ル ソー に お け る r自然」の位置
橋 本 三 太 郎
目 次
H 一つの障壁‑ 「矛盾」の問題
仁 ⇒
「思想の統一」をめ ぐる論争 臼 著作 の基本的意図‑ 「自然」の位置的
ル ソーにおけ る自然概 念の独 白性日 一つの障壁一 一 「矛盾」の間男
UawriterwhoseLdoctrinesaredeeplyself‑contradictory〝と い う言 葉 (1)
が既 に暗示す る如 く.ジ ャン ・ジ ャ ック ・/レソ‑(JeanJacquesRousseau) の思想には きび しく対立す る幾多の矛盾が存す る といわれ る。ザ クマ ン (P.
Sakmann)は これ を 「架橋 し難 き溝吏」 と形容 し, コバ ン(A.Cobban)は こ (2)
れを 「巨大な矛盾」乃至は 「調和 し難 き矛盾」 と表現 し,シ ュプ ランガ ‑ (E.
(3) (4)
Spranger)にお いてはそれは 「絶望的 な二律背反」であ った。ル ソ ー 研 究
(5)
におけ る一つ の困難な係争的 問題は比の 「矛盾」をめ ぐっ て展開す る0 一体, 「人が如何な る思想の持主 とな るかはその人が如何な る人格の持主で あ るかに依存す る」 とい う命題が もしも許容 され る とす るな らば.ル ソ‑の恩 j軌 まル ソーの人格の 自らな る反映 であ り,従っ てその思想の矛盾 もまた彼 自ら の人格的特質に起因す る もの といわねばな らない。ル ソーの著作が その人格 と 塩 めて密接 な内的関連を有 していた ことは . 「manとworkが転めて密接†手織 りま じっ てい るために.それ らの もっれをほ どこ うとす る凡 ての試みは,それ らに通ってい る神経を切断 して両方 とも傷っけて しま う」 とい うカ ツン ラ r
(6)
‑24‑
(E
・C
assirer)の言葉か らも容易に察知 され る ところであ るが ,/、‑ ン ・㌢
ヨ
ー (F.Hearnshaw)の如 きは
「ル ソーの著作は極 めて密接にその生活 と関 連 してい るが故に それを彼 のあの特異な経歴 の柵かな知識 な しには理解す るこ とは不可能 であ る」 と述べ てい る 。 事実 ル ソーの著作は彼独 白の濃厚 なパ ーソ
(7)
ナル ・スタイルを もっ て着色 され て居 り, そ こに我 々は彼 の著作が その人格乃 至は生活 と密接 な交渉関連を保っ ていた こ との事実を認 めざ るを得 ないのであ
る . しか らば彼は如何な る人格 の所有者 であ り,如何 な る生活の具現者であっ
・?た か 。
ル ソーの人格 と生活につい て語 る時 ,その有力 な一つの手掛 りとして坂上げ られ る ものが 「俄悔録」 である
.・ 「俄悔録」は 「私の魂 の歴 史
」(l'histoiredemonatpe)
と自称す る如 く, 「一人の人間を素裸に して世 間の人 々 の 前 に さらし者に しよ う」 とした彼 の魂の遍歴の記録 であ ると見 られ る 。 もっ とも
(8)
それは既に シ ュプ ランガ ーも指摘す る如 く, 自己の中な る最 も内面的 な人間の ( 9 )
肖像を描 き出 さん とす る最初の意 図 とは相違 して,後には彼 の反対者に対す る 巧みな弁明書 とな り人類一般 に対す る悲痛 な訴状 ともな るが , しか しむ しろそ の事実 の故 に こそ我 々はそ こに彼 の きわだっ てユニ ークな人格 と生活の特異性 を読聴 るこ とが で きるであろ う
。「懐悔録」に よっ て推察す る限 り
,ル ソーは 意志 の弱い .気俵 な,神経質 で感情的 な人間 であ り, 「矛盾多 き変化に とんだ 魂」の所 有者であった。彼がか よ うに 「矛盾多 き変化に とんだ魂」 の所 有者で あ り,その人格 の中に 「融和 し難 き対立物」を包蔵 していた こ とは , 「ほ とん ど融合 しそ うに もない二つ の ものが如何 な る理 由か分 らないが私において結合 していた」 とい う告 白に よっ て も明かである 。 彼の中には 「親 切 な 心 」 や 「
(10)
愛 らしき気持 」等 と共に, 「裏切 り」 , 「盗み 」, 「捨 子 . 」とい う如 き全 く相 容れ ない傾 向が実 に不思議に も共存 してい るのであ る 。 しか も 「彼 の持っ てい る性質は,永続的 に彼 の行為 に現われ て来 るのではな く,む しろ飛躍的 に現わ れ,か くして彼は突発的 な感情 のび らめ きや気 まぐれ の奴隷 となっていた0」 .
叫 故 に/、‑ンシ ョーは彼 を反省な しに語 る 「感情の狂信家」 と呼び,論理的訓練 を欠いた
「unsystematicthinker」であ る と評 してい る。これ らの表現は幾分
( l 勾
‑ 2 5 ‑
J J.I ′ . I . . ・J .: ∵ ・ :I .
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誇張 に過 ぎる嫌いが あ る として もル ソーの特徴的 な人格の一面 を よ くとらえて い るもの とい うべ きであろ う。 ル ソー自身かつ て或 る手紙の 中で書いてい る
。「あ らゆ る種類 の システ ムは私の頭の外にあ る・ ・ ・ ‑反省 した り,比較 した り.
しゃれをいった り,主張 した りす ることは私の職分ではない。私は剰郡の印象 に身 をゆだね てい る。」彼に とっ ては 「反省す る人 間 は 堕 落 し た 動 物
」 ((
1 3 )
(軸l'hommequim6diteestun animald6prav6)
で さえあった。 「山か らの 手紙」には 「烈 しい確信が我 々に生命を吹込む時如何に して氷の如 き冷やか な 言葉 で語 るべ きであろ うか」 ともいっ てい る
。か くして彼 の著作におけ るスク
胸
イルはや ゝもすれば厳密 な論法の軌道か ら逸脱 し勝 ちであった。その結果 「彼 は人間を或 る時は孤独 な状 態に置 き.或 る時は国家 とい う共 同体忙 しは りつけ る
。彼 の 自由主義はいた る所において,危険に も,圧制主義に接近す る
。一方 では宗教を凡ての権威か ら解放 しなが らも,他方ではそれを国家 の規定の下に 置かれ る市民的 な もの
(Btirgerlichen)に してい る。そ して彼 自身文化の軽蔑 者であ りなが ら喜劇や小説 を書 き.嫌惑 した筈の文化を,結局は彼の 側 か ら, 彼 の意味において,促進 しよ うとす る如 き虚偽に 自らを まき込 んでい る」ので
86)
あ る
。以上の如 く考察すれ ば.J t ,ソ‑におけ る思想の矛盾は,彼 の思索の不徹底や 知識 の不足に基づ くものが あった として も,梶本 においてそれは彼の論理的判 断を越 えた複雑な人格 の特質その ものに腔胎す るもの と推量 され るであろ う。
しか しなが らル ソーにおけ る矛盾の存在がル ソーその人に固有 な決定的事実 で あ り, しか もそれが相互に調和の可能な き 「二律背反」 として鋭 く対立 してい るもの とすれば.彼の思想はその外面的 形式的結構の如何にかかわ らずその内 事は矛盾の断片的 な 「つ ぎは ぎ細工」に も等 しきもの とな ろ う
。しか して矛盾
u7)
の単 な る連鎖が言葉の厳密 な意味において果 して 「思想」 と呼ぶに値す るかほ 甚だ疑問であ り, この見地 に立つ限 り思想家 としての ′ レソーは全 く抹殺 され な くてはな らない。か くては我 々もまたJ t ,メ一 十)
I,(JulesLemaitre)と 共 に
「
ル ソーの著作に統一のある思想 ,完 成 した体 系を読み硬 ろ うとす るが如 きは 真理に遠 ざか る ものである」 といわねばな らないであろ う。ル メ一 十ルに よる
‑26‑
て. ・ ∴ 二 ・ ∴ : ' t ・ . . . . 賢 、い , J ∵ ∵ り ・ ・L ・ ‑ ' ' 、 ・ 、・ ・・丁・ . 1
と
,ル ソーの著作は私的事情 ,例 えは彼 の気質や身体的状態や過去 の事件や時 々に彼に作用 した瞳 々の魂の一つ一つ に由来 してい る ものであ り.かか る異な った魂 の影響 の下に書かれた彼の著作が統一を欠 くのは少 しも不思議 ではなか った。か くして彼はル ソーの思想におけ る統一を否定 した
。/ レソーにおけ る 「
081
矛盾」 の問題は必然的にその 「思想の統一
」 (integrityofthought)の問題 に結合 してい る
。(⇒
「思想の統‑」 をめ ぐる論争
ル ソーはその思想の中に雑居す る異質的 な要素 の故に,それを如何に理解す るかに よっ て種 々に解釈 され判断 され て来た。或者は彼を ラシ ョナ リス トとし て とらえ,或者はそれ と相等 しき確信を もっ てイ ラ' / ヨナ リス トとして とらえ る
。その宗教観 におい ては,時には 自然神論 者 と見 られ ,時には カ ソ リ ックと もプ ロテスタン トとも見 られ る
。更にその倫理観 においては,時には 「感情 の 倫理学
」 (ethicsoffeeling)であ る と解釈 され,時には 「義務 の 倫 理 学」
(ethicsofobligation)
であ る と解釈 され る
。しか してル ソーにおけ る 思 想 の統一をめ ぐっ て提起 された一つ の大 きな論 争点は彼が個人主義者であったか 或 は又集団主義者であったかに関す る問題 であった。
ル ソーは
1778年に没 してい るが .当時反革命派の人 々 も急進派の人 々も等 し く彼 を個人主義者 として受乗っていた。例 えば代表的 な伝統主義者であった メ ース トル
(Jo紀phMariedeMaistre)や ボナ
ール(LousVicomtedeBdnald)等は彼 を 「無責任 な個人主義 の唱道者」 として見てい るし,シ ュトル ム ・ウ ン ト・ドラγグの代表者達 もル ソーを個人主義 の一つ の典型 として考え,彼 を
「解放者」 と呼び来 るべ き自由の時代 の予言者 として眺めてい る
。か ゝる解釈 ● は これ に対す る反対の見地が持 出 された後において も廃れ るこ とな く寧 ろ幾人 か の著名なJ t ,ソー学徒に よっ て巧みに弁護 され てい る
。その中の代表的 な一人 が エ ミ ー ル ・77ゲ
(EmileFaguet )であ る
。彼に よる と 「ル ソ‑の凡 て は 不平等論の中に見出 され る 。」 「この人類 の物語 は ,人間は本来善良であ るが
u9)
社会に入込む こ とに よっ て悪化す る とい う一つ の中心的主題を持っ てい る
。」(20)
‑27‑
即 ち不平等論 の立脚す る基調は個人主義 であ り反社会観 であ る 。 しか も 「それ は彼 の全著作を一貫 してい る ものであ り,特 に エ ミ‑J t , におい て印象的に具現 してい る
.」プアゲはか ゝる観 点か ら/ レソ‑の著作 を統一づけ よ うとした時 ア
(21)
ンチ リベ ラ/ レな 「契約論」 をその統一的 系列 の中か ら除外せ ざ るを 得 な か っ た.彼 に とっ ては, 「契約論」は/ レソ‑の著作 の 「独立 した部分」であ りその 政治理論か らの 「脱線
」(aberration)に外な らなかったのであ る。
ア y リ ・セ
‑ (HenriS6e)紘, プアゲ とは異な る論理 の コ‑スをた ど りながら
,j t ,ソ‑は本質的に個 人主義者であった と見 る同様 の結論 に到達 してい る.
即 ちセ 一に よる と, 「不平等論 は一人の個人主義者‑ まこ とに一人 の無政府辛 義者の着想に よっ て生気づけ られ てい る
.」ル ソーの政治理論は基本的には 「
(22)
個人に 自由の完全 な発展を保障す る とい う如 き企図を 中心に展開 してい る」 も
(23)のであ り, 「契約論」において成程 / レソ‑はそれ と相反す る如 き姿を装っ て登 場す るに もか ゝわ らず依然 として個 人主義者 としてふみ止 まっ てい る0(比の点 においてセ ーは プアゲか ら離れ る.)従って/ レソーが国家に絶対的権威を付与 しよ うと欲 した とす るが如 きは真実でない とす るのが セーの結論 であった とも 見 られ る 。
以上の如 くル ソーが本質的に個人主義者であった と見 る立場に対 して彼が本 来集団主義者であった とす る全 く反対の極に立つ主張が鋭 く対立 してい る 。 へ
I 1 )イ ・メーン
(HenryMaine)に よれは,ル ソーは
̀̀collectivedes印t"の 確立者であ り特 に 「契約論」においては 「新 しき衣を装 うた古 き帝王神権説」
の導入者であった.か ゝる主張 に関す る最 も重要 な源 泉 は 恐 ら く テ ‑ メ (
fliptx)lyteTaine)の 「旧制度
」(AncienRegime)であろ う
。テー ヌ は 比 の著において 「契約論」を 「圧制政治 の讃美」 と呼び ,J t ,ソ‑の国家 を 「修道 院」にた とえ, 「ル ソーが スパ ル タや ローマに範っ て建設 した民主主義的修道 院においては個人は無価値 であ り国家がすべ てであ る」 と述べ てい る 。 か くの
(24)
如 くル ソーを集 団主義者 と見 る傾 向は,近年に至っ て,カー ル ・ポ ッパ ー (
K
arlPopper)の
"romanticcollectivism"とい う表現や,パ ーカー
(Sir EmestBarker)の 「事実において/ レソーは一個 の集 団主義者であ り‑‑彼 の
‑28
‑
1‑ 'F'二
デモ グラシ‑は未だ 尚集 団的独裁 政 治 (multipleautocracy)であ る」 とい う
(25)
論述の中に も認 め得 るであろ う。
さてJt,ソ‑が個人主義者であったか或は又集団主義者であったかに関 して右' に眺めた如 く二つの相反す る主張が対立 してい るが ,個人主義か集団主義か と い ういわば二者択一的 な迫 り方に対 して,か くの如 き二つ の 「傾 向」を同時に ル ソーの中に認 め よ うとす る解釈 も成立す る。 ポ ー ン(C.E・Vaughan)な どの立場がそれ であろ う。 ポーンにおいては,Jt,ソ‑は先ず ロッ ク(JI.ocke )の 「後継者」 として出発 した。 しか し 「契約論」を書いた頃彼は心か ら 「ブ
ラ トyの弟子」 であったo即 ちJt,ソ‑は 「学問芸術論」や 「不平等論」等にお
(27)
いては個人主義者であったが, しか し 「政治経済論」や 「契約論」等において は寧 ろ 「個人主義の断呼た る反対者」であ り,communal despotismに荷担す
(28)
る一個 の集団主義者 であった。特 に 「不平等論」は, 「如何なる以前の著作家 もあえて示 さなかっ た程の極端な個人主義 の形式」を暗示 してい る し, 「契約
(29)
論」は 「人間の心がかつ て認 めた こ ともなかった絶対的 な集 団主義への入 口」
(30) を形成 してい る ものであった。
ところで/レソーの著作に観硬 され る以上の如 き二つの傾 向は相互に相交わ る こ とのない シ ユプ ランガ ‑の所謂 「絶望的 な二律背反」であ るか。或 は然 らず して相互に結合 され るべ き何等かの媒 介を持つ ところの二つ の傾 向 で あ る の か。か くの如 き間rL関 して も種 々の解答が可能な よ うに思われ る。例えは ギ‑
ルケ (q,Gierke)な どはそれ らの傾 向を明 らかにル ソーにおけ る矛盾 と し て 解釈 してい る。 しか しなが ら・ポ ーンは個人主義的傾 向 と集団主義的傾 向を単 な
(31)
る矛盾 として対立 させ るのでな く,それを/レソーにおけ る思想の発展 とい うよ り高 き平面か ら統一的に とらえ よ うとしてい る。即 ちポ ‑ンにおいては,Jt,ソ ーの知的努力は個人主義か ら集団主義への成長の行程 として理解 されねばな ら ない。/レソーは最初 「自由の予言者」 として出発す るが ,やがて彼が其処か ら 出発 した コンパ スの反対の短点に立って その 自由は国家の奉仕に対す る個 々人 の 「全体的譲 渡」の中に求め られ る。それはあたか も表面は テーヌの 「絶対的 自由か ら絶対的専制」に も似 てい る。 しか しテーヌの場合Jt,ソ‑におけ る 「変
‑29‑
I . 、㌦ . I ,̲. .ド .い ー ト
化」は彼の学説に固有 な 「論理的尭展 」
(logicaldevelopment)として と ら え られ てい るが,ポ ‑ンはそれ を一つ の 「時間的過程
」(temporalpr∝ess)において とらえてい るのである o か くしてポ ーンの解釈は ,J I ,ソ‑の中に存す る二つ の異質的要素を 「思想 の成長」 とい う時間的 系列 の中に秩序づ け るこ と に よっ て とも角一応 その対立を調停 したかに見え る . ところでル ソーにおけ る
「変化」を一つ の 「時間的過程」 として把握す る といっ て も, 「個人主義的傾 向」 と 「集 団主義的憤 向」は一定の時間的距離をへだ て ゝ,現われ て来 る単 な る二つ の 「傾 向 」
(straiT旭)といわん よ りはむ しろJ I ,ソ‑の政治思想 に か ら みついて相交錯す る 「二つ の よ り 」
(twostrands)であったのではなか ろ う か。 しか もそれ は,仔細‑ こ検討 して見 る時 ,決 して調和を保っ て 「織 りまぜ ら れ てい る
」(interwoven)とい うのではな くて厳密には 「練れ させ られ て い た 」
(entangled)のではなか ろ うか。 しか らば コバ ン
(A.Cobban)も指 摘 す る如 く.ポ ーンにおいてす らJ I ,ソ‑の政治思想におけ る二つ の側面を調和 さ せ るこ とが不可能であった といわねばな らない。事実 ポ ーン自らも結局 これ ら
(32)
の対立す る二つ の要素一個 人 と社会‑は相互に調停 されずにい る とい うよ りは 悪 しきベ ‑) I ,に被われた敵対 の中におかれ てい る」 と述べ てい る
.(33)
ル ソーは個人主義者であったか若 しくは集 団主義者であったか‑ 前述 の如 く比の問題をめ ぐっ て多様 な解釈が試み られ てい る
。しか し我 々は其処に決定 的 な結論 を期待す るこ とはで きなかっ たo一体J I ,ソ‑が個人主義者であったか 若 しくは集 団主義者であったかに関 して決定的 な結論 を見出す こ とので きない とい う事実はそ もそ も何を意味す る ものであろ うか。けだ し比 の こ とはル ソー の思想 の中に個人主義的傾 向 と集 団主義的傾 向が 「同 じ程度に本質的な もの」
として同時に存在 してい ることを暗示 してい るものではなか ろ うか。若 し然 ら ばル ソーを
HRousseautheindividualist' '
̀̀Rousseautheprophetofstateabsolutism"
とい う二つ のカテ ゴ リイに きび しく分割す ること自体が塩めて不 当な こ とであ り,従っ てその何れか一方に よっ て/ レソ‑を とらえ よ うとす るが 如 きは彼 の思想 の 「満足な解釈」に導 くものではない, といわねばな らない.
(34)
「満足な解釈」 のためには立場 の転換が必要 であ る
.個人主義 と集 団主義が彼
‑ 30
‑
・ ● ■ 了 、 、、 、● ‑
の思想 の中に 「同 じ程度に本質的な もの」 として同時に存在す る二つ の傾 向で あ るとすれば,彼が個 人主義者であったか若 しくは集団主義者であったか とい う詮索は全 く無意味な こ とであろ う
。問題はか ゝる詮索にあ るのではな く, よ り根本的に,か くの如 き二つの傾 向が彼 の思想を一貫す る如何な る虎理をめ ぐ っ て結合 され てい るか とい うこ とでなければな らない. コバ ンに従 えば,ル ソ ーの政治思想 は二つ の矛盾対立す る極端に分割 され るべ きでは な い。か つ て
singleinspiriTlgideaを持っ ていた思想家が存在 した とすればそれは正 しく/ レ
ソーその人である
。彼 の最初の関心は 「道徳的 な もの」であ り,彼は 「モ ラ リ ス ト」 として スター 1 1す る.そ して 「道徳」に よっ て 「政治」に導かれ る.彼 は現存の社会状態の下では人間の生活や行為 に関す る自己の理想を実現す るこ とが明 らかに不可能であ る と悟って,新たにそれについての 「政治的基礎」を 樹立す る必要性を確信す るに至 る.故 に彼 の著作 の 「インスピ V‑シ ヨン」を 正 しく評価 しそれ らの著作 を基礎づけてい る 「統一性
」(Ⅶ止ty)を よ く理 解 す るためには,彼の政治思想の背後にか くされ てい る 「よ り一般的な原理」を
ア イヂア
発見 しなければな らない。か ゝる一般的 な原理 として コバ ンは 「法の概念」 と
ア イヂ ア
共に 「自然 の概念」をあげ,この両者は/ レソーの政治思想体系において 「経 と 韓 を形成す る」二つの原理 であ る といっ てい る
。今 こ ゝでそれについての立入 った考察をす る余裕 を持たないが , コバ ンはカモ か る視点か ら/ レソーにおけ る 「 一貫性
」(consistency)を認 め よ うとす る。 そ して我 々は こ ゝにJ t ,ソ ‑ 解 釈 の一つ の新たな方途 を堤示 され るのである
.コバ ンの説 くところに よれば
,J I ,ソ‑の政治思想探究におけ る最 も 「合理的 な道」は ̲其処に調和す るこ とのない矛盾を仮定す ることで もなければ,又独 断的 な 「発展の図式」を適用す ることに よっ てその仮定 された 「困難」か ら逃 避 しよ うと試み るこ とで もな く, それは実に彼の著作 を 「全体」 として考究す る ところに求め られ る。 コバ ンのか ゝる方法論的見地 は正に
「ル ソーの本質に ついての真実な解明」は , 「我 々がル ソーの著作 それ 自体に立返 る時において のみ それを達成す ることがで きる」 とい うカ ツシラ‑の立場や, 「私はル ソ
‑(35)
の学説を探求す る労作 において彼の全著作 を通 して熟 考す るよ うに努めた」 と
(36)‑31‑
説 くライ ト(E.Wright)の立場につなが るものである。 しか して我 々はル ソ
‑解釈のか ゝる方法論的立場を導いた 「指導的JL,ソ‑研究家」 として ランソン (G・
L
anson)の名を見落す ことはで きない。以上の考察か らも既 に察知 され る如 く, ランソン,ライ Tl.カ ツシラ‑の三人はJL,ソ‑解釈の道において同 じ 方 向を歩 も うとす るものであるが,.コバ ンはその方法 と結論 におい て 確 か にI
.ans
on‑Wright‑C
assirerの伝統の上に立っ てい る。彼等はJL,ソ‑の本質をい わば ̀̀ConfusedRous
seau"の中に模索す るこ とを止めてそれを全体におけ る 彼 の著作 の中に求 め,そこに彼の 「基本的意図」を探 ろ うとした。 もっ とも彼 等 もまたJL,ソ‑について 「個人主義か集団主義か」の問題に全 く興味をいだか なかったわけではない。 しか しか ゝる 「政治的範噂」は もはや彼等の中心的 関 心事ではあ り得なかった。JL,ソ‑の理解はか ゝる 「政治的範噴」を越 えて彼の 著作を全体 として考慮す ることに よっ て企図 されねは な らなかったのである。ランソン, ライ ト,カ ツシラ‑等 は右の如 くJL,ソ‑著作 の全体的考究に よっ てそこか ら彼 の思想の̀̀tnsicunity''を導 こ うとした。い うまで もな く彼等は JL,ソ‑の論述の中に認 め られ る 「逆説的特質」を否定は しない。 これ らのパ ラ ド ックスは決 してJL,ソ‑におけ る 「基本的一貫性」(fundamentalconsistency )をそこな うものではない とい う見地に立っ てい る。例えは ランソンは,1912 年JL,ソ‑200年祭に当って公刊 した 「/レソ‑思想の統一」に関す る注 目す べ き 論 説 一一L'unit6delapens6edeJean‑JacquesRo
us
seauannalesde la su]'et6Jean‑JacquesRous班au一一において 自己の立場を明確に してい るが,それに よる と,我 々はJL,ソ‑の著作の中に多 くの細かな矛盾を発見す ることが で きる し,又学説 と生活の間に存す るギ ャ ップOを示す ことも可能である。しか しそれに もか ゝわ らず/レソ‑の思想の 「一般的方向」は 「不変」であ り且つ 「 明襟」であった。′レソ‑の思想におけ る 「一般的方 向」 とは何か.或は/レソ‑
の思想を貫 く 「基本的一貫性」 とは何か。 ランソンに従えば,それに照 してル ソ‑の全著作が理解 され る梶本的問題は,要す るに, 「社会人」が此の現実社 会にあ りなが ら如何に して T自然人」の諸 々の 「利益」を回現す るこ とがで き るか とい うこ とであった。 ランソンはか ゝる角度か らJL,ソ‑の諸著作を統一的
‑32
‑
に秩序づけ よ うとす るのであ るが ,我 々の看過 しては な らない こ とは ,彼の. め ゝる所 説 の論 拠が実はか の/ レソー自身 の所 謂 「大 原 理
」 (graTldpriTICitx)(37)
に導かれ てい るこ とであ る
。ランソンに とっ ては この 「原理」 こそル ソー自ら震 も証言 してい る如 く/ レソ‑の思想を一貫 す る原理 であ り.彼 の哲学 を根本的 に 解 明す る 「鍵」 で あった。
( ヨ 著作 の基 本的意 図‑ 「自然 」の位置
以上 / レソーの思想 におけ る統一 の問題を 中心に種 々考察 して来たが .これ ら の考察 に よっ て今 まで知 り得た こ とは ,そこに幾 多の撞着す る異質的要素が散 見 され るに もか ゝわ らず ′ レ1 /‑の思想は単 な る矛盾 の連鎖 ではな くて,彼 の著 作 を全体 として考慮す る時 ,そ こには一定の 「基本 的意図」が存在 し, その 「 基本的意図」を一つ の
Centraldoctrheとして彼 の全思想が展開 され て い る
こ とで あ る
。この こ とを誰 よ りも強い確信を もっ て主張 しよ うとす る者が実 は ) レソ‑その人であった。彼は 自己の思想 に常に一貫す る基本的 な統一原理 の存 在 していた こ とを色 々な機会に 自ら立証 しよ うと努 めてい る
。勿えは
,1762年
1月 彼 の同情者の一人 であっ た マ/ レゼか
ブ (Malesl杷rbe s)に与 力た手紙 の一 つ において, 「学 問芸術論」執 筆 の直接的動機 となっ たデ イ ジ ョンの アカデ ミ
(38)
イの懸賞夢 題に接 した瞬 間の異常 な烈 しい感 動を伝 えてい るが ,その中で, 「
15
分間に此 の木 の下 で私に啓 示 された様 々の偉大 な真理 の中で私の心に止め得 た限 りの ものは私の三つ の主要著作 ,即 ち第一論 文,不平等論
;教 育論 の 中に散 在 してい る」 と述べ,比 の三つが
「‑一つ の全体
」(unmC・metout)を 構成 してい る 「分離すべか らざる著作」 であ るこ とを証 言 してい る
。こ ゝで彼が主
(39)
要著作 の 中に 「契約論 」 を加えなかっ た のは如何な る理 由に よる ものであろ う か.比 の こ とに関説 してダ ビ ドソン
(Thomaslhvidson)は, / レソ‑は主要
・ 著作 の第 四の もの として 「契約論」 をつけ加え るべ きであったが当時 それは未 だ公刊 され ていなかった為 に削除 された と述 べ てい る
。しか しマJ t , ゼ/ レブ忙宛
(40卜
てた 「第二 の手紙」 の 日附 は
1762年
1月
12日になっ てい るが故 に その 頃 は 「契 約論」 のみ な らず 「エ ミ‑/ レ」即 ち 「教 育論」 さえ も未だ公刊 され て い な い
‑ 33‑
.
.. . L ・L J. 一 ‑' L L ‑ ・ ・ ‑
:FIL' /L :
H㌔'、∴
1二・害であ る。 (「 契約論」の公刊は
1762年
4F ] であり
、rエ ミール」の公刊は同年の
5月で ある。)従っ て ダ ビ ドソンの右 の見解には直ちに承服で きないであ ろ う
。し か らば 「契約論」 のつけ加え られ なかったのは , プアゲ等の指摘す る如 く,それ が / レソ‑の著作 の 「独立 した部 分」で あ り彼 の基本的思想系列か らの 「脱線」
であっ たが故 で あろ うか。
しか し比 の こ とを強 く否定 してい る者は / レソー自身 であ る
。1762年 「エ ミー / レ」が 当局 の忌詩に触れ て暴圧を受けた時 その憤 りを彼は次の如 き言葉で表現 してい る
。 .「私の発表 した主義が私の受け た待遇を当然 もた らすべ き性質 の も のであった とすれば.私は既にか な り以前においてその犠牲 になっ ていなけれ ばな らない筈であ る
。何故 な らは これ らの主義が露骨 でない まで も最 も大胆に 告 白 され てい る著作が エル ミター ジ ュに隠退す る以前に公表 され その効果を も た らしてい るか らであ る
。」「そ して最 も不思議 な こ とは臨終におけ るエロイ ーズの信仰告 白が サポ ア助祭のそれ と全 く同 じであ る とい うことであ る
。契約 論 の中に存す る一 一 一切 の大胆 な思想は既 に不平等論 の中におい て発表 された もの であ り, エ ミ
‑/●レにおけ る大胆な議論 も既 に エ ロイーズに見 られ る もののみ で
あ る
。しか るに それ らの大 胆な議論 も初めの二著においては少 しの非難 も引起 さなかっ たのであ る
。」 これ らの引用か らすれば, 「エ ミー/ レ」に展開 され る
(41)
「主義」が エル ミター ジ ュに隠退す る以前即 ち
1756年
4月以 前に公表 された著 作 ( 例えば 「 学問芸術論
」1750年
、「ボル ドへの最後の回答
」(1752年) 〜「ナルシス 序文
」 (1753年)、 「 不平等論 」
(1755' L F) 「 政治経済論
」 (L755年))に 既 に 述 べ られ てい るこ とが分 る と共に . 「契約論」 中の 「大胆 な思想」 も 「不平等論」
の中で既 に説かれ てい るこ とが推察 され るのであ る
。か くの如 く して我 々は少 な くとも 「学 問芸術論」か ら 「契約論」に至 るル ソーの主要 著作 に一貫す る 「 主義」 の存す るこ とをほ ゞ知 り得 るのであ るが .比 の こ とを更に裏づけ るもの
と して 「ポ ー毛 ン‑ の手紙 」 (
LettreillChristophedeB
eaumont)の 中 で 語 るル ソーの次 の 言葉をあげね ばな らない。 「私は様 々の題 目に関 して書い て 来 た。 しか しそれ らは何時 も同一 の原理においてであった。換言すれば何時 も 同 じ道徳, 同 じ信仰, 同 じマキシム, そ して更にい うな らは同 じ意見におい て
‑34
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‑ t ' I Tl ・ I ・ ‑ ‥ ・ . ・Ll ‑' ''
:ゞあった。」比の確信は彼が生涯の終 り近 くに至っ て再 び 自己の著作を反省 し
(42)
た時 その ま ゝ繰返 され てい る。 晩年の作 であ る対話編 「ル ソ‑,ジ ャン●ジ ャ ッ クを裁 く」 (RousseaujugedeJean‑Jacques)の中において彼 の思想が一つ の 「大原理」を もっ て貫かれ てい るこ とを‑ フランス人を して次 の如 く語 らし めてい るのであ る。 「彼
(
/レソー)の さまざまの瞑想 の系をた どっ て見 る と, 私はいた る所に彼の次 の大原理が展開 され てい るのを見 る. それは ,自然が人 間を幸福且つ善良につ くったが しか し社会が それを堕落 させ不幸に してい ると い うことであ る。」
(43)
これ らの言葉は,/レソ‑の著作が何 よ りも先ず 「筋の通った」一つ の薯 学の 展開であ るこ とを立証 してい る。 しか も此処で注 目すべ きこ とは,その哲学を
● 導 く彼 の所謂 「大原理」が そ もそ も何を意味す るか ゞ彼 自身 の言葉 に よっ て明 確に示 されてい るこ とであ る。即ちル ソ‑の著作を統一づけ る大原理は 「自然 が人間を幸福且つ善良につ くったが しか し社会が それを堕落 させ不幸に してい
t
る」 とい う一つの根本的命題であっ た0人掛 ま 「契約」を通 して社会に結合 し 自然状態に訣 別す るが ,社会状態は,/レソ‑に よれ ば,人操を向上 させず に却 っ て堕落に導いた.人頬 は社会に踏込む こ とに よって 「平和 こ満足 して止 ま り 得た筈 の平穏な質朴の地 を残 して文明の災難へ と駆立て る致 命的道路へ旅立っ た」のであ る。 それを論証 しよ うとした ものが 「学問芸術論」 と 「不平等論」
(44)
であった と見 られ るO
「学 問 と芸術の復興は道徳 (moeurs)の純化に寄与 したか」‑ 一一比の間 に 対 す る 「学問芸術論」 の結論は否定的 であっ た。学問 と芸術はそれに よっ て人 々 がつ ながれ てい る鉄鎖 の上に美 しき花環を捧げ人間を してその奴隷状態を好む に至 らしめた。美 しき仮面 の下に兵 の堕落があ り, 「我 々の魂は学 問や芸術が 完成に 向っ て進むにつれ て腐敗す る」のである. 「人 々は学芸の光が我 々の地
(45)
平線に上 るにつれ て徳が姿を消す のを見た」 とも彼はいってい る。 これは まこ (46)
とに仮借な き文化批判 であ る。 しか しなが ら 「学問芸術論」は単な る文化批判 であ る とは思われない。 そこには明 らかに 「文化」の批判を通 して 「社会」 の 批判が用意 され てい る。 それは 「学 問芸術論」執筆 の感動を伝えた前述 のマ/レ
‑ 35‑
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ゼ/レブに与 えた手簡の次 の一節 に よっ て も窺 うこ とが出来 る. 「あ ゝ若 しも私 が比 の木 の下で見そ して感 じた ことの四分の一で も書け声 とした ら'如何に明 白に社会組織 の矛盾を悉 くさらけ出せた こ とであろ う。如何に力強 く我 々の制 度の悪弊を悉 く指 し示 した こ とであろ う。如何に簡明に人間は本来善 良であ る が只制度 のお蔭で悪 くな るのだ とい うこ とを証明出来た ことであろ う.」これ
(47) が ヴアンサ ンヌ‑の途上彼が 「突然の霊感」に よっ て啓示 された基 本 ・的 観 念 であった。此 の基本的観念を中核 として彼 の著作活動が展開 され てい る といっ て もよい。 されば こそ俄悔録において 「学 問芸術論」の当選通知を受坂っ た時 の感激を回想 し, 「比 の通知は私に比 の論 文を書かせた一切 の思想を覚醒 させ 更に新 しきカを もっ てそれを活躍 させた」 と述懐す るこ とが 出来た。 とも角,
. (48)
「学 問芸術論」におけ る文化批判は,その背景において, 「社会」に対す る 「 抗轟」 であ り 「抵抗」であっ た といわねばな らない。けだ し彼においては凡て の ものが根本的に政治につながっ ていた。此の 自覚 の故に文化の問題 も必然に
(49)
社会や政治に基づけて眺 め られた。か ゝる態度は 「不平等論」におい て真正面 に押 出 され てい る。
「学問芸術論」の公刊は絶大な反響 を呼んで多 くの論敵を招いた。/レソーは 彼等の駁論に対 して応酬 し自らの主張 を確信を もっ て貫いてい る。 これ らの駁 論に対す る彼の反駁論 中最 も纏 まった形で答え られ てい る ものが ポ‑ラン ド王 ネタニスラス (Stanislas)と リヨンのポ/レドに与 えた ものであるが ,特 に ポ /レドに対す る1752年 の "Demi L・reR6rx)nseaM.
B
ordes''はその構成 と論調 において本論に も匹敵すべ き ものであった。 しか して論 駁の特定の対象はなか ったが 「学 問芸術論」をめぐる論 争に終止符を打つ こ とを意図 して書かれた も のが1753年に公刊 された 「ナ71,5/ス序文」 であっ た. これは その内容上 「学問 芸術論」 と一体をなす ものであ り,従って妾の理解 のためには看過 出来ない作 品であ るが,更に注 目すべ きことは此 の中において/レソーの 「主義」が よ り明 確に開明 されてい る点で奉る。彼 自身 の言葉に よる と, 「比 の序文は私の 白檀 の文章の一つであ りその中で今 まで よ りは少 し強 く私の主義 を明 らかに してお いた. そ して間 もな く私は よ り重大な著作 の中において此の主義 を十分に説 く‑36‑
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機会 を得た。‑」 こ ゝで 「重大 な著作」 とはい うまで もな く 「不平等論」であっ (50)
た。 「突如 として私はい くつ もの光明に精神が くるめ くよ うな感 じが した」 と 語 る 「学閥芸術論」執筆 のあの興奮が ,恐 らく他 の何人の心に も未だ曾っ て起 った こ とが なかったであろ うと思われ る程の高い調子で4.5年余 りの間ル ソ‑
の心に維持 された とすれば,その執筆時期か ら見て, 「不平等論」 も 「学 問芸 (51)
術論」 と同 じ興奮 と心境の中に認 め られた もの と思われ る。(
「 不平等論」は
1753 年11月に筆を超し1754年1月に完成 している)。 以上の考察に よっ て我 々 は 「学 問 芸術論」か ら 「不平等論」に至 る一連 の著作は一つ の 「主義J(princifNt)‑自然が人間を幸福且つ善 良につ くったが しか し社会が それを堕落 させ不幸に し てい る‑ の展開であ ることをあ らためて確認 させ られ るのである。
さて, 自然状態 よ りの離脱,文化の進歩が人性 を堕落に導 き,か ゝる人性 の 堕落が社会 の進展に伴 う人間の間におけ る不平等の増大確立 と相供っ て.そ こ に人類 の悲惨 と不幸を招来 した とい う 「学問芸術論」 と 「不平等論」を流れ る 右 の如 き中心思想は神義論に関 して新たな問題を提起 してい る。成程ル ソーに おいて も世界におけ る悪の存在が神 の正義 と矛盾 しない し,悪に対す る一切 の 茸 は神 に帰せ られなかった. 「造物主の手 を出 る時は凡ての ものが善 であ るが 人間の手に渡れば凡ての ものが悪 くな る」のであ る。 しか らば凡ての悪に対す
(52)
る非難は人間に帰せ られ るのであろ うか 。彼に よれは 「春伊 ・放縦 ・奴隷状態 は ,何時 の時代 にあっ て も,永遠の叡智が我 々に与 え給 うた無知か ら我 々が逃 れ 由 よ うとす る倣慢な努力に対す る懲罰であった。」 しか して人間をあの平穏
(53)
無事 な 自然状態か ら時 の経過 と共に引 き出 した ものが 「自らを完成す る能力」
(facult6de
s
el光rfectionner)であ る.比の人間に特異 な能力は人間の 「あ (54)らゆ る不幸の源泉」 であ り,永い間には彼 を彼 自身 と自然 との暴君 た ら し め る。ル ソーは人間に宿命的な 「完成能力」 を心か ら悲 しんでい るか の如 く思わ れ る。しか しなが ら彼は ,此の 「完成能力」が人間の一切 の 「誤謬」 と 「悪徳
」の源泉 であ ると共に同時に一切 の 「明察」 と 「徳」の源泉であ りそれのみが 人塀 に最後の救 済を もた らす こ とが 出来 るこ とを知っ ていた。 しか も彼は人間 性 におけ る根本悪 を肯定す るに「原罪」に関す る凡てあ教説を斥け人間の本源的
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善性 に対 して限 りな き信頼 をかけていた。比の 「本源的善性」に対す るオブテ ミズ ムは彼の形而上学 ・宗教哲学 ・教育学説 を支 え るバ ックボ ーンで さえあっ たの‑ である。
右の如 く,悪に対す る責任を神に帰属せ しめ ることも出来なければその原因 を人間性の本質の 中に見出す こ とも出来ない とすれば.一体その源泉 と起原を 何処に求め るべ きであろ うか
。/ レソーはか ゝる 「責任」の主体を 「個 々の人間
」ではな く 「人間の社会」に求 め るこ とに よっ て比の ジレンマに解 決 を 与 え た。 「自然が人間を幸福且つ善 良につ くったが しか し社会がそれを堕落 させ不
̲幸に してい る」 とい う梶本 命題が既にそれを物語ってい るであろ う。人間に痛 手を負わ しめた ものが社会 である
。故 にその痛手を癒す貴 もまた社会が負わね ばな らない。此処に神義論 の問題に関す る/ レソー独 白の解釈が認 め られ る。彼 は神義論 の問題を形而上学 の領域か ら倫理学 と政治学の 中心に移 し換え るこ と に よっ てそれを新 しい グ/ レン トの上に眺め直 した。か くして 「学 問芸術論」,
「不平等論」等において.文化や社会 の問題を批判的に論 究す ることに よっ て 消極的に砺上げた彼は今や更に進 んで積極的に人鞍を悲惨 と不幸か ら救 出す る 方途 を描かねはな らなかった。 それに応 じよ うとした ものが 「新 エロイーズ」
「ェ ミ
‑ル」.「契約論」等であったのである
.へ フデ ング
(H.H6ffding)の説 くところに よれは,社会文化に よって もた らされた 「害悪は個人及社会に 対す る生活の新秩序に. iっ て除去 されねばな らない
.ル ソーの新世界に関す る 思想は教育 ・宗教 ・国家の三つの範囲にわたっ てい る
.エ ミール と契約論 とに おいて彼はその思想を発展 してい る 。
」/ レソーは これ らの著作に よって文化に
(55)
新た な理 念 ‑ 「エ ミ
ー/ レ」に よっ ては新た な人間の理念を, 「契約論」に よっ ては新た な国家 の理 念を与 え よ うと欲 した といっ て もよいであろ う
0/ レソ‑の最初 の諸論 文は現存社会に対す るプ ロテス トであったが, 「エ ミ‑
/ レ」 と 「新 エロイーズ」は個 々人のモ ラ リティ ・家族関係 ・教育の諸領域 にお け る 「個 人の変革」の方途を探索 した ものであ り,後の政治的諸論策殊に 「契 約論 」は 自由 と平等が保障 され る如 き 「社会の変革」を アウ トライ ンした もの である.故 に 「契約論 」は しば しは指挿 され る如 く 「学問芸術論」等初期 の諸
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'‑、丁.帆 .・●i " √・・・Ll 一・ .
論 文において主張 された 「基本的思想」に対す る 「背信」であるのではな く, む しろそれは 「基本的思想」の 「一貫 した延長」であ り,そ の 「仕 上 げ」 ( fulfillmentandperfection)であった といわねばな らない。今 「不平等論」
. ヂ
との思想的関連に注 目してい うな らは, 「エ ミール」が 「不平等論」第一部 の
「自然人」の叙述 の拡大発展であ るとす るな らは. 「契約論」はその第2部 に おけ る社会批判の上に立っ て理想の社会を構想 した ものである。 「不平等論」
においては 自然状態の中において 自然人が描かれたが 「エ ミ‑JI,」においては 自然人は社会状態の中に求め られ てい る。 社会におけ る自然人は 「エ ミ‑Jt,」 においてほ理想的人間 タイプを象徴 してい る。 「契約論」は,結局は,比の 自 然人の 自由 と平等を現実 に保障す る如 き政治社会の原理を求めた も の で あ っ た。従って「不平等論」以後の主要著作は ゲインデ/レバ ン ド(W .Windelband の所謂 「失われた楽園」(dasverloreneParadies)に も等 し き 「自 然」を
「文化」の中において奪回 しよ うとす る企てに外な らなかった とい っ て も よ い。 コバ ンを待つ まで もな く 「自然」に惰 ることはル ソ‑の0rigiTlalinspira‑
tionであ り 「自然」の概念は彼の思想の basicprindpleである。 故に 「自然 の概念は実にル ソーの思想の核心であ り生命である」 ともいわれ るであろ う
。
(56)
的 ル ソーにおける自然概念の独 自性
以上の考察において 自然概念がJI,ソ‑の思想におけ る核心であ り生命で もあ った とい う点に論 及す ることが出来たが, しか し 「自然」は決 してル ソーにの み独 自な概念ではない
。
その源流は遠 く古代 ギ リシャにまで さかのぼ るであろ う。 いな実に 自然の概念 こそギ リシャ人か ら受継がれて来た ところの 「遺産」であった。 このことは 自然法の問題に関 して も言い得 ることであろ う。 現実の (5
7 )
法 の背後にそれを超越す る理法の存在を認 め る思想は既に ギ リS/ヤに現われて い る。 「自然法の術語は我 々の文明の費明期に ギ リシャ人に よって最初に作 り 出 された」のである。 ギ リ,3'ヤにその源を発 した 自然法思想はやがて ローマの
(58)
法学者に よっ て継乗 され 中世 のカ トリックの学者に よっ て も板上げ られ る。 し か しそれが神の権威 と神学的方法か ら解放 され ることに よってその相貌を一新
‑39‑
するのは近代においてゞある.それを決定的ならしめた者がグロチウス(HugoGrotius1583‑1645)であった.彼は一切の宗教的信条から独立に人間の本性に基づいて諸民族に共通な法意識を発展せしめようとした.そして法の取拠としてのかゝる人間性の認識のために自然状態の仮定から出発する.グロチウスのかゝる態度は,基本的には,その後の自然法学徒によって踏襲されている
。
(59)ルソーにおいてもそれは例外ではなかった。「不平等論」によれは,現実に人間の間に不平等が存在し人間は極めて不幸な状態に置かれているが,そもそもかゝる現実は「神の意志」に基づくものであるか或は又「人間の技術」がつくったものであるか一‑端的に人間の間における不平等の起原は何かを知るためには人間そのもの,人間の木原的な姿を明らかにせねばならない。比の人間のオリジナルな姿をルソーは矢張人類の自然状態に求めている.そして「自然法の観念は明らかに人間の本性に関する観念であるから・・・・・・比の人間の本性そのものから,人間の構成(constitution)とその状態から比の学問の諸原理を浜緯しなければならない。」と述べている。何れにしても「自然状態」は近代自 (60)
然法学の梶本概念の一つであった。 以上の素描によっても我々は自然が決してルソーにのみ独な概念ではなかったことを知ることが出来るが,更に附言しなければならないことはそれが当時における時代思潮をシンボライズする一つの合言葉であったということである
。
「自然に帰れ」という言葉も「自然状態への空想,憧保の中にひきこもらんとする憤向と同様に決して新しいものではかかった.」バピッ1‑(Irving (61)ぬbbitt)によれは,「原始時代の美点を称揚することは18世紀の人々が当時感じていた要求一自己を自由ならしめようとする要求を単に神話的過去に投影したにすぎない.彼等が自然に慣れと叫んだ言葉の意味はこれであった.」思 (62)
うにルソーがその著作活動を開始した頃フランスの思想界にはホップス・ロック・モンテスキュ‑・‑tルリイ等によって投げ出された問題‑自然状態・自然法・社会契約等に関する問題が流行していた.これらの問題を検討する時其処には注目に値する二つの事実が認められる.一つは人間を法の創始者・制度の設立者と見る頃向.従って人間は痕や制度の「主人」であって「奴隷」では ‑40‑