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コメン卜 一一加藤武 rco N DITIO 人のことばと神のことば HUMA NA J へのコメント一一 水落 健治 1 本稿の課題は, 上記論文に対して筆者の立場から批判とコメントを加えること であるが, 筆者はこの論文を読み, 様々な点で刺激を受け, 触発されることが多かっ た. そこで以下の

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(1)

人のことばと神のことば

一一 加藤武 rCO N DITIO HUMA NA Jへのコメント一一

水落

健治

1 本稿の課題は, 上記論文に対して筆者の立場から批判とコメントを 加えること であるが, 筆者はこの論文を読み, 様々な点で刺激を 受け, 触発されることが 多かっ た. そこで 以下の論稿では, 次の順序で筆者の感じ考えた こ と が ら を述べたいと思 う. まず 最 初に, 上記の論文の意図と内容を筆者の立場から要約し, そこから教えられ たことを述べたい. 次に, 論文の中で取り上げられているアウグスティヌス( 以下Aug. と略記 ) のテ キストの理解に関連して筆者が感じた疑問ないし問題点を5点ほど指摘したい. I

2 加藤武rCO N DITIO HUMA NA-S onus e t Verbu mJの主題は, rA ug. の 思想における音声u oxと内なることば u erbu mとの関係を発展史として捉えること」 に存する. この課題を突現するために, 加藤 ( 以下敬称を略す ) は, Aug. の 初期か ら中・後期に至る幾つかの著作を選び, その中から当該問題に関わる特に重要なテキ ストを抜き出し, それらの箇所を, 同時期に書かれた他のテキストのと関連等をも考 慮しつつ重点的に解釈して行くことによって, 課題に迫ろうとしている. 3 この論文の内容はおよ そ次のように要約されよう. (1 ) 初期Aug. は,くことば〉とく声〉の関係を切り離して捉え ていたが, 次第 に両者を密接に結びついたものとして捉えるに至った. (2) De Fide et Symbolo 3. 3. (A . D. 387) では,

(a)

r神のことば」が不変に留まることを根拠に, r神のことば」の超越的性格が 強調されている. ( b) r 人間のことば」と「キリストのくことば〉としてのあらわれ」とは, r隠、れ た意志のsignu m である」という点で共通であることが指摘されている.

(2)

( c)しかし, í 人間のことばjは íu erbu m とu oxとの間に断絶がある」という 点で「神のことば」と異なっていることが強調されている.

(3) その数年後に書かれたDe Doctrina Christiana, I. 1 3.12. ( A. D. 3 9 6)で は

( a) u oxとu erbu m とが緊密に結びついて来る.

(b)音声が心のことばとの関連で取り上げられ, í uerbu m qu o d ges tamus が sonus になる日t こと」が主張される. ( c)発語における言語現象がキリストの 受肉との関連で「ことばの下降」の観点 から取り上げられる(乗り物の比喰). ( d) そしてこの「ことばの下降Jの根拠として「人聞の弱さ」が指摘される. (4) したがって, 中期 Au g. は, <声〉とく内なることば〉との統一の側面に関心 を寄せていたことが明らかとなる. (5) そして,De Trinitate XV. 11.2 0が執筆された 時期に なると,くことば〉の 思想はさらに深められ, 次のことがらが主張される. ( a) I ma go Dei としての「人間のことば」においても, <内なることば〉は,くこ とば〉が音声として発せられた後にも不変に留まっていること. (b)人間の日常言語(音声, テキストとしての 聖書)の背後に神秘な言語の層が 横たわっていること. ( c) Imago Dei としての人間が「ある」を「ある」として語 る と き に 生まれる 「人間のことば」の中に, r神のことば」とのある種の相似性が見られること. ( d) したがって, われわれは「人聞のことば」の相似性によって「神のことば」 にまで到達することが可能であること.

( 6) この「人間の中に生まれるくこと ば>Jは, r 存在J ( con temp lati o)と「倫理 的意志J ( operati o)の双方にまたがる「対話的世界の言語」である. ( 7)したがって, Au g. の神秘体験は「存在の光の彼方から語り かけてくるもの」 の声を聴く経験として,くことばの経験〉として理解されなければならない. 4 以上簡単に論文の内容を要約したが, まず筆者はこの論文を読み教えられたこ とがはなはだ 多かったことを述べなければならない. とりわけこの論文においては, Au g. がくことば〉の問題をVerbu m Dei との関わりにおいて忠索し続けて行った そ の道程が鮮やかに描きだされ, Au g. のくことば〉に関する思索の流れの 全体的見通

(3)

93 しが与えられたことは, 筆者にとって大きな喜びであった. しかしながら, 論文を読み終わって改めて考えてみると, 筆者には, 加藤の論述の 中に幾つかの疑問点や問題点が存するように見えるのも事実なのである. そこでわれ われは 以下, これらの疑問点や問題点を5つほど指摘しようと思う. E A. í初期Aug.はく音声〉とく内なることば〉の関係を切り離して捉えていたJ という命題について 5 加藤は, 論文第 一章冒頭で, 初期 Aug. がく音声〉と〈内なることば〉との関 係を切り離して捉えていた,と述べ, その典拠としてDeDiale ctica c. 51)を挙げてい る . この箇所はくことば〉のもつ4つのモメントとして u erbu m, dic tio, d ic ib ile, res が指摘されることによってく音声> (=u erbu m )とく内なることば> (=d ic ibi le )が区

別される箇所なのであるが, この書物は, 全体として見るならば, むしろ両者の緊密 な関係を主張する書 物であると考えられる. 同書 第 6 章 で は「くこ と ば〉の起源」の 問題がし、わゆる「擬音語Jとの関連で展開されるし, これに続く第7 章では, íくこと ば〉のカJ u is u erb iの表題の下に, <ことば〉が それを受容する者に「音声J u oxと して働きかける仕方と「意味J sign i fic a tio として働きかける仕方との関連が論じられ ているからである. この箇所では, たとえば次のような実例が挙げられている.

( 1) ベルシア玉‘ A r ta xerxes re どという語は, それに含まれる多くの‘ ks 'とい う音によって, それを聴く者がこの語の意味を 知らない場合でも, 何か荒々しい

印象 asperi tas を聴く者に与える.

(2) Verg i lius , Ae neis (5. 294ft.) に登場する美少年‘Eu r ya lus 'は, その名 前に 含まれる多くの流音によって, 何かなめらかな印象 len i tas を聴く者に与える. 6 したがって, í 初期 Aug. がく音声〉とく内なることば〉との関係を切り離し て捉えていた」 という命題は, 現存の De Diale ctica という著作自体から直接には 導き出されないことになる. この点については 加藤も十分理解していると考えられる が2), ではこの命題は, 初期 Aug. のどの著作のどの箇所について成立するのであろ うか. これに関してさし当たり筆者の念頭に浮かぶのは,De M agistroの一連の議論 である. しかし, もしDe M ag. ( 特に後半部)が「言葉の意 味 ( d ic ibile) への傾斜」

(4)

こったかの問題は残るであろ う. 特に , この変質が Aug. のキリスト教との接触とど のような仕方で関わって い る か , と いう問題は , 初期 Aug. のキリスト教受容の問 題を考える上で極めて重要なことがらであると考えら れ る31 したがって , 筆者は , この点についてのもう少し具体的な言及がほしかったと考えるものである.

B. W信仰と信条� De Fide et Symbolo 3.3-4のテキストの理解について

7 筆者が感じた第2の疑問は, 加藤が ,De Fide et Symbolo 3.3- 4 のテキスト と DeDoctrina Christiana および それ 以降の著作との対比を若干際立たせすぎて いるのではないか, という点である.

加藤は,De Fide. のテキストを , 1言葉の音声と意味 ( d i c ibile) との関係を切り 離して捉えていた 初期 Aug. Jと「音声と意味 と の統一の側面に関心を寄せ ていた 中期 Aug.Jとの聞に位置づけ , この テ キストの解釈によって , こ の 時期の Aug. が , 一一DeDoctr. Christ . 等とは異なって l u erbu m Dei の超越的性格」 と l u erbu m homin u m における音声と内なることばの断絶」を主張していたことを述 べている. しかし筆者には , このテキストにおいては上記の2点は 加藤が考えるほどには強調 されておらず , このテキストは むしろDeDocfrina Christiana と内容的な親近性を もつように思えるのである. 8 そのことの根拠として考えられことは幾つかあるが , ここでは特に明確なこと がらとして, 次の2点を指摘しておきたい. (1 ) Aug. は確かにこの箇所で「変わることがない神のことば」と「変化をまぬかれ ない人間のことば」との比較を「ことばが man ere するか否か」という観点から おこなっている. しかし, これに続く箇所で Aug. は「人間のことばにおいても 音声とは 別に man ere するものがあるJ'Iことを明確に指摘している.

(2) 加藤が「われわれは ,音声として ひびくことばを作る ( 発する ) が ,生み出すこ とがない」という訳で引用した箇所 ( p.7 5, 註7 )は, 直訳すれば「われわれは 音としてのことばを生 むのではなく作るのであり, このことばを作るために物体 が素材として用いられる」という訳文になる. 確かにこの箇所の 前半では g ign ere と facere とい う語によって「神のことば」と「人間のことば」との相違が 述 べ られている. しかし後半部では, われわれのもとに man er e するものが物体 corpus を素材 ma teri a として用いることが述べられており , この記述は De

(5)

95 Doctrina Christiana の「乗り物J u eh icul u m の比喰 や「受肉Jin c arn at io の

言及へとつながるものと考えられる. これらの事実を考慮に入れるとき, 筆者は, このテキストを De Doctr. などとの関 連で理解すべきだと考えるのであるが, どうであろ うか. C. ことばが生成される過程を示す種々の用語について 9 第3に, 加藤の論文では, 発語行為を示す Aug. の微妙な用語の意味 と そ れ らの相互関係のおさえ方が, いま少し不十分であるように思われる. 中期~後期の Aug. は, 人間の発諸行為と言葉の受容行為との中にある種の段階な いし過程を考え, それを様々な用語で表現している. この現象は, す でに De Fide. にも見いだされるしわ, また DeDoctr. では, これがさらに深めら れた形で‘現われ ている. たとえばDeDoctr. II. 2. 3 では, 人間の発する言葉 et c. がく与えられた しるし> sign a dat a と名づけられ, こう語られている. く与えられたしるし〉とは, 何であれ生けるものが, 感覚されたものであれ理解 されたものであれ, みずからの魂の動きを可能なかぎり示すために, お互いに与 えあうもののことである. われわれが意味表示する, すなわちしるしを与える理 由は , しるしを与える者が,魂に保っているものを引き出し, 他者の魂の中に投 げ渡すためにほかならない6) この箇所を見ると, 言葉を発する者が自らのうちに保っているものが

「感覚されたものであれ理解されたものであれJ u el sen sa aut int el lect a 「魂の動きJ mot us an imi

「主砲に保っているものJ i d qu o d an imo g erit と呼ばれ, 発語という行為が,

「魂に保っているものを引き出すJ depromere

「意味表示する, すなわちしるしを与えるJ sign ifi c are=sign u m dare 「他者の魂の中に投げ渡すJt raicere in alt erius an imu m

などの用語を用いて表現されている.

10 しかも Aug. はこれらの語を25意的にではなく, かなりの論理的 一貫性をもっ

て用いていると考えられる. 例えば「魂の動き」という語については, それが「思惟」 cogit at io であることが,De Doctr. Christ . I. 6. 6 で乙う言われている.

(6)

わけではない. しかし その音は, 耳に触れたときラテン語を話すすべての人を動 かし , 何か極めて卓越した不死なる本性を思惟するようにと促すのである7) そして. De Trin. XV. 1 6. 25 に至ると, この「思惟Jについて 神のみことばは「神の思惟」とは呼ばれない8) と諮られることになるのである. 11 上に掲げ、たのは , ひとつの実例でしかないが , われわれは , このような事実を 考えるとき. Aug. の言語理論を把握するに際しての用語の分析の重要性を 知らされ るのである. したがって , もし本論文の意図が r Aug. の思想、における音声 u o xと内なることば u erbu m との関係を発展史と して捉えるJ ( 第2節) という点に存するのだとすると, 上記の用語の正確な意味と相互関連を Aug. の著作 の時間的経過の中で把握して , その上で議論を展開した方が, 議論がさらに説得力を もったのではないか , と思われる. たとえば, 加藤が〈内なることば〉と呼ぶものは , 先の「魂の動きJ. r感覚されたものであれ理解されたものであれJ. r魂に保っている もの」などの語と内容的にどのように関わっているのだろ うか. D. r上昇の道」と「下降の道」との相互関連について 12 第4の疑問点は Aug. がくことば〉の問題を考察して行くに際しての思惟方 法に関するものである.

Aug.は一一 初期のDeDiale ctica などを除いて一一くことば〉の問題を「神のみこ とば」との関連において思索し続けて行った. この意味で. Aug の言語思想は ,確か に「人間のことば」と「神のみことば」との聞の弁証法において成立しているというこ とができる. しかし. Aug. の個々のテキストについて見ると , それらのテキストには, (1) r神のみことば」を明らかにするために「人間のことば」 の事例を 用 い て 説明し ている箇所と. (2) r人間のことば」の本性を明らかに するため に「神のみことば」 を援用する箇所との2種類のものがあることが分かる. 例えば , 加藤が引用するDe Fide et Symbolo 3. 3-4 のテキストでは「信条の教義についての講解」が意図され ており, したがって Aug.はここで「人間のことば」を手がかりに「神のことば」を 明らかにしようとしていることになる. また.De Doctr.第E巻冒頭などは明らかに , 「人聞のことば」の解明に焦点が当てられ, それとの関連で「神のみ こ と ば」が引き 出されてくるテキストと考えられよう. さらにまた.De T円n.第XV巻は , この著作

(7)

9 7 全体の構成からして, í 神のみことば」を解明するために「人間 の こ と ば」とのアナ ロギアが用いられた箇所と理解される. 13 このように見てくると A ug. のくことば〉の思想を「発展史として」捉える ためには, 扱われるテキストがこれら2種類のテキストの何れに属するものであるか の理解が その根底になければならないと考えられる. すなわち, A ug. のくことば〉 の思想の展開は, í人聞のことば」ないし「神の み こ と ば」に関する「思索内容の展 開」として捉えられるだけではなく, 同時に, í思索方法の展開」と し て も捉 え られ なければならないのである A ug. のくことば〉に関する思索の内容が, í人間のこと ばから神のみことば へ」という《上昇の道》と「神のみことばから人間のことばへ」 という《下降の道》との絡み合いにおいてどのように展開して行ったか, そのダイナ ミックな展開過程が示されることが必要であろ う. E.人聞の中に生まれるくことば〉が「対話的世界の言語」であるということについて 14 最後に,De Trin. XV. 11. 2 0について筆者の感じた疑問を提出しておきたい. 加藤は, 論文の第 三章でDe Trin. XV. 11. 2 0の解釈に基づき次のことを述べて いる. (1 ) Im ago Dei としての人間が「ある」を「ある」として語るときに, その人間 の中に, í 神のことば」とのある種の相似性をもったくことば〉が生まれる. (2) この「人間の中に生まれるくことば)Jは, í 存在J ( con temp 1a tio) と「倫理 的意志J ( oper atio) の双方にまたがる「対話的世界の言語」である.

(3)

したがって, Aug. の神秘体験は「存在の光の彼方から語りかけてくるもの」 の声を聴く経験として,くことばの経験〉として理解されなければならない. この 加藤の理解は, テキストの理解に基礎づけられた優れた観察であり, 多くの示唆 をわれわれに 与えてくれるものである. だが筆者には, 加藤がDe Trin. XV. 11. 2 0 のテキストの解釈から, í人間のことば」を「対話的世界の言語」として理解 す る と き, そこに何らかの《飛躍〉があるような気がしてならないのである. 15 この箇所で A ug. は, í 神 の み こ と ば」を考察す る予備段階として, ま ず, 神によって造られた Imag o Dei としての人聞の発するくことば〉の考察を行なおう とし,この「人間のことば」の中に見いだ さ れる「神 の み こ と ば」との〈類似性〉 simi lit udoを手掛かりに「神のみことば」への接近を試みている. そしてこの考察は,

(8)

人間の魂の内に留まっている 知 sc ie nt iaから「内なることば」が生まれる という事態のなかに「神のみことば」との類似性を認め, そして第2に, 人間の行為 oper aには「ことば」が先行する という事態のなかに「神のみことば」との類似性を認めているのである. 16 そこで, この第2の議 論をいま少し詳しく見てみると, そこでの議 論は次のよ うな仕方で展開されていることが分かる.

(1)

í神のみことば」については, íすべてのものはこれによって造られたJ (loh .

1.

3 ) と語られている. ( 2) したがって, í神のみことば」は「神の行為」に先行するものである. ( 3 ) しかるに, 人聞は何かを行なおうとする場合, 自ら行なおう とする ことを心 cor の中であらかじめ諮ることなしには行なうことができない. (4) 聖書の中に「ことばがあらゆる行為のはじまりであるJ (Ecc li. 3 7. 2 0) と語 られるのは, この事態を指している. (5) したがって, í 人間のことば」もまた「人間の行為」に先行する. ( 6) それゆえ, í 神のみことば」と「人聞のことばJとの類似性は「ことばが行為 に先行する」という点にも認められる9) 17 この要約から明らかなように, この箇所で Aug. が問題にしているのは, í 人 間のことばが人間の行為を生み出す」とL、う事態と「神のことばが神の行為を生み出 す」という事態との聞の類似関係 simi li tudoなのであり, í 神のことばが人間の行為 を生み出す」という事態, ないし「人間のことばが神の行為を生み出す」という事態 なのではない. したがって,この箇所で「行為Joper atioのことが 論じられているとい う それだけの理由で, この箇所に「応答という現象」を見, この箇所の「ことば」を 「対話的世界の言語」とみなすということは, 筆者には, やはりある種の飛躍と思え るのである. もし 加藤が, この筒所の議 論が上記のようなものであることを踏まえて, それでもなお「対話的世界の言語」の主張を行なっているのだとすれば, 筆者には, その根拠をもう少し示してほしいと思われるのであるがし、かがであろ うか. 18 以上われわれは, 加藤の 論文についての疑問点・問題点を5つほど指摘した. これらの中には,筆者の感想めいたものあったし,また答えることが極めて困難なこと がらもあったことは, 筆者も十分承 知している. だが それにも拘らず敢えてこれらの

(9)

99 ことがらを指摘したのは, Aug. にとって言語の問題がきわめて重大な問題であるこ とをわれわれが改めて認識し, このささやかな議論を通して研究が少しなりとも進展 することを願つてのことである. いずれにせよ, 加藤の先駆的研究によって日本にお ける Aug. の言語思想研究に新たな地平が拓かれつつあり, 筆者もまた大きな刺激を 受けつつあることを, ここに改めて感謝したい. アウグスティヌスほど, ことばを大切にした思想家はすくない. かれの思索の中 心にはことばの問題がある í加藤武『アウグスティヌスの言語論Jl p. i. )

1)

ここでは,De Di alectic a の著者問題について論じることはできない. これに ついては, 拙稿『アウグスティヌスとDe Di alect ic a--著者問題に関する文献学 的考察Jl (本号所載)を参照のこと. 2) 第一章2における次の言葉を参照. íここで第二に注意すべきは, ……音声がこ ころの中のことばとの係わりにおいてとりあげられていることである. これが『弁 証論』など 初期の思想、に遡るだけでなく, ……J 3 ) もし Aug. がキリスト教との接触 (回心? ) の結果, í音声と内なることばとの 結合」を強調する世俗言語学の立場 (DeDi al .)か ら「内な る こ と ば」を強調す る立場 (De M ag.)に移行したのであるとすれば, 初期 Aug. のキリスト教理解の

ひとつの側面が明らかとなる.

4)

De Fid. et 5ymb. 3.

4.

Hoc e nim e t nos co nam ur, c um loq uim ur, .. … Q ui d e nim a li ud mo lim ur, nisi a nim um ips um nostr um, ….. ., cog nosce nd um e t perspicie nd um a nimo a uditoris i nferre : u t in nobi s ip si quidem m ane amu s, nec rece d amu s a nobi s, et tame n ta le i ndic i um .. ….., proferam us ; ( イタリック の箇所に注目のこと )

5) 前註を参照.

6) De Doctr. Christ. II.2.3. D ata uero sig na s unt, q uae sib i q uaeq ue ui ue ntia i nuicem da nt a d demo nstra ndos, q ua nt um poss unt, mot us a nimi s ui ue l se nsa a ut i nte llec ta q uae lib et. N ec ulla c uasa est nob is sig nific a ndi, id est sig ni da ndi, nisi a d deprome nd um et traicie nd um i n a lteri us a nim um id, q uo d a nimo gerit, q ui sig num dat.

7) Ibid. 1. 6. 6. N o n e nim re uer a i n s trepit u istar um s yllab ar um ipse cog nosc it ur, sed tame n om nes lati nae li ng uae soc ios . c um a ures eor um so nus iste tetegit, mouet a d cogit an d am e xce lle ntissimam q ua ndam i nmor a lemq ue

(10)

8) De Trinit ate XV.

16.

25. Qu apropter ita dicitu r illu d Dei Verbu m, u t Dei cog it atio n on dic atu r.... ..

9 ) Ibid. XV.

11.

2 0. An ima du er ten da est in h oc aen igmate etiam ista Verb i Dei simi litu do, qoo d sicut de i llo V erb o dic tu m est,“O mn ia per ipsu m f act a sun t", ub i Deu s per un igen itu m V erbu m suu m praedic atu r un iu ersa f ecisse; ita h ominis opera nu ll a sun t, qu ae n on prius dican tu r in cor de: un de sc rip tu m est,“In itiu m omn is operis u erbu m" (Ec cli. 3 7. 2 0).

* 本

討論報告(司会者)

治 典

アウグスティヌスはミラノのヴィジョンやオスティアの体験において上からの声を 聞くという神秘を経験した. それは「心に聞かれた言葉」である. これによってアウ グスティヌスの思索は, í 見る」に代わって「聞く」ことを超趨者との関わ り の第一 与件とするに至った. すなわち. イデアの野を思考の場 所として持つことに対して, 知と生を人格的関係性のうちに構築することとなったのである. 発表者加藤武氏は長 い間この問題をめぐって思宗を続 け て来られ, 昨年『アウグスティヌスの言語論』 (創文社)を刊行された. そこでは意味の光, 喚びかけ, 沈黙, 対話, 讃美, 日中き, 告白等く声の現象学〉が探究され, さらに比時議論と解釈学が展開された. 加藤氏はア ウグスティヌスの著作の中に直接伝達ではなく間接伝達( キルケゴール)を見, テキ ストを通して対話しつつ, 導かれて自らも天上の戸を聞こうとする姿勢を示された. かつフッサール, ソシュール, デリダ, ヤーコブソンらの言語哲学とも折衝して, 哲 学の今目的営みを披涯されたので、ある.

今回発表の題目くsonus et v erbu m)は,De doctrina c hristiana 1,

1

2 í われわ れが話す時, 心に抱くものが肉の耳を通して聞き手の心の中に滑 り 込む. すると心に 抱く言葉が音声となって(白 tsonus v erbu m) ,発語と呼ばれる」から採られた.‘et'は たんなる並列ではなく, 同一・差異・類似・非類似を合意する. 初期の作De fi de et symbolo では神の言と人聞の言葉との差異が強調されたが, それから 3年して苦かれ た De doc. c hr. 1 では, 受肉による神の言の人間音声における現在が説かれた. こ れは神の言と人聞の言葉との質的差異を破楽せず, むしろ アナロギアをおくものであ

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