中井履軒『左九羅帖 『画觽』本文・注釈
さ く ら じ ょ う』
え く じ り湯城吉信
サイズ「
『
画觽』縦
25.0
㎝、横
17.0
㎝ 『左九羅帖』縦
、
28.5
㎝、横
17.1
㎝
」
作者は先に、中井履軒『画觽』の翻刻を発表した( 中井履軒『画觽』翻刻・解説 『懐
えくじり「
」
徳堂センター報』二〇〇七、大阪大学 。本稿では、それに『左九羅帖』の画と注釈、余
)
さ く ら じ ょ う説を付けた完全版を提供したい。
、
、
『
』
、
幅広い興味を有していた江戸時代の儒者 中井履軒は
左九羅帖 という画冊および
さ く ら じ ょ う『
』
。
『
』 「
」 「
」
「
」
その解説書 画觽 を残している
えくじり画觽 の 觽 は くじる すなわち 掘り下げる
「探る」の意味で、注釈書の名前に付けられることが多い 『画觽』では『左九羅帖』に
。
登場する動植物が順番に解説されている 『画觽』には本編と補編とがあり、補編には画
。
が付されているが、本編には画はなく、いちいち別に『左九羅帖』を対照しなければなら
ない。そこで、本稿では 『画觽』に『左九羅帖』の画を対応させることで、履軒の名物
、
学説を一目瞭然にわかるようにした。また、各テキスト(詳細は拙稿「中井履軒『画觽』
翻刻・解説」を参照)の違いを【校勘】に記載し、内容解説を【注 【余説】として付け
】
た。また 『画觽』の内容と関わる履軒の著述( 詩経雕題 『毛詩品物図攷雕題』など)
、
『
』
を【参考】において明記し、履軒説の形成の参考に供した(注 。筆者は別に 「中井履
)
、
軒の名物学―その『左九羅帖 『画觽』を読む」で『画觽』の特徴を明らかにした( 杏
』
『
雨』
11
号)が、本稿は、本文に即してそれがわかるようにしたものと言える。
『画觽』は、手稿本(関西大学所蔵本)を底本にしたが、明らかな誤りと思われる箇所
は他のテキストにより改めた( 校勘】において明記 。本編に付した画は 『左九羅帖』
【
)
、
(
)
、
、
『
』
(
)
手稿本 懐徳堂文庫本 のものであるが 補編の画は
画觽 手稿本 関西大学所蔵本
のものである。翻字は、現代通用の仮名・漢字に改め、適宜句読点と濁点を施した。踊り
字はかなに改めた。段落は原文による。また書名に『
』を、引用部分や名称を問題とし
ている箇所には「
」を施した。テキストの違いは【校勘】に示した。また、テキストの
説明を〔
〕付きで示したところがある。
(注 『毛詩品物図攷雕題』については、井上了「大阪府立中之島図書館蔵『毛詩品物図攷雕題』につい) て ( 懐徳堂センター報』二〇〇四、大阪大学)に解説および翻刻がある。」『【項目一覧】
*項目名の後の数字は 『左九羅帖』への対応を表す数字。懐徳堂本にはない。、〔本編〕
一
樺
瓊華 サクラ カバザクラ カニバザクラ一
青鳥
青雀 ウグヒス二
黄鳥
鶯 黄鸝 倉庚 カウライウグヒス二
海棠
甘棠 沙棠三
棣
常棣 唐棣 ハネズ三
蘞
カガミグサ ワノサンキライ四
蔦
寄生草 ツタ ヤドリギ四
女蘿
松蘿 寄生草 サガリゴケ五
梧桐
椅 アホギリ アホニヨロリ五
杻
カシ六
垣衣
青苔 苔衣 石衣 コケ コケゴロモ六
蕣
橓
同 アサガホ七
蠑螈
ヰモリ七
蜥蜴
トカゲ七
蝘蜓
ヤモリ 守宮八
花かつみ
八
榛
ササグリ シバグリ九
莱
シバ九
蕪
十
鷚
天鷚 天鸙 雲雀 告天子 ヒバリ十一
鸚鵡螺
フメツ十一
われから
貝 貝光 コヤスガイ十一
藻
モ十二
鴟
ヌエ ヨタカ十二
梟
鴞同 フクロウ十二
鵂鶹
ミミヅク十三
藟
蘽同 藤 フヂ十三
穀
楮 構 コウゾ ユフ カヂ十四
すみれ
ゲンゲ十五
つぼすみれ
十六
蓍
ハギ メド十六
蟋蟀
キリギリス十七
芄蘭
ユウガホ十八
蛇
ハエ クチナハ十八
蝮
ハミ ヘビ マムシ十九
水蝹
河童 カハタラウ カハツハ二十
蒿
ヨモギ二十
蕭
ヨモギ廿一
瓠
フクベ廿一
匏
フクベ 壺 瓢 葫盧廿二
瓜
ウリ ナウリ廿三
なき
葱 ヒトモジ ネギ ネブカ廿三
こなき
胡葱 アサツキ廿四
荇菜
蓴 茆 ジュンサイ廿五
牡蠣
フタミガキ ヲキガキ廿五
雌蠣
カキ廿六
珠母
廿七
やまぶき
欵冬 ツワ廿八
葵
三茎草 三枝 福草 蕗 フキ アフヒ サキクサ廿九
蓬莱山
博山 不二山 富士山 フジ三十
扶桑木
〔補編〕
卯花
うつ木
ツバキ椿
サザンクハ山茶
瑩
瓊
マキ スギ柀
サカキ シキミ樒
促織
菘
附
ツクモ莞
しのぶ
おがたま
楓
木犀桂
木葉石
たこふね
*画なし。穀(補足)
*画なし。橘
【本文】
〔項目名の後の『左九羅帖』への対応を表す数字(朱筆)は、懐徳堂本にはない 〕。一
樺
瓊華 サクラ カバザクラ カニバザクラ 〔 『* 古今和歌集 物名にある』 。〕 * *〔写真一〕
「樺」は世中の「サクラ」の母なりけり。もろこしのむかしよりこの木の皮をとりて鞍
・刀をかざる類いとおほし。薬にもしるしあり。ここにても東北国におほし。西国にもあ
り。深山に大木あり。書籍の印板にもちゆる「桜板」てふものは大かたは「樺」なりとか
。
。
。
「
」
「
」
や わが国の土地によくあひたるにや 変生多し 奈良の都の 八重ザクラ
山ザクラ
「糸ザクラ 「彼岸」などいひわかつはさらなり、其数はしられず。世に「桜」の字を用
」
ゆるはひがごとにこそ。もと「桜桃」といふ木あり。ちいさき実なる故にや「みどり子の
桃」てふ心にて「嬰桃」とはじめは書きけらし。後に「木」を加へてけり。されば「桃」
をはなれては別に「桜」といふ木はなきなり。いかなればこの国にてかかる文字を用ひき
にけん。詩賦などに入たるはかたはらいたしや。
「
樺 は総名なるを とりわきては カバザクラ といふ
」
、
「
」
。
「
カニバザクラ ともいふ
」
。
「
カバ の木立 花のやう 今の サクラ にかはることすくなし 唯 花の数多からで
」
、
、
「
」
。 、
、
ひかりおとれり。いかなれば其子其孫とうまれわかれたるは、ひかりにほひ世にならぶも
のなし。されば花とだにいへば「サクラ」のこととなりぬ。もろこしにも牡丹・海棠にか
かるためしありとなん。司馬相如の賦に「華楓
枰櫨」
*といへり 「華」はすなはち「樺」
。
なり。むかしの人さばかりめづる心もなく、また世のすゑをさとりしにもあらぬを、よく
ぞ「華」の「木」てふ文字をさだめおきたる。外に文字をたづぬるはあぢきなしや。
「海棠」もことたがへり。詩賦にも用ゆまじきことにぞ 「サクラ」とは、この木の本
。
称なれば、すべて大小諸種をあはせていふべし 「カバ」とは「皮」てふ心なるべし。皮
。
の用、わきてよろしきを「カバザクラ」といひ、八重にさくを「ヤヱザクラ」といひ、彼
岸会にさくを「ヒガンザクラ」といふ。名と氏と同独のわかちあるがごとし。おしなべて
いへばみなみなひとつ「サクラ」なりけり 「サクラ」すなはち「樺」にこそ。
。
〔以下 「~なりとぞ」まで、手稿本では貼り紙〕、今の世に「山桜」といふは、里にてわかれたる一種なり。古歌によめる「山桜」にあら
ず。今、吉野蔵王堂より下麓までの花は里人のうへたる今の「山桜」なり。まことの吉野
「
」
。
。
「
」
山の 山桜 にあらず 大和の宇多郡山中に白き花の桜おほし 其あたりにては 深山桜
。
、
。
。
。 、
といふ 其色 梨花のごとし 青みさへそひたり これぞまことの吉野の桜なりけり 即
「樺」なるべし。安禅より上、天嶺道といふあたりにも大木の桜ありといふ。談峯より東
* *よきが峯まで一里ばかり道の傍に大木多し。二囲三囲なるもあり。いづれも「樺」なるべ
し。土佐てふふるき画に吉野山をかきたるをみたりしに、みな白花にて赤きにほひはすこ
*しもなし。今様はしからず。筆も世につれてかはれるなるべし。近きころより池田の里の
あたり、李をおほく植たり。花の盛なるころ伊丹の里よりながむれば、まことに雪とのみ
。
「
」
。
「
」
、
ぞあやまたる 昔の 山桜 もかかるながめと思ひしらるる もし今の 山桜 なりせば
人丸が目に雲とは見えがたかるべしや。雲と見、雪と疑ふも、ひたすらに白き故にあらず
*や。
「山桜」とは別種の名なり 「八重 「彼岸」に対していふ。古歌に出たるは皆しかな
。
」
り。今の世の「山桜」てふ名とこころはおなじ 「山に咲たる桜」といふにはあらず。世
。
にいふ山桜に大木なし。寿も短かしとは里の「山桜」なり。まことの「山桜」にあらず。
蔵王堂より下に桜を植たるは今より二百
餘
年前なりとぞ。摂州平野郷の末吉氏これ植け
ん人なりとぞ。
〔以下 「~兵衛丞殿」まで貼り紙〕、 御寄進 桜一万本植置林道作申候。依而御施物青銅百貫文慥ニ請度申候。猶与介殿可有演説候。以上* 〔*一五七九年 〕 天正七年己卯十二月吉日 重介 名判 。 * 々 権介々 新介 々 権丞 々 左近兵衛 々 甚大夫 々 嶋介 々 右衛門 々 図書 々 勘丞 摂州平野末吉勘兵衛丞殿* 校勘】 天…「大」のはず。 いふ…懐徳堂本はこの後に「あり其」がある。 見え…懐徳堂本「み 【 ○ ○ ○ え 。」 ○演説…懐徳堂本「演舌 。」 【注】○華楓枰櫨…「上林賦 ( 文選』巻八 。履軒は 『荘子』譲王篇の「原憲華冠」にも「華、樺也。」『 ) 、 海棠之属」と雕題を付けている(復刻叢書本『荘子雕題』二三三頁 。) ○土佐…絵画の土佐派のこと。土 佐派は、室町時代から江戸時代にかけて、主に宮廷の絵所を拠点として、大和絵を継承した画派( 日本『 美術史事典』平凡社、一九八七などを参照 。) ○伊丹の里云々…履軒と伊丹とは関係があった( 伊丹市『 史』巻六、七六頁参照 。) ○末吉勘兵衛…末吉利方。一五二六~一六〇七。江戸前期の豪商。
六朝のころ江南に
瓊
華観といふ道宮ありけり。この庭に「
瓊
華」といふ名木あり、より
瓊」の「花」といふにたがはず。
て観の名ともせしなり 天下に唯ひと木の花なり まことに
。
。
「
てふ玉は今い
花のころは遠近の人つどひ来てめでまどひぬ。いとふるき木にてぞありける。「瓊」
ふ瑪瑙なめり。白きに薄紅をいろどりたり。かの花これに似たるにこそ。隋煬帝の世とな
りて奢のあまりに、この名花をながめんとて、みやこより千餘里の間、川をほり、道をつ
くらせけり。前の年よりこのいそぎにて、天が下ゆすりて民のなげきとなれりける。さて
春になりて、みゆきなりける。かの川に龍舟をうかべなどしたりけれど、いとはるけき道
にしあればやうやう春のなかば過るころ観のこなた十里ばかん江都といふ処につきぬ。や
がて人を馳て花のやうをとはせ給ひしに 「其あけの日なん盛なるべし」と奏しければ、
、
煬帝よろこびて 「旅のつかれはさることなれど、かかる企をなして花の盛におくれなば
、
いと口惜かるべし。あくる朝の横雲につれて観にいたれ」と勅を下したまひければ、もろ
もろのつかさづかさゐもねずしていとなみいそぎけるに、この夜、うしみつすぐるころ、
遽にそらかきくもり雨うちそそぎて風のおといとおどろおどろしく 「かくてはいかが」
、
と人みなすこしうちためらふを、煬帝気をいらちて「何条さることやはあるべき。風神雨
*、
。
」
師の朕がために道を清むるにこそあなれ いかで朕にあだをなすべき とく車をいだせよ
とて雨風をつきてかけ出し給ふ。従者などは、ころび、たふれて、あさましきまでにぞあ
りける。辰の時ばかりに観にいたりつきぬ。さて其庭には水たたへて、泥わきかへり、花
はひとひらもなかりけり。あなあやしと観の道士をめしいでて其やうをたづねたまへば、
道士謹て奏すらく 「よべの雨風のはげしさなん、魔風にやおはすべき。この処にては聞
、
もおよばぬわざなりや。されば夜のまに花はのこりなく散さぶらひし」と申。煬帝これを
聞て逆鱗甚しく「天帝地祇も朕がかかる企をしろしめさぬことはあらじを、ことはりなく
朕が一日の遊覧を妨給ふべきやうなし。さては花神こそにくけり、天下に唯一木の名花な
りと、わが身を思ひあがりて、万乗の天子をあざむき風神雨師をかたらひて、朕に一目見
えぬやうにわざとしなしたるぞ、いといとにくきしわざなり。大逆とやいはむ、無道とや
せむ。いで、ものみせん。すは、ものども、この木うちきれ」といふ。ほどこそあれ、数
百人のつはものども、斧よ鉞よとひしめきて、みかかへもあらん大木を、しばしがほどに
きり倒し、枝葉までをあつめて火をかけて灰となしける。これより後 「
、 瓊
花」てふもの
は世中に絶はてけるとなむ。いかなる花なりとはものにもくはしくは見えざりければ力な
。
、
、
、
「
」
、
。
し ある時 ふるき巻物を見たりしに 道士の
*瓊
花 を手折て 手に持たるかたあり
其花も葉もまさしくここもとの「八重桜」なりけり。この花なき国にはかかる花を絵にか
きたるもあやしく「
瓊」
てふ名もうちおきがたしや。また、江都はかしこの南国にて東の
はてなり。わが国の西のはてとは波路ほど遠からず、気候も同じければ、草木のうつりわ
たるも、たがひにすくなからず。されば、いづれより移りしはしらねど、江都の「
瓊
花」
と奈良の「八重桜」とは、またくおなじたねなりと思ひなりぬ。詩賦などうちつけに桜を
「
瓊
花」といひたらんも罪なかるべしや。
【校勘】○ためらふ…懐徳堂本「ためろふ 。」 【注】○ふるき巻物…未詳 『東洋画題綜覧 (芸艸堂、一九四三)の「。 』 瓊花」の項(二八二頁)に以下 のように言う 「。 瓊花は大手毬のこと、大手毬は一名手毬花とも呼び、忍冬科の落葉灌木で葉は対生し稍 円形で鋸歯があり、葉の面多少皺があつて縮れ細毛あり、花は白色で玉のやうに集り円く咲くので此の 名があり、支那では詩人の詠賦するところ極めて多い。…瓊花は三十客の一に数へられ、山鵲と共に画 かるるもの多く、双軒庵の旧蔵に呉筠の作と竹田の画いたものがある 。なお 『樹木大図鑑 (北隆社、」 、 』 一九九一)四一七頁に野生種ヤブデマリの写真がある。葉の形と幅広の花びらだけ見れば、ヤエザクラ に似ているとも言える。 *以上の話は 『隋唐演義』第四七回「看瓊花楽尽隋終、 殉死節香銷烈見」などに見える。 【余説】サクラは、日本文化史上の一大テーマである。懐徳堂学派の学者も頻繁に吉野を訪れ、多くの 紀行を残しており(注 、その関心の高さを窺える。) (注)履軒の兄竹山著『芳山紀行 、竹山の子蕉園著『騮碧嚢 『遊芳自導 (吉野行の自分用のガイドブ』 』 』 ック兼旅行記録 、蘭窓(金崎元永夫人:蕉園の吉野行の同行者)著(和文紀行 『大阪府立図書館紀要』) 、 二二号(昭和六一年)に翻字あり 、履軒の弟子三村其原著『芳山遊草 。) 』 平安時代 『新撰字鏡』でサクラに桜(櫻)の字が当てられたが、江戸時代にはそれに疑義が持たれる、 ( 『 』『 』 )。 。 ようになった 貝原益軒 花譜 大和本草 など サクラをどう見るかは大きく分けて二派存在した 一つは、サクラは中国の海棠に当たるとする海棠派である。これは、サクラを中国の花(桃李)に見立 てる漢学者の伝統を引き継ぐものと言えよう。仁齋や履軒の兄竹山などはこの考えであった(他、稲生 若水、江村如圭もそう 。もう一つは、サクラは日本の固有種で中国にはないとした上で、あえて桜の字) を当てる派である。元は、朱舜水など中国人が中国には日本のサクラはないと言ったことから始まった ようだが( 先哲叢談』巻二 『湖亭渉筆』巻四「朱文恭遺事『 、 」)、明治以降盛んになる日本の国粋主義の 濫觴と言え、国学者はこの考えを支持した。 一方、履軒は、中国にもサクラは存在し 「樺」がそれであるとする。履軒がサクラに「樺」の字を当、てたのは、何より「 代表的)華」の「木」―花の王様だと考えたことによる。履軒はその点、国粋主義( 者の考えに近い。だが、国学者のように、それを日本固有のものだとは考えずに、ヤエザクラは中国の 隋の煬帝も愛でた「瓊花」だと言う。中国人が愛でる物は実は日本にもあるとする発想である。履軒は 漢学者ではあるが中国崇拝者ではなかった(他、扶桑木、唐草模様など参考されたい。中国のものを矮 小化する傾向が見られる 。履軒の独特なスタンスが見てとれるだろう。) 以下、履軒説について検証したい。履軒が、サクラに樺の字を当てたのは 「花の木」という考えで、、 サクラを称揚する立場からの単純な発想である(履軒は、漢字を会意文字としてとらえることが多い 。) ただし、根拠もある。それは、サクラの皮が「カバ」と呼ばれたりして、サクラとカバとが混同される ことが多かったことである。皮の様子が似ており、その皮が利用されることが多かったことによる混同 のようである( 和漢三才図会』巻八七「桜」の項を参照されたい 。また、カバノキも「カバ 「カバザ『 ) 」 クラ」の名で呼ばれ、材はサクラに似ているので桜材と称されていた 「カバ」の名がサクラ類とカバノ。 キ科の両方に存在したのである(細見末雄『古典の植物を探る (八坂書房、一九九二 「古代の樺桜は』 ) 何であったか」)。もっとも、貝原益軒『大和本草』や新井白石『東雅』はサクラとカバとを混同するこ とをいさめており 管見の及ぶ限り サクラを樺とする説は 山岡恭安著の 本草正正譌、 、 、 『 』(安永七年 一( 七七八 )だけである(注 。恭安は尾張藩の人であり、履軒との関係は不明である。) ) ちなみに 「椛(かば 」という国字がある。これは 「樺」字の旁を別の「はな」の字に置き換えたも、 ) 、 のだ(菅原義三編『国字の字典』東京堂出版、一九九三、四五頁)が、旁が「はな」であることに注目 する点、履軒の発想と同じである。 次に、履軒がヤエザクラを瓊花とすることについてである。履軒は「ふるき巻物」の瓊花の画を見る とまさにヤエザクラであったと言う 「ふるき巻物」が何かは未詳だが 『東洋画題綜覧 (芸艸堂、一九。 、 』 四三)の「瓊花」の項にも述べる(注)ように、瓊花とはオオデマリという植物であり、ヤエザクラで はない。ただ 『樹木大図鑑 (北隆社、一九九一)四一七頁の野生種ヤブデマリの写真を見ると、葉の、 』 形と幅広の花びらだけ見れば、ヤエザクラに似ているとも言え、履軒が勘違いしたのも理由のないこと ではない。 、「 ( ) 、「 」( ) 、「 」 、 次に 櫻 桜の旧字 は実が小さいので 嬰 みどりご という字を使い 嬰桃 と言っていた 桜は桜桃であり、桃を離れては存在しない」という説についてである。会意的解釈は他の字と同様に根 拠はない。ただし、桜は桜桃だという説は一般的で、大田南畝『一話一言 、新井白石『東雅 、江村如』 』 圭、牧野富太郎『植物記 (桜井書店、一九四六 (三七八頁~三七九頁)も唱えている。』 ) 以上のようにサクラについての履軒の説は根拠がないものではないが、妥当だとも言い難い。その根 底には、日本のもので中国のものを包み込もうとする日本中心主義が存在すると言える。サクラを樺と 呼ぶのは、要するに中国人が花の中の花と称えたのは実は日本のサクラだという考えであるし、中国の 煬帝が夢中になった瓊花も実は日本のヤエザクラのことだと言うのである。一般に漢学者が「海棠」を 当てたのとは軌を異にし、また一方、国粋主義者が日本固有説を唱えたのとも違う独特なスタンス(視 点)の現れと言えよう。
一
青鳥
青雀 ウグヒス「青鳥氏司啓」と『春秋伝』に見えたり。げに立春より鳴鳥なれば、司啓の官に名づけ
*たるもむべなりや。東方朔が「西王母の使なり」といへるもこの青鳥なり。唐詩には西王
*母のことによりては「青雀」ともいへり。世俗に用ひなれたることにはあれど、詩賦には
*これに「鶯」の字を用ゆるはひがごとにこそ。
【注】○春秋伝…『春秋左氏伝』昭公一七年。司啓は、啓(立春、立夏)を司(掌)ること。○東方朔 云々…李商隠「漢宮詞 「青雀西飛竟未回… ( 唐詩品彙』巻五三 。」 」『 ) ○西王母云々…『三体詩』李商隠 「漢宮詞 注 漢武故事七月七日上於承華殿斎 忽有青鳥従西方来 上問東方朔 朔曰 此西王母欲来」 「 、 。 。 、 。 有頃、王母至。及去、許帝以二年後復来。後竟不来 。以上の話は 『淵鑑類函』巻四二一「青色一」に」 、 もある。 【余説】ウグイスに鶯の字を当てることが間違っていることは、例えば 『茅窓漫録』中巻「鸎字並百舌、 百千鳥」に 「鸎 は此邦のうぐひすにあらず。朝鮮又は高麗に多く居るといふ」と言う。、 アウ二
黄鳥
鶯 黄鸝 倉庚 カウライウグヒス〔写真二〕
この国になき鳥なれば、図に及ばぬことなれど、ふるくよりよこなまり来りて、世にま
ぎること多ければなむ。
【参考 『毛詩品物図攷雕題』巻四「黄鳥于飛」参照 「格物論云、鸎大勝鸚鵒黒眉、嘴尖紅、脚青、遍】 。 身黄色、羽及尾有黒毛相間、三四月間鳴声音円滑」と言う。この「格物論」の内容は 『陸氏詩疏広要』、 巻下之上 『六家詩名物疏』巻一 『詩伝名物集覧』巻一 『格致鏡原』巻七八に『格物総論』の説として、 、 、 見える。 【余説】寺山宏『和漢古典動物考 (八坂書房、二〇〇二)でも、漢名の黄鳥、黄鸝、鶯は』 うぐいすでは なく、こうらいうぐいすのことであり、日本には棲息しないと言う 『大和本草』巻十でも同様の指摘が。 ある。二
海棠
甘棠 沙棠これも図に及ばぬものなれど、世にあらぬものを「海棠」とよぶ故になむ。
「
」
、 「
」
「
」
。
「
」
いにしへは 棠 とのみいひしを 又 甘棠
沙棠 とわかちてよぶ 然れば 海棠
も同じく「棠」の別種ならん 「海」の字を添たるはいかなるやしらねど、皆古の「棠」
。
なりとはしらるる。
【参考 『毛詩品物図攷雕題』巻三「常棣之華」参照。】三
棣
常棣 唐棣 ハネズ〔写真三〕
『万葉』に唐棣花とかきて「ハネズ」とよみたれば、たしかならねども、此を和名とすべきにや。 「はねず色のあか裳の姿」とつづけたれば 「けし」にはあらじ。* 、【注】○あか裳の姿…「山吹のにほへる妹がはねず色の赤裳の姿夢に見えつつ ( 万葉集』二七八六」『 )。「山吹の花のようにかがや くように美しいあの娘のはねず色の赤裳の姿が夢に見える」の意。
この木に和名なし。近き世にわたり来にけらし。世に「カイダウ」とよぶはあやまりて
「海棠」の文字を此にあてたる故なるべし。これはひがごとなり 「林檎 「来禽奈 「マ
。
」
」
ルメロクハリン」などみな「棣」の別種と見えたり。これら皆郷俗のよび来れるにて、木
の本名にあらず。また 「常棣 「唐棣」といふも其わかれはあるべけれど、それまでは
、
」
しらず。
「リンゴ」といふ 「林檎」の転音なるべし 「棣」の和名とはなしがたしや。かかる
、
。
ことをわきまへしれる人 「棣」は「ザイフリ」なりといへり。おろかなる心にて、此を
、
*あたらずと思ふことは、古詩に「何彼
穠
矣、唐棣之華」と見えたり。すぐれて、
*穠
盛華麗
の花ならでは此にかなはず。またいふ 「威儀棣々、不可選
、
兮
*」
。まことに美麗なればこ
そ 「棣」をかりて美人の姿をかたどりければ「ザイフリ」にはかかるひかりはあらじも
、
鄂
のを。又いふ 「常棣之華、偏其反而 。花の茎長く梨樺のごとしとみゆ 「常棣之華、
、
*」
。
不
韡々
」ともいへり。世にいふ「カイダウ」なれば、みなよくかなへり。
【注】○ザイフリ…『毛詩品物図攷』巻三で、唐棣之花を「ザイフリ」と言う。○何彼穠矣、唐棣之華 穠 兮…『詩経』国風・ 風「柏舟」。原文では「兮」が「也」 … 詩経 国風・召南 何彼『 』 「 矣」。○威儀棣々 不可選、 邶 になっている。○常棣之華、偏其反而…『論語』子罕篇に見える逸詩。「常」は普通「唐」に作る。『論語雕題』『論 棣 棣 棣 『毛詩品物図 語雕題略』「唐 与常 蓋同類。或一物。何玄子曰、常 花、両々相麗、如垂枝海棠一般」参照。 攷雕題』巻三「唐棣之華 「山有苞棣」参照。」 【参考 『毛詩品物図攷』巻三「山有苞棣」参照。】 【余説 『万葉集』に見える「はねず」が何であるかは、ニワウメ説、ニワザクラ説、モクレン説などが】 あるが、具体的には未詳とされている( 日本国語大辞典 、木村陽二郎『草木名彙辞典 『草木辞苑『 』 』 』)。三
蘞
カガミグサ ワノサンキライ*おほく荒野山坂にあり。墳丘の景物にぞ。蔓草にはあらで、よくひろがりたふれて蔓草
のごとし。刺あり。
【注】○ワノサンキライ…『毛詩品物図攷雕題』巻五には「今「和ノサンキラヒ」ト云モノ、蕨ニ似タ リ」とある。 【参考 『詩経雕題』巻五 『毛詩品物図攷』には「ゴヨウカヅラ」とある。】 、 【余説 カガミグサとサンキライとは別物である カガミグサは 紫色の茎のブドウ科の植物で 一方】 。 、 、 、 サンキライはユリ科の植物で、履軒が言うトゲがあるものは後者である。サンキライ(山帰来)は、昔、梅毒に罹って山に追われた者がこの根を食べて治癒し、村に戻れたと いう言い伝えがあることからわかるように、梅毒の薬とされた(根が土茯苓 。日本では、サルトリイバ) ラ(猿捕茨)がその代用とされワノサンキライ(和山帰来)とも呼ばれ、広く梅毒の薬として使われた ( くすりの道修町資料館」にも展示あり、菝葜 。この実は赤く美しいので今ではリースの飾りに用い「 ) られている 『本草綱目』巻一八下には「菝 葜(サルトリイバラ、ワノサンキライ。 )」「土茯苓(サンキ ばっかつ ライ)」「白蘞 カガミクサ( )」が連続して登場し 白蘞 カガミクサ も解熱・解毒剤として使われた 小、 ( ) ( 野蘭山『重訂本草綱目啓蒙』巻十四下は白蘞は「和産ナシ」と言う 。履軒はこれらをすべて同一視した) 。 、『 』 『 』 、「 」 「 」 。 のであろう ちなみに 詩経雕題 巻五と 毛詩品物図攷 とでは 蘞 は ゴヨウカヅラ とある なお、サルトリイバラについては、細見末雄『古典の植物を探る (八坂書房、一九九二 「サルトリイ』 ) バラの本物は」が詳しい。
四
蔦
寄生草 ツタ ヤドリギ〔写真四〕
の類にてよく物にはひつたふ故に「ツタ」といふなるべし。秋は葉紅にそめて落る
蘿薜
なり。またさらぬもあり。それは「キヅタ」といふ。すなはち「
*蘿」
なり。
「蔦」は地上におひ出るものなれど、樹木によぢのぼりては、さきざき足をおろし、樹
の膚にふみいれて、そこにてまた根をおろせば、もとの根はきりそこなはれても、この草
はかれず。故に「寄生」の名あるなり。人の、家をうしなひて、外の家にすみて、人にか
かりて世をすごすにたとへたるならん。又たねを樹の皮の内にのこしてそれよりおひ出る
もあるべし。
【校勘】○もあり…手稿本はもう一つ「もあり」あり。 【参考 『毛詩品物図攷雕題』巻二「蔦与女】 蘿」参照。 【余説】ツタの語源は 『日本国語大辞典』でも第一候補として挙げられるもの 『東雅 『日本釈名』と、 。 』 も同じ 『東雅』巻十五「絡石ツタ 「ツタとはなをツタフといふがごとし。ツタフとはまたツタハフと。 」 。 」。『 』 「 」「 。 」。 いふがごとし 並に蔓延の義とみえたり 日本釈名 下 地錦ツ タ つたふ也 木の上をつたふもの也四
女蘿
松蘿 寄生草 サガリゴケこれ尤寄生の物なり。ふるき図画をみるに、松にはかならずこの草かかれり。右の二物
みな寄生の名あり。詩賦に「寄生草」といふは二物をおしこめていひけらし。なを女
蘿
を
。
「
」
、
。
「
」
主とすべし 和歌には やどり木の紅葉 てふことありて 蔦を主とすべし この外に 兎糸
*てふものもあれど寄生の名なし。
およそ寄生に昔より二流あり。其ひとつは草本なり 「蔦 「女
。
」
蘿」
是なり。今ひとつは
木本なり。桑の上におひたるを「桑寄生」とて薬に入なり。ちいさき物なれど木類なり。
。
。
、
「
」
から橘に似て葉厚し 実もから橘のごとし 外の木にもおひ出べけれと それは 桑寄生
の名なし。この一流は「寄生木」と名づけてよろしかるべきにや。又桑の疣をとりて「桑
寄生」と名づくるもあり。ひがごとなめり 「メシマコブ」といふが本名なり。肥前の女
。
島より出る。さて木本は薬の外には用なし。詩歌の家にはひんなしや。
古詩に「蔦与女
蘿、
施
于
松上」といへり。蔓延の物ならでは「施」とはいふまじ。これ
*にてよくわかつべし。ふるき詩伝に「蔦、寄生也」と見えたり。これ草本にてよくあたれ
*り。さるを後の人また此をときわかたんとて木本もてかきみだしけり。もろもろのあやま
ちみなかかる類なりけり。
【注】○兎糸… 毛詩品物図攷 巻一 爰采唐矣 に『 』 「 」 「『爾雅 唐蒙 女蘿 莵糸 孫菼分三名 とある』 、 、 、 」 。 蔦与女 施 松上…『詩経』小雅、甫田之什「頍弁 。 蔦寄生也 『毛詩注疏』巻二一、小雅、甫 ○ 蘿、 于 」 ○…
田之什「頍弁 。」 【参考 『毛詩品物図攷雕題』巻二「蔦与女】 蘿」参照。五
梧桐
椅 アホギリ アホニヨロリ〔写真五〕
二字にて一木の名なり。およそ物もて物をささへしとどむるを「支吾」といふ。几もて
人の体を支吾する故、几を名づけて「梧」といふ 「梧」につくりてよろしき「桐」なれ
。
ば、其木を「梧桐」といふなり。もと「桐」の種類なれば 「梧」の字をそへてわかつな
、
めり 「梧桐」をわかちて二木とするはあしし。詩中に「碧梧」などいへるは略言なり。
。
*ここの論にはあづからず。
【注】○碧梧…杜甫「秋興詩 、白居易「春夜宿直」などに見える。」 【余説 「アホニヨロリ」という名称については 『日本国語大辞典』では「あおにょろり」という項目】 、 を立て 「にょろりはまっすぐ立つ意か」と言う。小野蘭山『重訂本草綱目啓蒙』巻三一「喬木」の「梧、 桐」の項には「アヲギリ」とともに「アヲニヨロリ」という名称が見える。 梧桐を「アオギリ」とすることは一般的だが、ここに言う語源説は、換券の及ぶ限り見あたらなかっ た。履軒の考える法則( AB」二文字でできているものはAの性質をもったBという意味)に従った解「 釈なのであろう。五
杻
カシ木理屈曲して裂がたし。故に弩幹とす。又罪人の械とす。其械を「カシ」とも「カセ」
ともよぶなり。木の名より出て械の名となれるか、械の名より転じて木の名となりしかい
づれならん。
この木類多し。木理よく通りたるもあり。まことの「杻」にあらず 「木」辺の「堅」
。
はなき文字なり。
* 【注】○樫の字…『日漢林業詞匯 (科学出版社、一九八六 「櫟類樹種 。』 ) 」【参考 『毛詩品物図攷雕題』巻三「隰有杻」参照。】 【余説 杻をカシの木とすることについては】 、『詩経雕題 唐風にも 杻可以為三木者 故械亦謂之 杻』 「 。 。 、 邦名加志。木名亦有加志。或因械為名也。蓋杻木即是 「杻与檍不同」とある(三木は桎梏」 )。『東雅』巻 十六「檍」の項に 「倭名鈔に、檍は日本紀私記に阿波木といふ。今按又橿木一名也。橿は万年木也、一、 ア ハ キ 名杻、一名檍カシといふ。又杻械の杻と注せり。とあるのと関係するか。ちなみに、寺山宏『和漢古典 植物考』では、栲を「ぬるで 、杻を「もちのき」とする。」 なお 『日本国語大辞典』がカシの語源として第一に挙げるのは「カタシ(堅 」である。履軒に類似、 ) 、「 ( ) 」 。 、 、「 ( )」 、 の語源としては カシ くい を造る木 という説がある ただし 同辞書では カセ 枷 の項で 「カシ(枷)の転。本来、橿の木で作ったところから ( 俚言集覧 『大言海 )という説を語源の筆頭」『 』 』 に挙げる 『東雅』巻十六「檍」の項にも「又杻械之杻をテガシといひ、械をアシガシといひ、また盤枷。 をクビカシなどいひしも、初此木をもて造りしかば、木の名をもてよぶ事、たとえば檟をもて杖となし ぬるをよびて、檟楚といふごとしとみえたり」とある。
六
垣衣
青苔 苔衣 石衣 コケ コケゴロモ〔写真六〕
これは常に庭にも石にもおふるこけなり。それが垣の上におひのぼりて、きぬをきたる
やうなるを「垣衣」といふなりけり。ふる人の詩に書たるはみなこれなり。陶弘景よりこ
*のかた、ひとつ葉のやうなる草を「垣衣」と名づけて薬にいれたり。それよりしてこの名
はみだれたり。
陶弘景より後の詩にも「苔衣随溜転」は梁元帝なり 「雨
*。
墻
陰湿長苔衣」は楊億なり。
*「雨多青合是垣衣」は陸亀蒙なり。地にあれば「苔衣」といふ。垣にあれば「垣衣」とい
*ふ。其義一なり。石にあれば「石衣」といふも。
【注】○陶弘景…梁の人 『本草集注』の著がある。。 ○苔衣随溜転…「和鮑常侍龍川館 。」 ○雨墻陰湿長 「 」(『 』『 』)。 「 」 苔衣… 因人話建渓旧居 宋詩紀事 西崑酬唱集 ○雨多青合是垣衣… 酬襲美夏首病愈見招次韻 ( 甫里集』巻九 『御定全唐詩』巻六二五 。『 、 ) 【余説】塀に着くコケを「垣衣」と言うに過ぎないとする履軒の説はきわめて明快である。植物の特殊 化(あるいは神秘化)に反対する履軒らしい説である。ちなみに 『本草和名』に「垣衣、一名青苔衣」の、 記述がある(広島大学デジタル自然史博物館「コケ コケのいろいろ・まめ知識 コケ植物と苔 、参考文献/ / 」 :荒 野智雄 「日本の古典にあらわれるコケの解釈についての私見 『日本蘚苔類学会報』一、一九七四、九」 五~九六頁)。『広雅 「釈草」には「在屋曰昔邪、在牆曰垣衣」と言い 『本草 「垣衣」でも「別録曰、』 、 』 垣衣生古垣墻陰或屋上」と言う。この植物が独立した種類であるかどうかは別として、その語源が履軒 の言う通りであることは疑問の余地はなかろう 『本草綱目』では巻二一「草之十 「苔類十六種」に見。 」 える他 「黄疸 「金鏃竹木傷」の薬(それぞれ巻三上、巻四中)として「垣衣」が見える。、 」六
蕣
橓
同 アサガホ「
蕣」「
槿 「牽牛 、みな「アサガホ」の名あり。朝に花を開て暮に萎み落ることのお
」
」
なじければにや。
「
蕣」
は、今いふ「木芙蓉」なり 「地蓮」ともいふ。光彩は「槿」にまされり 『詩』
。
。
に美人をほめて 「顔如
、
蕣
*」といへる「槿」にはあらざるべし 「槿」は今の「ムクゲ」
。
なり。ふるくより歌によめるは「槿」と「
蕣」
なりけり 「牽牛」もよみたれど、近き世
。
よりのことにぞ 「槿」にもいとうるはしき花なるも今はあれど、近き世のことにて、昔
。
はなかりしとぞ聞。
【注】○顔如蕣…『詩経』鄭風「有女同車」に「顔如舜」とある 「舜」は「。 蕣」に同じ。履軒『詩経雕 題』の同箇所には「舜、蕣、橓、同。按『文字集略』曰 「、 蕣地蓮花、朝生夕落者也。和名木波知須 。」 据此、地蓮即木芙蓉矣。可備一説」とある。 【参考 『毛詩品物図攷雕題』巻三「顔如舜華」参照。そこでは「ムクゲ」というふりがなに線引きし、】 その横にさらに「フヨウ」とふりがながある。 【余説 『東雅』巻十五「牽牛子」の項に「槿、また読てアサガホといひしは、これも一名にして、其物】 は異なる也。即今ムクゲともキバチスともいふもの此也」と言う。寺山宏『和漢古典植物考』や吉田金 彦 語源辞典『 植物編 も アサガオと呼ばれる植物の実体には三種類があるとして 牽牛花 桔梗 木槿』 、 、 、 、む く げ の三種を挙げる。例えば 『万葉集』に見える「あさがほ」は桔梗であるが 『和漢朗詠集』二九三では、 、 「槿」を「あさがほ」と読み、江戸俳諧では「あさがほ(牽牛花 」に「) 蕣」の字を当てている。中国の 「槿 「」 蕣」はアオイ科の木槿である。寺山宏によれば、木槿や牽牛花は万葉時代にはまだ渡来していなむ く げ む く げ かったと言う。履軒の認識は基本的に正しいと思われる(アサガオをめぐる問題については、細見末雄 「アサガオとムクゲの名 ( 古典の植物を探る』八坂書房、一九九二)も詳しい 。」『 )七
蠑螈
ヰモリ トカゲ蜥蜴
ヤモリ 守宮蝘蜓
〔写真七〕
この三物まぎれやすし。図にて考ふべし。
【参考 『毛詩品物図攷雕題』巻六「胡為虺蜴」参照。】 余説 梶島孝雄 資料日本動物史 八坂書房 一九九七 は イモリ トカゲ ヤモリの混同は 倭 【 】 『 』( 、 ) 、 、 、 、『 名類聚抄』が三者の名前を混同して列挙したことに始まると言う(同書三四六頁 。新井白石『東雅』も) 『倭名類聚抄』における三者の混同を指摘する(巻二〇 。)八
花かつみ
〔写真八〕
世俗に「ヲカカキツバタ」といふ草あり。郷名にや。場師のみだりに名をつけたるにて
もあるべし。これ「花かつみ」なりとぞ 「あさかの沼の」とよめり。五月あやめのやう
。
*に屋にふくともいへり。この草なりとぞ。
*「バレン」とはこの草の別名なるべし。軍器に「バレン」の指物てふあり。まさしくこ
* *の草の形なり。
〔以下 「~おなじ」まで朱筆〕、或云、世に「花菖蒲」といふ草あり。是ぞ「浅香沼」なるべき。この花、紫あり、白あ
り。およそは「おかかきつば」と一類にて、葉細く長くよく真の菖蒲に似たり。この説ま
さるべし。
この紫に数品あり 「カキツバタ」によく似たる紫あり。文彩もおなじ。
。
【注】○あさかの沼の…「陸奥の安積の沼の花かつみかつ見る人に恋やわたらむ ( 古今和歌集』六七」『 七 。) ○屋にふく…根を張る植物を植え屋根の棟を補強することを芝棟と言い、東北地方や関東地方の山 間部などで盛んに行われていた。イチハツやイワヒバの他に、アヤメやショウブも植えられた。これが 屋根の補強のためであることは貝原益軒『大和本草』巻七( 紫羅傘」の項に「民家茅屋ノ棟ニイチハツ「イ チ ハ ツ ヲウヘテ大風ノ防ギトス。風イラカヲ破ズ」とある)、『広益地錦抄』に見えるが、雷除けとする考えや (『 』 ) (『 』 ( 、 ) 虫除けとする考え 閑窓瑣談後編 第五七 もあったらしい 南方熊楠全集 四 平凡社 一九七二 二六八頁「イチハツを屋根に栽えること 、石田潤一郎『屋根のはなし (鹿島出版社、一九九〇)七三」 』 頁 『日本民家語彙解説辞典 (日外アソシエーツ、一九九三 、武井豊治『古建築辞典 (理工学社、一、 』 ) 』 九九四)参照 。) ○バレン…馬藺・馬楝 「ねじあやめ」の異名( 日本国語大辞典。 『 』)。加藤清正が馬藺の 馬印(指物)を差したことが 『常山紀談』巻一五、三三二話や『常山紀談』に先立つ『武辺咄聞書』第、 四一話に記述されている。なお『常山紀談』は 『簣山文稿』により履軒の弟子竹島簣山が読んでいたこ、 とが確認でき( 懐徳堂文庫の研究』七六頁 、履軒も目にしていた可能性は大いにある。その他、武具『 ) にバレンが使われている例として、豊臣秀吉の「馬藺後立付兜 (大阪城天守閣博物館所蔵)がある。バ」 レンの葉が尖って刀のようであることから武具に用いられたのであろうか。ちなみに、南方熊楠は、イ チハツを棟に植えることについても、イギリスの例を引き合いに、その形が刀剣に似ることが理由とし て考えられると述べる(上述注の参考文献参照 。) ○指物…差物・挿物。合戦の時、個人及び部隊の識別 のため、背中に差して用いた旗印( 図録日本の甲冑武具事典』柏書房、一九八一を参照 。『 ) 【余説 永田敏弘 現代花かつみ考 は以下のように言う】 「 」 (http://www.kamoltd.co.jp/kakegawa/nagata.htm)。 花かつみは 『万葉集』にも見えるが 『古今集』のあさかの沼の歌で有名になり、本歌取りした歌が多、 、 く詠まれた。芭蕉も『奥の細道』で訪ねたが、わからなかったと述べている。花かつみがどんな花なの かをめぐって、江戸時代中期から後期にかけて多くの『花かつみ考』が書かれた(国会図書館に多く所 蔵 。主として、二つの説がある。一つは 『能因歌枕』に基づく「マコモ説」である。ただし、マコモ) 、 は葉は菖蒲に似るが、イネ科で花が目立たないことから 「花」の字を当てるのにはそぐわないという批、 判もあった。もう一つは 「小ぶりなあやめ (ノハナショウブ)説である(藤塚知明『花かつみ考 (寛、 」 』 政七年(一七九五))、松平定信『花月草紙 (文政元年(一八一八』 ))、大原幽学「道の記 (天保一三年」 (一八四二)))。その他、ヒメシャガ説、カタバミ説、葦の花説などがある。現在、安積のある郡山市で は、ヒメシャガを花かつみだとして市花に定めている。八
榛
ササグリ シバグリ「榛似栗而小」とは古よりの定説なり。陸疏に「莘栗叢生、大如杼子。中仁皮子形色与
*栗無異」といへり。諸説の中にて、此よくかなへり。今、荒野山坂沙岸などに荊棘と雑は
*りおふるものなり。故に地あれて道路のふさがるを「榛蕪」といふ 「荊榛」ともいふ。
。
「ササグリ」とは「小栗」のこころなり。これにまた大小あり。やや大なるは食品とな
る故に、古書つねに「榛 「栗」をならべたり。いたりてちいさきは、食ふにもたらず。
」
土地の厚薄によりてなるべし。べちの物にはあらず。およそ「榛」の味は「栗」にまされ
り。
べちに「ハシバミ」といふ木あり。葉に皺あり。実は「杻」のごとし。刺殻なし。此は
「栭」の字あたるべし 「栗」には似もつかぬ物なり。それに「榛」の字をあてたるは大
*。
なるあやまりなれど、そのあやまりももろこしよりとくわたり来りし。
○ ○ 【注】 榛似栗而小…例えば、履軒が雕題をつけている『詩経集注(詩集伝)』「山有榛」に見える。 陸疏…陸璣『毛詩草木鳥獣虫魚疏』巻上「樹之榛栗」に見える( 淵鑑類函』巻四〇三「果部五」にもあ『 ある 。) ○栭…『大和本草』巻十「栗」の項に「…栭 栗ササトハ小ナルヲ云。小栗ナリ。又シバグリトササグリ 云。爾雅註ニ江東呼小栗為栭栗」とある( 爾雅注疏』巻九には「今江東亦呼為栭栗」とある 。『 ) 【参考 『毛詩品物図攷雕題』巻三「山有榛 「樹之榛栗」参照 「山有榛」の『詩雕題』では「榛」の横】 」 。 に「ハシバミ」というふりがなをつけ、さらにそれを見せ消ちにして「シバグリ」というふりがながつ けられている。通説の「ハシバミ」を否定し 「シバグリ」という独自の説に至る経過を表すか 『詩経、 。 雕題』の「山有榛」には「榛毎与棘相連。又与蕪相連。是荒野山阪多生者、実与栗全同。但小耳。故邦 名柴栗 「伝」所謂「似栗而小 、是也 『本草』諸書称榛者異于此。実如橡、無刺殻。不得曰「似栗 。。 」 。 」 邦名波斯盤美、是也。不当混同作説」。『毛詩品物図攷雕題』巻三「山有榛」にも同様の書き込みが見え る( 懐徳堂センター報』二〇〇四、八三頁参照 。『 )九
莱
シバ〔写真九〕
荒地にやがてもえ出るものなれば、すておきたる田地を「莱田」といふ 「闢草莱」て
。
*ふ語もあり。この草一たびもえ出れば、日々にひろがり漸々こなたに来る草なれば 「来
、
草」てふ心にて「莱」とは名付けらし。
「シバ」に「芝」の字をあてたるはひがごとなり 「莱」を「よもぎ」とよむもあらぬ
。
ことなり。みなふるき謬にぞ。
【注】○闢草莱…『孟子』离婁上篇に見える。ただし「闢」は「辟」に作る。 【参考 『毛詩品物図攷雕題』巻二「北山有莱」参照。】 余説 履軒が他の項目では大いに参考にしている 毛詩品物図攷雕題 詩経名物辨解 では 莱を ア 【 】 『 』『 』 、 「サザ」と呼んでいる。一方 『東雅』では「シバ」としている( 東雅』巻一五「草にもあれ、木にもあ、 『 れ、その小しくして 繁 りぬる、並に呼びてシバといひける也。…我国之俗、芝の字読てシバとなして、シゲ 此物となすはしかるべからず」)。履軒は『東雅』の影響を受けたかもしれない。なお、莱をシバとする ことについては、蓬莱山の項の末尾にも見える。
九
蕪
荒地、廃宅、陂塘にいちはやくもえ出る草なり。この国にては名もなく、人はただ草と
のみよびていやしむ。
蔓菁の類に「蕪菁」あり。即「カブラ」なり 「カブラ」の葉よく「蕪」に似たればと
。
てなん 「蕪菁」の名をとりけらし。
、
おほくもえつらなる故 「平蕪」の称あり 「荒蕪」ともいふ。よく道をふさぐ故 「榛
、
。
、
蕪」の称あり 「莱蕪」ともいふ。
。
近俗 「蕪」の一字を「カブラ」とよむは 「蕪菁」をはぶきていひならはしけらし。
、
、
されど心ゆかぬわざなりや。
【余説】これも履軒の合理的解釈の一例と言えるかもしれない。十
鷚
天鷚 天鸙 雲雀 告天子 ヒバリ〔写真十〕
「
天鸙 は 爾雅 に出たり 然るにこれを 天籥 といはばさらに趣あらんを
」 『
*』
。
「
」
、
「
鸙
」
は誤文にやあるらん。
「雲雀」もよき名なり。崔禹錫『食経』に見えたれば、唐の名なり。詩賦などに見えざ
*れば、やまとことなりと思ふはひがごとにぞ。
マ マ 【注】○爾雅…『爾雅』釈鳥。○食経…『倭名類聚抄』巻一八(羽族名)に「雲雀 崔禹錫『食経』云、ヒ バ リ 雲雀似雀而大」と見える 『東雅』も引く。。 【余説】声がいいので「天籥 (天の笛)と呼ぶべきだというのは、履軒独特の合理的解釈の一例と言う」 べきかもしれない。十一
鸚鵡螺
フメツ〔写真十一〕
殻の鸚鵡の鳥に似たればぞ、かくは名づけけらし。世に「不滅貝」とよぶは、いかなる
心にや。
【余説】岸雅裕「鸚鵡貝の謎―なぜ不滅貝と名付けたのか ( 愛知文教大学地域文化センター叢刊』一」『 九号、二〇〇二)は 「不滅貝」という名称の来歴を探っている。同論考によれば 「鸚鵡貝」は『和漢、 、 三才図会 (一七一三頃)にも見えるが 「フメツ」の名は、宝暦九年(一七五九)刊の『広大和本草』』 、に見える。岸は、その来歴を、鸚鵡貝が数億年を生き抜いてきた「生きている化石」だという西洋の知 見が日本に伝わり付けられた和名であると推測する。なお、オウムガイの生息地はフィリピン近海であ る。江戸博物学の国際性を物語る一つの事例と言えよう。
十一
われから
貝 貝光 コヤスガイもろこしのむかし、今の金銭のやうに亀貝を用ひたり。其貝これなり。後には惣名とな
れども、もとは一物の名なり。
「
ワレカラ とは 破殻 のこころならん 外の物の殻のわれたるやうにみゆればなん
」
「
」
。
、
この名をとりけらし。これを和歌にむすびて「われからなく」とつづけたり。海中の物な
*れば藻にすむ虫といひかけたるのみぞ。後の人、かならず藻の中にて鳴虫をとらへてこの
歌をとかんとするは、いとかたはらいたしや 「ワレカラ」は貝の名なるをしろしめさぬ
。
故にこそ。
【注】○われからなく…「
海人の刈る藻に棲む虫の我からと音をこそ泣かめ世をば恨みじ ( 古今和歌」『 集』八〇七)。「漁師が刈り取る海藻に棲み付いている虫の「われから」という名前のように、自分から 声を上げて泣こう。あの人との仲を恨みに思うことはするまい」の意。 【余説1】コヤスガイ(子安貝)はその形状から、豊産、子孫繁栄の霊力を持つ物として珍重された。 現在の香港以南からベトナム辺りの南方で産出する。古代中国では非常に貴重な物であったこと、比較 的大きさが揃っていたことなどから、玉に代わる物として珍重された。周知のように 『竹取物語』にも、 「燕の子安貝」が登場し、日本でも珍重されるものであったことがわかる。 【余説2 「ワレカラ」は『枕草子』第四一段にも登場するが、貝ではなく節足動物の一種である。履軒】 は、基本的に「人は~を持ち上げて特別な物のように言うが実はどこにでもある普通の物だ」という論 法を使う。節足動物のワレカラについては履軒は目にしたこともなくこのような論を立てることになっ たのであろうか。十一
藻
モ其類あまたあるが中に、今やうのきぬの紋にすりたる「からくさ」てふものこそ、まこ
との「藻」なりけれ。もとは唐織物よりうつしたれば「からくさ」とよぶなりけり。また
其本をたづぬれば、袞服十二章の内の藻なり。今、河にも池にもおほくあり。もろこしに
*のみこの草あるにはあらず。賤が屋のよるの物にさへ、この紋はあるなり。いとかたじけ
*なきわざなりや。
注 袞服十二章…古代 天子の服につけた十二の飾模様 その一つに藻がある 書経 益稷篇 毛 【 】○ 、 。 (『 』 )。『 』 「 」 「 、 。 、 、 詩品物図攷 巻一 于以采藻 にも 按袞衣十二章 藻居其一 古制雖不可考 而今錦文染色多作藻文 皆長茎宛転旁生葉、蓋十二章之遺也」とある。○よるの物…夜具。唐草文は 「江戸中期には吉祥文様と、して婚礼調度に、また蔓草は生命力が強く、蔓をどこまでも伸ばすことから、長寿延命・子孫繁栄の象 徴とし、小袖などの図柄に用いられた (藤原久勝『キモノ文様事典』淡交社、二〇〇一 。」 ) 【参考 『毛詩品物図攷雕題』巻一「于以采藻」参照。】 【余説 ここでも履軒は 日本にもある という論法を使い】 「 」 、「目からうろこ をねらう 着想は」 。 、【注】 に引いた『毛詩品物図攷』からであろう。蛇足ながら、今ではからくさは西方起源であると考えられて いる(中江克己『染織事典―日本の伝統染織のすべて』泰流社、一九九六、一三一頁「唐草文」)。ちな みに 『詩経 「于以采藻 「召南 「采蘋」への『雕題』では 「按『本草』李時珍云、藻者二種。水中甚、 』 」 」 、 多。水草(*『左伝雕題』隠公三年ではこの後に「葉」がある)長二三寸両々対生、即馬藻也。聚藻、 葉細如糸、及魚鰓状、節々連生、即水蘊也。又按『左伝 「蘋蘩蘊藻 、蘊与藻対、必非一物、則此采藻』 」 疑是馬藻、非聚藻。是二物皆可食。杜註以蘊藻為一物、並謬」と言う 『左伝』は隠公三年(その雕題に。 も、上記と同様の内容の書き込みがある 。)