマンの一人で︑国の
中に多くの勢力を作ってチンギス・ハーンの
権力を脅かすまでになっていました︒﹁今度
はチンギス・ハーンの弟のハスルが大ハーン
になるだろう﹂と予言をしたりしていました︒
またハーンの末弟であるオッチギンの領民が
そのシャーマンを信仰し︑彼のところへ行っ
てしまいます︒領民を取り戻しに行ったオッ
チギンは逆にシャーマンに辱められてしまい
ます︒それを泣きながらハーンに訴えると︑ ハーンはシャーマンの殺害を指示します︒そ してシャーマンがハーンのところへ来た際に︑ オッチギンは三人の力士を伏せておき︑﹁じ ゃあ︑力を試そうではないか﹂と言って︑シ ャーマンを外へ引っ張り出して︑力士に殺さ せてしまいます︒
これは先ほどのブリ・ボコを殺すのとまっ
たく同じ手口です︒なぜ殺すことが可能かと
言いますと︑一三世紀のブフというのはボホ
ノーロルドンのスタイルでして︑レスリング
のように両肩を地面につけて勝負をつけるこ
とになっていましたので︑その過程で殺傷が
かなり一般的だったと考えられます︒
シャーマンを殺した後にオッチギンは﹁こ
のシャーマンは情けない︑ブフを取ろうとし
ているのに取らないで寝ている﹂と言ったん
ですね︒しかし︑それは天下のシャーマンで
すから︑殺したからには何か別の手段を取ら
ないと大変なことになります︒ですから︑シ
ャーマンの死体をゲルの中に入れておきます
が︑その三日後にゲルの天窓から死体が失践
します︒チンギス・ハーンは︑そのシャーマ
ンがテンゲルに愛されなかったので天罰が下
ったと結論付けます︒それは蓮見先生がおっ
I24
−