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奈良教育大学学術リポジトリNEAR

スイスの山間僻地における幼児教育の現状と課題 

― ベルン州の定時制幼稚園の試行を中心に ―

著者 福田 弘

雑誌名 奈良教育大学教育研究所紀要

巻 22

ページ 67‑78

発行年 1986‑03‑23

その他のタイトル The Current Situation and Problems of

Earlychildhood Education in Remote Mountain

Regions in Switzerland ― Analysis of Kanton

Bern's Part‑time Kindergarden Project ―

URL http://hdl.handle.net/10105/6620

(2)

スイスの山間僻地における幼児教育の現状と課題

     ベルン州の定時制幼稚園の試行を中心に一

福 田   弘

 (教育学教室)

I.はじめに

 近代教育史上の二人の偉大な人物、J.J.ルソーおよびJ.H.ベスタロヲチを生んだ国スイ スは中央ヨーロッバの小さな連邦国家であワ、さまざまな特色を持っている。その一つは、ス  イスが九州ほどの国土ながら、全部で26の州(カソトソ)と准州(パルプ1カソトソ)から成  ワ、そのそれぞれが強力な自治権を有していることである。その白治性はアメリカ合衆国の州

の場合よワも強力である。国民教育に関する事柄も、その大枠は連邦憲法が規定しているが、

具体的な制度の規定と運用は個々の州の権限とされている。各州は独自の教育制度を定め、国 民教育を行りているため、スイスの教青制度は極めて多様なものとなっている。義務教育です  らそんな状況であワ、義弼就学期以前の幼児教育段階については、なおさら複雑である。今日  スイスではおよそ4つのタイプの考え方による幼児教育が並存している。つまワ、伝統的な7  レーベル式幼稚園、モンテッソーリ法に基づく幼稚園、アガシ法に基づく幼稚園、そしてジュ  ネーヴのジベ/・ジャフク・ルソー研究所付属のr子どもの家」の理論と実践に基づく幼稚園  の4種類が存在するのである。おおまかにいりてフレーベル式の幼稚園はドイツ語圏スイスに 支配的であワ、モンテッソーリ式幼稚園はイタリー語圏スイスの一部、およびフランス語圏ス  イスの一部に見られ、アガシ法の幼稚園はイタリー語圏スイスで支配的である。最後のr子ど  もの家」方式のものは、ジュネーヴとレート・Pマンシュ語地域で主流をなしている。個々の  州の幼稚園制度を調べてみると、事態ははるかに複雑になりている。ただし今日では、幼児教

育の重要性が認識され、幼稚園普及の努力が当局によっても盛んになされるよラになりてきて  いる点は、いずれの州においても共通している。そのような努力の中で非常に注目に値するの  がベルン州やグラオピュソデソ州における山間僻地への幼稚園普及の試みであ飢

  本稿は、1960年代の世界的な幼稚園改革連動の延長線上に位置する、この山間僻地への幼 稚園普及運動の背景並びにその実態、特にヨーPツバでも初めての試みといわれる定時制幼稚  園の理念と実態について検討し、問題点や課題について考察しようとするものである。まず、

 1960年代の幼稚園運動の特色とその成果について考察しておこう。

Tho Cur記nt Situation and Pl・oblem80f E蛆1y曲ildhood Edu㎝tioll i11Remote Moulltah Re昂。ns in Swit鴉r1a皿d−Am1y出。f Ka11ton Bem s Pa㎡一time Kin−

dorgarden Pmお。t−

H辻08阯FUKσDA(Depa舳ment of Pedagogy,Nam UIlive祠ity of Educ8tio匝)

(3)

皿.1960年代の幼稚園i□動の特色と成果

(1〕西ドイツにおける幼児教育改革運動

   1960年代後半には、アメリカに端を発した幼児教育改革運動がヨーロッバ諸国に波及し   た。もともとこの運動は、ピアジェと彼の協力者たちの心理学研究の成果牽ひとつの動因と   して、1950年代にアメリカで開始されたものであった。教育の機会均等の実現がそのスロ   ーガソの一つであった。たとえばrヘリド・スタート計画」のような、文化的、経済的格差   による教育機会の不均等、その結果として生まれる文化的、経済的格差、という悪循環を断   ち切ワ、小学校就学時における学力差の解消を図ることを目的とする就学前補償教育プログ   ラムが有名である。もっとも、この運動のそうした積極的蔵味は当然認められなければなら   ないが、同時にそれはrスプートニク・ショック」の結果、広くあらゆる階層から、隠され   た才能を発見するという、人材開発的な発想と裏腹であったことも確かであろう。

   ところでこの運動が西ヨーロッパに移入された際に指導的役割をはたした人物は、ドイ   ツのミュンヘン大学の心理学教授H.R.リュッケルトであった。彼は幼児教育の改革という   問題に対し、幼児のr早期読み教育」の促進でもって応えようとした。そのため、ドイツで   は幼児教育改革についての総合的な議論がいわば棚上げされ、技術的な、二次的な問題に議   論が偏るという結果をもたらすことになった。1960年代後半のドイツにおける幼児教育改   箪連動は、1870年代以降のフレーベル運動の場合と異なワ、強固な哲学的、人類学的基礎   を欠いていたといわれる。そのため改革の動機や強調点もさまざまであワ、その上、幼児教   育のための教材や資料の生産会社や出版杜の販売合戦も絡んで、運動の方向はますます多様   化したのであった。しかしそうはいっても、この運動のもっていた次の三つの側面は、やは   リ本質的なものとして注目する必要があろう。

 (a)教育内容に関する側面

    幼児教育の中心的内容、方法、および幼児教育の始期をめぐる論議は、ドイツにおける    幼児教青改革運動の中心的課題であった。言語的、数学的能力の早期開発がまず議論のテ    ーマとされ、いわゆるr知識の爆発」に対処するために、カリキュラムは基礎知識に集中    され、幼児が直面するであろう実生活や経験の場面が重視されるようになった。

 (b)社会的・政治的側面

    教育の機会均等を要求し、家庭を補う教育施設によワ、社会的、文化的差別を排除しよ    うとするもので、いわゆるr補償教育プログラム」の検討がなされ、このスローガンのも    とに多くの反権威主義的幼稚園や種々の実験幼稚園が中産階級の有志によリ作られてきた。

 (C〕教育政策的側面

    従来の家庭外における幼児教育実践に対する批判から出発し、よワ適切な学校的教育お    よび陶冶の徹底を要求するもので、家庭外の幼児教育施設の質的変化と量的拡大を同時に    要求する。この側面から、いわば学校を下方に延長し、就学前期を部分的に学校の統制下    に置こうとする傾向が生まれてくる。幼稚園の準備学校的性格を重視する傾向である。1)

    以上概観したようなドイツにおける幼児教育改革運動が、約2年遅れてスイスにも波及

(4)

(2〕

(a)

(b)

することになる。陸続きでありながら、こうした教育連動の波及が極めて緩慢であるとこ ろにも、実はスイスの特色があるわけである。この運動の影響は、スイス内でも言語・文 化圏毎に異なっているが、ここではドイツ語圏スイスにのみ絞って検討することにしたい。

ドイツ語圏スイスにおける幼児教育改革運動  運動の展開

 1960年代のスイスにおける幼児教育改革をめぐる議論の火ぶたを切ったのほ、前述の リュヲケルト教授による『幼児の読み方習得法』と題する翻訳書の刊行であった。この本 とともに、やほリドイツの心理学者W コレルによりて発明された幼児の読み方学習のた めの教育機器も、ドイツ語圏スイスの幼稚園関係者ばかりでなく、小学校関係者にも働撃 を与え、早期読み教育をめぐる議論が激しく展開された。60年代末から70隼代初めにかけ ての数年間、ドイツ語圏スイスの教育雑誌や新聞には、早期読み教育をめぐる記事や論文 が数多く見られる。議論の多くは、教育学、心理学などの学問的基礎に立っての、早教育 への批判と疑間の提示であるが、中にほかなワ感情的な反対意見も目につく。2)

 いずれにしてもドイツ語圏スイスでは、幼稚園の側も小学校の側も共に幼稚園への読み 方教育導入に反対した。しかもこの反対がそのまま幼児教育改章運動自体に対する反対と なった傾ぎもあり、幼児教育改革問題全体を総合的・根本的に検討することを妨げだとも いえる。ともかくドイツからの改革連動の大波は、いわゆるスイス的な、堅固な伝統に根 差した教育制度、づまり、幼稚園と学校とを明確に区別し、それぞれが互いに固有の価値 と領域を認めあって相互不干渉を貫くという、制度の壁に突き当たったといえるのである。

 『幼稚園教育要領』

 とはいえ、60年代の幼児教青改革連動は、紐やかでほあるが幾つかの成果をもたら したのも確かであ机その第一に挙げられるのはドイツ語圏スイスの幼稚園制度にひとつ の指針を与えるものとして、『幼稚園教育要領』3)が作成されたことである。すなわち、

1968年、スイス幼稚園連盟(1881年結成)ほ、現代教育間題研究委員会を設置し、幼児 教育に関する総合的研究を行った。この委員会の委員には、幼稚園女教員、幼稚園女教員 養成所の教員、小学校教員、小児科医、心理学者、教育学者などの代表が選ばれた。1971 年に委員会ほr幼稚園における年齢と発達段階に即した教青の目標と内容の概■各を示す」

ための『幼稚園教育要領』を刊行したのである・その内容はおよそ次のとおりであるO  まず、幼稚園入園対象者は、満4歳以上の小学校入学前の幼児とし、 クラスの幼児数

は25名以下とする。通園は非義務制で、1目の保育時間は通常、午前中2時間、午後2時 間の計4時間とする。指導計画についてほ、領域と教育活動の概要のみを規定し、具体的 な教育内容や方法は・幼稚園女教員の裁量に任せるとしている・

 次に幼稚園のr股曲目的としては、r幼稚園は、幼児に家庭と身近な現境を越えた存在 領域、経験領域、行動領域を開示すべきところ」であって、幼児の情緒、意志、知性、創 造性、社会性と道徳性、感覚の6領域にわたり、幼児の人間性の発育・発達をほかること

にある、としている。その際、幼児の人間性の発達についてほ、個々の幼児の発達段階を

(5)

 尊重し、幼児の情緒、表現能力、想像力、真理感覚、生命への畏敬、社会的態度、仲間意  識、責任感、等の育成に留意し、社会化の過程を重視すべきことが指摘されている。

  遊びにっいては、r遊びこそ幼稚園の教育活動の中心」としてとらえ、遊びの確固たる  地位を確認するとともに、幼稚園で活用されるべきさまざまな遊びの形態を列挙している。

  さらにテーマ設定法にふれ、カリキ ラム構成において、幼児が生活領域の中の何かあ  る事柄(テーマ)に集中的に取ワ組み、知見と経験を深めるために・ある程度の期間にわ  たワ、総合的な教育活動を行うべきことを提案している。テーマとしては、四季、森と動  物、家畜、住居、習俗、外国の人々の生活、などが例示されている。

  家庭と幼稚園の協力については、緊密な連絡の保持の重要性を指摘し、.父母の幼稚園行  事への積極的な参加および個人的な幼稚園参観などを奨励している。

  最後に幼稚園と学校の関係については、幼稚園は学校とまったく異なる独自の施設であ  り、いわゆる学校的教授は一切行うぺきではないとしている。

  具体的な内容領域に関する部分では、次の8領域を取ワ上げ、詳説している。すなわち、

 (1〕言語 (2〕リズム・音楽 (3j体育 (4〕自然経験・自然観察 (5廠学・数の概念 (6〕物理法  則・技術 (7〕造形 (8)交通安全、である。これらの内容領域に関する指摘の中で、特に注  冒すぺきところを二、三あげておこう。

  第一に、言語領域で民謡や童話、オペレッタなどを積極的に取ワ上げ、戯曲化、人形劇  化をもはかワ、幼児に親しみやすい方法で言語教育に迫ろうとしていること。ただし、読  み書きの教育は行わない。第二に、数学領域では遊びを中心としつつも、最新の心理学研  完の成果に応じた早期教育の方向を目差している。ただし、フランス語圏でのように、意  図的、計画的に遊具を用いて体系的な訓練を行うやワ方とは一線を画す、と明言している  こと。第三に、造形の領域で編み物、刺しゅうを取ワ入れ、手工作業を非常に重視してい  ること。

  以上がドイツ語圏スイスの『幼稚園教育要領』の構成と内容の概略および特色であるが、

 ここでの幼稚園制度は明らかにフレーベル主義に忠実なものとなっている。60年代以降の  幼児教育改革運動の影響のもとにありながらも、ドイツ語圏スイスの幼稚園は、従来の実  銭を本質的に変更することなく、むしろそれを意識化し、公式化したといえるのである。

 この連動のおかげで、従来の実践は安定化しさえした。改革運動の風潮のなかでさまざま  な実験幼稚園が作られたのも確かであるが、それらは既存の幼稚園とは別個に、私的な試  行のレベルで孤立的に運営されたにすぎない。4)

(C)制度化の進展と幼稚園の普及

  ともかく、60年代後半の幼児教育改革運動は、その成果のひとつとして、『幼稚園教育  要領』の刊行をもたらしたわけであるが、これと同時に、多くの州当局に幼稚園の重要性  を認識させ、幼稚園に関する州の関与を法的に保証する動きを起こさせた。従来、ドイツ  語圏スイスの幼稚園は主として自治体立I、または幼稚園協会立であワ、州がこれを制度的  に拡充させる動きはなかった。ところが、改革運動の影響で幼稚園が初等教育制度にいつ

(6)

そう緊密に関連づけられるにおよんで、州の幼児教育への関与の仕方が問題となってきた のである。多くの州は固有の幼稚園法を定めるよラになワ、若干の州では、幼稚園を国民 教育制度の一部に位置付けようとしてきた。5)

 このような幼稚園に対する政策的取ワ組みの結果、スイスでは幼稚園が著しく普及した。

特に都市部でほ、70年代にほぼ100%の就園率をみるにいたった。叉、田舎や山岳地帯の自 治共同体への幼稚園普及にも見るべきものがあったといえる。たとえば、1960年には、

自治共同体の3つに1つのみが幼稚園をもっていたにすぎないが、1978年には、6つの うち5つまでがそれをもつようになっているのである。このように70年代における幼稚園 普及は著しいものであったが、今日なお残る問題は、幼稚園をまだもたない600ほどの自 治共同体(スイス全土にほ3,062の自治共同体があり、その約17%に当たる)の子どもた

ちをどうするか、ということである。70年代末で・ベルン・フリブール、グラオピュソデ ソ、テッシンなどの諸州の、合わせて約600の自治共同体では、4歳から6歳の子どもた ちが幼稚園に通える機会は、皆無か、ごく僅かしかないのであった。これらの自治共同体 に共通してみられることは、通園路が長いこと、人口過疎地域であること、納税能力が低 いこと、概して田舎の小さな共同体や、広大な山岳農場の集落であること、などである。6)

 急激な社会変化が進む今日、このよ.うな山間僻地の子どもたちが教育的に取9残された まま・放置されることは・ひとつの社会問題である。この問題の解決にそれぞれ当該州は 取ワ組んでいるわけであるが、以下、最も注目すべき成果を挙げているペル:/州の場合を 検討することにしよラ。

m.ベルン州における山間僻地の情況

(1〕人口過疎化の進行

   ベルンの山岳地帯でも60年代以降、著しい人口過疎化現象が見られる。その原因はよくい   われるようなr都市への憧れ」というものだけではなく、着い人々が郷土で動いて生計を立   てることが出来ないような経済構造にあるとされる。たとえば山岳地帯の農民は、平地の農   氏より1E1当たワの収入が40フランも少ないという。こうした低収入に加えて、換民の地位   の低さも若年唐の郷土難れの原因となっている。さらに、こうした山岳地では、機業に使え   る土地はどんな高地に至るまでも耕作され、平地といっても至るところに裂け目があり、か   なワ気温が低いという気候条件もある。降雨量は多く、植物育成の期間は短い。季節によっ   て居住地付近の農場と高原牧場(アルプ)とを行き来する段階式農業、わずかな耕地、困難   な労働条件、わずかな収益に対する高い経営費と労賃、このような悪条件の下での農業労働   を着い人々は敬遠する傾向があワ、商工業におけるよワ有利な労働条件のもつ魅力が、郷土   離れの傾向を助長しているのである。の

   次に実際の人口推移をみておこう。表1一表4は・ベルナー・オーバーラント・エメソタ   ール、ベルン市、ビール市における1960年から1975年の間の人口の増減を示すものであ

(7)

る。これらのデータから、およそ次のようなことを指摘できる。

墾1 オーバ・ラント

地区名 扇住着数 県城(騎 昼住者数 I●城(9 住着

1960

1960・

19m 19 ■一5

1 5

ゲン 14.941

6.03

15.8

十3.69

16.428

〃,一〃 32.250

斗2.26

32.981

十3.10

35.006 一ダIリ

Vカ■D 16,515 9.一0 18.n7 3.m 18.80I

・パ.^刈 一.979 i1. 0 一.821

刊.05 7.825

・{一

W〃〃・■ 一.494 ■1.99 一、346

刊.80

7.55一

■ψ 一.181 1,75 一.3

刊.65 7.821

ト.一7 64.680 刊6.40 75.294

2.34

η.053

淡2エメンク■ル 地区名

町7 三ψ四泌 ジ州9

層僅き数 1I●0 30.049 88.310 25.252

増縦(9 1I●0・70

7.06

I8.50

・3.8

層住奇数 19

.807 45. 4 一4. 5

端城(一〕

19−0■一5 3.40

■.80

・0.40

圏住者数 I 5 43.228 48.551

,411−8

裂3ベルン市お』=ぴビ■ル同 地x名

ベルン ビール耐

與住着徴 1960

230.802

60.583

増識(9 1960一一0

m.53

州.10

團伎番数 19

255.219

56.一

榊城(5〕

一9 ■一5 一1.02 i一.55

囲住者数 19−5 252.6H

O1.225

(2〕

表4 フルテ4ゲン納区

共同体名 国住者数

減少(,)

1950

1960

1970

1950−19−O

う仁〃I

1

383

319

26.2

7,セーカ

256

232 一

15.2

トパー,■^ 350

350 315 10.0

1一ト 285

I54 130

54.4

クバ〃,一〃 i

178

136 123

30.9

7■ 〃 1 10

2.4

〃グ・ヴー叶 209

189 1

15.8

 真・舳ri080山8r.8■{●一●一■r 1^肌Om●一i On□dOr81^00rOr■00.

 □o川di止一0i ・ i−1ohrori㎜o□lor・I9 一一8.19 .S.8−10.

 20年間に、人口が25%も減少してしまった地区が幾つもあるのである。中には人口が半減  した所さえある。

 僻地における劣悪な教育情況

 ところで山間僻地の住民の経済面での劣悪条件については、かなリ以前から認識されてき たところであった。連邦も山岳地帯の牧牛農民に対して財政援助を行い、平地農民の収入と の均衡をはかろうとした。また、交通路の開拓や農業機械の調達のための政府補助金も振ワ 向けられてきた。8)

こうして経済的側面においては一定の援助策が講じられたが、僻地における劣悪な教育条件 に対処するための方策は、当局によって十分に打ち立てられているとはいえない。特に義務 就学前期の子どもたちの教育条件は劣悪で、教育機会均等の原則からみて、大きな問題とな りている。たとえば、1977年のベルン州当局の刊行によるr学校新聞』には次のように書 かれている。r今日、対象年齢層の子どもの70%は、州公認の幼稚園に最低1年間は通える

ようになっている」と。9)  この残ワの、約30%に当たる子どもたちのほとんどは、通常 の幼稚園の運営が不可能である僻地に住む子どもたちなのである。この数字は1979−1980

1)ベルナー・オーバーランド  では、工業地帯をもつ地方で は人口増加がみられ、逆にオ  ーバーハスリのような僻地で

は、人口減少がみられる。

2)エメソタールでも同様で、

ほとんど大きな工場をもたな いジグナウでは15年間に4.2

%にも及ぶ人口減少がみられ

 る。

3)ベル:/市、ピール市では、

特に60年から70年の間にそれ  それ1O%ほどの人口増加があ  ワ、その後、外国人分樹者の 国外退去に伴うて減少はある  ものの、やほワ15年間にかな  ワの増加がみられる。

4)山岳地帯の自治共同体7ル  チゲソの場合、人口減少には

著しいものがある。つまワ、

 1950年から70年にかけての

(8)

 学校年度でほ若干異なっている。つまワ、この年度でほ6歳児8,703人が幼稚園に通りてお  ワ、これほ同年齢層の子ども11,114人の78,3%に当たる。そして都市部および半都市部、

 また人口の多い自治共同体においては、実質的には6歳児のすべてが教育活動の対象になっ  ている。ところが、人口過疎地域には幼稚園はほとんど皆無である。ペルソ州はドイツ語圏  とフランス語圏からなるが、ドイツ語圏の場合、就学前期の子どもの約5分の1が、地理的  および人口政策的理由から幼稚園に通うことがほとんど不可能な地域に住んでいるのである。

 10)

  次に1973年の『ベルン州のドイツ語圏における幼穫園制度』11)といラ報告書から、着  手具体的な情況をみておこう。報告書は以下のようなデー争を挙げている。

ω 全部で648校区のうち、154校区のみが幼稚園を設置している。たv・てル・の場合・第1学  年から第5学年まで1クラスしかないような学校区では、幼稚園の連営は子ども数が少ない  ためにほぼ不可能になりている。

(21田舎の約400の学校区では、通常の学校や幼稚園の設置基準に適う幼稚園の連営は不可能  である。

(3)子どもの数の点では幼稚園を設置することができるにもかかわらず、まだ設置していない  学校区が100以上も存在す札

(4)存在する幼稚園の約80%は自治体立であり、残ワは私立である。自治体立の幼稚園の大多  数は、学務委員会ではなく、独自の委員会によって運営されている。また、多くの幼稚園で  ほ私的イニシアティヴが主で、その援助が背景にある。

  以上のような事情を踏ま元で、この報告書は、幼稚園のいっそうの普及を図る上で念頭に  置くべきこととして、つぎの3点を挙げている。

(1)今後も私的イニシアティヴによワ幼稚園を設立し、運営することが可能である。

② 自治体当局がそのような幼稚園を支援することが重要であワ、私的イニシアティヴによる  事業は公共の精力的な助力によって援助されなければならないことを早急に認識すぺきであ  る。

(3〕私的な傾注の喜びというものは幼稚園の最終的な運営においても自治体によって広範な活  動の余地を与えられるべきである。12)

  以上われわれほベル:/州のドイツ語圏における山間僻地の劣悪な教育情況、とりわけ幼稚  園段階のそれをみてきたわけであるが、このような情況改善のためにいわぱ官民共同の取リ  組みがなされたのである。そのプロジェクト、すなわち定時制幼稚園設置試行プロジェクト  の特色を知る上でも必要なので、まず上記の情況以外の背景を探っておくことにしょう。

v 定時制幼稚園設置試行プロジェクトの背景

  まず第一に、従来山間僻地への幼稚園普及が困難であったという事実がある。一つには、長  年の間全般的に幼稚園女教員が不足していたこと、従って山間僻地にまで幼稚園女教員を振リ  向けることは到底不可能であった。さらに法制上も問題があった。一つまり、従来の幼稚園組織

(9)

に関する州の指針は、r通常の幼稚園」のみを対象にしており、一定の条件を満たさない僻地 に公認の幼稚園を作る可能性を与えなかったのである。そしてさらに多くの山間僻地の自治体 には、教育に対する一種の敵意さえ見られ、とりわけ幼稚園の存在意義などは認められない状 態でありた。13)

 ところがその後、せっかく幼稚園女教員養成所を卒業しても、幼稚園に就職できない者が増 加するという問題が生じてきたのである。たとえば1976年現在、卒業直後の幼稚園女教員有 資格者の5割強が失業中という状態であった。その原因にほ1973年に、従来の幼稚園女教員 不足への対処としての幼稚園女教員養成所入学者の急増があったのである。その後の急速な経 済情況の変化、不況の到来の中で、一般に安定した職種志向の傾向が現れ、幼稚園女教員から 他の職業への転職者数も減少し、就職の門を一層狭くしたのである。さらに出生率の低下、不 況による外国人労働者の国外退去に伴う幼稚園児数の減少も拍車をかけている。ところで1979

−85年期の幼稚園女教員需給見通しでは、1981年からは再び需給が平衡状態になるであろう ということであった。14)

 こうした複雑な情況、つまリ僻地の幼児教育の、依然として遅れている情況と、経済不況等 の結果生じた幼稚園女教員の就職難との複合的問題に応えようとして、ベルン州教育局は1976 年、思い切った施策を取るのである。まず、先に見た『幼稚園教育要領』をベル:/州のドイツ 語圏の幼稚園に拘束力のあるものと規定した。次いでr幼稚園女教員失業克服のための方策」

15)を刊行し、失業対策に取ワ組んだ。その中で1977/78年度から、失業中の幼稚園女教員 の益を考え、彼女等を採用して山間僻地に先導的幼稚園、つまり定時制幼稚園を設立するプロ ジェクトを開始するのである。このプロジェクトは要するに一方で山間僻地の子どもたちに対 する教育機会均等を実現するとともに、他方で幼稚園女教員の失業対策をするという、一石二 鳥を狙うものであった。

 以上のような背景のもとで、このプロジエクトは発足するのであるが、次ぎにこのプロジェ クトの具体的な内容について検討することにしよう。

V.先導的幼稚園設立プロジェクトの内容

(1〕プロジェクトの目的と課題

   まずこのプロジェクトの目的についてみると、『幼稚園教育要領』の精神に沿って以下の   ように示されている。

  1.子どもたちに社会的接触への道を開いてやワ、彼等を同年齢者の集団に導入すること。

  2.町から遠く離れて孤立的に成長している子どもたちに、多面的な刺激を与え、とりわけ知    覚力、言語的:概念的処理能力および創造力を促進し、深化させること。

  3.山間僻地に孤立していて、本当の遊びをすることがほとんどできない子どもたちに、豊か    な遊びの世界を開いてやること。

  4.部分的に村の生活や出来事から離れて生活しなければならない、孤立化しがちな親たちを    共同的活動へと誘い、励まし、かつ幼稚園の理念に対する関心をもつようにさせること。

(10)

 5.身体的・繕神的障害を早期発見し、適切な処置を行うこ』.16)

 こうした目的を達成するうえで、直接このプロジェクトが負うべき課題は次の三点であった。

  。子どもたちを同年齢者集団に入らせ(社会化)、ひとワひとりの個性を促進する(個性    化)こと。

  。子どもたちを自己の立脚点に緊密に結び付け、文化圏、環境、慣習、習慣へと成長さ世    ること。

  。先導的幼稚園を試行した共同体が、試行年の経過の後、自ら州公認の定時制幼稚園を運    営しようとするような下地を作ること。17)

  以上のような日的と課題を掲げたプロジェクトを発足させるにあたワ、ベルン州は一連の  施策を取るのである。次ぎにそれを簡単にみておこう。

ω プPジェクトの法的、人的および財政的基礎

  このプロジェクトを開始した1977/78年度には、特別な法的根拠によらず、教育局の経  やかな指導要綱のみを拠ワ所としていたが、やがて『ベル:/州幼稚園規則』を修正し、「通  常の幼稚園」とならんで、r定時制幼稚園」を州として認定する措置を取るのである。これ  によワ、山間僻地に形成さるべき定時制幼稚園の法的根拠が作られたのである。

 次いでr幼稚園女教員失業克服のための方策」委員会の作業部会をプロジ1クドの担当に充  て、その指導責任者としてペルソ新女学校幼稚園女教員養成所長ズザンナ・マイアー女史を  任命し、プPジェクトの具体化に取リ掛かりた。定時制幼稚園のための幼稚園女教員の雇用  と給与については、r幼稚園女教員失業克服のための方策」委員会が責任をもつこととし

 た。

  財政の面では、すでに1976年のベルン州の大評議会はr幼稚園女教員失業克服のため  の方策」に関連して、140万フランの州予算配分を決定していた。なお、定時制幼稚園試行  の段階における財政の分担については次のように規定している。

 1.州は給料、予算過剰分、指導責任者の義雅免除分を負担する。

 2 自治体は子どもたち及び幼稚園女教員の保険料を負担する。

 3.自治体ないし私人が家具、教材、建物や部屋の賃貸料、光熱費、および清掃料を負担す   る。18)

  こうしてプロジェクトの法的、人的、財政的基礎が整い、1977/78年度よリ、山間僻地  における定時制幼稚園の試行的設立が始まったのである。

w プロジェクトの実施情況

  プロジェクトを開始するにあたり、まず幼稚園女教員の候補者に対するオリエ:/テーシ目:/

 が行なわれた。通常の幼稚園とちがい、定時制幼稚園では一人の幼稚園女教員が複数の幼稚園  を掛け持ちし、しかもかなワの距離を移動しなければならない。さらに同じ子どもたちと接す  る時間は短く、また親たちとの接触も限定される。その上、さまざまな設備や備品も十分には  望めない。こうした条件のもとで一定の効果を挙げ、プロジェクトの掲げる目的を達成するに

(11)

足る資質が幼稚園女教員には要求されることになる。そこでプロジェクトの指導責任者は面接 によワ、幼稚園女教員候補者を探し出すのである。

 次いで定時制幼稚園を試験的に設置する候補地が探し出された。その際、幼稚園を欲しかつ.

ているという偶然的な情報、学校視学官の協力、2万5千分の1の地図などを頼ワに、地勢的、

佳民構成的基礎から、伝統的なやり方では幼稚園設定に到達しえないような自治体を探しだす という作業を行ったのである。19) 候補地が見付かると、プロジェクトの指導責任者が当該地 の教青関係者、当局、幼児教育に関心をもつ人々と接触し、州の方針やプロジェクトの趣旨を 説明し、先導的幼稚園を試行してもよいとの同意を得られれば選ばれた幼稚園女教員を当該地 に派遣し・試行を開始するどいラ段取ワであった。ともかく試行期間中は先に見たように大部 分の経費は州が負担するということで、自治体住民はごくわずかな出費だけで子どもたちにと

っての幼児教育の意義などを体験で知ることができる仕組みであった。

 このようにして先導的定時制幼稚園は作られていったが、80/81年度までの成果の概観は 次の適ワでありた。

1977/78年度 試行幼稚園を14箇所開設、7人の幼稚園女教員が勤務。I4の試行幼稚園全部 がその後、正式の定時制幼稚園として認定される。

1978/79年度 試行幼稚園を34箇所開設、13人の幼稚園女教員が勤務。その内、33箇所の幼 稚園が認定される。

1979/80年度 試験幼稚園を17箇所開設、7人の幼稚園女教員が勤務。17箇所の幼稚園すべ て認定される。

1980/81年度 試行幼稚園を14箇所開設、8人の幼稚園女教員が勤務。すべてが認定される。

20)

このように足かけ5年間に合計79の幼児集団が、35人の幼稚園女教員によって保育されたので

ある。

ところでこれらの先導的幼稚園の場所や週毎の開園回数、幼児数、年齢等の実態はどのような ものであったのであろうか。1977/78年度の場合を妻5で見ることにしよう。

19〃78年度のテーク       この表からも明らかなように、小

,I・  0一ト^

桑落名 口の場所 選句の回数 幼児

1ヲψ

2ブムパ,^

か字検の工作室 4

I5

5!6

3.7−7 ヴル 」・学校の数室 5 15

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2 10

6

5.ミ^ψ

人の螂口 2 8 5!6

5ブト影二 ・学校の縦書

4

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8

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12

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11ポ仁肺7 人の割口 4 7

6

12.ポヴ〃一

@ 〜1.・  ・

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14.ン 一

@ ■

学校の一部を借ワたワ、幼児教育に 理解を示す有志者の家や喫茶店や食 堂を一時借ワるというような形で定 時制幼稚園を開設しているのである。

開園回数も半日(2時間)単位で4,

5回が最も多く、通常の幼稚園の3 分の1から2分の1程度となってい る。幼児数から見ても小規模である ことが明瞭である。このような小さ な幼児グループを一人の幼稚園女教

(12)

員が2つないし3つ掛け持つのである。たとえば火曜日には2キロの山道を登って8時半から 10時45分まで保育し、同じ山道を下って、そこから500メートル程離れた地点からさらに山道 を3キロ(雪道の場合、1時間半かかる)登った集落で、1時半から3時45分まで別な幼児グ ループを保育する。翌日はさらに5キロ離れた地点から2.5キロの山道を登りて、8時から1O 時15分まで保育し、山を下ってから5キロ移動し、前日同様3キロの山道を登って1時半から

3時半まで保育する。このようにかなワの距離を移動しながら、それぞれの幼児集団を週に2 から3回にわたワ保育するのである。

㎜ 結  語

  以上、ベルン州の山間僻地への定時制幼稚園設立試行プロジェクトを概観してきたが、この  プロジェクトは概ね成功したと評価されている。21) づまり、失業対策の面でも、山間僻地の  住民に対し、幼児教育の重要性を認識させ、自分達の幼稚園を何とか持つようになワたいとい  う気持ちを起こさせるうえでも一定の成果を挙げているのである。実際に保育に当たった幼稚  園女教員の報告にも、山間僻地の子どもたちの父母のポジティヴな反応を伝えるものが多い。

 さらにこの試みの中で、幼稚園女教員が単に僻地の子どもたちの先生であるだけでなく、土地  の父母や年寄ワに対して一種の文化伝達者としての働きもなしていることがうかがえるのであ

 る。

  なお、この定時制幼稚園のプロジェクトは1977年に早くも、欧州協議会のr人口過疎地域  における幼児教育」についてのシンポジウムでも報告されておワ、スイスの内外にかなりの影

響を及ぼしている。たとえば1979年にほウリ州がその谷間の集落に対し、同様のプロジェ  クドを計画しているし、ベルン州のフランス語圏でも1980年から同様のプロジ1クドを開始  している。

  定時制幼稚園ということで、果たして幼児教育の効果はどうなのかという問題とか、プロジ  ェクト期間が終わった後に、こうした小さな集落が定時制幼稚園を維持していけるのかという  問題など・さまざまな問題はあるが、やはりこの試みほユニークで・いかにもスイス的な・興

味深いものといえよう。特に個々の共同体をあくまでも大切にし、土地の文化や自然環境を生  かそうとする発想、また民間の有志老のイニシアティヴを拠9所としながら当局はそれをバラク  アップするところに、スイスの特色があ飢なお、定時制幼稚園という形態はこの場合、いわ  ぱ苦肉の策として出ているわけであるが、ややもすると幼稚園にまで管理主義が人ワ込むきら  いもある今日、ある意味では積極的な意味も持たせて考えてみることもできるのではなかろう

 か。

       注

(ユ) 以上H Nufer Kmdergarten m Wa皿del.Huber Ver1a91978S.54ffによる。

(2〕 たとえばSchwe㎞㎡㏄he Leh祀r肥itmg.(以下SLZと略記)1/2.9.Jan.1968,S.11ff,

 SLZ11,13,Maerz1969.S.327ff。,SLZ7,13.Febr.1969.S.196ff.

(13)

 Schweわe㎡εche Lehrerinllen Zeitung.73.1969.S.8ff.,S.123ff.

(3)Schwe鵬m8cher K㎜de㎎arteme鵬m,Rahmenp1an fuer d1e趾z1ehmgs−md  Bndu㎎鮒beit im Kinderga湘n.1971、

(4〕 実験幼稚園としては、ペスタロッチ、フレーベルの教育思想を拠り所にさらにそれを一  歩進めたもの、モンテッソーリ思想によるもの、シュタイナーの「人智学」を基礎とする   もの、反権威主義に立つもの、婦人解放運動の一環として作られたもの、準備学校的性格  を持つものなど、実にさまざまたものがあった。詳しくはM.Stucky:Kinderga血n im  Expe㎡ment:Mode皿e皿euer Ki皿derga崩n in der Schweiz,1972参照。一

(5)E.Imhof:胱ud600mpamtive8ur l edu岨tion p醐。o1ai祀en

 Sui鵬Almanique,en Sui鵬Romamd6et au T鮒in.Gemさve,1978.pp,i−2.

(6) Paul Ru㎡enacht:Von hu1erd⑤hmg in der Schweセ.Koe皿igshau的n,1983.S.175.

(7〕 ebeIlda,S,181ff.

(8)Kathm腕ut1er,Barbara M航1A1tematlve Kmaerga湘nfomen Method1k−

 Didaktikleh鵬㎡nnenku国1976−78.1977.S.11.

(9) ebenda,S.12.

㈹ 趾施hung8di鴉ktio皿de8Kantons Bem:Bedcht ueber d鵬Kinderga池n−P{lotpmjekt   im deu㎞㎞pmch㎏en Te皿d艶Kanton3Bem1976−1980・B甑n・1980・S・3・

(1⇒RemZ㎜ckyDa8Kmde榊祓nw獅mdeu㎞晦訟。㎏6皿K㎜的m舳.1973(m

 Er^ehungsd1r6ktloll d66Kanto118Born  Ib1d.S.4 )

㈱ 趾鵬hu皿gsd鵬ktm de8Kan的πs Bem Ib1d.S5.

eb6ilda,S.17.

ebenda,S.19.

・Ma88nahmen zur B6kae皿1pfung der Ste皿e皿10819k田1;der Lbh田r

Er歴ehu皿98dlrokt1o皿 d68KaiIto皿8Ber11 Ib1d.S.23.

ebe皿d8,S,24,

ebenda,S.26.

ebenda,S.33,

ebe皿da,S.30−32.

Pau1Ruefemcht:Ibid.S,185.

参照

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