新学習指導要領と古典教育の未来
ー橋本文法からの脱却の契機としてー
西村 準吉
はじめに
古典教育の危機が叫ばれている。このこと自体は目新しい話ではなく、学校教育の世界でも国文学研究や その周辺分野でも繰り返し古典教育の未来を憂慮する声は上げられてきた。しかし、2019 年 1 月 14 日に明 星大学日本文化学科公開シンポジウム「古典は本当に必要なのか」
(1)が開催され、渡部泰明(東京大学教授)、
福田安典(日本女子大学教授)ら「古典必要派」が「古典不要派」との議論を行ったことはインターネット 上でも大きな反響を呼び、古典教育の再考についての関心がにわかに高まってきたことには注意を払う必要 がある。
この流れは学習指導要領の改訂に伴う国語教育全般への問題意識の高まりと連動している。同年 1 月 13 日に行われたシンポジウム「これからの『国語科』の話をしようー紅野謙介『国語教育の危機』 (ちくま新書)
を手がかりにー」では学校の国語関係者のみならず予備校講師や現役高校生までが参加し会場を埋め尽くし た。また、同年 8 月 1 日には日本学術会議主催の「公開シンポジウム 国語教育の未来—新学習指導要領 を問う」が行われ、国文学者、元国語教員、文部科学省視学官らが会場を巻き込んで激論を交わした。
文芸誌もこうした動きに素早く反応した。『すばる』(2019 年 7 月号)は「教育が変わる 教育を変える」
という特集、『文學界』(2019 年 9 月号)も「「文学なき国語教育」が危うい」という特集を組んでそれに続 いた。『季刊文科』(2019 年夏季号)特集「国語教育から文学が消える」も上記のシンポジウムなどで意見 表明をした学者や作家らを中心に、新学習指導要領国語および大学入試共通テストについて問題提起をして いる。その他にも新聞や雑誌に「国語」の改革をめぐる特集は後を絶たない。こうした一連の動きは 2018 年(平成 30 年)度告示 2022 年(令和 4 年)度施行の「学習指導要領」(以下「新学習指導要領」)の改訂 をめぐって巻き起こった議論でもあるが、その背後にある次の二つの要因にも触れておく必要があろう。
一つは、今回の学習指導要領の改訂と並行して進められてきた「高大接続改革」と呼ばれる教育改革であ る。この改革は、従来の教育改革や大学入試改革がそれぞれ別々に行われてきたことで効果が上がらなかっ たという反省を踏まえた、「大学入学者選抜」「高等学校教育」「大学教育」を一連のものとして扱う「三位 一体の改革」であるというところが特徴である。とりわけ国語に関しては大学入試改革の目玉とも言える大 学入試センター試験の廃止とその後継試験「大学入学共通テスト」の創設が、学習指導要領の改訂と連動す るため、従来の作問と大きく異なるようなスタイル
(2)になることが企図され、各方面からの反響の呼び水 となった。
もう一つの流れは、2015 年(平成 27 年)6 月の文部科学省通知「国立大学法人等の組織及び業務全般の
見直しについて」の中で、「教員養成系、人文社会系の廃止を視野に入れた組織の転換」という文言がマス
メディアによりセンセーショナルに報じられてしまったことで、「文系学部の廃止」という不安とともに、
唐突に見えた通達への批判が社会問題にまでなったことである。この通達の真意やその背景にある大学の実 情については、吉見俊哉『「文系学部廃止」の衝撃』
(3)(集英社新書 2016 年)に詳しいが、いずれにして も今回の学習指導要領改訂、とりわけ「国語」という科目について、教育関係者のみならず一般的な問題と して取り上げられるようになったのは、現在の人文系学問が「役に立たないもの」という社会的な不信を買っ ているということも考えに入れた方がよさそうである。
厳しい視線に晒される「人文系」の、そして「国語」の、そして「文学」を主たる対象とする「古典」が、
「必要か否か」というレベルで取り沙汰されるようになったという点において、現在が「古典教育の危機」
として位置づけられるのである。
本稿においては、新学習指導要領国語の内容を俯瞰しつつ古典教育の現在の問題点を取り上げ、特に「学 校文法」の成立に関係の深い橋本進吉と時枝誠記の文法理論の対比を端緒としながら、今後の古典教育の方 向性を探ってみたい。
1 新学習指導要領国語における大改革
2022 年(令和 4 年)度から施行となる 2018 年(平成 30 年)度告示「高等学校学習指導要領国語」は、
ここ数十年の学習指導要領改定の中でもひときわ大きな変化がもたらされるという点で、国語教育界のみな らず一般の人々の関心も高い。学習指導要領の改訂を含む一連の教育改革が文部科学省により「明治以来の 大改革」
(4)と位置づけられ、学びのあり方を一変させるような意図を持って作成されたということを考え 合わせると、これまでの改訂とは変化の規模もその意味合いも大きく異なると言える。
新学習指導要領そのものについての分析や評価は、「古典教育」に焦点を絞った本稿の目的ではないが、
教科「国語」の再編がどのような背景で行われたのかを明らかにするために、ある程度素描しておく必要が ある。
教科「国語」の再編の中でとりわけ議論が喧しいのは科目の分離の問題である。1980 年代からの学習指 導要領の変遷を別表に示したが、ここで問題になっているのは、これまで「国語Ⅰ」「国語総合」などとし て総合的に扱われてきた必修科目が「現代の国語」と「言語文化」という形で分離すること、そして選択科 目の「現代文」が、「論理国語」と「文学国語」に再編され、「古典」は新たに「古典探究」として設定され ることをめぐってである。学校現場において「国語総合」は概ね高校一年次に配当され、 「現代文」と「古典」
の基礎学習として位置づけられていたが、今回の再編は単純に「現代文」と「古典」という区分にはならな い見込みである。「現代の国語」は、「実社会・実生活に生きて働く国語の能力を育成する科目」(新学習指 導要領「総説」)とされ、実用国語の色彩を強めている関係で、現実的には詩歌や小説などに充てられる時 間が減少することになる。そこで押し出された形になる文学に関わる分野が「言語文化」に吸収される。「言 語文化」が扱う領域は「上代から近現代」とされ、文語文で書かれた近代文学なども含まれるため、結果と してこれまで古典分野に充てられてきた時間を圧迫するであろうことが予想される。
さらに、「現代文」が「論理国語」と「文学国語」に再編されることの影響は、その配当単位数の関係で
きわめて大きい。「論理国語」「文学国語」「古典探究」「国語表現」はそれぞれ 4 単位の配当であるが、現行
の大学入試センター試験の後継となる「大学入学共通テスト」の試行問題では、出題は「実用国語」、「評論 文」、「小説」、「古文」、「漢文」の 5 分野で構成されている。つまり学習量を必要とする「古文」「漢文」は 従来と同じ配点で残ったのである。すると、「論理国語」と「古典探究」がそれぞれ 4 単位の配当になって いるため、大学受験者が多い進学校ではこの両者を選ぶケースが多いと予想され、いきおい「文学国語」は 選択されず「国語教育から文学が消える」という状況が生まれることが懸念されているのである。どの科目 を選択するかは学校の裁量であるものの、今回の改革がいわゆる三位一体の改革という、大学入学者選抜を 含めた改革である以上、その影響は免れがたい。
これまでの国語の学習指導要領で、戦後最も影響の大きかった再編は 1960 年(昭和 35 年)施行の学習 指導要領改訂
(5)であろう。国語という教科が「現代文」と「古典」に分化するにあたって主導的な立場であっ た国語学者の時枝誠記は、長年にわたり学習指導要領国語の策定に深く関わってきたが、その時のことを振 り返っての講演(「静岡県国語教育研究会」1962 年)で次のように語っている。
三十一年の改訂のときに、高等学校の国語科の科目名は、どのようになっていたのかと申しますと、
国語の甲と国語の乙の二つに分かれておりました。国語の甲と申しますのは、そのうちにいろいろなも のがはいっておりまして、現代文、古文、漢文、それから作文、話し方、聞き方、全部ひっくるめまし て、必須にしておりました。国語の乙はどうかと申しますと、今あげましたものをそれぞれ分化発展さ せた科目だから、古文ならば古文だけ取り出してもいいし、現代文ならば現代文だけ取り出してもいい、
それで国語の乙は成り立つわけであります。そういう科目別だったのです。ところが、考えてみますと、
どうも国語の甲と乙との間に、他教科にみられます科目の分け方のような、教科の必然性というものが ないのでございます。三十一年の改訂のときに、文部省から、この甲と乙との科目名を、何か合理的に 分ける方法はないものだろうかというご相談を受けました私もいろいろ考えたのですが、どうも名案が なくて、そのまま、しかたがありませんので見送っておったのであります。
ところが三十五年の改訂のときに、文部省の教育課程審議会で、現代国語と古典、ここでいうような
科目の分け方が打ち出されました。わたくし、これを拝見して、これはなかなか名案だ、と存じました。
そのとき、中等教育課長をしておられました安達さんという方にお目にかかって、これはたしかに名案 です、この科目の分け方ならば、わたくしもご協力して指導要領をまとめることができるかもわかりま せん。こういうふうに大いに賛意を表したわけであります。そんなふうにして、高等学校における現代 国語という科目の設定ができたわけであります。
(「言語生活史の研究と「現代国語」」『時枝誠記国語教育論集Ⅰ』)
時枝の狙い
(6)としては国語教育において「言語技術の教育」という視点が不足しているため、それを補 う合理的な方法として現代文と古典の分離を進めた。そしてその功罪については検証を要するが、制度のあ り方だけでなく学校現場の運用や担当教員の志向性などが絡み合う複雑な事情があり、まとまった形の研究 には至っていない。
いずれにしても、現代文と古典の分離から 60 年が経とうとしている現在、現代文が「論理国語」と「文 学国語」という形で切り分けられることについては批判の声
(7)が高まっている。一方で古典は一見すると 4 単位という潤沢な単位数が確保された上に「探究」の名が冠せられたことにより、重視されるようになる かと言えば必ずしもそうではない。先に述べたように「言語文化」が「文学国語」の一部を担うようになり、
なおかつ非進学校などにおいて、表現活動中心の授業との親和性の高い「国語表現」が選択され、大学入試 に関係の深い「古典探究」が選択されないケースが増加すれば、高校生がほとんど古典を学ばないまま国語 の単位を修得することも考えられ、いよいよ古典学習者の裾野は先細りになることが懸念される。
2 新学習指導要領の方向性と古典教育の現在
このような大胆な改革をする背景について、学習指導要領解説は次のように説明する。
進化した人工知能(AI)が様々な判断を行ったり、身近な物の働きがインターネット経由で最適化 される ICT が広がったりするなど、Society5.0 とも呼ばれる新たな時代の到来が、社会や生活を大き く変えていくとの予測もなされている。また、情報化やグローバル化が進展する社会においては、多様 な事象が複雑さを増し、変化の先行きを見通すことが一層難しくなってきている。そうした予測困難な 時代を迎える中で、選挙権年齢が引き下げられ、更に平成 34(2022)年度からは成年年齢が 18 歳へ と引き下げられることに伴い、高校生にとって政治や社会は一層身近なものとなるとともに、自ら考え、
積極的に国家や社会の形成に参画する環境が整いつつある。
このような時代にあって、学校教育には、子供たちが様々な変化に積極的に向き合い、他者と協働し て課題を解決していくことや、様々な情報を見極め、知識の概念的な理解を実現し、情報を再構成する などして新たな価値につなげていくこと、複雑な状況変化の中で目的を再構築することができるように することが求められている。
(『高等学校学習指導要領(平成 30 年告示)解説 国語編』(「総説」改訂の経緯および基本方針)
こうした背景から、「主体的で対話的で深い学び」というキーワードが示され、「アクティブ・ラーニング」
(後述)という授業形態を一つの例にした協働的な学びや個別的な学びへの志向が強く示されるようになっ
た。要するに、予測困難な時代を生きる子どもたちは、これまでのように与えられた課題に対して素早く正
解を導くという能力ではなく、自らが問いを見つけ出し、他者と協働して課題の解決を図るという資質、コ ンピテンシーが重要になるという価値観の転換である。
また、新学習指導要領で強く意識され、随所に織り込まれているのは「生涯にわたって」という、言わば 生涯学習という考え方である。変化の激しい時代にあっては学校で学んだことが陳腐化するのも早いため、
常に知識を更新していけるような能力の育成が欠かせない。
文部科学省は新学習指導要領策定にあたって、以下の二つの調査を引いて課題を分析している。国立教育 政策研究所「平成 17 年教育課程実施状況調査(結果概要・集計表)」と、「高校生の国語(古文)に関する 意識調査(H23 奈良県内公立高校抽出調査)」である。
前者は高校生の古典嫌いの傍証としてしばしば参照される調査であるが、 「古典が好きである」について「そ う思う」と「どちらかといえばそう思う」の両者を合わせても 24.8%に過ぎず、およそ 75%が「古典嫌い」
と認定できるという結果だった。また、後者も「『古文』が好きか」という問いに対して、「好き」又は「ど ちらかといえば好き」と肯定的に回答した生徒の割合は 31% であったとして、「古典に対する興味・関心と ともに、必要性を感じさせる指導にも課題」と結論づけている。
しかしながら、こうした傾向は近年唐突に問題視され始めたわけではない。
今日、高校生にとって、古典は、必ずしも好まれる科目ではない。むしろ学年の進行につれて、つま り学習内容の深化につれて、次第に敬遠され、三年時ともなると大半が古典嫌いになるというのが実情 である。たとえば今回の「学習指導要領」改訂に先立って、文部省が諮問した全国高等学校教育課程都 道府県集会研究報告書においても、生徒の多くは古典学習をして「日常生活に直接関係がなく、実際の 役に立たない」「自己のパーソナリティの形成上無意味である」「読解作業が困難で学習に親しみがもて ない」等、否定的であり、又、東京大学教育学部附属中・高等学校男女生徒を対象に「将来、社会人と しての読書生活に古典を加えるつもりがあるかどうか」を問うたのに対して、40%以上が否定してい るのも全国的傾向の一端を示すものみてよいであろう。
(中村格「古典教育と国文学ーその主体性喪失の状況をめぐって」『言語と文芸第 81 号』1975 年 10 月)
この報告と前述の調査を併せて見る限り、実に半世紀近くにもわたって高校生の「古典嫌い」は継続して きた。それどころかむしろ増幅されているのである。学習指導要領改訂の度に同じような議論が繰り返され、
そのつど対策が練られてきたにもかかわらず一向に事態が変わらなかった要因は果たして何なのだろうか。
3 学習指導要領で忌避される文法教育
文部科学省は前述の調査による、 「古文の授業において、意欲的に取り組めなかった学習内容としては、 「文
法(25.9%)」、「古語の意味(17.8%)」という言語事項に関する回答が多かった。」というところから、「学
習意欲を高めるために、「文法」「古語の意味」等に関する指導の改善の必要性」を課題として認識し、指導
要領の策定を行った。ところが、新学習指導要領では「文法」について触れている箇所はごくわずかに留ま
る。広義の「文法」を意味する「文語のきまり」という文言を見つけることもできるが、全体としては高校
生の文法嫌いに対して正面から対策を講ずるというよりは、「文法」を忌避する傾向が見て取れる。こうし
た姿勢は「古典嫌い」の要因が「文法教育」にあるという前提のもと、1980 年代以降の学習指導要領にお
いて顕著になってきた。
新学習指導要領で新たに必修科目として設定される「言語文化」の学習内容の中から、「我が国の言語文 化に関する事項」を見てみよう。この部分は概ね現行指導要領の「国語総合」の学習内容と一致している。
(2) 我が国の言語文化に関する次の事項を身に付けることができるよう指導する。
ア 我が国の言語文化の特質や我が国の文化と外国の文化との関係について理解すること。
イ 古典の世界に親しむために、作品や文章の歴史的・文化的背景などを理解すること。
ウ 古典の世界に親しむために、古典を読むために必要な文語のきまりや訓読のきまり、古典特有の表 現などについて理解すること。
エ 時間の経過や地域の文化的特徴などによる文字や言葉の変化について理解を深め、古典の言葉と現 代の言葉とのつながりについて理解すること。
オ 言文一致体や和漢混交文など歴史的な文体の変化について理解を深めること。
カ 我が国の言語文化への理解につながる読書の意義と効用について理解を深めること。
言語文化についての指針を示すという学習指導要領の性質上、抽象的な記述に終始していることは仕方な いが、全体として学習者が古典を通じて通時的・共時的な繋がりを実感することを求めるような誘導となっ ている。一方で「書かれたもの」それ自体について高い精度で解析するという、国文学の世界では依然とし て中心的な研究方法となっている「訓詁注釈」から一定の距離を置いた姿勢であることは読み取れる。注意 を払う必要があるのは同項目の解説部分にある次のような記述である。
「文語のきまりや訓読のきまり、古典特有の表現などを断片的な知識として理解することのみが目的と ならないよう」
「文語のきまり、訓読のきまりについては、詳細なことにまで及ぶことなく、読むことの指導に即して 扱う」
「文語のきまりなどを指導するために、例えば、文語文法のみの学習の時間を長期にわたって設けるよ うなことは望ましくない」
これらは現行の学習指導要領とほとんど同じ文言であるが、神経質なまでに「知識偏重」「文法偏重」の 古典教育にならないように注意を促している。学習指導要領国語の中で、学ぶ内容や方法について積極的に 指針を示す場合はあっても、特定の分野や方法についてこれほどまでに規制をかけているのはきわめて珍し い。「言語文化」という科目の性質上、初学者を意識してのことかと思えば、選択科目「古典探究」の内容 や解説においてもその姿勢は変わらない。
しかしながら、学習指導要領の歴史を繙いてみると文法の扱いについては早くから慎重な指導を行うよう 留意されてきた。たとえば、現代文と古典が初めて分離した 1960 年(昭和 35 年)版の学習指導要領(文 部科学省「学習指導要領データベース」
(8)より)の「現代文」の「指導にあたっては次の点を考慮する」
の項には、
ア ことばに関する事項は、機械的な暗記に陥らないようにし、理解と表現に役だつ知識となり、さら に態度や習慣として身につくように指導する。
イ ことばのきまりの指導は、中学校で習得したことがらをさらに深めることとし、特に文章や文の組 み立てを確実に理解し、表現できることに重点をおいて指導する。
とあり、文法学習が単純な暗記に留まるのを懸念していることが分かる。「古典」乙の同項目にある、
エ 文語のきまり(かなづかいや文語文法など)や文学史に関する指導は作品の読解に即して行なう。
という記述にも、文法教育の一人歩きや専門的な指導への踏み込みに対するやや過敏とも言える警鐘が読み 取れる。
1994 年(平成 6 年)版、2003 年(平成 15 年)版の「学習指導要領国語」「古典Ⅰ」の「内容の取り扱い」
では、「文語文法の指導は、作品の読解に即して行い、必要に応じてある程度まとまった学習もできるよう にする。」とあり、穏当な表現に落ち着いたように見えた。ところが、現行の学習指導要領解説「古典探究」
の「内容の取り扱い」では、
文語のきまりや訓読のきまりなどの文語文法の指導は、古典の作品や文章の読みを確かなものにした り、深く読み味わったりするために行うという、これまでと変わらない原則的な考えを明示している。
文語文法の指導は、古典などを読むために必要な指導を、読むことの学習に即して行うという考え方で ある。必要に応じてある程度まとまった学習もできるようにするとしたのは、文語文法をある程度まと まった形で学ぶことを通して、古典に対する興味や関心を更に広げ、そのことが古典などを主体的に読 むことの学習にも生かされるよう配慮したものである。そこで、生徒の実態に応じて、そのような学習 の必要性の有無を適切に判断するとともに、文語文法の暗記に偏るなど、興味や関心を広げることを軽 視した指導に陥らないような配慮と工夫をする必要がある。
と文法学習の積極的意義を認めつつ、文法偏重によって古典嫌いにさせることを避けてもらいたいという姿 勢が再び鮮明になった。
高等学校において生徒の古典嫌いの要因を「文法」だとする考え方は根強く、またその根は深い。品詞分 解に始まり現代語訳を課せられる伝統的な古典の授業は、長い間批判にさらされながら一向にそのスタイル が改まる気配はない。
文法を基本とした訓詁注釈(古い言葉を現代語に置き換えて解釈すること)型の古典教育は、旧制高 等学校などでも行われていた学問的な方法である。ところが現在の国語の教科書の教師用指導書を見る と、どの出版社のものも、品詞分解と文法的な解説の頁が大きなウエートを占めている。そうした授業 をすることを、教科書も推奨しているのだ。(中略)かつては一部の選ばれた者たちが対象だった学問 的な古典教育の方法を、全入になって久しい現在も踏襲している。エリートならざる普通の生徒たちが 嫌いになるもの、当然のことであろう。
(『季刊文科』(2019 年夏季号)梶川信行「誰のための古典教育か」)
検定教科書は学習指導要領に則って作成されているものの、その教科書の解説でもある教師用指導書自体 が「文法偏重」になっているところが、この問題の根深さを物語る。
4 学校文法の現在と橋本文法
古典教育の課題が「文法教育」あるという考え方が定着して既に久しい。国語教育の方面からも、国語学 研究の立場からも、現在の文法教育については悪評ばかりが聞こえてくる。学校における文法教育の批判を 述べた論文は枚挙に暇がなく、その歴史も古い。
学校文法への批判と否定とは、すでに四十数年から五十年近く続いているといってよく、それでいて、
それに代わる文法が教育現場に登場しているとも思えないのである。そして、その間、話題を呼んだ現
代語の文法書は、すべて、学校文法を否定する立場のものばかりであった。
(中村幸弘「否定されつづける学校文法」『國學院雑誌』2007 年 11 月号)
不評のやり玉に挙がりやすいのは学校で扱われる口語文法であるが、文語文法とて基本的な枠組みも文法 用語も口語文法と地続きであるため事情は変わらない。とりわけ高等学校教育及び大学入試における「文法 学習偏重」については、長きにわたってどれだけ批判を浴び、反省の弁が述べられても、一向に解決に向か う兆しがない。
学校文法の成立と展開については様々な立場から分析が行われており、ここに詳述する余裕はないが、中 山緑朗「学校文法の意義と目的」、山室和也「学校文法の歴史」(共に『品詞別学校文法講座 第一巻』明治 書院所収)による整理に従って、ごく簡単に展開を追ってみる。
1902 年(明治三十五年)に発布された「中学校教授要目」に「国語文法ハ言文ノ対照ヲ主トシ常ニ口語 ト今文トヲ関聯セシメテ今文ニ必須ナル法則ヲ示スベシ」、1910 年(明治四十三年)の「師範学校教授要目」
にも「文語口語ノ文法ノ大略ヲ授クベシ」との記述があり、学校における文法教育の必要性が明治時代の後 半に既に高まっていたという。そして、「文法」が「学校文法」として認識されるようになり、更に「学校 文法」としては橋本進吉の著した『新文典』(1931 年)に依拠して岩淵悦太郎が国定の文法教科書として広 く普及させたことから、「学校文法」=「橋本文法」という図式
(9)が出来上がったとされている。このよう に、学校文法が橋本進吉の文法理論を祖型としていることについては論を俟たないが、学校文法の成り立ち と展開は複雑な歴史を持っており、橋本文法を以て直ちに教室現場の指導で行われている文法体系と考える ことは避けねばならない。
しかしながら、橋本文法由来の学校文法が少なからぬ矛盾を孕み、長きにわたり問題点を指摘され、多く の批判を浴びながらもその命脈を保ってきたことについては、もっと深い考察が必要であろう。そして、そ の考察こそが新学習指導要領下における古典教育にとっても最も必要な方向性を示唆するはずである。
橋本文法が学校文法として生き続けてきた理由の一つは、その体系性と明瞭性にあると考えられる。整然 とした「助動詞活用表」に代表される揺るぎないひとつの体系は、古典を専攻してきた教員だけではない学 校現場にとってこれほど頼りになる存在はない。用言の活用表、助動詞の活用表は国語を教授する教員にとっ て最大の権威装置として機能してきた。古典の教科書に採録されている作品が、源氏物語や伊勢物語、徒然 草やおくの細道といった古典的権威であるように、一つの文法体系が教員を通して「絶対の正解」として生 徒の前に立ちはだかるという構図は岩盤のように固い
(10)。教科書や文法書の巻頭や巻末頁が助動詞の活用 表になっている場合が多いこともその傍証たり得よう。
橋本進吉自身、「文法は一の言語の内に存するきまりであつて、意味を有する単位の構成に関する通則で ある」(「国語学と国語教育」『橋本進吉著作集第一巻』岩波書店 1948 年)と文法を定義しているように、
橋本文法はもともと法則性・体系性に重きを置くことを意識していた。そしてその姿勢はそれまでの文法理 論における課題の克服と捉えていたようである。
概していへば、従来の研究は、言語の意義の方面が主となつてゐるのであつて、言語の形に就いては、
猶観察の足りない所が少くないやうに思はれる。かやうな方面の研究によつて、従来の説を補ひ又訂す るのも必要であらうと思ふ。
(前掲書)
こうした考えに基づいて構成された文法体系は、学校における国語の授業のリアリティと絶妙の結合を見
せることになった。文法研究の世界で形式主義の謗りを受けようとも、「文節」の概念に痛烈な批判を浴び
ようとも、橋本文法は教室では無敵であった。このことは、先に触れた 1960 年の学習指導要領改訂におい て現代文と古典が分離した折のことを、長らく高等学校の国語教員であり国語教育にも大きな足跡を残した 国文学者、益田勝実の証言の示唆するところが大きい。
高等学校の国語科が、綜合国語制から「現代国語」「古典」の分離制へ移ったのは、一九六〇年一〇 月改訂の「学習指導要領」によってであるが、科目としての「現代国語」の独立は、言語としてのなに をどう教えるかの潜在していた問題を顕在化してしまった。「現代国語」ほど何を学ぶのかわかりにく い科目はない、というのがおおかたの生徒たちの共通の感想である。なにを教えるのか、どうも焦点が 定まらぬ、雑多な知識の卸問屋みたいで、とても自分の手におえないから、 「出来れば若手の諸君で」と、
年配の教師が若手にこの科目を押しつけようとする光景は、毎年、いたるところの学校の会議で見るこ とが出来る。
( 「国語科の革新」『益田勝実の仕事 5』ちくま学芸文庫 * 初出は『高等学校国語科教育研究講座 1』(有 精堂)1974 年)
国語教育を考えるときには様々な方面から焦点を当てる必要があるが、意外に取り上げられないのがこう した証言にあるような、教える教員の「本音」に当たる部分ではないだろうか。現古分離によって現代文の 担当を回避する姿勢というのは、当時の教員にとって教授法が確立している古典を担当することが安楽な道 であるという認識だったことを物語っている。その安楽の根源に古典の授業における橋本文法的な、絶対的 な正解を教授者が握る古典文法指導の存在があったのではないだろうか。
学習指導要領というものは教育の枠組みを示しており、教科書は教材を通してそれを具現化している。そ して、授業実践については特別な取り組みや秀でた授業例などについては様々な報告が提出されている。し かしながら、日常の古典の授業がどのような展開になっているかについて、とりわけ現場のネガティブな面 や教員の惰性、妥協といった負の側面を示す報告は極めて少ない。橋本文法が学校文法として定着した要因 は複数考えられるが、教員が揺るぎの無い金科玉条に依存してきたという点については、教科書の指導書や 指南書の類いを参照しつつ、益田勝実の指摘するような「職員室のリアリティ」も考え合わせて検証してい かなければならない。
職員室のリアリティの反映でもある教室での古典の授業について、文部科学省初等中等教育局視学官とし て学習指導要領に策定にも関わってきた大滝一登の指摘は現場の指導の最大公約数的な実態をよく捉えてい る。
一般に、古文の授業といえば、原文の音読から始まり、原文を品詞分解し、逐語的に現代語に訳して いくイメージが根強いのではないだろうか。確かに現代語に正確に訳していくために文語文法の理解が 必要なのは言うまでもないが、この活動が単なる作業として目的化し、結果的に古典嫌いを増やすこと につながっているならば、本末転倒と言わざるを得ない。
(『日本語学』2014 年 11 月*掲載当時の役職は文部科学省初等中等教育局教育課程課教科調査官)
こうした惰性化した古典の授業を打破する必要があるという問題意識が学習指導要領の改訂に繋がってい
るのである。学習指導要領上長らく「文法学習」が忌避されてきたことは既に述べたが、それは現行の文法
体系に基づく授業展開の限界に対して警鐘を鳴らし続けてきたものと捉えることもできる。しかし今回の改
訂における意味は更に重大である。新学習指導要領国語における学習内容や指導上の留意点は、解説の分量
は事例紹介が多く肥大化しているものの、内容の骨格は従来からのものとそれほど大きな変化はなく、先に
述べた配当単位数の問題が古典離れを助長するという懸念の方が大きい。
しかしながら、この改訂における最大の問題は授業スタイルの転換が求められているところにある。新学 習指導要領のポイントは「主体的・対話的で深い学び」というものである。答申の段階では「アクティブ・ラー ニング」という言葉が盛んに使われていたが、新学習指導要領国語では「総説」のところで、
「主体的・対話的で深い学び」の実現に向けた授業改善 (アクティブ・ラーニングの視点に立った授業 改善)とは、我が国の優れた教育実践に見られる普遍的な視点を学習指導要領に明確な形で規定したも のである。
と括弧書きで触れるのに留まっている。
文部科学省の定義によればアクティブ・ラーニングとは、
教員による一方向的な講義形式の教育とは異なり、学修者の能動的な学修への参加を取り入れた教授・
学習法の総称。学修者が能動的に学修することによって、認知的、倫理的、社会的能力、教養、知識、
経験を含めた汎用的能力の育成を図る。発見学習、問題解決学習、体験学習、調査学習等が含まれるが、
教室内でのグループ・ディスカッション、ディベート、グループ・ワーク等によっても取り入れられる。
(文部科学省「用語集」)
という授業スタイルのことを指し、新学習指導要領下の学習にはこうした視点からの授業展開が求められて いる。
このことが現行の古典の授業スタイルに与える影響は小さくはない。時間数の減少に加えて上記のような 学習手法を用いる必要があるとすれば、これまでのように橋本文法的な体系的で構造的な文法理論を基に教 授する授業ではとても教科書の内容を終えることができないはずである。文法指導は発問や小テストはもち ろん、定着のためのワークなどに時間を費やすことが多く、従来行われてきた「文法体系を学びその知識を 活用しながら古文を読解する」というオーソドックスな訓詁注釈型の授業は、現実的に難しくなるという状 況が予想される。ある意味で、橋本文法は現行の一斉授業や定期試験という、教授者主体の授業にとって最 適な文法理論だったと言えるのである。
ここに、これまで幾多の改訂によっても、学界からの批判によっても、生徒の古典離れという無言の抵抗 によっても解消できなかった、橋本文法からの脱却という長年の課題を克服する契機として、新学習指導要 領の意義が浮上してくるのである。
5 新学習指導要領下における古典教育の可能性
教室では、既成の文法ー学校文法を代表とするーを利用しながら、そして、それらが欠陥品であること を、誰もが知っていて、それらへの修復につぐ修復をみんなで試みながら、何とか凌ぎ凌ぎして、物語 やうたを読み、かつ味わい続ける。
(藤井貞和『文法的詩学』笠間書院 2012 年)
現行の古典教育の中で橋本文法以外の文法学説に依拠している教科書や副読本は皆無と言っていい中で、
藤井は橋本文法とは大きく異なる体系的文法理論を構築しようと、『文法的詩学』とそれに続く『文法的詩
学とその動態』(笠間書院 2015 年)の内容を一般向けにコンパクトにまとめた『日本文法体系』(ちくま
新書 2017 年)を著した。学校文法において最も文法学習に費やされる助動詞だが、助動詞相互の関連や
意味的な繋がりを無視して、それぞればらばらにされて暗記する学習になっているという弊害
(11)がある。
藤井はまず助動詞や形容詞の語尾を「助動辞」という機能語として捉える。助動詞に意味がラベリングされ て表の中に整理されているという学校文法的発想を克服するために、 「krsm 立体」(下図『文法的詩学』より)
という新しい概念を導入している。
「き」=過去を表す、 「り」=現在を表す、 「し」=形容詞の語尾、 「む」
=推量を表すとし、たとえば「き」と「り」の間に「けり」、「き」
と「む」の間に「けむ」が浮上すると考え、それぞれがその周辺に 時間域、形容域、推量域という領域を構成するという見立てをする。
きわめて刺激的で斬新な発想によるこの体系がただちに学校文法に 代わり得るものがどうかは判然としない
(12)。既存の文法の矛盾や不 足を補う働きをするであろうことは予想されるが、古典学習の時間 が圧迫される中で複数の文法理論体系を柔軟に使い分けながら教授 することも学習することも困難をきわめるに違いない。それほどま でに学校文法は国語教育を束縛しているのである。けれども、新学 習指導要領における古典の実質的縮小と授業デザインの変革は、結果として新しい古典の学び方を招来する かもしれない。
藤井の文法理論は時枝文法の課題を克服した形として提示されていると言ってもよい。長らく問題視され てきた橋本文法の学校文法における限界が、半世紀以上も昔に構築されその理論的限界についても多くの指 摘がなされている時枝文法によって取って代わられる、というのはいささか乱暴な筋立てと言える
(13)が、
新学習指導要領下での古典教育を考えたとき、「時枝文法的」な考え方は考量する価値があるように思われ る。もちろん、時枝文法といっても文法研究の水準の概念においてではなく、学校教育の中において通用す る概念として、ここでは「機能文法的」「解釈文法的」という程度の意味に留めておくが、それでも時枝の 文法理論は学校文法には採用されず、現在では教科書や参考書にその理論が取り上げられることもほぼな い。しかしながら、解釈文法という点では、新学習指導要領下の古典教育においては非常に相性のいい考え 方であるとも言えるのである。
時枝誠記『増訂版 古典解釈のための日本文法』(至文堂 1959 年)では、最初の単元に「連体形の用法」
を立てて、解釈文法的に問題になりそうな用例を挙げて解説するという体裁になっている。例えば「単元二」
では次のような解説を施す。
優婆塞が行ふ道をしるべにて、来む世も深き契り違ふな(夕顔一ノ七三)(傍線時枝)
右の例には、 「行ふ」「来む」「深き」の三の連体形が用いられているが、助動詞の「む」及び形容詞の「深 き」は、直に下の「世」及び「契」にかかる連体修飾語であるが、「行ふ」は、「道」という語の属性概 念を表す連体修飾語ではなく、「優婆塞」の述語として用いられたものであり、「優婆塞が行ふ」全体が
「道」の修飾語となっているものとして理解しなければならない。後者の場合が特に重要である。
現在教室においてこの用例を扱う場合はおそらく、
優婆塞 / が / 行ふ / 道 / を / しるべ / にて /、来 / む / 世 / も / 深き / 契り / 違ふ / な
という、橋本文法的な品詞分解によるアプローチが採られることが多いはずである。通常の読み方をしてい
れば意味のまとまりが見えやすい形でも、わざわざ文を品詞に分解してそれぞれの単語の意味や職能に着目
することによって解釈に誤解が生じる可能性が高まる。文法を一通り学習したのに古文が読めないという
ケースは、こうしたところから生まれてきていると考えられる。
時枝「思考の表現としての言語・文章」『時枝誠記国語教育論集Ⅰ』(明治図書 1983 年*初出は 1966 年)
の言には、分節や品詞に区切ることの「教室的限界」が示唆される。
文法学上、「文」は、纏まった思想を表現したものと定義されてゐるが、そのまとまりといふことは、
具体的にどのやうになつてゐるかといふことが明らかにされてゐない。文節論的分析においては、分析 された文節が、順次、結合されてまとまりを、形作ってゐるとだけ説明されてゐるのであるから、それ を思考の統一的表現として理解することは困難である。
上記のような文の捉え方については、文法研究においては議論し尽くされた感があるものの、新学習指導 要領が求める「主体的・対話的で深い学び」における「協働学習」にはきわめて適していると言えるのでは ないだろうか。例文という具体的な素材に対して生徒たちがそれぞれの解釈を提示し議論する、という学習 では、むしろ品詞分解的な「正解」は邪魔になる場合もある。
ここで、古典の学習は特定の文法理論に依拠する必要があるのか、という疑問が出てくる。そもそも橋本 文法以来、多くの学説が国語学界や言語学界には存在していたが、亀井孝、佐伯梅友、渡辺実、北原保雄と いった一般に流通する文法書のレベルで一つの体系をなした学説が、学校文法に決定的な影響を与えること がなかったことを鑑みると、最新の学説がいくら提出されたところで現行の学校文法の地位は揺るがないと 考えるのが妥当かもしれない。40 年前に既に指摘されていた、
古典教育の現状からみると、まとまった形で、高校生に古典文法を与える必要が、ほんとうにあるのか どうか、かなり疑問である。それよりも、とりあげる教材に即して、その解釈に必要な範囲で、極端に いえば、その場その場で、文法に触れるような形の方が、少くとも、例外例の続出で、生徒の文法不信 をかうよりは、有効なように思われる。
(田中章夫「文法教育を考える」
(14)『文学』1981 年 4 月号)
という見立てが今になって現実味を帯びてくる。
というのも、教育の情報化が進む現在の学校では、教育用コンピュータ 1 台当たりの児童生徒数は、高等 学校で既に 4.4 人に 1 台となり、ここ 3 年で 5 倍以上増加している(文部科学省「学校における教育の情報 化の実態等に関する調査」2018 年度調査結果)。教室の無線 LAN 設備や電子黒板の普及も急速に拡大し、
今後は一人一台タブレット端末を所持して授業を受ける時代が到来する。つまり、生徒にとって学校文法に 則った文法書は「不磨の大典」ではなく、インターネット上のプラットフォームに置かれた様々な文法理論 や学説のうちの一つに過ぎないという捉え方になるのかもしれない。
学校文法が依拠する文法理論が固定化することの弊害は他にもある。近年の教科書や入試問題には江戸時 代の文章や室町時代のお伽草紙、鎌倉時代の擬古物語などが数多く採録されるようになった。周知の通り学 校における古典文法は主に平安時代の文章を読むのに最適な文法であり、上代や近世の文章になるといよい よ例外的な用法が多くなる。学校文法が小さな改良を加えたところで生徒の文法不信に歯止めをかけること は容易ではないだろう。
このように、新学習指導要領とそれを取り巻く社会状況は古典教育をいやが上にも変革していくことにな りそうだ。そうした現状や未来に向けて様々な実践が行われつつあるが、例えば新学習指導要領には「古典 探究」の「言語活動の例」として次のような実践が挙げられている。
ア 古典の作品や文章を読み、その内容や形式などに関して興味をもったことや疑問に感じたことにつ
いて、調べて発表したり議論したりする活動。
イ 同じ題材を取り上げた複数の古典の作品や文章を読み比べ、思想や感情などの共通点や相違点につ いて論述したり発表したりする活動。
実はこうした方法は既に益田勝実によってかなり以前に提示されている。
高校生に共通の古典文学の教材を一律に与え、それを読ませようとする普通のやり方をやめて、め いめいに『平家物語』のなかから学習したいところを抜き出してこさせてみるがよい。中世の歌謡の なかから、じっくり考えてみたいものを探してこさせてみるがよい。近世の評論からでもよい。探す 段階での読みは、直観に主にたよってでもよいだろう。おぼろげな受けとり方でよいだろう。選びだ したら、自分の力でできるだけ綿密に読みとり、可能なかぎりそれについて考えめぐらすがよい。現 在の学校ではほとんど企てられていないこの方式、めいめいが〈古典〉を持ち出す学習は、やってみ るとわかるが、実におもしろい。学習者の方がはじめの選択から主導権をにぎっているから、勉強さ せられて丸おぼえをする姿勢はない。だんだんと探る範囲も自由にすれば、なおいい。
(益田勝実「古典教育と呼ばれるもの」『文学』岩波書店 1981 年 10 月)
文法に偏らず、「主体的で対話的で深い学び」を展開することが求められる新学習指導要領。この改革が 本当に明治以来の大改革であるとすれば、これまであまたの改訂や提言によっても変化できなかった古典教 育の方法を抜本的に見直す千載一遇の契機となるかも知れない。
古典学習者にとって明瞭で統一的な基準に基づく文法理論を構築した橋本進吉が、「学校文法の大黒柱」
という地位から少しずつ退き、言語を言語主体の表現行為・理解行為であるとする言語過程説を唱えた時枝 誠記の古典教育における可能性を浮上させるのが、今回の学習指導要領の改訂であるという見立ては、まだ まだ文法研究、国語教育研究いずれの立場から見ても粗雑な見通しに過ぎない。けれども、時枝誠記自身が
「古典は民族の自叙伝である。自叙伝には、栄誉と懺悔とが盛り込まれてあるやうに、古典は、ある場合には、
民族の栄光であると同時に、ある場合には民族の懺悔である」(「古典教育の意義とその問題点」『国語と国 文学』1956 年 4 月)と語るように、文法学説の言わば「古典」である橋本文法の学校現場における栄光と 懺悔についても直視しながら、未来の古典教育を構想することが「古典教育の危機」における一つの処方箋 になり得るとは言えないだろうか。
(本学非常勤講師)
注
(1) シンポジウムのオーガナイザーを務めた勝又基によって書籍化された。『古典は本当に必要なのか、否定論者と議論して本気で考えてみた。』(文 学通信 2019 年)。
(2) 大学入学共通テストは 2021 年度入試開始。2017 年、2018 年にそれぞれ「試行調査」というプレテストが実施され、駐車場の契約書や生徒会規 約などの「実用的文書」を使用した作問がなされた。記述式問題が新たに導入される予定だったが、2019 年 12 月に延期が決まった。古典分野に ついてはさほど大きな変化はないが、複数の文章を用いた作問が意識されている。
(3) 教員養成学部や大学院の廃止や転換は 2000 年代初頭の国立大学法人化に際して政策として打ち出されていたが、マスメディアに大きく取り上げ られたことで人文系学問が「役に立つか役に立たないか」という文脈で議論される流れができたと考えられる。
(4) 「大学入学試験を含めた学習指導要領の改訂、これは戦後というよりは、もう明治から始まった学制以来の、150 年の大改革だと思います」(下村 博文文部科学大臣記者会見録(2014 年 11 月 21 日))
(5) 板東智子「学校教育のなかでの古典(1960 年前後)」(研究論叢 . 第 1 部・第 2 部人文科学・社会科学・自然科学 2015 年)は、この時の学習指導 要領改訂をめぐっての議論をまとめ、現代的意味について示唆している。
(6) 山東功「学校国文法成立史序説」(言語文化学研究 . 日本語日本文学編 2007 年 3 月)に詳しい。
「時枝誠記は自説をそのまま文法教育に還元させようとして、国語学と国語教育を極めて強引に接合させようと試みた。時枝の文法教科書別記に おける次のような記述は、教育現場からすればかえって混乱を与えかねないものである。(中略)時枝文法については理論的に十分整備がされる
前に国語教育へ導入しようとした結果、定着を見なかったと言えるだろうこれは、「学校国文法」の実践的性格を如実に反映している。すなわち、
教えやすさといった、「国文法」研究とは異なる評価基準が求められる部分が、「学校国文法」には存在するということである。」と指摘する。
(7) 紅野謙介編『どうする?どうなる?これからの「国語」教育』(幻戯書房 2019 年)に詳しい。
(8) 文科省「旧学習指導要領」http://www.nier.go.jp/guideline/index.htm。
(9) 森田真吾「昭和初期文法教育における「実用」と「知識」—橋本進吉『新文典』編纂の背景—」(『日本語と日本文学』2001 年 8 月)によれば、
昭和初期の文法不要論の精査から、当時の文法教育が「実用」から「知識」に転換した時期と位置づけている。その時に、文法の知識を与えるも のとして捉え直したのが橋本進吉の『新文典』であったという。この整理に従うなら、橋本文法がその明瞭性によって当時の大正から昭和初期に かけての「実用」という観点から文法不要論を却けたように、再び知識から実用へという視点で橋本文法を克服しようという正反対の動きが現在 起こっているとも言える。
(10) 加藤久雄「「橋本文法」の今日的意義ー「文法」についての意識調査からー」(『日本語学』2009 年 4 月)は、日本語話者が日本語の文法について 考える機会に拠って立つところが学生時代に触れた「橋本文法」であるという点について、他の文法理論とは全く異なる位置づけを有するとして いる。
(11) 永島誠「高等学校におけるこれからの古典文法教育ー古典語助動詞の図示化を通してー」(『日本文学文化』2018 年 3 月)は、部分的に時枝文法 を参考にした新しい文法学習の実践を示している。また、小柳智一『古典文法研究と古典文法教育—動詞活用についての実践例—』(福岡教育大 学教育学部附属教育実践総合センター(教育実践研究)2008 年)も助動詞相互の関連を意識した学習の実践例を示している。このように、藤井 文法以外にもこの弊害を克服しようとしている実践も見受けられる。
(12) 森山卓郎「「形重視」から「意味重視」の文法教育へー 21 世紀の学校文法に向けてー」(『日本語学』1997 年 4 月)には、「学校文法の改善を現実 的な問題として考えた場合、ある年から突然全く違った体系の文法に全面転換するということは教育現場の混乱が予想され、恐らく難しい。それ を目指すのも一つの考え方だが、現行の学校文法の足らざるところを補い、意味を重視するという方向で「学校文法」を徐々に「進化」させてい くということも検討してよいのかもしれない。」と慎重な姿勢を取っている。
(13) 八木雄一郎「1960(昭和 35)年高等学校学習指導要領における「古典としての古文」の成立過程 : 古「典」教育にお ける古「文」の位置」(『日 本語と日本文学』2015 年 3 月)によれば、1960 年の学習指導要領改訂における現古分離を、それまでの「国語表現素材」としての「古文」から、
伝統的な古典文化を学ぶ者としての古典教育の転換期だったと見る。そして、その現古分離に深く関わった時枝誠記の教育観が学習指導要領に反 映している可能性を示唆している。
(14) 渡辺義夫「あたらしい古典文法教育のあゆみ」(『国文学解釈と鑑賞』1997 年 7 月)はこの論文を引き、「古典文法そのものは現行のものでいい、
その与えかたと時期が問題だ」というのが、1981 年当時の平均的な問題意識だったと指摘している。