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戦前・戦中青年女子団体に関する研究 : 処女会中央部の設立と事業展開

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戦 前 ・ 戦 中 青 年 女 子 団 体 に 関 す る 研 究

- 処女会中央部の設立 と事業展開 -渡 邊 洋 子 は じめに 本論 は,戦前 ・戦中期の青年女子団体の組織 と活動の実態を,通史的に解明 しよ うとす る試みの一環 に位置づ くものであ る。 その作業のなかで,第二次世界大戦以前 のイ ンフォ ーマルな教育形態 (社会教育) における女性観や,そ こで期待 された女性像の変遷 を考察 す ることを,究極的には目指 している。 従来の社会教育史を中心 とす る先行研究 において,女子への社会教育 (学校機関以外で の教育)の史的把握が,試み られ るよ うにな ったのは, この十年余 りの ことである。関連 す る政策の経緯や団体活動 としての成立 ・展開の様相 はお もに, 「婦人教育

史 (千野陽 一) とい うカテゴ リーの範噂で, あ るいは,処 女会の 「体制 内組織化過程

(井上恵美子) な どの枠組 において,解明 されて きた1) 0 だが,時代 を色濃 く反映す る女性観や女性像 の考察 は,既婚家庭婦人を主 とす る 「婦人」 のカテ ゴ リーよ りはむ しろ,時代を担 うべ き多感な青年期の女子への教育的働 きかけが重 要な意味を もってい る。他方で, 中等以上の教育 を受 けない大多数の農 山漁村の女子 を対 象 とす る社会教育では,高等女学校 ・実科女学校等で 目指 された とされ る 「良妻賢母

と は, また異な った女性観や女性像がみ られた ことは,想像 に難 くない。 そ して, その女性観や女性像 は,国家 と所属団体 との関係を軸 とす る 「体制 内化」とい う枠組のみな らず,時代背景や社会経済状況,文化的諸要因, そ して国策の要請を含みつ つ生み出 され,個 々の女子の生活の潤 いや憧れや知的好奇心, 自己実現欲求な どとの接点 を探 りつつ,提起 されていった もの と,推測 され る2)。 このよ うな女性観や女性像 とその 背景, およびそ こに内在 した さまざまな諸要素を,処 女会中央部 - 大 日本連合女子青年 団- 大 日本青少年団 (女子部) とい う,戟前 ・戦中期の青年女子団体の一つの流れのな かで捉 え,跡づけてい くことが,本研究の課題であ る。 ただ,残念なが ら, これ らの団体 については,通史的取 り組みが未だ不十分な段階にあ る。 その意味で,可能な限 り,史料の発掘 と事実関係の掘 り起 こしを行 いっつ, そこで明 らかにな った団体組織の生成 と変遷の過程,具体的活動の展開過程のなかか ら,・そこに通 底す る女性観や期待 され る女性像を,描 き出 してい くことにな る。 それゆえ,課題 に至 る -

(2)

1-には, い くつかの段階を踏んだ長期的取 り組みをせ ざるを得 ない点 を,記 しておきたい。 本論ではまず,青年女子団体の初の中央組織 と して 「大正

期 に設立 された,処 女会中 央部 に焦点 をあて る。以下,同中央部 について, その設立経緯,初期の事業方針 と具体的 活動,新たな段階での方針 ・事業の転換 について,考察 してい く。 1. 処女会中央部の設立経緯 (1)処女会への着 目 1900年代以降の地方農村では,尋常小学校卒業後結婚前の女子の 「修養

機関 と して, 「処女会

「女子 同窓会

「娘 の会

「婦女会

な ど様 々な名称 を もった青年女子 団体 (以下,処女会 と総称)が次々 と誕生 した。 これ らは,小学校の同窓会や裁縫塾 を母胎 と した り,婦人会組織か ら青年女子が独立 した り, 「補習教育

「生活改善

「婦徳滴養

な どの 目的で新たに組織 された ものである3I 。 全国的普及 に伴 い,小学校長や村長を会長 とし青年団 と並んで称せ られ る社会教育団体 とな っている。 とはいえ, この処女会の存在意義 にいち早 く着 目 して全国組織化をはか ったのは文部省 ではな く,地方改良運動の効果的な実施方法を模索 しつつ農村の実態の掌握 に努めていた 内務省である。同省 は,青年団には当初か ら組織的 ・精力的な取 り組みを見せてい るが, 処女会-の関与 は,政策文書 に明文化 され る 「政策」で はな く,地方指導者 出身の嘱託を 活用 した手探 り的 ・試行錯誤的な ものであった。 内外 の情勢か ら青年女子の組織化 につい て一定程度の必要性や意義を感 じつつ も,明確 な政策意図や伝統的女性像の範噂を超 え る よ うな女性像 を抱 いていたわけで はなか ったのである。 同省地方局で は1912(明治45)年, 同局の国府種徳が静岡県庵原郡で講演の際 に出会 っ た地元の青年指導者を嘱託 として採用 した。村長の息子で,代用教員の傍 ら青年団 ・処女 会の指導 にあた っていた天野藤男であ る。彼 は入省後,地方青年団体の実態調査等 に携わ った後,1915(大正4)年 7月の 『地方青年団の現在及将来』 「附録」で初 めて 「農村処 女会」 に言及 した。 そ こでは社会問題化 した 「風教問題

(「花柳病」の流行) と,農村 に広が る 「嫌鍬 の風」 に対応す る方途 と して,処女会が位置づけ られた。指導方針 は 「会 il■1 合が即娯楽」 と消極的であ り, 「処女が登壇 して五分演舌 をす るや うにな ると,農村 は破 壊 され る

との懸念 も示 してい る41。 処女会振興 について彼が積極的に論 じ始 め るのは, 日本初の労働組合婦人部,友愛会婦 人部の結成か ら4カ月後の1916(大正5)年10月である。 『農村処 女会 の組織 及指導』 (同年同月,以下A書)を皮 ぎりに, 『処女会の組織 と其事業』 (1917年11月,以下B書) 『青年団及処女会』 (1918年 9月, C書)な ど,処女会 に関わ る書物が刊行 された。 そ こ では,青年団 との合同活動や連携を重視 し,青年団に対応す る機関 と して処女会活動の積 極的意義を掲 げつつ も,処女会の活動 が 「内助

の範囲を超 えない ことが強調 された。 -

(3)

2-天野 はA書で 「農村人 口の溢加,農家経営難,教育の進歩,交通の発達等 に伴 ひ,漸 く 動揺 と煩悶 とを感 じ来った婦人の措置,行動 は, この際指導啓発宜 しきを得ないと,或 は 国家の大事 を醸すか も知れぬ」 5) と農村女性の解放欲求や 自己実現欲求が,都市文化な ど の刺激 によって 「覚醒」す るのを懸念 し,緊急対策 としての処女会の振興 を唱えた。 そ こ では 「何処 までも農 を国の本 なりと認 め,愛郷土着,従順貞節なる農村の働妻健母を養成す るを主眼

と し 「婦人智識の啓発,婦徳の滴養,婦巧の訓練」を行 うこと, また 「農村処 女生活の一面を郡人に紹介」 し,他方で 「都会の暗黒面を露骨 に描 き出 して,其 の浮 き立 ち易 き郡市憧慢心、を醒 ま しつつ,愛郷土着の精神を注射

す ることが 目指 された6)0 「地方振興叢書

第三編 と して刊行 されたB書で処女会 は, 「公民」養成機関である青 年団に対応 した 「公民の妻」養成機関 と位置づけ られ る。補習教育,体育翼励,経済思想 の養成,娯楽及び社交の機関,風紀改善な どの養請 を背景 に,農村の 「良妻賢母」,すな わち 「農業を愛 し,勤労 を尚び,且つ常識 を具備 した働妻健母」 7)の育成 が強調 された。

A

書で 「露骨の様であ るが,名称其物が既 に一種 の制裁 と権威 とを有ってゐると も解せ ら れ る」 と採用 した 「処女会」の名称 は,

B

書で は 「全称を一定す ることも必要

と,一層 の統一化が強調 された。 「処女会

の名称 は, 中央部の設置段階か ら全国に普及定着化 し, 地方 にで きていた青年女子団体の中には, 中央組織 に合わせて 「処女会」 と改称 した もの も少な くなか った。

(

2

)

処女会中央部設置の要請 と準備作業 天野 はA書刊行 の後,1917(大正6)年4月13日付 『婦女新聞』 9)紙 上 に 「農村処 女会 の為めに- 赤司普通学務局長 に質す- 」を投稿 した。 そ こで天野 は,文部省普通学務 ihliFJ 局長の赤司鷹一郎が 「処女団 は時期尚早」 と述べた との 「都下各新聞紙」の記事 に対 し, 「処女会の設置 は国家の急務」 と憤 った。 そこで 「各地方を通 じて着 々設立の機運を勃興 し青年団 と相侯って堅実な る発達の曙光を呈せん とす るの秋,図 らざ りき,責任の地位 に あ る局長 よ り,処女会の前途を阻害す るが ごとき説諭の公表 されん とは。五百万の処女の 為 に悲 しむのみな らず延て地方開発,国家伸長の上 に寒心 に堪-ず

と述べている。 これに対 し,赤司は同月

2

7

日付の同紙で 「時期尚早」 との発言を否定 しつつ も, 「目下 当局 において調査中

であ り, 「その調査の結果如何 に依っては適切な る方策 を講ず る考 i5Jil へ」である-と説明 した。 とはいえ, 「処女団」は 「目的がいいか ら奨励すべ きであ る」 と ■マ

い うのは 「いささか早計であ らう」,青年団の 「顕著な る好成績

ゆえに 「処女団

設置 を言 うのは 「些か即断の嫌 あ りは しないか」な ど,慎重な態度を示 している10)。 この姿勢 にさらに憤 った天野 は,以下のよ うな見解 を明 らかに した。 処女会の発達 は,青年団体 に比 して未だ幼稚であ るが,既設の団体 は一万以上 に達 して -

(4)

3-ゐること\恩ふ。之 に加へて近時地方婦人研究の機運漸 く動 き,中央か ら一声かければ 地方が呼応 して起つ といふや うな機運 に際会 した。従って此時之等既設の処女会を統一 指導す ると共 に,未設地方 に対 して,其の普及を促す処女会中央部の設置 は,決 して時 期尚早でなか らうと信ず る。 私は,地方婦人問題 に同情 と興味を有す る篤志者の力に侯って,処女会中央部が一 日 も早 く設立せ られん ことを希望す る。中央部の事業 は,青年団中央部 と等 しく,各府県 所在処女会 との相互連絡を図 り,彼此気脈を通ず ると共に,其の統一的指導 に任ず るを 使命 とし,其の目的を達す る機関雑誌の発刊を希望す る者である11)0 のみな らず,天野 は具体的な中央部設立の準備作業に動 き出 した。著名な女子教育家を 次々と訪ね,処女会中央部設立への協力を要請 している。 熱心な彼の態度は 「大家」 と呼 ばれた人々の心を も動か した とい う。B書が刊行 された1917年11月,天野の立ち会 いで, 東京市の第一線の女子教育家 (山脇房子,鳩山春子,三輪 田真佐子,下田歌子,跡見花渓, 棚橋絢子,嘉悦孝子,吉岡弥生) と地方処女会関係者が一同に会 し,中央部設立の第一回 相談会が開催 された。 「其の 日にお出で下すった方々は,皆地方の ことを御心配 して居 ら れ る方 々であ りますか ら,す ぐ相談 はまとま り,此に目出度処女会中央部 は成 り立ちま し た」 12)とい う。 出席 した女子教育家たちは,引き続 き中央部理事 として名を連ねた。

(

3

)

処女会中央部発会式か ら第

1

回評議員会まで 中央部発会式 は翌1918(大正7)年4月13日,上野公園の精養軒で挙げ られた。当 日は 中央部理事に加え,内務大臣男爵後藤新平,文部大臣岡田良平,大学教授で地方の事情 に 詳 しいと見 られていた新渡戸稲造,家庭学校校長の留岡幸助が出席 している。 この うち,内務大臣後藤の祝辞では,分量 に して活字B 6版 1ページ分近 くのメッセー ジを寄せている点が注 目され る。 そ こでは,天照大神や昭憲皇太后を事例 に挙げつつ, 宜 しく国史の成跡 に顧み婦人の性情 を陶冶せ しめ内面の整頓 と進歩 とに貢献せ しむべき な り今都下女流教育家の巨撃た る各女史打 して一団 と為 り学校以外 に於ける全国処女の 教練 に努力せむ とし之が協議攻究の機関を設けて其の発会式を挙げ らる蓋 し列国戟時の 実情 に鑑み其の能率を全用 し挙国労役の偉観を呈す るに奮起 し此の挙あるに至 りしもの たるべ し誠に能 く誤解なき岨噴せ られたる東西の文明を統合 して新旧共に熟 したる家庭 中心の文化を全国に扶殖 し以て時勢の進運 に順応す るあ らん ことを期待す巽 くは各女史 の徳望経験 を以て戟力其の事 に当 り桜花の如 き純朴なる処女の教練に於て学校以外の原 野を薫陶 し以て其の有終の美を済 さしめ られむ ことを本大臣の切望す る所な り -

(5)

4-と述べている。後藤が処女会 を 「全国処女の教練

と位置づけている点,第一次大戦時に 「其の能力を全用 し挙国労役の偉観を呈す るに奮起 し此の挙あ るに至

った欧米の女性を 念頭 に,処女会が設置 された との認識を示 した点,処女会の振興 におけ る女子教育家の助 力 に多大な期待を示 している点な どが注 目され る。一方,文部大臣岡田の祝辞 は 「処女会 中央部発会式を祝詞併せて本会の将来益 々穏健な る発達を遂 げ以て我が国処女会の教育上 梓補 あるあ らん ことを望む

との簡単な ものであ った13)0 また,中央部顧問に も就任 した新渡戸 は同 日の講話で,以下のよ うに述べた。 私 どもが共同生活をす るには, 自分 自分の好 きとか嫌だ とかいふ事 によって勝手 に身を .処す事 は出来ません。処女会の如 き会合が出来たのは,会員の心を広 くし,物事を冷静 に判断 し, お互の弱点を矯正 し,長所を助長 してゆ く為 に,非常 によい機関であると恩 ひます。最初 はまだ馴ぬ為,折 々面 白 くない事があった り或 は途中で意見の衝突な どが あ りませ うが,不平 を起 こさず,互いに慎み合ひ,会其物 を永 く維持 してゆ くよ うに致 したい ものであ ります。 自分一人の感情 に依 って会 を腔 した り,途中で退 いた りす るこ とのないよ うに心掛 けねばな りません。是 は地方処女会の方 にばか り必要な事でな く, 中央の指導者の方 も心得ねばな らぬ ことであ ります 14)0 このよ うに,青年女子の全国組織化 は,様 々な人 々が異な った文脈や意義 を認め るなか で着手 されたのである。 とはいえ, 初期の中央部 では, 理 事 の多 くは文字通 り 「名 を連 ねた」にす ぎず,実務労働 はほとん ど彼 の仕事であ った。 それゆえ,天野 は発会後一年を 経て も 「中央部 は思ふ ことばか り多 く,仕事が一向捗」 らない と嘆いたが, 「地方新聞に 必ず二三 ケ町村の処女会の発会式の記事が出てゐない ことはない」状況を迎え,処女会中 央部の設立が一定 の影響力を全国に及ぼ した との確信 は得ていた15)0 実際,中央部発会式後 に結成 された処女会 は多 く,中央部では

1

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8

8

月下旬,地方処 女会の台帳を作成すべ く,各府県の郡長 に郡 内の処女会 (少女会,娘の会)数,創立年月 日,会員数,会員の名前 を尋ね る調査の依頼 を行 った。同年

1

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月の時点で は団体数 は

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, 会員数 は

1

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万人以上を数 え,最終的には

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0

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団体,

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万人以上 に上 るとされた。なお

C

書 は, この頃 に天野が内務 ・文部両省の後援 を うけ,膨大な活動事例 を挙げつつ,青年男女 団体の指導の 「参考資料

として刊行 した ものである167. 第一次世界大戦 を背景 に,処女会-の社会的期待 は高 まった。処女会中央部の各種機関 との連絡提携 は, その動向を反映 してい る。

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(大正

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2

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日,処女会中央部 は 「東京停車場前海上 ビルヂ ング内中央亭

で協議会 を開催 した。 出席者 は,陸軍中将堀 内 文次郎, 田子-民内務書記官,下村寿一文部参事官,川西内務事務官,今井 ・井上両内務 省喝託,西田工学博士,波速富士紡績押上分場長,宮田修,三輪 田元道,岸連福雄,地方 -

(6)

5-改良家石田博吉,大妻 コタカ,中央報徳会の上野他七郎,青年団中央部の座間止水, その 他新聞記者など 「数十名

であった。各方面か ら処女会 に関心が寄せ られた ことが窺え る。 当 日,堀 内は,処女会の使命の重大性の指摘,民力滴養 と婦人の実力についての注意 ・ 奨励を, 田子が雑誌の経営などに関す る助言を,下村 は処女会 と補習教育,今井 は女子同 窓会 と処女会,川西は郡長時の地方婦女会の模様,渡連 は工女 と処女会,宮田は処女会の 指導 と愛情 とい う内容で話 している17) 0 翌1920(大正 9)年 5月5日には,広範な領域 におよぶ84名の評議員の うち40名を迎え, また皇后宮大夫大森男爵の臨席を得て,丸の内中央事 にて第1回評議会が開催 された。山 脇房子理事の 「開会の辞」に続 き,天野理事が 「処女会中央部発会以来経過」を報告, さ らに北候時敬 (宮中顧問官)座長の もとで,理事の改選,会長副会長の推薦,大正 9年度 事業の予算その他が協議 されたとい う。 会長 ・副会長 は結局設置 されなか ったが,新理事 は,山脇,天野,嘉悦,吉岡,国府, 福島,井上秀子,甫守ふみ子,大江すみ子,三角錫子,跡見李子,三輪田元道,宮田修, 田所楠猪,下村寿-,高野重三の計16名であった。旧理事か ら,女子教育界の 「大御所」 (鳩山,穂積,棚橋,下田,三輪 田,跡見)が去 り,女子教育の新たな担 い手たち と文部 省参事官の下村, そ して民間か ら河野鉱石油製造所長の高野が起用 された18)。これは,中 央部が成立後2年を経て,女子教育家の権威の もとに組織の社会的確立を図 る段階か ら, 独 自の活動の実施にむけて実働力を重視す る段階へ と移行 した ことを,示唆 している。 そ してそれは同時に,中央部の主導権が,内務省嘱託の天野か ら徐々に,下村 ら文部省 関係者の手 に実質的に委ね られてい くプ ロセスの始ま りで もあった。 1920年 6月,天野の 上司で内務書記官である田子-民が,文部省主催第二回社会教育講習会で 「青年団女子青 年会

とい う講演を行な った。 そ こで彼 は, 自分のみな らず内務省内で も,処女会 に関す る 「考

-」

が 「実 は定 まってゐないと云ふて宜 い」 19)と述べた。 彼の講演内容か らは,① 「女子青年会」の名称を用い,中央部や天野 に敢えて触れなか った ことで 「天野の時代」が終わ った ことを暗に内外 に示 した,④第一次大戦時の西欧女 性の活躍を念頭 に置きつつ も,敢えて 「家庭制度,家庭の人 として団体訓練が必要である か

との疑問を投げかける ことで,処女会活動が活発化 ・自主化す る動 きを牽制 した,㊨ 処女会を (補習)教育機関 と規定 し, その充実を 「教育上の男女同等の実現

と強調す る ことで,暗に処女会の管轄を文部省に移管すべ きことを主張 した,の3点が読み取れ る。 これ らの ことは,天野が1920年春頃か ら請われて国民禁酒同盟理事 に就任 し同年夏 に活 動拠点を処女会中央部事務所か ら同会 に移 した ことと,深 く関わ るもの といえ る。彼 は死 去直前の21年10月号 まで 『処女の友

「編集人」の肩書 は維持 していたが, この時点では すでに,天野な しで も同誌の発行 は可能であった。中央部理事 と兼任 とはいえ禁酒同盟理 事就任を契機に,彼 は徐々に中央部中枢か らはず されていったのである。 この時期か ら, -

(7)

6-文部省の下村 と乗杉嘉寿は中央部の運営に徐々に影響力を もち,天野の死後 には文部省側 の 「処女会担当」 と して片岡垂助が起用 された。 さらに,1926年の内務省 ・文部省共同訓 令,文部省-の移管,1927(昭和 2)年の大 日本連合女子青年団の設立に向けて,処女会 の近代的青年団体への脱皮が模索 され ることになったのである。

2

.

中央部の組織 と事業の展開

(

1

)

天野の中央部設置構想 と 「中央部会

則」

処女会中央部の設置にあた り,天野はB書に 「処女会中央部を設置す る篤志家の参考に 供す る為に」中央部の綱案を掲載 している20)。同書初版 と再版の 日付か ら,天野 「案」は, 中央部設置の第一回相談会の前後 に 「たたき台」 と して作成 された ものと思われ る。以下, 同 「案

と 「処女会中央部会則」の具体的内容 を比較考察 しつつ,中央部の組織 および事 業方針 について,みていきたい。 「処女会中央部会

」によれば,処女会中央部 は 「地方処女会の中央擁護機関 として相 互の連絡統一を図 り其の発達助成 に努む ると共 に地方婦人問題の調査研究をなすを以て 目 的 とす

(第三条) る。天野 「案」での 「本部 は地方処女会を統一指導す るを以て 目的 と す」より,存在意義 と役割が明解である。 「中央擁護機関

としての処女会 「相互の連絡 統一

は当初の天野の発想 にはないが, 「地方婦人問題の研究調査」は,彼がA書執筆時 か ら必要性を指摘 していた事項である。 中央部事務所 は,東京市牛込区津久戸町24番地 と定め られた (第二条)。 会員は普通会 負 (地方処女会員)および賛助会員 (本部の事業を 「擁護援助スルモノ」) とされた (第 六条)。本部役員は,中央組織 には理事若干名 (うち常務理事3名),顧問若干名,評議 員若干名,地方組織では郡理事 (郡視学 に委嘱),町村理事 (町村長に委嘱),郡顧問 (郡長 に委嘱),町村顧問 (町村長 に委嘱)を各々若干名お くと規定 された (第七条)0 本部役員は 「当分発起人及び其他を以て之に充つ るもの とす

とされ,鳩山,穂積,棚 橋,下田,跡見,三輪 田,嘉悦,山脇,吉岡,福島四郎,国府種徳および天野の12名が就 任 した (前掲発起人 と穂積,福島,国府)。顧問は決定せず,評議員は内務省,文部省関 係者,産業界,教育界をは じめ各界か ら多数の有力者が委嘱 された。 同 「会則」七は注 目され るのは/一経費が 「篤志家 ノ寄附及 ヒ其他 ヲ以テ之二充 ツ」 もの とされた (第十二条)点である。内務省が中央部設置にあた り,奨励のみで全 く予算を計 上 していないことは,内務省の期待の薄 さを示唆す る。結果的に,中央部の事業 は規模を 縮小せざるを得ず,活動 は停滞 した。 また地方処女会の発達 と本部の連絡-の貢献を期待 し,地方支部設置が掲 げ られた (第十三条)が, この成果は管見の限 り不明である。 また 「附則」 として 「処女会 卜同一又-類似 ノ目的 ヲ有 スル地方各種 ノ婦人団体-総 テ之 ヲ処 女会 ト,認 ムル コ トヲ得

(第十四条) と規定 されている。 この時点で多様な趣 旨と名称 -

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7-で各地 に設立 されていた婦人団体 (処女部) ・青年女子団体を統一 し 「処女会」の名称に 画一化 させ る方向で中央部の傘下 に置 こうと した, とみ られ る。 中央部の具体的 「事業

としては15項 目が,主な活動内容 に盛 り込 まれた (史料 1)0 天野 「案

では

1

4

項 目が挙げ られ, この うち

1

0

項 目 (地方処女会の普及 ・振興,処女会員 対象の講演会 ・講習会開催,講師派遣,図書雑誌の発行 ・紹介,地方婦人への職業紹介, 相談部 による地方婦人の質問への応答,旅行見学等の目的で上京す る地方婦人 ・処女団体 への宿泊等の便宜,優良処女会の選彰,孝女 ・節婦等の表彰,各種の調査研究)が,基本 的に 「会則」に生か された。 採用 されなか った事項 は 「結婚媒介部 ヲ設ケ結婚 ノ媒介 ヲナスコ ト

「廃娼 ノ事業 ヲナ シ又ハ援助スル コ ト

「地方婦人 ノ移住殖民ニッキ便宜 ヲ図ル コ ト

「地方処女会 卜連絡 ヲ保チ暴風海境等天災地変二関スル救護事業 ヲ為スコ

ト」

の4点であった。 また天野 「案」 にな く 「会

」に示 されたのは,副業の奨励,指導者対象の講習会 ・講演会の開催, 「婦 人労働問題,工女問題及 ヒ職業問題等」の研究調査,慈恵救済団体 との連絡 による 「不幸 ナル婦人 ノ救済」, 「不幸 ナル境遇ニア リテ誘惑セ ラレン トスル地方婦女」の 「未然」の 救済の5点である。 両者を比較 してみよ う。 天野の挙げた結婚 「媒介」や移殖民関連事業 は,中央部が再編 されて成立す る大 日本連合女子青年団やその後の大 日本青少年団 (女千部)の事業 とな る ものである点が注 目され る。 「救護事業」は,特に漁村などの地方処女会の活動事例を念 頭 に出されたと思われ る。だが,内務省 はむ しろ中央部に 「農村婦人問題

(女子工場労 働者や女中などの労働 ・風紀問題,上京 して誘惑 され結果 として 「娼婦

などにな る地方 女子の問題, その背景 とな る女子の 「都会憧慣」 と 「厭農意識」)の直接的解決-の取 り 組みを求めたようだ。 「廃娼」事業 は,婦人運動 との接触を避 けるためか,退け られた。 なお,発会当初 は福島理事主宰の 『婦女新聞』が中央部機関紙の代用 とされたが,各府 県の郡長か らは 「其 は必要である,早 く出すよ うにす るがよい,中央部 とも連絡を取 り, 仕事を援助 してや らう」 との意見が多か った。

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9

1

0

8

日に理事会で創刊を決定,同 11月に機関誌 『処女の友』が誕生 した。創刊号内表紙 には

『処女の友』 と主張」が掲 げ られ (史料

2)

,

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9

2

0

5

月初旬で 「壱万以上の誌友

がいた とされ る21)。また第一回評 議員会の席上では 「全国婦女訓

(処女会訓) として 「強 く優 しくま じめに働け」が,同 2月には 「野の幸

(葛原幽作詞,小松耕輔作曲)が 「地方処女会歌」に決定 された。

3

.

初期中央部事業の具体的展開 処女会中央部の事業 は,会則第5条第1項 目に うたわれた地方処女会の設置奨励, 「女 工 ス トライキ」な ど時代の要請を色濃 く反映す る婦人労働問題への対応 と工場内処女会, そ して 「新 しい女」など思想問題 に象徴 され る都市問題への諸施策の三つの柱を軸 に展開 - 8-」

(9)

された といえ る。以下,主 に機関誌 『処女の友』の記事を手がか りに, この地方 ・工場 ・ 都市 とい う場面 ごとの事業を概観 してい く. (1)地方処女会の設置奨励 地方処女会の設置奨励にあたっての中央部の試みは,以下の三つに分け られよう。 第一 に重要なのは,処女会および農村青年女子の実態調査である。中央部 は

1

91

8

8

月 下旬,各府県郡長宛 に処女会の実態報告を依頼 した。 これは,

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91

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月および

21

6

月 に内務省社会局が行 った

-

「処女会及婦人会

調査 とは別の,中央部独 自の ものである。 こ の調査結果に基づき, 『処女の友

』1

91

9

7

月号 (第

2

巻第

6

号)以降,中央部 はまず

1

0

0

人以上の会員を有する会を,翌号からは 「百名を限ることは意味のないことでありますので」 と,

1

0

人以下の処女会 も含む一覧表 (名称,創立年月,会員数,会長名)を載せている。 そこでは各府県 ごとに,処女会 に加え 「娘の会

「婦女会

「同窓会」 も掲載 され, 「郡 役所の回答 して くれませぬ地方 は残念なが ら載 りませぬ」と,青年女子団体の設立 ・振興 に熱意のない郡の所在が,一 目瞭然にな るよう意図 されている。

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0

1

月号では,中央部の調査による女子人 口数が挙げ られた。 それによれば,大正

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年における総人 口は

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,

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,

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人 (男子

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,

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,

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人,女子

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,

3

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人)であった。 こ の うち全国で義務教育修了後の

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歳か ら,当時の結婚年齢である

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歳 までの女子 は

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,

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,

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人であ り, その うち農村のみの女子 は,結婚年齢を

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歳 とす ると

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,

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,

3

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・万人,

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3

歳とす ると

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,

8

4

8

,

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5

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万人を数えたとい う。 さらに,福島県の-郡で高等小学校 ・女学校進学者が

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人中約

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人であることを全国 に適用す ると

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,1

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,

4

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人, また自宅で家事に専念す る者

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,

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,

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5

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人か ら全国処女会婦 人会員

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,

9

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,

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人 (既婚者含むが仮に未婚者のみとす ると)を差 し引 くと,

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,

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4

3

,

9

9

8

人の青年女子 は, 高等小学校 に も女学校 にも処女会 にも入 っていないことが判明 した。 「是れ処女会中央部が,処女会の発達に骨を折 らねばな らぬ理由である」とされた。 また 工場労働者総数

1

5

0

万人以上の うち

8

0

万人以上は女子であ り,八割 は農家出身 と考えると,

6

4

万人が地方出身者 となることから 「工場 と地方 との関係密なること」を確認 している。 第二 に, 『処女の友』誌上での処女会の活動の事例紹介である。 これは,地方処女会長 などの投稿に加え,中央部理事による視察 ・見学の報告 とい う形をとって行われた。特に 天野 は,精力的に全国の処女会をまわ って講演や講習会の講師を務め,その際に視察 ・見 学 した処女会の活動を記事 として掲載 した。 このプロセスを

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9

1

9

4

月号 (第

2

巻第

3

号) 「処女及処女会美談号

を例 に考察 しよう。天野 「旅だよ り」によれば,大分県西国東郡 青年会処女会指導者講習会に招かれた彼 は,3月1日に東京を出て,同3日に高田町に到 着,

4- 7

日に同講習会 に出席,呉崎 ・真玉両村の処女会を視察 した。彼はその後,同

3

0

日の帰京までの

2

3

日間に,以下のような活動を日程 に組み込んでいる。 -

(10)

9-中津の青年会での講演,大分市の記念館での女学校職員 ・生徒に処女会 に関す る講演, 岩 田女学校女子師範 .県立高等女学校の視察,別府の女学校で処女会 に関す る講演, 山口 県山口町まで戻 り,吉敷郡宮野処女会 ・県立図書館 ・教育博物館の視察,厳島を経て内務 省丸山書記官の弟の訪問,山本瀧之助の自宅訪問,山本 と一緒 に山南村処女会の衛生講習 会 ・千年村処女会の作法講習会の視察, および同村能登原部落の青年会処女会連合の学 芸会の視察,大阪県庁に知事を訪問,学務課 の案内で 自治 資料展覧会を見学,滋賀県大 津で警察部長 か ら処女会 ・青年会の状況聴取,膳所監獄 (女囚).の見学,八幡町で蒲生 郡の老蘇村処女会の学芸会 ・展覧会を見学,金田村の処女会の敬老会 ・武佐村南野部落の 処女会の草履作 りの見学,駿東部長の訪問 ・処女会の状況聴取 などである。 これ らの成果は,同号 「実地視察 ゆか しき敬老会

(滋賀県蒲生郡金田村処女会), 「監獄哀話 獄中の処女の悲 しい日記

(滋賀県膳所監獄), 「処女の歌 と青年の演説」 (広島県沼隅郡千年村能登原部落青年会 ・処女会), 「処女会美談 処女会 と慰問袋

(大分県下毛郡小楠村処女会), 「大分県西国東郡各町村処女会要覧

(17処女会所収) などの記事 と して,同号 に掲載 された。なお,同号 「編集局 より

」に

は, 「第一 に申 し訳 ifJih のない ことは,天野理事が方々-旅行 しま したので,又々雑誌が後れま して何 とも皆様 に 相すみませぬ。記者 は二三 日寝ずにこしらへま した」 と書かれている。同号 は 4月 1日付 発行 (印刷納本 は 3月20日)だが,天野の帰京が 3月末だ った ことが 「まえがき」で言及 されていることか ら,実際には帰京後の天野が急速,編集に携わ り, 日付 よりかな り遅れ て発行 された ものと考え られ る。 19年

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月号 「漁村の処女会」では,伊豆七島の新島の役所か らの問い合わせに答え,漁 村の処女会の例 として,三重県の志摩郡安乗村処女会 (1912・明治45年設立) ・同郡の和 具村処女会 (1910・昭和43年設立) ・鳥羽町の小浜処女会 (1909・明治42年設立)など看 挙げてい る。例えば安乗村処女会では,毎年 2, 3回の難破船の救護の他,1915年 7月11 ・12日に 145人ずつの処女会員が人夫 とな って 「御大典記念事業

と して泊浦港 を掘 って 改善 したという。 また,船曳場の修繕や共同井戸の大掃除,海羅の養殖,磯掃除,組の養 殖,海草の植えつけ,海岸-の防風林の設置などが,活動例 と して挙げ られた。天野 は, 「漁村 とい-ば,風儀のわるい所 と考-てゐた人 もあ りませ うが,今では青年会 も出来て たいへんよ くな りま した。 その上 こういふ立派な処女が身を修め,家の為,村の為 にま じ めに働 いてゐますので,風俗 といひ,教育 といひ,却ってなま じっかの町より優ってゐま す。」 と述べている。 また雑誌記事に加え活動写真 も,処女会の活動紹介 に用いられた。文部省棚橋源太郎管 掌 官 (東京高等師範学校教授 ・教育博物館長)と中央部の相談により,1919年 9月処女会の 活動写真を製作す る事にな り,山本瀧之助にゆか りの広島県沼隅郡千年村 ・山波村で撮影 が行われた。同11月30日か らお茶の水の教育博物館で開かれた生活改善展覧会の開期中に -1

(11)

0-は, これを含 め,以下の4本の 「活動写真」が映写 された。 -、広 島県沼隅郡千年村及山波村処女会 (山の貴婦人) 二、 三重県志摩郡答志村処女会 (海女の生活) 三、静岡県庵原郡庵原村杉山部落 (青年会処女会 の働 き) i5i ifil 四、 『都 にあ こがれて

(実劇)22) 三番 目の庵原郡庵原村杉山部落 は,報徳杜や夜学校が 日本で初めて設立 された地域であ り,処女会 は

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(明治

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)

年 に生 まれている。 また四については 「処女会の写真以外 に ifJ il も私に も何か作って くれ といふ ことなので, 『都 にあ こがれて』 といふ一幕を作って見せ た所, これは面 白い撮影 しよ うといふ ことで,館長 とも相談の結果,十月下旬技師一行 は 京都 よ り入京す る筈で, これは処女哀話 と して処女の友 に大体を紹介す ることに した」 23) ものであ り,

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月号 および

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月号 に計

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回,連載 された。 『都 に憧 れて』 は,静 岡のお房 とい う娘 が, 家庭 の不和 と都会 への憧 れか ら家出 ・上 京, 都会 で働 き口を捜 し, 無知 と無 自覚 のため怪 しい家 に連 れ込まれたが, そ こで出会 ったおきみ とともに脱 出 し,母校の大石校長 に見つけだ されて故郷 に帰 るまでの物語であ る

。1

2

月号 「活動写真をとるの記」な どで撮影の経緯が紹介 され,

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1

月号で はこれを 取 り上 げた 「国民新聞」記事が紹介 された。 そ こで は, これ らを映写 した生活改善展覧会 の入場者が毎 日 「幾千人」であ り 「日に一回位映写を試み る活動写真 は此会評判の催 し物 171■7 である其 の中で も 『都 に憧慣れて』 は田舎娘が都会 に倫落せん とす る経路を天野処女会理 事が仕組んだ もの役者 は女優 な らぬみか ど商会 の牧野氏令嬢が姉妹で大胆熱心 に活動 した 光景 を其儀 に現 は した もので観客を泣かせ るものである」 とされた。 この作品は当初, 「活動写真館」ではな く全国の処女会をまわることにな っていたが, 費用の関係 と 「其を映 した 日活の方では是非あれを活動写真館でや らせて欲 しいと頻 りに 頼 まれま したので, とうとう許可いた しま した」 とい う。 その結果, 「どち らか と云-ば 俗の所, 田舎娘をか どわかす所」である浅草最大の浅草公園の富士館, 「I 労働者の多い所, 家出娘の多い所」本所押上の業平館, さらに大塚の電気館 を経て東京中を回 り,静岡の電 気館を皮切 りに日本中を巡回す ることとな った。 反応は 「意外 に も大喝采」,本所では 「わざわざあの写真ばか りを見 に来 る女教師や女 学生が少 な くない」状況であ り,類似の活動写真までつ くられた。作者の天野 は 「東京の 真ん中で こんなに大騒 ぎされや うとは思 いませんで した

「私が作 りま した ものの, まね さへ出来 るようにな ったのは,意外で した」 とい う感想を漏 らしている。また これに伴い 「都に憧れて」 の絵葉書 も4枚 1組で売 り出 された とい う24)0 第三 に,処女会の社会的意義の発揮 (社会的活動 の実施) と権威づけ (皇室 との関係) - illr

(12)

が挙げ られ る。両者 はこの時点では異なる形で現れ るが,後々,青年女子の自己実現欲求 やエネルギーを引き出 し方向づけてい くうえで,表裏一体の役割を果たす ことになる。 第一次世界大戦後の処女会のあ り方 に関 し,処女会中央部 は1919年7月, 『処女の友』 の冒頭で, 「--青年会 も処女会 もよい時に, お祝ひを兼ねた総会な り大会な りを開き戦 争のてんまつを先生方か ら伺ひ尚 これか らの心得 よ く相談 し合ひなさい。てっぽ うの戦争 がな くなって も世界に国があ り地球 に人が住んでゐる間は競争があ り勝負があ ります。 し っか りと したま じめな人間の多い国はきつと勝ちます。--・よい妻 とな り優 しい母 とな り, しっか りとした女 となって下 さい

」25)と呼びかけている。 そ して同年8月,富山県で米騒動が発生 し全国に波及す る。 この事件 は,処女会が初め て,具体的な活動でその社会的 ・国家的意義を評価 され るに至 った出来事であった。 『大 日本連合女子青年団の全貌』の前史としても,処女会の活動として唯一,特筆 されている活 動が,この米騒動への対応である。この事態 に直面 して,全国の処女会 は率先 して,節米運 動を展開 したのである。同年10月号 『処女の友』では,巻頭 に,以下のような 「内務大臣 訓令の要 目」を掲げている。 - 日本の国の成 り立った,大本を明 らかに して,国の基をかため, お国を思ふ心を し っか りと養ふ こと。

憲法の精神を明 らかに して, 自治の考へを練 りかため,公共の事に尽 くすJL、を養ひ, お国の為に身を捧げる心根を,強 く盛んにす ること。 iidiTd 三 世界の進歩 に後れぬように,力めて新 しい知識を修め,徳をみが くこと。 四 互に睦み合ひ,助け合ひ,励 ま し合ひ,個人 は固より,いろいろの団体や,いろい ろの階級を正 しく発達 させ,か りそめに も,か るはずみの振舞のないようにす るこ と。

よ く働 くと共 に倹約す るの美 しい風を盛んに興 し,仕事の もとでをふや し,暮 らし ili51 を楽にす る工風をす ること。 (以上,題名を含め,原文はひ らがなル ビつき)26) 同号ではまた,以下の 「食物に就いての文部大臣の訓令」が掲載 された。そこでは第一次 世界大戦後の各国が,国民生活の安定 と向上のために,特 に 「食料問題」には 「戦後経営の 一大方策」として 「国を挙げて之が解決に努めて居 る」ことを挙 げ, 「我国に於て も大いに 食糧の増殖を図ると共 に,国民をして雑穀,甘藷,馬鈴薯其他のものを常用に供する良習慣 を養はせなければな らぬ

とした。米騒動 は全国民が米を常食 とす るがゆえに米が不足 し て起 こったとみな し,米以外の食糧を食べ る習慣を国民に根づかせ る必要を説いたのであ る。米不足への 自衛策が実際に必要だ ったにせよ,米騒動の背景にあった階級問題か ら人 - 1

(13)

2-々の眼をそ らす議論であった ことは否めない。 そ してその新たな 「課題」に熱心 に取 り組 んだがゆえに,処女会の国家的 ・社会的意義が認め られた ことも事実である。 而 し之が実行 に就ては国民の自覚 と理解 との依 る外 はない,随って学校の内外 に於ける 教育の力に侯つ ものが頗 る多いのである。故に教育の任に当る者が,常に真筆な態度で この問題の講究に勉めることは勿論,之に関す る政府の施設及び学者の研究を会得 して 之を教授の実際に応用 し,学生生徒児童を して食料問題に関す る理解を得 させ,混食代 用食炊事の改良,養鶏,養豚及果樹,就業の栽培等,苛 も学校 に於て実行の出来 る事柄 は直に実行 し,之を家庭に之を社会 に及ぼす ことが最 も緊要である。地方長官及び学校ili51 当事者に於ては,能 く此の趣意を心得,之が実行を促す と共に,進んで弘 く其の宣伝 に 努め,国家の期待に副ふ ことを切 に希ふ所である。 (以上,原文はひ らがなル ビっき)27) これ らを受け 「社説 節米代用食より食物の研究へ

では,人口と米の収穫高の割合, 米の需要の増加,米作か ら養蚕業-の転業の増加などを背景 と し,以下のように述べた。 こんな ことでお米の使用量 は段々多 くな り, お米の有 り高は次第に減ってきま した。減 って くれば値段 も高 くなる道理です。政府で も非常 に心配 しま して,今回お国の費用か ら二十万円を支出致 しま してお米の節約をす ヽめると共 に, お米の代 りになって,経済 に もなる食物を工夫 し,其を全国 に広めることにな りま して,我が処女会中央部に もそilirJ の主 旨を以て補助金が下附 されま した。仇で本月の雑誌をば節米奨励号 と して,主 もに 食物の節約,代用食の奨めについての記事を載せ ることに致 しま した。 そこでは 「お米の節約は,めいめいの経済といふ ことか らでな く, お国の為め,大勢の 人の為めに必要な義務なのです」 と しつつ も, 「然 し皆様に望みますのは,単に習慣的に 節米混食をす るといふばか りでな く,今少 し研究的に,科学的に,学理的に,数量的に食 糧の ことに心を用ひて下 さい。幸に皆様 は処女会婦人会の会員であ られ る。団体の事業 と して,食糧の研究や実習を して下 さい。-- この新 しい材料を, どういふ風に調理 したな iNiTJ らば,経済で,変化があ り,をい しく,滋養になるかということを工夫す るのです。是は 婦人の責任です。 お国に対す る立派な御奉公です。」 と食物の研究が奨励 された。具体的 事業 と して,料理講習会,衛生講話会,台所整頓品評会 に加え,農村食物栄養の研究,農 村の労働 と食物の関係,農村新料理法の発明などが挙げ られている28)0 これ らの他に, 「工女 と田園趣味 と節米

(東京女子高等師範学校長 湯原元一), 「大食 と小食 と粗食

(医学博士 二木謙三), 「衣食住の改善

(処女会中央部理事 - 1

(14)

3-山脇房子), 「馬鈴薯飯の炊方

(農商務省編), 「食物 と栄養の話

(内務省編), 「節米のす ゝめ

「馬鈴薯飯の炊方図解

「新 しい代用食の研究

(府立第三高等女学校 教諭 中津美代子)などの特集記事が,同号 に掲載 された。 このように,処女会活動を通 して 「食料問題

に取 り組み, その成果を 日常生活 に生か す ことが,女性 と しての社会的 「責任」を果たす ことであ り, また国家的意義を もつ 「立 派な御奉公

だと位置づけ られた。 よ うや く,処女会 とい うものが,国家 ・社会 に有用な 役割を果たす可能性のある団体だと,内外で認識 され始めたのである。 ちなみに,内務省 は同年

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日に,東京女子高等師範学校 (現お茶の水女子大学)に全国の高等女学 校 は家事科の教員を集め,食物 ・燃料 ・炊事の講習を行 った。同号 「処女新聞」はこの講 ifJirJ 習の 「内務省が婦人を集めて講習会を開 くのは此度が始めてです。民力滴養 も節米 も代用 食の奨め も女が本です」との解説を付 して 「女教員 と節米講習」の タイ トルで紹介 した29)0 一万,

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年代 に入 ると,中央部の皇室の動向やそれとの関わ りが強調 され始め る。例 えば,皇后が東京府千住の陸軍製紙所を訪れ,工場内を見学 し 「御菓子料」を出 した上に, 児童や乳幼児に 「勿体無 くも御手づか ら菓子を下 し賜った」 ことが,巻頭記事に取 り上げ られた。 そこでは 「国家の赤子た る労働者 に御心を注がせ給ふ御心,勿体ない極みで ござ います

と結論づけ られている30)0 『処女の友』では 「工女 は孝女」 との詣 い文句で女子 工場労働者の 自覚を促す一方で,皇后の行動を通 して 「労働者

の存在が国家 に有用な こ とを実感 と して もたせ,皇室に裏打 ちされた中央部の権威を も示そ うと したのである。 また宮中歌御会での天皇 ・皇后の作品を紹介 し, 「戦争 は終-ま したが,是か らが大事 な時であ ります。■ゎけで も,野 は御国の礎,男 も女 も, この早咲の梅の心を身に しめて, 美 しき中に,凄々 しい決心を もって,油断な く, 己が業務にいそ しみ,世界各国に魁 して 戟後の経営を完成す るの覚悟を研かねばな りません。」との 自覚 につなげて もいる31)。 こ の後,宮内庁の大森大夫が中央部の行事に参加 した り,皇后が中央部や関係者 に物品を与 え るなど,中央部 は機会 あるごとに,皇室 との関わ りを深めていった。 以上のような三つの領域での事業のはか,全国組織 として,地方処女会の活動への援助 と活発化をはか るため, さまざまな事業が企図 された。 それ らは,指導者対象の講習会 ・ 講演会の開催,巡回講習会 (育児,衛生,礼法,看護,割烹等),講師派遣,図書の刊行 および図書雑誌の選択紹介,優良処女会の表彰などである。 指導者対象の講習会 は,後述す るように,

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月に第一回全国処女会指導者講習会 が開催 されたが, その後の動向は不明である。巡回講習会 は管見の限 り,処女会中央部の 事業 と しては,実施 されていない。 また講師派遣については,当初の講師は天野が中心で あったが,徐々に,女子教育家の理事 も,中央部理事 と して地方 に講師と して出向 くよう にな った。例えば,

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日,嘉悦孝子 は福島県若松市の招聴 により,同地で 「日本婦人の覚悟」について講演,また高等女学校で主婦処女-の 「婦徳の修養」について -1

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4-の講話を行 ってい る321。 中央部 が編纂 した図書 と しては, 「処女会 中央部編

で 出された ものに,第- 回指導 者講習会 の内容 をまとめた 『これか らの処女 の為 めに

(1922年) および 『これか らの 女子生活

(刊行年不詳) 『これか らの家庭 と経済

(同)の,計3冊 (すべて 日比書院 刊)がある。 さらに中央部が編纂 し, 山脇房子 ・嘉悦孝子 ・吉岡弥生の共著 と して出され た, 『処女 よ り主婦 とな る迄

(出版年不詳, 日比書院), 『若 き女子の為めに

(1926 年10月,同)がある。 このほか,1926年 に天野藤男が補習教育用の教科書 と して著 した 『大正処女読本 上 ・ 下』は, 『処女の友』誌上では大々的に宣伝 されたが,中央部 とは独立 した形で出版 され ていた。 また同誌では,社会教育協会の各種パ ンフ レッ トも,紹介 されている。

(

2

)

婦人労働問題への対応 と工場内処女会 会則第 5条の中央部事業の10番 目に掲 げ られた婦人問題 ・女工問題 ・職業問題等の研究 調査の うち,特 に中央部が力を入れたのは 「工女

問題である。 「女工

には侮蔑的ニュ ア ンスが含 まれ るとみな されたためか らか, 『処女の友』で は 「工女」 とい う呼称が用い られた。 また 「工女 は孝女」 33)との天野の持論か ら,時には 「孝女

も用い られた。中央 部 は,処女会関係者,処女会員および工場関係者 に,工場問題への認識 と取 り組みを促す 一方で,工場巡回視察 ・講演や工場-の就職斡旋, ひいては工場内処女会の設立にいたる, 積極的かつ精力的な事業を行 っている。 『処女の友』では,1919(大正8)年7月29日の協議会 におけ る渡連富士紡績押上分場 長の 「工女 と処女会

に関す る話 を受 け,同8月号以降,工場問題 に前向きな取 り組みを 示すよ うにな る。 まず天野 は,処女会が工場問題 と関わ って活動のなかで 「す ぐ実行

す べ き事柄 を取 り上 げてい る。 彼 は紡績工女の肺病や性病 (花柳病)な どの雁患状況 を数字 を挙げて説明 し,性病 に関 しては 「あながち工女達の風儀が悪 いか らでな く,男工の罪が 多いのです」と女子労働者を擁護 した。 そ して 「皆 さんのお友達が こうして病気 になった ら,堕落 した りして ゐるのをみて,皆様 はヂ ッと して居 られますか

と問いかけてい る。 具体的には,第一 に付近の工場の様子をよ く調べ ること,特 に 「皆 さんのお村か ら出て ゐる工女 の身の上 をすっか り調べ る」 こと,第二 に 「この姉妹 の工女達 と皆様又は処女会 とよ く連絡をとる

ことが推奨 された。特に後者 は, 「故郷恋 しい」時に 「故里の友達か ら便 りを されます と,一層愛郷心 を もつようにな り,行ひ もつつ しみます

「故里か ら忘 れ られ ると,女 は堕落 しやすいのです

との認識 による。 処女会活動 と して は 「毎月一回 な り二月 に一回な り工場 に宛て ゝ工女達 に慰 めの手紙をあげ」 ること,時には 「17? 村の果物 なんぞを送」り, さらに 「お月見の晩

な どに大勢で 「手紙や感 じを書 き集め,其 をひと まとめに して

工場 に送 ること, また運動会や遠足会の工場視察な どが挙げ られた。 -1

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5-一方,処女会長 には 「特に工場の ことに注意 し,現在工場にゐます工女に就ては,よ く 其の連絡を取 るよ うに し衛生,風紀などの注意を与へ,なるべ く毎年一回の帰郷をすすめ て くだ さい。其か ら処女会に対 しては,工場に関す る智識を授け,工女 になるものに対 し ては,尚一層よ く之に就いての心得 を説いて下 さい。 さうして一方 には工場 と連絡 を保っ て,会長 白身処女を連れて工場に参 る位に したいのです--・ひと肌ぬいで くだ さい。今や 処女会が社会政策を実行す る時代が来ま した。処女会 と女学校 との握手をすすめ,処女会 と工場 との提携を図 ることが大事です

」 34)と力説 された。会合の目には工場を休めること を条件 と して

3

0

名の 「工女

を出 した,大分県下毛郡小楠村 処女会の例が紹介 されている。 また,工場問題-の処女会中央部の取 り組みの基本姿勢 と具体的方針を示す記事 も,描 載 された。 そ こでは,全製糸工場で 「農村出身の工女」が70%内外である点が指摘 され, 「若い農村の処女が現在四十万人 も工場に働 いてゐる上に,毎年二十万人宛 も工場に吸ひ 取 られ るのである。か う考へれば処女会 と工女 との関係は忽には出来ない」と処女会の関 与の必要が述べ られた。 そ こで挙げ られた具体的方策 は,以下の通 りである。. -、処女会 に於て郷土出身名簿を調製 し,其の多数の工女を出だせ る土地に於ては工女 のみの台帳を編成す ること 二、処女会 は其の工女の勤務を間断な く調査 し,通信,訪問其他の方法に依 りて相互の 連絡を図 るに努 ること 三、指導者は処女会の工場視察を勧め,集会に於ては労働問題,社会政策,工場法等の iTdirJ 概念要項を講話す ること 四、工女た らん とす る会員に対 しては,殊 に其の将来を戒め,其の愛郷心を発揮せ しめ, 都市の悪風,工場の悪習に感染せ しめざるよう深甚の用意を促す こと 五、 盆正月等工女の帰休期に際 しては,在郷処女会 との連絡会を開き,相互に啓発す る こと 六、工女の出郷 に際 しては送別会を開き鎮守に奉告 して,其の将来を宣誓す ること また,工場主,会社重役 に対 しては, -、工場の出身地の調査を促 し,其の府県別を作成 し,家庭の実情を も明細 に調査 して, 父兄若 しくは処女会長 との連絡を一層密な らしむること 二、 なるべ く盆,正月等 に際 しては帰省を勧め,又工場内に於て力めて田園趣味を鼓吹 し,愛郷の観念を滴養す ること 三、地方父兄若 しくは処女会員の工場視察を奨励 し,工場の設備を公開す ること 四、工場主,重役等 自ら地方 に出張 して農業生活を視察 し,処女会に対 して工場生活を - 16

(17)

-紹介す ること が挙げ られている。 総括的な見解 と しては, 「工場その ものをすでに不完全の ものと し,危険視す るか らこ そ,之を敵視す るに至 るのである。工場の内容完備 し,衛生 にも風紀に も一点の欠陥を発 見せざるの理想 に到達せ しめることが根本である。農事の機械発達 し,農村の労力過剰 と なるべ き将来に於ては,工女を禁止す ることは,不可能であるのみな らず,我邦工業の発 展を阻害す るものである.此に於てか, (-)工場の改善 と (二)工女の自覚 と (≡)工 女た らん とす るもの ゝ覚醒 とが必要で, これが根本解決法 と信ず る。娘を もて る父母の反 省の必要 はいふまで もない事である。」 と述べ られている。 さらに,具体的な方策 として,工女部の設立 と工女の需要供給, そ してそれに備えての 中央部の会館の設置 と寄宿舎の建設が挙げ られている。だが, 「以上は理想であ り多年の 宿望であるに止 る」とされ, 「都会及地方 の篤志家有志者 の援助 と同情 とを切 に祈 り」 「地方処女会 はよ く自分たちの同胞の身の上に相当 し,中央部の此の種の計画を紹介 して, 相共に女子の進路を開拓 したいと恩ふ」 35)と,禁欲的な結論が下 された。 ここで も執筆者 の天野が, 自らの発想を中央部の事業の枠 に盛 り込めきれなか った様子が窺え る0 以上のような 『処女の友』誌上での工場問題をめ ぐる提案事項を,中央部は実際の工場 との積極的な関わ りの中で具体化 していった。受入側の工場にとっては,処女会中央部が 関与す ることで,頻発す る 「女工ス トライキ」の 「脅威」を少 しで も緩和 したいとの意図 があったとも推測 され る。1919年 9月19日には,第一回工場巡回視察及び講演が,本所押 上富士瓦斯押上分工場で行われた。同工場の 「工女

1,652(男女計2,164)人中,地方 出身が 1,579人,具体的には秋田,宮城,青森,福島,新潟各県の出身者が上位 5位まで を占めていた。 まさに農村出身の女子が,工場労働の中核を支えていたのである。 自らも工場労働者の経験を有す る中央部理事嘉悦孝子 は, これ ら 「工女

約400人に対 し,一時間余 りの講演を行 った。 「女工 さんたちは夜業 もあ りかな り疲れてゐ られたよ う ですが

「殊 に先生が十一才の時熊本で女工 となって苦労 されたといふお話をなさる時は, 一同 シンと して水を うったや うであ りま した」 とい う。中央部の試みは同工場に も歓迎 さ れた。同工場では1カ月に4日の休暇があったが 「然 し会社ではこの休 日を もつと意味あ るようにす る為に,名士を招いてお話を願った り,面白い講談師を弾んだ りしてゐます, さういふ所へ,丁度中央部が巡回講演を始めま したので,大喜びだった」 36)とい う。 このように,中央部の 「工場め ぐり

は,職員に も資本家にも好評であった。 このため, 巡回の範囲は当初,東京市中のみであったが,求めによって 「程ケ谷

(保土ヶ谷)か ら 「駿河の小山」に も及んだ。 しか も各々の工場が毎月中央部を招き, 「その代 り 『処女の 友』を孝女 にすすめて,ゆ くゆ くは工場の中に処女会を こしらへます」との ことになった。 -1

(18)

7-その結果,小山工場,押上工場は毎月 『処女の友』を500冊, 「程 ケ谷

工場 は300冊, 三田土 ゴム製造会社 も30冊ずつ,講読す ることにな ったという。 1919年10-11月の 「中央部の工場講話」の 日程 は,以下の通 りである。 富士瓦斯紡績株式会社小山工場 (10月25日) 講 師 中央部理事 嘉悦 孝子 山rJ ifdird 富士瓦斯紡紡株式会社程 ケ谷工場 (10月26日) 東亜綿糸株式会社 (11月3日) 富士瓦斯押上工場 (11月11日) 埼玉県浦和 (11月15日) 講師 中央部理事 嘉悦 孝子 同 同 天野 藤男 講師 中央部嘱託 坂田 高方 講 師 三輪田女学校頑 三輪田元道 挨拶 中央部 田所 楠猪 講師 中央部理事 嘉悦 孝子 本所押上三田土 ゴム製造合資会社 (11月16日) 講師 中央部理事 嘉悦 孝子 挨拶 中央部 田所 楠猪37) このような工場 と処女会の連絡 ・連携によ り,例えば,小山工場や押上工場,三田土 ゴ ム会社か ら中央部 に 「孝 (工)女」の斡旋依頼があった。中央部で は,父母,親戚,処女 会長,婦人会長 との相談の上,戸籍謄本 と身体検査証 と本人の自筆 の希望 とを添 えて中 央部 に申 し込むよう,誌上で呼びかけている。 また 「程ケ谷」工場長の 「遠藤先生」は, 「是か らはよい孝女に働いて もらわねば両方為にな らない,地方の処女会員か ら孝女を採 用す るよ うに したい, そ して工場の中に も処女会 を こしらへたい

。」

と述べたとい う。 この うち 「資本家 と職工 と諸々たる情誼を以て終始 し,感情のよ く融和せ るを以て特色 となす

三田土 ゴム製造合資会社 は,同年7月以来毎 日曜 日を定休 日と し,修養慰安会を 催 したが, 「紡績工場に比 して,寧 ろ特殊の作業 に属す るを以て,工女 に不足を来 しつつ あるものの如 く

と,中央部が以下のよ うな内容で,女工の申 し込みを募集 した。 I/ O工女申込規約 一、本人及父兄並び処女会長連署の願書を出す事 二、将来の希望,工場に対す る注文其他を本人 自筆にて中央部に送 ること 三、戸籍謄本 四、東京 に於ける最 も親 しき親戚又は知 己の住所姓名 五、病気の有無,健康状態 18

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-○女工待遇 一、初給 日収 金六十二銭 内 日給額 (午前七時より午後五時まで十時間) 金四十五銭 残業収入 (午後五時より午後七時まで二時間) 金十一銭 訳 米廉売 (一 円に四升の割にて一 カ月一斗買渡)補助一 日割 当金六銭 -、皆勤手当 一ケ月遅参早退な く皆勤の時は1日半の 日給を支給す 一 ケ月遅参早退な く一 日の欠勤の時は半 日分を支給す -、保証金不要 一、旅費 自弁 (但 し立替をなす) 一、漸次昇給せ しむ 一方, 『処女の友』では,国際的な労働運動や労働界の動 きについて も,階級意識 の目 覚めを防 ぐ方向で,解釈の仕方を示 している。 当時行われた国際労働会議を 「労働者の為 に相談 して,世界共通の規約を こしら-ようとす る」 ものと説明 し, 日本か らは政府側か ら鎌田栄吉,資本側か ら武藤山治,労働者側か ら桝本字平が, さらに婦人の顧問として田 中孝子他数名が出席 した こと,田中が 「もうあち らの会議 に出て 日本婦人労働者の為に大 いに気炎を上げて大変評判がよい」ことを伝えた。労働規約では, 「労働 は貨物又は商品 ではない」をは じめ,労働組合の結成,生活 に十分な賃金の保障,八時間労働, 日曜 日のifJii 休 日化,十四才未満の労働禁止,男女同賃金,外国労働者を 「深切 にとりなす こと」,労 働者の保護監督施設 ・機関の設置などが条件 となっていたという。 同記事では, これを 「(-)労働者の人格を認め (二)待遇をよ くし (≡)身体をいた めぬように仕事を楽にす る」 ことの三点 に集約 した。 そ して資本家 と労働者が 「八時間労 働」などの具体的数字をたてて対立 ・交渉す るでな く 「互いに譲 り合ひ,睦み合ふ ことが 理想なのです

と飽 くまで も両者の融和協調の もとに解決すべ きことを説いている。特に 女子労働者 については 「日本全体で八十万人,是等の人々は他 日妻 とな り母 となるたふ と い方々ですか ら, 自分で 自分を愛 し守って体を大事に し,品行をつ ヽしむのは固より,資 本家は女工 さんに同情 し,敬意を払 って,人格を認め,賃金を高 く,仕事を楽に して,工 場をたの しい世界 にす るように しなければな りませぬ」 39)と, 自重 と労使協調 を提起 して いる。 1920年 1月上旬,富士瓦斯押上 「程ケ谷」工場に日本で初めての工場内処女会ができ,発 会式を行 った。 この 「程ケ谷」工場の 「処女全 目的」は, 「本会 は当工場の友達が互に助 け合ひて親睦を敦 くし, 日常生活に必要なる事柄を研究 し,其の知識 と技能 とを向上す る と共に,婦芸を養ひ,風儀を正 しくし,荷 も誘惑に陥 らず女 らしく温和なる中に堅実なる 思想を以て業務を励み立派なる婦人た らんとす る共同 自治の集まりであ ります

との こと -1

(20)

9-1717 マ17 であ り,事業 は 「本会 は其事業 と して教育衛生の講演会雑誌の購読料理法,作法,手芸の 講習,娯楽,遠足,運動会を開催す るの外菜園,花園,養鶏場を設置 し又相互身の上相談 を行ひます」とされた。工場処女会 は,毎月一回または隔月で通常会を開催,春 と秋に大 会を実施す ることになっていた40)0 同年

5

2

7

日,富士瓦斯 「程 ケ谷

工場では,処女会規約 に基づいて春期総会を開催 し た。中央部か ら天野,田所理事 と評議員女子高等師範学校教授大江すみ子が出席 した。会 は開会の辞,君が代,勅語奉読,来賓演説の後,児玉 ミノル (19歳,秋田県出身),今田 カツ子

(

1

7

歳,秋田県出身),小 日向カツエ

(

1

6

歳,新潟県出身),佐藤 ヒデ子

(

1

7

歳, 宮城県出身)の4人の女工が 「五分談話

を行 った。次いで,天野の簡単な挨拶,大江の 「誠心tを以て働 け」 とい う題での一時間半の講話,会員による歌劇 『月の世界か ら』が行 われた41)。なお,春 ・秋の総会の様子 は以後 も 『処女の友』誌上で報告 されている。

(

3

)

都市間題への諸施策- 相談斡旋事業-処女会中央部成立時には,都市 と農村の対立図式のなかで,社会運動や都市文化,家出 少女の 「倫落」な どに代表 され る都市問題が,青年男女を退廃 させ 「嫌農

「厭農」意識 を高める 「悪」と して認識 されていた。 それゆえ, 会則 の事業 の第12項 目に地方女子 の 「誘惑

か らの 「未然

の救済が掲げ られたように, まず 『処女の友』誌上の記事や活動 写真 『都に憧れて』の製作に代表 され る活動を通 して,都会の 「裏面

や上京女子の直面 す る状況を 「知 らしめ」,中央部の方針に 「依 らしめる

(都会-の憧慢心を冷まそ うと の)試みがなされた。 また 「不幸な る婦人の救済活動

は, 「救済

自体 と同様,都会の 「裏面」の実例が都会 に憧れ る農村女子への 「反面教師

的意味を もって示 された。 会則に挙げられた 「中央 ・地方ノ慈恵団体 トノ連携」が どれほど実現 したか不明だが,少 な くとも 『処女の友』誌上では, 「救済活動

の報告 ・実践記事 と して, 「娼婦

「女囚」, 修道院の修道生を訪問 ・慰問 して聞いた話や彼女たちの身の上相談,その回答な どが掲載 された。理事天野 は,彼女たちの境遇に共感的姿勢を もって取材を行い, 自己 「修養」を 勧めたはか 「相談部」の事業に精力的に取 り組んだ。 これ らの活動 は 「孝女節婦其他 ノ善 行者」の紹介 (会則で は 「表彰

だ ったが,実際は 『処女の友』誌上での 「美談」 として の紹介) とワンセ ッ ト′/で,農村女子たちに自らがあるべ き (あ ってはな らない)姿, 目指 すべ き (目指 してはな らない)方向を示す ものにな ったと考え られ る。 さらに,上京す る地方の女子や女性の団体に 「東京案内」を行 うことも,都会を適切に 「知 らしめ」 る一つの手だてであ った。1919年5月号 「編集部 よ り」には 「皆 さんは十分 に 『処女の友』を利用 して下 さい。相談部 もひまで退屈 してゐます。東京見物な さる時に はきつ ときつとお知 らせ下 さい。 そ して地方の様子 をお知 らせ下 さい。」 との記載がある。 このよ うに,上京す る地方女子 ・処女会のための見学や宿舎等の斡旋 も, 「相談部」の事 - 2

参照

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