内藤湖南 の 日本論 ・中国諭
藤 田 昌 志
有美 内藤湖南的 日本龍 ・中国龍
《捉鋼》
政教社是創刊 《日本人》吋組成的一介同人組筑 送是志賀重 昂,井上囲了、三 宅雪嶺等人作 力友起人達 名創建 的姐鉄。政教社 的起 因是対
1884年到
1887年盛 行 的欧化 主文一就是鹿 鳴館吋代一的傾 向的抗拒。在送篇龍文 中,我提 出政教社 的 人肌,特別是 内藤湖南,想考察他 的 日本捻 ・中国龍。他対 中国有着窓梓 的想法, 展井窓樺 的龍述,速↑考察有着深遠 的意又。我想通迂遠 一考察更好地理解近代 日 本 的 日本龍 ・中国捻。
‑、内藤湖南 につ いて
か ず の
内藤湖南 は
1866(慶応
2)年8月
17日秋 田県 (南部藩)鹿角 に儒者 内藤調‑ ( 十湾)の 次男 として生 まれている
。(71)1870(明治 3)年母、容子死去。習字 を始 め、『 二十 四孝』を 読 まされ、四書 の素読 を父 に教 わる
。 1881(明治
14)年 明治天皇巡幸奉迎文 (漢文)を作 る。
1885(明治
18)年秋 田師範学校高等師範科 を卒業。北秋 田郡綴子小学校訓導 とな り、首席訓導 にて校長 の職務 を兼 ね る
。 1887( 明治
20)年家 に無断で上京 し 『明教新誌』( 大
せいら ん
内青轡主宰 の仏教誌)の記者 とな る
。 1890(明治
23)年志賀重昂 の推薦 で 『三河新聞』の 主筆 となる
。 1891(明治
24)年 『日本人』を改名 した 『亜細亜』を編集 し、三宅雪嶺、志 賀重昂 の論説 の代筆 をす る
。 1893(明治
26)年政教社 を退 き、大阪朝 日新聞の客員 (実 は 主筆) とな った高橋健三 の私設秘書 とな り、論説執筆 を助 ける
。 1894( 明治
27)年大阪朝日新聞記者 とな る
。日清戦争起 こる
。 1897( 昭和
30)年 『近世文学史論
』『 諸葛武候』 を
刊行。4 月 『台湾 日報』 の主筆 とな り任 に赴 く ( 〜1
898月
4月)。
1899( 明治
32)年小石川江戸川町の家が火災 に遭 い、蔵書 を焼 く。
1902( 明治
35)年 10月大阪朝 日新聞社 よ り
派遣 され、満州 の形勢 を視察す るほか、北清及 び江漸各地 を巡遊。
1903(明治
36)年 1月
帰国。対露主戦論 を主張。
1907( 明治
40)年京都大学文科大学史学科開設。9月開講。
10月文科大学講師を嘱託 され、東洋史講座 を担任す る
。 1909(明治
42)年京都大学文科大学第一講座 を担任す る
。 1914( 大正
3)年3月 『 支那論』刊行。
1921(大正
10)年 「応仁 の
乱 に就て」 を講演。1
924( 大正
13)年 『日本文化史研究』『 新支那論』刊行。
1925( 大正
14)年4月 「 大阪の町人学者冨永仲基」を講演。
1926(大正
15)年8月京大教授 を停年退
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10号)
み か のはら
官。
1927( 昭和
2)年
8月京都府相楽郡 瓶 原 村 の恭仁 山荘 に隠棲す る
。 1929( 昭和 4)年
11月マスベ ロ夫妻、恭仁 山荘を訪 う
。1933( 昭和
8)年
10月 日満文化協会設立のため満州
ていこうしょ
国へ赴 く
。 1934( 昭和 9)年
2月 胃癌 と診断 され る
。4月鄭孝背、恭仁 山荘を訪 う
。5月吐 血。病状悪化。 6 月 26 日死去 ( 享年 69 才)。
つと
内藤湖南 と政教社 の関わ りで夙 に有名なのは三宅雪嶺の 『 真善美 日本人
』『 偽悪醜 日本 人』の代筆を長沢説 と共 に したことである
。内藤湖南 と三宅雪嶺の関係 については内藤湖 南の 日本論、中国論 を考察す る上で注意 しなければな らないところがある
。『 我観小景』で 三宅 は東洋学の研究 は西洋人 よ りも漢文をこなす 日本人の独壇場であることを強調 してい る ( 7 2 )がそれは 『 真善美 日本人』で も既引用のように述べ られてお り、湖南 は 「 後 日まさ にその道を選んでいる
」(73)のである
。『 真善美 日本人
』では又、三宅はアジア大陸に学術探 征隊を派遣す ることを提言 しているが、「 雪嶺の談 によると重昂が昆蕃山探検を思い立ち、
湖南を誘 ったことがあるという
。そのときに湖南 は自分だけでい くことを暗示 したといい、
雪嶺 はその大胆 さに呆れている
。湖南の海外雄飛熱 は相当の ものであった らしい
。」(74)と の言辞 もある
。湖南 は
1905( 明治
38)年 に第
2回 目の満州旅行 に出かけ、それは奉天 ( 港 陽)の 「四庫全書」 を調査 し、清朝の宮殿 にあったその他の図書、寺院にあった満州文 と 蒙古文の 『 大蔵経』 を調べ ることを目的 とした ( 7 5 )が、 そ こにそ うい った三宅雪嶺の影響 を兄い出すの も可能であろう
。又、湖南が哲学か ら歴史 に転向 したの も 「 雪嶺の著書を読 み、 その人 に接 して、改めて 自己の資質を自覚 し、すすむべき方向を確かめたのではなか ろうか
」(76)との推測が成 り立つ余地 はあると考え られる
。雪嶺 は 「自国のために力を尽 くす」 ことは 「 世界のために力を尽 くす」 ことであるとい う考えを持つ、一種の調和論者であ り、世界を序列で見ず、国家を究極の 目的 とせず、東 洋学の リニ ューアルを 目論 んでいた湖南 も「日本の天職」は西洋の ものを中国に伝えた り、
中国の旧物を西洋 に伝えることではな く 「 我が 日本の文明、 日本の趣味、之を天下 に風廃 し、之を坤輿 に光被す るに」あ り、「 我れ東洋 に国す るを以て、東洋諸国、支那最大 と為す を以て、之を為す こと必ず支那を主 とせ ざるべか らざる也
」(77)という中国尊重の上で 日本 の独 自性を発揮 してい くという考えを持つ人間であった。両者 には欧米追随の道 とは異な
る道を歩 もうとす る共通点が存在 したと言える
。二、内藤湖南の 日本論
内藤湖南の 日本論 は 『日本文化史研究
』(1924( 大正
13)年)という形で結実 している。
次 に 『日本文化史研究』を中心 として湖南の 日本論 を考察 してい くことにす る
。「日本文化 とは何ぞや ( 其‑)
」(1921( 大正
10)年)では 日本民族が思想的 自覚を生 じ
‑ 34‑
たのは 「 蒙古襲来」 の時であるとす るが 「 忠孝」 とい う語 については本来、 日本 にその内 容の ものがあ ったな ら、その内容 に応 じた 「 名 目
」( 形、言葉)があ ったはずではないか ( 7 8 )
とし、 日本 由来 の ものか どうかには注意深 い態度を採 っている
。続 く 「日本文化 とは何 ぞや ( 其二)」
(1922( 大正
11)年)
1月
5日
〜7日)では中国文 化は日本文化が形成 される際にとうふの 「にが り」のような役割を果た してとしている
。(79)又、文化 中心移動説 を述べ、「 文化」には 「中心か ら末端 に向 って行 く運動」 と 「 末端か ら 中心 に向 って反動す る運動」があるが、後者 には 「 権力関係か ら来 るところの運動」と 「 純 粋の文化か ら来 る運動」があ り、当時中国人留学生が 日本 に多数や って来て、 中国に 「日 本人の手 を通 した」西洋思想 を伝え るのは末端か ら中心へ と向か うの文化的反動であると
している
。(80)湖南 は 日本文化 と中国文化 の関係 について、 中国文化 を 日本文化 にとっての 「にが り」
のような ものをみな したが、再度、次のように明確 に両者 の関係 を述べている
。「日本文化 と
いふ ものは、詰 り東洋文化、支那文化の、今 日の言葉で云へば延長である、支那の古代
ママ
文化か らズ ッと継続 して居 るのである
。それだか ら日本文化の起原 とその根本 を知 る為 に はどうして も先づ支那文化を知 らなければな らぬ
。今、歴史 と
いふ ものを 日本の歴史 だけ で打切 って しま って、 その以前の支那の事 を知 らぬ といふ と、 日本文化 の由来 を全 く知 ら ぬ ことになる
。」(81)「 聖徳太子
」(1924( 大正
13)年
6月)では 「 文物典章 を作 った人」 を 「 聖人」 と言 う が、聖徳太子 はその名 に恥 じぬ 「 文明の建設者」であるとす る
。太子の事業の主なること の第一 として湖南 は 「 外交 に関す ること」を挙 げる
。「 支那若 しくは朝鮮の帰化人」による
「 通訳外交」 を一新 し、 中国 との対等外交 を 目指 した ことを高 く評価 している
。ただ、 そ れは 「 上表」 を持 って行かず 「 勅書」 も受 け取 って帰 らず、 それで もって 「国交を維持 し て、其の使者 の座席な どは恒 に外国の主位 を占めた
」(82)らしい とい うもので、「 太子 ぐら ゐ巧妙 に」外交 を行 った人 は
いなか った と湖南 は述べ る
。大子の事業の第二 として 「内政」
に関す ることを挙 げるが、 それは 「 天皇の大一統主義」 と言 ってよい憲法十七条の発布の ことを指 している
。湖南 は又、「 太子 は仏教を盛 にす ると共 に神砥 を も崇敬せ しめたに相違 ない
」(83)と述 べ、「 飛鳥朝 の支那文化輸入 に就 きて
」(1929( 昭和 4)年)では太子の 「日 本文化 と外国文化 を両存す る方針」が 「 古代 日本人 の精神」であ った と総括 している
。「 応仁 の乱 に就て
」(1921( 大正
10)年)では歴史 を 「 下級人民がだんだん向上発展 し て行 く記録」ととらえ、「 大体今 日の 日本 を知 る為 に日本 の歴史 を研究す るには古代の歴史 を研究す る必要は殆 どあ りませぬ、応仁の乱以後の歴史を知 って居 った らそれで沢山です
」(84)と有名な今 日の 日本、応仁 の乱以後説を述べている
。湖南 は応仁の乱 の前後 は 「 一般 に今
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迄貴族階級 の占有であ った ものが、一般 に民衆 に拡が ると
いふ傾 きを持
」 (85)ってきた とし、
その傾向 として具体 的には、「 伊勢の大神宮の維持法
」(‑伊勢講 を始 め、一般人か ら維持 費を得 るようにな った ことを指す)
「(仮名)磨 (‑伊勢 の町人 が土御門家か ら暦の写本 を もらい、仮名暦 に し、領布 し、暦が一般化、平民化 した ことを指す)「 古今集などの伝授」
(‑公卿 が生活維持 のために始めたことを指す)
「「 漢学 における 「 新注の学問
」」(‑朝廷 の学問で用 いていた漠唐以来の古住 に変わ って宋以後の朱子の新注の学問が一般 に広 まっ てい ったことを指す) を挙 げている
。「日本国民の文化的素質
」(1929( 昭和 4)年)では、世界で文化を持 ち得 る国民 はどの ような条件 を備 えているか とい う問いを発 し、中国では劉 向、劉款父子が 目録学者 として 有名であ り、書籍 を六芸,諸子、詩賦、兵書、数術、方技 に分類 し批評 しているが、 それ あるがゆえに中国人 は文化を持 っている国民 と言 える、 イ ン ド人やギ リシャ人 も同様 の学 問分類 を有 し、文化 を持つ国民 と言えるが 日本人 は外国 とりわけ中国の文化の影響を受 け てきたか らそ うした意味での文化 はない、 しか し暗黒時代 とな った応仁、文明以後 に皇室 が衰微 した際に 「日本人が暗黒時代で も離 さなか った井 びに生み出 した所の文化」があ り、
それが 日本国民が文化 を有 し得 る国民 と言 える証拠 にな ると湖南 は言 う
。その離 さなか っ た文化 とは何か と言 うと帝室の 「 歌道の伝授」、「 神道の伝授」、そ して この時代 に最 も喜 ば れた 「 源氏物語」である
(86)と述べている
。以上 の ものは 「 寧 ろ 日本が支那文化の衣を脱 い で、 自分が丸裸 にな ってか ら得 た所 の もの」であ り 「日本人 は正直 を尊 び、 あ りのままな る姿 を尊ぶ ことを特色 とす るや うにな った
」(87 )とす る
。湖南 には中国の末代 を近代 と見 る視点があ り、それは 「汎ゆるものに平民精神が入 って」
きた ことを 「中国近代の一番大事な内容
」(88)とす るが、では 日本 の同様な時代 はいつか と いうことを考 えた ときに思い到 ったのが応仁の乱 の時代であった と考 え られ る
。三、内藤湖南の中国論
湖南 は 「 東洋文化」が 「 古来支那 中心であった」 ことを認 めている
。そ して、その上 で 日本の独 自性 を究明 したのであるが、本家本元の中国についてはどのような認識を持 って いたのであろうか。
一体、湖南 には言葉 による 「 解析」の限界を知 り、エ トス、時代状況の典型を把握 でき るような人物、 エ ピソー ドを重視す るところがある
。「 何 ものの見たてにも似ず三 日の月」
と詠 むのは 「 解析」 を嫌 う気質を象徴的に表 している し ( 既述)、「 応仁の乱 に就て」 で山 名宗全等 の言辞 を紹介 した ことや高木智見氏が述べ るように
(89)察文姫 について湖南が取
りあげた説話 に時代 の典型的人物、エ ピソー ドを重視 した湖南の傾向が見て取れる
。‑ 36‑
又、湖南の歴史認識 ・ものの見方の特徴 として 「 変化 の視点か ら歴史 を見ている
」(90)こ とが挙 げ られるが文化 中心移動説 に もその特徴 は表れていると言えよう
。もっとも 『新支 那論
』(1924( 大正
13)年) の 「六、支那の文化問題 新人の改革論 の無価値」で次のよ うに述べている如 く、文化の中心移動 は土地、地方 に止 ま らず 「階級」 において も行 われ る
。前 に支那 の文化 中心が、時代 によってだんだん移動 を来 た した といったが、此の移動 は単 に地方 において行 はれ るのみな らず、階級 において も行 ほれて居 る
。/六朝か ら唐 頃まで、名族があ らゆる文化を占有 して居 った時代か ら以来、 だんだん変化 して来て唐 末五代の間に、古来 の名族 が大概滅亡す ると共 に、文化の中心が読書人階級 に移 ったの である
。勿論此の読書人階級の大部分 は任官者 ( 筆者注 :役人)であるが、元朝 におい て任官者 の大部分 を蒙古色 目人 な どに占有 され る様 にな ってか ら、文化 の中心が処子 ( 筆者注 :役人 にな らないで民間にいる人物) に移 った時代があるので、元末か ら明の 中頃迄 は文学芸術 は多 く処子の間にあったといわれて居 る
。更 に続 けて清朝では商人階級の台頭を指摘 している
。変化の視点か ら歴史 を見ていた湖南 は 『 支那論
』(1914( 大正
3)年)「一、君主制か共 和制か」で 「 世界の大勢」 について次のように述べている
。一体世界の大勢 の変遷 は、或 る時には幾 らか旧に復 るや うな形があ って も、実 は皆新 しく形 られた勢力 の中心 に向 って、新 しい局面を開いて行 くものであるか ら、君主独裁 政治 の弊が極 ま って、又貴族政治 に復 るといふ よ りか、他 の政治 に変 るといふ ことが、
大勢 の 自然であると見 るが至当である
。其処へ持 って来て支那 は近来外国に接触 し、外 国に留学生 を も出 したが為 に、新 しい時代の進歩 した政論 を聞 くことにな って、遂 に共 和政治 といふや うな政体を知 り始めた。そこで黄宗義 な どの考へた貴放政治 に復 るべ き 大勢が、今度 は一転 して共和政治 に向 って来たのである
。(91)ここには世界の政治 の大勢が 「 貴族政治‑君主独裁政治‑共和政治」 という普遍的流れ に沿 って動 いていることが述べ られている
。(92)それは中国に も該 当す る大勢であった。 も っとも中国の場合、「 近代支那 の文化生活」で述べているように 「 平民発展時代が即 ち君主 専制時代である」 とい う特殊性を持 ってお り、 それは西洋 との大 きな相違である
。また、
この 「 近代支那 の文化生活」 で湖南 は中国近代を宋の時代 に始 まるとし、その内容 として
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「 平民発展の時代」 と 「 政治の重要性減衰」 を挙 げている ( 既述)が、今か ら考えると湖 南独特の中国近代観であると言える
。なぜな ら中華人民共和国成立以後の中国大陸の歴史 観では中国近代 の始 ま りをアヘ ン戦争 とす るのが通説であるか らである
。「 応仁の乱 に就 て」で述べ られていたように湖南 には歴史 は 「 下級人民がだんだん向上 発展 して行 く記録」であるとす る認識が存在 した ( 既述)。中国について もそれは例外では な く、湖南が中国が共和政治へ向か うであろうと予測 したのはその認識 に基づ くものであ
っ た
。それでは中国に共和政治を導 く具体的契機 は何か と言 うと、黄宗義や曽国藩 に見 られ る
「 平等主義
」であると言 う。
(93)とりわけ曽国藩 に対す る湖南の評価 は高 く、太平天国の乱 の平定 に功績のあ った曽国藩 について 「曽国藩 は、軍 中に居 って幕友等 と同等の生活」 を していて、「 之が軍隊の間に平等主義が力のあった証拠」 になると言 う ∫
。又、「 其の時曽国 藩 と並んで有名な人 は、湖北巡撫胡林翼 と云ふ人で、此は度量 の点に於ては、或 は曽国藩 よ りも一層え らい人であったが、殆 ど自分を捨てて人を尊敬 し、. ^ に功を帰 し、己に過 ち を引受 けて、 曽国藩 と相助 け合 って長髪賊平定の大業を遂 げた。長髪賊平定の大業 は一面 か ら言へば、官憲の力 によ らぬ民主思想、平等主義の発展 と云 って宜 しい。支那人の此の 如 き思想が、立憲政治の一大要素 になることと思ふ
。」(94)と述べ曽国藩等の 「 平等主義」
を高 く評価 している
。湖南の 「 平等主義
」「 平民主義」 は 「 皇帝 に対す る官僚、官僚 に対す る士大夫を含 む在 野の人 々のあ り方 について述べ られた ものであ り、主 として、官の権力、官軍の軍事力 に 依拠 しない自立的志向、 さらには、 そこに内在す る対等的な人間関係を表す ものと理解 さ れよう
」(95)との指摘があるが重要な指摘である
。「 応仁の乱 に就て」で述べ られたように 湖南 には日本 において も時代 は 「 平民」(‑民衆)中心の時代‑移行 してい くという認識が あったか、応仁 の乱の時代 は 「同時に日本の帝室 と言ふや うな 日本を統一すべき原動力か ら言 って も、大変価値のある時代であった といふ事 は之を明言 して妨 げなか らうと思 いま す」 と述べているように、皇室の尊重 とい う点では当時の普通 の 日本人の一般的な感覚 と 何 ら変わるところはなか った。 しか し、 中国については、 よ り 「 平民」 中心の平等主義を 模索 しているのである
。湖南が更 にもうーっ共和政治を導 く具体的契機 として注 目していた もの として 「 地方 自 治」がある
。中国では 「 惰唐以来人民の自治 は存在 して居 るが、官吏 は自治の範囲に立入 らず に、唯 文書の上で執 り行ふ所の職務だけを行 って居 る
。」「 民政の最 も行届いた」漠の時には県の 下 に 「 郷官」又 は 「 郷事の職」 という 「 其の土地の名望で任命 される官吏」があって地方
‑ 38‑
行政 をや っていたが、晴の文帝が郷官を廃 してか らは、「 官吏 といふ官吏」は 「 皆渡 りもの にな って」 しまい、「 渡 りものの官吏の常」 として、任期 の間だけ、租税を滞 りな く納 め、
盗賊などが出ないようにすればよいという考えで、「 地方の人民の利害休戚 といふや うな も のは念頭 に置かな」か った。そうして官吏は徴税権を利用 して 「 人民か ら手数料を徴収」し、
「 一期三年位の間に於て、一族が一生食へ るだけの財産を書へ るといふ ことを 目的」とす る ようにな って しまった。「 地方の人民」 は 「 全 く官の保護 を受 けるといふ考え」が 「 無 くな って」 しまい、「 地方の人民 に取 って総ての民政上必要な こと、例へば救貧事業 とか、育嬰 の事 とか、学校の事 とか、総ての事を皆 自治団体の力です るといふ ことになって来た
。」(96)「それゆゑ此の昔 か ら存在 して来た所の自治団体 を根底 に して、 旧来の習慣 を掛酌 し、其 の上 に新 しい自治制 を築 き上 げれば、 自治制 も立派 に成功
」(97)す ると湖南 は言 う
。湖南の中国共和制論 は
1910年代か ら
1920年代 にかけてお こった 「 米国を軸 とす る欧米 列国の外交 ・経済活動 の新たな展開」を湖南 自身 「 危機的に」受 けとめる中で、「 共和制完 成のための主 たる方法論 を、列国の中華民国政府 に対す る非 「 利 己的」 な関与
(「 監視
」)とその下での中国人民 による地域社会を場 とす る自立的改革か ら、 日本の 「 小資本の商人 の経済的活動」が促す中国の地域社会の改革
(「自発的革新
」)へ と移行 させていった
」。(98)日本 の 「 小資本 の商人の経済的活動」 は米国の企業家、 日本 の大資本 の利潤追求の論理 とも大 いに異 な るもので、それ こそが中国の地域社会 を改革 してい くと湖南 は考えていた。
湖南 は米 国の企業家や 日本の大資本家 とい った 「 利潤追求のために世界規模で窓 に経済 活動 を図 る主体
」(99)を否定 し、「 生命を も財産 を も惜 ま うとせないで、兎 も角先へ先へ と 支那 の経済機関を■ 変化すべ く、深入 りを して居 る」小資本 の商人 の経済的活動 は、「これは 支那人 も日本人 もまだ 自覚 して居 らぬ一種の使命 に支配 されて居 る新 しい東洋文化 を形造 る為 に、知 らず識 らず努力 してゐるもの
」(100)と考 えた。一体、湖南 には利潤追求至上主 義の米国の企業家や 日本 の大資本家を嫌 うところが存在す るが、 それは儒教的倫理感 に基 づ くものなのか もしれない。儒教 について湖南 は次 のように言 う
。儒教が支那 を今 日の積衰積弱 に陥 らしめた といふ議論 は或 る点迄 は真実であ らう
。然 しそれ らの弊害があるにもかかは らず、儒教 によって長 い間支那の道徳が維持 された と いふ事 には、其 の原因がなければな らぬ
。初 めか ら儒教が支那 の社会組織 に内面的若 し くは対外的に、何等の効能がない ものなれば、今 日迄永続 して居 る道理がない。儒教が 今 日迄維持 された といふ其の原因が今 日に も存在 して居 るや否や、其の原因は支那 の社 会の成 り立 ちか ら除 り去 り得 るものなるや否や といふ ことを、歴史的に玩味 しな くては、
儒教排斥論 は甚 だ無価値 な もの といはねばな らぬ
。(101)三重大学 国際交流 セ ンター紀要
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中国の 「 郷 団」 自治 の中心 には儒教的家族主義があると湖南 は考えていたようであ り、
儒教 に対 して少 な くとも全面否定 していなか った ことはこの引用部分か らも推察 され るの である
。中国の将来 について湖南 は 「 農民」が中心 にな り、総合的文化生活が 「 将来の文化主体」
とな ると述べ、 それは 「 例へば 『 紅楼夢』 といふ小説 にあ らはれた貴族生活の如 き もので あ らうか と思 はれ る
」(102)と言 う
。ここに文化史家 と呼ばれ ることを好んだ湖南の心 的傾 向を見て取 ることができる
。湖南 には中国 に対す る敬意が存在 した。日清戦争以降、日本人 には劇的な変化が生 じた。
つ ま り、「 戦争 を歌 った詩の多 くは、士族階級 の伝統 に基づ き漢詩で書かれたが、漢詩文 は
す べ
戦争 たちまち 日本人 の教養 の中心 か らと り、 日本語 の古風 な変型 にす ぎない地位 にまで おとし
定 め られた。 日清戦争後 に教育 を受 けた 日本人 は、一般 に、 それ以前の教養人 のよ うな 自然 さでは漢詩文が書 けな くな り、四書五経 に基づ く語嚢 は、学者 の書 くものか らさえ、
徐 々にその姿 を消 してい った
」(103)のであ った。 日清戦争 を境 として 日本人 は中国文 明の 優越性 を疑 い、否定 さえ し始 めたのである
。そ うした時代状況の中で、湖南 は中国文明の 偉大 さを蔽 う
。将来、農民が中国の中心 となるであろうと述べ るところで も 「唯其 の農民 が文化階級 とな った時 に、その文化の主体が何物であるかは、世界の国民生活 に支那 よ り先 へ進んだ ものかな くて、我 々に暗示を与へ る所 の ものがないか ら、之を想像す るに苦 しむ のである
。」(104)( 傍点筆者)と中国の優越性を明言 している し、「 近代支那の文化生活」で は 「 結局 は支那人 といふ ものは自分の優越性 を大変認 めて居 る国民であ りますか ら、 ロシ アの真似 を して見 た り、その前 は日本の国会政治 を学 ぼ うとした りしま したが、結局支那 人 は自己の優越性 を認 めて、やは り従来の支那式 にす る方が宜 いといふ ことにな りは しな いか と思ふ
。」(105)と末尾で述べ中国の独 自性、 自尊心の強 さを尊重 している。
思 うに内藤湖南の 日本論 はその中国論 と不即不離 の関係 にあ り、それを裏付 ける 「 彼が 末代 を近世 として評価 し、隔唐 を貴族の時代 とす る中国史 の見方 はある意味で、貴族 の時 代 ( 平安) の克服 を近世 ( 江戸) とし、近世 の庶民文化が近代 ( 明治維新)へ と向か って い った とす る日本史の理解の投影 とも言え るのではなか ろうか
。」( 1 0 6 )という識者 の言 もあ る
。1 860 年代 に生 まれた明治青年の第二世代 としての湖南 は開かれた国粋主義者、また普遍 主義者 として中国論 を展開 した。湖南の独創性 は中国 と日本の両方を見すえなが ら、 それ ぞれの独 自性 を究明 していった点にある
。湖南の中国論 には中国に対す る感情的な差別の 色合 いが感 じられない。 それは湖南が時代の雰囲気 とは一線 を画す る、真の 自由人であ っ た ことによるのではないか。湖南の中国論 には現在で も傾聴すべ き点が多 々あると考え る
。‑ 40‑
四、結語
思 うに 日本人、 とりわけ、明治以降の 日本人 は欧米列強の外圧 に対 して どのように対処 す るかにつ いて苦慮 して きた感 があ る
。それ は大方 の認 め るところであろ う
。湖南 も関 係 した政教社 の特質 は外圧、欧化 に対す る反発 とともに、その外圧、欧化 を契機 として新 たな 日本論、「日本 的」なるものを創 出 しようと した点 にある。 もちろん、それは世界 の中 で一定の地位 を 占めることによって新たな支配者 とな る契機 とな った場合 もあったであろ うが、 内藤湖南 のよ うに新 しい中国論、 そ してそれ と不即不離 の 日本論 ( 逆 も又真) を創 出 した人 もいた。 こうした人 のいた ことを 日本 にいる我 々 (日本人 だけでな く日本 にいる 人 々) は誇 りに して もいいのではないか と思 う
。〔 注〕
(71)内藤湖南 の伝記 は主 と して (S.51)『内藤湖南全集』筑摩書房第14巻 の年譜 に依 った。
(72)三 田村 (S.47)p.138 (73)三 田村 (S.47)p.138 (74)三 田村 (S.47)p.133
(75)小川環樹責任編集 (1995)p.20 (76)三 田村
(77)『全集』
(78)『全集』
(79)『全集』
(80)『全集』
(81)『全集』
(82)『全集』
(83)『全集』
(84)『全集』
(85)『全集』
(86)『全集』
(87)『全集』
(88)『全集』
(S.47)p.147 第2巻p.135 第9巻p.ll 第9巻p.18 第9巻p.20 第9巻p.21 第9巻p.56 第9巻p.59 第9巻p.132 第9巻p.147 第9巻pp.23‑236 第9巻p.237
第9巻 [近代支那 の文化生活]p.126 (89)高木智見 (2001)p.41
(90)高木智見 (2001)p.42 (91)『全集』
(92)吉尾寛 (93)吉尾寛 (94)『全集』
(95)吉尾寛
第五巻 『支那論』一、君主制か共和制 かp.328 (2001)p.196参照。
(2001)p.198参照。
第五巻 『支那論 ・附録』p.425 (2001)p.199
三重大学 国際交流 セ ンター紀要
2008第
3号 ( 通巻第
10号)
(96)『全集』
(97)『全集』 (98)吉尾寛 (99)吉尾寛 (100)『全集』
(101)『全集』
(102)『全集』
第五巻 『支那論』三、 内治 問題 の一
地方制度
p.367第五 巻 『支那論』五、 内治 問題 の三 政治上 の徳義及 び国是p.396 (2001)pp.210‑211
(2001)p.212
第五巻 『新支那論』三、支那 の革新 と日本 東洋文化 中心 の移動p.511 第五巻 『新支那論』六、支那 の文化 問題 新人 の改革論 の価値p.540 第五巻 『新支那論』六、支那 の文化 問題 新人 の改革論 の無価値p.538 (103)ドナル ド・キー ン著 徳 岡孝夫訳 (1995)p.19
(104)同 (101)
(105)『全集』 第八巻 「近代支那 の文化生活」p.139 (106)蔑森健介 (2001)pp.272‑273
《参考 文献 ・引用文献》
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よしまる
(3)佐藤 能 丸 (1998)『明治 ナ シ ョナ リズムの研究 一 政教社 の成立 とその周辺‑』芙蓉書房 出版 (4)三宅雪嶺 (1924)第一次 『我観』「自分 の政治 関係」11月号
(5)三宅 雪嶺 (1933)『明治思想小史』岩波書店
(6)三宅雪嶺 (1895)「面棚偶語 (二)」第三次 『日本人』第5号 (1895) (7)中野 目徹 (1993)『政教社 の研究』思文 閣 出版p.28
(8)松本三之介 (S.55)「解題」(著者代表志賀重昂 発行者布川角左衛 門 (S.55)『明治文学全集 37 政教社文学集』筑摩書房所収)
(9)著者代表志賀重昂 発行者布川角左衛 門 (S.55)『明治文学全集37 政教社文学集』筑摩書房 (10)志賀重昂 (1888)「日本前途 の国是 は 「国粋保存 旨義」 に撰定せ ざるべか らず」
(
『日本人』第3号 (1888年5
月
3日))(ll)志賀重昂 (1888)「日本 国裡 の理想 的事大党」(『日本人』第5号 (1888年6月3日)) (12)志賀重昂著 (近藤信行校訂)(2001)『日本風景論』岩波文庫 岩波書店
(13)大 室幹雄 (2003)『志賀重昂 『日本風景論』精読』岩波現代文庫 岩波書店
(14)志賀重昂 (1921)「日本人 口の処分案」
(
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(16)鹿野政直責任編集 (S.46)『日本 の名著37 陸掲南 三宅雪嶺』 中央公論社
(17)本 山幸彦 (S.49)「調和 的人生論 とその根抵 一 三宅雪嶺 を中心 に ‑」(福沢諭吉等著 (S.49)
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(18)福沢諭吉 等著 (S.49)『現代 日本文学大系』筑摩書房 (19)『内藤湖南全集』筑摩書房 (‑ 『全集』)
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‑ 42‑
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1中央公論社
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内藤湖南研究会
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」( 子安宣邦
(2003)『日本近代思想批判』所収)
(35)