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もうひとつの再軍備―

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(1)

I.

はじめに

1952

11

月、当時吉田政権の官房長官になっていた緒方竹虎が「新情報機関」構想を 打ち出した。これを

11月 20日付読売新聞は次のように紹介している。

一、海外から放送発信されるラジオ、テレビ等を受信聴取してこれを収集、分析する、とり あえず当初の目標を毎日3、40万語のラジオ聴取におく、なお国内の新聞、通信等はこと ごとく集める。

一、これには300名内外の技術者と少数の優秀な指導者を置くが官庁のみからでは人材が得 られないので民間報道機関などから広く優秀な人材をもとめる。

一、合理的に科学技術の力を用いるから予算は多額を要しない。

この機関は内閣直属とするが、戦時中の「情報局」復活と誤解される恐れがあるのでこ れを公益法人とする。

一、日共秘密情報資料なども現在の国警、公安調査庁などとは別個に集め分析する。1)

3

大全国紙、朝日新聞、毎日新聞、読売新聞を中心とする各メディアは、一斉にこの構 想に非難を浴びせた。というのも、緒方は戦時中内閣情報局総裁の地位にあって戦争遂行 のために言論統制や情報コントロールやプロパガンダ戦を行っていたからだ。

彼は、戦前から戦時中まで主筆として朝日新聞を指揮し、さらに戦時中は情報局総裁を 務め、戦後それらの地位にいたことから戦争犯罪容疑者に指定された。健康を害していた ため、巣鴨プリズン入りは免れたものの、1946年

9

月には公職追放となっていた。

この公職追放は

1951

年には解けたため、緒方は翌年秋の第

25

回衆議院議員選挙に福岡

1

区から出馬し、見事当選を果たした。当選後の

10月 30

日に行われた組閣で、彼は当選

1

回ながら、第

4

次吉田政権の内閣官房長官に抜擢された。その直後の

11

月、待ちかねてい



もうひとつの再軍備 早稲田社会科学総合研究 第10巻第3号(2010年3月)

もうひとつの再軍備

―緒方「新情報機関」と戦後日本のインテリジェンス機関の再建―

有 馬 哲 夫

1) 以下、読売新聞からの引用はすべてデーターベース、『ヨミダス歴史館』を使用している。

(2)

たかのように「新情報機関」構想を打ち出したのだ。

緒方の構想をメディアはかなり執拗に攻撃した。それは、緒方を政権につけたいと願って いたアメリカ合衆国の国務省とCIAが、緒方の政治的指導力を著しく低下させていると心配 するほどだった。2)

事実、ポスト吉田として確実視されていた緒方が総理大臣になるうえで立ちふさがった 大きな障害は、保全経済会・造船疑獄による自由党の崩壊とこの「新情報機関」をめぐる ネガティヴキャンペーンだったといっていい。

しかし、緒方はいくら不利になってもこの構想を捨てなかった。1956年

1

月28日に心 臓発作で急死するまで追求した。そのための話し合いを最後まで国務省やCIAと続けてい た。それは彼から見て、自立自衛の日本にとって不可欠のものだったからだ。

そこで本論では、アメリカの公文書館や大学図書館などに残る第一次資料に基づきつ つ、緒方構想とは何だったのか、どのような起源を持っていたのか、彼はそれによって何 を目指していたのか、明らかにしたい。そうすることによって、緒方が進めた「もうひと つの再軍備」ともいうべきものの実態を浮かびあがらせたい。

II.

緒方「新情報機関」構想

まず緒方構想がどのようなものか、そしてそれが当時の野党やメディアにどう受け止め られたのか、なぜそのように受け止められたのかを見ていこう。

「緒方構想」を要訳するなら、次の四点になるだろう。

1.海外から発信される通信(放送も含む)の傍受と通信以外(新聞、雑誌等)の情報

の収集。

2.日本の共産主義関係者についての秘密資料の(国家警察、公安調査庁とは別枠の)

収集。

3.官公庁のみからでは優秀な人材が集められないので、民間報道機関などから優秀な

人材を集める。



2) FJJ-368, October 16, 1953, Ogata Taketora, Box 95, ZZ-18, Second Release of Name Files Under the Nazi War Crimes and Japanese Imperial Government Disclosure Acts, 1946―2003, RG 263, NARA, Archive II(College Park)以下Ogata Fileとする。筆者が2005年にShoriki Matsutaroファイルととも にアメリカ第二公文書館で発見した。本論ではほかにArisue Seizo, Kawabe Torashiro, Tatsumi Eiichi,

Hattori Takushiro,Tsuji Masanobuファイルも使用するが、とくに断わらないかぎり、すべて同じアメ

リカ合衆国第二公文書館所蔵のもの。 また、このファイルのなかの文書は、タイトル、作成年月日 が欠けている場合があるが、その場合は、可能な限り文書番号など他に特定できる記号を記す。

(3)

4.この機関は内閣直属とするが、公益法人とする。

緒方が

1

で述べているのは、この「新情報機関」はその中心を通信傍受におくというこ とだ。

情報機関とはいろいろな意味で使われるが、大別すると情報を収集し、それを分析・評 価する機関と、逆に、情報やプロパガンダなどを流す機関の

2

つに分けられる。

緒方が作りたいといっているのは、情報、それも放送や通信の情報収集に中心を置くイ ンテリジェンス機関だといえる。3)

緒方構想に対して、社会党など野党は激しく反発した。右派社会党の吉川末次郎議員 は、1952年

12

月3日の参議院本会義でおよそ次のように非難している。

1.NHK

がこの新情報機関による政府の情報を放送するようになれば、NHKを政府の

御用機関にすることになり、言論圧迫の大問題になる。

2.NHK

とともに同盟通信社(ママ、当時は共同通信社になっていた)も名前が挙がっ

ているが、これら戦時中内閣情報局の御用機関であったものが再びでてくると国民 は言論統制時代の暗い気持ちにならざるを得ない。

3.このような機関の新設は再軍備の前提で動いている証拠だ。

4.共産主義国家の情報を集めるより、首相はじめ閣僚はマルクス・レーニン主義の理

解に努めるべきだ。

他のメディアも、社会党議員の批判の紹介に多くの紙面を割くほか、社説などでも「新 情報機関」構想をとりあげ、非難を繰り返した。一つ一つ取り上げるスペースがないの で、読売新聞の見出しのみ例として挙げよう。

11

月28日、朝刊 官製情報機関の構想、報道統制のおそれ 夕刊 緒方構想を明日追及

11

月29日、「官製情報機関」中止論(馬場恒吾による社説)

12

2日、批判の矢面に立つ、与党から火の手、右社も両院で緊急質問

12

3日、情報機関で緊急質問、言論圧迫大問題だ、再軍備の前提か

12

4日、かつての情報局

12

9日、食い違う緒方答弁、研究所の程度



もうひとつの再軍備

3) こういった点は1953年2月6日の衆議院予算委員会での井手一太郎議員との質疑応答などでも示さ

れている。なお、以下本論で引用する国会議事録は、すべてウェブサイト上のデーターベース『国会 会議録』を用いている。

(4)

12

月11日、新情報機関の根本?、緒方構想はその下請け、村井機関の実態

見出しだけでも手厳しいものだが、記事の内容はそれ以上に苛烈なものだった。

読売新聞の場合は、これに緒方が副総理になった経緯の怪しさ(「波紋呼ぶ緒方副総理、

吉田後継の噂に複雑な影」11月

30日朝刊)とか、引用の最後の見出しのように、

「村井機 関の実態」4)などそもそも官房調査室自体のいかがわしさをほのめかす記事が加わる。

確かに戦時中情報を統制・操作して国民を戦争に駆り立てたかつての内閣情報局総裁緒 方が、占領が終わって日本が再出発しようとしているときに、再び政府の上層部に復帰 し、「新情報機関」創設を唱えたのだから、各メディアがこれを非難し、警戒するのは当 然なことだ。

注目すべきことに、吉川も読売新聞も、この構想が再軍備と関係があることを明敏にも 見抜いている。だが、当時再軍備が大きな政治的争点となり、メディアもほぼ連日取り上 げていたので、これを察知するのは現在ほど難しくなかっただろう。

実は、メディアの反発には裏もあった。緒方構想では、新機関には「民間報道機関など から優秀な人材」を入れるとしていた。吉川がいいあてたように、このとき緒方の念頭に あったのは、NHK、共同通信社、電電公社、朝日新聞だった。5)

これもまた吉川が国会質疑のなかで指摘したように、同盟通信社はもともと国策会社で 戦時中の内閣情報局と密接なつながりを持っていた。日本放送協会も戦時中は内閣情報局 のもとで同盟通信社と「対外報道委員会」を作っていた。そして、これらに放送と通信の インフラを提供していたのは逓信省で、このインフラは戦後電電公社に引き継がれた。

つまり、緒方が「新情報機関」構想に参加させようとしていたのは、いずれも戦時中に 内閣情報局とチームを組んでいたいわば御用機関なのだ。

このような経緯から、厳しい戦後の状況を乗り切るにあたって、朝日新聞、共同通信 社、NHK、電電公社がともすれば協力し合うのは自然の流れだった。これが、このグル ープ以外のメディアの目に好ましく映らなかったことも当然だった。

ちなみに、戦後、緒方はメディア・報道関係で指導的地位にあったということで戦争犯 罪容疑者となったが、巣鴨プリズンへの収監は免れている。彼よりも責任が小さいはずの 同盟通信社社長の古野伊之助や読売新聞社長の正力は収監されている。6)



4) 1952年内閣法によって設置された内閣総理大臣官房調査室のこと。以下官房調査室とする。村井 順は当時その室長。1957年に作られた内閣調査室はその後身。

5)「 国策通信社 を設立?」『読売新聞』、1953年9月25日朝刊参照。朝日新聞も批判したが、当然

ながら他のメディアと少しトーンが違っていた。緒方だけでなく1943年から45年まで日本放送協会 の会長をつとめた下村宏も朝日新聞出身だった。また、共同通信社社長の古野伊之助は、この当時電 電公社の経営委員を務めていた。このように共同通信社、NHK、電電公社は内閣情報局人脈で密接 につながっていた。

6) 里見修、『ニュース・エージェンシー』、中公新書、2000年、pp. 278―279参照。

(5)

さらに、もう一つ大きな要因もあった。この

2

カ月前の1952年9月、朝日、読売、毎日 の

3

大全国紙は、国内ニュースに関しては共同通信社から配信を受けず、独自に取材網を 構築して国内ニュースを報道することを決定した。報道の独自性を保ち、併せて通信社に よる支配から脱却することが目的だった。

3

大全国紙から見れば、このように通信社のくびきから解かれたのに、それから

2

カ月 ほどで、緒方が「新情報機関」の設立を唱え、共同通信社を後押しして、元に戻そうとし ていることになる。

外信に関しては、彼らも共同通信社の海外ネットワークに依存しているので、彼らにと っても「緒方構想」はメリットがあるはずなのだが、問題は旧内閣情報局グループにばか り利して、自分たちには直接的利益をもたらさないということだ。

読売新聞の子会社である日本テレビ放送網(以下日本テレビとする)の場合は、さらに 特殊な事情を抱えていた。

日本テレビは

1952

10

15

日に7億円の資金を集めて発足した。発足ののちは、アメ リカ合衆国上院と国務省から資金を得て、日本全国と朝鮮半島に

23

の直営局をもつマイ クロ波通信網を建設することを計画していた。7)

このマイクロ波通信網は多重通信網で、テレビ放送やラジオ放送のほかに、移動体通 信、長距離電話、船舶無線、航空管制、レーダー通信にも使えた。

つまり、この通信網を持てば、テレビ・ラジオ放送事業のほかに、電話事業とニュース 配信事業が可能だった。これを日本テレビが手に入れれば、NHKや他の民間放送局、電 電公社、共同通信社など通信社、読売新聞以外の新聞社などが大打撃を受けることが考え られた。

マイクロ波通信網構想が日本のメディアに覇を唱えることになるということは正力松太 郎がよく承知していたため、正力は緒方に取引を申し込んでいる。それを

CIA

文書は次の ように記している。

正力の親友の高野が緒方を訪ねて正力がテレビを独占することを助けてくれるなら緒方の 中央情報局構想を支持しようと申し出た。この申し出は、緒方の情報局構想に対する3大新 聞の猛烈な批判のあとになされた。緒方はこれについてなにも決めなかった。8)

つまり、自分のマイクロ波通信網構想を支援してくれれば、緒方構想を応援しようとい うことだ。上の引用では緒方はなにも決めなかったとあるが、このあとの報告書では拒否 したとでてくる。しかも、このため正力が繰り返し緒方構想攻撃を行い、緒方の政治的指



もうひとつの再軍備

7) 正力マイクロ波通信網計画についての詳細は有馬哲夫、『日本テレビとCIA』、新潮社、2006年、第

1章に譲る。

8) FJJ-368, October 16, 1953, box 95, Ogata File.

(6)

導力が低下したとも述べている。9)

あとで彼がとる行動から判断すると、緒方が正力の申し出を拒否したのは、これを認め れば、正力が新聞だけでなく、通信や放送などあらゆるメディアを独占的に支配するよう なことになるので、これは絶対に避けなければならないと思ったようだ。

これに、正力が吉田政権ではなく、打倒吉田の急先鋒である鳩山一郎を支持し、彼の政 権奪取に手を貸そうとしていたことが加わる。

つまり、「新情報機関」をめぐる論争の背景には、戦後のメディアの覇権争いがあった のだ。しかも、緒方が吉田政権の官房長官にして副総理であり、正力が吉田政権打倒を目 指し、鳩山政権のもとでの入閣を目論んでいたことからもわかるように、両者の争いは保 守大合同前の日本の政治情勢とも密接に関係していた。10)

結局、「新情報機関」構想は、1953年

1

月の段階では、当面内閣総理大臣官房調査室を 拡充することにとどめ、この組織に正式定員30名、実働員70名を増員し、4班体制から

7

班体制にすることで妥協した。11)もとの案の正式定員

300人からは大きな後退になる。

緒方はこれに不満足だったので、1953年

9月には「国際情勢調査会」、翌年には「中央

調査社」の設立を提唱し、やはりメディアの激しい攻撃にさらされることになる。12)

緒方は、なぜこのようにバッシングにさらされながらも「新情報機関」構想(「国際情 勢調査会」と「中央調査社」を含む)を粘り強く進めようとしたのだろうか。この「新情 報機関」によってなにを構築しようとしていたのだろうか。また、なぜ政界に復帰してす ぐにこの構想を打ち出したのだろうか。

それを知るためには、終戦後の日本の情報機関がどのようになっていたのか、そこにい た人々が占領軍、とくに

G2

とどのような関係にあったのか、占領期において彼らがどの ような働きをしていたのかを見なければならない。

緒方がこれらの既存の日本の(といっても一部は

G2

傘下)情報機関を「新情報機関」

の中核として位置付けていたからだ。

III.

緒方構想以前の戦後日本の情報機関

2005年に公開されたアメリカ合衆国第二公文書館所蔵の「ナチス戦争犯罪、日本帝国

政府」文書からは占領期の「JIS」の活動について述べた報告書が大量にでてくる。

これは

Japanese Intelligence Services

の略で、訳せば「日本のインテリジェンス機関」



9) FJJ-407, October, 1953, box 95, Ogata File.

10) この政治状況についての詳細は有馬哲夫、『原発・正力・CIA』、新潮新書、2008年、第3章に譲

る。

11)「七ヶ班・七、八十名、情報機関構想決まる」『読売新聞』、1953年1月9日朝刊。

12)「国際情勢調査会(仮称)、緒方副総理 情報機関構想を転換」、『読売新聞』、1953年1月9日朝

刊、〈中央調査社〉ちかく発足」『読売新聞』、1954年9月16日朝刊。

(7)

となる。実際には単一の統一的な組織ではなく、旧軍の流れを汲む特務機関がきわめてゆ るい連携のもとで戦後も密かに活動を続けていたものだ。アメリカ側の資料によると、こ れらの組織の全体像は次のようになっていた。

日本のインテリジェンス機関(Japanese Intelligence Services)―宇垣機関―河辺機関 有末機関 児玉機関 服部機関 及川機関 岩畔機関 その他13)

名称を見てもわかるように、これらは戦前の特務機関や情報機関の流れを汲んでいる。

また、それがアメリカ側からインテリジェンス機関と呼ばれている理由だった。これらの 機関が戦後も存続したのはおおむね次のような理由があった。

1.極東国際軍事裁判や敵対的人々(旧日本軍占領地の人々を含む)から集団で身を守

るため。

2.生活の手段がなくなったので、互いのコネをつかって集団で事業するため。

3.占領が終わったあと再軍備するときに備えるため。

ちなみに、2で述べられている事業には、占領軍に共産圏に関する情報(偽情報も含 む)を売ったり、秘密工作の下請けをしたりすることも含まれていた。

これらのなかでも最大の宇垣機関は下記のような大規模で本格的な組織だった。実際そ れは占領軍によって「地下政府」(underground government)と呼ばれたくらいだ。

宇垣機関 宇垣一成

本部 岩端(ママ、実際は岩畔)

鍋山

古屋哲夫    渡辺渡  及川厳七     土田豊      野村吉三郎  須川(次郎)

海上保安庁、募金   諜報    諜報   独立・平和委員会  GHQとの連絡   連絡一般 対外工作部門

ソ連      北朝鮮   中国共産党  インドシナ  台湾 清水(武雄) 加藤泊治郎   本間雅晴    辻政信   根本博14)



もうひとつの再軍備

13) Japanese Intelligence Services, May 11, 1952, Hattori Takushiro, Box 46, Second Release, ZZ-18, RG 263.以下Hattori Fileとする。

14) Active Structure of Ugaki’s Organization, July 19, 1950, Tsuji Masanobu, Box 130, Second Release, ZZ-18, RG 263.以下Tsuji Fileとする。

(8)

この組織図を見てもわかるように、彼らはインテリジェンス工作のほかに軍事行動もお こなっていた。数次にわたる「台湾義勇軍」がそれで、これを派遣することによって宇垣 機関(そして傘下の機関)は国民党政府から資金を受け取っただけでなく、物資の密輸を 黙認してもらうことで巨額の利益を得ていた。もちろんこれは関係者の活動資金・生活費 となった。

宇垣傘下の機関でとくに有力だったのは河辺機関だった。これは終戦時に大本営参謀本 部次長の河辺虎四郎が1947年に作った機関で、主要メンバーには辰巳栄一、下村定など がいた。翌年に河辺は終戦時大本営参謀本部第二部部長だった有末精三を自らの機関に迎 えた。有末は

SCAP

G2

のトップ、チャールズ・ウィロビーのおぼえが特にめでたかっ た。有末はイタリア担当だった関係でファシストのベニト・ムッソリーニを知っていた が、ウィロビーもファシストを崇拝していたからだ。

有末が河辺機関に加わったことで、この機関は1948年、G2のもとでインテリジェンス 工作を行うKATO機関に加えられた。この機関は河辺、有末、田中、及川など傘下の機関 の頭文字をとったもので、G2の治安維持活動やインテリジェンス活動の下請けを行った。

有末は河辺機関について『ザ・進駐軍』のなかで次のように記述している。

米軍歴史課の仕事(G―2でチャールズ・ウィロビーが行っていた太平洋戦史の編纂を手伝 っていた)が一段落したこの頃から、河辺虎四郎中将を長として、下村定大将を顧問格と し、辰巳栄一中将、芳仲和太郎中将、山本茂一郎少将、西郷従吾大佐、これにわたし(有末 精三中将)もその一員として一斑が編成され、情報の査

かく

研究に従事した。

企画指導は河辺中将自ら主宰していたが、主要補佐は特に吉田首相とも連絡のよい辰巳中 将がこれに当たり、北海道の萩三郎中将、真田譲一郎少将、青森の佐々木勘之丞少将、山口 県の甲谷悦雄大佐などが全国的に国内情勢とくに共産党の策動状況調査などについて協力し た。15)

このころには河辺機関は

KATO

機関に入っていたので、KATO・河辺機関と呼ぶべきだ ろう。KATO・河辺機関は、他のKATO傘下の機関とともにTAKEMATSU工作を行った。

1949年5

20日の文書はこれを次のように定義している。

TAKEMATSUはPOPOVが設立した秘密インテリジェンス工作チームの暗号名だ。この工 作は日本国内(MATSU)からインテリジェンスを得るものと、国外(TAKE)からインテ リジェンスを得るものとに分けられている。TAKEMATSUチームは日本人で編成し、日本 人によって運営される。POPOVは高度の政治的レヴェルにおいてだけ関係を持つ。資金は すべてPOPOVが与える。16)



15) 有末精三、『ザ・進駐軍』、芙蓉書房、1984年、pp. 258―259。

16) Background Information on Personalities Mentioned in FJL-442, September 22, 1950, Kawabe File.

(9)

この文書では

POPOVと暗号名で呼ばれている機関がなにを指すのか不明だが、同じ報

告書にでてくる下記の

TAKEMATSU

工作の中心的メンバーのラインアップに

CIC

の幹部 がでてくることから、G2内に設けられた「特殊インテリジェンス班(U.S. Department of

Army Special Intelligence Section)

」であることがわかる。

日本側  アメリカ側 河辺   ウィロビー

有末   (ラッセル・)ダフ(MATSU監督)

辰井   (アーサー・)レイシー(TAKE監督)

横井   (ルーファス・)ブラットン(顧問)

(エリック・)スヴェンソン(顧問)17)

注目すべきは、これらの

TAKEMATSU

工作に服部卓四郎も加わっていたことだ。彼は とくに北海道を担当し、POPOVから資金提供を受けて船を購入し、この船でカメラとオ ールウェーブのラジオを持った工作員をサハリン方面に送り出している。18)

服部といえば、有末とおなじくウィロビーに気に入られ、彼のもとで日本の国防計画と 国防軍の編成を研究していたことで知られる。このため、1950年

6

25

日に朝鮮戦争が 勃発し、それにともない

8月 10日、警察予備隊を急遽作ったとき、ウィロビーは彼を幕僚

長にしようと策動して

GS

のコートニー・ホイットニーと対立したことがあった。19)

結局、マッカーサーがホイットニーを支持したために服部は幕僚長になれなかったが、

彼は

400

人の国防軍幹部候補者リストを作った。これは服部機関が日本各地に支部を設 け、これらの候補者の身辺調査(共産主義に染まっていないか、共産国のスパイになって いないかなど)をしたり、必要なときはいつでも召集できるように声をかけておくなどし たりしたことでできたことだった。20)

つまり、服部機関もまた河辺機関とおなじく全国的ネットワークを持っており、国防計 画と国防軍の編成の研究だけでなく、対共産圏インテリジェンス工作を行っていたのだ。

それも道理で、国防計画や国防軍編成と対共産圏インテリジェンスとは、まったく別のも のでなく、密接に関連していた。敵の軍備について知らなければ、どのような国防を考え ればいいのかわからないからだ。

服部とともに触れておかなければならないのは、土居明夫元中将だ。土居は終戦後、辰 巳の頼みで、国民党政府国防部第二庁第三課に入り対ソ連インテリジェンスを担当した。

いわゆる「留用」というもので、これは戦争犯罪に問わないかわりに国民党政府のために



もうひとつの再軍備

17) Memorundum, May 20, 1949, Arisue Seizo, box 3, Second Release, ZZ-18, RG 263.以下Arisue File する。

18) Operations, G-2, FEC, Plan TAKEMATSU, June 14, 1949, Arisue File.

19) フランク・コワルスキー、勝山金次郎訳、『日本再軍備』、サイマル出版、1969年、pp. 91―104。

20) Hattori Takushiro and the Hattori Organization, April 11, 1952, Hattori File.

(10)

しばらく中国に留まって仕事をすることをいう。

土居は戦前駐ソ連大使館の武官だったことがあり、また対ソ連インテリジェンスのエキ スパートだったので占領中に日本に帰るとソ連に目をつけられ戦争犯罪で有罪にされる恐 れがあった。これも辰巳の頼みをきいた理由の一つだった。21)

しかし、極東国際軍事裁判も終わりに近づいていたので、1948年、土居はインドシナ から潜行して南京にやってきた辻政信と交替することにして日本に帰国した。だが、占領 がまだ続いており、また、国民党のために日本で対ソ連インテリジェンスに関わっていた ため、第一復員庁には届け出ず、潜行したまま辰巳とともにKATO・河辺機関でインテリ ジェンス工作を行っていた。その際、彼は大陸問題研究所という民間団体を設立してい る。これは、辰巳と土居を中心とした

KATO

・河辺機関の日本人主要メンバーの活動拠点 となった。22)

ちなみに、この土居は緒方と極めて親密な関係だと報告する文書がいくつも

G2

CIA

にあがっている。23)土居が緒方と「日本のインテリジェンス機関」のパイプ役となってい たことはあとで重要になってくる。

さらに注目すべきことは、この

KATO

・河辺機関のなかには、戦時中

MATSU、FUJI、

UME、RAN

と呼ばれる特務機関で通信傍受、暗号解読に携わっていた旧軍人がいた。24)

日本はながらくソ連を仮想敵国とし中国共産党と戦いを交えてきた。このため、ソ連と 中国共産党の暗号解読を専門とするエキスパートを育ててきた。これに対し、アメリカは

1947年まではソ連も中国(国民党と共産党)も同盟国という扱いだったために、このよ

うなエキスパートを養成してこなかった。だから、日本を占領したとき、いの一番にこれ らの旧軍人を探し出し、G2に協力させていた。

ところが、この河辺機関にも終わりがやってきた。1951年にサンフランシスコ講和条 約と日米安全保障条約が結ばれ、それが翌年に発効したことによって占領は終わった。駐 留アメリカ軍の規模縮小にともない予算も削られることになった。これによって河辺機関 ももうアメリカ側から「予算」を得られなくなった。

1953

年1月

16日のCIA

報告書は次のように「河辺インテリジェンス機関の解体」につい て記述している。

極東司令部のG―2は河辺虎四郎に1952年12月初旬に彼のインテリジェンス機関の支出に



21) Tatsumi Eiichi Bio-Data, December 26, 1956, Tatsumi Eiichi, Box 128, Second Release, ZZ-18, RG 263.以下Tatsumi Fileとする。

22) Trace on DOI AKIO and Fuse Katsuji, September 8, 1951, Tsuji File; ZJJ-27, February 28, 1952, Tatsumi File;重光葵の1951年5月13日付日記参照。重光葵、『続・重光葵手記』、pp. 462―463。

23) たとえば、Military Figures Connected with Rearmament and Confliction Intrigues re the Hattori Plan, November 9, 1951, Tatsumi File.

24) Appraisal of the “Intelligence Garden” Code Deciphering by Clandestine Wireless Stations, November 18, 1953, Wachi Takaji, box 134, Second Release, ZZ-18, RG 263.このうちUMEとRANが対

(11)

充てる次の会計年度の予算が取れなかったと告げた。このため、大幅な組織の人員削減と活 動範囲の縮小が必要となるだろう。河辺はこの一方的な決定に怒り、G―2の縮小案を呑むの ではなく、解散を決定した。

最終的に解体されることを予測していたので、G―2の決定の前に、河辺は保安隊に15人 の部下を入隊させていた。12月中旬の現在、彼は残りの部下を設立が提案されている政府 のインテリジェンス機関に入れようと努力している。25)

こうして、アメリカの記録のなかでは、河辺機関は

1951

12月に解体された。では河

辺機関でインテリジェンス活動を行っていた人々はどうなったのか。

引用のように、河辺はその一部を保安隊に入れ、一部は「設立が提案されている政府の インテリジェンス機関」に入れようとしていた。この機関とは緒方の「新情報機関」を指 すことは疑問の余地がない。

そもそも吉田は、緒方の構想がでるかなり前から政府にインテリジェンス機関を作るこ とを検討していた。これはアメリカ側の再軍備の要求に含まれていたからだろう。

1951年 7

28

日付報告書には、辰巳が創設を予定されているインテリジェンス機関の

長に予定されているとでてくる。吉田と緒方にインテリジェンス機関を設置するように促 したのは辰巳だった。そして、吉田は再軍備のことで苦労をかけた側近の辰巳に警察予備 隊や保安隊ではなく、このインテリジェンス機関の長のポストを与えることによって、そ れまでの彼の労苦に報いようと思っていたのだ。だが、実は辰巳は吉田に再軍備を迫るア メリカ側のために動いていた。26)

さらに、辰巳は単独ではなく、土居とともに、大陸問題研究所をカヴァーとして使って インテリジェンス機関の準備をひそかに進めていた。

1952年 2

27

日付文書には、大陸問題研究所が新しく作られるインテリジェンス機関

の準備をし、人材集めまでしていたと出てくる。これは辰巳と土居が吉田の意向を受けて 動いていたことを示している。そうでなければ人材集めまではできないからだ。27)

しかし、吉田は辰巳と土居にこのように準備させていたにも関わらず、再軍備のときと 同じように、いざ設立というときになって中止している。同年

4

4日の報告書では、吉

田は心変わりして、まず保安隊のことを先にして、インテリジェンス機関は後回しにする と述べている。28)

しかし、実際には、吉田の内閣総理大臣としての権限で、その直後の

4

9

日に内閣総



もうひとつの再軍備

中国・ソ連インテリジェンス機関だった。

25) Dissolution of Kawabe Intelligence Services, January 16, 1953, Kawabe Torashiro, Box 65, Second Release, ZZ-18, RG 263.以下Kawabe Fileとする。

26) July 28, 1951; FJPA-9130, March 28, 1956, Tatsumi File.

27) Report on recent Developments, February 21; February 27, 1952, Tatsumi File.

28) Tatsumi Eiichi’s Opinions on Japanese Rearmament, April 4, 1952; Activities of TATSUMI EIICHI and HATTORI TAKUSHIRO, April 6, 1952, Tatsumi File.

(12)

理大臣官房調査室(以下官房調査室とする)が設置されている。室長に任命されたのは内 務官僚出身で、かつて吉田の秘書を務めた村井順だった。

つまり、吉田は、本格的インテリジェンス機関ではなく、まず総理大臣の秘書室のよう なものを作っておこうと考えたのだろう。準備が整い、必要性が高まったら、次の段階で この組織を拡張するか、さもなければ別組織を立ち上げてインテリジェンス機能を強化し ていこうということだ。警察予備隊も、保安隊へ自衛隊へと拡充強化していったが、それ と同じようにしようと吉田は考えたのだろう。

事実、1952年

9

19

日の報告書では、新しいインテリジェンス機関を作ろうとしてい るのだが、内閣官房長官の保利茂、外務大臣の岡崎勝男、保安庁副長官の増原恵一などが 総選挙の準備のために忙しくてできずにいるとでてくる。29)たしかに

10

月1日投票の総選 挙が迫っていたので忙しかった。

その総選挙が終わり、自由党が政権を確保した。そして、緒方が当選し、官房長官にな った。その後まもなく、土居を通じて「日本のインテリジェンス機関」とつながりを持っ ていた緒方が「新情報機関」創設を打ち出した。

このように見てくると、緒方はまったく新しい独自の「緒方構想」を唱えたのではな く、むしろ、日米間の懸案として残されていた問題に本格的に取り組み始めただけだとい うことがわかる。

陸上兵力としては、1950年に警察予備隊が設置された。これは

1952

年に強化・拡充さ れて保安隊となった。海上兵力としては、1948年に海上保安庁が設置された。1952年に はこれに加えて「小海軍」を意識した海上警備隊が設置された。同年、海上警備隊創設の 延長線上で構想されていた「空軍」も創設されるめどがたっていた。30)

しかし、これらの手足にあたる兵力を動かすための神経であり頭脳ともいえる本格的イ ンテリジェンス機関はまだなかった。

前の引用で見たように、河辺機関は

1952

年をもって解体することが決定されていた。

だが、そのカヴァー機関である大陸問題研究所には政府によるインテリジェンス機関設置 を待ちわびている河辺の部下たちがいた。

そこに、内閣情報局の時代から旧軍関係者と関係が深く、かつ自身も再軍備促進を唱え ている緒方が、「日本のインテリジェンス機関」とアメリカ側の期待を一身に負って登場 することになった。そして、懸案となっていたインテリジェンス機関創設の問題に本格的 に取り組むことになった。緒方はそれを大々的にアピールするために、新聞人らしく、メ ディアを使って「新情報機関」構想としてぶち上げたのだ。



29) Opinions of Tatsumi Eiichi on Japanese Intelligence Group, September 19, 1952, Tatsumi File.

30) とくに増田弘、『自衛隊の誕生』、中公文庫、2004年、pp. 145―159参照。

(13)

IV. CIA

と緒方構想

このような経緯があるので、「新情報機関」構想が打ち出される以前から緒方と

CIA

が 接触していたのは驚くにあたらない。「新情報機関」構想で打ち出された内容は、最初か ら緒方の頭のなかにあったというより、CIAの協力を取りつける交渉のなかで、自分の要 望を伝え、相手側の要望を聞き、それらをすり合わせることによって形作られたと考えた 方がいいだろう。では、緒方側の要求とはなんであり、アメリカ側の要求とはなんだった のだろう。のちにとる行動から判断するならば、この段階で緒方の要望は以下の二点だっ たようだ。

1.CIA

という機関についての情報。「新情報機関」の参考にするため。

2.緒方の「新情報機関」構想の支持と支援。

これに対して緒方が

CIA

側に差し出そうとしたのは、戦後の

KATO

機関の活動内容と緒方

CIA

間のやり取りから考えると次のものだった。

1.共産圏から発せられる放送や通信の傍受記録。

2.共産圏から引き揚げてきた日本人に対する尋問記録。

では、緒方がいつどのように

CIA

と接触し、そのなかで「新情報機関」の構想がどのよ うに形成されたのかを見よう。

緒方が日本駐在の

CIA

局員(名前は文書から削除されている)に最初に接触したのは

1952

11月 5

日だった。31)このとき、緒方は日本も新情報機関を作るので協力してもらい たい、ついては

CIA

の組織について書かれた文書をいただきたいといった趣旨のことをの べている。この

10日後にも両者は同じ要件で会談している。

32)

これに対して

CIA

側は十分に吟味して、機密保持上問題のないものだけを緒方に渡して いる。

このあと緒方は、通信傍受の部門を目玉にした「新情報機関」構想を打ち出す。これは

CIA

の方から求めたものなのか、それとも、緒方のほうが相手の意を汲んでこのようなも のにしたのかはアメリカ側の文書からはわからない。



もうひとつの再軍備

31) 延禎の記述と照らし合わせるならば、(そしてそれを信じるならば)このエージェントは「鹿地亘

監禁事件」を起こしたジャック・キャノンということになる。延禎、『キャノン機関からの証言』、番 町書房、1973年、pp. 222―246。

32) 11532, November 7, 1952; 10202, November 18, 1952, box 95,Ogata File.

(14)

CIA

には

FBIS(Foreign Broadcasting Information Services)という世界中の放送と通信

を傍受し、モニターする部門がある。緒方はそれを知っていたので、協力関係を築く第一 段階として適当だと思ったのだろう。33)

前に述べたように、日本にはソ連や中国共産党の通信傍受と暗号解読の専門家がいて、

アメリカよりこの方面ではかなりすすんでいた。だが、KATO・河辺機関が解体されたた め、これらのエキスパートは、保安隊に入った一部以外は行き場を失っていた。

さらに、この分野を強化すれば、彼が内閣情報局時代につながりがあった旧逓信省関係 の機関、すなわち共同通信社や

NHK

や電電公社に利することになり、かつ、彼らから協 力が得られることになり、構想が進めやすくなる。一石二鳥どころか三鳥にも四鳥にもな る。

また、共産圏からの引揚者に対する尋問も、もともと

KATO

・河辺機関がしていたイン テリジェンス活動の一部だった。34)

幸運な偶然もあった。「緒方構想」の予算審議が国会で行われていた

1952

12月 15

日、

当時CIA副長官だったアレン・ダレスが来日し、同月

28

日まで滞在した。

アレスの来日の目的は朝鮮戦争で頭に重症を負って横須賀の海軍病院に収容され、生死 の境をさまよっていた一人息子アレン・メイシー・ダレスに付き添うためだった。これは プリンストン大学に所蔵されているアレン・ダレスの外交パスポートと個人書簡から確認 できる。35)

帰国が迫っていた

12

26

日、ダレスは緒方、吉田、村井と会談し、「新情報機関」と

CIA

がどのように協力できるか話し合った。

ダレスは、言語的にも人種的にも日本人はアジア諸国と近似性をもっているので、この 方面で協力してもらいたいという趣旨のことを述べた。36)

つまり、アジア諸国の放送と通信の傍受と暗号解読で協力してほしいということだ。も ちろんダレスは大陸問題研究所で待機しているKATO・河辺機関の通信傍受要員のことも

G2から聞かされていただろう。

翌年の

3

27

日の報告書には、官房調査室の拡張ではなく、「中央情報機関(Central

Japanese Intelligence Organization)

」が計画され、辰巳がその機関の通信傍受、暗号解読 部門の人材集めを監督していると出てくる。37)



33) JCU Monthly Field Comments, March 12, 1953, box 96, Ogata File参照。

34) Plans and Activities of JIS and Rightist Group, November 13, 1950, Arisue File.

35) Diplomatic Papers, box, 121, Allen W. Dulles Papers, Seeley Mudd Manuscript Library, Princeton University Library(Princeton).どういうわけか、朝日新聞のコラムも前年末のCIA副長官の来日を報 じている。『朝日新聞』、1953年1月28日、朝刊。

36) 10207, December 27, 1952, box 95, Ogata File.なお、この文書については、2009年7月25日の山本 武利、加藤哲郎、吉田則昭の研究グループの研究発表「緒方竹虎とCIA」も触れている。

37) Comm Intelligence Section of the Japanese Intelligence Section, March 27, 1953.

(15)

しかし、その審査にあたったのは辰巳だった。とくに旧日本軍から職員を採用するとき は、辰巳が

OK

を出さなければ、その候補者を採用させなかったという。38)

辰巳は吉田の側近のイメージが強いが、河辺機関と大陸問題研究所の関係で、河辺や土 居ともつながりが強かった。同年

5

月21日には、いよいよ辰巳がソ連暗号解読班の班長と して

S.S.

(原文実名)を候補にあげている。39)

もうひとつの重要項目である共産圏からの引揚者に対する尋問も、3月

19日にはどのよ

うに日米共同で行うのかについて案がでている。尋問によって得られた情報は国務省と

CIA

に提供するが、アメリカ側に引揚者に直接尋問させたり、接触させたりはしないと取 り決められている。そして、アメリカ側にその情報を供与するかわり

3

9458.34

ドルの 資金援助を要請している。しかも、この資金はまず緒方に直接支払われ、彼から官房調査 室に渡され、余れば内閣官房室の機密費に充当されるということになっていた。40)

緒方主導の「新情報機関」は順調にいっているかのように思えた。ところが、官房調査 室に新しい人員を入れるというこの拡充が組織内で思わぬ対立を生んでいたことが明らか になった。同年

8

月に起きた「村井闇ドル事件」だ。

官房調査室長で緒方派の村井は、MRA(Moral Rearmamentアメリカの社会改革運動団 体)大会出席と偽って、西ドイツでアレン・ダレスと会おうとしたのだが、飛行機から降 りるやいなやイギリスの

MI6(アメリカの CIA

にあたる)とおぼしき男二人に張り付か れ、予定した行動が取れなくなったという。

それどころか「腹巻の中に」3000ドルを隠し持っていたために、衣服を切り裂かれて 身体検査までされる辱めを受けたといわれている。一説では村井が隠しもっていたのは

3000

ドルではなく、官房調査室の拡充案だったともされている。

実際には、村井は西ドイツに行く前にアメリカでアレン・ダレスと会談して、新情報機 関のことについて意見を交換していることを

CIA

報告書が明らかにしている。41)したがっ て、隠し持っていたのが官房調査室の拡充案だった可能性はある。

情報を漏洩させた犯人だが、CIA文書は緒方に代わって官房長官になった福永健司と外 務省出身の大物、曽根明だと考えているようだ。42)

つまり、前官房長官の影響力を排除しようとする福永と、内務官僚出身の村井の風下に 立つのをこころよしとしない外務省出身の切れ者の曽根が、緒方・村井の力をそごうとお こなったことだと考えている。



もうひとつの再軍備

38) Cabinet Research Chamber, September 18, 1953, Tatsumi File.

39) Intelligence Organization of Japanese Foreign Ministry, May 21, Tatsumi File.

40) Repatriation Program from China, March 19, 1953; Requesting Aid and Assistance in Monetary Loan, May 8, 1953, box 96, Ogata File.

41) Letter, Yoshida Shigeru-Allen W. Dulles, September 22, 1953, box 96, Ogata File.

42) Fukunaga Kenji, October 7, 1953; Fictitious alleged incidents on European tour, October 23, 1953, box 96, Ogata File.

(16)

いずれにせよ、官房調査室内部には深刻な対立があり、それを利用してソ連の情報機関 が浸透し、ソ連ばかりかイギリスのような国にまで内部情報が流れていたということだ。

そうでなければ、村井のダレスとの会合の情報がイギリスの情報部員とおぼしき二人組み に漏れるはずもなく、「村井闇ドル事件」も起こらなかったはずだ。

村井は、緒方がかばったにもかかわらず、吉田の強い指示で、1953年12月8日に更迭 されてしまった。緒方は、村井の更迭をアレン・ダレスに報告し、これはCIAとともに進 めている計画の変更を意味するものではないと釈明している。43)

CIA

はこの釈明に納得したようだ。というのも

1953年 11

7

日に棚ざらしにしていた

PODALTON作戦を打ち切りにしていたからだ。実はCIA

は1953年の

3

月以来、日本テレ ビ放送網がマイクロ波通信網を建設するための資金をアメリカの輸出入銀行から得るのを 支援する作戦を行っていた。

マイクロ波通信網は、移動体通信や航空管制やレーダーにも使用されるので再軍備に不 可欠のものだったからだ。この作戦の暗号名が

PODALTON

だった。

CIA

は日本テレビの代わりに電電公社にこのマイクロ波通信網を建設し、保守管理する ことを翌年の1月に在日アメリカ駐留軍に勧告した。駐留軍はこれにしたがった。44)

この結果から見るならば、CIAは緒方「新情報機関」構想と正力「マイクロ波通信網構 想」を天秤にかけて、前者を取ったことになる。45)

しかし、同年

1

月に緒方「新情報機関」構想にとって都合の悪い不祥事がまたしても起 こってしまう。ラストボロフ事件だ。

日本に駐在していたソ連情報部の幹部ユーリー・ラストボロフが

CIA

の手引きでアメリ カに亡命することに成功した。そのあと、彼の日本でのインテリジェンス活動の情報源や 協力者になっていた日本人の名前を暴露し始めた。

名前を挙げられたなかには日暮信則がいた。驚くべきことに、日暮は警察の取調べを受 けたとき、五階にあったその部屋から飛び降りて自殺してしまった。

この日暮は、外務省時代は曽根の直属の部下で、官房調査室に来てからは村井の側近と なっていた人物だ。46)「新情報機関」の母体である官房調査室が人事管理や機密保持に大 きな欠陥をもっていることがはっきりした。

1955年 3

10

日の報告書には、アジア問題研究所が、実は官房調査室の引き上げ者調



43) MURAI Jun and the “Black Market Dollar” Incident, December 21, 1953; JACC 1491 In-47197, January 7, 1954, box 96, Ogata File.

44) 正力マイクロ波通信網構想と当時の日本の政治状況の詳細については有馬哲夫、『日本テレビと CIA』、新潮社、2006年、第11、12章に譲る。

45) 詳細は、『日本テレビとCIA』、第10、11章に譲る。また、CIAは読売新聞による「村井闇ドル」

スキャンダルの報道が、緒方が正力マイクロ波通信網構想に対する協力を拒否したことに対する報復 だと思っている。FJJ-407, October, 1953, box 96, Ogata File.

46)「外交、治安の機密一切つつぬけに 有数なソ連通 通訳出身で下積み日暮事務官」『読売新聞』

1954年8月28日夕刊など。これ以降、数日にわたって「ラストボロフ事件」報道が続けられた。

(17)

査部門のカヴァーになっていると報告されている。これは緒方が

CIA

に約束したことを実 行に移したことを示している。47)

問題はなぜ、官房調査室ではなく、カヴァーではあってもアジア問題研究所でそれを行 ったのかということだ。これまでの経緯をみれば、村井闇ドル事件やラストボロフ事件の ことがあったので、官房調査室を土台にして、その上に新インテリジェンス機関を作った りするのではなく、大陸問題研究所やアジア問題研究所のような外郭団体にインテリジェ ンス活動を委託し、官房調査室をこれらと連携させていくという方針をとったのだという ことがわかる。

緒方「新情報機関」構想はこれ以上進まず、結局これがこの構想のたどりついた終点に なってしまった。内閣調査室(官房調査室の後身)と外郭団体の連携によって日本のイン テリジェンスを行っていくという現在の体制は、このとき固まったといっていい。

V.

緒方―

CIA

関係の変質

1954

年になると、緒方は官房調査室内の内紛とは関係なく、「新情報機関」に関わるこ とができなくなる。この年の初めに発覚した造船疑獄が政局を生み、犬養健法務大臣が指 揮権発動をするにいたって泥沼化し、自由党政権が崩壊しつつあったからだ。

このなかで緒方は、「保守合同による政局の安定は現下爛頭の急務」と唱えて、保守大 合同の流れを作ろうとしていた。造船疑獄とその後の政治的混乱があまりにも大きいの で、いずれ民意を問わなければいけないが、そのときは自由党が大敗することが確実視さ れていた。社会党右派と左派の連合が成るなら、社会党政権が誕生する恐れがある。緒方 としては、それは何とかして防がなければならない。

アメリカ側にとっても、再軍備がようやく本格的になったときに、左翼政権が生まれる のは困る。再軍備がもとの黙阿弥になる恐れすらある。新インテリジェンス機関がどうの こうのといってはいられない。

そこで、緒方は

1954年の 12

月21日、以下のように保守政権を支えるために、政治資金 の供与の要求をほのめかすことを

CIA

に対して述べている。

A.緒方がいうには、保守党(自由党、改進党)が主に懸念していることは、主として中 国共産党から社会主義者(社会党右派、左派)に流れている援助資金だ。これがあれば社会 党右派と左派の合同は可能だ。自由党は現在のところこれ(保守合同)ができそうもない。

B.次の選挙で非常に大きな問題になるのは金だ。もし保守党が資金をもてば、彼らは勝 つだろう。もし、持てなければ、彼らは負けるだろう。

C.緒方自身は、アメリカからの資金援助について議論するのは少し早すぎるとしてい



もうひとつの再軍備

47) Cabinet Research Chamber, December 6, 1955, Tatsumi File.

(18)

る。しかし、彼(緒方)は、アメリカはそのときがきたときに備えて、援助する準備をして おくべきだと考えている。そのことをあなた(接触したCIA局員)に覚えておいてもらいた いといった。48)

これ以降、いつが「そのとき」なのかをアメリカ側に判断させるために、頻繁に政治状 況レポートをCIAに送ることになる。49)緒方の死の直前の時期に関していうと、週に一度 の割合で、夜に電話したり、人目を忍んでエージェントと直接会談したりすることによっ てこれは作成された。50)

CIA

の緒方に対する政治資金援助が実行されたかどうかを示す文書は、本論で使用して いるアメリカ側の資料からはでてこない。他の文書はふんだんにでてくるのに、資金提供 に関しては、前述の官房調査室に関するものしかでてこないということ(ださないという こと)が、隠された事実を暗示している。

つまり、造船疑獄以降の政治の流動化のなかで、本来「新情報機関」を創設するための 緒方とCIAの協力関係は、アメリカ側の保守党支援と緒方側の政治インテリジェンス提供 のチャンネルに変質したのだ。

しかし、この好ましからざる協力関係も、1956年

1

28

日の緒方の死をもって終わっ ている。

VI.

まとめ

これまで述べてきたように、「新情報機関」は緒方が考え出したものではなかった。そ れは、戦後の「日本の情報機関」のインテリジェンス活動を継承し、日本の国防をめぐっ て日米間の懸案とされていた問題を解決するものとして、日本の旧軍人らとアメリカの情 報機関から緒方に託された「もう一つの再軍備」だった。

この構想を実現する過程で、緒方は大手メディアによる攻撃や官房調査室の内紛など多 くの困難と直面した。このため、緒方は自分が望んだことをすべて実現できたわけではな かった。だが、少なくとも、以前は7人の人員しかいなかった官房調査室を拡充し、今日 の内閣情報調査室の土台を作った。そして、内閣情報調査室だけにインテリジェンス活動 を任せるのではなく、それを中心に民間研究所や民間メディア企業と提携を保ちつつ、総 合的にインテリジェンス収集・分析・評価を行うという現在の日本のインテリジェンス体



48) 1259IN-33976, December 21, 1954; Ogata Indications of Probable Conservative Need for United States Aid, December 23, 1954, box 96, Ogata File.

49) Dissident Factions Within Japanese Political Parties, December 29, 1954, box 96, Ogata File.

50) Operational Reporting, POCAPON, January 24, 1956, box 96, Ogata File.この文書の最後の関連文書 の日付を見ると、1955年の10月17日から最後の日まで緒方はほぼ毎週、電話か直接会談かでCIA 員に政治情勢をレポートしている。

(19)

制のもとを作った。この意味で緒方構想は戦後日本のインテリジェンス機関の再建の出発 点だったといえる。

緒方―

CIA

の関係が変質したのち、それが保守大合同とその後の日本政治のなかでどの ような役割を演じたのか、それが戦後政治においてどのような意味を持つのかは、本論の 枠組みを越えるし、公開済みの資料では十分解明できていない。注目すべきは、すでに何 人かの研究者がこのテーマに取り組んでいることだ。51)関係資料の新たな公開と、今後の 研究の進展を待ちたい。



もうひとつの再軍備

51) 山本武利、加藤哲郎、吉田則昭による20世紀メディア研究所特別研究会(2009年7月25日)研究

発表「CIAと緒方」など。

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