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本稿は、﹁顕智本﹂系﹁正像末和讃﹂に比して、大幅に増補された﹁文明版﹂系﹁正像末和讃﹂の編集をなした のは、親鷺以外の人物ではないか、という従来の指摘に対して、その編集は親鷺自身による可能性が極めて高い、 という根拠を書誌学的観点から論証するものである。 所謂﹁正像末和讃﹂は、親鷺の最晩年、しかもわずか数年の聞に構成・本文など大きく変貌を遂げている。そこ に親鷺自身による﹁和讃﹂の撰述過程をうかがうことができるのであるが、その中、特に﹁文明版﹂系の成立につ いては、現存形態のすべてを親驚自身が編集したのか、否か、未だ多くの問題が残されている。 言うまでもなく﹁一二帖和讃﹂は、各帖が同時期に撰述されたのではない。少なくとも﹁正像末和讃﹂の撰述につ いては、他帖とは全く別時であることは明確である。ところが従来﹁文明版﹂系は、三帖完備の本という理由から、 ﹁文明版﹂系﹁正像末和讃﹂の成立過程。
七﹁文明版﹂系﹁正像末和讃﹂の成立過程
。
/¥ その成立を一括に論ぜんとする傾向があったと思われる。それはこの系統には、各帖とも撰述年時を一示す奥書が存 在せず、唯一その成立を推測する手がかりとなるのが﹁正像末和讃﹂の﹁親鷺八十八歳御筆﹂という記載であった ことに起因している。このため﹁文明版﹂系は、三帖共に親鷺が最晩年まで手を加え続けたものであるという理解 が生じ、親鷺の最終稿本︵H完成本︶ であることを強調することによって、他の系統︵国宝本系・顕智本系︶に対 し優位性を保とうとする解釈がなされていたことは否めない。しかし﹁文明版﹂系﹁正像末和讃﹂の構成・本文等 に見られる特徴とは、あくまで﹁正像末和讃﹂の成立問題に該当する一つの視点であって、当然、他帖の成立年代 を積極的に立証しうるものではない。特に近年﹁文明版﹂系﹁浄土和讃﹂﹁高僧和讃﹂の成立は、﹁顕智本﹂系のそ れに先行するとの説が主張されていることからも、﹁正像末和讃﹂と他二帖の成立問題とは、根本的に分けて論ず ることを前提としておきたい。 では本論に入る前に、﹁文明版﹂系、﹁顕智本﹂系という呼称を明確にしておく。 所謂﹁文明版﹂とは、蓮如が文明五年︵一四七三︶ に開版した本を指す。この系統の現存本は、存如期の書写本 を最古とし、以降、東西本願寺の歴代宗主によって開版され、最も流布した本である。ここではこれらを総称して ︵5 ︶ ﹁文明版﹂系とする。これに対し﹁顕智本﹂とは、正嘉二年︵一二五八︶親驚八十六歳撰述の本を、正応三年︵一 二 九O
︶に顕智が書写したものと言われる。この系統に属する本は、﹁羽州本﹂をはじめ数本が現存しており、こ れらを総称して﹁顕智本﹂系とする。親鷺編集説と親鷺非編集説︵別人説︶
所謂﹁文明版﹂系﹁正像末和讃﹂が いつ、誰の手によって編集されたのか、 という点については、大きく二つの説に分けることができる。すなわち①親鷺編集説、②親驚非編集説︵別人説︶ で あ る 。 ﹁正像末和讃﹂構成比較図︵網掛けは増補箇所を示す。以下向。 文明版 讃 夢
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時 讃 首 悲歎述懐讃奥書一 刀 首 ↑ 日 首 な ど 一一
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日首 日首 顕智本 十般舟一夢告二二時讃国首 一 讃 文 一 讃 誠疑讃 ① 親鷺編集説 ﹁顕智本﹂系からの増補は、すべて親鷺自身が編集をなしたというもの。 この説は、主として教義学的解釈から支持されており、﹁文明版﹂系﹁正像末和讃﹂を親鷺の完成本として解釈 するところに特徴がある。ただし書誌学的には、﹁聖人の至極晩年の補訂であると思われるので、なお修正すべき ︵ 7 ︶ 点が残されて、しかもついにそのままとなったものがあるかもしれない﹂と、完成本という点には疑問を残してい る 。 ⑧ 親鴛非編集説︵別人説︶ ﹁顕智本﹂系からの増補は、親鷺が書き残した断簡などを後に別人が挿入したのではないかというもの。 ︵ 8 ︶ この説は、およそ次のような点を主張している。 ﹁ 文 明 版 ﹂ 系 ﹁ 正 像 末 和 讃 ﹂ の 成 立 過 程。
九﹁文明版﹂系﹁正像末和讃﹂の成立過程
。
︵ 一 ︶ ﹁ 顕 智 本 ﹂ 系 か ら の 増 補 箇 所 、 すなわち聖徳奉讃・善光寺讃・自然法爾章などは、親驚の著作であることは 認められるが、新たにその位置に挿入しなければならない理由が不明である。特に他の和讃に比して内容的に低調 だと評される善光寺讃は、親驚が書き残した未完の断簡が挿入された。 士二﹁文明版﹂系﹁正像末和讃﹂には、所謂撰号・署名に類するものが﹁愚禿善信集﹂、﹁愚禿善信作﹂、﹁釈親鷺 書之﹂、﹁親鷺八十八歳御筆﹂と四箇所あるが、その表記が﹁親驚﹂﹁善信﹂と不統一であり、またその記される位 置も不自然である。さらに自然法爾章の前には﹁:::御筆﹂と明らかに別人による書き込みがある。 ︵三︶﹁顕智本﹂系は﹁正嘉二歳・::・親鷺八十六歳﹂という撰述年時を示す奥書を有するが、﹁文明版﹂系にはそれ に該当するものがなく、また現存本も存如期のものを最古とし、親賢から年代的隔たりを持つものしかない。 このように、親鷺非編集説︵以下﹁非編集説﹂と略す︶とは、その根拠となる資料に基づくのではなく、﹁文明 版﹂系﹁正像末和讃﹂を親鷺の完成形態と見た場合に、特に増補箇所には不自然な点を有する、という疑義から生 じた説と言いうる。しかしこの説に対しては、近年書誌学的にも支持が高まっており、﹁文明版﹂系﹁正像末和讃﹂ の増補は、親驚の書き残した断簡などを後に別人が挿入した、という見解は学界の通説となりつつある感が強い。 以ド、この非編集説の持つ問題点を指摘し、全く新しい視点から﹁文明版﹂系﹁正像末和讃﹂の成立問題を解明 する手がかりを提示したい。 非 編 集 説 に 見 落 と さ れ た 視 点 別 人 が 挿 入 し た 、 ここでまず確認しておきたいのは、従来の非編集説では、所謂増補箇所とは、親驚が書き残した断簡などを後に と考えているという点である。つまり和讃の本文を撰述したのはあくまで親驚自身であり、そこ︵ 9 ︶ には基本的に別人の子が加わっていないという理解である。このことを念頭において﹁顕智本﹂系と﹁文明版﹂系 の本文を比較対照すると、多くの異文が存在することを指摘できる︵論末︻参考資料︸参照︶。特にこの中には、 親驚晩年の用語改訂の特徴となる﹁衆生﹂から﹁有情﹂ への訂正が二箇所見られることから、明らかに﹁顕智本﹂ 系の祖本︵正嘉二年撰述の本︶が成立した後に、親驚自身によって本文が改訂された箇所を有すると判断できる。 この視点から、仮にか非編集説。を支持した場合、次のような本の存在を想定せねばならないと考える。 讃 文 一 讃 お 首 悲 歎 述 懐 讃 一 奥 書 一 な ど 日 首 ﹁ 顕 知 日 本 ﹂ 系 般 舟 一 夢 告 ニ 時 讃 時 首 一 誠 疑 讃 〈一一 親鷺による本文改訂︵衆生←有情など ︿ 本 文 改 訂 本 ﹀ 増補される前の状態 ‘一ー 別人による増補︵聖徳奉讃・善光寺讃など ﹁ 文 明 版 L 系 讃 夢 £と 仁1 時 讃 58 首 一 誠 疑 讃 一 一 お 首 一 聖 徳 奉 讃 悲 歎 述 懐 讃 日 首 日 首 「…一一一一一一寸 讃 善 5 光 首 寺 L一一一一一一」 讃 白 文 然
2
法 首 爾 章 つまり非編集説を支持した場合、﹁顕智本﹂系から﹁文明版﹂系へと変遷する聞に、親鷺自身が本文を改訂した 本、言わば︿本文改訂本﹀が存在し、その本に対して別人が和讃を増補したという成立状況を想定せねばならない はずである。ところが、従来非編集説において、この︿本文改訂本﹀の存在について具体的論拠を示したものは皆 ﹁文明版﹂系﹁正像末和讃﹂の成立過程﹁文明版﹂系﹁正像末和讃﹂の成立過程 無 で あ り 、 また現存資料からは︿本文改訂本﹀はおろか、 そうした本が存在したことを示唆する手がかりすらなか っ た 。 すなわち非編集説は、︿本文改訂本﹀の存在を立証できない、 何故この説は高い支持を得ることができたのであろうか。 という欠点を持つ訳であるが、にもかかわらず、 実は、この説を支える根底には、現存諸本中、増補箇所には、異文、すなわち親鷺自身による本文改訂の痕跡が 存在しない、という点があったからだと言える。詳述すると、従来の非編集説とは、両系統の聞に多くの異文を指 摘できるにもかかわらず、増補箇所は別人が編集したと推測していた訳である。よってこの推測が成り立っために は、当然、増補箇所には異文が存在しないという点が条件になる。また実際に、この増補箇所を有する本、すなわ ち﹁文明版﹂系諸本には異本が存在しないという大前提があった。 い う 点 を 根 拠 に す れ ば 、 つまり増補箇所に限つては異文が存在しないと たとえ︿本文改訂本﹀の存在を立証できなくとも、和讃を増補したのは別人ではないか、 という推測が可能であったのである。 このような非編集説の持つ問題点を踏まえると、もし増補箇所に親驚自身によって本文改訂されたと判断できる 異文を持つ本が存在し、それが﹁文明版﹂系の本文の成立より先立つと立証できれば、非編集説を否定する見解と なりうると思われる。一言うならば、先の︿本文改訂本﹀の位置に該当する﹁文明版﹂系の構成に近いか異本。の存 在を現存資料から立証できればよいということである。 以下か﹁河州本﹂系﹁正像末和讃﹂に記された︿異本﹀の校合箇所。という新たな資料によって、非編集説を否 定する見解を提示する。
四
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河
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本
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系について
所蔵先からそのように名付けたもので、この系統の本は、 所謂﹁河州本﹂とは、大谷派講師であった深励︵一七四九1
一八一七︶が、大阪府慈願寺に蔵する本について、 それ以前﹁坂東和讃﹂と称されていたようである。現存 本の多くは室町時代︵末期︶に書写されたものであり、興正派・悌光寺派では現在も蔵版として使用されている。 この﹁河州本﹂系の特色については、既に拙稿﹁三帖和讃成立の研究||﹁河州本﹂の特色について||﹂︵宗 学院論集日︶に詳細に論じたため、本稿ではその要点のみ記しておく。 尚、本稿で比較対照したのは、以下の六本である。①興正派興正寺蔵本︵興正寺本︶、②大阪府慈願寺蔵本︵慈 願寺本︶、③龍谷大学蔵本︵坂東和讃︶、④大阪府顕証寺蔵本︵顕証寺本︶、⑤大阪府真宗寺蔵本︵真宗寺本︶、⑥石 ー リ 底 本A
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C D H日対校本 B C d Em
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﹁文明版﹂系﹁正像末和讃﹂の成立過程一
﹁文明版﹂系﹁正像末和讃﹂の成立過程
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匹l 川県本浄寺蔵本︵本浄寺本︶。以下、これらを総称して﹁河州本﹂系 とする︵翻刻には﹁興正寺本﹂を用いた︶。 誠疑讃末尾の校合箇所 ここで﹁河州本﹂系について、 その構成・本文・左訓を、他系統 ︵ 文 明 版 系 ・ 顕 智 本 系 ・ 国 宝 本 系 ︶ と詳細に比較対照すると、この系 統は、書誌学的に判断して、複数の系統の本が校合されることによっ ︵ ロ ︶ て、その特徴が混ぜ合わされた﹁混合本﹂であると位置づけられる。 では、この混合本とは如何なる特徴を持つ本なのか説明しておきたい。 図︵前頁︶に示したように、例えばそれぞれ系統を異にする三種の 本が存在したとし、﹁I
﹂を底本とし、﹁ H ﹂ ﹁m
﹂で校合すると、そ 興正寺本 の結果﹁ N ﹂という三本の構成の特徴をすべて備え、 しかも重複する 箇所が校合された本ができる。これが混合本である。所謂﹁河州本﹂ 系とは三帖ともに、すべてこの混合本に該当する。 1 ここで、問題の﹁河州本﹂系﹁正像末和讃﹂が混合本である根拠を示しておく。 構成に複数の本の特徴があらわれている。讃 般
文 舟讃 夢
正と 時 讃 58 首 誠疑讃 一 聖 徳 奉 讃 「一一一一一ー 讃 善 5 光 首 寺 讃 白 文 然 2 法 首 爾 章 の 四 j、
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声 例 点 悲歎述懐讃 お 首 日 昔 臼 団 法 臼 先に示した﹁正像末和讃﹂構成比較図と比べれば明らかなように、﹁河州本﹂系の構成には、両系統のそれぞれの特徴があらわれている。 2 和讃の本文の傍らに異本の校異︵本文と同筆︶ 限り、複数の系統の本を用いている︵後述する︶ が 多 数 記 さ れ て お り 、 しかもそれらが現存本から判断する と 考 え ら れ る 。 仔 リ −誠疑讃の末尾の記載 ︵ 興 正 寺 本 写 真 参 照 ︶ ﹁文明版﹂系の﹁己上二十三首保不思議:・﹂の文に続いて、﹁顕智本﹂系の﹁己上疑惑罪過二十二首・:﹂ の 文 が 校 合 さ れ る 。 ﹁衆生﹂と﹁有情﹂︵三時讃三十七首目と五十二首目︶ 顕智本系 ﹁ 衆 生 ﹂ 文明版系 ﹁ 有 情 ﹂ 河州本系 ﹁ 有 情 ﹂ の語の傍らに﹁衆生﹂と校合される。 3 左訓にも複数の本の特徴があらわれており、 しかも内容の異なる左訓については併記︵混合︶ ︵ 日 ︶ さ れ て い る 。
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− 三 時 讃 二十二首目 第四句 本文﹁煩悩菩提一味ナリ﹂ 顕智本系 アンラクシヤウトニムマレヌレハアクモセンモヒトツアチワイトナルナリ 文明版系ホムナウトクトクトヒトツニナルナリ 河州本系ホムナウトクトクトヒトツニナルナリアンラクシヤウトニムマレヌレハアクモゼンモヒト ツアチワイトナルナリ 以上、特に ︵2
︶ の例によって、﹁河州本﹂系﹁正像末和讃﹂は、﹁文明版﹂系を底本とし、﹁顕智本﹂系によっ は両系統が混合されたため生じた特徴だと考えられる。 ︵1
︶ ︵3
︶ て校合が行われていることがわかり このような特徴は本稿にて比較対照した﹁河州本﹂系諸本にほぼ共通してあらわれるのであるが、 し か し 、 以 下 ﹁ 文 明 版 ﹂ 系 ﹁ 正 像 末 和 讃 ﹂ の 成 立 過 程 五﹁ 文 明 版 ﹂ 系 ﹁ 正 像 末 和 讃 ﹂ の 成 立 過 程 ~ ノ 、 の一覧に示す三本︵興正寺本・慈願寺本・坂東和讃︶ に限つては、現存する何れの系統にも該当しない校合箇所お よび左訓を多数抽出することができる。 五
︿
異
本
﹀
の存在証明とその意義
所謂﹁河州本﹂系﹁正像末和讃﹂は混合本であるため、本文の傍らに多くの校異が記されている。ところがこの 中三本に限り、﹁文明版﹂系・﹁顕智本﹂系︵および﹁国宝本﹂など︶の何れの本文にも該当しない校合箇所が多数 あらわれることがわかる。また左訓についても同様に、全く異系統と判断できる箇所を抽出できることから、未見 の︿異本﹀が校合に使用されたと判断できる。今、 それらを一覧で表示する。O
﹁河州本﹂系﹁正像末和讃﹂に記された︿異本 v の校合箇所・左訓一覧 註 ① ﹁河州本﹂系の校合箇所・左訓の翻刻には﹁興正寺本﹂を用いた。尚、上段に翻刻した﹁文明版﹂系と﹁河州 本﹂系の本文とは仮名遣いなど若干の相違を除きほぽ同文である。 ② 讃名・首・句については﹁文明版﹂系の構成順に従い便宜上付した。尚、讃名の上の※印は、﹁顕知日本﹂系から の 増 補 箇 所 を 示 し て い る 。 ③ 下段に﹁河州本﹂系諸本における該当個所︵校合筒所・左訓︶ の 有 無 をO
× で 記 し た ︵ 欠 H 落 丁 ︶ 。 ︷ 校 合 箇 所 ︼ 讃 名 首 句 ﹁ 文 明 版 ﹂ 系 本 文 ﹁ 河 州 本 ﹂ 系 校 合 箇 所 興 正 慈 願 坂 東 顕 証 真 宗 本 浄 時 讃 3 3 像季末法ノコノ世ニハ lili − − 1 1 ヨ リ0
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× × ×誠疑讃 ※聖徳奉讃 悲歎述懐讃 ※善光寺讃 ※善光寺讃 ※ 主 口 光 寺 讃 ※善光寺讃 ※善光寺讃 ※善光寺讃 ※善光寺讃 ︷ 左 訓 ︼ 讃 名 三時讃 三時讃 誠疑讃 誠疑讃 誠疑讃 悲歎述懐讃 日 目 2 疑惑ノ心ヲモチナカラ 4 聖徳皇ノアハレミテ 3 4 虚仮ノ行トソナツケタル 2 ワレラヲアハレミマシノ︷\テ 1 3 ナニハノウラニキタリマス 1 4 御名ヲモシラヌ守屋ニテ 2 3 守屋カタクヒハミナトモ 2 4 ホトヲリケトソマフシケル 5 1 弓削ノ守屋ノ大連 5 2 邪見キハマリナキユへ 首 句 ﹁文明版﹂系本文 特 4 久遠劫 訂 3 親友
ロ
1 疑惑 16 2 疑惑ヲ帯シテ 日 4 胎ニ処スル 2 4 好詐 ﹁ 文 明 版 ﹂ 系 ﹁ 正 像 末 和 讃 ﹂ の 成 立 過 程 仏智疑惑ノ心ナカラ l l 太子 111111 1111 者トナツケタリ トキノ有情ヲアワレミテ ナニハノミヤコニキタリマス ユウノモリヤ大臣シラヌユへ モリヤノ大臣マブシケリ ソノユヘホトオリケトソマフシケル 111111 大 臣 ハ 外道ノ大主タルユへ ﹁河州本﹂系左訓 ヒサシクトヲク シタシキトモトヨロコヒタマブナリ ウタカヒマトウナリ コ、ロニモテルナリ ハラマレルニタトヘタリ。
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イツワリへツラウコ、ロノミオホシト0
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ナ リ 七 × × ×。
欠 × × × × × × × × × × ×悲歎述懐讃 4 1 無慨無悦 ﹁文明版﹂系﹁正像末和讃﹂の成立過程 × × × ※悲歎述懐讃
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3 奴舛僕使 ※悲歎述懐讃 高位 15 4 }\ テンニハツルコ、ロナシヒトニハツルO
コ、ロナシトナリ。
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オトコオムナカリツカワル、モノ、ナ0
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トシタリ × × × タカキクラヰノヒトヲ0
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× × × この一覧によって明らかなように、下段に記した﹁河州本﹂系諸本の中︿異本﹀と判断できる校合箇所を持つ本納 骨 勝 記
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芸。毒事与婦を
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常 持 集
は、同様に左訓も異系統のものを抽出できる。また先に例示したように、 ﹁河州本﹂系は、明らかに﹁顕智本﹂系の本文・左訓が校合されていると 善光寺讃五首目の校合箇所 判断できるが、この﹁顕智本﹂系の特徴︵校合箇所・左訓︶ は 、 ﹁ 河 州 本 ﹂ 系諸本にほぼ共通してあらわれることから、この︿異本﹀に限つては、校 合された本とされなかった本があると判断できる。すなわち﹁河州本﹂系 の中この三本については、﹁顕智本﹂系とは別に︿異本﹀が校合されたと 言 う こ と で あ る 。 また︿異本﹀と判断できる箇所が、所謂三時讃から善光寺讃まで、 つ ま の構成全体から抽出でき、 しかも一覧に※印を付した り ﹁ 正 像 末 和 讃 ﹂ 興正寺本 ﹁顕智本﹂系からの増補箇所にも多くの異文が存在することがわかる。 よってこの︿異本﹀は﹁顕智本﹂系から増補され、﹁文明版﹂系に非常 に近い構成を持っていたと判断できる。 では、右の一覧から、﹁文明版﹂系との前後関係を導き出すことは可能であろうか。ここで善光寺讃第一、二、 ﹁文明版﹂系本文 善 光 寺 ノ 如 来 ノ ワ レ ラ ヲ ア ハ レ ミ マ シ ノ ︷ \ テ ナニハノウラニキタリマス 御 名 ヲ モ シ ラ ヌ 守 口 陀 ニ テ ソノトキホトヲリケトマフシケル 疫痛アルヒハコノユヘト 守屋カタクヒハミナトモ ホトヲリケトソマブシケル 五弓削ノ守屋ノ大連 邪見キハマリナキユへ ヨロツノモノヲス、メント ヤスクホトケトマフシケリ 五首目に記された校合箇所に注目してみたい。︵興正寺本写真参照︶ ︿異本﹀校合箇所 ユ ナ } ト ケ ニiキ ノ ノ 怜 ノ モ ノ
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ア 臣jニ ワ シ キ レ ラ タ ヌ リ テ ニL ぺr ヘ ス モリヤノ大臣マフシケリ 1 ソ 1 ノl
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オ ハ リ ケ ト ソ 守ア プ シ ケ lレ 外 道 ノ 大 主 タ ル ユ へ ︵ A ︶ お お む ら じ だ い じ ん 物部守屋の地位をあらわす﹁称号﹂の相違li
﹁大連﹂と﹁大臣﹂li
︿異本﹀校合箇所に三箇所﹁大臣﹂と記されている。 で あ る 。 ところが︿異本﹀では、守 屋討伐後﹁大連﹂ 周知のごとく、物部守屋の大和朝廷における地位をあらわす称号は﹁大連﹂ の語が使用されている 校合箇所に ﹁文明版﹂系﹁正像末和讃﹂の成立過程 の称号が廃され、大化︵六四五︶以降用いられた﹁大臣﹂ 九﹁文明版﹂系﹁正像末和讃﹂の成立過程
。
﹁タイシム﹂と振り仮名︶。この点︿異本﹀の本文は、明らかに誤った表現が使用されていることから、︿異本﹀の 誤記を﹁文明版﹂系で訂正したと判断できる。 尚、この誤記が生じた原因であるが、これは親鷺がこの和讃を撰述する際参照したと言われる﹃善光寺縁起﹄の ︵ 同 ︶ 本文自体にあると考えられる。この本の本文は何れも守屋に対する称号を﹁大臣﹂と記しており、それをそのまま ﹁和讃﹂にしたためこのような誤記が生じたのではないかと思われる。 ︵ B ︶ 場所の相違||﹁ナニハノウラ﹂と﹁ナニハノミヤコ﹂|| ︿異本﹀校合箇所に﹁ナニハノミヤコ﹂と記されている。 所謂、善光寺の一光三尊阿弥陀如来の伝来については、欽明天皇十三年︵五五二︶十月十三日に百済の聖明王の はからいによって摂津の難波の浦に入らせられた、 と伝承されている。﹁文明版﹂系は、この伝承によって﹁善光 寺ノ如来﹂が﹁ナニハノウラニキタリマス﹂と讃じていると考えられるが、︿異本﹀では﹁ナニハノミヤコ﹂と場 所が相違している。この﹁ミヤコ﹂とは、 お そ ら く ﹁ 難 波 宮 ﹂ のことと推測されるが、これは大化以降の造営であ ることから、実年代には存在しない場所が記されていることになる。 よって ︵A
︶ と同様、︿異本﹀の誤記を﹁文 明版﹂系で訂正したと判断できる。 ︵ C ︶ ﹁ 有 情 ﹂ ︿異本﹀校合箇所に﹁有情﹂と記されている。 こ の ﹁ 有 情 ﹂ の語は、親鷺晩年の用語改訂の特徴となる語であり、 およそ建長七年三三五五︶以降、 それまで 使用していた﹁衆生﹂ の 語 を ﹁ 有 情 ﹂ へ と 改 め た 、 というのが通説である。この点、少なくとも︿異本﹀善光寺讃の本文成立は、親鷺晩年と判断できる。また上記︵
A
︵B
︶より︿異本﹀の﹁トキノ有情﹂を﹁文明版﹂系で ﹁ワレラ﹂と改めていると判断できることから、﹁文明版﹂系の本文の成立はさらに下がると言えよう。 ー I l l i − − Il − − I l l i t − − I l l i − − 1 1 ︵ 打 ︶ 以上より、この︿異本﹀は、﹁文明版﹂系の成立に先立つ本であると考えられる。 ここで︿異本﹀についてまとめると、以下のように図示することができる。 ﹁ 顕 智 本 ﹂ 系 般舟一夢告一三時讃 回 首 一 誠 疑 讃 お 首 讃 文 一 讃 悲 歎 述 懐 讃 一 奥 書 日 昔 日 な ど ‘一一 聖徳奉讃・善光寺讃などの増補および本文改訂 但し前後は校合箇所がないため不明︶ ︿ 異 本 ﹀ 〈一一 ﹁ 文 明 版 L 系 す一一一時讃 日 首 「一一一「 誠 疑 讃 一 誠 疑 讃 一 一 お 首 一 「一一一一一一「 聖 徳 奉 讃 ト一一十→ 悲 歎 述 懐讃
「一一一一一一寸 善 光寺
讃 「一一一一一ー 聖 徳 挙 讃 「一←一一一一 悲 歎 述 』懐 讃 讃 自 文 然 2 法首 爾
主 主 善光寺 日 首 国 首 讃5
首
... 』.,
、
むすび||﹁文明版﹂系﹁正像末和讃﹂を編集したのは誰か
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﹁ 文 明 版 ﹂ 系 ﹁ 正 像 末 和 讃 ﹂ の 成 立 過 程 このように︿異本﹀を位置づけた場合、﹁顕智本﹂系←︿異本﹀←﹁文明版﹂系へと変遷する過程で、果たして﹁文明版﹂系﹁正像末和讃﹂の成立過程 これほど段階的な増補・本文改訂を親鷺以外の人物がなすことが可能なのであろうか。 ここで非編集説について再度確認しておきたい。 上述したように、非編集説では、﹁顕智本﹂系からの増補箇所は、親鷺が書き残した断簡などを後に別人が挿入 したと考えていた。つまり和讃の本文を撰述したのはあくまで親鷺自身であり、そこには基本的に別人の子が加わ っていないという理解である。よって﹁顕智本﹂系と﹁文明版﹂系との聞に指摘できる本文の相違とは、書写系統 上に発生しうる誤写の範暗に属するものを除き、親驚によって改訂されたと考えることができた。 この点に着目すると、非編集説が成り立っためには、﹁顕智本﹂系から別人が増補する前に、親驚自身が本文を 改 訂 し た 本 、 すなわち︿本文改訂本﹀の存在を想定せねばならないのであるが、現存資料からはそうした本の存在 を立証することは不可能であった。このことから非編集説における一連の主張を支える唯一の根拠となっていたの は、現存諸本中、増補箇所には親驚による本文改訂の痕跡と判断できる異文が存在しない、という点であった。 これに対して、︿異本﹀とは、以下の特徴を指摘できる。 ①問題の増補箇所を含め、﹁正像末和讃﹂の全体にわたり多くの異文を指摘できることから、﹁顕智本﹂系から聖 徳奉讃・善光寺讃などが増補され、﹁文明版﹂系に非常に近い構成を持つ。 ②増補箇所に、明らかに本文を改訂する理由を指摘できることから、﹁文明版﹂系の成立に先立つ。 ③本文に﹁有情﹂の語が使用されている点から、親驚晩年に成立している。 このことから、非編集説における一連の主張を支える唯一の根拠は失われることになり、﹁顕知日本﹂系←︿異本﹀ ←﹁文明版﹂系へと変遷する過程でなされた増補・本文改訂をなしうる人物は、親鷺自身である可能性が極めて 高いと判断できる。この点、現存する﹁文明版﹂系﹁正像末和讃﹂の構成とは、親鷺の意思が反映されていると考 えることが可能であるが、ではここで、﹁文明版﹂系を親鷺の完成形態として見た場合に、特に増補箇所には不自
然な箇所を有する、 という非編集説の主張を如何に解釈するかが問われると思われる。 おそらくこれについては、﹁文明版﹂系﹁正像末和讃﹂とは、親鷺によって編集された最終形態を伝承するもの であっても、決して﹁完成本﹂として位置づけられるものではない、という視点から説明が可能ではなかろうか。 すなわち﹁文明版﹂系には、撰述年時を示す根本奥書が伝承されていない点がかえってそのことを示していると ︵ 初 ︶ 思われ、また撰号・署名の不統一・不自然さなどは、﹁顕智本﹂系からの増補・本文改訂時に、それまでに書きた ︵ 引 ︶ めていた﹁和讃﹂をそのままの状態で挿入した際に生じたものが、結果的に−訂正されなかったということである。 またそれは、親驚最晩年に行われているという事実からも想像に難くないと思われる。 以上、﹁文明版﹂系﹁正像末和讃﹂は、親鷺の意思が反映された最終形態を伝承するものと考えられるが、 それ は未だ訂正の余地を残した本であり、 それらが結果的に訂正されることなくそのままとなった、 言わば﹁未完成 本﹂ではないかと思考する。 註 ︵ 1 ︶以下﹁顕智本﹂については、﹃影印高田古典﹄第二巻︵真宗高田派教学院編︶所収本を参照。 ︵ 2 ︶以下﹁文明版﹂については、﹁龍谷大学善本叢書﹄第二一巻︵龍谷大学仏教文化研究所編︶所収本を参照。 ︵3︶こうした﹁文明版﹂系﹁正像末和讃﹂の成立に対する疑義については、最初期の学匠、慶秀︵一五五八
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一 六O
九︶の﹃三帖和讃私記﹄にすでに指摘されており、以降、多くの学匠がこの問題を取り上げている。尚、近年注目 される論文としては、常磐井和子﹁正像末法和讃の成立に関する試論﹂︵高田学報七O
号︶、多屋頼俊﹁三帖和讃の 本 文 に つ い て ﹂ ︵ ﹃ 和 讃 の 研 究 ﹄ 所 収 ︶ な ど が 挙 げ ら れ る 。 ︵4︶常磐井和子﹁三帖和讃の諸本について﹂︵真宗研究三三号︶参照。 ︵ 5 ︶﹁文明版﹂系﹁正像末和讃﹂に属する古写本としては、金沢専光寺蔵永享九年存如書写本、大谷派本願寺蔵伝存 如書写本、本派本願寺蔵永享八年蓮如書写本、同蔵文安六年蓮如書写本、同蔵長禄二年蓮如書写本、滋賀県円徳寺 蔵享徳二年蓮如書写本など、その他多数が現存する。 ︵ 6 ︶﹁顕智本﹂系﹁正像末和讃﹂に属する古写本としては、 酒 田 浄 福 寺 蔵 江 戸 時 代 書 写 本 ︵ 羽 州 本 ︶ 、 東京都田中氏 ﹁ 文 明 版 ﹂ 系 ﹁ 正 像 末 和 讃 ﹂ の 成 立 過 程﹁ 文 明 版 ﹂ 系 ﹁ 正 像 末 和 讃 ﹂ の 成 立 過 程 四 蔵江戸時代書写本︵この本は常磐井和子﹁御草稿三帖和讃の評価と正像末法和讃の新出善本﹂︵高回目子報七六号︶ にて紹介された︶、三重中山寺蔵真慧書写本、岡崎満性寺蔵室町時代書写本︵計二本あり︶などが現存する。尚、 上記﹁羽州本﹂は前掲﹃龍谷大学善本叢書﹄第二一巻に掲載されている。 ︵7 ︶宮崎円遵﹁正像末和讃私記﹂︵﹃真宗書誌学の研究﹄所収三四四頁︶。 ︵ 8 ︶常磐井和子、多屋頼俊前掲論文等参照。 ︵ 9 ︶例えば、常磐井氏は前掲﹁正像末法和讃の成立に関する試論﹂︵同一一五頁︶において非編集説を主張した後 に﹁百首に近い和讃の本文内容については
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これが最も大事なことであるが||、後人の手が加わったり、不純 な要素が混じったりしていることは殆どないようである﹂と結んでいる。 ︵叩︶﹁坂東和讃﹂については、拙稿コ二帖和讃成立の研究||﹁河州本﹂の特色について||﹂︵宗学院論集七四号 九八頁以降︶に資料を挙げ解説している。 ︵日︶輿正寺に蔵する室町期の古写本は、所謂ゴニ帖和讃﹂に﹁正信偶﹂・﹁文類偏﹂を加え五帖として同一箱に保管さ れている。これらはすべて同筆であると判断でき、包紙︵正信備のみ︶右下に﹁蓮秀﹂︵本文と別筆︶と記されて いることから、蓮秀︵蓮教︵経一一︺の息男在職一四九三1
一五五二︶の所持本であったと伝えられている。 ︵ロ︶﹃日本古典籍書誌学辞典﹄︵一二二三頁上段︶には﹁雑多な異文系統の本文が混入している本。書写の純粋性がそ こなわれている。校訂本は他本と対校し、勘案して文意の通る本文を合成修正して作成されるが、それが書写系統 を異にする雑多な写本の、しかも任意に選択した異文で修正した場合、その校訂本の本文の書写の純粋性は保たれ ない。これを混合本という﹂とある。 ︵日︶︵日︶︵日︶﹁河州本﹂系の構成・本文︵校合箇所︶・左訓の特徴については、前掲拙稿︵同一OO
頁以降︶参 昭 ⋮ 。 尚、本稿にて比較対照した﹁河州本﹂系﹁正像末和讃﹂の中﹁顕証寺本﹂については注意を要する。この本は、 他本に比べて校合箇所が少なく、また構成に﹁般舟讃文﹂﹁四声点の凡例﹂がないなど、成立状況が異なる可能性 がある。但し左訓については﹁文明版﹂系と﹁顕智本﹂系それぞれの特徴があらわれており、他本と同様に﹁顕智 本﹂系が校合されていると判断できる。一時、この本をもって﹁文明版﹂系に先立つ本︵御草稿和讃︶と評価され ていたが、この本も﹁混合本﹂であることを付しておく。 ︵凶︶﹁善光寺縁起﹄には、例えば﹁守屋大臣悪逆徐身﹂︵﹁大日本仏教全書﹄ 一 二O
巻 二一頁︶と、守屋に対して﹁ 大 臣 ﹂ の 称 を 用 い て い る 。 ︵口︶仮に﹁文明版﹂系以降に︿奥本﹀が成立したと考えた場合、﹁文明版﹂系の﹁正﹂をわざわざ﹁誤﹂に変更した ことになる。このような訂正が加えられることは考え難い。 ︵凶︶﹁顕智本﹂系から︿異本﹀へと変遷する過程で本文改訂が行われたという指摘には、疑問が生ずるおそれがある ため、少し説明を加えておきたい。 先に示した﹁︿異本﹀校合箇所一覧﹂の中、※印を付した﹁顕智本﹂系からの増補筒所以外は、基本的に﹁文明 版﹂系と﹁顕知日本﹂系は同文である。また︿異本﹀は両系統の聞に位置づけられることから、例えば﹁顕知日本﹂系 の ﹁ a ﹂という本文が、八異本﹀で﹁ b ﹂に改訂され、さらに﹁文明版﹂系で﹁ a ﹂に一炭されるという改訂が行わ れたと判断できる。このような例は、所謂特例ではなく﹁浄土和讃﹂における﹁国宝本﹂系←﹁顕智本﹂系←﹁文 明版﹂系という成立過程においても、数カ所同例が見られることから、むしろ親鷺における推敵の痕跡と見るべき であると考える。また近年﹁文明版﹂系が﹁顕智本﹂系に先立つという説もあるが、この視点からも同例が見られ る こ と を 付 し て お く 。 よって少なくとも﹁顕智本﹂系から︿異本﹀への変遷とは、単に﹁和讃﹂が増補されただけでなく、本文の改訂 も行われていたと考えられる。 ︵凹︶この︿異本﹀の存在を踏まえた上で、なお和讃を増補したのは別人であると考えた場合、︿異本﹀と﹁文明版﹂ 系の聞に存在する本文の相違については全く説明ができないと思われる。たとえ先に指摘した本文を改訂すべき箇 所︵大臣←大連など︶は、別人が内容の誤りに気づき改鼠したという状況を想定した場合でも、それ以外に存在す る多数の異文まで別人が手を加えなければならない根拠は見いだせない。 ︵却︶特に﹁愚禿善信・:﹂の記載について、常磐井氏は前掲﹁正像末法和讃の成立に関する試論﹂において﹁善信﹂の 記載例が﹁文明版﹂系以外には﹁御消息﹂にしかなく、その他親驚の著述は基本的に﹁愚禿︵釈︶親驚﹂等と記さ れているという点を根拠として、この記載は別人が書き加えたものではないかと推測している。しかし例えば﹃一 念多念分別事﹄には﹁建長七︷乙卯︸四月廿三日愚禿釈善信︷八十/三歳︸書写之﹂と﹁愚禿釈善信﹂の記載を 有する本が伝承されている︵この奥書を持つ古写本は大谷大学︹端坊旧蔵︶蔵本、大阪光徳寺蔵本、愛知聖徳寺蔵 断簡等がある︶。このことから﹁善信﹂の記載をもって後世の補筆だとする根拠にはならないと考える。 ︵幻︶勿論﹁文明版﹂系に、後世の補筆が全くないとは考えていない。例えば自然法爾章の前の﹁親驚八十八歳御筆﹂ ﹁ 文 明 版 ﹂ 系 ﹁ 正 像 末 和 讃 ﹂ の 成 立 過 程 五
﹁ 文 明 版 ﹂ 系 ﹁ 正 像 末 和 讃 ﹂ の 成 立 過 程 ム ノ、 の﹁御筆﹂については、明らかに別人の書き入れだと判断している。確かにこの記載は問題を有するが、 って自然法爾章を挿入したのは別人であるという根拠にはならないと考えている。 ︻ 参 考 資 料 ︼ 讃 名 ﹁正像末和讃﹂顕智本・文明版の主な本文相違箇所 句 顕 智 本 文 明 版 二 時 讃 三時讃 三時讃 三時讃 三時讃 三時讃 三時讃 三 一 時 讃 誠疑讃 悲歎讃 悲歎讃 悲歎讃 悲歎讃 首 1 6 6 55 54 52 37 33 9 1 5 11 9 1 釈尊 悪龍毒蛇 ヲコノムユへ 弥陀釈迦 衆生 衆生 ムネトセリ 遺法 ウタカヒノツミノ コ ノ ミ ニ テ オモプヘキ 僧ソ法師トイフ御名ハ コトトシテ これをも 両本の本文相違については、その他一字のみの相違を含めると、さらに多数挙げられるが、それらは章一日写系統上 に発生しうる誤写である可能性を否定できないため掲載しなかった。尚、一二時讃六首日﹁顕知日本﹂の﹁悪龍毒蛇 L は誤写であるとの説もあるが、本文傍らに﹁:・アクリウトクシヤノヤウニナルナリ﹂と左訓があることにより本文 の 相 違 と 判 断 し た 。 また、三時讃三十首目第四句には、﹁顕智本﹂は﹁信者ソタマワレル﹂、 釈迦如来 毒蛇悪龍 マ サ ル ユ へ 釈迦弥陀 有情 有情 ムネトシテ 教法 ウタカフツミノ ワカ身ニテ オモフマシ 僧ソ法師ノソノ御名ハ モトトシテ 4 3 1 2 4 2 1 3 3 2 1 3 ﹁ 文 明 版 ﹂ は ﹁ 行 者 ノ 身 一 一 ミ テ リ ﹂ と 大
きな相違が見られるが、この﹁文明版﹂の本文については、常磐井和子﹁三帖和讃の諸本について L ︵ 真 宗 研 究 三 二号︶に、後世に﹁高僧和讃﹂︵御自筆浄土和讃下巻︶末尾の一首が校訂されたのではないかという問題が指摘さ れているため掲載しなかった。 ︵付記︶本稿執筆にあたり、この︿異本﹀の本文を持つ現存本の行方を探し求めたが、 発表を期になんらかの情報が得られれば幸甚である。 最後になったが、写真掲載をご了示ドさった興正派興正寺様には記して謝意を表したい。 未だ発見に至らないでいる。この ﹁ 文 明 版 ﹂ 系 ﹁ 正 像 末 和 讃 ﹂ の 成 立 過 程