• 検索結果がありません。

わたしの学生時代 : 朝鮮戦争前後の日本

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2021

シェア "わたしの学生時代 : 朝鮮戦争前後の日本"

Copied!
24
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)

わたしの学生時代

いま八〇歳を超えて

こういう教室で話をすることに慣れません。こういう教室で話を聞いたのも五〇年、半世紀以上も前になります。 ここに私が異分子のように入ってきたとしてもおかしくないですね。でも、インベーダーとして来たのではありませ ん( 笑 )。 富 田先生に招いていただいてはるばるとやってきました。 最近の教室の中はざわざわして、みんなちゃん と聴かないで私語したりメールをやっていると、世間ではしばしば言われていますね。私が大学に行って話をするな どということは、まったくないことなんですよ。そういう変な人間がどんなことを話すか。けっこう緊張しています。 みなさんが興味を持って聞いてくだされば、大変ありがたいと思う。 富田先生が配って下さった資料からもわかるように、二〇〇〇年九月に私は七〇歳になりました。その時は「ああ、 七〇か」と思いました。大変な時間を生きてきちゃったなと。そのあいだに心臓の手術も三回しましたし、ほかの手 わたしの学生時代

〔講

演〕

わたしの学生時代

朝鮮戦争前後の日本

澤地久枝

(2)

術もありました。もう死ぬかと何度も思ったけれど、なかなか死なない。どういう人生を生きるか考えなければいけ ないと思っていたら、詩のようなものが出てきたので書きました。それがみなさんの手元にあります。

二〇〇〇年の秋に

生まれたのは一九三〇年・昭和五年秋。 不景気のどん底で生を受けた。 前途の見えなかった社会は、 いつか満州事変、日中戦争へと 方向を定めてゆき、 一九四一年十二月八日をむかえる。 その日、十一歳。 子供の領域に属して 無知なるまま、 聖戦を信じ、みずからが

(3)

生きのこることは許さないと ひそかに思っていた子供。 一九四五年八月、敗戦の日十四歳。 あの日をさかいに、 それまで頭上をおおっていた 国家と軍隊、それにつらなるいっさいが、 きれいに消えていった。 難民の一人となり、同胞の辛酸のかたわらで なにも力になれず、 わが身とわが一家の 生きのびる道を探した一年間。 子供がおとな以上の責任を負い、 試練にさらされた日をどうして忘れようか。 政治に対するわたしの初心は 難民としての体験から芽ばえた。 それから五十五年。 かわらず、かわりたくない わたしの学生時代

(4)

かたくななわたしがいる。 「自衛隊は憲法に違反し、 新世紀に日米安保条約は見直されるべき」 この、ごく常識的な発言をするのに、 勇気を試される時代がついにきた。 信ずるままを、飽くことなく言う。 それ以外、わたしのような人間には 生きてゆく道はない。 投げつけられる非難の言葉が、 「バカ」であったり「アカ」であっても、 それにたじろぐまい。 無視され疎外されようとも、 わたしはわたしの道をゆこう。 すべては「個」から、 「一人」からはじまり、 いかなる「一人」になるかを決めるのは、 己れ自身である。

(5)

いま、あえてかかげようとする旗は、 ささやかで小さい。 小さいけれど、誰にも蹂 じゅう 躙 りん されることを 許さないわたしの旗である。 かかげつづけることにわたしの志があり、 わたしの生きる理由はある。 二〇〇〇年九月三日 これは私が私自身を振り返った遺書みたいなものだと思ってください。 『私のかかげる小さな旗』 (講談社文庫、二 〇〇三)という本の最初に書きました。 二日前、 「あさこはうす基金設立記念集会」 で 話をしてきました。 青森に大間原発を作ろうという計画を聞いた時 に、原発の建設予定地に土地を持っていた熊谷あさ子さんという方が絶対に原発を作らせてはいけないということで、 そこにかわいい家を建てました。それが「あさこはうす」です。現在はあさ子さんの遺志を継いだ娘の小笠原厚子さ んが守っています。ものすごい金額のお金を目の前に積まれても、 「原発はよくない」 「私は売らない」と言って、も う何年もその活動を続けているんです。井戸の水がどこかで抜かれたようで、井戸水が一滴も出なくなったんですっ て。掘って調査して井戸を復活しなければいけないということで「あさこはうす基金」を立ち上げるから話に来てく わたしの学生時代

(6)

れと言われました。 その前の日は 「 九条の会」 がありました。 「九条の会」 の呼びかけ人は当初九人いました。 最初に小田実 まこと さんが亡 くなり、加藤周一先生、井上ひさしさん、元首相の奥様である三木睦子さんが亡くなり、いまは五人しかいません。 二人がご病気で出てこられないということで、大江健三郎さんと奥平康弘さんと私と、呼びかけ人はいま三人しか出 られません。全国からたくさんの人が集まって大集会となり、昨日はよれよれになってしまいましたが、こうして来 ました。今日の話がどうまとまるか、まだ自信がないんです。

焼け跡の東京で暮して

私は昭和五年に生まれました。敗戦後、当時の満洲(現中国東北地方)から引き揚げてきました。親たちの経済力 を考えても、昼間学校に行くことはとても無理だと私にはよく分かっていました。引き揚げたあと、父は大工に戻り ました。三人きょうだいの私は長女なんです。一九四九年(昭和二四年)十八歳の時、丸ビルにあった中央公論社の 経理部に就職しました。 定 時制高校に一年行って、 そ の翌年一九五〇年 ( 昭和二五年) に早稲田大学第二文学部に入っ て、学生と言っていい時間が始まるわけです。かつての丸ビルは流行歌にもなるような、東京の華としてもてはやさ れた場所でした。私は母の手作りの洋服を着ていましたが、あの頃は革靴がなく、再生品で作ったカーキ色の運動靴 を履いて行きました。私の家は神宮球場からほんの少し離れたところで、富士山は目の前に見えました。一面焼け野 原でした。青山も渋谷も全部焼け果てて、焼けトタンで潰れそうな家を建てているんですね。私たちも親戚の人たち が建てたバラックに継ぎ足したかたちで、六畳のバラックを建て、そこに住んでいました。

(7)

あの頃の東京は土台も何も作らないで、釘で穴が空いている焼けトタンを使って、なんとなく家の格好にして住ん でいました。最近、レイテ島を襲った台風があります。私はレイテに行ったことがあるのですが、タクロバンに台風 が来たというので、これは一網打尽にやられたと思いました。その後写真を見ましたら、まったくそうでした。戦後 の東京だけではないですね。日本各地が空襲でやられました。みんなバラックか壕舎生活と言って、防空壕の中に暮 していました。電気は辛うじてひかれていましたけれども、しょっちゅう停電がありました。食べ物は配給ですが、 すごく厳しい統制経済で遅配・欠配があった。買い出しに行って帰りに警官に捕まると全部没収されるんです。いろ んなものを混ぜて手製の蒸し器でパンを焼くのですが、途中で停電が起きて電気が消えてしまうことはざらにある。 お腹いっぱいに食べるということは戦後も非常にきびしかった。戦争中の日本の軍隊は、戦死者の六割から七割が餓 死だったと言います。 餓死した島の記録を私は集めたことがあります。 落ちている木の葉につまずいて転ぶようになっ たら、明日明後日は生きていないと言います。みな食べるものがなくて死んでいきました。銃後のご飯よりは軍隊、 戦線の食糧を確保することを、金科玉条のごとく大事にしたはずが、餓死です。 私は当時、戦争に負けてはならないし、戦争で死んでいく人たちのために、この戦で死ななければならないと思っ ていた女の子でした。負けたと分かった、つまりポツダム宣言を受諾することが分かった時に、最初に思ったことは、 「ああ、 神風は吹かなかったな」 ということです。 い まからすれば神風が吹くわけはないですし、 日本が神風によっ てアメリカやイギリスに勝つなどということはおかしいことです。でも、当時女学校三年、十四歳だった私はそれを 信じていたのです。自分も戦争で死ななければならないという、どうにもならない軍国主義の女の子だったことは、 戦後、 私にとって恥でした。 「神風は吹かなかった」 なんて言いますと、 みんな笑いますよね。 「信じていたんですか?」 わたしの学生時代

(8)

とおっしゃるけれども、信じきっていたんです。えらい人たちは神風なんかあてにしていなかったのでしょうが、例 えば東京都知事などの役職にある人たちが、隣組の回覧板に「神風は吹かなかった」と書いています。いい大人も信 じていたことです。私は大人は信用できないと思っていた子どもだったのに、まざまざとそれにしてやられたのは非 常に恥しいことでした。 昭和二四年四月、私の月給は五〇〇〇円です。それがどんな値打ちのものか、みなさんはお分かりにならないと思 います。けっして悪くはないし、高すぎもしない月給でした。一人暮らしで部屋を借りて生活するには足りない金額 です。私はそのまま封を切らずに母に渡しました。母はそれを神棚にあげました。私はそこから小遣いをもらいまし た。初任給をもらった時に、年の離れた妹と弟を連れて渋谷に行ったんです。弟が映画を見たいと言う。八歳くらい です。 「何を見たい?」 と聞いたら 『 ターザン』 と 言うんです。 私は見たくなかったのだけれど、 見たら結構面白かっ たです。わずかなお金しかなかったなといま思うのは、映画の後に妹と弟にご馳走をしようという時に、おそば屋さ んに入って「月見そば」というものを頼んだことでした。 私たちは丸ビルのオフィスに会社の始まる時間より三〇分早く行って社内の掃除をしました。あの頃は赤と青のイ ンクがあって、みなさんつけペンで仕事をしていました。毎朝そのインク壷を洗うんです。掃除が終わる頃には手が 赤紫色になりました。人に手を見られたら「なんでこんな色をしているのか」と思われる。そういう生活でした。私 は経理の事務員ですから、印税と原稿料の仕事をしました。それまではそろばんもできなかったのです。職場の先輩 に教わりながら一生懸命にやりました。

(9)

早大夜間に働きながら学ぶ

早稲田大学に行くようになって、三〇分早く会社を出る。都電が想像できないほど混んでいました。電車がやっと 来ても乗れません。なんとか乗り込んでも、人が押してくるから、私は吊り下げられるようになって、足が床につか ないんです。丸の内から早稲田大学に行くまで結構時間がかかり、学校にどうにか着くと、最初の授業は半分以上終 わっていました。一年生の時はクラスメートの年齢がばらばらでした。五〇歳くらいかと思う人もいるし、十九歳の 私もいるし、十八歳の人もいました。 昭和二〇年に終わった太平洋戦争中、女学校の英語の授業は一時間もないんです。このハンディキャップは大きい です。アルファベットの小文字を書くことが、いまでも自信がないです。なぜ女学生に英語を教えなかったのか。満 洲の吉林の女学校ははっきりしていて、敵性の言葉は学ぶ必要はないと言うんです。そういう時に私はふと思いまし た。 「勝つ勝つ」 と言っているけど、 勝って行ったところには異民族がいるわけです。 その人たちに何語で話をする のかと思いましたね。 私は夜、学ぶことが全然苦痛じゃなかった。大変なこととは思わず、いそいそとして大学に行っていましたね。晩 ご飯を食べるのは毎晩一〇時です。夏休みは七月と八月の二カ月ありました。日曜日は別として、毎晩、三時間くら い同じ先生の講義を聞く。 「文芸学」 という本当に悪いけれどつまらない講義を黙々と聴くと四単位もらえます。 夏 休みには八単位もらいました。地獄とは言わないけれど、ちょっとした試練でしたね。 わたしの学生時代

(10)

レッドパージと朝鮮戦争

昭和二四年、私は中央公論社にいる間に「レッドパージ」というものにぶつかりました。アメリカの政策がソ連の ことを考えて、どんどん右傾化していきます。職場にいて「ストライキをやろう」などと言っている共産党員は全部 クビにしたいとアメリカが考えて、日本政府はいまと同じように「はい、そういたしましょう」となりました。私は まだ何も考えない女の子でしたから、よく分からなかったんです。組合大会があり、みんなゴソゴソ話をしているん ですね。 聞いていると 「 レッドパージ」 という言葉が出てくるんです。 「レッドパージ」 とは、 何 か思想的なものを 追放することらしいと次第に分かってきました。私は憲法が言論の自由を認めると言っているのだから、どんな意見 であろうとそれを締め出すのはよくないと思いました。私たちの職場は入社すると半年間見習い社員をして、それか ら正式な社員になるんです。見習い社員の期間に身上調査をして、その人が思想上あまり面白くない傾向を持ってい るとクビを切りたいわけですね。いまは異議申し立てができますけれど、その頃クビを切られたらどうにもならない。 これは日本が始めたことではなくて、アメリカではマッカーシズムの時代、アカだと見なされている会合の出席者を 公安係官が全部記録していました。 被告になって訴状を見ると、 「おまえは何々という会議に何月何日の何時からい た」と、こんなに大勢の人をこんなに大勢の係官が見張っていたのかということが明るみに出ました。裁判になって 闘うとき、アメリカ市民が楯としたのは独立宣言だったんですね。独立宣言の中には、市民によからぬことをする政 府は、 それを打ち壊す責任、 義務と権利があるとはっきり書かれています。 た とえ共産党がどんなにいやな思想であっ たとしても、 活動をする権利は独立宣言の中で認められている。 そ ういうことをジョン・サマヴィルが丁寧にフォロー

(11)

して、 それは本にまとまっています (邦題 『試練の現代文明』 みすず書房、 一 九五八年) 。 けれども、 裁 判は負ける んです。何年か経った後にみんな名誉回復しています。内通してひどい仲間の売り方をし、赤狩りに協力した人たち がその後に社会から葬られていきます。匿名でシナリオを書いたり、国外に逃亡した人たちは、その後いい仕事をし ていらっしゃいます。狂ったように赤狩りをするアメリカの社会状況が日本にもきました。アメリカからはW・C・ イールズ(GHQ民間情報教育局顧問)という人が来て、東北からレッドパージ推進の講演を始めるんです。一九五 〇年は学生運動においても、政治の季節になったと思います。 いまも大学の学生には体育の科目があるかと思いますが、当時もありました。テニスでもゴルフでも野球でもいい わけです。しかし、夜の授業である上に、最初の授業に間に合わないような学生はどこに体育の時間を見つければい いのか。学校は何を考えたかというとハイキングです。要所に助手が立っていて、出席票を渡すわけですね。考えた ら漫画みたいでしょ。みんなそろそろ二〇歳になろうかという年頃の子たちが、みんなでテクテク歩くんです。ある 日、多摩川の河原に行くことになり、私たちはお昼ご飯を食べていました。そこへ同級生の一人がバーッと走ってき て、 「朝鮮で戦争が始まった」 と言ったんです。 一九五〇年六月二五日の日曜日でした。 よく晴れた日でした。 私は この日のことを忘れません。 その時は何のために戦争が起こったのか分からない。 戦争をしてはならないとかたく思っ ていましたけれども、しかしよその国で戦争が始まってしまった。 その頃、私の家は木の葉葺きと言って、木の薄板で屋根ができていました。バラックから引っ越しをして、父が自 分の手で建てた家ですけれども、屋根が載せられず木の板で塞いであって、なんとか雨漏りはなくなったという生活 でした。そこに瓦が載ったんです。母が「何かこの頃は静かだね。瓦が載ったせいだろうか」と言ったんです。そう わたしの学生時代

(12)

言われれば静かだなと私も思いました。私の家は山手線のレールからそんなに離れていない、明治通りを挟んだとこ ろだったのですが、真夜中にものすごく列車の音がしていたのですが、その音がしなくなったんです。後年になって 貨物列車が通らなくなったからと分かってきました。日本は朝鮮戦争の時に米軍の兵站基地になって、武器から食べ るもの、衣服もみんな送りました。昼間の列車のダイヤでそれを送ることはできないから、夜に貨物列車がごうごう 走ったわけです。 どちらが攻めたかということは 「北だ」 「南だ」 とさんざん言いましたけれども、 北 の軍隊が南に、 釜山が見える かというところまで攻めこんできました。仁川に占領軍の最高司令官であるマッカーサーの銅像があります。彼は戦 争中フィリピンのバターンの辺りにいました。一九四一年(昭和一六年)の十二月八日に戦争が始まり、日本は開戦 当時はすごい勢いで攻めていたんですね。攻められたマッカーサーはどこかに逃げていかなければならなくなって、 その時に彼が言った言葉が「 I sh all re tu en (必ず帰ってくる) 」でした。その言葉通りに昭和二〇年にアメリカは反 撃を始めました。フィリピンのレイテ島にマッカーサーとその部下たちがタクロバンの海を揚がってくる銅像があり ます。それと同じようなものをどこかで見たなと私は思いました。それが朝鮮戦争の仁川です。そこからアメリカは ものすごい勢いで戦って、北朝鮮軍は追い返されるわけですね。 毛沢東の息子が 最初の夫人との子どもだと思いますけれど、朝鮮戦線で戦死したということ、これは私自身が確 かめた話ではありませんが、そういう話があって、中国兵は義勇軍として朝鮮戦線で戦ったんですね。戦死した人も 多く出た。北朝鮮はかなりのダメージを受けたと思いますが、その昭和二八年には休戦協定が結ばれることになりま した。

(13)

私は戦争が通っていった後の市民の生活がどんなにひどいか、自分の体験で知っています。多くの日本人も知って います。それは知っているのが当たり前の時代でした。例えば一九五〇年から何年経っていますか? 朝鮮戦争が開 始された日から半世紀以上、六三年経っているわけですね。ここにいらっしゃるみなさん、学生さんは平成生まれで しょ? だから昭和なんて言われると、私が明治とか大正とか言われる時になんて古くさいことを言うのかと思った ような気持ちがおありになるのだろうと思うのね。遠い話でしょう。そのくらい私たちのあいだで年齢がすごく開い ちゃったんですね。昭和一桁ということだけではなくて一九四五年に日本が負けたということを知っている。それ以 後に生まれた人が人口の七五パーセントくらいになっているという資料を見たことがあります。年長者・年寄りはい まや少数派です。この人たちもすべて直接の戦争を覚えているわけではないですね。疎開をしたとか、防空壕にいた ということがチラチラと記憶の底のほうにあるのです。平成になって「戦争」と言われると、 「戦争ってどの戦争?」 と、みなさん真面目な顔をして聞きます。その説明からするのはとても骨が折れるんですよね。けれども、自然なこ とだろうと思います。 朝鮮戦争で私が思い出すのは、さきほど申し上げましたが大学にはいろんな年齢の人がいました。中国からの人が いまして張さんと言い、きわだつ美人でした。朝鮮半島の人もいました。その人たちと仲良くなりました。朝鮮から 来ている人が、 朝鮮戦争の最中に 「これは内緒だけれども、 あなたに言う」 と。 「いまアメリカは朝鮮半島で原爆を 使おうとしている。それはかなり最前線まで浸透していることだ」と話しました。私は原爆をまた使うのかと思いま した。その後、三年生の時には異国の人は一人もいなくなりました。授業料も高かったですし、毎晩来ることすら許 されないような労働条件で異国の学生たちは働いていたと思います。私にとっては忘れることのできない学友でした。 わたしの学生時代

(14)

アメリカが原爆を使おうとしたということは、広島、長崎の教訓など何も無くて、戦局が劣勢になってきたら核兵器 を使おうと昭和二五年に考えていたということです。私は知らなかったけれど、朝鮮の人はどこからか聞いて知って いた。いま、いろんな資料を見ていると、それが出てくるじゃないですか。だからアメリカという国はすごいものだ なと思いました。私が早稲田大学の一年生の時に、警察予備隊という名前で自衛隊は発足するわけです。これはマッ カーサーの指令です。それから保安隊、自衛隊になって、いまや防衛省というのができるところまで来ています。政 府のお偉方は当然という姿勢ですが、どこで憲法が認めたのかなと私は思っています。

学生時代に感動した二冊

私はこの早稲田大学時代、 特に昭和二五年に自分の生涯を決定するような二冊の本に出会いました。 その前に出会っ ている本は古本屋で買った『藤村詩抄』という本です。藤村が好きだったから買ったんです。古本です。それとは別 に、私が自分のお金で買って、これで生涯が定まったと思った二冊の本があります。一冊はロシアの詩人ネクラーソ フが書いた『デカブリストの妻』という詩集です。岩波文庫で当時六〇円で買いました。翻訳をしたのは谷耕平とい う方でした。谷さんに会いたいと思っていたのですが、どんなことをしてもこの人の連絡先が分からなかったのです ね。谷耕平さんは実は早稲田大学の露文科の教授で、ずっと経ってから見た訃報に筆名は谷耕平と書いてありました。 デカブリストというのはご存知でしょうけれど、一八二五年十二月一四日を期してロシアの貴族が封建制をなくし て、一種の民主制を作り、農奴も解放しようという企てを起こすんですね。どこからか漏れて、その当日に一網打尽 になります。五七九人もの人たちが逮捕され裁判にかけられ、五人が絞首刑になった事件です。十二月がロシア語で

(15)

デカーブリということでデカブリストと言うのですが、私が心を惹かれたのは、デカブリストの妻たちが皇帝の許可 をもらって夫の行ったシベリアへ行くのです。貴族としての一切の財産も体面も捨てて、ただ一人の人間として行く。 生まれたばかりの子どもは置いていくことになっても、 「私は行く」 とかなりの人数がシベリアに行っているんです ね。ネクラーソフが書いているのはそのなかからトゥルベツカーヤとヴォルコーンスカヤという二人の女性について です。 トゥルベツカーヤが最初に行って、 そ の次にヴォルコーンスカヤが行きました。 三十数年経ってモスクワへ戻っ て来た夫婦がいます。この女の人たちの勇気の凄まじさに打たれました。若いというのはいいことですね。感動して 私はデカブリストの妻たちがそりで行ったところを私もそりで辿ってみたいと、そういう夢を持ちました。それが私 の一つの本との出会いでした。それ以来、デカブリストの乱やシベリアにずっと関心があったのです。 もう一つの本は、 ここへ持ってきました。 これは初版本です。 一九五〇年に出た 『語られざる真実』 (筑摩書房) という菅 かん 季 すえ 治 はる という人の遺稿集です。 どうしてこの本を私が知ったのかは忘れました。 で も結構高いので当時よく買っ たなと思うんです。地方定価は一七〇円、東京だから一六〇円で買って、二晩くらいで読んでいます。二晩は長いけ れども、しかし、朝早く家を出て夜一〇時すぎにご飯を食べるという生活の中では二晩は貴重なものでした。みなさ んに分かっていただくように話をするのは難しいのですが、戦争が終わった後、捕虜だった兵隊たちは家族の元に還 されると、ポツダム宣言にはっきりと書いてあります。しかし、満洲や北朝鮮などでソ連の捕虜になった人たちは行 く先も決まらないままに連れて行かれました。誰もこれからシベリアで重労働が待っているとは考えなかったんです ね。これは今日呼んで下さった富田先生の研究対象であることを知りましたけれども、日本人のシベリア体験という ものは日本の現代史の中でとても大きな事件です。何人が連れて行かれて、何人が死んだのか分からないんですね。 わたしの学生時代

(16)

死んだ人たちが埋葬されたところは墓石も何もないから、掘り返されたり、建物ができてしまったり、あるいはダム ができて水の底になってしまったりしています。 「ウオエンノプレンニク」 とロシア語で言うそうですが、 捕 虜 虜)として連れてこられた日本人、死んだところが特定できないような死者たち。その数ははっきりしませんけれど、 だいたい五七万くらいの人が連れて行かれ、その一割、五万七〇〇〇人あるいはそれ以上の人たちがシベリアで死ん だと言われています。何をしていたかと言えば、例えばバイカル湖の北の鉄道敷設の仕事などです。昼は四〇度、夜 は四〇度というのは、昼間は四〇度を超す暑さになるけれど、夜になるとマイナス四〇度になるということです。ひ どく寒くなるところへ、敗戦の八月一五日は日本では夏ですから、夏服で行って、もらったものを着ても寒さが堪え られない。極寒の場所で食べるものもほんのわずかしかもらえない。さらには労働の内容に応じて食べ物を与えると いう飢えでした。

「徳田要請」問題と菅の国会証言

私はどうしてもその跡に行きたくて、カザフ共和国のカラガンダにも行きましたし、モスクワにも行きました。当 時のレニングラードであるサンクトペテルブルクにも行きましたし、イルクーツク、ノボシビルスクにも寄りました。 ハバロフスクは二回行き、ナホトカに二晩泊まるなど、出来る限りのことをしてロシア、シベリアを歩きました。私 自身の仕事の仕方というのは、遠い日からずっと糸をひいてきて、いまに至っていると思います。 ある一五〇〇人の部隊が捕虜になる時に、誰かロシア側と交渉する人が必要だということになりました。軍隊は学 歴をちゃんと見ていますから、菅さんが「お前が通訳になれ」と言われます。菅さんは京都大学の大学院を出ている

(17)

哲学青年でした。ロシア語はかじった程度だったのです。誰かが通訳をしなければならないと考えて、菅さんは勉強 を始めました。一五〇〇人もの人が行先不明の果てしない移動をしている時、生理現象も起きるわけですが、そのこ とを訴える言葉もなかったんです。どうしたかと言えば、恥を忍んで身振りで「おしっこをしたい」ということを伝 えなければならなかったと菅さんは書き残しています。移動の途中で岩波から出ていた露和辞典という小さい辞典を もらい、自分が作った手控えと岩波の辞典の二つをいつも身につけていて、もっといい通訳になろうと心がけていた 人でした。 一九四九年九月にウズベキスタンのアングレンから抑留者が移動して来ましたが、その中には傾向が悪いと言われ た捕虜がいたということです。この人たちがカラガンダに来た時、収容所の内務省将校に、お前たちの祖国の日本共 産党の徳田(球一)書記長から、捕虜が民主的な分子となってから還してくれるようにという要請がきている、と聞 いたわけですね。そうでなくても帰りのおくれた人たちです。 「民主分子」なんて当時の言葉で言えば「アカくなる」 ことなんです。徳田なんていうやつがアカくなって帰ってくることを 要請 するとはなんだということになったの ですね。そこでは争わないで黙ってその人たちは帰ってきました。長い長い列車の旅をしてナホトカで船に乗ったん です。そして船の中で不満を持っている人たちがグループを作り、帰国した途端に、日本の参議院にこういう不当な 目に遭ったと訴えたわけです。真相を究明してくれと言ったんです。そして、我々はロシア語が全然できないから、 あとは通訳をした菅に聞いてくれと言うんですね。 菅さんは昭和二四年の暮れにシベリアから北海道の北見に帰るけれど、幾日もそこにいないで東京に出てきていま す。自分は本当に兵隊に向かない人間だったが、生きて帰ったからには哲学をまたやろう。哲学というものが自分に わたしの学生時代

(18)

とって一番大事な学問だ。哲学抜きには生きていることは意味がないような人間だと、菅さんは考えていたんですね。 ところが新聞を見ていると国会で通訳はどうだったのかということになっている。それで国会に傍聴に行きました。 文学者の中野重治がその当時共産党所属の参議院議員を務めていますが、 その参議院特別委員会に出席していて、 「菅 (カン) だか、 菅 (スガ) だ か」 と中野さんが言っているのが議事録に残っています。 その通訳者を証人に加え るのはどうかということを言っている。菅さんは何が起きるか分からないから、国会の傍聴人の中にいるわけです。 この人は非常に内向的で孤独な人で、普段は何もできないような人ですけれども、いざとなったらなんでもできる人 です。 「菅はここにおります」と傍聴人の中からパッと立つんです。 その後、参議院に呼ばれた時の議事録があり、それを見ると、だいたい保守系の議員が菅さんを相当にいたぶりま した。 「ナデーエツァ」 とロシア語では言うそうですけれども、 そ れには 「期待する」 という意味はあるけれども、 「要請する」 と いう意味はないと一生懸命、 菅 さんは言います。 質 問をする議員は 「 そうやってあなたは共産党の味 方をする、じゃあ、天皇制についてどう思うか?」と言われて、菅さんは制度として私たちを支配している天皇制は 悪いと思っているから、 そ こで嘘をつくことは考えないで、 「天皇制に対して私は批判的です」 と言うんです。 んに投げつけられる言葉は「あなたは日本共産党以上の本物の共産党じゃないか」でした。日本共産党はその頃天皇 制に対して考えがゆるやかでむしろ認めるというようなものでしたので、共産党も認めているものをお前は否定する、 根っからの共産党員じゃないかと。ちゃんと言おうと思うけれども、右にも左にも属さないで自分がその時に事実だ と思うことを言い通すことがどんなに難しいことか。本当に人をいたぶるという感じで委員がひどいことを質問する んですね。菅さんはその都度自分はこう思うということを言いました。私はあとで象徴的に書きましたけれども、孤

(19)

立している菅さんには辞書一冊の味方もなかったんです。 辞書の 「ナデーエツァ」 に は、 「要請する」 の訳語はあり ません。 次に衆議院考査特別委員会で「ナデーエツァ」について専門家の意見を聞くことになり、原口という調査員が出て きました。 普通国会ではもちろん宣誓をしなければならないんですよ、 「偽証はしない」 と。 何の審査もしないでい きなり原口という人が出てきて、 「訳したければ 期待する と訳すことも可能だけれども、 要請する と答えるの が自然だ」と言うんです。さらに「原口さんはあなたが尊敬すると言った哈爾浜 ハルビン 学院の第一期卒業生です」と言われ るんです。それで菅さんは自分の中で、辞書はちゃんとこう書いてあるし、あの時の考えでも徳田書記長がはるか離 れた日本から民主主義者、 つまりアカの活動家になって帰ってくることを 要請する 、 うならない人は還さない でくれというようなことを言うはずがないと思っているけれども、資格も何も問われないで出てきたハルビン学院の 第一期卒業生の言葉で菅さんはしどろもどろになるんです。その他に、あの頃は対日理事会というソ連もアメリカも 出ていた日本の占領政策について協議する会議があって、そこに菅さんは二回呼ばれています。でも、遺書にも日記 にもそのことは何も書いていないんです。そこで何が言われたのかは永遠の謎になりました。アメリカの資料でもこ れは出てこないように思いますね。

痛ましい菅の自死と遺言

菅季治はその後どうしたのかということですよね。菅さんが本当に気の毒だと思うのは一九四九年の十一月に日本 に帰って、それからいくらも経っていない翌年五〇年四月六日の夕方、吉祥寺と三鷹のあいだの鉄道に身を投げて死 わたしの学生時代

(20)

んだのです。三二歳でした。私はこの人の『語られざる真実』に出てくる遺言、遺書のような文章に本当に心を打た れましたね。こんなに誠実な人が自殺しなければならないような日本の政治ってなんだろうと私は思いました。私は 何も分かっていないけれども、それでも、なんてひどいことかと思いました。菅さんは文才のある人だったと思うん ですね。 「俘虜」というタイトルで書かれている文章の中にはなかなかいいものがあります。この『語られざる真実』 には田中美知太郎さんとか務台理作さんとか有名な哲学者の人たちが序文を書いています。その人たちがいかに菅季 治を愛したか、菅季治という人がどんなに真面目ないい哲学青年だったかという文章を寄せています。 菅季治は本当に軍隊に向かない人です。 軍隊に入り最初に千島の幌 ほろ 筵 むしろ 島に行くのですが、 結局仲間はずれになる んです。 「お前のような偉い学歴のある人間には俺たちは口利けねえ」 とか言われています。 菅さんが自分から言っ ているのではないけれど、 軍隊は全部身の上を調べて書くわけですね。 「こいつは大学院まで行っている」 とすぐ戦 友に喋るからみんなに広まってしまって、 「お前のような偉い人には俺はものは訊かない、 分からないことがあって もお前には訊かない」と言われる。菅さんは「特別幹部候補生にならないと軍隊生活は長いよ」と親友の石塚為雄さ んに言われていて、そのことが頭から離れず、幹部候補生になります。教わることは何にも分からないんです。例え ば軍隊の用語では「ズボン」と言わずに「軍 ぐん 袴 こ 」とか、 「僕」 「私」などと言わないで「自分」と言わなければいけな いんです。そういういわば簡単なことも身につかない人です。 菅さんは追いつめられて死んでいった。石塚為雄さんに宛てた手紙があります。 石塚よ、 /この世でわたしのただ一人の友であった石塚よ/いつも、 自分の魂の弱さと孤独とをつらがっ

(21)

ていたわたしは、もう堪えられなくなった。/あの事件で、わたしはどんな政治的立場にもかかわらな いで、ただ事実を事実として明らかにしようとした。しかし政治の方ではわたしのそんな生き方を許さ ない。/わたしは、ただ一つの事実をさえ守り通し得ぬ自分の弱さ、愚かさに絶望して死ぬ。/わたし の死が、ソ同盟や共産党との何か後暗い関係によるのでないことを、信じてくれ。 (以下略) 忠雄さんという弟さんがいて、歯医者さんになるための学校に行っていて、兄弟二人で三鷹の近くに住んでいたの ですが、その弟の学生服の上着を着て、ポケットには『ソクラテスの弁明』という岩波文庫が入っていたそうです。 そういうかたちで鉄道に身を投げました。 忠雄くん、/わたしは死ぬ。/どうかわたしの正しさを信じてくれ。ただ、わたしは、あまりに弱い人 間だったのである。/北見の家の人人には、気の毒さのあまりことばもない。/「スエハルみたいな人 は、あんまり正直で純粋だから、今の世の中では生きていられないのです」と言ってくれ。/大へんな ごめいわくだが、後しまつを頼む 弟に宛ててこれを遺して菅さんは亡くなるんですね。北見が故郷ですから、この一〇年のあいだに私は北見に行き ました。お墓もお参りに行きました。弟さんはその頃はお元気でしたけれども、やがて癌を患われて亡くなられまし た。 私が書いたものを見て、 自分はなぜ 「辞書一冊の助け」 、 兄のために何もしてやれなかったのだろうと、 さんざ わたしの学生時代

(22)

ん悔やんでおられたそうです。それは私が訪ねていって、いろいろなことを聞くことで記憶が甦ってきたんだろうと 思うんです。 「わたしは、 ただ一つの事実をさえ守り通し得ぬ自分の弱さ、 愚 かさに絶望して死ぬ」 という文章に打 たれて、事実というものはそんなに大事なものなのか。自殺をしなければ「私が思っている事実はこれです」と言う ことはできないのか。私はそれならば、そんな決心をしなくても、これが事実だというものを調べる人間になろうと 思ったんです。菅さんがロシア語の単語を一つ覚えた時、それが私の運命、人生の方向そのものを定めたと書いてあ るように、私が菅さんの『語られざる真実』を読んで感銘を受けて、事実というものは命を賭けなければならないほ どのものかと思ったことは、いま私がノンフィクションの書き手として、生きているということであろうと思ってい ます。私は学生時代にいろいろなことがありましたけれども、いまの私にまでずーっと繋がっているものは何かと言 えば、 事実にこだわる ということなんですね。 いくら事実にこだわっても、 私たちの手の届かない事実もありま す。さらに届かなくさせようとしているのがいまの世相です。

満洲引き揚げ体験が私の原点

私の大学生活はきちっと四年ありました。卒論は「万葉集第十四巻東歌研究」というものです。卒業式に私は母を 連れて早稲田大学に行きました。卒業式は日曜日の昼間でした。私の母は東京生まれ東京育ちですが、母は義務教育 六年の小学校しか卒業していないことが人生の引け目だったんですね。国勢調査が来ると「今年はどうしようか」と 言うんです。いつもいい加減なことを書いては次の回には何を書いたか忘れていました。国勢調査には悪いけれども、 一人や二人そういう人がいたっていいじゃないか、学歴で人の値打ちが決まるわけじゃないと私は思っていました。

(23)

成蹊大学に来られなくて中卒でアルバイトをしているような人たちが元気を出すためにはどうしたらいいかと言えば、 学歴じゃない、自分の力で生きていけるほうがいい。この社会はなかなかそれを許さないけれども、学歴コンプレッ クスから私たちは卒業したほうがいいと思います。卒業して就職といっても、いま正規雇用の職業につくのはすごく 大変ですね。 け れども、 仕事をしないで親の掛 人 かかりゅうど (居候) になって食べていくのは、 周りの人にも迷惑だけれど、 その人にとってとても無駄な時間です。仕事をするということは必ず何かをもたらしてくれます。そのために私たち は力も使うし、 頭も使うんです。 私は母を早稲田大学の敷地の中に連れてきて、 「さあ、 お母さん、 これで早稲田に 入ったわ」と言いました。文学部の懇親会にも母を連れていったのですが、私が学生生活中にできたただ一つの親孝 行だったと思います。 学生のときに私は本当に「ばか」な結婚をして離婚もしますし、よく考えたらどうしようかと思うような学生生活 でした。卒業はしましたけれども中味は惨憺たるものです。ただ私は組織というものには絶対に入れない人間。これ は満洲で敗戦になった時に、国というものは一夜にしてこんなに簡単になくなるものか、国民というものはこんなに 簡単に捨てられる存在なのかと痛感しました。占領した軍隊に追いかけまわされ、女の人たちが犯されたり、男の人 たちが殺されたりする時に、軍隊はどこに行ってしまったのか。軍隊なんかいないんですよ。ソ連参戦後、兵隊はむ ざむざと武装解除されて、 四人の隊列を組んで歌って過ぎていきました。 歌っていたのは 「戦陣訓の歌」 です。 「日 本男児と 生れ来て 戦さの庭に 立 つからは 名をこそ惜しめ 武 つわ 士 もの よ」 。 私 はばかだからいまでも覚えています けれども、なんでそんな歌を捕虜に引かれていく時に歌ったんですかね。関東軍の兵士が日本軍の栄光を謳った歌を 歌いながら引かれていくのを、私は窓の内側から見ていました。その時は十五歳になっていました。なぜそういうこ わたしの学生時代

(24)

とになったかと言いますと、ソ連の参戦もありましたが、関東軍の幹部は、通化というずっと南の朝鮮半島に近い所 に本拠地を移して戦うという名目をつけて、さっさと逃げてしまったんですね。私たちのいた町などは捨てる。関東 軍の作戦計画の中では満州の三分の二は捨てたんです。そういう捨てられた棄民という実感、難民生活というもの、 それから国がなくなるということが私の中にしっかり染み付いていて、それからもう七〇年近くなろうというけれど 依然変らないのです。こういう変らない人間は一筋の道を生きたと言えるかもしれないけれど、私は自分ではばかか なと思いますよ。でも、ばかと言われてもね、私がした経験、仕事の経験を通して、してきたことは譲れないから、 これからもこの発言は続けていくであろうと思います。ありがとうございました。 二〇一三年度後期 成蹊大学法学会講演会 二〇一三年十一月一九日 八号館二〇一教室にて

参照

関連したドキュメント

が漢民族です。たぶん皆さんの周りにいる中国人は漢民族です。残りの6%の中には

 本実験の前に,林間学校などで行った飯 はん 盒 ごう 炊 すい

けいさん たす ひく かける わる せいすう しょうすう ぶんすう ながさ めんせき たいせき

の知的財産権について、本書により、明示、黙示、禁反言、またはその他によるかを問わず、いかな るライセンスも付与されないものとします。Samsung は、当該製品に関する

日本語で書かれた解説がほとんどないので , 専門用 語の訳出を独自に試みた ( たとえば variety を「多様クラス」と訳したり , subdirect

町の中心にある「田中 さん家」は、自分の家 のように、料理をした り、畑を作ったり、時 にはのんびり寝てみた

しかしながら、世の中には相当情報がはんらんしておりまして、中には怪しいような情 報もあります。先ほど芳住先生からお話があったのは

司園田園田園.