岷江は長江上流の最も重要な支流の一つである︒上流部には四川省阿壩蔵族羌族自治州の松潘︑黒水︑茂︑理︑汶川の各県と都江堰市のほとんどが含まれる︒そこは古くより民族が交叉し︑現在は漢︑チベット︑チャン︑回などの諸民族が居住する︒諸民族は︑長い歴史を経て現在の居住形態を形成し︑互いに影響しあいながら︑それぞれが特色ある民族文化を保持してきた︒本稿では︑汶川県雁門郷蘿蔔寨というチャン族の村を事例として︑岷江上流のチャン族における漢族との歴史的関係について分析する︒ 一 地理環境によって形成されたチャン族と漢族の相互発展の空間
㈠ 地理環境が族群分布に及ぼした影響
岷江上流は︑青蔵高原東端の高山峡谷地帯に属し︑地形は複雑かつ多様である︒流域の両岸には大小の台地が分布し︑多くの地が高く険しく河谷は深い︒各民族は︑長い歴史の中で河谷部あるいは高山部でそれぞれが集居地を形成して伝統的生活習慣を保持する一方で︑相互の交流もあった︒岷江の河谷部には︑主に漢族︑チャン族︑回族の村落が分布する︒うち汶川県の三江から綿虒までには漢族とチベット族が暮らし︑綿虒から威州︑茂県︑松潘県県境にか
岷江上流のチャン族と漢族の歴史的関係
──汶川県雁門郷蘿蔔寨村を事例として──耿 静︵訳=本多正廣︶●●●●● 論 説 ││││││││││││││││││││││││││││││││││││││││││││華西辺疆研究
けてはチャン族が︑さらに松潘県以北には漢族やチャン族︑回族が集住する︒このほか雑谷脳河や黒水河支流の河谷には︑主にチャン族とチベット族の村落が分布し︑うち雑谷脳河流域は薛城鎮を境に︑西にチベット族︑東にチャン族が居住する︒黒水河流域は色爾古を境に︑上流にチベット族︑下流にチャン族の村落がある︒
㈡ 蘿蔔寨の独特な地理的位置
汶川県は︑州都の馬爾康からは二四六キロメートル︑省都の成都からは一四六キロメートルの位置にあり︑「西路の要」「阿壩州の入口」と呼ばれる︒県城所在地の威州鎮は海抜一三六〇メートル︑雑谷脳河と岷江が交叉する地にあり︑県の政治︑文化︑経済︑交通の中心である︒近年は成都発の九寨溝観光の拠点の一つとして観光開発が進められている︒ 蘿蔔寨は「雲上の羌寨」と称される︒汶川県雁門郷に属し︑威州鎮からはわずか一五キロメートル︑岷江大峡谷の高山中腹部に位置する︒平均海抜一九七〇メートル︑面積六六六・七ヘクタール︑戸数約二〇〇戸︑峡谷中で家屋が最も集中し︑最多のチャン族が居住する︒碉楼はないが︑黄土を材料とした巨大な家屋群落は独特である︒険しい地形を巧みに利用して家屋は互いに連なり︑村内は小道が縦横に巡り︑外敵に備えた要塞のような外観は壮観である︒ 蘿蔔寨は旧道沿いにある︒民国『汶川県志』には︑「汶川狭険︑穀轍難通︒岷水怒馳︑舟楫網利」とある︒当時︑県境には商人が往来する大小の二つの道があった︒大道は︑北は茂県県境の青坡を経て︑茂県︑松潘県に達し︑南は灌県に至 ﹀1
︿る︒この松茂大道は茂県や松潘県に至る重要路であり︑古くより漢︑チャン︑回︑チベット等の民族が山河を越えて移動し︑旧道両岸の文化に影響をあたえてきた︒
㈢ 蘿蔔寨と周辺村落との関係 蘿蔔寨は自称を「瓦子格」といい︑周辺村落との関係は密である︒村民の記憶によれば︑周辺の瓦拉枯︑如巴格︑西吉呷︑倆窩里︑結合児︑結夸︑窩西︑所発格の八村と合わせて蘿蔔九寨と総称された︒当時︑各村々には碉楼があったが︑外敵に備えて次第に蘿蔔寨に集住するようになった︒民国期には近隣の小寨子と索橋を合わせて蘿蔔三 ﹀2
︿寨と呼ばれた︒中華人民共和国成立以前は小寨子や索橋︑大寨子︑月里︑通山︑麦地︑白水︵上白水︑下白水︶︑牛脳寨等の周辺村落とは曲がりくねった細い山道で結ばれ︑頻繁に往来し︑互いに婚姻関係をもった︒うち小寨子と索橋は本寨と同じ山腹の下部に位置し︑本寨への往来には必ず通過した︒その他の幾つかの村は高山部にあった︒住民はみなチャン族で︑チャン語を話し︑民族衣装を着て︑ほぼ完全なチャン文化を保持している︒また河谷部の
卧龍鎮
耿達郷 映秀鎮
都江堰市 草坡郷 綿虒鎮
汶川県 牛脳
白水 麦地
通山 大寨子
小寨子 雁門郷 索橋
蘿蔔 芤山
牟托 茂県
布瓦 克枯郷 理県 龍渓郷
月里
図1 蘿蔔寨と周辺の村落(略図)
凡例:◉は県城(県人民政府所在地)、 は鎮・郷、 は寨(村)、 は調査地 出所:2017年筆者作成。
文鎮や青坡︑雁門等の漢族とも日常的に往来した︒中華人民共和国成立後︑雁門郷に設けられた街楼や芤山︑青坡︑蘿蔔︑索橋︑月里︑通山︑麦地︑白水村の九村も蘿蔔九寨と総称されているが︑かつての蘿蔔九寨とは異なる︵図1︶︒ 以上︑蘿蔔寨は︑閉鎖的な自然環境と日常的な漢族との往来が独自性を形成させ︑伝統文化の維持を可能にしたといえる︒
二 歴史に反映されたチャン族と漢族との根源的関係
㈠ 史籍および考古学上の資料 文献史料によれば︑紀元前四世紀末にはすでに岷江上流の両岸に古氐羌人がいた︒紀元前三一〇年︑秦の恵王は岷江上流一帯に湔氐道を置いた︒管轄範囲は広く︑現在の蘿蔔寨等の地も含まれている︒漢の武帝は元鼎六年︵紀元前一一一年︶に汶川郡を置き︑郡都は現在の汶川県威州鎮の上方の姜維城台地にあった︒汶川はかつての冉駹之地であるとされる︒冉駹に関する記載は︑『後漢書』南蛮西南夷伝に「冉・駹夷者武帝所開︑元鼎六年以為汶山郡︒其山有六夷︑七羌︑九氐︑各有部落」とあり︑『華陽国志』蜀志には「汶山郡本蜀郡北部都尉︑孝武元鼎六年置⁝⁝有六
夷︑羌胡︑羌虜︑白益峒︑九種之戒」とある︒これは岷江上流一帯にはかつて多くの部族があったが︑漢族および漢文化が当地に入ったのも早く︑すでに二〇〇〇年余の歴史があることを示す︒『汶川県志』には「清末至民国時期︑内地漢族人口流入県境従事墾種︑商貿的日益増加︑羌与蔵民族人民雑処︑通婚入贅︑留居各地︑回民也有甘粛︑青海遷来」︑「漢族於明末清初大量遷入汶川境内︒這些族氏均有家譜︑譜上記有宗源︑宗支︑始祖原居地︑遷徙原因︑定居繁衍︑家規家訓等諸多内 ﹀3
︿容」とある︒ 考古学資料によれば︑汶川姜維城遺跡や茂県営盤山遺跡には五五〇〇〜五〇〇〇年前にすでに新石器文化がみられ︑出土した陶片や石器は甘粛︑青海地区の馬家窯文化︵紀元前八〇〇〇〜六〇〇〇年︶のそれに類似する︒一九三八年に小寨子で発見された最初の石棺葬は︑鑑定の結果︑年代は漢の文帝の前元五年︵紀元前一七五年︶から漢の武帝の元守五年︵紀元前一一八年︶の間とされ ﹀4
︿る︒一九九二年に蘿蔔寨近くの南新郷牟托村で発見された戦国後期の石棺墓と陪葬坑からは器物三九〇件余が出土 ﹀5
︿し︑青銅器の中には中原式の春秋期の鼎︑甬鐘︑鎛︑鉦等や︑蜀式の柳葉剣等があり︑鼎の一つには漢文の銘文も記されている︒
これらの物証は︑汶川が歴史的に中央王朝の直接的管轄下にあり︑チャン文化と漢文化が交流して︑経済︑文化が中原の影響を深く受けていたことを示す︒現在︑汶川県の 人口構成はチャン︑漢︑チベット︑回族の人口比︵%︶が二八・二七五六・二一四・四〇・九六で︑漢族が最多であることも︑これらによって証明できる︒
㈡ 口碑伝説の材料 蘿蔔寨は三つの小組にわかれ︑戸数約二〇〇戸︑人口約一〇〇〇人︒主な姓は王︑張︑馬︑朱︑袁︑余︑楊︑呂等で︑うち張︑王︑馬は大姓で全村の約八〇%を占める︒張姓は七〇〜八〇戸で三支に分かれ︑馬姓は二〇〜三〇戸で三支に分かれ︑王姓は七〇〜八〇戸で二支に分かれる︒ 村民の祖先について複数回の調査を行った結果︑村民はそれぞれがルーツをもつことがわかった︒主に二種の語りがある︒ 第一は︑先祖は南下した古羌人であるとするもの︒王明傑老 ﹀6
︿人によれば︑蘿蔔寨の祖先で最も早いのは西北の甘粛︑青海一帯から来た古羌人である︑主に張︑王︑馬の三姓で︑一緒に灌県︵現在の都江堰市︶まで南下して李家︵漢族︶に出会い︑四姓はともに蘿蔔寨付近の青杠嶺まで北上したが︑李家はかつて平地にいて高山部に居住するのに慣れなかったため︑すぐに河谷の青坡一帯に移り︑その他の三姓が高山部に留まって地勢の平坦な蘿蔔寨に定住した︒李家は立ち去るときに︑以後︑彼らと婚姻関係を結び︑三姓を母方叔父として敬うといった︒
また︑古羌人を祖先とはするが︑戈基人と戦った後にここに住み着いたとする者もいる︒多くの村民が︑村落周辺の幾つかの洞穴を「戈基人の墓」︵guo ji ga ba︶だという︒「戈基人は背が高くて体が大きく︑凶暴な風貌で首と胸がひと塊で」︑チャン人は彼らとの戦いに勝てず︑天神木比塔の助けを得てようやく戈基人に勝利したという︒ 第二は︑祖先を漢族とするもの︒九二歳の老シピ︵シャーマン︶張福 ﹀7
︿廉によれば︑王︑張︑馬の三姓は最も早く灌県一帯から移ってきた︑彼らはみな漢族で︑旧道に沿って来た︒当地にはすでに董家がいたが︑三姓はここに土地が多かったので落ち着くことにし︑農業を行った︒董家は三姓との関係があまり良くなかったので︑後に三姓の人口が増えて勢力が増大すると︑他地に追われた︒さらに︑「張家は湖広填四 ﹀8
︿川の時に来た︑出身は麻城県考感︑最初の祖先は張鳳明で⁝⁝︑各房門にはそれぞれ排行があり︑排号は鳳︑大︑光︑武︑万︑亨︑紅︑世︑文︑金︑福︑利︑光︑明︑順︑法︑西︑龍︑保︑成で︑二〇字を一回りしたら最初にもどる」という︒排号から数えると︑福の前には一〇代あり︑後の三代を加えると現在までに一四代を経ており︑逆算すると移ってきたのは清の康熙年間である︒
王明傑の父はもとの姓は張で︑婿入りして王姓に改めた︒子供の排行は王家の排行に従って「応︑有︑成︑明︑貴」である︒馬前忠によれば︑「馬家は芤山一帯からやっ てきた︑排行は現在まで才︑華︑登︑清︑福︑世︑康︑前︑吉︑祥の一〇代である」︒寡黙な馬世忠によれば︑かつて董姓と石姓の由来を聞いたことがあるが︑馬姓は映秀鎮馬家村から来たという︒ 袁定栄は︑袁家の由来をさらにはっきりと語る︒祖先は清朝の時に来た︑王姓や張姓︑馬姓より遅いが︑二〇〇年余を経ている︒「湖広填四川の時にすでに灌県玉堂郷にいたが︑張献忠の時に小寨子に移った︒小寨子では袁の七兄弟のうち︑長男は蘿蔔寨で田畑を買い︑現在まで続いてすでに八代目である︒他の六兄弟は︑一人が汶川県威州郷黄土崗村に婿入りし︑他の五人の子孫はすべて途絶えた」︒これによれば︑蘿蔔寨の大姓はすでに二〇〇年以上の歴史をもつといえる︒ 蘿蔔寨の祖先が何処から来たのか︑錯綜する伝承の正否は確定できないが︑考古学や口碑資料によれば︑後者の説がやや信憑性がある︒はっきりしているのは︑蘿蔔寨の先祖は他地から移ってきて︑数百年を経て現在に至ること︑模糊とした記憶の中に︑祖先に関するチャン族と漢族との歴史的関係が反映されていることである︒
三 チャン族と漢族における相互間影響が形成した文化表象
㈠ 言語使用における多層性 村の老人によれば︑先祖は蘿蔔寨に到達後︑徐々に周辺のチャン族と姻戚関係を結び︑幾度もの融合と発展を経てかなり完全なチャン文化を保持してきた︒なかでもチャン語は完全に保たれ︑老人から子供までみな流暢なチャン語を話すことができる︒このような状況は他のチャン族の村では極めて稀である︒また︑村民は母語を使うとともに︑早くから漢語を使う技能を身につけ︑漢語によって外部者と非常に簡単に意思疎通ができる︒ 村民が二言語を使用できるのは︑独特の地理的位置と文化の伝承方式に関係する︒まず︑チャン語には漢語借用の現象がみられる︒シピはチャン文化の重要な伝承人であり︑経典の中には難解な古羌語があるだけではなく︑漢語の借用語もある︒グラハムの「羌族的習俗與宗教」には︑経文に幾つかの成都付近の地名と道教の呪語も記されてい ﹀9
︿る︒
次に︑交通の不便さがチャン語の通用にかなり閉鎖的な環境を与えている︒一九五〇年以前︑蘿蔔寨は周辺の村落とは曲折する小道でつながっていた︒住民が山を下って県 城に行くのは次の二つの状況に限られていた︒一は︑農閑期に男性が成都平野に行き︑石積みの技術で井戸掘りや堤防修築をするとき︒二は︑日常生活で木材を伐採して薪とし︑それを背負って県城に売りに行き︑日用生活品と交換するときである︒中華人民共和国成立後︑交通状況は少し改善されたものの︑県城に行くのは相変わらず困難であった︒二〇〇六年︑政府の投資を受けてアスファルト道路が新しく作られ︑交通難の問題はほぼ解決した︒毎日数便の定期バスが往復し︑村から外部に対してようやく門戸が開かれた︒しかしこのような長期にわたる閉塞状態によってチャン語の完全な保持が可能となった︒ 同時に︑彼らの文化伝承方式も言語の保持を可能にした︒蘿蔔寨では︑二〇世紀初めに近代的学校教育が始まった︒当時の中華基督教総会辺疆服務部川西服務部が蘿蔔寨に小学校を建て︑儒教文化を小学校に導入した︒学校教育はこの後も継続されたが︑現代教育はコミュニティ文化の伝承にはほとんど影響をもたない︒日常生活の中で住民が互いを訪ねる時には主にチャン語を使い︑とりわけ農閑期や慶事︑祝日の時には終日火を絶やさない「火塘」︵囲炉裏︶が文化の交流と伝承の重要な場所である︒ また︑外部世界との交流が増加するにつれ漢語のチャン語に対する影響が大きくなり︑日増しに豊かになる物質文化は︑チャン語への大量の外来語の導入を促した︒村民は
表1 蘿蔔寨の春節
日 付 活動主体 内 容 備 考
元旦 戸主 家屋神棚で焼香 新調した民族服を着る、外出しない、
刃物を使わない、ケンカをしない 二日、四日 家族全員 年始回り 嫁いだ女性が実家に年始にくる
三日 家族全員 墓まいり 亡くなった親族を偲ぶ
五日 家族全員 神棚の供物と包子を家族で 共食
当地では「過炮五」という。暦をみて 日を選び、親戚友人間で訪問しあう 六日、七日 嫁いだ女性 土産をもって実家にもどる 娘婿は妻の実家に行かなくてもよい 八日 一族 親戚友人が集まって団欒
九日 全村 年初の農事を行う。獅子舞 や龍灯をおどる
周辺村落とともに龍灯と獅子舞を廟前 で演じ、神に祈る。16日に焼灯の儀 式を行い、新たな一年の始まりを表す 十〜十四日 家族全員と一族 互いに食事に招きあう
十五日 家族全員 団円飯を食べる 出所:2007〜2013年の現地での聞きとりにより筆者作成。
チャン語を用いる一方で︑漢語による交流も増え︑漢語の使用頻度が高まった︒
㈡ 地域的特色に富む風俗習慣 蘿蔔寨の祝日活動は豊かである︒毎年︑チャン族伝統の羌年や祭山会以外に︑漢族伝統の春節や清明節︑端午節︑鬼節︵七月半︑盂蘭盆︶︑中秋節も行われる︒地域性と民族性が濃厚であり︑それは長期にわたるチャン文化と漢文化の相互的影響の結果といえる︒ 春節を例にしよう︒村民は春節を非常に重んじる︒農暦︵以下︑月はすべて農暦︶一〇月一日の羌年がおわると︑人々は出稼ぎに行き︑帰村時に正月用品を購入す ﹀10
︿る︒家々では︑一二月二七日から二九日までに家畜の飼料を準備しおえ︑主婦は竈を清掃して竈神を祀り︑トウモロコシ粉をひいて「玉米饃饃」をつくる︒大晦日の朝︑兄弟姉妹は父母の住む実家に集まり︑新年を迎える準備を始める︒家の入口に燈籠を掛け︑門神を貼る︒大晦日の「年飯」は御馳走で︑ブタの頭や尾︑「膘肉」︵豚肉の燻製︶︑豚足︑腸詰め︑鶏肉︑豆花︑豆腐︑豆腐干などを用意する︒食前に神棚にロウソクを灯し︑紙銭を燃し︑爆竹を鳴らし︑神々に包子を供えてから︑家族全員で神と祖先を拝む︒食後︑火塘の周りで談笑し︑寝ないで年越しする︒正月は元旦から一五日までは毎日異なる活動を行う︵表1︶︒
水神 五穀神
羊神 天地君親師
竈神 斗安珠 木姐珠
門神 火神
神棚 火塘
入口 竈
図2 家屋内の信仰表象 注:神棚の下方で五神、財神、三官神を祀る。
白馬神(神銭神馬)は神棚、入口などに貼る。
出所:2017年筆者作成。
時代とともに住民の生活は絶えまなく改善され︑春節活動はいっそう豊かになった︒正月用品の購入は手軽になり︑車で県城に行っていろいろな物資を調達できる︒人々はテレビを見︑麻雀をして楽しむ︒四日から一五日までは主に年始回りをして遊ぶ︒かつての龍踊りや獅子舞はもう行わない︒
㈢ 多元的な宗教信仰 蘿蔔寨では複数の信仰が併存する︒外来文化の受容と適応の過程において意識や形態上に反映されている︒⑴ 漢族の影響を受けたチャン族の伝統的信仰 チャン族の信仰は︑屋内外の空間に表出されている︒屋内では︑主に竈︑神棚︑火塘の三か所に神が祀られる︒筆者の調査によれば︑どの家にも一二の家神がある︵図2︶︒ ①「天地君親師」 正房︵母屋︶の神棚で祀る︒神棚は多くが木製の長方形で︑正房の北壁側におく︒主に天︑地︑君主︑歴代の先祖︑師を祀る︒重要な祭祀時期は毎年一二月三〇日から正月一五日までで︑平日も線香の火を絶やさない︒ ②③「木姐珠と斗安珠」 正房入口の柱の門神の上方に祀られる︒藁一束を括り︑二枚の白色の紙旗をそれに挿して二神とする︒伝承では︑戦いにこの二枚の旗を持っていけば勝利するという︒屋内に挿して吉祥を表し︑一家の平 安を保つ︒ ④「五穀神」 屋内の柱で祀られ︑一家の五穀豊穣を約束する︒ ⑤「火神」 火塘の縁で祀られ︑主に火を管理する︒ ⑥「水神」 水甕と竈の間の壁で祀られ︑壁には「水火平安」と記す︒ ⑦「竈神」 竈周辺で祀られ︑主に飲食を管理する︒ ⑧「羊神」 伝説では︑天神木比塔が三女木姐珠に牧羊
の神を派遣したという︒竈神と水神とともに十分な衣食と日に日に栄え豊かになることを約束する︒ ⑨「三官神」 天官︑地官︑水官のことで︑「三元三品」「三光大地」という︒財神と同じ所で祀る︒ ⑩「財神」 神棚の「天地君親師」の下方に祀られ︑一家の家産を管理する︒ ⑪「白馬神」 白馬と金元宝の形状を専用の木版板で印刷する︒「神銭神馬」と呼ばれ︑神棚や正房入口︑入口の軒に貼られ︑毎年春節時に張り替え︑家内安泰を意味する︒ ⑫「門神」 家屋入口の閂を管理し︑災いを避けて福を招き入れ︑家内の平安を守る︒家屋正門を入って右側の柱で祀り︑秦叔宝と尉遅恭の門神年画を貼る家もある︒ 伝統的な家屋には︑どの家にも家屋正門の上方に二つの「眼晴門」がある︑長さ約一六・五センチ︑方形または円形で直径一六・五センチ︒千里を照らし︑禍福が来る前に予兆を家神の木姐珠と斗安珠に伝え︑二神は夜に戸主の夢に現れて告げるという︒ 屋外では︑家屋屋上や村の神山神林が信仰空間である︒屋上には一般に白石を祀る︒二〇世紀初め︑当地では白石崇拝が盛行したが︑一九六〇年代に停止させられ︑八〇年代に漸く回復した︒現在の白石はさらに多くの文化符号を表す︒このほか︑神林における祭山儀式や雨乞い活動もチャン文化に関する多様な内容をもつ︒神林には石塔があ り︑そこで天︑地︑日︑月︑および「業盤主神」を祀 ﹀11
︿る︒
シピ︵漢族は端公と呼ぶ︶はチャン族社会で重要な地位を占める︒装束や法器︑読経の経典は漢族の民間信仰と密接な関係がある︒チャン族自身は「漢端公」と「蛮端公」を明確に区別しており︑「蛮端公」の方が高い能力をもつとする︒⑵ 当地に根づいた漢族の民間信仰 村内には東岳廟の旧趾がある︒村の老人によれば︑一九五〇年以前︑東岳廟はその名を広く知られ参拝者も多かった︒地獄菩薩を祀っていたが︑村民は「これらの菩薩は人を害する」として︑一二歳以下の子供は行ってはならないと定め︑人々は春節時に参拝した︒廟は文革期に破壊された︒ 蓮花寺︵龍王廟︶は広く知られ︑現在まで村民に影響をもつ︒歴史が古く︑度々名前が変わり︑伝説故事も伝えられている︒山勢に沿って建てられ面積は広くないが︑二階建ての建物には多くの神が祀られている︒一階の菩薩は︑龍王菩薩︑老虎神︑廟主︑斗母娘娘︑送子観音︑催生娘娘︑太上老君︑二郎神︑財神菩薩︑薬王菩薩である︒二階の菩薩は︑南海観音︑地母菩薩︑観音菩薩︑王母娘娘︑活観音︑文殊菩薩︑普賢菩薩︑霊観菩薩︑玉皇菩薩である︒ここには子供も参拝できる︒定期的に廟会が開かれ︑参拝者もかなり多い︒蘿蔔九寨の者もいれば︑汶川県や茂県︑その他の場所から来る者もいる︒
村内では二〇名余りが正式に仏教に帰依し︑蓮花寺で活動する︒筆者は二〇〇七年六月一九日の観音会に参加したことがある︒農繁期のために参拝者は多くなかったが︑信者は仏教音楽の下で敬虔に神々に祈っていた︒二〇〇八年汶川大地震では︑蘿蔔寨でも家屋やインフラの損壊が深刻であったが︑蓮花寺に大きな被害はなかった︒今日︑この寺廟は老人たちの思い出の場所となり︑参拝者が絶えず︑入口に密生する女貞樹︵トウネズミモチ︑学名Ligustrum lucidum︶は「鎮寨古神樹」と記されており︑樹木には長短の赤い絹布が掛けられ︑人々の祈りや願い事が託されている︒ 総じていえば︑チャン族は外来文化の受容に長けた民族であり︑その伝統文化の中には漢族やその他の民族文化の烙印が深く刻まれている︒これはチャン族が千年以上にわたって発展できた重要な要因の一つである︒同時に︑長期に及ぶ発展の歴史において︑岷江上流のチャン族は周辺民族と深く関わって互いに融合し︑中華民族多元一体化の形成に貢献してきたといえよう︒
注︿
︿ 一九九二年︑四六五頁︒ 1﹀『汶川県志』編纂員会編著『汶川県志』民族出版社︑
2﹀蘿蔔九寨と蘿蔔三寨については村民の王明烈︑王保全 ︿ の話による︒
︿ 3﹀前掲『汶川県志』一五九︑七七〇頁︒
︿ 九七三年第二期︒ 4﹀馮漢驥・童恩正「岷江上游的石棺葬」『考古学報』一
︿ 年第三期︒ 川茂県牟托一号石棺及陪葬坑清理簡報」『文物』一九九四 5﹀茂県羌族博物館・阿壩蔵族羌族自治州文物管理所「四
︿ れ︑シピの伝承人である︒ 6王明烈は本村村民から「チャン文化を伝える人」とさ﹀
︿ なった︒ 7﹀張福廉は二〇〇八年五月一二日の汶川大地震で亡く
︿ の移民が多数を占めた︒ 百万に及ぶ大移住で︑湖南︑湖北︑広東︵主に客家︶から の呉三桂の乱によって人口が激減した四川に出現した︑数 8﹀「湖広填四川」とは元末明初の張献忠の乱︑明末清初
〇〇四年︑一三〇 9﹀李紹明等編『葛維漢民族学考古学論著』巴蜀書社︑二
−一三二頁︒
︿
︿ ぎをし︑正月用品を購入して村に戻った︒ モロコシを担いで汶川県城や都江堰に売りに行く等の出稼 子」︵茶︶を背負って松茂大道を歩いて運び︑蕎麦やトウ 10﹀一九五〇年以前︑人々は現金収入を得るために「茶包 された︒ かった人︑有名な人︑最初に村を開いた人が寨盤業主神と 白石でそれを表象した︒一般に︑かつて村内で能力の高 11﹀チャン族地区では︑村々は独自の寨盤業主神をもち︑