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日露戦争期における手工と農業の問題

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日露戦争期における手工と農業の問題

普通学校労働教育史4

技術科教育研究室 永 島 利 明

参考までに就学率と女子の裁縫等の教科を表2に示す。

統計からみた加設教科      なお,1908年より尋常小学では裁縫は必修となった。

日清戦争後,日本資本主義は官営軍事工業と政商資本

を先頭にして急速に発展していった。しかも半封建的土 内 容 就 学 率 裁 縫 裁 縫

地所有制度にもとつく国内市場のせまさ,資本主義の侵 年 号

手 工 略的性格などから植民地市場の獲得を必要としていた。 1903(明治36) 96.59 89.58 9144 23 一方,三国干渉の主役を演じたロシヤは中国に進出し, 1904(明治37) 97.16 91.46 9569 202 朝鮮を支配しようとしていた。こうして日本とロシヤの 1905(明治38) 97.72 93.34 9340 806 間で中国および朝鮮を支配しようとして戦争が行われた。 1906(明治39) 98.16 94.84 9707 1020 この日露戦争中とその前後はわが国の学校労働教育が 1907(明治40) 98.53 96.14 9519 1507 ひとつのピークに達した時代であった。いま小学校の

       表2 就学率と裁縫等の履習状況(就学率は日本近代1903(明治36)年から1909(明治42)年までの加設

教科を肋ばつぎの通りである」)      教育史辞典履習状況は文部省年幸艮より作成)

上にあげた表1から加設教科の推移をみよう。第1に,

  科

N号 尋手

高手 農業 商業

手農

農商

英語 英語を除き一般的傾向として1903(明治36)年から P907(明治40)年まで増加の傾向がある。ただし,商 1903

45 89

1474

73 73 26

500

業は前年にピークに達している。第2に,第1の傾向に

* 5 *54

* 6

* 6

* 1

かかわらず,手工・農業の合科授業は増加している。

1904

172

350 3837 239

126

90

420

1908(明治41)年からの農業の減少分は,手工・農業

*17 *89 *24 * 9 *10

1905 625 617 4279

281

288 106

395

の合科に代替されたと推定される。第3に,英語単独学 習が減少している。しかし,英語と農業・商業・手工と

*21 *65 *34 *11 *24

の合科は増加の傾向がみられる。

1906 944 714 4426 308

421 111 425

従来の技術教育史では手工の推移だけを取上ることが

*23 *52 *27 *21 * 9

1907

1320 903 4581

281 504

104

392

行われた。しかし,うえにみたように手工や農業,英語

*29 *89 *42 *14 *12

やほかの三科との合科がみられるように,手工だけを加 1908 5366 827 4108

189

1107 88 288 設教科のなかから取上げて検討するのでは,研究方法と

*60 *72 *59 *41 *15

しては不十分である。加設教科全体から検討しなければ 1909 7242

891

3942

151

1812

84 215

ならない。ここではその時代的背景と学校労働教育の関

*76 *94 *44 *65 *16

係を考察する。

表1 加設教科の履習状況(尋手=尋常小学手工高 手=高等小学手工。ほかは高等小学の教科である。実習 校が少数のものは省略した。*は英語との兼修を示す。)

(2)

146      茨城大学教育学部紀要 第27号

1905年の小学校令の改正       年3月26日に改正された。尋常小学校は1goo年と同じ 政府は1894(明治27)年に実業教育費国庫補助法を  なので省略し,つぎに高等小学校の場合をみよう。

公布し,また,1899(明治32)年に実業学校令を公布   第二十条 高等小学校ノ教科目ハ修身・国語・算術・

するなど実業教育振興策をすすめた。しかし,政府の実   日本歴史・地理・理科・図画・唱歌・体操トシ女児ノ 業教育の奨励にもかかわらず,小学校の卒業生は実業学   為ニハ裁縫ヲ加フ 修業年限二箇年ノ高等小学校二於 校に入ることをきらった。その原因は生産労働の軽視と   テハ理科・唱歌ノー科目若クハニ科目ヲ欠キ又ハ手工 労働者および農民の劣悪な労働条件や生活水準の低さが   ヲ加フルコトヲ得 修業年限三箇年以上ノ高等小学校 あったことであった。職業教育としての実業教育の進展   二於テハ男児ノ為二手工農業商業ノー科目若クハ数科 をはかることが困難であると考えた文部省は別に三つの   目ヲ加フ但シ数科目ヲ加フル場合二於テハ児童ニハ其 政策をとることを考えた。文部省総務長官(現在の次官   ノー科目ヲ学習セシム 修業年限三箇年以上ノ高等小 にあたる)岡田良平は1902(明治35)年に「教授上に   学校二於テハ唱歌ヲ欠キ又ハ女児ノ為二手工ヲ加フル 於ては第一,現在の理科及読本等を利用して実業的知識   コトヲ得 修業年限四箇年ノ高等小学校二於テハ英語 を与ふると共に,実業的思想を鼓吹することにあり,…   ヲ加フルコトヲ得 前四項に依リ加フル科目ハ之ヲ随

・第二は高等小学第三四年に実業科を置くこと之れなり   意科目ト為スルコトヲ得

……

サ時稽々世人に注意せられつ玉ある低度の実業補習   この小学校令20条の改定は一部改定であったので,大 学校は将来に於て之を増設するの必要あり」2)とのべて 臣の談話はなかった.改正の鮨について贈通学務局 いる。       長沢柳政太郎が実科教育雑誌記者に話したものが・当時

すなわち,文部省は,第1に理科および国語で職業の  の雑誌に多く引用されているの℃つぎにそれを示す。

知識を与えること,高等小学3〜4年で実業科を必修と   「小学校の学科は主として普通教育の目的の為めであ すること,第3に実業学校のかわりに実業補習学校を増   って,父祖の業を継ぐ所の人々の為めにも普通教育とし 設することの政策を打ち出したのである。その増設には  て相当の効果を期せなくてはならないけれども,特別 教員が必要であるが,「此等低度の多数学校の為めに特   の職業の予備の為めにでないことは勿論である。併し,

に専門の教師を置くが如きは現今の事情の致底許す処に   小学校と他の学校との関係連絡今日の制度の如く明か 非るなり,外国に於ても亦多くは小学教員をして兼務せ   となっておる時に当ては普通教育の目的を損せざる限

しむるものN如し」というわけで,実業科の教員と補習   りは,他の教育を受けずして直ちに父祖の業を継ぐ人 学校教師の兼任をねらいとした。       々の便宜を謀ることが甚だ必要なことである。これ即

岡田は1903(明治36)年の岡山県教育会の席上で,   ち今日此三学年以上に於ては必ず手工農業商業の一科

「小学校令改正趣旨」について演説している。そのなか  若くは数科を加へることとした主たる理由である。

で,富国強兵のために実業を起すことが必要であるとし,  併し手工科といふものは商業若くは農業と余程趣を

「仏蘭西に於ては此小学校に実業的の科目を加へると云  殊にしてをって簡易なる工業と見ることは出来ないも ふことが最も十分に行われて居りまして,則ち高等小学  のである。工業上の知識を与えるといふことは小学校 校に於ては今度改正になった通りに農業なり商業なり手   などでは到底出来ないことであるが,もしそれが幾分 工と云ふものを一種若くは数種置かねぱならんと云ふご  でも出来るならばそれは他の教科乃はち地理,理科或 とになって居る。伊太利などでも仏蘭西に近い所のもの  は図画等の教科で授くべきものであろうとおもう,手 でありまして,此調子に依って行ったならば中学校に進  工といふものは殆ど図画と同様に専ら教育上の価を有 む者は別として小学校丈けを卒業して実業に就く者は多   (ママ)ってるもので実用上の価をもっているもので 少の実業教育を受けて居るので後日実業に従事しても有   はない。普通に手工,農業,商業と何時も三科を並べ 効なる人となることができる(後略)」3)とのべている。 ていふから一拷えると三科同様の価を有っているよ

このように高等小学校3〜4年にいわゆる実業科を置い   うに澄もわれるかも知れぬが,農業,商業はむしろ実用 たのはフランスの制度を参考にしたのである。      を目的としていると云ってよかろうけれども,手工は

、9。。(明治33)年の改正・」孝校令1ま・9・3(明治36)主とし轍育上の目白勺の為めに課せられるものであ劉

(3)

沢柳は図画と同様に手工を普通教育と考え,農業と商  とのべていた。そのことは従来の不振な随意教科として 業を職業教育に近いと考えていることは明かである。当  の小学校の実業教育をながい間みてきたものにとっては 時の鯨日日新聞も社説のな楓「小学校令の改正は当然の感想であったのであろうZ)しかし,・899(明治32)

高等小学校に於て必ず農業商業手工等の実業科を置かし  年以後の文部省の小学校の実業教育重視は末端にまで浸 むるを旨とす,是皆実用的人物の養成を必要とする趣旨  透し始めていた。翌年4月の熊本県の私立八代郡教育会 に外ならず」と職業教育的なとらえ方をしている。また  春期総会では「実業教育普及方法」に関する答申書を出 続いて「今日普通学科すら既に教員の不足を感ずること  している・そのなかで「実業教育の普及発達を務むるは 甚だし」として,いわゆる実業科担当の教師が得られな  国運の隆盛に図る所以のものなるを以て広く其方法を考 いことを問題として指摘している。5)         究して此れが普及を計らざるべからず而て其方法に至て

いままで1903年の,」・学校令の一部改正についてのいく  は一にして足らずと難も目下の最急務なりと信ずる事項 っか備評を紹介してきた.そのなかで最も大き燗題 を列挙すること左の如し」8)として・・瑚をあげている。

は,文部省の首脳が(特にここでは沢柳をさすが)農業・ そのなかには「実業に関する講習会を開く事」「本郡の 商業と手工についての見解を変えたことである。文部省  高等小学校三四年生に実業の一科若くは二科目を課する の見解についていえぱ,森有礼が1888(明治21)年に  事 但土地の情況に応じて適宜実業の種類を撰むべし」

「三科ハ皆大二人生ヲ利スル所ノモノナル故二各小学校  という項目があった。国の政策が郡段階まで根をおろし 児童ヲシテ各其素ヲ得セシムルハ太タ願ハシキコトナリ」 ていたことがわかる。さらに1902(明治35)年になる

とのべて以来,約15年三科を同一の価値をおいてみて  と,第2回広島県連合教育会は「実業講習会を開かれん きたといってよい。しかし,沢柳が手工を普通教育,農  ことを本県知事に建議すること」を可決している。その 業および商業を職業教育であるという見解を示してより, 建議案はつぎのようである。

手工の教員はこの見解をよりどころとしてことごとく農   「今や我国教育会のすう勢は大いに実業教育に向て集 業を排斥するようになった。特に教科としての労働教育   注しつつあり。然るに其之を授くる教員に乏し。他の を守り育てなければならないときに手工と農業の教員は   諸学科及び教授法等の講習会は大は一県を通し小は一 抗争して,今日のように高校の普通科では,まったく労   郡一村に於て夫々開催ありて大に発達進歩の形跡ある 働の教育を無力なものとしてしまった。         も,独り実業科の講習に至りては未た其声を聞かず。

三教科は同一の価値をもつものであり,その基本は普   故に此際教員をして実業科の講習をなさしめ大に実業 通教育に不可欠のものである。この立場からすれば沢柳   教育の発達を計るは最も主要の急務なりと信ず。依て の見解は厳しく批判されるべきである。         来年度より適当の時季方法を以て教員実業講習会を御

開設被成下本会の決議により此段建議候也」9)

講習会の開催要求と文部省の対応         政府も教育界にも小学校の実業教育の重要性をとくも 1903年の小学校令の改正により,高等・」・学の労働教  のはあったが・それはスローガンだけにすぎなかった・

育教科が必修的な地位を与えられたものの,従来はまっ  文部省は教育に必要な現場の教師の研修すら行っていな たく軽視されてきたので担当教師が非常に少かった。   かった・教育当局は法規を改正すれば実業教育は実施で 教育時論が社説で,       きると考えていたのであろうか。しかし・未知の教科を

「ただ手工,農業,商業の一科目が加わりたりとて,  押しつけられて困るのは現場である。そこで広島県のよ 全体の教育が実科的ならざんには真正の実業教育の効  うな陳晴が出されたのである。一部には・岩手県上閉伊 果は挙からざるべし。若し全体の教育にして実科なら 郡のように・農業の講習をしたところもあった。1902 んには,実業の一科目を特設すると否とは多く影響す  (明治35)年の岩手学事彙報は「昨年上閉伊郡にては全 る所なきなり。否寧ろこれを特設したるが為めに,他  郡の教員を招集し農業の講習を受けしめたるに・其効果 の教科より愈々実業趣味を除き去る弊なきにもあらず。 顕著なりと・各郡いずくんぞ浮草の講習を慶して・執鞭

      10)この点に於ては学校令の改正よりも,教員の脳髄を改  に必須なる知識技能の講習会を開かざる」       とのべてい

良する方が本なりといわざるべからず」6)      る。しかしこうした郡は非常に少数であったであろう・

(4)

148      茨城大学教育学部紀要 第27号

文部省は遅まきながらも19°1(明治34)年6肚原 年から・9・6(明治39)年まであった。・6)これ鯵加し

六四郎および岡山秀吉に命じて手工教科書の編集に着手      たものは農業や手工を担当している師範学校教員,小学 した。1903年にできあがった草稿は,夏に開かれた手工      校教員,視学等であった。つぎに文部省の2種類の夏期 講習会に出席した教師たちによって実際に試された。翌      講習会をみよう。

年7月には文部省編纂「小学校教師用手工教科書」甲乙      1904(明治37)年の文部省主催の実業教員夏期講習

膿撫讐麗鑑懲攣過に訊議欄謂慮繊そ纏㌔

文部省は従来夏期講…習会をしてきたが,1903年より手       等小学校教員のために開かれ,織物と機械の工業科はそ 工科を加え,師範学校担当教員,附小訓導,府県郡視学      れよりやや高級なものが東京高等工業学校で行われた。

等を招集して,手工科の理論と実際とを指導した。上記      工業科の講師には外国入の講師もいた。つぎに農業科を の教科書は小学校手工の標準を示すことと,講習会のテ      みよう。農業科は2会場で開かれた。茨城県立農学校で

キストとして使用された。その際長野県,岡山県は卒先

オて撒に手工を加熱・2♪

@  器灘警苛濃蝶さ鎌謬轟

農業の教師用教科書もほぼ同じ時期に編集されていた。       校では講習科目は茨城と同じであったが,講師は横井時 当時はわが国は農業国であったから農業が重視され,明      敬,小野孫三郎,藤本春二であった。商業は神戸商業高 治時代だけでも3種類の教師用農業教科書が発行されて      等学校で行われ,商業教授法,簿記商業学が講義され,

いる。最初のものは1904(明治37)年の「小学校教師      講師は佐野善作,東爽五郎,津村秀松,内池廉吉であっ 用農業教科書一」と同二の2巻である。1906(明治39)      たo

年4月には「小学校単級教授教師用農業教科書」一巻,       この講習会の資格には「成るべく現に農業又は商業の 1911(明治44)年3月には「小学校教師用農業教科書」      教授を担任せる者を選定すべし」, 「実業補習学校及高 巻1〜2が発行された。巻1には巻3まで発行するとあ      等小学校の教員にして現に農業又は商業の教授を担当せ

るが現在あるのは巻1〜2のみである。      ざる者に在りては其旨明記すべし」という条件がついて

農業教師用教科書の編集はどのようにして行われたの       いた。この資格からみると,現場の実践者中心の講習会 であろうか。その経過については手工教師用教科書ほど      であったことがわかる。

ノは詳細にはわからないが.矢田鶴之助の記録13)による       一方,師範・中等教員の夏期講習会は手工科は7月21

と,横井時敬(ときよし)・沢村真の両東大教授,佐々      日より東京で岡山秀吉,上原六四郎を講師として開かれ 木拓太郎(高師教授),針塚長太郎(文部視学官)が委      た。文部省の農業講習会の期間は3週間であった。

員で,矢田(東大付属農業教員養成所の卒業生でその助       文部省の講習会は以上の通りであるが,地方でもしだ 手)が補助役であったという。しかし,横井時敬の略歴      いに講習会が開かれるようになった。農業は師範学校に

みると,14)1909(明治42)年2月農業教科書編さん      教科としてあった県が多く,地方教育雑誌では農業講習

委員委嘱となっており,上記の3種類のうち,最後のも      会はあまり話題となっていない。手工に関するものをつ のは確実に横井がかかわっていることがわかるが,ほか      ぎにみよう。

の3種類も同じであったかどうかということは明かでは       地方の手工講習会を討論したもっとも古いのは1903

な隔だが・当時の諜教育のリー些シ・プをとって (明治36)年の山形騰育会の場合であろう.捌教育会

いたのは,この5人であったから,教科書編集もこの5      総会は神作浜吉が手工講習会を開くことを提案している。

人が中心であったであろう。      その内容は夏休の一ケ月を利用し,編細工,木工初歩を

講習するというものであった。しかし,「職工ノ如キモ

講習会の開催      ノヲ養成シタレハトテ小学校土ハ不適当ナリ。簡易ナル

教科書出版に先だって文部省は農業および手工に関す       手工ヲ授クルニモ其以上ノ教育思想ヲモタセナケレバナ る夏期講習会を開催した。農業は1902(明治35)年か      ラス故二不可能ノ事ナレバ,否決サレタイ」という反対 轤P904(明治37)年まで15)手工は1903(明治36)      にあって,否決されてしまった。地方ではまだ手工が普

(5)

通教育の一環として理解されていなかったことがわかる。 ム」とのべていた。このような文部省の奨励策によって,

しかし,1904(明治37)年2月に日露戦争が始まる  各地で講習会が開かれた。

と,事態は一変した。明治初期には殖産興業は近代産業   例えば,東京の神田区手工講習会は1907年9月3日よ の育成がねらいであったが,この頃になると,労働者や  り21日までの18日開かれた。会場は淡路小学校・講師 農民の育成をねらいとして学校教育のなかで重視される  は東京師範学校教員中垣兵次郎,菊地午之助で・時間は ようになった。特に手工がそうであった。表1にみるよ  午後1時半から日没まで行われた。出席者は区内小学校

うに,手工の加設校が僅か数年の間に10倍以上になる  の教員で約200名近かった。しかもこの費用はすべて出 こと綴もよくそのことを示している.秋田県のように 儲の会費でまかなわれたと・・う。鋤謂の内容醐紙 長期の講習会を開くところもみられるようになった。山  細工,折紙細工,ひも結,竹細工,豆細工・粘土細工・

形県でも県立工業学校長神作浜吉が小学校教員講習会で  石こう細工,原紙細工の実習,麦わら細工,金工・木工 講述した「工業概論と手工教育」(1960=明治39)とい  の大意,各種用具の使用法および一般教授法であった。

う本が残っているところから講習会が行われたことがわ   このように1907(明治40)年より手工が必修に近い かる。      かたちで小学校に加設されるようになると,手工講習会

秋田県では1904(明治37)年9月より小学校教員手  は各地で開かれるようになった。講習会出席に熱中する 工科講習所が作られた。当時の中村秋田工業学校長がそ  あまりに,ほかの授業までくいこむという行き過ぎも,

のことについて話しているところから推察すると,工業  つぎのようにみられた。

学校に作られたものであろう。その設立のねらいを「手   「上校長より 下代用教員に至るまで,校内職員挙っ 工科は決して一般工業と同一視混同すべき性質のものに   て出席し,紙折,竹細工,泥土細工等に熱中して・殆 あらずして,専ら,目と手との練習を修め,兼て忍耐  んど本科の授業を等閉視するに至る。吾等は疑ふ・か 勤勉の習慣を養ひ以て所謂器用の人を造るを主眼とする   く本科の授業にまで影響せしめても,手工講習を奨励 ものなれば,決して直接に職業其の物を教ふるものでは  せしめざるべかざるものなるか。抑々小学校に於ける ありませぬ」19)とのべているところからわかるように,   手工科の目的は,其の思想養成にあるは言うまでもな 手工を普通教育としてとらえている。入学資格は本科正   し。如何に紙折に巧なるも,いかに竹細工に妙なへるも,

教員,定員50人,期間9〜12月の4カ月,学科目は工業   日常書籍の開閉乱雑,風呂敷の包方不正・墨の傾きた 大意,材料用法,工具用法並に製作法,製図,応用理科,  るすり方,石盤の縁の破損せるを用ひ下駄の歯の傾き

手工科教授法,実習等であった。この学校は好成績で   たる等を突かけて敢えて顧みざるが如きは如何・思ひ       〆

1908(明治41)年には学資補助の制が設けられた。農   到らぱ小学校に於ける日常の生徒行為は大方手工思想 業科教員講習所も同じであった。      に関せざるもの少し。先ず之より改良して手工思想の

日露戦争後は手工講習会が盛んに開かれるようになっ   養成を計り,然る後に手工講習等に取りか玉るも・或

       21)た。特に1907(明治40)年3月に小学校令が改正され   は遅きに非ざらむか」

て,一層拍車がかかった。手工,農業および商業はつぎ   このように全国いたるところで講習会が開かれ,師範 のように規定された。       学校や手工教師のベテランは講習会に出席して多忙をき

「尋常小学校ノ教科目ハ……土地ノ状況ニヨリ手工ヲ  わめていた。阿部七五三吉は「講習会は何れも僅かに一 加フルコトヲ得      週間とか十日間といふ短時日のものではあったが,当時 高等小学校ノ教科目ハ……手工・農業・商業ノー科目  はその短時日の講習によって修得した手工教育の理論と 又ハ数科目ヲ加フ 其ノ数科目ヲ加ヘタル場合二於テ  実際とによって,小学校に手工教育を実施したものであ ハ児童ニハ農業・商業ヲ併セ課スルコトヲ得ス……農  る。今日より当時を追憶すると実に恐しい程無謀な企て 業・商業ハ之ヲ随意科目卜為スコトヲ得」      であったと云ふことが出来る。けれどもかうして手工教 改正の要旨並に施行上の注意事項によれば「手工ハ従  育を実施したからこそ,不完全ながらも全国的に普及し 来教育上ノ効果顕著ニシテ,将来ハ必須ノ科目ト為スノ  ……改善進歩の緒についたものであるが,十分に準備を 期至ルヘキヲ以テ,努メテ其ノ加設ヲ奨励センコトヲ望  整えて後に実施するやうな計画を進めたならば・百年後

(6)

150       茨城大学教育学部紀要 第27号

といえども,実施の時期は到来し勧・ったであろう」勿 所付設(・9・4一大正3年廃止)・

とのべている。      秋田県立秋田農業学校 1905年4月小学校農業科教員 このように短期の講習会が大流行したときもあったが, 講習所併設(1923=大正12年廃止)。

戦前にはついに本格的な常設の教員養成のための手工師   新潟県は当時あった農学校(現在の加茂農林高校の前 範学校は実現されなかった。その理由は手工が社会的に  身)に併設されたと推測されるが・詳細は不明である。

低く評価されていたことや文部省の政策があるときは重  愛知県立ノ」孝校教員養成規程によると1908(明治41)

視し,あるときは軽視したことにある。この時期に手工  年に県立農学校に甲種と乙種の課程があったというが・

師範学校設立意見醗表した人には一戸清方力・いる潤 その廃止は不明である・この2県については,ひきつ 彼は,      づき調査する予定である・

「本科の発展を期せんには,単に地方師範の手工教育   千葉県立茂原農学校 1911(明治44)年2月27日付属 に依頼し,若しくは補習的短期講習会に満足するに止  農業教員養成所新設(1923=大正10年実業補習学校教 めずして,別に堪能なる中央機関を特設するの,最も  員養成所となる)。

必要最も急務なるを感ずるなり。(中略)米に於ける   茨城県の農業教員養成所は農業実業補習学校の教員養 手工学校,独に於ける手工教員養成所,将た瑞典に於  成を目的としていたが・これに就職したものは一名もい ける手工師範学校の効果顕著なるは,狼りに本題の設  なかった。すべて卒業後高等小学校に就職した・この理 計を排斥すべからざる例証とするに足る」      由につき「水農史」の著者黒沢深は「この農業教員養成 とのべている。一戸は欧米の教員養成機関と同様のもの  の教育に当った本多校長をはじめとして諸先生方も・僅 の創設をはかり手工研究会の賛同を得たのであるが,そ  か一年の教育で農業科の教員として世に送ったことに危 の理想は現実のものとならなかった。      惧の念をおぼえたらしく・県内各地の高等・」岸校に赴任 した卒業生のため,何度となく巡回されたそうである」

       25)

̲業の教員養成機関      とのべている。

一方,農業はどうであったであろうか。手工と同様に   確かに生徒の実力がひくかったことも事実であったか 教師用の教科書があったところからみても,講習会は多  もしれない。しかしそればかりではなく・国や地方公共 かったと推測される。量的にどれ位の農業教員のための  団体が農閑期や夜間を利用して行う実業補習教育には専 講習会が開かれたかは不明である。この時期の農業教員  任の教師を必要としないと考えたからではなかろうか。

の養成で,特に注目すべきことは,地方において農業教

員養成機関が設立されたことである。日露戦争前後の国 茨   城 の実業教育振興政策によって,各地に実業補習学校が作 年 度 学校数 教員数 学校数 教員数 られた。その教員養成のために実業補習学校教員養成所 1903 1,348

921

5 5 が作られた。しかし,養成所を設置した県は以外に少く, 1904

1,683

1,085 6

13

明治時代は催か6県程度であった。長野,茨城,千葉, 1905 2,745 1,272

17 60

島根,秋田,愛知の各県がこれである。24)いまその設立 1906 4,210

1,678

142

17

の状況を示すと,

1907 4,918 1,917 194 15

長野県立甲種小県蚕業学校 1902(明治35)年4月1 1908 4,750 2,049 213 85 日農業補習学校教員講習設置(1905=明治38年3月21

表3 1903(明治36)年より1908(明治41)年ま

日廃止)。      での実業補習学校数と教員数

島根県立農林学校 1902年4月5日県立農業教員養成所

付設(廃止年月日不明)。       当時の実業補習学校の教員は小学校との兼任教師が多 茨城県立農学校 】903(明治36)年4月1日県立農業  く,専任教師は少かった。上の表からわかるように・学 教員養成所付設(1905=明治38年募集停止)。     校数よりも専任教師数がすくないことがそのことを示し

長野県立上伊那農業学校 1905年4月1日農業教員講習  ている。なお,この表は文部省年報より作成した。

(7)

茨城県では日露戦争中の1905(明治38)年までは学   開墾等ノ手伝二従事スルモノァリ。或ハ各種ノ細工 校数よりも専任教員数が多いが,その後は逆になってい   (麦カン,経木,竹木歯ダ等),綱結ビ,縄ナビ,

      し

驕Bこれは人件費を減少させるため,専任教師を減らし,  草履及ワラジノ製造,製紙製糸,紙手折等ノ作業二 兼任教師を増加させているためである。特に戦後の1907  従事スルモノアリ。其ノ成績亦スコブル見ルヘキモノ

〜8(明治39〜40)年がその傾向がある。このことは日  少カラズ(後略)」

露戦争が教育におよぼした影響から考察されなければな  最初に「労働種類ハ甚タ雑多ナリ」と書かれているが,

らないであろう。文部省が兼任政策をとったことは前に  これは農村社会の多様性を示している。子どもに要求さ みたとおりである。      れている作業は地域によって異なり一様ではない。作業

の多さはそこから生じている。農村の子どもは少年時代 労働力の代替としての子ども      に多かれ少かれ親からいくつかの作業を伝授されたもの 日露戦争の動員兵力は総計1,088,996人であった。こ  である。しかし,親たちが労働力として依存していた次 れは常備兵力の5倍であった。死傷者は准士官以上で   三男や作男たちは戦地におもむき,人手は不足した。子 6,300人,下士官・兵卒20万でほかに17万人が疾病に倒  どもは親の補助作業だけではなく・作業のにない手にな れた。そのうち死亡および廃疾で服役免除となったもの  っていったのである。

は11万8,000人におよんだ。戦費は15億2,321万円で   麦踏,麦の黒穂取り,害虫駆除等は戦争後も子どもの あった。26)動員兵士約108万人の多くの者は農民や労働  集団作業として定着していった。

者であった。文部省普通学務局が1905(明治38)年に

出した「戦時地方に於ける教育上の経営」はつぎのよう おわりに

にのべている。27)      わが国の農業や手工などの学校労働教育は日露戦争の

「軍人二対シ同情ヲ以テ節検力行ノ習慣ヲ養成シ,併  年より急速に発展した。このことは戦争による出征兵士 テ軍費ヲ稗補センガ為,学校二於テ休日又ハ課外時間  として農民や労働者が動員されることによって労働力が ヲ利用シテ各種ノ労働作業ヲ為シ之ヲじゅつ兵部二寄  不足し,勤労教育思想が重視されたことによるものであ 贈シ出征軍人ノ家族遺族二嘉贈シ,国家債権ノ募集二  った。このことは日清戦争以後の政府の教育政策が実業 応ジ,郵便貯金ト為シ又ハ記念事業二投スル等直接間  学校から実業補習学校重視へと変化し,そのことが民衆 接二陸海軍二便益ヲ与へ国家ノ経済二貢献スル所少力  の教育要求と合致したことによることが背景にあった。

ラス(後略)」。      教員養成は相変らず,短期の講習によるものが主流で すなわち,子どもを戦争に協力させるため,休日や課  あった。しかし,いくっかの県ではかなり長期の講習も 外時間を利用して作業をさせ,そのことによって得た収  開かれた。農業の場合,1年制の教員養成所も作られた。

益を軍事費として寄附させ,または出征軍人の家族に与  これはおもに農業実業補習学校の農業教員養成をめざす えたり,債券を買ったり,貯金させることは,軍隊のた  ものであった。その卒業生は国や市町村が専任の補習学 め役立ち,国家の経済に貢献することだとのべている。  校教員より小学校との兼任を雇用する安上りの政策をと このことは単にこどもを戦争に協力させるだけではなく, ったために,補習学校の教員よりも高等小学校の教員と 出征兵士の労働力の肩代をさせることをねらいとしてい  なるものが多かった。本来の目的は十分果さなかったけ

るのである。上にあげた文書のなかで,特に小学校や実  れども,高等小学校の農業教育の発展には貢献した。

業補習学校の労働に続いてのべているところに明らかに   この小論では国の政策と教員の養成に重点をおいて取 そのことが,示されている。      扱ったが,父母や子どもが労働教育にどう対応したか・

「小学校実業補習学校等二於ケル労働作業ノ種類ハ甚  またこの時期の農業教育の本質や実態にふれることがで タ雑多ナリ。或ハ害虫卵蛾ノ捕獲,麦奴ノ抜取,軍用  きなかった。この問題については稿を改めてのべるであ マグサ刈リ,栗拾ヒ,落穂拾ヒ,貝拾ヒ,果樹ノ栽培, ろう・

苗木ノ仕立,養蚕,養鶏,養魚,養蜂等ノ労働二従事 シ又ハ造林,造園,水面ノ埋立,木材ノ搬出,荒地ノ

(8)

152      茨城大学教育学部紀要 第27号

引 用文献         19.戸沢亜水手工科講習と実業補習教育に就て 秋田 1・細谷俊夫技術教育(138頁1944)と表1および2  県教育会雑誌165 1904(明治37)。28を参照、

は数字が一部一致しない点がある。細谷は表1の尋常  20.神田区手工講習会 日本之小学教師9巻106号 小学校の手工と表2の裁縫手工とを合計しているため   1907(明治40・10)。

である。この論文では兼修されているのも,文部省年  21.手工講習会 教育時論 1907(明治40・9・15)

報通り示しているので,より実態を正確に示している

と考える。      22.阿部七五三吉 手工教育原論 1936。292〜293頁。

2.岡田良平 小学教育における実業教育 教育実験界  23.一戸清方 手工師範学校設立意見(上) 教育時論 1902(明35・1・10),9巻1号。      801号 1907(明40・7・15)。この論文は手工研 3.岡田総務長官演説 小倉悟四郎速記 岡山教育会雑   究1号(同年)にも掲載されている。

誌56 1903(明36・5)。      24.水戸農業高校 水農史第1巻1970。441〜442頁。

4.実科教育第8号 刊年月不明。これは上野教育雑誌   新潟県に設置されたことは松井直吉「過去に於ける低 188号 1903(明36・6)に全文引用されている。   度農業教育の歴史に鑑みて将来に望む」(農業教育29 また,奥山無言「小学校に於ける手工教育(下)」山   号 1903年11月号所収)による。 29を参照。

梨教育103に一部引用されている。      25.水農史 450頁。

5.学校制度の整理 東京日日新聞 1903(明36・3・  26.信夫清三郎,中山治一編 日露戦争史の研究 31)。       1972。 289頁。戦費は十九億八千四百万円(古屋哲 6.小学校令の一部改正 教育時論 1903(明36・4・   夫 日露戦争 中公新書 1966)という本もあるが,

5)。       前書によった。

7.永島利明 義務教育創設期における手工および農業  27.教育時論717号 1905(明治38・3・15)。

教員の養成 茨城大学教育学部紀要25号 1975    28.秋田県に於ける実業教員の養成 農業教育861908 201頁。       (明41・8) 63頁。

8.熊本教育雑誌50号 1900(明33・5)。      29.愛知県に於ける農業教員の養成 同上82号 1908 α広島県私立教育会報9号1903(明36・2)。     (明41・4)。その規程が書かれている。神谷素光 10.小学教員は須らく実業上の智識するを要す岩手学   の私信によると,安城農林学校にはこの規定は現存

事彙報633 1902(明35・10)。       していないという。

11.原・内田編 技術教育の歴史と展望 1975 32頁

以下。

12.和田秀雄 小学校手工科の沿革 石川教育162 1917(大6・10)年。

13。矢田鶴之助 横井博士と農業補習教育 農業教育

316,1927(昭2・12)88頁。

14。横井時敬略歴 同上,124頁。

15.矢田鶴之助 農業教育に対する誤解を論ず 農業教 育47 1905(明38・1)。

16.阿部七五三吉 手工教育原論  1936Q 389頁。

17.文部省講習 上野教育会雑誌200号 1904(明37・

6)。46頁場下。こう吉のこうは金ヘンと堅とかく。

18.教育会記事 山形県教育雑誌158 1906(明36・

6)。

(9)

The Russo−Japanese War, Manual and Agricultural Education l 903−1909

Tosiaki Nagasima

Abstract

The Russo・Japanese War廿om 1904 to l 905 innuenced manual work and agriculture greatly. The next table shows the number max㎞um and minimum of schools adding three su切ects:

1903       1906       1907       1909

manual work of compulsofy schoo1_._.____..__._._.   45    944   1320   7242 manual work of higher primary schoo1__.____.____.   89    714    903    891 commerce of higher primary school........._..._.._._...__.   73    308    281    151 agriculture of higher primary school____.._.___.__..  1474   4426   4581   3942

What factors developed manual and agricultural education?First of all, Japanese absolute goverment placed great emphasis on educating worker and farmer to promote modern industry, or maintain the system of landowner. Teacher

of manual work were only trained fbr a short term cource. Some of pre飴ctures established one year−training school食)r

agricultural teacher, but abolished after two or three years. Seconly,1,088,996 soldiers were mobilized長)r war, so labor

fbrce was de∬cient. School boys and girls had to work as a substitute長)r them.

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