田
儀簡即ち富といふことの正しからざることは、以上忙よつて明かにせられたが、然し、貨幣は公私の目的に
ヽ︳ヽヽ 勤して、雷勢なる手段︵喜ruヨeコt︶であるが故に、之を富と宕倣︵re瞥d︶す、ことは妨げなしとミルは言ふ。このことは然し濁り貨幣だけに限られるのではない。如何なるものセあつても、人間の目的に何等かの夜目を
なし、而も自然が無償で供給しないものは統べて等しく富であると富へる。
⋮⋮⋮・小but2壱y−トiコ山e許wトic卜se−くeSaコyト亡ヨaコPurPOS2−aコ乱・whichnatu−2dOe∼コ0叶afぎd 讐atuitOuSlyこswealthaぎ・ハ註こミルは之を詳説して富ふ ー
﹁富有であるとは、有用なる財貨の多畳なる貯へを有するか、又は有用物藍貝ひ得る手段を多く有するてと
である。、それ故、購買力恕有するもの、即ち、︵それに代へて他の有用なもの或は快適なる・ものが輿へられるものは級ペて富の一部を形迫るのである。侭令、有用であり、必要であるものでも、それが何物とも交換し
症啓蟄掛凝鮎に於けろミルの立場繚臍寧出螢鮎に於けるミルの亜場︵二。完︶
大 泉
︵九三︶一五欝菩車∴.∵彼∵こ.兢 ︵九讐 〓ハ 得られない卑のならば、経癖畢上の意味に放ける啓ではない。例へば基気は絶封に必聾なものであるけれど も市場に於て何等の憤格も有たない。坪由はそれを無償で拉錮することが能きるからである。靂栄を貯戒蓄 現し七も、何びとにも、聯の和姦も利潤も生するもゐではない。そして、基気の生産、分配¢法則は、経済 嬰とは全く異なる畢問に屈するものである。基気は富ではないけれども、之を無償で得ることに依って、益 益富有に赴くことは事資である。其の埋は、\著し之が無償で得られない場合には、放べての欲求中故も急迫 な各此の欲求に臆するために、時間と労力とが費されねばならないからである。無償で得られる結果は、そ の労費を他の目的に用ひ得ることゞなる℃ 重来が富Ⅶ叫ノ部となる場合は之を想像することが出来る。垂範の通はない朗に永く留って居ることが慣習 となれぼ、人工的に供給される容気は、家々に運ばれる飲料水と同じく憤格を有つであらう︵例へぼ、海底 の浄水器内に於けるが如き︶℃或は叉、自然界の大欒動の結果、巷気が非常に紋乏を釆たすとか、又は猫占し 得られる梯になつたとすれば、基気は甚だ高い髄質檀格を有つことが出来るであらう。斯∼る場合には、必 要以上に基気を所有することは、朗有者にとつて富であらう。斯くて血見すれば、人々に封する大不幸によ って、人々の叫般的富が増加した様に思はれる。然し此の観察の誤は次の鮎に存す。蛋気の所有者は、他の 者を犠牲として、如何に富有となつても、之を朗有しない放べての人は、以前には無償で得たものに勤して 文雄を飴俵放くせられるため、前よれも貧窮軋な㊤ゆぐことを看過せるヱとである﹂︵蓑二︶
すことが旧来る
斯くの如き推論の行程より・予常然我妄が邁着する結果は、富に関して、重大なる二偶の意義の存廃ずること
セある。その“は、個人に/劃するものであり、その二は国民又は人類仝腰に射するものである。後考の富の観 念に依れぼ﹁夫れ自身、何等かの効用又は快適に役立つものでな仕れぼ、之に包含せられなと︵彗一︶も¢である。前者の富の観念に依れぼ、﹁夫れ自身は直接的欲望封象とならすとも、他より有用物又は快適に用びられる
ものを潜らす夙¢ものは放べて冨である﹂︵鑓讐。叫例を示せぼ、〓閉園の抵常棟は、之を所有する個人に′とっては富であるけれども、全人類又は国民金牌にとつては富でないといふが如きである。ミルは、国民の富に
就ては、右に示すが如く、単に﹁効用又は快適の目的に撃止たぬものは富と望一品れなとと消極的に叡ペるに
止つて、積極的には之を示さぬのであるが、此の叙述を換言すれぼ、図民の富とは、夫れ日身有用又は快適の
目的に役立づものでなけれぼならないが故に、交換憤借といふ・ことのみに依る個人の富とは、必ずしも叫致し
得ると峠云はれぬ事となる。
富を定義して、手段財︵−コSぎヨeコtS︶なりとする訟は如何。詳言すれぼ、篤とは膏に按械、器具などに止らす個人又は統合が、其の目的連行に必宴とする手段財の蓄積をぼ富と稲すとの詮である。斯くて次の如き例を東
﹁畑は叫つの手段財である。何となれぼ、それは小変を得るに必要であるから。小勢は一つの手段財であ右
小変粉を作るに必要であるから。小蓼粉は一つ、の手段財である。何と′なれぼ幽艶を得るに必要であるから。
経済撃出資鮎に於けるミかの立場 ︵九五︶ ∵七 J一︵九六︶ ︼八
夢事態 弟ゴ班
賂貌竺つの手段財である。それは磯餓を暫し生命を支ふるに必要であるから。かくて昏々は最後に、手段 ならざる、それ自身の.ために嬰求せられ、それ以外の他のものに達する手段でないものに到達する¢腎ある﹂ 理論としては、右の如き推理は正しいと云はねばならないけれども、富を以て右の如くに解繹することは、通 常の解経とは造かに隔る軋のであつて安常を快くとミルは温ける。 斯くて、ミルに従へば、富とは次の如くに定義を下すことが朝来る。日く交換僧侶虻有する例の汎ゆも有用 又は快速なるものを富と¢ふと。換言すれぼ、富とは有用又は快適なるもの1申で、努力或は犠牲を彿はすし て.、欲するだけ拉得し得られ敏もの以外のものを総柄する・の▲で参る。 Wea一thこheコ︸ヨaybedefiコe㌣軋〒宏e宣Ora竃2邑etぎ計swh⋮chp。SSeSSe各aコ笥able苫−ueいOr∵コOt訂r wOrds、all useど︻Or a望deab芥−トiコ瓜S e眉苫ニhOSe,Whichcaコb2各taぎ且−ぎth2
q亡aコt茸許s⋮rem,WithOu〓註Ou−○−SaCr州芳e・︵誼五︶ 富の概念として、ミルが最後に下す定義は賓に右の如きものである。此の如く、冨の要件として二カに有用 性又は快適性を奉げると共に、他方に交換倣低牽葦態度は、富を個人のそれと、国民のそれとに分つね禦。 に於ける前者の親念に′外なら計い。個人の富と国民の欝とは、必すしも山致サベきものではあらざる故、その 双方霊ハに表現する如き共通概念を得ることは不可能とレはねばならない。主ルが、各人は通常の目的のため に必要なる富の概念を熟知すと断言して、窮局に於て到接したる朗は、正に上乗詮くが如きもので参る。
右に示したる定義に勤して疑問の生する朗は、唯山新有るに過ぎないとミルは冨ふ。而して其の﹂瓢とは、
朗謂、無形の生産物︵−ヨヨateria宣。d宍押s︶に就て、明瞭なる説明を典へない寄である。﹁例へば、職エの熟練と か、肉鰻的、精面的力︵先天的又は後天的なる︶とかは、富と富はれるであらうか。之に就てミルは、斯くの如 tヽ︳ヽヽヽヽヽ︳ヽヽ きはさして重要ならざる問題︵aqu2StiOコ三〇I.〇!く2ry乳aニヨP芝㌢︵2︶と断言して、生産的並に不生産的努働を諭ずる時に論及してゐる。筆者が﹁さして重要ならざる問題﹂と冨ふ、、、ル自身の言葉に注意を求める所以は、
後に示すジュグォンスの批評が之に紺逮を有するからで参る。筆者は今、労働論に於てミルが試みる朗の無形
の生産物即ち無形財の問題に就て、以下紹逃を試みるであらう。
効用とは本来如何なるものであるかに裁て、ミル、は別段の詮明を加へ七ゐないが故に、普等は通例詮かるゝ
が如く、由に存する人間の欲望を満蓮せしめ得る働きと解して大過ないであらう。ジードに従へぼ、人間の欲
檻溶撃出費鮎lこ於けろミルの立場 ︵記五︶−hid●、P.u ︵丹バ川︶ ≡−こ︰P●﹂ ︵諒三︶ ︼bid,−P●可 ︵鼓こ︶−hid●P.P.二rも ︵誠一︶−・S一室〒P−首畳esも◆の
ぺ
五
望の何れかを充足し得べき事物の性質を柄す。︵註︼︶ 扱て、労働に依、つて作り出される敢用む蹴るに之雲轟に分類することが出来る? イ、外界財谷u︷wardOb官s︶に同党し慣現せられたる効用で最も通常の場合である。 P、人阻に同定し鰐現せる放用。之人間に、Serくicea芳qua=什y盈ハふる場合で、種々漁る教育の如貴之で あるG
ハ遠雷もの竃要は琵せず、提供唸らる、サーヴィスそのもの匹敷用の寄る警。壷盛衰、箸
等のサーヴィスが之である。
生産を極めて供養に解するマカロックーセイ等の螢者は、効用作出を以蒜ち生産とし、右何れの場合も組
ペて蓋育と辞す告然し、ミルに在っては、生産が効用作出に外ならぬことは認める淀ども、政見作出
は放べて生産育とは柄し得ないのである。そこで、恵三程の場合に就き、何れが富の生産と稲し得るやを
識別することが必要となる。ミルは之を如何にして試むるか。眞に我々は、ミルが意味する富の概念として、
二偶の要素の必要な㌃ことを知った。蒜有用性であり、他は交換性である。
然るに鼓量って、ミルは吏竺つの要件を掟出するのであるっその要件とは蓄積性である。即ち、富と輔
ヽヽヽヽ せらる1が焉めには、生産せられたる後、ある期間︵FO−SOヨe旨け︶蓄積され得る可能性の存することが必要 であるq此の橿準を以てすれぼ、右に分類した効用中、第三のものは富の生産といふことが不可能であり、従 第三巷 第二∴睨 ︵九八︶ こ0って右の如きものを富七柄することも不雷となる。 然らば、職人の技術の如きは如何℃蓼者或は富たるの要件として移特性を蓉げ.、人間の能力、低質等は∵如 何紅有数であり息づ生産的効用を有すとしても、之を分離して移特するとと不可能である故、富にはあちずと 論ずる。然し、、、ルは之に賛しない。若し斯ノよ呂へぼ、エ場は土地に固定してるが故に移挿せられず、従つて富 ノ に非ずと云ふと、血般である。加之、能力、扱術そのものは買手に移緒し得ないけれども、をれ▼の利用︵U且は 移捧し得る∧。仮令、費消すことが不可能でも貸興することは出来る。故に人間の能力、技術は、それを有する 者忙とつて、彼が所有する撥機器具と等しく、富の一部を成すものであるといふことが出来るのである。 依是欺之、ミルが以て富となすものは、厳正なる意味に於て有形財と無形財とより成る。無形財に於ても、 永存朗数用︵Perヨaコeコt亡t≡y︶を有するものは之を富の範疇に属せしめねぼならないのである。︵琴一︶ ミルは始めに於て、富の概念は常人の等しく把持する朗であると云ったが、そう云ふ、、、ル自身の富の概念を 伺.って、我々は右の如き煩累と不開明とに遭遇した。此の不問明と不統﹂は、.我等が之を指摘するまでもなく 識者は早くも論難を加へてゐる。我等は然し、その論難に立入る前に、耗臍塾出磯鮎としての富概念が、叫般 的に如何に取扱はれ居るかを概観せんと欲する。 ︵註一︶ 汐−ド踵軒襲原論︵飯島虎繹︶六人頁 ︵置二︶ L,S●茎ニ⋮Pri宍ip一の㌘P.p.余−怠 経済撃出資鮎に放けろミルの立場 ∴︵九九︶ 二・一
六 経済拳の封象如何てふ課題に射して、之を富に在りとし、富の性質如何てふ問題に劃するミルの考察は、凡 そ右に叙逓する朗によつて詮き終り得たと思ふ。 聾者の詮く朗によれば、富︵Wealth︶といふ語鮮の古語はWealであつて、之は人間が郡合長く生活してゐる状 態、女は人の欲望が充分忙満足せられてゐる状態を意味するものであつた。されば、wealthといふ暗も、始め は富有なる状態︵StateOfwealth︶を指補したのである。後には蹄じて、人をして富有ならしめるも甲︵↓h首s wh蔓ヨakea畠aコricごとなり、而して経済塾上の富とは、此の彼の意味に於けるものなりとの読も生ずるに 至った︵註こ之クラークの詮く朗であつて、経臍拳は富の創造と充用︵C−eatぎaコd亡Se︶とを支配する臼然法 則より成立すとなす。 富の親念をば﹂官有なる状態より綽じて、富有ならしめるものとなし、之を以て廃臍螢上の富となすクラJJ シングス クの思想は、必ずしも﹂般的の庵のではな℃魂衣に於ても梅、痘と.いふ慧昆は、夫れ夫れの物を指さず に、有用なる物の綜合状態を以て之を粥すること少しとしない。由して、ミルの如くに、富の観念変用ふる場 合には、・之に・代へて財なる語の輿へらる1が常であらう。ミルの朋謂富は、、今日昔々の財なる意味と同叫に解 して誤りないのである・。然れども、富を物と解する見解は、叉之を支持する人もある。その二例として、マー 好手懸、弗.二、抗 ︵一〇〇︶ 二二
シヤルを蓼げることが出来る。即ちマーシャルは、富が直接、間接に欲望を充足せ⊥むる物よれ成り、従つ て、放べての富は、望ましき物︵ロesirab訂thiコ氾S︶より成るといふ。然し、望ましき物が放べて富であるといふ のではない。そこでマーシャルは、望ましき物を総柄する観念を財とノいふのせある︵誼二︶。富をマーシャルの 如く解すれぼ、ミルのそれと相近きものと云ひ得る。 富を以て経済畢の封象となす詮は多数螢者の持つガ何でありヽ今侍その飴影の存すること峰二言した。併蘭 西賢ロア・ポーヱ十﹂も経済単の目的は富なりとなす︵彗︶。名著﹁富﹂によつて盛名を馳せたるキヤナンむ 亦、その﹁経臍車入門﹂に於で、経演車疲富即ち入間の物質的幸隔の伐つセ基く′ふ般的輝因を詭明することを目 的となすと論じてゐ 期く、富を以て、経済拳の目胡とたす従来の詭に封し之を不充分奄榔として、更に眼界を庚め、経済拳は寧 ろ人間研究の拳閃であ名と主張する詮がある。それに就て、轟もよぐ入の知孝慄着疫細論したるマーシャルで あらう。人口に喰茨せる有名なサ節は、.その﹁経済串原理﹂開巻第︺に伺ふ七とが出葬る¢日く﹁経済畢は日常 生活に於ける人間の研究であつて、人生車間の物質的要素の療待と利用とに最も密接なる蘭蓮を有する個人的 及び敢合的行動を考究するものである﹂とぐ 之と相通する見解を示すは、ジードである。其の経済草原論にて諭する朔を見るに、料率を分つて、配合科 禦ScieコCeSSOC賢s︶と物理料率︵Sc旨nesphys−queS︶又は自然科碧Sc訂眉Sコatureコes︶とし﹁経済畢は前賓の剛 癒研嬰出費揖だ於けろミルの立場 粉 ⋮︵一〇﹂︶ 〓三
敢食料畢ノ関係株式
黙 想 第 舵 人類螢 (超原) 伶理撃 術 (秀) ← ヰ()
政治撃 (憾カ) 人様畢 (民族) 犯罪拳 (・紀聞) ︵一〇ニ︶ こ国 分科をなし、その研究封象は、イ人間の物質的欲望 の満足をもたらすもの、即ち凡そ人、の睾辟︵Bleヲ一 等e︶に関するもの1みをとつて研究す.るものであ るとなす︵註四︶。所謂原生の経済拳或は隔利の経 済塾が、最近に至ってその族械を揚げたのも此の 傾向を示すものと云ひ得る。 粧臍軍は人間研究の叫部門であるといふことは 最も蚤大なことであらう。之は第叫に認識せられ なければならないことであるが、融合料率の領域 に含められる幾多の分科は、.癒べて其の出著鮎に 於て人間研究を目的とする。′従って人間研究はヽ 漏り経済轟のみに許されるのではない。商業単著 ステイーヴンリンは其の関係を上の如く表した。 こ紀五︶ 而して、人間を之等級べセの角度から観察するのか酷骨畢であるから、酷倉串は総べての敢倉科塾の疲甥を包含するものであるといふ。 斯く観じ釆れぼ、1政令科挙なる範疇に在る諸掛蓼は、由れも人間研究より出聾するも、晦その鶴鮎の相異に 償って、兵なる領域を開拓して行くのセあると言はねばならない。、鮭済畢は人間の車両を目的とするといふ場 合にも、汎ゆる幸闊ではなく﹁拳闘の物質的要素﹂に関するものとの條件は看過し待ないものである。されば筆 者は、経済挙が他の諸政食料撃と直別さるべき鮎は、此の物質的幸蘭なる朗に在りとなすものである。而して 物質的睾鱒のための要件が富なりとする.ならば、経済拳の封象を富なりとする立論は、錘下に温け去るべきも ので・はないと考ふる。 ︵詩.こ′C訂rk“Esseコt訂︼s Of、一MnOコ○ヨintheOry.P●伊 ︵註二︺ こ苫arshaニ⋮PriコC豆es OfEcOコロヨins.BK●H、nh●〓.p.思 ︵註三︶ ﹁er卓血eaul訂u︰Pr丹is d−EcOコ○ヨieP01it茸ue.p●︼ ︵註四︶ Gide︰Pr仙翼i甘sd∴E︵○コ○ヨie.P01itiq亡e壱′●N ︵誼五︶ Stepheコ町○コりPriコCip訂saコd Prac賢e占fnOヨヨerne−P・00 富の翠念た封して、叫見極めて特異なる立場より批評を試み潅ものは、ジョン・ラスキンrである。﹁此の最後 の者にも﹂︵uコtOth山肌L邑︶に於ては、ラスキンはWe隻hとRicユとを殆ど同一に解し、富とは相封的観念であつ 踵臍拳出費鮎に於けるミかの立場 ︵、一〇三︶ こ五
第三食 療二兢
い︵ニ○鱒︶曇天 て、乗れ自身とtては意味放く、之を用ふる人め存在すること・﹂及び有てるものに劃して、有たぎるもののあ る′ことによづて意味を生ずとなず.。かくて富の問題は人の問題となる′↓富の本質は、人を支配するカに存するが故に、富の朗有者が穂高き人であれぼある程、叉斯ゝる人が多けれぼ多い程富も亦従って大で冶宣言はる
るのではあるまいか。更に考へれぼ、人間自身が官であるとさヘ音はれるのではなからうか﹂︵註一︶と晋ひ、 或は叉﹁富とは正しき人が偵値ある物を所有することである﹂ ︵Wea声therefOre一仙s・ニhepOSSeSSぎOfthe くa︼亡ablⅣbythe邑i㌢t︶︵講二〓となす。ラスキンは叉ミノルの詭を批評してき﹁ミ▼ルは経済拳の主題は富なりと首ひ、富とは交換横倍をもつ有用快適なる凡ての物より成るとなす。然ら
ば、、、ル、にとつて政、有用及び快適といふこと′が交換憤倍の基底に存在し、その存在が確められなけれぼ、富と
やふととは出来凌いのである。けれども、物の経済上の致用は、単に物それ自身の性質によるのみならす、そ
れを用ふるこ上が能き∵且つ賛際に用ふる人の人数による。由が無用で聾者ことの田準ぬのは、誰﹂人之に乗
るこそが能せない時でる紗、鋤ほ誰一人斬ることの能きぬ時、肉隠誰一人食ふととの能きぬ時に無用で参る℃
かてて物質上の効用偲、夫れ法相封する人の能力檻よそと論サる。﹁此の駿後の者陀も﹂でほ予富豪以七人
瀾に填で高勃たるラスキンも後の著毒uコerapulVeris;把於てはをの語調が射められてゐる。而tて、玄やは We。一thとR季とめ格別を設ガ、前者は夫れ眉身侶値あるもの︵↓h首s︼コt謬ヨSe︻くeS蔓ua芳︶であゃ、、後者は相封的叡念で、個人叉煉敵脅が﹂他の個人又は敢昏に比して多く有するこ与を云ふ。畠は右の如く、有数債倍
︵E謬c什邑くa宕︶を有する、ものであ為が、をの生産とは二要素より成る。 之であると︵三u完raPulくeris.ch●叫,聖e
此の如く昏ふならば、ラスキンの富の甥念も、反ってミルの夫れ忙立脚へつた形勢を示す。而して﹁此の最
ウエルス 彼の者にも﹂にて論じキ富とは、寧ろラスキンの朋謂R州chを指すものであつたことを知る。富の本質に関してラスキンは、決して正統派の経済蓼者とは異なる見解を有したわけではなかったが、彼自身としては、恰も
前人未踏の富の理念を開拓したかの如く信じ且つ公にしたのであつ宅けれども、占コすtJ訂﹁邑,でいふ楼室山田の意義は、一叫つの倫理的教養としては興味あるが、それ以上に出づることは出発ない。大熊信行氏が許さ
れた如く﹁ラスキンの思想や意見は、彼が富の定式を改めず竺般の観念に従って用ひても充分明瞭に磯表す
ることの田楽たものである。否さうし尭方か叫厨明瞭であつたらうと思はれる。それを特に、富七いふ音薬の
吟味と詮議とに於て、遠の威嚇的語調を以て畿表した朗に、ラスキンのラスキン㌃しい朗があると言ふのみ
である。﹁富﹂といふ代りに﹁牽帽﹂といつてもよかった。究極に於ては徳と言つてもよかつね。彼が Uコ許th訂 ﹁as什に於て探った破壊的攻撃的態度に於ては、それは二つの戦術として有効なるものであつたが、温いて建設的な立坂億自分の職分を見出さうとした時、ラスキンは富の概念をさう気位に定めることは出来なくなつたの
イ、,本質的に有用なるものの生産 乍十それを用ふる能力の生産 檻臍墾田費鋸に於けるミかの立場 ︵一〇五︶ 二七郊三途 第二鱗
︵一〇六ノ︶ 二八 だと思はれる﹂︵彗一︶。蓋しラスキンは、所謂経済革捻炭の経臍単に非ずして高安的控臍箪︵3ercaコtニeecOnO昔︶ 匿堕し経ったる暗黒の拳闘︵Snieコne。fdarkコeSS︶なりと攻難し、之に勤して経済拳の眞養を開明するが自己の 使命なりとて、情熱的倫理観よりその富の観念を揚言したのであつ駕けれどもラスキンが経済単に輿へたる 論難は、経済人の仮定を只管鰻丼して、逸に之を現茸と混清した正統箪派の軍流に劃しては聖一芸あらうが、 正釈放の本流に向つては、梢々標的を逸したるの傾きがある。暗黒の蓼間と駁し孝フスキン自身が、往々にし て自ら暗黒の眼鏡を用ひて経済拳を眺めたと思はれる儲が多いからである。 ︵毒こ R七Skぎ⋮ごコtOth訂﹁ast一Ess8︼r ∽会 ︵詰二︶ ︻b芦一eSSayで.切望 ︵琴ニ︶ 大熊信行虎論文﹁ラスキジのムーネラ。バルブエりス﹂︵鴎旗艦酒粕誌第二十九億帯︼兢︶ さルが富を説くに常って、富の何たるかば各人之を熟知してゐるが敵艦、正確なる定義紅必要とせすと解し 乍ら、かなりに錯綜せる概念の槍避を試みてることは既に詭いた。之に勤しては、ジュグォンスが興味探い批 評を加べてる故に、それを伺つて見やう。・ ジエグォンスは、兜づ富に関する自家の意見を掲げる。それによれば、パーマーストーン郷が盛を詮明して ﹁塵とは、正しからざる朗に檻かれれる物﹂︵ヨatteriコaWrOコ害訂ce︶と言ったのに習って、﹁富とは正しき朗に定かれたる物及び助勢﹂︵3atte二aコd ser≦Ce︶lコa一隻t立ace︶となす。扮てミルに裁て考ふるに、彼は立論の 初め、その有名なる〓皐︵かweニ誉OWコP蓋e︶に於て、富の概念は各人が熟知する故、形而上塾的に正確なる 覚諒ほ必要でないと冨ふもの■1果してミルが其の冨ふ桝に忠嘗であるか香かは疑なきを得ない。ミル堅田ふ■ 官有であると云ふことは、有用なる財貨の多恩なる貯へを有するか、又は有用物を購払得る手段を多く有する と云ふことである。故に、購買力を有するもの、即甘それに代へて他の有用又は快適なるものが輿へらるゝも のば、放べて富警部を形造ると。抑々定義の憤倍は、之によつて、﹁科挙の正しい領域を輿ふる場合に発揮 せらる㌧ものであるが故に、然らざる建議は定義としての慣倍ないものと云はぬばならない。今、、ルに放て見 れぼ、不車にして定義の憤倍は謎め難い。何故なれぼ、ご、、ルは右の如く富の観念を輿へ乍らも、顔形の生産物 t︳ を諭する備に於ては、﹁富の観念は、蓄積の観念と離るべからず。生産せられて之が使用せらる1までに、⋮定 ヽヽヽヽヽ の時の耗過なければ富とは稲し得ず。之に反し、生産せられたるものにして有用性と苔桃性とを有すれば、富 ヽヽヽヽヽヽヽ と解するを妨げす﹂となすからである。且つ叉、誠に﹁定の時の経過とは如何なるものであらうか。依りに二 笠夜であるとすれは、′四十七時間五十九分五十九秒だけ蓄顕し得るものは、富となり得ないといふ奇観を惹き マティリアルウエルス 起す。更にミルは、或る場合に於て﹁鼓に富とは有形的富のみを冨ふ﹂となす。かく言へば、最初の定董で は、暫帥、下僕等の勤労は常然に富に擬するに劃し、彼の場合には除外せられることになつて、理論の二只を ヽヽヽヽ’ヽヽヽヽ 快くと云はねばならない。ミルは叉、無形の生産物が富たるや否やは、さして異質ならざるものなりと﹁経済 脛済撃出曹鮎にぬけるミル¢立場 ︵−〇七︶ こ九