革命ロシアにおけるネップ体制の成立過程に関する 研究
著者 梶川 伸一
著者別表示 Kajikawa Shinichi
雑誌名 平成14(2002)年度 科学研究費補助金 基盤研究(C) 研究成果報告書
巻 2000‑2002
ページ 61p.
発行年 2003‑05
URL http://doi.org/10.24517/00049291
Creative Commons : 表示 ‑ 非営利 ‑ 改変禁止
http://creativecommons.org/licenses/by‑nc‑nd/3.0/deed.ja
革命ロシアにおけるネップ体制の成立過程に関する研究
課題番号12610385
平成12‑14年度科学研究費補助金(基盤(C)2)研究成果報告書
金沢大学附属図書館
│ 側 剛 l l l l l l l l l l
Oろ00−02140−2
梶 川 伸 一
平成15年5月
金 沢 大 学 文 学 部 教 授
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凡例
人名には力点が打たれているが、既に流布している人名についてはこの限りではない。
電文などの原文で、句読点が省略されている場合があるが、それらは断りなしに補われている。
県名は原則として、県都に一致する(ヴェリキイーウスチュグを県都とするセヴエロFヴイナ県 を除く)。
この時期には行政区域の変更力瀕繁に生じたが、その当時の行政区域で表示される。
[]内は筆者により補われたことを示す。
本書では、次の公文書館(アルヒーフ)資料が利用されている。
PoccmicIcmimq/江aPcIBeHHmiapxIIBco皿aJ正HOnOJmTmmC皿蝕HCI叩皿.(社会政治史ロシア
国家アルヒーフ。本文ではPI1ACⅡⅢと略記)
IbWmPcIBeHHL歯apxmPoccmm如孟①Wpamm.(ロシア連邦国家アルヒーフ。本文では
I1AP①と略記)
Po"H盆CIUIZIDWZapClBeH睡血aPxHB3"HmHIIQI.(経済ロシア国家アルヒーフ。本文では
PI1ASと略記)
I L m p a J L H L 血 a p x z B " e W a J I L H o i i c 叩 狂 f B B I 6 e 3 o I T a c H o c m I P o c c I m I m 盆 の e m p a m m 、 ( ロ シ ア 連邦保安局中央アルヒーフ。本文ではnACBと略記)
研究組織
梶 川 伸 一 金 沢 大 学 文 学 部 教 授
費 経 接0000 間
直接経費
1,000(単位:千円)
900 500
2,400 交付決定額
平成12年度 平成13年度 平成14年度
総計
研究発表
出版物梶川伸一「ロシア革命の再検討」、社会経済史学会編『社会経済史学の課題と展
望』、有斐閣、2002年8月、491‑501ページ。
は じ め に
1921年のソヴェトーロシアで現出したのは、農業であれ工業であれ経済システムの完全 な疲弊と荒廃であった。農民の気分は、戦時共産主義の開始とともに実施された割当徴発 の徴収の際の食糧活動家の合法的並びに非合法的行為によって完全に打ちのめされるか、
憎悪に脹れあがっていた。この時期に、ソヴェト権力の崩壊に関する様々な風聞が、特に 農村で流布していたのは偶然ではない。サマラ県では、「都会では子供たちは鼻疽のため に大勢が死んでいるとの風聞が広まった。この風聞が否定された後、ソヴェト権力は国内 の 経 済 を 打 ち 立 て る の に 無 力 で あ る こ と を 悟 り 、 そ の た め に 国 全 部 を ア メ リ カ に 譲 渡 し た との風聞が流れた。農村では、モスクワに100万のアメリカ兵が到着し、さらのすべての 工 場 で は 既 に ア メ リ カ 人 労 働 者 が 働 き 、 ア メ リ カ 軍 が 工 場 を 防 衛 し て い る と 畷 か れ て い る 」 。 県 チ ェ ー ・ カ ー は 、 同 県 ブ グ ル ス ラ ン 郡 で ト ロ ツ キ ー が 国 外 に 亡 命 し た と か 、 農 民 蜂起のためにコムニストはブグルスラン市を見捨てたなどの扇情的風聞を確認した。これ ら風聞が民衆の潜在的願望の表出とするなら、これらが意味するのは明らかである。*1
それと同時に、ロシア全土でボリシェヴィキ党組織も完全に崩壊していた。その理由は 党員の前線などへの動員だけではなかった。「党内の雰囲気を評価するなら、一方では、
組織からの同志の脱党と、もう一方では、新たなメンバーの加入を指摘することができる。
脱党の基本的理由は、組織がこれら同志に充分な政治教育を施すことができず、彼らは党 の理念に酒養されることなく、机上でのみ党員として存在していたということであり、そ のため、彼らにとって党の規律は重苦しく、自分の利益のために党内に留まっていた」と、
タムボフ県モルシャンスクから21年春の党内状況が報じられたように、自発的脱党が急速 に広まり、特に農村での活動は殆ど不可能であった。*2こうして、地方の党組織は活動家 の慢性的不足に悩まされ、そのための党活動家の配置転換と異動は日常的現象となり、地 方での党活動の命運はロシア共産党中央委組織局による人事異動に全面的に支配されるよ
うになった。
21年の政策転換を考察する際に、従来の見解では同年3月に開催された第10回ロシア 共産党大会の決定を過大評価しすぎていたように思える(以下断りがなければ、党とはロ シア共産党を指す)。20年末からの「党内の危機」と評価される労働組合論争など、地方 紙では殆どまったく取り上げられなかった。21年夏以後に広汎に展開される、党の「粛正」
の問題は、党大会での分派闘争の禁止決議や党の統一との関連で解釈されてきたが、それ はこの時期の党組織の疲弊と崩壊現象という現実を無視することになる。これは「粛正」
ではなく、不適切なコムニストの党からの文字通り「浄化可HCTKa」である。*3
21年1月初めに出されたサマラ郡食糧会議プリカース[命令書]1号は、党活動家の弛 緩により割当徴発が滞っている現実に危機感を募らせた。「1月15日は、全ての食糧組織 が革命的プリカースの手続きで、それらに課せられている穀物とその他の割当徴発の完遂 が義務づけられている期限である。それでも、県食糧会議の一連の絶対的要求とプリカー スにもかかわらず、サマラ郡の食糧地区での調達や活動での集中力と緊張状態は絶対的に 低下している。[・・・]食糧、党、ソヴエト活動家は彼らに課せられている任務を忘れ
−1−
始めていることが認められる。サマラ郡食糧会議は、食糧カムパニアのもっとも速やかな 終了と播種カムパニアの組織化に向けて適時な措置を執る必要があるとの目的で、同じく、
1月15日までに全割当徴発を100%遂行せよとの人民委員会議議長レーニンと県食糧会議 の絶対的命令に鑑み」、「郡のすべての党・ソヴェト機関に活を入れ」るなどして割当徴 発を100%遂行するよう命じた。それでも、郡播種委員会を督促する目的で播種カムパニ アに郡党委員会は205人に動員を命じたが、157人だけがそれに応じ、郡農業部と播種委 の機関の定員の僅か30%だけが充足された、と3月に郡農業部部長は報告したように、農 村での党・ソヴェト活動は崩壊していた。*4
このような、戦時共産主義期末から特に深刻になるロシア国内の全般的な危機的現実を 抜きにして、21年の政策転換を検証することはできない。これが、現物税体制の成立過程 を考察するの際の前提である。
ネップ(新経済政策)への移行に関する一連の研究書の中で、1960年代後半に出版さ れた、p。A。ポリャコーフの『ソヴェト農民経営』と3。B。ゲーンキナの『レーニン の国家活動』は、依然として無視できないだけの価値を持っている。*5双方ともに、当然 のことながら、ヴォルガ諸県を襲った飢饅について、現物税の徴収に関連づけて飢餓住民 のための国家的支援を中心に触れている。当然にも、そこでは飢饅の原因は、旱越である。
要するに、従来の穀物生産地帯の飢饅にもかかわらず、成功裡にネップヘの移行を達成し たというのが、これら考察の基調である。*6
だが、アルヒーフ(公文書館)資料、特に国家保安部の、は、この時期にヴォルガ地方 だけでなく、西部と中央農業諸県の一部をごく僅かな例外として、ロシアの殆ど全土が飢 餓に陥ったことを示している。したがって、飢饅は、ネップヘの移行に際しての副次的付 随的現象ではなく、そこでの本質的要因と考えるのが合理的であろう。つまり、飢饅にも かかわらずネッブヘの移行が達成されたのではなく、飢饅であったからこそ21年の政策転 換が生じたのである。
しかし、問題がより深刻なのは、全ロシア的規模の飢鐘にもかかわらず、レーニンを含 めて当時のボリシェヴィキ指導部はこれを深刻な問題として受け止めていなかった事実で ある(この実情を充分知悉していたにもかかわらず)。その大きな理由の一つは、彼らが 依然として共産主義的「幻想」に囚われていたことである。この「幻想」が崩れ去ったと
き、ようやく新しい路線に転換する道が開かれることになった。
ソヴェト史の再評価を求めて、鐸々たる研究者の論文集として公刊された大部の著書の 中で、CoB。ヤーロフは、「ネップヘの移行を促した主因に関して、歴史家に合意はな い」とこの問題解決の困難さに触れ、「ゾヴェト文献では、内戦の終了で権力と農民との 関係を再検討する必要性から、ネップの導入は予定されていたとするのが、多数意見であ る。この過程は必然的で、21年の経済。政治危機はそれを促進したに過ぎない。他方で、
多くの西欧研究者は、21年危機を戦時共産主義を再検討するための基本的理由と見なして いる。クロンシュタット叛乱と結びつけるのもいる」と、従来の学説を紹介するだけで、
自説の主張を慎重に回避している。*7本書では、いかなる環境で現物税体制が成立したか を叙述することで、従来の学説を再検討しよう。
まず、十月革命後から飢餓はいっそう深化した事実を指摘しなければならない。
−2‐
1)飢餓は続く
1917年2月23日のペトログラーFでのパンよこせデモで始まった二月革命は、さらに 深刻な飢餓の最中に十月革命へと転化した。元々飢餓状態にあったペトログラード、次い で、18年3月以後モスクワを拠点とするボリシェヴィキ政府は、政権樹立と同時に直面し たのが、都市労働者への食糧の確保であった。個々のまたは組織労働者の担ぎ屋行為を統 制し、組織することから始まった国家的食糧調達活動は、農民の貯蔵から穀物を汲み出す 段階になって、次第に農民だけでなく地方権力と対立するようになった。
十月への過程で、既に地方農村での革命は都市革命に先行し、郷や村から県までを単位 とした自立的権力が生まれていた。これら地方権力の多くも一様に穀物不足に悩まされ、
それらは地域内の食糧を確保するために、おもに中央の工業地区から派遣される労働者部 隊による穀物徴発に激しく抵抗した。これら農民の抵抗が、旧ソ連史学界では「クラーク 反乱」と解釈された。ヴャトカ県ヤランスクから19年4月初めに次のような農民一摸が打 電された。「郡では一週間に渡り食糧が原因で過激行動が起こった。シャライグスカヤ郷 では武装した匪賊によって郷執行委員が殺害された。セルジスカヤ郷執行委員は、群衆に よる脅しの下に集荷所から約2000プードの穀物を分け与えた。コルリヤコフスカヤ郷では 群衆により食糧軍兵士が惨殺されたbそのほかあらゆる郷で、住民は動揺し、脅し、穀物 倉庫を破壊している」。*8これら実例を典型とする飢餓一摸が各地で頻発した。
ボリシェヴィキ権力は軍事力なしに穀物調達は不可能になり、都市と農村との分裂は決 定的となった。レーニンによって再三提唱された「労農同盟」はまったく架空の「神話」
でしかなかった。中央黒土地帯にあるタムボフ県食糧会議は18年12月半ばに、「県から の食糧軍の撤収による大きな打撃が明らかにされた。集荷は最小限にまで低落し、家畜の 徴収は完全に停止した。[・・・]担ぎ屋の波が再び活発化し、一面レベジャニ郡を埋め 尽くした」と伝えた。またタムボフ郡党委員会と郡執行委員会は、郡ではクラークの力は 強く、党細胞が組織されていないので、6月から10月の間に農民の直接行動が勃発したこ とを考慮して、郡チェー・カー[対反革命特別委]組織の設置をレーニンに要請した。こ の時期に穀物調達のために赴く労働者部隊は、一様に関係機関に武器の引渡を要求した。
サマラ県労働者局は19年秋に、武器なしでは県での調達活動が不可能なので、たとえ、部 隊の3分の1にでも武器を引き渡すよう、労働者徴発部隊を統轄する軍事食糧局に要求し た。多くの地方食糧委は武器の不足に悩まされ続けた。*9
「クラーク反乱」と認定した以上、これら飢餓一摸を武力的に鎮圧することは、農村に おける階級闘争の行使として正当化された。この素朴な階級闘争論の認識が、ロシア民衆 の悲劇を生み出す主要な原因の一つとなった。農民の飢餓にボリシェヴィキ権力がきわめ て鈍感であったのも、根元は同じである。
このような状況の中で、ロシア革命の誘因となった飢餓は、ボリシェヴィキ権力の下で 解決されたのではなく、いっそう強まった。19年夏の地方チェー・カーからの報告書はそ の事実を簡潔に、そして適格に指摘している。「ノヴゴロF県。ベロゼルスク。5月23日。
苔と白樺からパンが焼かれている。ニジェゴロF県。イゾフカ。6月2日。われわれは畑 に播種しなかった。小麦も全部食べた。オリョール県。トゥルブチェフスク。大きな飢餓。
Fウブロフカ。6月8日。穀物はなく、どこにも見つからない。」これら飢餓の最大の原 因は、消費基準を超えて一切合切徴収するそのやり方、すなわち、19年1月以後に全国的
−3‐
規模で導入された割当徴発であった。「トヴェリ県。ラメシキ。5月5日。ここではすべ ての穀物が取り上げられ、2月から食い手当たり2フント[1フントは約410グラム]しか 残されず、そのように生活すれば餓死しなければならない。イヴァノヴォーヴォズネセンス ク。われわれは餓死するだろう。われわれには月7から5フントしか残されていない。」
既にこの時期からいくつかの地方で餓死の存在が報告された。「トヴェリ県。6月13日。
次第にひどい生活になり、民衆の非常に多くが栄養失調のために死んでいる。リャザニ。6 月23日。われわれのところにはひどい飢えがあり、1日に10人は死んでいる。全員が飢 えでやせ衰えた。イヴァノヴォーヴォズネセンスク県。ロヂャンキ。6月23日。今では家 畜のようにあらゆる雑草を食べている。われわれ民衆は飢えで大勢が死んでいる」。この ような飢餓の直接的結果は、中央権力への不満である。「サマラ県。エルショフ。6月4
日。馬具、首輪、飼料をともなう[家畜の]動員は農民の不満を引き起こしている。」ニ ジェゴロドからは、役馬の不足のために完全播種ができなかったと報告された。「サラト フ県。ヴオリスク。われわれは天からの解放者としてコルチャークを待ち望んでいる。バ ザルイ。5月18日。農民は喜んでコルチヤークを待ち望み、コムニストに憤慨している」。
そしてより深刻な帰結は、種子がないための播種不足であった。播種不足が待ち受けるの は餓死である。「ペンザ県。クラスノスロヴォドスク。6月9日。種子はまったくなく、
土地の半分以上が播種なし」。そのほかトヴェリ県コルチェフから。消費基準をも考慮し ない、権力の穀物の収奪によって、農民は明らかに農業生産への意欲を失っていたことも、
播種不足の重要な要因になり始めていた。「サラトフ県。バラショフ。6月2日。播種し たいが取り上げられるなら同じだ、と言っている。そのようにして播種面積は何10分の1 かに縮小した。」寒10
19年の播種不足は20年のさらに凄まじい飢餓を招いた。ボリシェヴィキ権力があらゆ る犠牲を払って確保しようと努めた、両首都の食糧事情さえ厳しかった。20年夏のモスク ワ市について次のように報告された。7月7日。食糧貯蔵は完全に消尽した。7月10日。
モスクワではパン配給券でパンが交付されなかった。8日にソヴェトに女性と子供が集ま り、私たちはひどく飢えている、パンをください、と叫んだ。ソコリニキで労働者は憲法 制定議会を求めて、デモを挙行した。事態は尖鋭化している。モスクワでは暴動が現れ始 め、工場はすべて停止し、民衆はパンを求めている。7月13日。権力打倒を叫んでいる。
いくつかの工場でストがあった。ペトログラードでも同様であった。6月28日。工場では われわれ全員が飢えで絶滅するであろうとの風聞が流れ出した。ペトログラードはひどく 飢え、食堂では一皿しか出されず、パンは減量された。市の売店は完全に閉鎖され、何も 手に入れることができない。7月8から9日にオブホフエ場の労働者がストを行い、もっ と多くのパンと食糧を与えるよう要求し始めた。「働かないなら銃撃する」との脅しがか けられた。集会では労働者は、「ソヴェト権力打倒、戦争反対、パンをよこせ」と叫んで いる。プチロフエ場も不穏である。多くの工場は操業を停止し、飢餓のために民衆の間で 暴動が始まっている。7月17日。工場でストが始まり、食堂では水一杯だけが出され、パ ンは8分の1フントしか受け取っていない。地方はさらに悲惨であった。北部のオロネツ 県ペトロザヴオドスクでは7月10日の晩に、女性たちが群をなして市参与会に押し寄せ、
−4‐
すでに1週間も交付されていないパンを要求した。「パンを渡したくないというなら、何 のために白衛軍をペトロザヴォFスクから追い出したの」。彼女らを脅して、解散させ帰 宅させた。スモレンスク県スモレンスク。7月10日。シュリコフスカヤ郷ヴオラチニヤ村 で、反ソヴエト権力の暴動が準備されている。ゴロトフカ。7月19日。民衆は恐ろしく飢 えており、このためひどい病気にかかっている。「バラモンジンKO3Ⅱ皿[西洋ゴボウ]」
を食している。私はこれが何か知らないが、現在飢えた者たちはこれをとびきりのパンと 思っている。ドロゴブジ。7月12日。農村には飢餓があり、苔とバラモンジンを食べてい
る。*11
20年のロシア全土で、飢餓による政情不安は一般的現象になっていた。例えば、8月に 地方チェー・カーから届けられた報告書は、異口同音にこのことを物語っている。
トムスク県。コムニストへの対応は敵意がある。農民への政治活動の欠如、農民の無知 は、「コムニスト」という言葉は彼らに憎悪を抱かせるまでになっている。クラークの直 接行動の時には、あらゆるコムニスはと幼子も一緒に彼らの家族が斬殺された。村ではコ ムニストの皆殺しII36zeH皿狂が起こっている(7月前半)。タムボフ県。農村での非常に 困難な食糧危機のため、クラークと聖職者によって反ソヴェトの情宣が行われている(7 前半)。オレンブルグ県。サポジコーフ蜂起の影響の下に、オレンブルグの主要な工場で、
7月20から21日に明らかに反革命的性格の労働者の直接行動が起こった。翌朝、市内の あらゆる工場に、鉄道と工場での集会への招鴫状が送られた。7月21日に労働者グループ は、勝手に様々な職種の鉄道従業員と合同で、労働時間内にミーチングを開いた。次いで、
コムニストを議長として集会が始まった。気分は明らかに無政府主義的であった。自由商 業を実施し、すべてのソヴェト組織を改選し、ユダヤ人を追い出すことなどが決議された。
オレンブルグ鉄道従業員の直接行動の主因は、食糧問題、乏しい党活動、反革命的情宣で ある(7月25日)。トムスク県。シェグロフ郡で郡食糧委エージェントと民譽の殺害は大 衆的性格を帯びている。多くの地域で、割当徴発のために不満が増大し、それは武装直接 行動になるおそれがある(6月間)。ヴヤトカ県。マルムイジュ郡のヴァトツイ村で、飢 えた群衆が穀物を要求した。地方権力の側からの多くの非合法的な憤慨させるような行動 が見られる(7月24日)。トムスク県。7月前半で頻繁に一摸と蜂起が勃発し、それらは 全県に及んだ。ノヴオニコラエフスク郡では7月6日に、ソヴェト権力に対する公然とし た武装蜂起が勃発した。蜂起参加者によってコルイヴァニ市が一時占領された。そこでソ ヴェト活動家が皆殺しされ斬殺され、元コルチャーク派議員と著名な市のブルジョワジー からなる市Fゥ−マと管区執行委が組織された(7月前半)。チェリャビンスク県。反割 当徴発の公然とした直接行動と、赤軍のために穀物を引き渡すのを無条件に拒否するケー スがしばしばあった(6月後半)。サマラ県。農民の間で物質的欠乏が原因で不満が強ま っている。農民騒擾が現れている(7月前半)。トムスク県。6月17日にニコラエフスク とナゴルノーイタレ村で一摸が勃発し、武装したクラークの一群はコムニストを殺害した。
蜂起のおもな理由は、食糧と肉の割当徴発を遂行したくないという農民の気持ちである(7 月前半)。タムボフ県。全県で強力に組織された匪賊の活動と、兵役忌避者の群れcHOmIeHHe が認められた(7月前半)。*12
戦時共産主義期には、国民経済のみならず党組織自体が荒廃したことは既に述べたが、
その直接的な原因は飢餓であった。厳しい旱紘の結果、20年秋に飢餓県に認定されるカル
‑5−
−ガ県のコゼリスク郡執行委からの報告が、雄弁のそのことを物語っている。その年6月 の郡執行委会議で、「コゼリスク郡のすべての市民は、現在あらゆる代用食、雑草、樫の 実などを食べている。ひどい飢餓のために、大量の農民住民は自分の播種をうち捨てて、
他県に逃げ出し、穀物諸県への通行証を求めて、郡執行委を取り囲んでいる。地方から入 ってくる同志からの情報によれば、春蒔き畑の大部分は播種されず、秋蒔きはいくつかの 地方で非常に劣悪なのは明白である。餓死のケースがあった。栄養失調のためにあらゆる 病気の大量感染が認められる」と報告されたような郡の厳しい食糧事情の中で、郡内での 混乱が次のように指摘された。「大量の兵役忌避者が認められるが、そこでは兵役忌避者 の多くは穀物を求めて、様々な地方に出向いている。郷は毎日パスポートを持って穀物諸 県に出かける者たちで溢れている。市内も同じ状況。この状態は、特にソヴェト施設に反 映され、職員は自分の職務があるにもかかわらず、彼らは口実を設けてコゼリスクから消 えている。郡国民教育部部長がいうには、部内の定員は72人だが、全部で11人しかおら ず、全員が充分に職務を全うしているのでもない。7人の参与のうち、たった3人しかい ない。[.。.]工場は食糧と軍事動員への不満のためにほとんど機能していない」。*13
こうしてソヴェト施設は食糧危機のために機能せず、農民は穀物を求めて軍隊への出頭を 拒否した。
戦時共産主義の様々な負担に農民は耐えていたとしても、8月が訪れ、20年の旱魅によ る凶作が明らかとなったとき、僚原の火のごとくロシア全土を農民蜂起が埋め尽くした。
−6−
2)割当徴発の停止
従来の見解では、当然にも割当徴発の停止は現物税の実施と同義であった(時にはネッ プ構想もこれに関連づけられた)。こうして、農民の気分を緩和するために現物税が導入 されたとの主張が繰り返された(食糧人民委員部の指令によれば、割当徴発は廃止された のではなく、停止されたことにも注意すべきなのだが)。果たしてそうだろうか。農民の 不満を考慮して割当徴発が停止されたのか、また割当徴発の停止によって農民の食糧事情 は改善されたのだろうか。さらに、現物税の導入を前提として割当徴発が廃止されたのだ ろうか。これらの疑問をまず検証しよう。
まず、当時椙獄していた農民蜂起と割当徴発停止との関連を見ることにする。
農民蜂起
タムボフ県は、肥沃な黒土を持つ豊かな穀物県として、僅かな期間を除いて戦場となる こともなく、モスクワに比較的近距離にあるために、食糧と人的な尽きせぬ資源として、
革命直後から動員と徴発の対象となり、それに応じて農民蜂起も頻発していた。
後に対匪賊全権として派遣されるアントーノフーオフセーエンコは、アントーノフ蜂起ま での「もっとも農民的な」県の実情を次のように報告した。「南部郡は農民経営の需要を 考慮せずに寄食する何十もの赤軍兵士部隊に耐えてきた。ソヴェト権力は厳格な軍事行政 的性格を帯びた。経済、啓蒙組織は充分広汎な建設的活動を展開することができなかった。
食糧割当徴発は特に重く県に課せられた。前線付近の軍事部隊が集結したため、作物経営 が凋落したことで家畜と農具に大きな損失を蒙った県は、食糧人民委員部からはっきりと した生産県の一つとの認定をずっと受けていた。莫大な努力を払った末に、不相応な負担 であった19/20年度の割当徴発は半分が遂行された。だが、タムボフ県の農民への抑圧は、
そのほかの「穀物」諸県よりも、決してひどい苛敏訣求があったのではない。食糧部隊の 蛮行についての話は非常に誇張されている。慎重な調査により、全体とすれば厳しい布告 と回状の枠内で自重しているこれら部隊による、二、三の深刻な非合法活動が確認された だけである。20/21年度の割当徴発は、前年比で半分に縮小されたものの、完全に力の及 ばぬものであった。大きな播種不足と非常な凶作の下で、県の著しい部分は自分の穀物も 賄えなかった」。戦前平均で1人当たりの穀物約18プードと7プード強の飼料の消費であ ったが、「割当徴発が100%遂行されたなら、農民1人当たり穀物1プードと馬鈴薯1,6 プードしか残らなかった。そこで割当徴発はほぼ50%が遂行された。既に、[21年]1月 までに農民の半分が飢えていた。ウスマニ郡、リペツク郡の一部、コズロフ郡では飢餓は 極限にまで達している(樹皮を噛み砕き、餓死者があった)」。*14
20年の春の播種は壊滅的と報告され、既にこの時には県内各地で飢餓は顕著になってい た。キルサノフ郡からは、「生きて行くことはできない。穀物は取り上げられ、家畜は奪 われ、われわれには飢餓が残されている」と、リペツク郡からは、「農民からすっかり、
穀物残らず家畜まで全部を奪っている。何も与えず、衣服も何も与えてくれない。そのよ うなことがタムボフ県全土で起こっている。このために暴動が勃発するだろう。農民は部 隊に反対している。何も播種できない」と、ルジェフからは、「われわれのところに部隊 が到着し、穀物を取り上げ、1人当たり25フントだけが残されている」との農村の実情が
報告されていた。霧15
‑7−
20年の収穫が明らかになるにつれ、旱魅による県内の異常な凶作が認められるようにな り 、 ボ リ ソ グ レ ブ ス ク 郡 で は 播 種 分 の 収 穫 ま で 危 ぶ ま れ た 。 キ エ フ 郡 食 糧 委 は 、 文 字 通 り すべての穀物と家畜を徴収し、畑には何も植えられず、郷の農民は播種のために馬の返却
を要請した。リペツク郡では、雷害や旱紘のためにライ麦の収穫はなく、郡のある村ソヴ エトは、公的文書によって村は自分を賄うことができないだけでなく畑に完全に播種する こともできないことが確認されていることを根拠に、人民委員会議議長とBUHK議長に、
「翌年の農業の完全な崩壊をもたらす国家割当徴発」を免除するよう要請した。だが、そ れでも割当徴発の遂行に権力は容赦しなかった。既に2月にキルサノフ郡の郷執行委議長 は、「勤労人民の領袖にして真理の擁護者」レーニンに、現在郷にいる食糧部隊は割当徴 発によって消費基準と種子も残さずに穀物を100%汲み出し、貧農は凶作のためにそれを 遂行することができず、繁殖用の家畜さえも奪われている現実を訴えた。*16
内戦が激化するにつれ、召集を拒否したり軍隊から脱走したりする兵役忌避者の数が急 増した。赤軍兵士の多くは冬に召集され、夏の収穫期とともに脱走した。夏の徴募は困難 で、トウーラ県11郡(12郡のうち)では、19年5月の志願者が798人であったが、8月 には192人に激減した。19年後半で赤軍からの脱走兵は150万を数え、ある戦線では収穫 期に80%の兵士が脱走した。動員された兵士は残された家族と畑を心配し、余所への転出 命令への拒否反応は大きかった。おもに農民からなる赤軍部隊は、共同体以外で繰り広げ
られる「世界革命」の夢を決して共有することはなかった。
内戦の勝利とともに、赤軍の輝かしい戦歴が賞讃されたとしても、その実情は厳しかっ た。入隊した赤軍の食糧事情も劣悪であった。20年2月の部隊に関する現状報告書は、ヤ ロスラヴリ第3中隊では2月の2日間で「パンーフント、スープ1杯、ピロシキ3個のほ かには何もなく」、この部隊は「全員がぼろを纏い、草鮭を履いて」行軍し、ペルミ第4 中隊は「パンは1フント以下、スープは水同然」を食し、モギリョフ第4中隊では、「装 備はまったく与えられない。裸足で行軍し、草鮭もない。給与はもう3ヶ月間受け取って いない」などの劣悪な現状を37ページにも渡って延々と綴られた。20年8月にシベリア 軍事食糧局は、制服が支給されるはずの部隊は旧い制服のまま1ケ月間着の身着のままで、
冬装備を受け取れないなら部隊は活動を停止すると訴えた。10月のチェー。カー報告は、
装備と衣服がないために、寒さの到来とともに兵役忌避者が著しく増加した事実を指摘し
た。*17
兵役忌避者の増加とともに、各地で兵役忌避との闘争特別委員会が設置され、そのカム パニアが繰り広げられた。18年12月の国防会議政令により、兵役忌避はもっとも重大な 犯罪として忌避者には銃殺に至る、隠匿者には5年の強制労働の厳罰を定め、19年6月の 同政令では、処罰をいっそう厳格にし、現地住民が頑強に忌避者を講助する場合には、郷 または村全体に連帯責任で罰金か強制労働が課せられた。このような措置にもかかわらず、
赤軍の徴募は遅々として進まなかった。2ヶ月間原隊に復帰しなかった兵役忌避者は銃殺 された。ヴェー・チェー。カーの報告書によれば、20年10月前半で、10万1416人以上の 兵役忌避者が捕獲され、712人に銃殺の判決が下された。*18
兵役忌避者の家族に対する資産の没収と人質は、この闘争の中で広汎に適用された手段 であった。厳罰措置の適用は、19年の政令にも見られるように、兵役忌避が広く浸透し、
現地住民の支持を受けていたことを物語っている。20年8月にサラトフ県ヴォリスク郡の
‑8−
村で、兵役忌避者から家畜が没収されたことに端を発して、斧や三又で武装した農民の蜂 起が勃発した。このように農民大衆の間に蔓延する動員への恐怖に気づいたボリシェヴィ キ指導者は殆どいなかった。第9回ロシア共産党大会に登壇したトロツキーは、輝かしい 赤軍の戦歴を引き、強制動員による農民大衆からなる労働軍の創設を提唱したのであった。
*19
タムボフ県に広がる森林地帯は、兵役忌避者に絶好の隠れ家を提供し、ここにも多数の 忌避者が徒党を組んで践雇していた。20年5月にはタムボフ郡とボリソグレブスク郡の境 界付近で、彼らが指腋した農民蜂起はいくつかの郷を巻き込み、派遣された捕獲部隊を武 装解除した。20年秋にはその数は25万に達した。彼らは徒党を組み、集荷所やソフホー ズへの襲撃を繰り返していた。*2O
これら徒党の指導者の1人が、元エスエル党員A・C・アントーノフであった。8月に 兵役忌避者の捕獲にタムボフ県カメンカ村を訪れた部隊は匪賊に急襲され、その後県チェ ー・カーから派遣された部隊も村付近で粉砕された。8月19日に決起した約150人の農民 は、付近のソフホーズを襲い、家畜を掠奪しコムニストを殺害した。赤軍部隊によって村 が鎮圧された24日の晩に、部隊を引き連れたアントーノフが到着した。これが、その後1 年数ヶ月にも及び約5万人の犠牲者を出したアントーノフ運動の始まりであった。
この蜂起に関するもっとも早い中央への報告書(全ロシア繊維工労働組合中央委への報 告)は、その有様を次のように生々しく描いている。タムボフ県では毎年蜂起が起こり、
匪賊の領袖「アントーノフ「何某」は、農民が彼に共鳴しているのを見て、自分の充分に 武装された匪賊とともに攻撃を開始したが、農民並びに労働者は完全に反革命的気分にあ ることを強調しなければならない。そのため、アントーノフの蜂起はサムポル[おそらく、
カメンカの北にあるサムプルの誤り]駅と村で起こり、当然にも農民と労働者は匪賊に合 流して戦闘を開始し、わが赤軍兵士は退却し、次いでタムボフから増援部隊が送り出され、
8月25日にそこでの交戦が始まり、8月29日に匪賊は20ヴェルスタ[1ヴェルスタは約1 キロ]離れたヒトロヴォ方面に向かった。ヒトロヴォは支持を表明し、次いで匪賊は組織 的やり方で3ヴェルスタ離れたメリノフカに進み、さらに大きな村のヴェルフネースッパス コエに向かい、丸ごとスッパスコエから合流した農民は、ラスカゾヴォを攻撃した」。こ うして農民と労働者に支持されたアントーノフ軍は、蜂起発生の数日間で工業地区を含む 広汎な地域を瞬く間に占領した。村ソヴェトはパニックを起こして逃げ出し、匪賊がラス カゾヴォを攻撃するや、コムニストの半数は何処となく消えた。8月30日に地区党委は全 コムニストに武器を持って集まるようにとのプリカースを出したが、そこに現れたのは「羊 の群れ」でしかなかった。組織性もなく、急遼設置された防衛参謀部のメンバーは「退却 用の立派な馬を用意し、残りのコムニストは全員が非武装であった」。労働者は自分の工 場の防衛に喜んで馳せ参じると期待されたが、実際には労働者は工場の防衛を無条件に拒 否した。翌31日にタムボフから騎兵部隊と軍学校生徒が到着し、農民と匪賊との攻撃を始 めたが、ヴェルフネースッパスコエの農民は赤軍との戦闘にもっとも積極的に参加した。戦 闘は3日間続き、この村は殆ど全部が丸ごと焼かれ、多数が殺害された。*21民衆のアント ーノフ軍への支持、現地の党・ソヴェト組織の狼狽と無秩序状態は、21年に中央から全権 特別委が派遣されるまで続いた。
対匪賊闘争の全権として中央から派遣されたアントーノフーオフセーエンコは、21年7
−9‐
月のレーニン宛の膨大な報告書でその原因を適格に次のように指摘した。「県内には少な からぬ軍事部隊からの脱走兵と、強奪行為に手慣れて戦争により階級から脱落した様々な 分子、紛れのない白衛軍兵士も潜んでいた。南部郡は農民経営の需要を考慮せずに寄食す る何十もの赤軍兵士部隊に耐えてきた。ソヴェト権力は厳格な軍事行政的性格を帯びた。
経済、啓蒙組織は充分広汎な建設的活動を展開することができなかった。食糧割当徴発は 特に重く県に課せられた。前線付近の軍事部隊が集結し、作物経営の凋落により家畜と農 具に大きな損害を出した県は、食糧人民委員部から高度な生産県の一つと認定を受け続け た。膨大な尽力の末に、不相応に重い2700万プードの割当徴発は19/20年度に半分が遂 行された。[・・・]20/21年度の割当徴発は、前年比で半分に縮小されたものの、完全 に力の及ばぬものであった。大きな播種不足と非常な凶作の下で、県の著しい部分は自分 の穀物も賄えなかった。[・・・]没収した家畜の利用と穀物と野菜の保管に関して、充 分ぞんざいで非経済的に食糧委組織は振る舞い、大量の家畜が絶滅し、穀物は腐り、馬鈴 薯は凍った。
農民への荷馬車賦課は、特に北部郡で、飼料がなく森林委により適用された義務が履行 されなかったことを考慮すれば、非常に重い負担であった。
総じて、大多数の農民の観念では、ソヴェト権力は、郷執行委と村ソヴェトに大胆に命 令を下し、まったく支離滅裂な要求を履行しない廉で権力のこれら地方組織代表を逮捕す るために訪れるコミッサールや全権と同一視され、しばしば農民経営に直接の害を与えて まったく国家の利益にならずに行動する食糧部隊とも同一視された。大方、農民は、ソヴ ェト権力を、彼らへの対応に関して何か外のもの、支配するだけで、非常に熱心だが先見 の明なく命令を下す何かと見慣れている。」*22まさにタムボフ県での農民蜂起の原因は、
彼が指摘するように、飢餓とコムニスト権力への農民の憎悪であった。
アントーノフ蜂起は、タムボフ県からサラトフ、ペンザ、ヴォロネジ県へと、それにサ ラトフに隣接するウラリスク県からも、21年2月に匪賊活動の拡大が伝えられたように
*23、連鎖反応的に農民蜂起が各地で生じた。さらに、この時期最大の農民蜂起が西シベリ アで勃発し、*24ウクライナではマフノー匪賊が賊眉する状況の下で、ようやく農民蜂起の 問題が党中央で取り上げられるようになった。
21年1月12日の中央委で、「農民の間での気分」に関する問題が審議され、M・H・
カリーニン(議長)、E・A・プレオブラジェーンスキィ、の.A・アルチョームを構成 員として、凶作の被害をもっとも蒙った諸県のうちいくつかで農民の状態を速やかに緩和 するのに可能な措置を審議する任務を持つ特別委と、①・S・ヂェルジーンスキイ[ヴェ ー・チェー・カー議長]、C・C・カーメネフ[総司令官]などを構成員とし匪賊行為の 根絶を早急に準備する任務を持つ特別委が設置された(因みに、この会議で、第10回党大 会の報告者が指名された)。*25
アントーノフ蜂起について現地から、タムボフからはいうまでもなく、サラトフやヴオ ロネジからも悲鳴にも似た軍事要請が打電されていたにもかかわらず、党指導部はこれら 実情を知悉していたにもかかわらず、中央からの本格的な介入は著しく遅れた。2月2日 づけでサラトフ県執行委議長代理は、レーニン宛に次のような極秘覚書を送っている。「タ ムボフ県内での6ヶ月以上に渡る野戦部隊の強化[にもかかわらず]、タムボフ県でもサ ラトフ県でも匪賊との闘争は望ましい成果をもたらさず、匪賊は充分な反撃に出会ってい
−10−
ない。この時までに、匪賊は駅を占領し、いくつかの機関車を破壊し、駅に甚大な損害を もたらし、サラトフ県に浸透し始めている。匪賊はタムボフ県からサラトフ県に進出して いる。匪賊の機動性は、わが方の騎兵が充分な数がないことで説明される。匪賊の侵入は、
最終的に播種カムパニアを崩壊させ、サラトフ県内の食糧と原料のすべての貯蔵を根絶す るおそれがある。サラトフ県境に騎兵がないために、匪賊に道を開かせ、何千もがもっと も穀物が豊かな地区に進撃している」。また、ヴオロネジから国防会議特別全権B・n.
ミリューチンは、次のようにレーニンに軍事的支援を打電した。「武装されよく組織され た匪賊の徒党1000人が、[・・・]の指揮の下にヴォロネジ県の南部地区を俳掴し、ソヴ ェト活動家とコムニストを殺害し、集荷所を略奪し、鉄道を破壊し、列車から強奪してい る。徒党は見事に武装され、見事に訓練されている。県の北部地区、ボブロフとノヴォホ ピョルスク郡は、タムボフ県から侵入したアントーノフ徒党の攻撃に晒され、彼らはあら ゆるソヴェトと党活動に妨害を加えている」。*26
2月2日の政治局会議は、H・H・ブハーリンの報告を聴き、凶作を蒙り食糧に困窮す る地方での政治状況と農民蜂起に重大な関心を払うよう食糧人民委員A・互・ツュルーパ に指示し、これら諸県での農民の食糧状態を緩和するための一連の措置を執るよう食糧人 民委員部に委ねた。ここでようやく党指導部は、飢餓と農民蜂起との関連を認める一方で、
農民蜂起との闘争における政治的指導と支援のためにタムボフにBUHK(全ロシア・ソ ヴェト中央執行委員会)特別委の即座の派遣を組織するよう党中央委組織局とBIIHKに 命じ、ペルミ県播種委議長であったB・A・アントーノフーオフセーエンコをタムボフに招 致することを決定し、中央からの蜂起鎮圧への準備を整えた。*27この政治局決議を受け、
翌3日の組織局会議は、彼に替わるペルミ県播種委議長を審議し、アントーノフーオフセー エンコを議長とする特別委の組織化をBIIHKに委ね、タムボフに優れた活動家200人を 緊急派遣することを決議した。*28
2月16日にタムボフに到着した彼が見たのは、地方権力組織の完全な荒廃であった。そ の10日後、アントーノフーオフセーエンコは中央委組織局宛に電報を送り、その中で彼は、
県委、県執行委、司令部幹部会の満場一致の意見にしたがって、アントーノフーオフセーエ ンコを議長とする、匪賊運動の根絶に関する[ママ]全権特別委を承認するよう要請した。
この要請に対し、3月3日の組織局会議は、タムボフ県委から提案された匪賊運動との闘 争に関する全権特別委を承認するとともに、アントーノフーオフセーエンコ、パーヴロフ、
ジヤービンを構成員とする革命軍事評議会を設置することを認め、タムボフ県に活動家を 派遣するようヴェー・チェー・カーに提案することを決定した。}*29
だがこの時までにタムボフではアントーノフ軍と赤軍との戦闘は抑えようのない規模に まで拡大し、中央からの蜂起鎮圧が決定的に遅れた理由を、合理的に説明することはでき ない。しかし、このためボリシェヴィキの側に鎮圧のための膨大な軍事力の投入を必要と させ、零3Oこれら軍事部隊の糧秣の負担がタムボフ農民に重くのしかかり、そのため農民の 不満をさらに募らせ、鎮圧がいっそう困難になった事実だけが残った。
中央権力の農民蜂起へのこのような緩慢な対応を勘案すれば、これを理由としての割当 徴発の停止は考えにくく、何よりアントーノフ匪賊への中央からの直接的介入以前に(ア ントーノフーオフセーエンコのタムボフ到着は2月16日)、既に割当徴発は停止されてい た(タムボフ県がその停止指令を受け取ったのは2月8日)。因みに、2月下旬に始まつ
−11−
たクロンシュタット叛乱も、時系列から判断して、この問題とはまったく無関係なのは明 白である。21年4月のサマラ県チェー・カーからの極秘報告は、「食糧割当徴発が現物税 に替わり、生産物の自由交換[が認可された]のは、もっぱらクロンシュタット水兵の要 求とそのほかの蜂起のおかげであり、それらがなければこれは行われなかったであろう」
との農民の間に流布している根拠のない風聞を指摘している。*31
集団経営「幻想」からの解放
21年初めの新聞紙面をもっとも頻繁に飾ったのは、労働組合論争などではなく、播種カ ムパニアであった。この問題と割当徴発の停止を関連づけようとするのは論理的であり、
このことについて検討しよう。
周知のように、20年の特に中央農業諸県を襲った旱魎とその結果としての凶作は、ソヴ ェト政府に深刻な危機感を抱かせ、早くも、20年9月1日のCHK(人民委員会議)会議 は、凶作諸県での食糧フォンFを創設するための検討を食糧人民委員部と農業人民委員部 に命じた。*32農業人民委員部の資料によれば、ヨーロッパ=ロシア全体での播種面積は、
16年から20年には66,6%までに激減した。この報告書は、だがこの縮小はそれ自体で巨 大だが、個々の作物の面積の変動を考察するなら、作物別の縮小は一様でなく、一連のも っとも貴重な作物が、まさにそれらがおもに生産されていた地区でもっとも大きく縮小し た事実を指摘する。ライ麦は小麦生産地区で小麦を駆逐し、黍は穀物作物を押しのけて増 えた。亜麻と棉花の播種の縮小は特に破滅的特徴を帯びている。肥料の低下をもたらす家 畜の縮小、鉱物肥料の不足、農具の不足と消耗が収穫率を大きく減退させた事実も指摘さ れた。*33このような農業の荒廃を背景に、農業生産の向上を巡って20年秋から論戦が繰
り広げられるのは偶然ではない。
ここでの主役の1人は、自ら播種委設置の経験を持つ元トゥーラ県執行委議長であり、
その実績を買われて8月5日に食糧人民委員部参与に任命されたH・オシーンスキイであ った。*34彼は『プラヴダ』を中心に論陣を張り、その9月5日号の論文では、「ソフホー ズの強化によってのみ農業の再建を期待するのは、ユートピアの道を歩むことを意味する」
とし、トゥーラ県で春蒔き播種で実施された、強制播種のような農業生産への国家による 強制的組織的介入の必要性を強調した。これに対し、H・ボグダーノフは『経済生活』紙 上で、彼に反論を加え、強制の観念を深めることは不可能であり、それに替わり「経済的 促進の原則」を訴えた。*35従来は、この両者の対立は強制か経済的刺戟かの原理的対立と 捉えられ、ボグダーノフの主張はネツプの先取りと解釈されてきた。*36だがボグダーノフ の議論を仔細に検討するなら、彼は、集団経営を展望して経済促進によって農業の向上を 目指すのであり、明らかに戦時共産主義的概念の枠内にあった。既に19年に彼は『国民経 済』誌の中で、ソフホーズの組織化が社会主義的農業路線でもっとも合理的であるとの論
陣を張っていた。*37
戦時共産主義期の農業の全般的衰退現象の中でも、特に経営基盤が脆弱な集団経営は各 地で崩壊していた。例えば、20年秋にリヤザニ県には96のソフホーズがあったが、そこ では馬は29デシヤチーナ[1デシヤチーナは約1ヘクタール]に1頭しかなかった。当時 は馬1頭で3デシヤチーナを耕作できると言われていたにもかかわらず。このような役畜 の不足は馬匹の動員により拍車がかけられ、19年にスモレンスク県のソフホーズ議長は、
−12‐
県軍事委員会は馬匹の動員を強要し、僅かな馬の収用さえ春の播種作業を停止させるので、
県軍事委の要請を破棄するよう訴えた。*38第8回党大会でペンザ県の代表は、コミューン
[集団経営のもっとも完成された組織形態]には何も持ち合わせがない貧農がもっぱら加 入し、彼らは穀物も農具も馬もなく、餓死を運命づけられているとの厳しい現実を報告し
た。*39
20年3月のコストロマ県党協議会で、集団経営に期待をかけたが、何も提供しないこと が明らかになったと指摘され、20年の旱越に襲われたリヤザニ県ではソフホーズからの収 穫はデシヤチーナ当たり9プードしかなく、これは播種に要する量と同じであった。アン トーノフーオフセーエンコはタムボフ県での実情について、「ソフホーズヘの対応は(それ らを通してソヴェト権力へ)、殆ど至る所で農民は敵意を抱いている。最近まで熱心に定 着させていたコルホーズも多くの場合、同様な敵対的関係に遭遇している。[・..]ソ フホーズ並びにコルホーズにしばしば元の地主が居座り、彼らが召使いなどの人々を仕切 っている。ソフホーズに劣らずコルホーズは傷瘻軍人と怠け者の避難所となった。それら のうちごく僅かだけが経営的価値がある」と、レーニンに報告した。*40彼のこの報告は、
ソフホーズやコルホーズが頻繁に匪賊運動の襲撃対象になった事実によっても確認するこ
とができる。
農業の社会主義化路線の下に、19年3月に執筆されたロシア共産党綱領草案の中でレー ニンが、「ソフホーズ、すなわち、大規模な社会主義農場の設営」を社会主義的農業に向 けての措置と見なしたように、ソフホーズは重要な役割を果たすと位置づけられた。最初 の農業人民委員であったミリューチンは、ソフホーズの組織化は「大規模生産を保全する 可能性を与えただけでなく、初めて工業プロレタリアートを参加させる可能性をも与え」、
「都市と農村との強固な環を創り出した」と高く評価した。この方針は2月15日づけCH K布告で実現された。これは、播種面積の増加と工業労働と農業労働の接近を目的とし、
都市労働者組織に非勤労地や無播種地などをソフホーズを建設するために農業人民委員部 から受け取る権利が与えられた。こうして、工業企業は食糧を確保することで労働者の食 糧を求めての職場放棄を回避し、労働者に精神的息抜きを与え、これらソフホーズは農民 経営のための家畜や種子の「繁殖場」となり、社会主義的土地整理の優越性を農民に誇示
するモデルとなるはずであった。*41
ここでの構想の基本には「穀物工場」としてのソフホーズの位置づけであり、ミリュー チンや農業人民委員部参与p・ラーリンらは「穀物工場」としてのソフホーズを高く評価 した。ミリューチンは、小農業経営の統合を金属工場の統合になぞらえ、19年2月の『社 会主義的土地整理法』では、ソフホーズとコミューンに土地利用の最優先順位が付けられ、
ソフホーズには工場労働者が採用されることが原則とされ、そこでの労働時間は8時間を 超えないものとして、工場管理的方法が取り入れられた。*42
18年12月に開催された第1回全ロシア農業部・貧農委・農業コミユーン大会で、農業 人民委員セレダーは、これまで全面的に推進されてきた農業コミューンの組織化を批判的 に総括し、ソフホーズ重視の路線転換を表明し、ソフホーズの高い評価は決定的となった。
これに続いて19年3月16日の『プラヴダ』で、農業人民委員部参与B・B・クラーエフ は、コミューンの理念はまだ農業人民委員部の地方の活動家の間では人気があるが、最近 組織されたコミューンは寄生的性格を帯び、このようなイデオロギーと断固として闘うこ
−13−
とが必要であると主張した。*43
この方針はそのまま第8回ロシア共産党大会に持ち込まれ、3月20‑22日の農業部会(レ ーニンは党綱領の策定作業に忙殺され、この会議に出席できなかったが)は、農業政策に 充てられ、第1回会議でクラーエフが報告に立った。彼は、農業生産性の向上を農業革命 の主要な任務と設定し、ソフホーズの創出にその解決策を求めた。「真の社会主義的形態 はソフホーズ、穀物工場であるといわなければならない。[。。。]われわれは、繊維工 場機械などの工場を組織するように、わが酪農穀物、その他の工場を組織しなければ ならない」。そこでは、「農業的工業」を組織する担い手は、農業プロレタリアートは文 化水準が低いので、工場制工業と同様に、都市プロレタリアートであった。コミューンに ついては、彼の言葉によれば、コミューンは社会主義的農業の最高形態と理解されている が、その支持者はその本質を失念し、それを共産主義的アクセサリーと見なし、この評価 には誤りがあるとして退け、ソフホーズこそが生産物の国家化Or℃cyZaPcTBeHIIeを保証す るのに相応しい形態であった。
彼の報告の後に行われた討論では、オリョール県代表HoH・ゴルシコーフは、報告者 は全体として間違っていると徹底的は非難を浴びせた。コムニストが理解している穀物工 場や文化の普及は共産党が引き受けるべきものであり、そうでなければ、ソフホーズは党 細胞になってしまう、農業は専門家でなければ管理できないのだと、農業についての報告 者の無知を批判した。ボリシェヴィキ指導部の本質を見抜いた正鵠を射た指摘であったが、
おもな批判はこれだけであった。地方からの発言者は、論調の差はあるにせよ、概ねソフ ホーズを支持した。*44
この党大会は、「中農路線」が確定された大会として知られているが、この大会で採択 された中農に関する決議では、中農は長期に渡って存在し彼らとの協調が必要であるとの 前提で、集団化への強制的加入の禁止などが謹われたが、従来の路線(あの「農村での階 級闘争」を断行しようとして農村に混乱を持ち込んだ貧農委路線)との変更は特に明示さ
れなかった。*45
ソフホーズ政策が優先されたのは、ボリシェヴィキの農業に対する無知は措くとしても、
第1回全ロシア農業部・貧農委・農業コミューン大会でセレダーが報告したように、個人 農民経営は生産性が低く、大規模農業への移行によって農業の最大の課題である生産性の 向上が達成される、と想定されたからであった。しかしながら、当時の『貧農』紙で公表 された19年のソフホーズの現状は、まったく悲惨であった。少ない家畜頭数も役畜として 充分に利用されず、農具の数は足りていたが、すべてが修理を必要とした。農産物加工施 設の設備は劣悪で、石油発動機は損傷と石油不足のために動かなかった。収穫しても余剰
はなかった。譲46
20年になるとソフホーズはますます厳しい実態が各地から報告されるようになった。あ らゆるものが不足していた。役畜も労働力も。トムスク県農業部は、ソフホーズでの最大 の問題は労働力であり、それにすべてが困窮し、いくつかは近い将来に活動を完全に停止 するおそれがあると報告した。ヴラヂーミル県チェー。カーは8月の報告書で、県国民経 済会議は一六のソフホーズを持っているが、それらはまったくカオスの状態にある、播種 用の種子の不足のためにそれぞれの経営で2,3デシャチーナしか播種されず、その改善策 が管理部によってまったく執られていない、と指摘した。*47
−14−
これら経営に対する近隣農民の対応は否定的、または敵対的であった。17年から18年 にかけての土地革命は一時的と見なされ、地主地の最終的な所有の問題が未確定であり、
農民は収奪した土地がソフホーズやコミューンのために取り上げられるかもしれないこと を恐れた。トゥーラ県エピファニ郡では、ソフホーズやコルホーズへの土地割当を不当と 見なしたが、それら経営が明確な模範を示すこともなく崩壊したのを見て、その感をいっ そう強めた。農民の眼からは、これらのメンバーは国家的利益ではなく個人的利益を追求 する利己的分子であった。このようにして、ソフホーズは共同体農民の怨嵯の的となり、
農民蜂起の際には、フートル農、オートルプ農と並んでそれらへの襲撃が頻発し、ソフホ ーズは農業政策における反ボリシェヴィキの象徴的存在となった。それだからこそ、クロ ンシュタッ卜叛乱のスローガンとして、「農民の自由な経済的文化的連合体を窒息させて 生産連合のあれこれの形態に名前を付けようとするボリシェヴィキ国家の志向(例えば、
コミューンの人為的移植)との闘争、官僚的播種委との闘争、「国家穀物工場」としての ソフホーズの清算」が掲げられたのは偶然ではない。*48
既に集団大規模経営路線の見直しの声は地方から挙がっていた。20年3月に開かれた第 3回コストロマ県党協議会での食糧問題の審議の際に、「都市での飢餓を緩和するために、
われわれはかってソフホーズ、コミューン、アルチェリなどに期待をかけたが、経験によ って、それらは何も提供しないことが明らかとなった。逆に、それらはわれわれからしば しば食糧を要求し、しかるべき労働者のカテゴリーと対等に受け取ることさえ求めている」
と言及された。オシーンスキィは地方活動家としての経験から、この現実を敏感に感じ取 り、ソフホーズ路線を批判したとき、彼の主張は当時の農業の現実を充分に反映していた。
サラトフ県農業部は、ソフホーズとコルホーズの面積は全農業生産の僅か4%程度を占め るだけで、現状はそれらに不利に作用し、ソフホーズとコルホーズを通してわれわれが農 業建設の最終目標に到達できないのが明らかとなった、オシーンスキィが『プラヴダ』紙 上で、ソフホーズの強化によって農村を再建しようとするのはユートピアの道を進むこと を意味すると言ったのはまったく正しい、と彼の主張を評価した。依然として「ユートピ ア」にしがみつくボグダーノフは論拠を失い、オシーンスキイが来たるべき農業カムパニ
アの主導権を手に入れたのであった。*49
集団経営「幻想」は、ソフホーズやコルホーズが各地で崩壊すると同様に、20年秋には 崩れ去ったが、ネップに至るにはさらに大きな「幻想」からの解放が必要であった。
播種カムパニア法案の作成
20年に入ると生産地区からの報告でも、顕著な播種不足が認められるようになった。ヴ オロネジ県パヴロフスク郡から、秋蒔き畑は全体的に播種不足で、穀物は絶滅し、種子材 が不足していると、オルグセフ(播種面積委)は報告した。*50ヴャトカ県ヤランスク郡ソ ヴェト大会では、七年間の戦争で穀物貯蔵は消尽され、19年の収穫の残りはなく、負担過 重な割当徴発のために郡では春蒔き区画の45から50%が播種されなかったことが確認さ れた。*51農業地帯の至る所で種子不足が明らかとなり始めた。4月にタムボフ県キルサノ フ郡オガノフスカヤ郷執行委はレーニン宛てに、郷には種子がなく、援助は拒否された、
援助の特別措置を執ることが必要であり、そうでなければ実り豊かな土地が播種なしに残 され、そのため餓死のおそれがあると打電した。同県の20年の春蒔き播種は壊滅的であっ
−15−
た。*52
7月には、全ヴオルガの穀物の収穫は非常に悪い、サマラ、サラトフ県の多くの地方で 熱風のために収穫は全滅し、平均収穫は高々25から30プードで、播種用の穀物が確保さ れない懸念が生じたと伝えられ*53,20年の秋蒔き播種の確保が緊急の課題となった。7 月30日づけでレーニンと食糧人民委員代理H・Ⅱ・ブリュハーノフの連名で、次のような 軍事プリカースが打電された。秋蒔きの完全播種は軍事的任務であり、秋蒔き播種を行わ ない者の土地は村団に引き渡され、労働力が不足する場合には村団全体による播種が義務 づけられる。秋蒔き穀物の収穫はまず播種に向けられ、秋蒔き区画を登録し、それへの完 全播種のための種子を確保することが、郷執行委と村ソヴェトに義務づけられた。このた め昨年の秋蒔き収穫のすべてを投入し、不足する場合には新収穫の強制脱穀が組織され、
この種子が確保されるまでは食糧への利用は禁じられた(全面的飢餓状態であるにもかか わらず)。また、種子を持たない者は翌年に12%の利子を付けて返済することを条件に、
国家種子フォンドからの貸付が行われた。これら種子を受け取った者が食糧などに流用し た場合には、財産没収と強制労働の処罰を受けることになった。*54この軍事プリカースは 地方で厳粛に受け止められ、各地でこれに準じた条令が公布された。旱越による凶作を蒙 ったトゥーラ県チェルニ郡では、種子用穀物が食用に流用されないように、播種が完了し 種子任務命令が遂行されるまで製粉所が閉鎖された。住民の多くはパンを受け取ることが できず、このためヴオロネジ県ザFンスク郡から伝えられるように、餓死の恐れさえ生じ
ていた。*55
8月の完全播種に関するプリカースの中で、すべての畑に播種されたことを10月15日 までに通告することが、県食糧コミサールに義務づけられていたが、播種に関する地方か らの情報は惨憎たるものであった。これに基づき、今年の秋蒔き播種に関する報告が、11 月18日の食糧人民委員部参与会で行われた。北部、北西部、中央の諸県では19年に比べ て20年の秋蒔き区画の播種は増加したとされたが、それでも、北部セヴェロドヴイナ県で の25%の増加を別とすれば、残りは数%の僅かな増加でしかなかった。これらの地区のう ちでも、ヴイテブスク、ヴォログダ、チェレポヴェツ、コストロマ、カルーガ、トウーラ、
ニジェゴロド県で播種不足が認められるだけでなく、穀物地帯である南部、ウラル地方と ヴォルガ流域諸県では、エカチェリンブルグ、スタヴロポリ、アストラハン県を除き大規
模な秋蒔き播種の縮小があった。*56
播種不足の克服に一刻の猶予もなかった。これ以後、食糧人民委員部内部ではオシーン スキイを中心に、強制播種の実施に向けての準備が整えられる。彼の立場はいうまでもな く、播種委を利用しての強制を伴う国家規制の方針と、割当徴発の不動の継続であった。
10月28日の食糧人民委員部参与会会議で、播種面積の縮小との闘争に関するオシーン スキイの報告が行われ、播種カムパニアの準備を開始し、割当徴発終了時の21年1月半ば 以後食糧組織は、穀物の県内再配分と国家種子フォンFの形成に活動の中心を移し(割当 徴発を1月半ばで終了させ、その後播種フオンドの形成に取りかかることが想定されてい たことに注意せよ)、播種計画の執行のための特別軍事組織=播種委員会を設置し、強制 的措置を含めて土地耕作の国家規制を行う、との基本的テーゼが採択された。このテーゼ に基づ<CHK政令の作成のため、ツュルーパとオシーンスキィを含む特別委員会が設置 され、ここで作成された草案が食糧、農業人民委員部の合同参与会で検討に回された。*57
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