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次大戦前 における ドイツの銀行 の国際業務

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(1)

‑ 95‑

1

次大戦前 における ドイツの銀行 の国際業務

大 矢 繁 夫

( 論 説)

は じ め に

1

次大戦前 における ドイツの銀行の国際業務 は,次の

3

つに分類 しうる。

1

は貿易金融,第

2

は外国証券の発行 と ドイツ国内での売 り捌 き,そ して第

3

は,同 じく外国証券の発行 に関わ りつつ も,海外での支店や現地法人の設立 まで至 って現地の産業関与 まで踏み出す もの,である。第 2 と第 3 のものは, 同 じく証券投資に関するものであるが,そこには,対外証券投資を媒介す るだ けか,それ とも自らも対外投資を行 って独 自的な機関を設置 したり対産業参与 へ も踏み出すか, という区別が存在す る。 したが って,第

2

のものは外国の公 債などを中心 とした業務,第

3

のものは外国株を中心 とした業務, というよう

にもいえる1 ) 0

また, このような匡l 際業務の担 い手は, いうまで もな くベル リン大銀行 (と りわけ

DeutscheBank,DiscontGeselischa

f t

,DresdnerBank,Berliner HandelsGesellschaft,Bank ftirHandelundIndustrie)

とそ していくつ かの重要な個人銀行, すなわち,

BleichrOder,Mendelssohn,Warschuer, Oppenheim,Warburg,Bethmann

などであった。

小稿 は, このような ドイツの銀行が,上記のように

3

分類 しうる国際業務を

1 )なお, この時期に多くみられる鉄道債は,第

2

と第

3

の両方に跨がるもの, と整

理できる。 というのは,後にみるところであるが, ドイツの銀行が外国の鉄道債

を発行するときは, すでにその鉄道会社に参与するなど一定の緊密な関係が築か

れている場合がかなりみられるからである。

(2)

‑ 96

1

次大戦前におけるドイツの銀行の国際業務

いかに展開 していったか, その事例を追 い, そ してそれが,国際業務であ りな が らも ドイツの国内金融市場 といかなる構造的連関を もつ ものであったか, と いうことを探 ろうとす るものである。 以下では, M.

Pohl

K.E.Born

によ りつつ2 ) , ドイツの銀行 の国際業務 ・国際的展開の姿を追 うことか ら始 め てゆ く。

Ⅰ ドイ ツの銀 行 の国 際業 務 ・国 際 的展 開

1

まず,国際業務の うちの第 1の もの,貿易金融 に関連 して, ドイツの銀 行 はどのように国際的展開を遂 げていったか, をみてゆ く。貿易金融に関連 し

た機関 としてまず挙 げ られ るのは

,Deutsche‑BelgischeLaPlataBank

で ある。 この銀行 は,一方でベルギーと ドイツとの貿易の促進 を,他方でアルゼ ンチ ンー ウル グァイ間 の貿易促進 を 目的 とす るもので あ った。設立 は

,1872

年 に

Discont‑Gesellschaf

tが

BankhausSal.Oppenheim jr.&Co

( ケル

ン) および

OsterreichischeCrediトAnstal

t (ウィー ン) と共同で行 い, 本 店 はケル ンに置かれた

。1874

年 にはすでに

,DisconLGesellschaft

はこの業 務 の リスクを認識 し, 当時拡張 に急であ った

Deutsche Bank

にその持分を 売却 した。

Oppenheim

も同様であった。

Deutsche Bank

の手 に移 った

2)ManfredPoh

l ,

"FestigungundAusdehnungdesdeutschenBankwesens

zwischen1870und1914,"inDeutscheBankengeschichte,Bd.2(Frankfurt am Mein,1983).以下 Poh

l

,"Festigung

. . : 'と略

。KarlErichBo

r

n,Znter nationalBankinginthe19thand20thCenturies(Warwickshire,1983).

だし

,Poh

lも

Born

も,銀行の国際業務を

3

分類しているわけではない。両者

とも 「 資本輸出」 という枠組を重視 しているためか,例えば貿易金融のための海

外機関設置もこの枠内に捉えられてしまっているし, また,対外投資における第

2

と第

3

の区別も意識されていない。 なお, 当該期 ドイツの銀行の国際的展開,

海外進出を扱っている比較的最近のものとして,居城弘 「ドイツ金融資本と国際

的信用制度の展開」( ‑) ,( I)『 法経研究』( 静岡大)第

30

1

,1981

,3・4

,1982

年,赤川元章 「 第

1

次大戦前におけるオリエント諸国とドイツの経済的

諸関係

『 三田商学研究』第

26

巻第

2

,1983

年,がある。併せて参照せよ。

(3)

1

次大戦前におけるドイツの銀行の国際業務

1 97

LaPlataBank

は, その資産のかな りの部分が ウルグァイの国債 によって占 められ, ウルグァイの政変 とともにそれが不良資産化 し, 最終的には

1885

年 に閉鎖 されることになる

。DeutscheBank

は総 じて

,LaPlataBank

につ いては当初か ら楽観的な見通 しをもち, また積極的関心 もそれほど強いもので はなかった, という

3)

0

LaPlataBank

の失敗にもかかわ らず,南米への関わ りはなおいっそ う強 め られていった。 ドイツの貿易相手 として南米はますます重要 となっていたか らである。 とりわけ, アルゼ ンチンの獣皮,チ リの硝石, ブラジルのコー ヒー は需要の高い輸入品であった

。DeutscheBank

,LaPlataBank

の清算 の

1

年後, このような状況の中で

,Deutsche廿berseeBank

1000

万マル クの資本を もって設立す る。本店 はベル リンに置かれ,そ してブェノスアイレ スに支

店 BancoAlemanTransatlantico

が設置され, ドイツとアルゼ ンチ ンの貿易に金融をつけることが主要任務 とされた。 また後者の支店 自体 も南米 の諸都市に多 くの支店をもった

. Deutsche OberseeBank

は,

Deutsche Bank

の取締役会 メンバー

3

人が同時にこの機関の取締役会 メンバーとなり,

Deutsche Bank

か らしっか りと手綱をっけられることとなった。 そ して,

1893

年 には

,DeutscheOberseeischeBank

とな り, 資本金 も

2000

万 マル クに増大 し,その活動領域 は

90

年代後半以降南米全体へ と拡 げ られていった のである4 ) 。

Deutsche Bank

以 外 で は

,DiscontGesellschaft

Norddeutsche Bank

Deutsche Bank

の例 に習い

, 1887

年 に

1000

万 マルクの資本を

もって

BrasilianischeBankftirDeutscheland

を創設 した. これは, ベル リンに本店を置 き, リオデジャネイロ,サ ンパウロ, ポル トアレグレに支店を もった。 さらにこの両行 は

, 1895

年 に上記機関の姉妹機関 として同 じく

1000

万マルクを有す る

Banl

i

ftirChileundDeutschland

をハ ンブルグに創設 した。 これ ら創設 された銀行は, やはり チ リ硝石の貿易や 南米の鉱業へ と閲

3)Born,op.cit.,pp.125126.

4)Lbid.,p.126.Pohl,a.a.0..S.237.

(4)

‑9 8 ‑

1

次大戦前におけるドイ. ツの銀行の国際業務 わ った5 ) 0

以上のような

DeutscheBank

Discont‑Gesellschaf

t の活動 に続いて 他の大銀行が進出 してゆ くのは, なお

10

年 ほど遅れることになった。 すなわ ちそれは

,1905

年 における

,DresdnerBank,SchaaffhausenscherBankv‑

erein,NationalbankftlrDeutschland

3

行共同による

Deutsch‑Stldam‑

erikanischeBank

( ベル リン)の創設であった

6)

0

ところで, ドイツの銀行の,貿易金融を主要 目的 とした対外進出は,以上の ような海外銀行の設立 に限 られるものではなかった。何 よりも, ロン ドン支店 の設置が重要 な意義 を もっ ものであ った。次 に, もっと も代表的 とされ る

DeutscheBank

のロンドン支店について, その設立の経緯をみてお くことに す る。

DeutscheBank

は,その設立の当初か ら,主要 目的の

1

つに貿易金融を掲 げていた。定款には 「 会社の目的は, あ らゆる種類の銀行業務の推進であ り, とりわけ, ドイツと他のヨーロッパ諸国や海外市場 との間の貿易関係の促進 と 容易化である」 と謡われていた。そ して, ドイツには,経済問題の中の最 も重 要な要因の 1つ,すなわち, ドイツと他の世界部分 との取引に ドイツ自前の金 融をつけるということが欠 けている, と強 く訴えた。 この金融 は,当時 ほとん どがイギ リスとフランスの商会によって行われていたが,それも ドイツの銀行 が相応 の保証 を担 った時だ 8 才に限 られ る ものだ った。 か くして

Deutsche Bank

は,貿易金融 のための ロ ン ドン支店設置の方 向へ強 く踏 み出 してゆ

7)

0

しか しなが らさしあたっては, 種々の法律上の問題か ら,

German Bank ofLondon Ltd.

とい う銀行を共同設立 し, それに強力な株主 として参与す

るという形を とった

。 German Bank ofLondon

, 18

7 1 年

3

月に

, 60

5)Bo

r n

,ob.c

i

t.,p.126.Pohl,a.a.0.,S.237. 6)Born,ob.cit.,p.126.

7)ManfredPohl,=100JahreDeutscheBankLondonAgency:TinBeitrlage zu Wi7ischaf

i s

r㍑nd l柁hrungsfragen undzurBankgeschite,Nr.1bisNr. 20(Lainz,1984)

,以下

Pohl,=100Jahre…

"と略

。S.245.

(5)

1

次大戦前におけるドイツの銀行のE g際業務

‑ 99‑

万 ポ ン ドの資本 を もって

,DeutscheBank

のほか

FirmenGebr.Sulzbach

(フランクフル ト)

,MitteldeutscheCreditbank

( マイニ ンゲ ン) , そ してイ ギ リスの商会

Deinnistown and Fred.Rohdewald

によって創設 された。

Deutsche Bank

の持分 は

1/4

強であった

8)

。 他方で, この時期

Deutsche Bank

は,貿易金融のために ドイツ国内で もブレーメ ン支店を開設 した

(1871

7

月) 。 引受信用 とい う業務 の性格上, 資本金 はわずかでよ く

,55

万 クー レ ルがあてがわれた。 か くして この時期

,DeutscheBank

の資本金総額

500

夕‑ レル の配分 は次 の よ うで あ った。 ベル リン

335

万 タ‑ レル, ロ ン ドン

(GermanBankofLondon)110

万 クー レル, ブレーメ ン

55

万 タ‑ レ ル 9 ) 0

ところで,上記 の

German Bank ofLondon

,DeutscheBank

の海 外業務 にとって十分利用可能な ものではなか った。 この銀行の地位 と信用 は, 何 よりも背後 に控える

DeutscheBank

の資本力 に依存す るのであ り, それ は十分 な もので はなか ったか らだ とい う1 0 ) 。 そ こで

Deutsche Bank

は,

1872

年 に資本金を

1000

万 タ‑ レルへ と増大 させ, さ らに翌

73

年 には

1500

万 夕丁 レルへ と積み上 げた。 そ して, 同年

3

月に

,DeutscheBank

はついに自 前 の支

店 DeutscheBankLondonAgency

を開設す ることとなる。 このロ ン ドン支店 は,開設 とともにす ぐさま活発 な活動を展開 していった。主要業務 は, い うまで もな く,世界のあ らゆる輸出入 に金融をっけるため,手形を引受 けることにあった1

1)0 DeutscheBank

B/S

の 「引受」 項 目の増大 は, こ

8)Ebenda,S.246247.

9)Ebenda,S.257258.

なお

Pohl

は, 以上

3

機関の設立をもって

Deutsche Bank

の展開の第 Ⅰ期としている。第Ⅱ期は,引続 く‑ンプルグ支店,上海支店, 境浜支店の設立以降, そして第Ⅲ期は

DeutscheBankLondonAgency

の設 立以降としている。

10)DeutscheBank

は結局

,1879

12

月に

,GermanBankofLondon

の持分を

10

万マルク余りの損失をともなって売却 した

oPohl,"100Jahre"‥"S.258.

ll)Ebenda,S.248249.

なお,ロンドン支店は,貿易金融の他に,貴金属や証券業

務にも携わった。 とりわけ証券業務に関しては, ロンドン支店から送られてくる

情報だけでもベルリンにとってはかけがえのないものであったo また,外国株へ

の投資は慎重であったが

,1890

年代のブラジルやスペインなどの大規模な公億発

行には参加 した。詳 しくは

,Po

l,"100Jahre

,"S.253254.

を参照。

(6)

‑100 1

次大戦前におけるドイツの銀行の国際業務

のロン ドン支店の活動 によるところが大であったのである

12)

0

ロン ドン支店の活躍の全体像 は, 総売 り上 げ高

(Gesamtumstze)

の推移 が これを示す。 すなわち

, 1873

年の創業の年 にはそれは

400

万 ポンドであっ たが

,1900

年 には

6

億 ポンドを越え

,1912

年 には

10

億 ポンドを越えるまでに 増大 した

13)。DeutscheBank London Agency

は, その設立か ら

10

年以上 にわ た って, ロ ン ドンにお け る唯一 の ドイ ツの銀行 で あ った

。Dresdner Bank

が 支 店 を 開 設 した の は

1895

年 に な って か らで あ り

, Discont Gesellschaf

tの支店開設 は

1899

年であった

14)

2

ここでは,銀行の国際業務の うち第

2

の もの,すなわち,外国証券の発 行 と ドイツ国内での売 り捌 き, もしくは外国公債などへの投資の媒介 につい て,主要な事例を追 ってゆ く。

まず ヨーロッパ諸国の公債 との関わ りであるが, ドイツの銀行 はオース トリ ア=ハ ンガ T )‑の国債の発行をすでに

1864

年 に手掛 けている。 この時の ドイ ツの銀行 は

DiscontGesellschaf

tや

Bleichr6der

などであり, コンソーシ アムを形成 して国債を引受 けた。 その後, これ らの ドイツの銀行は

, Vienn‑

eseRothschildBank

主導の

RothschildConsortium

に加わ り, オース ト リア‑‑ ンガ リーの国債や鉄道債発行 に携わっていった。

ドイツの銀行 は,セル ビアの国債発行にも深 く関わ った。 その中心 となった のは

BerlinerHandelsGesellschaf

tであ り

,1884

年 にその主導でセル ビア 国債発行のためのコンソーシアムが形成 された。 しか し,国債発行の 1年後, セル ビア政府 の利払 いは滞 って国債価格 も崩壊 に瀕 し

,BerlinerHandels Gesellschaft

は窮地 に立っ ことになる

15)

0

ロシアの国債 も ドイツの銀行が発行を行 い

,1880

年代後半ではロシア国債の

12)Ebenda,S.247248. 13)Ebenda,S.250.

14)

なお

,DeutscheBankLondonAgency

の清算は複雑な経過を辿り,この支店

の支配人

RudolfFrensel

が最終的にロンドンでの活動を終えベルリンに戻った

のは

,192412

月だったという

。Vgl.Pohl,"100Jahre",S.254257. 15)Born,op.cit.,pp.128130.

(7)

1

次大戦前におけるドイツの銀行の国際業務

‑101

60%

が ドイツ人 に所有 されていた。 しか し, ドイツとロシアの政治的関係が 決定的 に悪化 し, そのよ うな状況下 で ビスマル クは

,1887

年, ロシア証券 に 対す る規制措置を講 じた。 そ して, ロシア国債 は ドイツ国内で冷遇 され ること になる。 すなわち, ビスマル クは, ライ ヒスバ ンクに, その全ての支店での ロ シア証券 に対す る担保貸付 を禁止す るよう指令 を出 し, その結果, ロシア国債 への需要 は縮減 し,所有者 は売却 を急 いだ。なお, この ロシア国債 を買 い取 っ たのはフランスの銀行であ った。 その後

,1894

年 に上記 の担保貸付禁止 は解 除 され, 直 ちに, ロシア証券の取引 は復活 してゆ く

,1894‑95

年 には

,Ble ichr6der,Mendelssohn,Warschauer,Warburg

な どの個人銀行, そ して

DisconトGesellscbaf

tや

BerlinerHandelsGesellschaft

,1

1億 フラ ンに のぼるロシアの鉄道債 を発行 した。 だが, フランス市場 で は, この

5

倍 に達す る国債が発行 され, もはや ドイツの銀行が ロシアとの取 引で第 1位 を占めるこ とはで きなか った 1 6 ) 0

上記 の ビスマル クの規制措置 によって ロシアとの取 引が急激 に縮小 した後, それ に代 って ドイツに持 ち込 まれたのはイタ リアの国債で あ った。 この時期, 政治的関係か ら, イタ リアの国債 はパ リか ら締 め出されベル リン‑ と向 ったの であ る。 ドイツの銀行 にとって も, ロシアとの取 引が削減 した後, イ タ リアの 国債 はそれ を埋 め る新 た な活 動 分 野 で あ った

。1887

,Bleichr6der

,

Dis cont‑Gesellscha

DeutscheBank

は, イギ リスや スイスの銀行 とも協力 し なが ら大規模 な コンソー シアム

Consortium for ltarian Business

を形成

し, イ タ リア証券 の発行 に関わ ってゆ く。 この コンソーシアムは

,1890

年 に

Deutsche Bank

BerlinerHandels‑Gesellschaf

t によって改 めて編成 さ れ, その組成 の最初 の

18

カ月間 に

,432

( 百万) リラにのぼ る

4

件 のイタ リア 国債 を発行 した1 7 ) 。さ らに,イ タ リアの 自治体 や鉄道 の証 券発行 を も担 って いった.また, この コ ンソー シアムの 何 よ り重要 な業績 は

,1894

年 における

16)Ibid.,pp.1231124.Poh

1

,.1Festigung.

"

,

"

S.236.

17)

この時期の他の参加行は

,Dresdner Bank,DiscontGesellschaft,Bank f也r Handelundlndustr

i

e,Bankh畠userS.Bleichr6der,Sal.Oppenheim jr.&

Co

̲ ,

L.Behrens

&

S6hne

であった

.Pohl,"Festigung

.,"S.240.

(8)

‑ 1 0 2‑ 第

1

次大戦前におけるドイツの銀行の国際業務

イタ リアの大銀行

Banca Commerciale ltaliano

(ミラノ) の創設であっ た

18)

。 このイタ リアの銀行 は, まもな くイタ リア最大の商業銀行 とな り, イタ リア造船業や北部イタ リアの工業 に金融をっける主要機関となっていった。 コ ンソーシアム参加の ドイツの諸銀行 は, このイタリアの銀行への参与を第

1

次 大戦時まで保持 し,それぞれ監査役を送 りこんでいた1 9 ) 0

ドイツの銀行が発行 した外国公債 は,以上のような ヨーロッパ諸国の ものに 限 られてはいなかった

。1899

年 には

,DeutscheBank

Bleichrbder

は,

.P.Morgan

&

Co.

やい くつかのメキシコの銀行 との問で

,600

万 ドルの 資本金を有す る

Banco CentralMexicano

を設立す る合意 に達 している。

それは,それまでほとんどイギ リスの銀行 によって行われていた南米の公債発 行 に, ドイツの銀行が参入す る足場を提供するものだった

20)0

ドイツの銀行 の公債発行業務 は, さ らに東 アジアの ものに も及んでいた。

1889

年 に

,DisconLGesellschaf

tと

DeutscheBank

は,他のベル リン大銀 行や個人銀行

1

1行 と共同で

Deutsch‑AsiatischeBank

をベル リンと上海 に 設立 した。 この銀行 は

, English Hongkong&ShanghaiBanking Cor poration

と共同で

,1896

年 と

98

年 に, 日本‑の戦争賠償を課 されていた中 国の国債発行を手掛 けた

2

1 ) 。 そ して, この

Deutsch‑AsiatischeBank

の活動

は,国債発行 に留 まらずさらに踏み出す ことになる ( 後述) 。

3

次 に, ドイツの銀行の国際的展開の うち第

3

の もの,すなわち,外国証 券の発行 に関わ りつつ も, 自らも投資 して現地産業の関与へ も積極的に踏み出

していった事例を取扱 う。

ヨー ロ ッパ 内で は

,DiscontGesellschaf

tがルーマニアの鉄道 に深 く関 わ った。 ル ーマニア鉄道会社 が破産 に瀕 した時

,DiscontGesellschaft

Bleichr8der

などとともにその株を低価格で取得 し,以後第

1

次大戦まで この

18)

この銀行の創設には, コンソーシアム以外からも, いくつかのオーストリアやス イスの金融機関が加わった

。Cf.Born,op.c

i

t.,p.125.

1 9 )

Zbid..pp.1241125.

20)Pohl,"Festigung.

.

..,"S.237.

21)Bo

r n,

op.c

i

t.,pp.126127. Pohl,"Festigung

.

̲

,"S.237.

(9)

1

次大戦前におけるドイツの銀行の国際業務

‑103‑

2

つの ドイツの銀行 は,ルーマニアの鉄道 に対する大金融業者であ り続 けた.

さらに, この

2

行 は

,1897

年 ブカ レス トに

BancaGeneralaRomana

を設 立 した。 それ はやがて, ルーマニアで第

2

位 の規模 を もつ商業銀行 とな っ た

22)

0

ルーマニアに進出 した大銀行 は

DiscontGesellschaf

tばか りでなか った。

世紀の転換以降,

Deutsche Bank

がルーマニアの石油に深 く関わ っていっ た。 経緯 は次のようであった。 ルーマニアの石油会社

Steaua Romana

1902

年に金融上の諸困難 に陥 った時,最終的に

DeutscheBank

に救いが求 められた。 そ して

DeutscheBank

WienerBankverein

とともに, この 会社の株式の最大部分を手 に入れたのである。 その後

DeutscheBank

は,

1904

年 に持株会社

Deutsche Petroleum AG

を設立 し, それに対 しては

50%

以上の参与を保持 した。 か くして, 石油会社

SteauaRomana

Deu‑

tschePetroleum AG

の子会社 とな り,後者 は

DeutscheBank

の子会社 と なったのである

。DeutscheBank

のこのような石油事業 は, 当初 はわずかな 利潤 しか生 まず

Standard Oi

lへの売却 も計画 されたが, その後需要増大 と ともに十分収益のあがるものとなり,第 1次大戦 によってその権益を失 うまで 続 けられた2 3 ) 0

トルコにおいては

,DeutscheBank

1888

年 に, トルコ政府か らアナ ト リア鉄道の建設許可を得た。 ただその際

,DeutscheBank

,3000

万マル クの トルコ国債の引受 けを条件 とされ,その発行のためのコンソーシアムも形 成 されたOそ して翌

89

年 に, コンスタンティノープルに鉄道会社が設立 され, 同年, イス ミッ ドか らア ンゴラまでの最初 の鉄道建設を目的 として

5%

利付 債券が発行 されたO この鉄道債発行のコンソーシアムは, いうまで も

DeutsI cheBank

によって指導 された

24)

.

北 アフリカには,

Dresdner Bank

が中心 となって進出 した。

Dresdner Bank

,SchaaffhausenscherBankverein,NationalBankfarDeutsch‑

22)Born,op.cit.,p.129. 23)Ibid.,pp.132133.

24)Pohl,"Festigung‥,"S.239.

(10)

ー104‑

1

次大戦前におけるドイツの銀行の国際業務

land

と共同で

1905

年 に

DeutschOrientbank

を創設 した。そ して この銀行 が, エジプ トの抵当銀行やアレキサ ンドリア所在の ドイツ系紡績工場などに参 与 したのである。 さ らに

1906

年 に, この銀行 は,小規模 だが活動的な タン ジールの銀行を取得 した。それは,モロッコの諸企業 に対する金融を自らのも のとするためであった。 その他

,DeutscheBank

Deutschtiberseeische Bank

もまた, モロッコの

AngloAgyptianBank

に参与 していた

25)

0

合衆国においては

,DeutscheBank

,1880

年代

,90

年代を通 じて

,J.

P.Morgan

や鉄道王

James Hil

l と結 びつ きを強めていった

。 Deutsche Bank

は,鉄道会社

AmericanNorthernPacificRailroadCompany

に大

きな利害関係を有 し

,2

度 にわたって この鉄道会社の再建 に尽力せねばな らな か った。すなわち, この会社 に新資本を供給するためコンソーシアムが形成 さ れて

,DeutscheBank

が引受 けた分の債券や株 は ドイツの取引所で売 り捌か れたのである

2

6 ) 0

DeutscheBank

は,合衆国で

NorthernPacific

の再建 に関わっていた同 時期に, アルゼ ンチ ンの発電株 にも関与 していった

。DeutscheBank

は, ブ エノスアイ レスに発電所建設の利権を得ていた

AEG

と結 びついて, 発電所 建設 と営業のための会社

Deutsch‑廿berseeischeElektricitatsGesellschaft

を設立 した。 この会社 は, ブェノスアイ レスに最大容量をもつ発電所を擁する ようになり

,1905

年 までに

3

度増資 され資本金 は

3600

万マルクとなった

2

7 ) 0

東 アジアでは

,DiscontGesellschaf

tや

DeutscheBank

によって設立 さ れた

Deutsch‑AsiatischeBank

が, すでにみたような中国国債の発行に留 まらず, 中国の鉄道や鉱業 に深 く関与 していった。 すなわち

, 1897

年 に , ラ イ ヒの野望 は弱体化 した中国の東北部 に向けられ,贋州湾を占領 して山東地方 の鉄道や鉱山の利権を獲得するに至 ったが,その際に山東鉄道会社や山東鉱業 会社設立の指導権を握 ったのが

Deutsch‑AsiatischeBank

であった

28)

ドイツの植民地 に積極的な関心を もち,本格的に関わったのは, 唯一

Dis 25)Bo

r

n,op.c

i

t.,p.127.

26)Ibid̲,p‑131. Pohl,"Festigung...:'S.238.

27)Bo

r

n,op.c

i

t.,p.132. Pohl̀Festigung....,''S.238.

28)Bo

r

n,op,c

i

t.,p.127. Pohl,"Festigung

‥‥

,"S,238.

(11)

1

次大戦前におけるドイツの銀行の国際業務

1 0 5 ‑

conLGesellschaf

t だけであ った。 当時, 多 くの銀行家 は

,1882

年 に設 け ら れた

DeutscherKolonialverein(1887

年か らは

DeutscheKoronialgesel lschaft)

に加 わ って いたが, 彼 らの ほ とん ど は,植 民 地 へ の熱 情 につ いて

リップサー ビスをす るだ けであ り,本気で資金的関わ りを もとうとは しなか っ た。

DiscontGesellschaf

t の会長

Hanseman

だ と =ま, 他 の銀行家達 とは 臭 って, ニューギニアに強 い関心 を示 して

Bleichr6der

とともにニューギニ ア ・コンソー シアムを形成 し, そ して ビスマル クを して,次 のよ うな政策 を取 らしめよ うと した。すなわち, ドイツはニューギニア北東部 を保護領 として取 得 し, その管理 ・経済 開発 ・鉱 山開発 を ドイ ツの民 間会社 の ビジネスに委 ね る, とい う政策 である。 この計画 は実現 し, ニューギニア北東部 の管轄権 は,

D主scontGesellschaft

BleichrOder

が創設 した

NeuguineaKompanie

の もの とな った。 しか しその経営 は失敗 し, 最終的 に

1898

年 に領土権 は

400

万 マル クで ライ ヒに売却 された 2 9 ) 0

4

以上, ドイツの銀行 の国際業務 を

,3

つの局面 に分 けてその事例 を迫 っ て きた。すなわち,貿易金融,他国 の国債 な ど外国証券 の発行,そ して外国産 業への積極的関与, とい う整理 であ った

3

0 ) 。 以下 で は, これ らの事例 を念頭 に 置 き,全体 的な特徴づ けを行 ってお く。

29)Born,op.cit.,pp.130131

.

30)

ただし,例えば, 海外に設置された ドイツの機関の問にこの

3

業務に関 して分業

が存在 し, それぞれがその専門機関として活動 した, というような強い特徴をも

つものではなかったC この点例えば

,DeutschBelgischeLaPlataBank

は,

貿易金融のみならずウルグァイ国債も大量に抱えていた。 また, イタリア国債の

発行のため

1887

年に結成されたコンソーシアムは, 国債発行業務に留まることな

くイタリア国内に最大の商業銀行を設立 し, そ してこの後者の銀行はイタリアの

産業に金融的に関わった, という事例がみられた。 さらに

,DeutschAsiatische Bank

は, 中国の国債発行を担 うと同時に, 山東地方の鉄道や鉱業にも関わっ

た。 しかしながら,いうまでもなく,貿易金融,対外証券投資の媒介,そして外

国産業への関与ないし直接投資という銀行業務の間には, 明確な理論的区別が設

けられるべきである。 このような点と開通 して,従来の 「 資本輸出」 という枠組

に批判的視点を提供 している村岡俊三氏の所説 ( 『 世界経済論』有斐閣

,1988

年,

4

章)を参照せよ。

(12)

‑106

1

次大戦前におけるドイツの銀行の国際業務

まず,外国証券に関わる第 2 と第 3 の,すなわち, ドイツの銀行が媒介する か もしくは自らが行 った,いわゆる 「 資本輸出」の量についてであるが,第

1

次大戦前 におけるこの残高の詳細なデータは存在 しない

。Born

は, この残高 について

,235

億マルクと

310

億マルクという

2

つの数字をあげ, 種々の理由 か ら前者の

235

億マルクを妥当なものと推定 している。 また

Pohl

も, いく つかの推定額を紹介 しなが ら

,1890

年頃ではおよそ

100

億マルク

,191

3年末 ではおよそ

200

億マルクと残高を見積 っている。 さらに

Bom

によると, こ の総額の半分以上 ( およそ

120

億マルク) はヨーロッパに投 じられ (ヨーロッ パの内訳 は, オース トリア‑ハ ンガ リーがおよそ

1/4

30

億マルク, そ し てロシアと トルコがそれぞれ

18

億マルク) ,そ して,残 りの海外へ投 じられた 分をおよそ

100

億マルクとすると,そのうち,北アメ リカとラテンアメリカへ はそれぞれ

37.5

億マルクずつ投下 された, という。 また, ドイツの植民地に は,全体のわずか

2%

ほどが投 じられただけであった, という

31)0

ドイツの対外投資残高については,おおよそ以上の推定 によるとして も, 年々の新規の投資額,すなわち, ドイツにおける外国証券の年毎の発行額につ いては数値がある。 第

1

表は

, 1884

年か ら

1913

年までの

30

年間を

5

年間ず つ

6

つの期間に区切 り,証券発行額の推移をみようとしたものである。それほ ど目立 った特徴は窺えないが,国内証券の方 は,債券 も株式 も着実な増大をみ せているのがわかる。債券については,最後の期間の発行総額は第

1

の期間の それの 3 倍強に,株式については 7 倍強になっている。他方,外国証券の ドイ ツ国内での発行 は,債券 も株式 もそれほど大 きな変動をみせず一定の水準を 保 っていた, といえる。

そこで,総括的に, ドイツは

1880

年代以降コンスタントに対外投資を続け, ドイツの銀行 はそれを媒介 し,また自らも投資 して債券や株式を保有 しつつ, 多 くのヨーロッパや海外の諸国の産業 ( 鉄道,港湾,鉱山など)に参与 した, としうるであろう。なお, もう少 し具体的に概括すると,次のようになる。ま ず,外国公債については, ドイツの大銀行が国別 ・銘柄 ごとにコンソーシアム

31)Bo

r

n,op̲c

i

t.,133134.Pohl,"Festigung....,''S.241.

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