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中国共産党の労働組合運動方針に関する考察(1921-1923年)

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論 文

中国共産党の労働組合運動方針に関する考察(1921 - 1923年)

高     超

アブストラクト:中国共産党の労働運動史を考察するに当たってストライキ・組合化の具体的な事例の みならず,中国共産党の自己認識ないし綱領・決議・指示を把握することも必要である。本稿は,1921 年7月中国共産党の成立から1924年1月国民党第一回代表大会開催前までに時期を限定し,労働組合運 動方針が決定された三回の中国共産党の全国代表大会に焦点に合わせ,各大会前後の中国共産党の労働 組合運動の実状を示す。さらに,中国共産党の労働組合運動に関する諸方針の内容および「国共合作」

と労働組合運動の関係をめぐるコミンテルンの諸指示・党内論争を歴史的に考察する。

はじめに

1920年夏以降,陳ちんどくしゅう,李たいしょうなどの各地共 産主義者は,中国共産党(以下,中共と略記)

の階級基礎を拡大し,積極的に労働組合(中国 語訳「工会」)活動に参加していた。こうした 背景のもと,中共の第一回全国代表大会(以下,

「一大」と略記)が,1921年7月23日上海で開 催された。「一大」以降間も無く,中国は「労 働運動の第一回高揚期」に突入したと言われて いる。中共の労働運動史研究において,香ホンコン海 員ストライキ,京漢鉄道ストライキ,安あんげんスト ライキ,開かいらんストライキなどを対象とし,中国 労働者階級の形成過程と結び,それらの運動の 起因・過程・組織・参加人物に関する研究は,

数多く存在している。

本研究はストライキ・組合化に関わる具体的

1 以下も,第二回全国代表大会は「二大」と,第 三回全国代表大会は「三大」と略記する。

な中共の活動に対する分析を意図したもので はない。中国共産党の労働運動史を研究する際 には,中共内部の自己認識ないし具体的な綱領・

決議・指示を把握することも必要である。そこ で,本研究では,1921年7月中共成立から1924 年1月国民党第一回代表大会(以下,「国民党 一大」と略記)開催前までの時期を対象に,中 共の労働組合運動方針が決定された三回の全国 代表大会に焦点に合わせ,各大会前後における 中共の労働組合運動の実状を示すと同時に,労 働組合運動に関する諸方針の内容および「国共 合作」と労働組合運動の関係をめぐるコミンテ ルンの諸指示・党内論争を歴史的に考察する。

1 「一大」前後の中共労働組合運動方針

(1)「一大」前の中共労働組合運動

既に1920年5月には,コミンテルンの臨時機 2 これらの活動について,劉明逵,唐玉良主編

(1998;2002),王永璽等編(1992)を参照。

(2)

関「コミンテルン東アジア書記部」が上海に成 立していた。この「中国科」の工作内容の一つ は,「中国労働組合の組織に影響を与える」と いうことだった(中共中央党史研究室第一研究 部訳1997:32)。その後,コミンテル代表・ヴォ イチンスキーの主導のもと,上海に「革命ビュー ロー」が設立された。この革命ビューローは,

各種労働団体の統合による「労働団体中央 ビューロー」の設立を予定していたが,結成さ れた形跡はない(石川禎浩2001:134)。そして,

この「革命ビューロー」の「成果といえるもの は,労働団体の糾合といった組織面よりも,む しろ出版,宣伝の方面に顕著だ」(同前:134)

と評価されている。

公開された中共「一大」の北京と広州支部の 報告によって,「一大」前の実情を窺うことが できる。北京支部の組合への組織化は全体的に は,あまり良くなかったが,しかし特に長ちょうしんてん 駅を中心にして鉄道労働者の組織化が進んでい たと報告されている(中央檔案館編1989:14- 18)。だが,新しく発見された「中国労働組合 書記部北方支部の報告」(1921年12月12日)に よれば,「北方労働界の一つの光り輝く星」と 自賛した「長辛店鉄路工人会」は,間も無く「有 名無実」となり,工人倶という名への変更 を余儀なくされた(中国李大釗研究会編2009:

459-480)。

1921年,広州の百余りの労働組合が,既に

3 「革命ビューロー」についての研究は,李丹陽,

劉建一(2004)を参照。

4 この報告についての研究は,李自華(2011)を 参照。

5 『共産党』第6号,1921年7月7日。

孫文政府の保護下で結成されていたが,大部 分の組合は,無政府主義と国民党の影響を受け ていた。従って,譚たんへいざん,陳ちんこうはくをはじめする 中共の労働組合活動は,広州ではあまり進展し なかった(中央檔案館編1989:20-24)。

要するに,「一大」前頃までに,中共の労働 組合運動は,ほんの僅かな成果をあげたにすぎ ない。その一つの要因は,ヴォイチンスキーの 帰国と関連がある。「一大」前の中共の活動経 費はほとんどヴォイチンスキーによるもので あった。ヴォイチンスキーが帰国した以降,『労 働界』,『共産党』,『上海伙友』などの機関誌は 次々廃刊になっていった。また,例えば,上海 の労働者学校も経費がなく,廃校を余儀なくさ れた(Tony, Saich 1991:309)。

つまり,中共は労働運動・労働組合との「結 合」が順調に進まず,コミンテルンの主導下,

1921年7月に,上海で「一大」を開催した。

(2)「一大」と中共労働組合運動方針

以上のことから,中共「一大」前の労働組合 活動は,まだ試行の段階にあったと考えられる。

従って,組合活動の展開を含む労働運動の計画 は,「一大」で重要な議題になっていた。以下 では,現存する「一大」に関する文書と参会者 6 孫文政府1920年年末に「労働を保護,労働者の 生計の向上を計画,労働組合を提唱」という内 容を明記する「内政方針」を提出した(中山大 学歴史系孫中山研究室等編1985:433)。

7 その発展概要と具体の労働組合リストは,李宗 黄(1922:192-197)を参照。

8 中共の公式見解によれば,中共の成立は,「マル クス・レーニン主義と中国労働運動の相結合」

と言われ,高く評価されている(中共中央党史 研究室2011)。

(3)

の回想から,「一大」の中共労働組合運動方針 を考察する。

現存する「一大」文書の一つである「中国共 産党の目標に関する最初の決議」(以下,「最初 の決議」と略記)と言われる文書は,「労働組織」,

「宣伝」,「労働補習学校」,「労働組織研究機関」,

「現存諸政党に対する態度」,「党と第三インター ナショナルとの関係」の六つの部分で構成され ている。「最初の決議」では,階級闘争の精神 を提唱し,他の政治勢力を排除し,産業別労働 組合を組織することが中共の主要な目標である と規定している(日本国際問題研究所中国部会 編1970:56)。しかし,労働組合の成立が認め られる資格は,組合員二百人以上の組合に限定 されていた。また,「労働補習学校は産業別労 働組合を組織するための準備手段である」と明 記している(同前:56)。

ところが,「最初の決議」の中国語決議文は なくなっており,陳公博論文の英語訳文と付 録2としてのロシアが所蔵するロシア語訳文が 公式な文書であるか否かを巡っては議論の余地 がある。李玉貞(2007)は,ロシア語と英語の 文書を再検討したうえで,これは公式な決議で はなく,大会の記録または決議の草稿の可能性 があるとしている。1929-1930年の間に,ロシ アが所蔵する中共に関する文書を調べた瞿しゅうはく は,「最初の決議」が「一大」の決議文ではなく,

1921年3月会議10の決議文だとしている(中央

9 この文書はアメリカにおいて発表した陳公博の 修士論文に付録として収録された(C. Martin, Wilbur 1960:103-105)。

10 しかし,現存する資料の制限により,この3月 会議が開催されたかどうかについては,まだ色々 な論争がある。この会議についての考証は,石

檔案館編1982:161)。また,「一大」の会議主 席張ちょうこくとうによれば,「一大」の公式な決議文は,

当選した中央局三人(陳独秀,張国燾,李たつ) に任せていたと回想している(張国燾1980:

146)。これは,「一大」の公式な決議文が実は「一 大」の会議期間に完成されなかった可能性を示 唆するものである。

ところで,発見された1929年の張国燾の中共 成立前後に関する講義の原稿によれば,「一大」

の時,「我々は共産党が労働者の党だと主張し た。大部分の力を尽くして,労働者の中に活動 すべきだ。最近一年に成果がなかったという理 由でやめるわけにはいかない。労働運動の全国 センターを組織し,全国の労働運動を指導する こと,出版物を出すこと,労働者の夜学を運営 すること,労働者を入党させることと主張し た」,「労働運動の計画を決定した」と講じてい る(KB・舎維廖夫2002:52-57)。

後に,より詳細に論述している張国燾の回想 録では,「一大」では「労働運動の問題を巡る 二つの主たる項目は,如何に労働組合を組織す るか,また,労働者をいかに党に加入させるか,

ということだった」と論じている(張国燾 1980:145)。

彼は,労働組合の組織化について,三つの決 定がおこなわれたと指摘している(同前:145)。

第一,労働者の闘争綱領であり,8時間制や賃 上げなどを主要な目標にする;第二,労働組合 組織の原則であり,旧式の労働者団体と区別し,

新式の産業組合に注意を払うべきだ。職業と地 域で区別せず,企業の労働者を一つの労働組合 内に組織させる。その上で,産業別労働組合を

川禎浩(2001)を参照。

(4)

組織すべきだ;第三,中共中央の所在地には,

労働運動の指導機関及び各地の支部を設立し,

労働運動の指導の中心にすべきだ。そして,労 働者を組織するために工場に行くべきだと主張 している。

さらに,労働者党員の加入については,「労 働者を党に加入させる問題について,出版物を 通して,マルクス主義を労働者の間で宣伝する。

マルクス主義に対して理解できるかどうかに関 わらず,労働組合活動に熱心で,労働者の利益 のために戦う労働者を加入させる。地方支部の 責任によって,労働者出身の党員に対してマル クス主義の教育を行う」(同前:145)としてい る。

1953年,「一大」代表・包ほうけいそうは,「一大」の 労働運動に関する決議には「組織する」「経済 闘争」「政治闘争」の三つの要項があったと述 べていた(中国社会科学院現代史研究室,中国 革命博物館党史研究室選編1980:319)。後,

1979年,包恵僧は,この決議は「第一,産業労 働者であろうと,専門職労働者であろうと,す べての勤労労働者を組織するべきだ;第二,労 働者の中から優先的に党の組織を展開する;第 三,労働運動は産業労働者,特に鉄道労働者を 中心にする」という三つが要点であったと,修 正した(中国社会科学院現代史研究室編1980:

98)。

包恵僧の回想は,張国燾とは違うところがあ るが,張国燾と包惠僧の回想によれば,労働運 動についての決議案が議定されたことは確認で きる。それらの回想は現存する「最初の決議」

の内容と違っていると考えられる。しかしなが ら,総合的に,「最初の決議」と二人の回想を 通して,大体「一大」までの中共の労働組合運

動に関する方針の内容を知ることが出来る。

(3)労働組合書記部の設立と十月中央会議 さらに,その方針を実行するための労働組合 書記部と十月中央会議について述べる。

「一大」議論の結果として,労働組合運動の 指導機構の設立を巡る動きが始まった。1921年 8月に,新しいコミンテルン代表・マーリン(本

名はHendricus Sneevliet)は,「中国労働組合書

記 部 宣 言 」 を 起 草 し た(Tony, Saich 1991:

613)。後に,中共の機関紙『共産党』は,この 宣言を公表した11。「中国労働組合書記部は,中 国産業の中心である上海の幾つかの労働団体 が,発起者となり組織されたものであり,一つ 一つの労働組合をすべて連合させようとする全 体的機関」(日本国際問題研究所中国部会編 1970:65)であると掲載された。そして,後の

「中国労働組合書記部章程」では,「各業の労働 者が団体を組織することを促進し,労働者の地 位を上げ,労働者の国際連合を促進する」との 趣旨を示し,「社会主義者および覚悟がある労 働者」という成員資格を決めている12。しかし,

1979年,中共早期の労働組合活動家である羅しょうりゅう

は,当時「我々党自身はまだ労働組合がない。

組合書記部を設立するしかない。この性質は連 絡センター的なものであり,事実上,一時的な ものである」としている(中国社会科学院現代 史研究室,中国革命博物館党史研究室選編 1980:204)。

後,1921年10月27日13,陳独秀の主導のもと,

11 『共産党』第6号,1921年7月7日。内容からみ て,実際の出版日付は8月のようである。

12 『工人週刊』,第52期,1922年9月17日。

13 その会議の日付についての通説は9月だが,李

(5)

上海で招集された中央局会議では,労働組合書 記部の活動計画に関する議論が行われた。この 会議では,張国燾が提出した労働組合書記部の 計画草案が正式的に通過した(張国燾1980:

165)。そして,マーリンと陳独秀双方が妥協し,

中国労働組合書記部の経費は,「赤色労働組合 インターナショナル」(「プロフィンテルン」)

から手に入れることを決定した(中国社会科学 院現代史研究室編1980:102)。会議後の11月,

中共中央局は「中国共産党中央通告」という形 で,「全力で全国鉄道労働組合を組織する」と の決定を全国の支部へ伝達した(中央檔案館編 1989:26-27)。

設立された上海の労働組合書記部は,1921年 11月に上海各工団聯席会議に参加したが,結局 排斥された。書記部は退会し14,既存の上海労 働者の組織との関係が悪化していた。これ以後,

長い間,労働組合書記部の上海での活動が,順 調に進むことはなかった15

2 「二大」前後の中共労働組合運動方針

(1)「二大」までの中共労働組合運動

1922年3月に香港海員ストが終わった後,広 州の労働運動の風潮に乗り,中国労働組合書記 部の下,1922年5月1-6日,広州で第一回全 国労働大会(以下,「一労大」と略記)が開催 曙新研究は,10月27日を考証する(中共一大会 址 紀 念 館, 上 海 革 命 歴 史 博 物 館 籌 備 備 処 編 2011:368-382)。筆者は,この考証を認めた。

14 「中国労働組合書記部退出上海各工団聯席会的宣 言」『労働週刊』第14号,1921年11月19日。

15 1922年7月,上海租界の警察に取り締まれた後,

中国労働組合書記部は,上海から北京に移転し た(中共上海市委党史資料徴集委員会,上海市 総工会編1989)

された。参加した多くの労働者団体は広州,香 港の地元組織であり,その大会に熱心ではな かった。そして,国民党系の労働組合はもとも とその大会への参加を拒みたかったが,孫文の

「賛助」指示があったため,代表を派遣した(中 国労工運動史編纂委員会1959:201)。この大 会で,両党の労働運動活動家はいくつかの問題 をめぐり論争になった。この大会で採決された 多くの提案及び大会宣言は,中共系の労働組合 代表により提出されたものだった。「一労大」

の提案及び大会宣言は,当時の中国共産党の労 働組合運動方針を反映している16。例えば,産 業組合の組織方式,全国労働組合センター(「全 国総工会」)の提案などがそれである。しかし,

国民党系組合の反対によって,政治に関する議 案は通過しなかった。このような過程で中共の 労働組合指導者たちは,国民党に反感を抱くよ うになった。後の何回かの論争で,中共の組合 指導者たちは,常に「国共合作」に反対してい た。

それに反し,「一労大」の中共と関係のある 労働組合リストを見ると,呉はいが統括してい る地方からの組合が大部分を占めている。広州 とは逆に,北方で国民党の労働組合勢力はほと んど存在しなかった。当時,中共は,ロシア政 府の「聯呉」政策のおかげで,北京政府の派閥 闘争を利用しつつ,自らの主張を宣伝し,労働 者の組合化を進めていた。1922年5月,李大釗 はこの合作を活用し,中共党員を呉佩孚の敵で ある交通部(「交通系」)に派遣した。彼らは交 通部の公認調査員として,鉄道沿線の労働組合 16 決議案と宣言の内容は,(中国全国総工会中国工

人運動史研究室編1957)を参照。

(6)

活動に介入した。それを通じて,北方の鉄道沿 線の労働組合は次々と,中共によって本格的に 組織されることとなった。最終的に,後の京漢 鉄道労働組合を準備するに至った。

1922年6月30日,陳独秀はコミンテルンに中 共の活動についての報告(中央檔案館編1989 年:47-55)を送っていた。この報告によって,

第二回全国代表大会までの各地の中共労働組合 運動の状況とその後の計画について概要する。

その報告によれば,1921年10月から1922年6 月にかけて,党費の支出の大部分は,労働運動 の支援及び関連する出版物の印刷に使われてい る。また,全体の10%に過ぎなかった労働者出 身の党員は,21人に増加している。萍郷路鉱労 働者倶楽部,粤漢鉄路労働者倶楽部,京漢鉄路 労働者倶楽部などを組織した。

陳独秀はこの報告で今後の計画を示している が,それは基本的に「一大」と「一労大」の運 動方針を継承している。第二回全国労働大会を 準備すると同時に,力を結集し,全国鉄路労働 組合,全国海員総労働組合,全国電気労働組合,

全国機器労働組合,全国紡績労働組合という五 つの全国的な産業組合センターを組織すること が中心となっている。同時に,上海,広東と武 漢では,地方の労働組合センターを組織してい る。加えて,北京,上海,武漢,広州で,労働 組合の幹部を育成するため,労働組合職員の育 成学校を設立している。

(2)「二大」と中共労働組合運動方針

1922年7月に,上海で開催された中共「二大」

では,他の政党に対して独立性,攻撃および排 他的態度が採られた「一大」と違い,「全国革 新党派を連合し,「民主的連合戦線」を組織す

べきである」と決議した。

その背景のもとで,「二大」では,「労働組合 運動と中国共産党に関する決議」17が通過した。

この決議は,労働組合の定義・対象・機能・性 質・運動方式・組織構造などの各方面から,中 共の基本的労働組合運動方針を制定している。

これは,初めて,正式的に採決され,公表され た労働組合運動に関する決議だった。1922年6 月までの中共の労働組合思想の集大成であると 考えられる。

前述の陳独秀の報告書と同様,「二大」の労 働組合運動方針は,鉄路・海員・金属・紡績な どの産業組合化を中心にしている。また,「労 働組合が労働者の経済上の改良運動に努める 時,さらに労働立法の運動をすべきである」と している(中央檔案館編1989:77)。「二大」後,

1922年8月,中国労働組合書記部は労働立法運 動を行い,「労働法案大綱」を公布した18

この決議案は,労働組合の原則と運動方針を 明らかにしただけではなく,労働組合と共産党 との区別を初めて党中央の公式な文書で示した ものである。

「共産党はあらゆる階級的自覚をもったプロレ タリアートの組合であり,プロレタリアートの 前衛であり,一定な綱領をもち,ブルジョアジー と資本主義の打倒という目標を持っているプロ

17 以下の訳文は,中国共産党史資料集の英語版訳 文(日本国際問題研究所中国部会編1970:153- 157)を参考しながら,筆者が中国語の決議文(中 央檔案館編1989:76-82)から一部を改訳したも のである。

18 具体的な活動と文書は,劉明逵,唐玉良編(2002:

329-358)を参照。

(7)

レタリアートの政党である。労働組合は(政治 的見解のいかんを問わず)全労働者の組合であ り,組合内に社会主義的・共産主義的精神を教え,

共産党と同じ目標を推進するように努めるが,

比較的に緩やかに進むあらゆる階級の組合であ る。戦争のように,軍隊内に前衛を持ち,あら ゆる部隊の大衆がそのあとをつき進む。共産党 は人の頭腦,全体の労働者は人の身体ともみな されるであろう。いかなる労働運動においても,

『前衛』と『頭腦』としての共産党は,あらゆる 労働組合の活動に注意しないわけにはいかない し,労働組合運動を適当に誠実に,大胆に指導 すべきである。」(同前:77)

つまり,共産党と労働組合の関係は「頭腦」

と「身体」であるとされている。それゆえ,共 産党は労働組合を指導するため,労働組合・工 場委員会やその他の諸労働団体の中に共産党の 指導団体を組織すべきであるとされている。

他方,「民主的連合戦線」の決議に合わせ,「労 働組合運動と中国共産党に関する決議」では,

労働組合は,政治運動に参加し,政治の民主化 のために戦うべきであり,民主的連合戦線では 独立的で,かつ重要な地位を占めるべきである としている。その上,国民革命,国民党,無政 府主諸政党やキリスト教政党に対する態度が定 められている。即ち,「共産党員は,国民党,

無政府主諸政党あるいはキリスト教によって組 織した労働組合内で活動する時,それらの組合 から脱退させるように労働者を恣意的に導いて はいけない。我々の戦術は,彼らの労働組合内 に,次第に力を蓄え,国民党,無政府主義政党 あるいはキリスト教の指導権をくつがえし,自 らの指導地位を勝ち取るということである」(同

前:80-81)としている。労働者の福祉のため 闘うために,前述の組織と協力すると同時に,

中共が労働者の政党であることを労働者に理解 させること,と主張している。

そして,追加議決文では,労働者利益の自衛 組織としての労働者の消費合作社を支持してい る。また,進歩的ギルドの中で活動し,同性質 のあるいは同一原料の生産に従事する諸ギルド が集まって労働組合を組織することを要求して いる。保守的なギルドや労働者を欺くためにブ ルジョアジーによって組織された諸類型の団体 の中でも活動すべきであり,それらの内部に共 産党の団体が組織されるべきだと指摘してい る。

つまり,中共の労働組合運動において,「二大」

の「労働組合運動と中国共産党に関する決議」

は重要な意味を持つと考えられる。1922年1月 からの「労働運動の第一回高揚期」という中共 の通説と違い,「二大」代表・蔡さいしんは,「二大」

と「三大」の間に中国労働運動の高揚があった と1926年 に 指 摘 し て い る( 中 央檔案 館 編  1982:33)。後に,李りつさんも,中共の労働運動 は1922年の「二大」から本格的に展開したとし ている(同前:214)。

(3)「国共合作」の提出と「西湖会議」

ところで,1921年12月10日からマーリンは桂 林に旅立ち,長沙,武漢,広州などで中共の青 年組織と接触し,中共の労働運動に失望した。

それとは逆に広東省で,国民党は香港海員スト を指導し,労働者の支持を得ているとマーリン は考えた。従って,マーリンは1922年2月,広 東省から上海に戻り,この考察及びロシア政府 の外交方針に基づき,国民党を排斥する見方を

(8)

諦め,国民党の内部で活動を展開するという見 解 を 中 共 中 央 に 示 し た(Tony, Saich 1991:

323)。しかし,この意見は,当然,社会主義革 命を主張していた中共の指導者たちによって拒 否された19

従って,マーリンは「二大」開催前の7月に,

この策略を実行するため,モスクワに着き,コ ミンテルン執行委員会を説得した。1922年8月,

コミンテルン執行委員会は中共に対する特別指 令(「八月指令」)を作成した。この指令によれ ば,中共は国民党内に,労働組合内に,彼らの 同調者のグループを結成しなければならない,

と要求している(同前:328-329)。

言うまでもなく,「二大」に定められていた「民 主的連合戦線」の「党外合作」方式は,マーリ ンが持っている「党内合作」方式の「八月指令」20 と違っていた。従って,モスクワから中国に戻っ たマーリンは中共中央特別会議を杭州西湖で開 くよう要求した。この「西湖会議」(8月29-30 日)は,歴史的に「国共合作」の転換点として 位置付けられる。

ところが,参会した四人の中央委員張国燾,

蔡和森,鄧とうちゅう,高こうぐんは,国民党との「党内 合作」方式に強く反対していた。当時,労働組 合書記部の幹部であるこの四人と他の書記部成 19 陳独秀は「中国共産党と社会主義青年団が均し く国民党へ加入するというマーリンの提議に,

われわれは反対する」との手紙をコミンテルン のヴォイチンスキーへ送った(中央檔案館編  1989:31-32)。

20 1935年,アイザックスのインタビューを受ける 時,マーリンは「西湖会議」時,「私には特別な 指示はなかった」と弁解した(Isaacs 1971:105- 106)。しかし,1923年12月のコミンテルン会議で,

彼は「指示を持って中国に着いた」と言った。

員たちは,上海中央の党組織活動が消極化して いるのとは反対に,常に労働組合書記部内部の 会議を招集していたため党内の「小組織」と言 われた。彼らは,他の政党やブルジョアジーと の協力を完全に排斥したわけではないが,共産 党及び指導する労働組合運動の独立性を強調し ていた。

しかるにこの「八月指令」も,中共の労働組 合運動方針について言及している。同指令に,

中共の最も重要な任務は,労働大衆を組織する ことであるとされている。「この任務を完成す るために,労働組合を結成するという形式を採 用するしかないが,地方の原則に基づく無政府 主義的なギルドの妨害に直面している。それら のギルドとの闘いの最大の難点は,そのような 組織が互助の活動をするだけではなく,祖先を 崇拝したり神を礼拝したりする団体だという事 実だ。大衆の中に存在しているこの宗教的迷信 に関して,それらのギルドと闘う際には,この ような現象に対して争うことは避けるべきだ。

労働者の注意力は,もう一つの方面に集中すべ きである。即ち,それらの組織はあまり強くな いし,労働者の経済的任務の完成に役立たない ということだ。そうであるからこそ,労働組合 を結成すべきだ」と命じている(同前:329)。

これは「二大」のギルドに対する方針に近いと 考えられる。

そして,「労働組合の中央集権化は,すでに 存在する産業組合センターと合意して実現すべ きだ。産業組織または職業組織を結成するかど うかは,その地方の条件に従うものとする」(同 前:329)という第六項は実際,1922年6月30 日の陳独秀の書面計画への公式な返答だっただ ろう。

(9)

結局,「西湖会議」で,マーリンは,コミン テルンの紀律を利用して,「国民党加入」の決 定に中共の指導者たちを屈服させたが21,その 後も,「国共合作」と労働組合運動の関係をめ ぐる論争は党内で続いた。

(4)コミンテルンの「一月決議」

だが,マーリンの「党内合作」に対しては,ヴォ イチンスキー,サファロフなどのモスクワ駐在 のコミンテルン代表も異論を唱えた。マーリン が出席しなかった第四回コミンテルン代表大会

(1922年11月)で,彼らは,「東洋問題について の一般テーゼ」の補足として「中国共産党の任 務」という秘密の決議を決定していた。そこで は,孫文政府を含む資産階級と軍閥を批判し,

「この闘争に真の力を生じさせるため,共産主 義者は労働者大衆の組織,労働組合と強力な大 衆的共産党の創設に最も専念にすべきだ」とい う独自の労働運動の路線を主張している(同前:

378)。

明らかに,新しい秘密の決議は,マーリンの 政策とは異なるものであった。マーリンは1922 年12月23日,モスクワに到着し,「西湖会議」

の異論には触れず,コミンテルン執行委員会で 自己の策略を弁護し始めていた。彼は「中国の 階級分化はまだ見られない」という中国の労働 運動の状況を踏まえれば,「八月指令」を修正

21 陳独秀は「全党同志に告げる書」(1929年)の中 で,マーリンが「中国共産党はコミンテルン決 議に従うのかどうかと詰めより,結局中共中央 はコミンテルンの規律を尊重してその提案を受 け入れざるを得なくなり,国民党加入を承認し た」と述べた(石川禎浩,三好伸清編2016:

351-352)。

する必要はないと主張した(中共中央党史研究 室第一研究部訳1997:188)。最後に,マーリ ンとヴォイチンスキーは共同で「国民党にたい する中国共産党の態度の問題についての決議」

(「一月決議」)を起草するということになった。

決議の前半は,マーリンの見方を反映し,「国 民党は,中国における唯一の重要な民族革命グ ループである」と強調し,中国の「独立的な労 働運動がまだ弱体であるかぎりで,また帝国主 義者と国内におけるその封建的手先たちとに反 対する民族革命が,中国にとって中心的な課題 であるかぎりで,さらに,労働者階級が,この 民族革命の課題の解決を直接の利益としながら も,完全に独立的な社会勢力としてはまだ十分 に分化していないかぎりで,共産主義インター ナショナル執行委員会は,国民党と若い中国共 産党とがその行動を相互に調整することが必要 である」としている(村田陽一1979:373)。

それゆえ,「中国共産党員が国民党内にとどま ることが,適切である」との指示を出している

(同前:373)。のちに,マーリンの主張には,「資 本主義未発達=階級未分化=労働者弱体」とい う基本的な認識があったとされることとなる

(横山宏章1991:119)。

一方,ヴォイチンスキーの意見も反映されて おり,後半では,「中国共産党の独特な政治的 性格の放棄という代償によってあがなわれては ならない。党は,厳格に中央集権化された機構 をもつというその固有の組織的特徴を堅持しな ければならない。強力な大衆的共産党の基盤を 構築する目的で,労働者大衆を組織し,教育し,

労働組合を創設することが,中国共産党の重要 な独特の任務でなければならない。この活動に おいて,中国共産党は,それ自身の旗のもとに,

(10)

また他のあらゆる政治的グループから独立し て,行動しなければならない。ただし,そのさ い民族革命運動との衝突は避けなければならな い」という内容を提示した(村田陽一1979:

373)。

「国民党内にとどまること」と「自身の旗」が,

相容れない矛盾であることは明らかである。こ の問題の本質は,中共の労働組合運動と労働者 階級の力をどのように捉えるかであると考えら れる。言うまでもなく,この曖昧な決議に対し て色々な解釈があった。のちに,中共の公式な 党史で陳独秀は,前半の支持者として,右寄り の日和見主義者と批判される方で,張国燾は,

後半の支持者として,左寄りの日和見主義者で あると批判されている。

ところで,第四回コミンテルン代表大会の期 間に,参会者代表・陳独秀は「中国共産党の目 前の実際問題に対する計画」を提出した。その

「労働運動」の節では,「共産党は,労働者の政 党だ。完全に労働者階級に基づいて,党の基盤 を構築すべきだ。労働者に向けた宣伝と組織化 に注力すべきだ」とされ,いくつかの中共労働 組合の活動計画が掲げられている(中央檔案館 編1989:122-123)。

その計画では,「二大」の決議と1922年の労 働運動の風潮に基づき,組合への組織化は依然 として,鉄路・炭鉱・海員を中心にしている。

その三つの組合が同盟し,全国労働組合セン ターの基礎を構築すべきだとしている。予定さ れた1923年の第二回全国労働大会では「全国労 働運動統一」のスローガンを掲げ,全国労働組 合センターの中央機関を組織し,労働者階級の 連合戦線を作るとしている。そして,再び工場 委員会運動を提起している。労働組合は生産機

関の外部機関として,工場委員会は生産機関の 内部機関として,両者の機能を区別している。

だが,上記の計画は,後の「二・七」事件に よって実施されることはなかった。

3 「三大」前後の中共労働組合運動方針

(1)「三大」前の中共労働組合運動

マーリンが,中国で「一月決議」を持ち帰っ て中国にむかっている間,悲惨な結末となった

「二・七」事件が発生した22。この事件によって 多くの中共労働組合が潰され,一番大きな京漢 鉄路労働組合も崩壊した。また,「二・七」事 件の影響で,予定されていた1923年3月の中共

「三大」と5月の第二回全国労働大会も延期さ れた。そのような事情により,1923年6月,広 州で「三大」がようやく開催された。

京漢鉄路の労働運動をめぐり,マーリンは「三 大」前,参会者代表たちに会い,調査を行って いる。マーリンの調査ノートは,「三大」前の 中共労働組合運動を理解する上で役に立つと考 えられる(Tony, Saich 1991:436-454)。以下で,

簡単に述べる。

北方鉄路沿線の多くの労働組合は,既に無く なった。「二・七」事件の時,武漢で,労働組 合の指導者と党の指導者は互いに相手の活動を 非難していた23。武漢の労働者は,まだ労働組 合の存在意義を信じていたが,政府の鎮圧を非 常に怖いと感じていた。一方,3万ぐらいの組 合員が組織されていた湖南全省工団聯合会は,

依然として中共の影響を受けながら存在してい 22 「二・七」事件について,中華全国総工会工運史

研究室等編(1983)を参照。

23 武漢の労働組合代表たちは「二・七」事件から「離 脱した」張国燾を強く批判した。

(11)

た。これに従属した23組合の大部分は1922年の 一年間の間に成立している。

さらに,労働運動指導者王おうとマーリンの 会談から,北方の労働者は,政治にあまり関心 を払っていず,ただ生活条件を改善してほしい という気持ちが一般的であるということが明ら かになった。労働者を労働組合に加入させられ る可能性はあるが,入党させるのは無理だと,

王荷波は考えた。そして,上海の労働組合運動 は弱く,紡績と埠頭の労働者を組合に組織する ことは難かった。中共は外部者として,労働者 の信用を得ていなかった。

陳独秀は「三大」会議中の報告で,以上の状 況を部分的に確認している。それに加えて,陳 独秀は労働者の中にある「知識人との関係を断 つ」という傾向を批判している(中央檔案館編  1989:171)。この傾向という表現について,彼 は,はっきりとその中身は言わなかった。だが,

中共の組合オルグは,そのほとんどを知識人が 担当しているとの事実を踏まえると,労働者は 中共の政治的動員に興味がないと彼は考えてい たのだろう。

前述の実状を整理し,マーリンは1923年6月 に,モスクワで「三大」の状況を報告した際に,

「三大」までの中共の労働組合運動について評 価し,「私が特に強調したいのは,今まで労働 組合の工作は共産党の旗のもとで展開していな い。労働者はただ共産党の労働組合に関する宣 伝しか受けていない」また,「労働組合の宣伝 活動の原則は,階級闘争の旗のもとで宣伝すべ きだ。このために決して共産党の旗を掲げては ならず,長期間であっても労働組合の宣伝で共 産党の旗を使ってはならない」と指摘している

(Tony, Saich 1991:618)。

誰かの旗のもとで労働組合を組織するのかど うかは,下述の「三大」の論争に重要な議題に なったのである。

(2)「三大」の論争

周知のように,「三大」の趣旨は労働運動で はなく,「一月決議」に拠って,国民党に共産 党員を全員加入する政策を通過させるというこ とだった。「三大」の正式な会議記録はないが,

マーリンの詳しい会議ノートから「三大」の「国 共合作」論争を窺うことが出来る(同前:577- 592)。林育南の会議での発言によれば,「われ われの討論の分岐点は労働運動と党の工作」で あったとされる(同前:580)。

会議が行われた際に,「西湖会議」と同様,「小 組織」の張国燾,蔡和森からの強い反対に遭っ た。張国燾は陳独秀の悲観的な報告に対し,「中 国では労働者勢力の発展スピードより速い勢力 は何も無い。海員と鉄道のストは労働者の重要 な役割を示している」と考え,「多くの地方で,

我々は労働組合を支配することができる。あそ こに国民党の影響はない。我々の党は北方の労 働者に対し,主導的な地位を占めている」と反 論した(同前:585)。さらに,彼は労働組合運 動を我々の手から国民党に譲ってはいけないと 強調した。また,「一月決議」の後半をもって,

張国燾は労働者を組織することが中国共産党の 独特の任務であると指摘し,マーリンと陳独秀 の主張がコミンテルンの決議に反するものであ ると非難した。それから,張国燾は,中共労働 運動の独立性を強調し,労働者出身の党員が国 民党に原則上加入してはならないということを 含む修正案を会議へ提出したが,一票の差で棄 却された(張国燾1980:295)。

(12)

さて,マーリンが中国に戻った後の1923年5 月23日,ヴォイチンスキーの主導のもとで,コ ミンテルン執行委員会は「中国共産党第三回大 会への指令」を出した24

その指令では,中国共産党員が国民党内にと どまることは言及されておらず,国民革命の「指 導権は労働者階級の党に属さなければならな い。労働運動の分野における最近の諸事件(大 ストライキ)は,中国における労働運動が非常 に重要であることを示すものである。共産党を 強化し,それをプロレタリアートの大衆党に転 化し,労働者階級の勢力を労働組合に結集する こと,これが共産主義者の第一の義務である」

と明記されている(村田陽一1979:397)。さ らに,「華北でも華南でも労働運動を無条件に 支持する」という「国共合作」の前提を国民党 に要求している(同前:397)。

しかし,この指令が「三大」の会議期間に届 くことはなかった。結局,マーリンが「三大」で,

全面的に勝利し,党の方針を国民党主導の国民 革命に転向していった。そこで,中共の労働組 合運動は,国民革命の従属的な位置に置かれる こととなった。

(3)「三大」と中共労働組合運動方針

本節では,「三大」の諸決議案における,労 働組合運動方針に関する内容を整理する。

「三大」宣言では,「労働者・農民に対する宣

24 ヴォイチンスキーの決議文原稿の最初の二項は,

中共の基本的任務が労働運動を従事するという ことと,そしてマーリンの「階級未分化」とは違っ て,中国の労働運動を高く評価したということ であった。しかし,ブハーリンは,その原稿を 修正し,代わりに農民問題を提出した。

伝と組織とは,われわれの特殊な責任である。

さらに労働者・農民をみちびいて国民革命に参 加させることは,なおさらわれわれの中心的な 仕事である」と主張している(日本国際問題研 究所中国部会編1970:256)。

さて,「国民運動及び国民党問題に関する決 議案」では,「産業の後れで,中国労働階級は まだ極未熟の階段にある。……労働運動は……

まだ独立的な社会的勢力となっておらず」,「労 働者階級はまだ強大な勢力ではなく,革命の目 前の必要に応ずべき一つの強大な共産党──大 きな大衆的党を創り出すことは当然不可能であ る」と認識されていた(中央檔案館編1989:

146-147)。それは大体,マーリンの「労働者階 級弱体論」を反映している。

しかし,「我々は国民党に加入するが,我々 の組織は温存させる。さらに労働者の組織およ び国民党左派の中から,真の階級意識を有する 革命的分子を吸収する」と指摘している(同前:

147)。それと同時に,中共の「特別な工作」は,

「全国総工会」の独立な組織を後押しし,経済 と政治の闘争に従事するよう努めるとも記され ている(同前:148)。

上述の認識のもとで,中共「三大」では,九 項目の「労働運動に関する決議案」が決定され た。「二・七」事件の背景のもとで,「労働運動 は守勢に立っている。党の活動は労働組合の活 動より活発にならなければならない」と考えた うえで,各線路の鉄道労働者を統一して,「二・

七」事件の被害労働者を救済しようとし,また 哈ハ ル ビ ン爾濱・山東・広東地方での労働運動も計画し ていた(同前:149-150)。

特に,「三大」で決まった国民党に全員加入 するという方針を押し通すため,広東の計画は

(13)

他の要項より詳細に作成されている。近代の産 業労働者に注意を払うと同時に,進歩的な手工 業の労働者組織を立て直し,その階級意識の形 成に拍車をかけるとしている。また国民運動の スローガンのもと,広東・香港・澳マ カ オ門の産業と 手工業の労働者組織を統一し,特に香港のイギ リス帝国主義に抵抗する労働者勢力を拡大させ ようとしている。これらの方針は1924年以降,

北から南への中共の労働運動の重点の移行に関 して大きく役立つものであった。

さらに,この決議案では,労働組合書記部に ついて,この職責範囲を変更し,鉄道と炭鉱以 外の労働組合を組織すると同時に,書記部内に 婦人部を新設し,女性労働運動を指導すること を決定している。それは,その後の紡績業にお ける女性労働運動の展開に影響を与えることと なった。しかし,中国労働組合書記部の影響力 は以前より弱くなっており,次第に有名無実な ものとなった25

4 「国民党一大」までの中共労働組合 運動方針

「三大」の方針を実行するため,陳独秀は 1923年7月1日,中国労働運動の状況を報告す ると同時に,プロフィンテルンへ「三大」後の 中共労働運動に関する予算書を送った(Tony,

Saich 1991:466)。しかし,7月以後,コミン

25 1923年12月6日の上海地委兼区委第二十五回会 議の会議録(中央檔案館,上海市檔案館編:58)

によりでは,ある党員は,労働組合書記部はな お存在するかどうかと尋ねた。労働組合書記部 は存在していると返答したが,その質問はむし ろ,労働組合書記部の存在感が党内でも薄かっ たことを明らかにしている。

テルン・プロフィンテルンからの経費は,ほと んど断ち切られていた(中共中央党史研究室第 一研究部訳:263,316)。そもそも1923年10月 に予定された第二回全国労働大会が開催されな かった直接的な原因は,大会準備の経費が不充 分であったからである。

さらに,国民党に加入するとの決議は,「三大」

で通過したが,「十分に実行しなかった」(中央 檔案館編1989:185)。多くの党員は党の決議 に公然と反対していなかったが,国民党の組織 に加入することに大きな不信感を抱いていた。

従って,「国共合作」を推進するため,陳独秀は,

上海で「三大」の第一回中央執行委員会を主催 した。

中央と各地の報告(同前:186-199)によれば,

中共の労働組合運動の現状は「三大」までの状 況と同様で,湖南省以外は,多くの地方で組織 化が展開されていなかった。中共中央の指導を 受けていた鉄道労働運動は,「三大」の時より,

各地で労働組合を秘密裡に組織し始めていた が,地域別と部門別の鉄道労働者を統一化する 工作は難しかった。安源を含む湖南組合の活動 は,なお継続していたが,他の地区の労働組合 の回復は,概して言えば,楽観的なものではな かった。

また,「二・七」事件の影響を受けなかった 広東でも,労働組合運動は後退していたと考え られる。香港海員ストの三年後,広東労働者の 労働条件は以前より改善され,経済的な意味で 運動への興味は薄れ,賃上げと労働時間の短縮 というスローガンは,適用できなくなっていた。

従って,労働者が労働組合に加入する必要性も あまり高くなかった。

こうした実状を反映して,「労働運動の進行

(14)

方針についての決議案」が通過した。「全国総 工会」に対する準備工作を一時的に中止し,ま ず鉄道,海員,炭鉱に力を集中させ,組織化を 進めると同時に,各産業で全国的な組織を結成 するという具体的な計画が決まった(同前:

202-203)。

要するに,その会議での労働組合運動につい ての方針は大体,「三大」の方針を継承していた。

注目すべき点は,海員の組合化について,国民 党の力で「中華海員総工会」を改組し,香港で 国民党の海員部を設立するとしている点である

(同前:203)。

ところが,その会議後,間も無く1923年11月 28日,蒋しょうかいせきを団長とする国民党使節団と協議 した結果として26,モスクワのコミンテルン執 行委員会で,「中国における民族解放運動およ び国民党の問題についての決議」が採択された。

その決議に基づき,1924年1月の「国民党一大」

は広州で開催され,国民党の旗のもとで,広東 をはじめとする中共の労働組合運動は,新しい 段階を迎えることとなった。

おわりに

本稿では,1921年の「一大」前後から1923年 12月までの時期を対象に,中共の労働組合運動 方針が決定された各会議に焦点に合わせ,それ らの方針を巡る内容およびそれに関連する「国 共合作」と労働組合運動の関係をめぐるコミン テルンの諸指示・論争について考察した。

この3年間,中共の労働組合運動は,様々な 論争と組合組織化運動の失敗に直面したにもか

26 国民党使節団との協議についての記録は,中共 中央党史研究室第一研究部訳(1997)を参照。

かわらず,中共の労働組合運動方針の中核は,

一貫して鉄道・炭鉱・海員・紡績・機械などの 近代産業の組合化を重視し,「全国総工会」を 結成するために,「産業別労働組合を組織する」

ということであった。それに対応して,労働組 合と党の関係,他の政治勢力への対応,手工業 の組合化などの諸方針も論議が進んでいった。

しかし,中共自身の旗のもとでのそれらの実行 状況は,公式な党史の記述より,あまり順調に 進んでいないことが明らかである。

その過程において,中共はコミンテルンの支 部として,特に,「国共合作」下の中共労働組 合運動の位置づけという問題をめぐり,コミン テルンの影響を受けた。労働組合運動で,他の 政治勢力への排他的な態度から,国民党のもと で労働組合を組織するという方針への転換は,

1921-1923年の間,中共の労働組合運動方針に おける最も大きな変化だと考えられる。

周知のように,1924年から「国共合作」は不 安定な合作関係の下,本格的に始まっている。

1921-1923年の方針と比較し,国民革命時期の 中共労働組合運動方針についての考察は,今後 の研究課題とする。

〔投稿受理日2019. 6. 14/掲載決定日2019. 7. 11〕

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参照

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