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少年司法における子ども観の変遷一非行統制と教育的介入

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(1)少年司法における子ども観の変遷一非行統制と教育的介入. 127. 少年司法における子ども観の変遷一非行統制と教育的介入. 竹. 原. 幸. 太. はじめに 2000(平成12)年の第一次改正少年法に続き、2007(平成19)年5月25日には第二次改正少年法 が成立し、児童福祉処遇の対象である14歳未満の触法少年(おおむね12歳以上)も少年院送致が可 能となった。すなわち、少年司法の刑事司法化(司法における子ども期の消滅)が進んでいる。 翻って、刑事司法における少年(子ども)の発見ともいうべき、少年の成人からの分離処遇が開 始された歴史に目を向けると、教育的情熱に燃えた社会事業の実務家が刑罰対象から子どもを救済 し、「発達可能態の子ども観」の下に、刑事司法とは異なる独自の少年司法制度(刑罰とは異なる国 の教育的介入‑国親思想の制度)を作り上げてきた経緯が確認される。. つまり、少年司法は教育に. 対する信頼の下で、犯罪とは異なる非行の概念を発見し、国による教育的介入を制度化してきた歴 史的産物である。 教育への信頼により、司法における子ども期が発見されてから1世紀を経た今、世間一般の教育 的関心の拡大は逆に教育不信を構築し、少年処遇の厳罰化要求と非行予防のための青少年統制政策 の拡大をもたらし、司法における子ども期の消滅を助長するに至っている。. このような動向を分析. する上で重要な視点は、子どもをいかなる存在として認識するのか、すなわち、子ども観(児童観) に即した視点である。教育的介入の質や強弱の差の根本には子ども観の差異があるといえよう。 本稿では、少年司法が作り上げられてきた過程を子ども観に注目して整理した上で、昨今の少年 事件を契機とした世論と諸政策の根底にある子ども観の問題を検討したい。 1.. 戦前期における刑事司法上の子ども観の変遷(1). (1)刑事司法における少年の発見と教育主義の隆盛一感化法制定から改正まで 少年と成人の分離処遇の法的整備は明治期に進められ(2)、明治後期から大正初期にかけては、旧 刑法下での必罰的運用に歯止めをかけることと、日清戦争後の浮浪児による犯罪の増加への対応策 が求められていた(3)。 こうした時代的ニーズに応える形で、法レベルで感化法制定に精力的に取り 組んだのが内務省監獄局の小河滋次郎であり、また、実践レベルで注目すべきは家庭学校創始者の 留岡幸助である。 彼らは、その後の感化教育思想に大きな影響を与えていくことになる。.

(2) 128. 法レベルでは、諸外国の監獄の動向に学びながら分離監獄の重要性を力説した小河の指導の下、 1900明治33)年に感化法が制定され、16歳未満の少年の処遇は、刑罰ではなく教育を担う施設で ここにおいて、刑事司法の上で教育・福祉的処遇で対応する ある感化院で対応することになった。 少年というカテゴリーが発見されたのである。 実践レベルでは、留岡の家庭学校を中心に感化教育が展開された。 留岡は監獄での教語師経験か ら非行少年の教育の必要性を感じ、監獄事業視察のために渡米する。 留岡が渡米したこの時期は、 まさに国親思想に基づく少年裁判所の誕生前夜であり、留岡はこの精神を日本に持ち帰ることとな った(4) 帰国後、留岡は1899明治32)年に巣鴨に家庭学校を設立したが、まもなく、都会の劣悪な環境 によって非行が誘発されると考え、家庭学校を大自然に囲まれた北海道に移し、夫婦小舎制の下、 自然を生かした教育内容を完成させていった(5)。 上述したように感化法が制定されたとはいえ、感化院設置は地方自治体の任意であったために全 国的に広まらず、感化院を設置しない地域は従来通り懲治場が使用された(6)。 ところが、1907(明治40)年、旧刑法改正と新刑法制定に伴い、刑罰対象年齢が14歳以上にされ ると共に、懲治場の廃止が決定されると、翌年にはこれに合わせて感化法も改正され、その対象年 齢が18歳未満に引き上げられ、財政援助の下、公立感化院が設置されることになった。 しかし、こ の感化法改正を導いていたのは、刑事司法の補助機能を重視する司法事情の観点であった。 つまり、 新刑法制定を機に、教育よりも紀律に比重を置く施設として感化院の性格を転換させる司法省のね これは、国親 らいがあり(7)、この時期に小河が司法省を辞職していることもそれを物語っている0 思想に基づく教育主義に対する司法省からの批判でもあり、裁判を経て少年の責任を追及する少年 法の立案につながっていく。 少年法の立案に対抗軸を張ったのが、少年処遇は教育主義を旨とすべきであるとする内務省陣営 内務省側からすれば、感化法の教育主義は少年処遇の核心であった。 しかし、小河、留岡 である。 らの教育主義は、子どもの成長発達を促す処遇を主張しながらも、アメリカの国親思想と同様に、 恵まれない少年を国が教育しようとする「慈恵的児童観」に基づく思想であったことは留意すべき とりわけ、少年犯罪の減少が国益に結びつくとする考えを教育主義の背後に含ませて であろう(8)。 いた点では、国家主義的観点から社会防衛を強調する司法省の少年法立案と発想は同根であり、留 意すべきである。 この点に関して言えば、1889明治22)年に大日本帝国憲法が制定され、翌年に発布された教育 勅語の精神が感化教育の指導理念にも位置づけられ、留岡、小河も児童を天皇の赤子として捉える 見方を示している(9)。 すなわち、国親思想に基づく少年処遇の教育主義には、天皇を頂点とする日 本の家族国家観の下で「教育」しようとする側面も含まれており、子どもの利益充足(成長発達を 促す処遇)という視点が弱かった。 また、感化院に入院した少年に対しては、学校教育の就学免除.

(3) 少年司法における子ども観の変遷一非行統制と教育的介入. 129. 規定が設けられており、感化教育と学校教育が分断していたという制度上の限界にも留意すべきで あろう(10)。. (2)1922年少年法と感化法の二分化一感化法改正から1922年少年法制定まで 監獄事業の所轄が内務省から司法省へと移ると、再び少年処遇は教育よりも責任が重視されるよ うになり、1910年代に入ると、司法省で本格的な少年法立案作業が始まり、少年審判所設立構想を 含む法案が議論された。 つまり、感化法によって、子どもは刑事司法の対象から教育・福祉的処遇 の対象へと捉え直されながらも、少年法立案により、再び子どもを刑事司法へ呼び戻す方向が台頭 したのであった。 こうした少年法立案に対する痛烈な批判論者として登場したのが司法省を退職した小河である。 小河は民間の社会事業家として「非少年法案」を作成して少年法を非難し、再度、少年処遇におけ る教育主義を強調したo小河は、アメリカの著名な少年裁判所判事リンゼ‑(B.Lindsey)の言葉を 引用しながら、少年裁判は厳格な刑事裁判ではなく、保護者、後見人、弁護人、教育者の役割を担 う裁判官が少年と面接し、処遇を決定する「チルドレン・コート」の性格をもつこと、少年処遇を 支える専門職としてプロベーション・オフィサーが確立されていることを紹介した上で、日本の刑 法学者がその点を見落としていると批判し、感化法は欧米の少年法に劣らない優れた制度なのだと 反論した(ll) 司法省と内務省の間で、少年処遇をめぐる激論が展開された後、最終的には新刑法の規定に従い、 年齢区分(14歳未満は刑事責任を問わないこと)に基づいて、少年法と感化法の対象を二分するこ とで妥協が成立し、1922(大正11)年に少年法及び矯正院法が制定され、少年審判所と矯正院(現 少年院)が誕生した。 こうして、14歳を境とする年齢区分により、刑事司法系の1922年少年法(14歳以上18歳未満の 少年)と社会事業系の感化法(14歳未満の少年)の二系統への分化が明確となり(12)、それは、現行 少年法と児童福祉法へと形を変えて今日まで継承されることとなった。. (3)総合的教育保護法としての少年教護法‑1922年少年法制定から少年教護法制定まで ①1922年少年法と感化法の交錯 現行少年法と児童福祉法の交錯の問題と同様、1922年少年法と感化法もまた、両者の交錯が問題 となっていたo少年法による保護処分を受けた18歳未満の少年は、矯正院に送致されることが法的 に規定されてはいたが、国家予算的に矯正院の設立は一部の都市に限られ、矯正院がない地域では、 つまり、14歳未満の少年や軽微な事件を犯した少年と18 18歳未満の少年も感化院へ送致していた。 歳未満で重大事件を起した少年が、ともに感化院で処遇されることもあり、年齢による少年処遇の 区分は混乱していた(13).

(4) 130. 一方、少年法制定後も、感化法支持者の勢力は教育主義に情熱を燃やし、大正デモクラシー期に 一部で芽生えた児童の権利と児童中心主義教育の思想は、教育主義の発展に大きな影響を与えた。 具体的には、1920年代に入ると、「社会事業家の父」と呼ばれる生江孝之によって児童の権利が提唱 され(14)、文部行政側からも、学校教育から疎外されている児童の教育的保護を社会教育行政が担う べきことが主張され(15)、総合的な児童保護立法の動きが浮上する。 大正自由主義教育や諸外国の児童保護法の動向を取り込みつつ、小河や留岡、生江といった先駆 者にも指導を受け、総合的な観点から感化教育思想を形成したのが菊池俊諦(きくちしゅんたい、 初代武蔵野学院院長)である(16). ②全人教育思想に基づく菊池俊諦の感化教育論 菊池は小原園芳の全人教育論に学びつつ、国際的な児童保護運動の動向にも注目し、1924(大正 13)年に国際連盟が採択した「児童の権利に関する宣言」(ジュネーブ宣言)を人類連帯による児童 保護の表明として紹介し(17)、さらに、アメリカの児童保護運動の結実として1930昭和5)年にホ その一方で、エレン・ケイ(E. Key)や生 ヮィトハウス会議で採択された児童憲章も紹介した(18)。 江、賀川豊彦などの諸説に学び、社会的生存権というべき児童の権利を提唱した(19)すなわち、個 と社会の調和的関係(共存共栄)を理想として、社会連帯思想に基づいた国家の個人保護義務を論 じ、社会に生きる個人の権利を主張したのである。 また、「現代に於ける児童観は、児童の価値を、児童の物質的、精神的、社会的三方面の生活に融 合する処に措かんとするものである」(20)というその児童観は、「慈恵的児童観」を克服したもので つまり、児童を社会的に生活し発達する主体とする「権利主体の児童観」を提起し、児童 あった。 の発達段階に即した対応により、生命を促進させることを児童に向き合う根本態度としたのであ る(21) 感化教育の目的が達せられた時に、生 さらに菊池は、「犯罪防止は結果であって、目的ではない。 じ来る副産物に過ぎないのである」(22)と述べて、社会防衛思想に根ざす教育観を批判し、児童の視 これは、感化教育の指導理念に教育勅語を置きながらも、 点から全面的発達を促す教育を提唱した。 徳目などで縛る厳粛主義を批判し(23)、ルソー(J. J. Rousseau)の教育思想にも学びながら、児童の 個別性に即して教育の機会を自由自在に活用する自由主義教育を理想とし、国家的要請に基づく 「教育」主義とは距離をとった立場でもある。 このような総合的全人的観点から感化教育を捉える菊池にとっては、知育偏重に陥り、障害児、 事実、教育は人間生活の全方面にわたるもの 非行児を切り捨てる学校教育は批判の対象であった。 であり、学校教育は教育の一部に過ぎないという見地から、感化院教育の安易な学校教育化を否定 し、感化院では児童の個別性に即した、学校教育以上の教育が必要だと主張したのである(24)。.

(5) 少年司法における子ども観の変遷一非行統制と教育的介入. 131. ③教育保護思想の結実としての少年教護法一 大正デモクラシー期は、一般的には従来の村のしつけに代わって「教育する家族」が誕生し、学 校教育と家庭教育の目指すべき方向性が確立し、学校教育への期待が高まった時期であった(25)こ の状況の下で、「教育的救済としての社会教育論(乗杉嘉寿)」、「教育の社会化・社会の教育化論 (川本宇之助)」が浮上し(26)、その影響を受けながら形成された菊池の教育論も、学校教育を盲目的 に善とする言説を疑い、教育と福祉を統合的に捉える教育福祉論に通じる先見性を含んだものであ った。 既に大正10年代より、感化教育の眼目は、教育保護であり保護教育であるという認識が実務の中 に浮上しており(27)、感化教育の実務家達は、少年法制に対して感化法制の独自性を提起するため、 少年個々の性状の鑑別などを重視する科学的な分類処遇を希求していた。. そうした流れの中で、全. 国の感化院長が結成した感化法改正期成同盟会の働きかけで少年教護法案が国会へ提出され、1933 (昭和8)年に感化法は少年教護法として生まれ変わり、感化院も少年教護院に改められた。 少年教護法では、非行の早期発見、早期診断、早期治療を実現すべく、院外保護、院内保護、退 院後の保護を充実させることが目指され、院外保護、退院後の保護観察職である少年教護委員の設 置、教護院内の鑑別機関の任意設置などが規定された(28)。 また、所定の科目を履修し、性向が改善 した者に対し、教護院長が尋常小学校の卒業認定を出来るようにした点は、感化教育と学校教育と の分断解消を促すものであった。. (4)戦時下における非行統制と教化の拡大一少年教護法制定から敗戦まで 1937昭和12)年の日中戦争勃発、翌年の国家総動員法制定に伴い、社会の教育化・教育の社会 化論は全体主義の教化思想に変質し、教育勅語を指導理念としていた少年法下の司法保護や少年教 護法下の教護の在り方も、軍隊を補佐する軍事物資生産労働に吸収されていった。. 皮肉にも、戦時. 下の厚生行政において、児童保護事業は人的資源政策の観点から期待され、その拡充が進んだので ある(29)。 1938(昭和13)年少年教護法施行令の改正により、教護事業は人的資源滴養の見地から歪んだ形 で推進された。菊池の全人教育思想も国民精神総動員運動に加担する論調を里し、ヒトラーの言葉 を引用しながら国家主義的見地からの児童保護論‑と傾いて(30)、国民総動員的な不良化防止運動論 を展開するに至った(31)。 個に応じた処遇のために提唱された鑑別に関しても、戦時下においては、鑑別によって個性を把 握すれば、非行児、障害児も人的資源として活用できることが主張されるほどであり、虞犯少年を 対象とする院外保護の統制拡大も説かれ(32)、軍人作りのための総合的全人的教護事業が展開された。 芽生えつつあった「権利主体の児童観」は、こうして戦時下で減却し、代わって「人的資源として の児童観」が台頭したのであった(33)。.

(6) 132. 軍国主義教育が最高潮に達すると、司法省も積極的に軍国主義の国家政策に協力する姿勢を強め、 1942(昭和17)年「少年保護運動実施要綱」、翌年の「勤労青少年補導対策要綱」は少年法下の統制 そして、少年審判所、矯正院での保護少年の「教育」の内実は教化そのものとなり、 を拡大させた。 保護少年を軍隊に多数志願させたのであった(34)。 以上に見てきたように、非行少年の処遇をめぐり、刑罰主義を否定しつつ、社会事業家によって 主張された教育主義は、教育勅語に基づく国家主義的教育と子どもの社会的生存と発達を促す教育 を内包しながら、大正期には後者が活性化され、総合的な児童保護法の構想から少年教護法制定に しかし、戦時下においては、その総合的見地を逆手に取られ、国家主義的教育の側面が 寄与した。 換言すれば、国による非行統制の拡大に合わせて 強調されて、全体主義体制下に埋没していった。 積極的に子どもを「保護」、「教化」することで、戦争を支える人的資源の確保に尽くす皮肉な結末 を迎えたのであった。 戦後期における非行少年観の変遷 2. (1)現行少年法の民主主義的教育観・子ども観 敗戦後、1946(昭和21)年の日本国憲法制定に伴い、戦前の軍国主義的な規範が改められ、民主 憲法の民主主義的な精神は、教育基本法、児童福 主義的な規範が法律にも規定されるようになる。 祉法とともに少年法にも生かされて、民主的な教育観、少年観が尊重されるようになり、1948(昭 和23)年に1922年少年法は現行少年法へと生まれ変わる。 現行少年法は適用年齢を18歳未満から20歳未満に引き上げ、14歳以上20歳未満の罪を犯した犯 罪少年、14歳未満で刑罰法令に触れる行為をした触法少年、性格や環境に照らして将来刑罰法令に 触れる行為をする虞のある虞犯少年という3つのカテゴリーを設け、この3種の少年を指す用語とし また、刑事責任能力を14歳未満から16歳未満に引き上げ、義務教育段 て「非行少年」を導入した。 階の少年は刑事裁判の対象外とし(35)、触法少年の処遇は、少年教護法から生まれ変わった児童福祉 法の下で教護院が担うこととなった。 現行少年法施行直後、宇田川潤四郎(初代最高裁事務総局家庭局長)は、少年法の保護主義の理 ソーシャルケー 念は従来軽視されてきたソーシャルケースワークによって実現されると主張した。 スワークとはリッチモンド(M.E. Richmond)の社会事業における実践技術論に起源があり、社会 的に困難な状況にある者に対し、専門家が科学的な技術と方法によって、その問題解決を支援する 個別処遇過程である。 現行少年法では、この業務を担う専門ソーシャルワーカーとして家庭裁判所調査官が設置され、 つまり、 宇田川は少年審判に関与する職員が教育者としての自覚を持つことの必要性を主張した(36)。 少年処遇は社会防衛的な消極的な少年観ではなく、更生を期待する積極的な少年観によって貫かれ、 少年司法制度が教育的性格を持つようになったのである。.

(7) 少年司法における子ども観の変遷一非行統制と教育的介入. 133. 後述するように、戦後民主主義の理念の下、少年司法実務に取り組んできた山口幸男、守屋克彦 は、憲法の精神を引き継いだ教育基本法、少年法、児童福祉法はそれぞれ教育観、子ども観を一に しており、少年法も民主主義的教育観・子ども観に根ざしていると捉えている(37). (2)少年法改正審議と司法福祉運動‑1950年代から1970年代まで ①戦後民主主義に逆行する非行統制・国民教化 ケースワークの理念に基づく民主主義的教育観、子ども観が提唱されるも、戦後まもなく,の非行 の波の時期と重なって、少年法の教育観、子ども観に反する少年法改正案が台頭してくる。 さらに、 教育政策と関連づけてこの動きを考察した場合、戦前に軍国主義教育の強化と非行統制の拡大が結 合したように、戦後も国家主義的教育政策の強化と青少年統制政策の拡大が結合し(38)、この動向は 非行少年の統制から、全青少年を対象とした「健全育成」という統制枠組みに拡大していく(39)。 す なわち、戦後の司法改革と教育改革の水面下で残存していた1922年少年法や教育勅語の意識が再浮 上してくる。 1950年代の少年法改正審議では、治安に重点が置かれ、1951(昭和26)年の検察長官会合では、 検察官先議主義の法制化の要請が出される。 以後、法務大臣などによっても同様の要請がなされ、 1959昭和34)年に法務省は、18‑23歳の年長少年を青年部として、これに対し検察官先議主義を とるべLとする「青年部構想」を発表する。 また、非行防止の名目の下、1949(昭和24)年には青少年問題協議会が設置されると共に、主要 都市で青少年育成条例が施行され、警察の統制が強化されている。 朝鮮戦争以後の「逆コース」の 政治的状況は教育政策にも持ち込まれ、教育勅語の復権ではないかとの批判がなされながらも、 1958(昭和33)年に道徳の時間が特設され、国家による徳目主義強化の基盤が形成された。 1960年代には、高度経済成長の歪みから生じた戦後第二の非行の波を受け、1966(昭和41)年の 中央青少年協議会「少年法改正構想」では、50年代の検察官先議主義などが再び浮上する。 青少年 政策では、1963(昭和38)年文部省通達「青少年非行防止に関する学校と警察との連絡の強化につ いて」に基づき、学警連絡体制の整備が進み、教育政策では、1965昭和40)年に中央教育審議会 「期待される人間像」の中で教育勅語体制の復権が提唱されて、国家主義的な「健全育成」政策が明 白になってくる。 1970年代に入ると、法務省は1970(昭和45)年に年長少年の処分を刑事裁判で行うことなどを含 んだ「少年法改正要綱」を発表する。 この時期はアメリカで国親思想が後退し、少年司法が刑事司 法化した時期であり、アメリカの少年司法制度に強く影響を受けて誕生した現行少年法は、改正論 議でもアメリカの影響を受けることとなった(40) また、この改正論議と並行しながら、1970年代後半には、競争・管理主義的な教育の歪みとして、 校内暴力やいじめ、暴走族などを中心とした戦後第三の非行の波が現れる。 これに伴い、1960年代.

(8) 134. に強化された警察主導の統制にさらに大きな比重がかけられ、以前は単なる悪戯とされたような行 為も非行として認知されるようになった0 この時期の非行が、「遊び型非行」といわれる所以である。 青少年政策では、非行を防止し、「健全育成」を図るべく、1979(昭和54)年青少年問題審議会答申 「青少年と社会参加」においては、国家‑の奉仕の精神が謳われ、非行統制と国民教化の結合が見え やすい形で浮上し、国家主義的色彩がはっきりしてくる。. ②民主主義的教育観・子ども観を血肉化する司法福祉運動 1950年代以降、「逆コース」の政治的状況が強まる中、全国司法労働組合は「あるべき裁判所、民 主的な司法制度を国民とともに、国民の立場で考える」ことをスローガンに、1959(昭和34)年よ り司法制度研究運動に取り組み、少年法改正に反対の声を挙げてきた(41)。 司法制度研究運動の一環として誕生した、東京家庭裁判所内の自主的研究会「司研サークル」 (1964年発足)では、「少年の事件と少年審判の在り方」が研究され、1968昭和43)年に同サーク ルは「司法福祉研究会」‑と発展し、山口幸男を中心に「司法福祉」という新しい概念を提起する。 とりわけ、注目すべきは、同研究会が保護主義の研究を展開する中で、少年を教育や福祉の権利 を行使する主体として位置づけるのが保護主義の本質だと考えるに至った点である。 家永教科書裁 判訴訟の時期とも重なり、専門領域の垣根を越えて民主主義的教育観を擁護する運動を展開してい た同研究会は、関連領域で発展した教育権・学習権の理論に学びつつ、非行少年を発達可能態とし それらは、少年法の民主主義的 て認識し、成長発達を促す教育を受ける少年の権利を主張した(42)。 教育観、子ども観を実践において血肉化し、社会のうちに生き、発達する「権利主体の子ども観」 を結実させたものといえる。 関連領域を結びつつ、少年法と民主主義教育を精力的に擁護してきた司法福祉運動は、少年司法 における教育主義を貫く上で大きな役割を果たしてきたのである(43). (3)教育不信と子ども観の揺らぎ‑1980年代以降から現在まで 一般的に、1997平成9)年の神戸児童殺傷事件以降、世論は少年の発達可能性を疑い、少年法改 そこでは感化教育の実践や、司法福祉 正へ賛同し始め、2000平成12)年に少年法は改正された。 運動に見られたような教育主義の発想は後退している。 これは、1980年代以降、司法福祉運動に限 らず、市民運動全体が後退してきたこととも関連している。 司法福祉運動を展開してきた山口が述 べているように、以前の改正論議では教育や福祉に携わる人々から反対の声が上がったが、現在は 単純化し 沈黙が支配し、少年事件が「法律家問題」に嬢小化している傾向が見られるのである(44). ていえば、高度経済成長期以降、顕在し始めた生活の個別化の浸透が、非行問題をも個別化させ、 自己責任や厳罰主義、さらには精神医療的な治療主義を世論として形成しているように思われる。 歴史的には、少年司法は国親思想の下に誕生し、共同体の中で非行少年を教育していくことを想.

(9) 少年司法における子ども観の変遷一非行統制と教育的介入. 135. 走していた。 しかし、共同体の崩壊とともに、アメリカでは教育主義から、個人の権利・責任モデ ルへと少年司法が組み替えられ、その結果、刑事司法化が加速された。 また、司法において「被害 者」が焦点化され、庇護の対象が非行少年から「被害者」‑移行したことも、少年司法の保護主義 を後退させたと言われている(45)。 日本も同様の状況になりつつあり、少年処遇において民主主義的 教育観が大きく後退し、「子ども期」の認識も消滅の危機に瀕している。 こうした個人化モデルによる説明とは別に、社会一般の教育意識の過剰化が、逆に教育不信を形 成し、統制的教育政策の強化を促しているという見解にも注目すべきであろう。 「子ども期」の発見 は、同時に親の教育関心の発見でもあった。 子どもの発達可能性を追求しようという親の教育関心 は、時に子どもへの過剰な教育的介入となる。 広田照幸は、大正デモクラシー期の新中間層におい て、既に「教育する家族」の誕生が見られると指摘する。 そこでは、大人と異なる存在である子ど も(子どもらしさ)を伸ばそうとする童心主義、子どもは無垢であるゆえに大人が規律を教えねば ならないとする厳格主義、知識習得に力をおく学歴主義を混合しながら、相互に矛盾しあう教育意 識を同時に貫徹しようとして「パーフェクト・チャイルド」の育成が志向され、それを達成する 「パーフェクトペアレンツ」が要求された。 こうして「教育する家族」が誕生したのであった(46) 大正期に新中間層の間で誕生した「教育する家族」は、約1世紀の後に一般的なものとなり、教 育のまなざしは過剰化し、もはや飽和の域に達して、逆に教育不信を作り上げている。 具体的に言 えば、世間のパーフェクトチャイルド志向の高まりは、国家レベルでの教育政策にも取り込まれ、 健全育成条例などに代表されるフォーマルな教育的介入の過剰化をももたらす。 しかし、皮肉にも 大人の監視のまなざしの拡張は、今まで非行とされなかった行為までも非行のうちに算入する。 そ の結果、非行を大量生産し、「教育力の低下が非行を作り上げた」という言説を世に浸透させる悪循 ここでは、教育意識の高まりが非行統制の網の目を拡大させた事実は隠蔽され、教 環をもたらす。 育政策の失敗が批判されてさらなる統制強化が求められていく傾向が生じる。 これは、徳岡秀雄が 鋭く指摘するように、過剰な教育政策による統制拡大が問題行動の原因となる社会統制のジレンマ である(47)。 パーフェクトな教育意識の先進は、統制強化によって意図せざる結果をもたらす悪循環 を形成するのである。 個人化現象とともに、こうした世間「股の教育意識の過剰化が、逆に教育不信言説を作り上げ、 「凶悪な少年は教育不可能であり、刑罰を与えるべきである」、「凶悪少年は矯正不可能だ」という世 論を形成し、少年法の教育観・子ども観に対するバッシングを作り上げているといえよう。 さらに、 青少年政策をめぐっても、問題となっているのは、健全なパーソナリティの発達促進なのか、それ とも問題行動の予防なのか、または既に非行を犯した少年の保護・矯正教育なのかを峻別せず(48)、 それらを混合しながら達成しようとするパーフェクトな教育意識が持ち込まれている。 青少年健全 育成、道徳教育や心の教育の充実、ゼロトレランスなどに見られるように、国も警察も学校も全組 織を上げて、非行統制と「教育」的介入を強化しているのは周知の通りである。.

(10) 136. 3.. 「権利主体の子ども観」に基づく成長発達権の確立一結びに代えて. 少年法が刑法と異なる点は、少年の可塑性、つまり更生可能性を信頼する点であり、突き詰めれ ば成長発達の可能性を重視する視点に求めることができる。 ここに、少年期特有の成長発達権の概 念が登場する。 服部朗は成長発達権の解釈を分類した上で、成長発達権を「人間のライフ・サイクルの各々の発 達段階において、人間がその能力を伸ばし、社会との関係を形成・発展させながら生きていく上で必 要な物質的、環境的、経済的、および社会的整備を求め、かつ、発達を阻害するものの排除を求め る、社会権と自由権からなる複合的な権利」とし、「とりわけ諸能力の伸長および社会的関係の形成 が大きな発達課蓮である子ども期にあっては、子どもの諸権利の基幹となる最も重要な権利である とともに、諸権利の内容を子どもにそくして展開していく指針的役割をもつもの」と定義してい つまり、社会で成長発達していく主体として子どもを捉え、成長発達を促進する諸権利を行 る(49)。 使する「権利主体の子ども観」が提起されている。 成長発達権に通じる観点から戦前期に芽生えた「権利主体の子ども観」は、戦時下において「人 的資源としての子ども観」に吸収された後、戦後の司法福祉運動の中で再生し血肉化された。 しか し、昨今の個人化と教育不信により、「権利主体の子ども観」は叩かれ、もはや、少年司法を支える したがって、「権利主体の子ども観」に根ざした べき子ども観としては大きく後退させられている。 成長発達権の概念を実践的に再生させ血肉化していく方法論を提起し、国家や大人のニーズに即し て「教育」的介入を試みる発想から、子どもの諸権利の行使を支える、子どもの成長発達に即した 謙抑的な教育的介入を試みる発想へと転換していくことが求められる(50) 教育を信頼するにせよしないにせよ、子ども観に対する視点を欠いたままで、非行統制と教育的 介入を考案するならば、子どもの利益(成長発達を促す対応)が阻害されるばかりか、「教育」の名 において強力な全体主義的統制がもたらされることを、少年司法の歴史から学ぶ必要がある。. 注 (1)大きな時代枠組みは、赤羽忠之『非行と教育を考える』北樹出版、1984、p. 106以下、松浦崇「感化教育 における特殊児童観」新海英行編『現代日本社会教育史論』日本図書センター、2002を参照。 (2)明治期以前の少年処遇は、石井良助『人殺. 密通その他』自治日報社出版局、1971、pp. 114‑136、感化法 制定までの明治期の少年処遇は、守屋克彦『少年の非行と教育』動草書房、1977、pp. 17‑32を参照。 (3)森田明『少年法の歴史的展開』信山社、2006、pp. 62、10ト102 (4)同前、p. 103 (5)留岡幸助「大自然と児童」『感化教育』4号、1922、pp. 12‑14. (6)懲治場とは成人監獄内で少年を別居留置した施設であり、斬新な教育内容を盛り込んだ早崎春香の学校. 処遇に特色が見られた(泉順「解説」川越児童保護学校編『保護児童ノ研究』日本図書センター、1985(初 出は1905c (7)森田、前掲、pp. 111‑113.

(11) 少年司法における子ども観の変遷一非行統制と教育的介入. 137. (8)同前、p.18、留岡幸助『慈善問題』警醒社書店、1898、p. Illなどを参照. (9)守屋、前掲、pp. 53‑55、吉田久一『改訂日本社会事業の歴史』動草書房、pp. 183‑184、208 (10)山口幸男「司法福祉の形成」佐藤進ほか編『講座社会福祉第9巻一関連領域と社会福祉』有斐閣、1983、 p. 262 (ll)土井洋一.遠藤輿一編『小河滋次郎集』鳳書院、1980、pp. 121‑133(初出は小河滋次郎「非少年法案」 『救済研究』1920)c (12)この通説に対し、山口は感化院と懲治場が並存した感化法制定直後に二分化の起源を見るべきとする(山 口、前掲、p. 264)cまた、森田は1922年少年法には日本的母性原理を反映した鬼面仏心的構造があり、起 訴猶予が決定されると保護処分へ切り替わっていくため、責任と保護をつなぐ側面があったとしている(森 田、前掲、pp. 75‑76、109) (13)菊池俊諦『感化教育に於ける諸問題第‑輯』1934、pp. 27‑33 (14)生江孝之「児童の権利」『社会教育』2巻5号、1925 (15)遠藤由美「社会教育における「児童保護」の特質」新海編前掲所収、pp. 181‑183 (16)菊池の思想に関しては、石原剛志「戦前児童保護事業における「児童の権利」論の生成」『名古屋大学大 学院教育学研究科教育学専攻「教育論叢」』42号、1999、同「菊池俊諦の人物情報・文献情報に関する調査」 『名古屋大学教育学部紀要(教育学)』46巻2号、1999、同「1920年代の社会事業の「教育化」論」『長野大 学紀要』26巻1号、2004を参照。 (17)菊池俊諦『児童保護論』玉川学園出版部、1931、pp. 105、121‑126 (18)菊池俊諦「社会省と少年教護事業」『児童保護』7巻8号、1937、p. 14 (19)菊池、前掲(注17)、pp. 40‑44、100‑108 (20)菊池俊諦『感化教育』教育研究会、1923、p. 360旧字旧カナは新字新カナに改めて引用した。 (21)菊池、前掲(注13)、pp. 186‑191 (22)菊池、前掲(注20)、p. 82 (23)菊池俊諦「明るい教育. ・その術(‑)」『児童保護』2巻7号、1932、pp. 6‑7 (24)菊池俊諦「社会事業の教育化」『感化教育』7号、1926、p. 9 (25)広田照幸『日本人のしつけは衰退したか』講談社現代新書、1999、2章 (26)大橋謙策「社会問題対応策としての教育と福祉」小川利夫・土井洋一編『教育と福祉の理論』一粒社、 1978、pp. 106‑110 (27)菊池俊諦「本邦少年教護事業の発達概観」『児童保護』10巻6号、1940、p. 104 (28)日本少年教護協会編『少年教護法の解説』1933を参照。 (29)吉田、前掲、pp. 280‑281、鳥居和代『青少年の逸脱をめぐる教育史』不二出版、2006、Ⅲ部を参照O (30)菊池俊諦「巻頭言」『児童保護』7巻10号、1937、p. 1 (31)菊池俊諦「少年教護法実施清三周年に際し過去三カ年の業績を回顧して(完)」『児童保護』7巻11号、 1937、pp,2‑3 (32)菊池俊諦「拓殖教護院創立の議」『児童保護』11巻3号、1941、pp. 6‑10. (33)留岡清男も行政当局の児童観を、文部省の「文政塑児童観」、内務省の「地政塑児童観」、司法省の「行刑 型児童観」に分類し、その縦割り行政的体質を批判し、包括的児童観の必要性を主張したが(留岡清男『生 活教育論』西村書店、1940、pp. ‑88)、菊池と同様、戦中時にはこの児童観は生かされず、全体主義精神 を高める国民運動論を主張した(留岡清男『国民運動と国民教育者』同盟通信社、1942)。 (34)守屋、前掲、pp. 136‑150 (35)揮登俊雄『少年法』中公新書、1999、pp. ‑45‑52 (36)宇田川潤四郎『家裁の窓から』法律文化社、1969、p. 220 (37)山口幸男『現代の非行問題』民衆社、1978、pp. 171‑172、守屋、前掲、pp. 188‑189 (38)全国司法福祉研究会編『非行をのりこえる』民衆社、1972、14章、津田玄児「今日の情勢と少年法改悪の ねらい」丸木正臣ほか編『非行・教育・少年法』民衆社、1981を参照。.

(12) 138. (39)久野徹「青少年対策と少年法改正」山口幸男編『児童問題講座8非行問題』ミネルヴァ書房、1975、増. 山均『子ども研究と社会教育』青木書店、1988、1部3章、徳岡秀雄「青少年問題と教育病理」『教育社会学 研究』50集、1992などを参照。 (40)森田、前掲、pp. 391‑392 (41)全司法労働組合編『物語全司法史』労働旬報社、1979、pp. 16ト174、382‑383 (42)山口幸男「司法福祉」同編前掲、pp. 124‑127. (43)司法福祉運動の展開は、山口幸男「学際研究開発と実践研究」『近畿大学法学』53巻3・4号、2006、竹 幸太「司法福祉と市民活動」『司法福祉学研究』7号、2007を参照。 (44)山口幸男「今日の中学生等「非行」と私たちの課題」『生活指導研究』15号、1998、p. 56 (45)土井隆義『<非行少年>の消滅』信山社、2003、pp. 274‑276 (46)広田、前掲、pp. 57‑65 (47)徳岡、前掲、pp. 151‑153 (48)同前、p. 152 (49)服部朗「成長発達権の生成」『愛知学院大学論叢法学研究』44巻1・2号、2002、p. 198. (50)滞登は少年法の「健全育成」の解釈を整理し、非行統制は謙抑的な介入とすべきと指摘している(揮登 雄『少年非行と法的統制』成文堂、1987、pp. 210‑・216)。 筆者は、認知的発達の観点から修復的実践を考察. し(竹原幸太「修復的実践と道徳性の発達」『早稲田大学大学院文学研究科紀要』1分冊、52韓、2007)、修. 復的実践に即した問題行動への教育的介入の方法論を提起した(竹原幸太「学校における修復的実践の展望 『犯罪と非行』No. 153、2007)。 修復的実践が認知的発達を経由した成長発達権の保障となることの詳述は稿 を改めたい。.

(13)

参照

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