史料解説
平 尾 魯 仙 「家 訓 提 要 」 に つ い て
平尾魯仙'文化有年(l八〇八)I明治十三年二八八
〇 )
'幕末のころの津軽の画人で、国学者O名は亮致、通称初三郎(八三郎)O削号
鹿川、魯億、宏斉、雄山など一﹀弘前相星町の魚商小浜屋に生きれる。幼帖
から学問を好み、松田駒水に縫史を学ぶっ画才を認められ工藤丘同につ
き、さらに毛内雲林に師事して画道を修めた。また内海草妓
に
菖法と俳許を学んだo十八才のとき尊吸同門の鶴合有酌と計り遊学のため出郷を
企てたが果さなかったOのち古川学庵・今村慶寿(渓寿)について学芸
いよいよ進んだo天保八年、l111才で家業を弟に譲り、所業と文筆に専
念す。安政一一年松前を遊歴Lt箱舘で異人を見る。
この頃から有節.今村真樺らと平田派の皇学を究め元治元年江戸の
平田鉄胤の門に入り'鉄胤没後の門人帳に名を連ねたO明治九年、天隻
の青森行幸の際'晴門榛布図などの画作を天覧に供す。明治十三年投。七
十三。画道の門人多数あり、高弟三上仙年'工藤仙乙はじめへ山上魯山、
山形岳泉らいずれも明治の弘前画増の中心となる。魯仙は'また考古を
好み門人佐藤仙之へ蔀)その志をつぐ。著書すこぶる多く'民間の奇事
異聞を集めた「谷の響」・「合浦奇談」をはじめ'「松前紀行」二箱舘 佐藤和夫
夷人談」・「幽府新論」などあり'なかでも群書を博覧し抄録した「
宏斎抄誌」一五〇冊に刻苦勉学のあとがうかがわれる(以上、﹃青森県
人名大事典﹄執筆森山泰太郎氏)0
魯仙は津軽から離れることなく、かなり異才を発揮した人物であった
ことは、上記の引用紹介の短い文章の中によ‑描き出されている。私が
恥仙なる人物に遭遇したのは、彼の著述した「家訓提要」の存在によっ
てである。「家訓提要」を我が国家訓史の上からとりあげたのは、近藤
芥氏であった(「戦国時代武家家訓の研究」、風間書店'昭和五十三年)
並横氏は、その著書の中で特異な家訓として「﹃家訓提要﹄考」なるl
節を設け紹介している。
国立国会図書館に﹃家訓提要﹄と題した1本がある.この書は弘前
の人で画家平尾魯仙(名亮致・通称初三郎、明治十三年一一月穀)の自
筆本で、その外孫土岐安子が外崎覚に托して東京図書館に寄贈したこ
とが末尾に附記してある。
その附記とは、
右家訓提要壱冊、平尾魯仙自筆也其外孫土岐安子托余寄贈之於東京図
ママ
書館外岐覚
となっている。
近藤氏は「家訓提要」の価値について左の如く評価されている。
この書は「紀元二千五百三十三年明治六突酉年二月平尾亮致為後
嗣等記」と本文末尾に記してあるとおり'明治維新直後に文化人によ
って書かれたものとして注目すべきものであり'町家の家訓が盛んに
書かれ'武士的教養のある人の家訓が絶滅してしまった時代に書かれ
たものとして一の特色を持ったものとして注目に価するものと思われ
る。 によると'魯仙の娘で土岐家に嫁いだ女性の娘に「やす」がおり女高師
出身となっている。やすの弟千代助には二男忠男氏があり'東京在住と
なっている。外岐覚は外崎覚であるとすれば'附記の自著名を間違える
のはおかしいと思われるが'あるいは近藤斉氏の原稿、、、スか印刷校正の
ミスかもしれない。国会図書館本を実見できないので疑問のままにしてお‑。
さて'昭和五十四年十月二十一日から十二月二日まで'弘前市立博物
館で'「没後百年記念'平尾魯仙展」が開かれ'犀風・衝立・扇額・軸
物・絵馬を含めた書籍・画帖その他の魯仙の遺作一八四点が一望に展鶴
され'折よ‑実見することができた私はそのすぼらしい迫力に圧倒された。
そして偶然にも「家訓提要」一冊が出品されていたのをみて'国会図書
館所蔵本とどうかかわかるのか興味を抱いた。早速、国会図書館で閲覧すべ
‑出かけた上'請求したのだが'目下所在不明という奇怪な職員の返答
のため実見できなかった。弘前の会場でみたものはまざれもない原本で
あった。所蔵する弘前市立図書館からコピIを送附してもらい'内容杏
近藤氏の著書のそれと比較してみた。結果は'外崎覚の奥書以外は同文
であった。「国書総目録」には国会図書館本は写本としてある。弘前図
書館所蔵原本については記載がない。編者の手落ちであろう。成田末五
郎氏「平尾魯仙」へ陸奥史談第三六号'昭和四十年)で紹介された家系 二「家訓提要」の冒頭に石居兼松成言の横井書の序文がある。
序
書有言日'若銑弗視地'厭足用傷'蓋謂入鹿知己立足処'而後行也'
吾魯仙翁好講書善絵画'々富暗也'書該博也'然其所作'専詳於我土
地山水之景況'其所著亦審乎'我闇境古今之事跡'此無他先知己立足
処而後行之謂也'非得務本之要者'安能如斯哉'須著一編以教誠児孫'
薄々懇篤'悉修身斉家之警語'予既批之其尾日'孟珂氏所謂天下之本
在国'々之本在家、宏之本在身者'而不麹修身斉家之警語'施之乎'
国天下亦不外於此而己夫'務本之要'賠蕨之礎'其何過之々有'今後
徴序'因申前言、以塞貢云'
明治六年第三之一目八々翁石居兼松成言撰群書
明治六年へ一八七三)兼松石居'六十六才の時である。兼松石居は津
軽江戸常符の家に生れ、昌平半に学び舎長をつとめる程の学才を発揮'
世子の侍読となり'監察(目付役)などもつとめた。養育奉仕した世子・ノ・]\,i),(武之助(大隈守承祐)が弘前城で安政二年七月早世した。継嗣問題がお
こり藩論は他家から養子を迎えるという意見と、武之助弟(当時黒石藩
主)を迎えるという意見に二分され'石居は血統尊重論の立場から後者
の意見を強硬に主張した.結局'熊本藩主細川越中守斉護のET男貰五郎
が蟹養子ときまり落着した。寛五郎・‑承烈'承昭第十二代藩主である。
石居は血統論グループの理論的指導者とみなされ'国下りの上蟹居処分
となり'安政四年二月江戸を離れ弘前住まいとなった。以後三軍五ケ月
塾居するが、塾居が解けた後も弘前に暮らし'その間'領内巡遊「東演
紀行」を著わし、書院番に列し経学士を兼ね'「藩祖略記」を献上'臥
塾麓沢堂を開き'藩校梧古館小司となり'「津軽前譜」を草L、明治に
入って東奥義塾創立頭取教授となるなど'その学識ぶりを充分に発揮し
た。・
明治七年九月'津軽家の招きにより上京'樋口建良'下沢保窮らと藩
史編纂に従い'翌年には「津軽旧記類」十五冊を完成'旧藩主承昭より
修史局に献上された。このあと弘前に帰り東奥義塾で講義中発病'明治
十年十二月六十八才で亡‑なった(∪
序文の書体の美しさと云い'内容と云い'漢籍家としての豊かな教秦
をしのばせる。
魯仙はこの時七十才である。ほぼ同年代と云うべきであり'津軽から
離れなかった天才画家の平民と'中央のエ‑ートであった俊才の石居と
は'階級や身分の距てなく肝胆相照らす間柄であったことが'この序文
となったものであろう。 家訓提要は二十七ヵ条より成る。冒頭にまず目録二十七ヵ条を列挙Lt
以下、各条毎に具休的な解説が施されている。まず目録をかかげてみる。
二部当用漢字に直して記す。)
二朝憲ヲ遵奉シテ禁戒ヲ凌犯為へカラサル事
二二親二孝ヲ尽スへキ事
三職務ヲ勤励スへキ事
四合家和親ハ繁盛ノ基不陸ハ衰微ノ元タル幸
先食糧ヲ貯畜シテ荒年ノ災難二充備スヘキ事
六隈逼ヲ刷清シテ諸具ヲ鮎視スへキ事
七夙二起テ二親ヲ訪問シ神明及ヒ列祖ノ宙ヲ拝スへキ事
八神ヲ鹿賢二シ伸二密ナルハ惇礼タル事マ7
九火ヲ清潔ニシテ護二蔵スへカラサル事
十人ヲ計り出ヲ呈‑テ冗費ヲ省略スへキ事フ,「
十一低層曳旋スへカラサル事
十二時貿ノ害ノ事
十三倹苗ノ71ヲ弁了スへキ事
十四子弟ヲ産硫スル事
十五学問ハ実学ヲ要スへキ事
十六飲酒ハ青年ノモノニ許スへカラサル事
十七子弟二遊観ヲ許スニ定期有へキ事
十八妻ヲ酬ル事
十九子婦ヲ師ル事
二十女児ヲ教育スル事
竺子弟判秩ノ事
廿二奴碑庸保ヲ使フ事
廿三客タル時ノ注意ノ事
廿四亭主タル時ノ注意ノ事
廿五摂生ヲ緊要スへキ事
芙盗火預防ノ事
廿七総論 等熱クコレヲ思念セヨ
右の目録は以下の各条文の目録見出しになっているが'本文見出しと
は若干表現が異っている。例へば第二条は「二親二孝ヲ尽スハ人タル
モノ'当然タルベキ事」'第三条は「職務ヲ勤励シテ詐欺ナク正宏ヲ要
スへキ事」という具合である。
目録だけでも充分うかがい知られるように'第一条を除いては実際的
な教訓で家の維持について家族の守るべき規範をこまごまとつらねてい
る。そのかぎりにおいては儒教的家族主義の典型的家訓とも云うべきで
ある。このことは総論へ廿七条)によくあらわれている。
右'件ノ旨趣常二心二存シテ忘失スへカラス'親ヲ養ヒ妻子ヲ育ムノ
本ハ家ヲ修ル二ア‑'家ヲ修ルノ本ハ職務ヲ勤助スルニア‑'職務ヲ
勤励スルノ本ハ挙家和睦二ア‑'挙家和睦ノ本ハ王Jノ教戒正シキニ
在り'主人ノ教戒正シカラサレハ挙家和睦セス'挙家和睦セサレハ職
務ヲ勤励セス'職務ヲ勤助セサレハ家修ラス'家修ラサレハ親妻子ヲ
養育スルコト能ハス'故二主人タルモノ依テ来ル本原ヲ体認シ'言行
端厳二シテ属類ヲ教戒シ'家道興隆ヲ営ムコ‑緊要タルへシ'汝子弟 親・妻子‑斉家‑職務‑挙家和睦‑主人教戒‑挙家和睦‑職務‑親・
妻子tという論旨の明快さは修身斉家治国平天下の秩序観であり'その
中での一家の長の権威を強調している。家訓は本来「家」の存続のため
の目的で書かれるのだから当然このような教訓になってゆ‑。
内容であるが'血縁については親孝行(llL)'家族の親睦(四)tの
重視'子弟の産硫(十四)'青年の飲酒へ十六)'遊観(十七)'妻・
嫁・女児へ十八・十九・二十)'分家(廿一)tとそれぞれ詳細に述べ
ている。家庭運営職務精励へ三)'食糧備畜(五)'諸家具の点検へ六)',+.]r冗費の節約へ十)'借金へ十一)'貸売へ十二)'倹約と古の弁別(十
≡)を強調'主人としての姿勢へ廿四)'客の応待(廿三)'使用人へ
の心遣いへ廿二)等の対人関係'学問の奨励へ十五)'信条・信仰へ一
・八・九)'その他摂生・防火(廿五・廿六)等多岐に亘り'かなり現
実的である。以下これらの各条文について検討を加えてみる。
四
魯仙は平田鉄胤門の国学者である。国家への忠誠という点では'町人
の立場から比較的客観的に時流を読みとっていたようである。第一条に
はこの感覚がよく表現されている。法律は治国安民のためであり'時々
に従って改廃さるべきものである。そのため国民は改廃により一己心情
に適さない面も出てくるが'慎んで理解しなければならない。不平のあ
まり政令や官吏を批難することはよくない。もし'政令に大きな誤まり