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明初の対日外交と林賢事件

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Academic year: 2021

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、 ♂軋 く  膏  、

の対

日外

  

明初 の対 日外交 と林賢事件 は   じ  め  に   洪 武 元 年 (ニ ニ 六 八 ) 正 月、 朱 元璋 が 南 京 で即 位 し て明 王 朝 が 成 立 す ると 、 明 は引 き 続 き 皇 帝 即 位 の 璽 書 を 周辺 諸 国 にも た ら し朝 貢 を促 し た。 日本 への 第 一 回 目 の遣 使 も 同年 末 に な さ れ、 これ を機 に 日明 交 渉 の 序 幕 が 切 っ て落 と さ れ る 。 遣 唐使 の 廃 止以 来 途 絶 え て い た 日中 間 の 国 家 交 流 は、 明 側 の積 極 的 な 働 き か け に よ り、 再 び活 発 な様 相 を呈 す る こ と に な る。   し か し そ ん な 日明 関 係 も 、 最 初 から 順 調 に 推 移 し た わ け で は な い。 当 時 の日本 は南 北 朝 の 分 裂 期 に当 た り、 国 内 は 混 乱 を極 め て い た。 ヨ 本 の 事 情 に 不案 内 な こと も あ り 、 当 初 、 明 が 交 渉 の相 手 に選 ん だ の は、 九 州 大 宰 府 に拠 る南 朝 方 の懐 良 親 王 ( 後 醍 醐 天 皇 の 皇 子 ) であ っ 柚 明 は 洪 武 五年 に懐 良 親 王 を 日 本 国 王 に冊 封 し た た め、 以 後 洪 武 年 間 に は懐 良 親 王 ( 明 側 の 史 料 で は日 本 国 王 良 懐 ) の 使 者 と名 乗 る者 が 六 回 入 貢 す る。 遅 れ て将 軍 足 利 義 満 も 二回 使 者 を 派 遣 し、 さ ら に九 州 の島 津 氏 久 も 独自 に 入貢 す る など 、 き わ めて 錯 綜 し た 交流 が 展開 さ れ た。   そ れ ほど活 発 であ っ た 日朗 交 渉 も 、 洪 武 十 九年 (二 二 八 六 ) の 懐 良 親 王 の 遣 使 を最 後 に、 突 然 中 断 す る。 再 開 さ れ る の はそ れ か ら 十 五年 後 の 建 文 三年 ( 応 永 八年 口 一 四〇 一 ) の こと であ る。 こ の 年 、 日 本 国 准 三 后 源道 義 ( 足利 義 満 ) が 入貢 す ると 、 翌 年 建 文 帝 は入 明 使 の帰 国 に際 し、 答 礼 の 使 者 を同 道 さ せ た。 し か し、 建 文 帝 が ほど なく 永 楽 帝 に皇 位 を奪 わ れ た た め、 義 満 はあ ら た め て永 楽 帝 に封 爵 を請 い、 永 楽 二 年 ( 応 永 十 一 年 H 一 四〇 四) に 正式 に 臼本 国 王 に 冊 封 さ れ る。 以 後 、 義 満 は彼 の死 ぬ永 楽 六年 ( 応 永 十 五年 ) ま で に 四 たび 使 者 を派 遣 し、 永 楽 帝 への 変 わ ら ぬ忠 誠 を 示 し続 け た。   義 満 と 永 楽 帝 と の関 係 は措 き、 こ こで 注 目 し た い のは洪 武 十九 年 か ら建 文 三年 ま で の十 五年 間、 日 中 間 の交 流 が 完 全 に 途絶 し た こ と だ。 日明 交 渉 開 始 時 に見 ら れ る こ の空 白 の十 五年 は 、 一 体 何 を意 味 す る の         だ ろ う か。 定 説 で は、 明 初 の政 界 を 揺 るが し た洪 武 十 三年 の ﹁ 胡 惟 庸 の 獄 ﹂ と 、 そ こ か ら派 生 し た ﹁ 林 賢 事 件 ﹂ が そ の原 因 だ と さ れ る。 多 く の 史 料 に よれ ば 、 宰 相 胡 惟 庸 が 謀 反 を 計 画 し た際 、 寧 波 衛 指揮 林賢 を 日本 に送 り込 み、 日本 の君 臣 と 接 触 さ せ て援 軍 を 求 めよ う と し た。 こ の 陰 謀が 胡 惟 庸 の 死 後 、 洪 武 十 九 年 に発 覚 し た た め 、 朱 元璋 は林賢 お よ び そ の 一 族 を処 刑 し、 日本 と の国 交 を断 っ た と いう。   林 賢事 件 が国 交 断絶 の 直 接 的 原 因 だと の見 方 は、 日本 史 の分 野 で は

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ほぼ 定 説 化 し て いる よ う だ。 日本 と の通 謀 を 歴史 的 事 実 と み なし て、                                   口明 関 係 を 論 ず る研 究 者 も 少 な く な い 。 一 方 、 中 国 の研 究 者 は当 事 件 に対 し て否 定 的 で、 胡 惟 庸 の謀 反 を強 調す る た め の捏 造 にす ぎ な いと 見 る。 最 近 で は山 東 大 学 の 陳 尚 勝 氏が こ の問 題 を取 り上 げ 、 林 賢 事 件                             の虚 構 性 を 多 角 的 に論 じ て い る。 日中 両 学 界 に認 め られ る こう し た解 釈 の相 違 は 、 今 後 臼 明関 係 の 研 究 を進 め る上 で大 き な 障 碍 と な り か ね な い。 こ こは や は り 両者 の 立 場 を勘 案 し つ つ 、 あ ら た め て 事 件 の 真 相 を 検 討 し て お く 必要 が あ る。   そ の場 合、 林賢 事 件 を直 接 あ つかう 史 料 から、 新 事 実 を見 出す こと は お そ ら く 不 可能 であ ろう 。 す で に当事 件 に 関 す る史 料 は出 尽 く し て お り、 そ こ に新 た な解 釈 を加 え る余 地 はほ と ん ど な い 。 そ れ ゆ え当 事 件 か ら 一 旦離 れ 、 周 縁 の問 題 を 論 じ る こと で、 事 件 の 本 質 に迫 る手 法 をと り た いと 思 う 。 回 り く ど いや り方 だが 、 疑 案 を解 明 す る に はや む を得 な い。 本 稿 で は従 来 あ ま り顧 み られ な か っ た 一つ の 史 料 を も と に、 明 初 外 交 の公 式 見解 に 見 ら れ る虚 構 性 を まず 明 ら か にす る 。 そ れ を ふ まえ た上 で 、 最 後 に 林賢 事 件 の 真 相 と そ れ の持 つ 政 治 的 意 味 を 考 察 し て みた い 。 一 ﹃ 吏 文 ﹄ 収 載 の榜 文 に見 る 明 初 の外 交   明 初 の 対 外 政策 に は 不明 な点 が 多 く 、 そ れ は史 料 的 制 約 に よ る と こ ろが 大 き い 。 ほ と んど 官 選 史 料 の ﹃ 明 実 録 ﹄ や ﹃ 大 明 会 典﹄ に負 う現 状 で は 、 数 少 な い 記 述 をも と に、 推 測 を 重 ね て論 理 を構 築 し て い く し か な い 。 特 に洪 武 ・ 永 楽 期 の ﹃ 明 実 録 ﹄ に は改竄 や 削 除 も多 く、 根 本 的 な事 実 す ら 不明 な こと が あ る。 国 家 の公式 記録 の 常 と は い え、 明 初 研 究 で の 一つのネ ックと な ってい る こと は 間違 いな い。   と こ ろが 幸 いな こと に 、 中 国 に も 残 っ て いな い 明 初 の 対 外 政 策 に関 す る史 料 が 、 断 片 的 で はあ るが隣 国 の 朝 鮮 王朝 で保 存 され て い た ので あ る。 朝 鮮 王 朝 の編纂 し た中 国 明代 の 公 文 書 集 、  ﹃ 吏 文 ﹄ 収 載 の史 料 が そ れ であ る。 も と も と ﹃ 吏 文 ﹄ 自 体 、 戦 前 に前 間 恭 作 氏 が 訓 読 を 施 し 、 のち に朝 鮮 史家 の末松 保 和 属 が 昭 和 十 七年 ( 一 九 四 二) に更 訂 ・                                                             出 版 し て いる ので、 日本 の 明 清 史 家 に は馴 染 み の 無 いも の で はな い 。 た だ し 不思 議 な こ と に ﹃ 吏 文 ﹄ を使 っ て の研 究 は、 従 来 ほと んど な さ             ⑥ れ て こな か っ た。 本 稿 は ﹃ 吏 文 ﹄ の史 料 的 価 値 を 紹 介 す る と と も に、 同書 に収 載 され た 一 史 料 に着 昌 し、 そ こ から 論 を 敷 衍 さ せ る こと を 目 的 と す る。   吏 文 は純 漢 文 と 異 な り、   ﹁ 時 文 ﹂ を 用 いた 公 文 書 の 一 形式 であ る。 朝 鮮 王朝 で は、 代 々礼 曹 の承 文 院 で中 国 と の往復 文書 の記録 ﹁ 吏 文 謄 録 ﹂ を作 成 し 、 外 交 の用 に供 す る こと を 常 と し た。 のち に吏 文 の習 熟 を 目 的 に、 吏 文 謄 録 を 抄 録 し て新 た に ﹃ 吏 文 ﹄ 四巻 を公 刊 し、 承 文 院 の学 官 や 一 般 の官 僚 に学 習 さ せ た。   ﹃ 吏 文 ﹄ の刊行 年 次 は 不明 なも の の、 そ の注 釈 書 であ る ﹃ 吏 文 輯 覧 ﹄ の 編 纂 が嘉 靖 十 八年 ( 一 五 三九 ) の こと だ から 、 少 な く と も そ れ 以前 に ﹃ 吏 文 ﹄ は刊 刻 され て い た こと       にな る。 先 の末松 氏 の更訂 本 は、   ﹃ 吏 文﹄ 三巻 ( 巻 一 を欠 く ) に ﹃ 吏 文 輯 覧 ﹄   ﹃ 吏 文 続 集 輯 覧 ﹄ を 合 冊 し た も ので、 特 に後 二 者 は当 時 の用 語 を 解 釈 す る 際 に有 用 で あ る。   そ の ﹃ 吏 文 ﹄ 巻 四 に、   ﹁ 禁 約 販売 番貨 事 ﹂ と標 題 を つ け た洪 武 三十     五 年 ( 建 文 四年 " 一 四〇 一 一) 十 一 月 公布 の 榜 文 が 掲 載 され て い る。 明 朝 第 三代 皇 帝 永 楽 帝 が 即 位 し て問 も な い時期 に 出 し たも の で、 明 の対

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明初 の対 日外交 と林賢 事件 外方 針 に 関 す る 一 榜 が た ま た ま ﹃ 吏 文 ﹄ の中 に収 め られ た わけ だ 。   実 は ﹁ 禁 約 販 売 番 冖貨 事 ﹂ の榜 文 は ﹃ 南京 刑 部志 ﹄ ( 嘉 靖 三十 五年 刊) にも 収載 さ れ て お り、 す で に こ の史 料 の存 在自 体 は早 く か ら知 られ て   ⑨ いた。   ﹃ 南 京 刑 部志 ﹄ 所 収 の榜 文 六十 九 榜 中、 五 十榜 は洪 武 三十 五年 十 一 月 二十 一 臼 に永 楽 帝 の聖 旨 で申 明 さ れ た も ので、 洪 武 年 間 に公 布 さ れ た 四 十 五榜 と 永 楽 帝 に よ って 新 た に発 令 され た 五榜 と から な る。 ﹁ 禁 約 販 売 番 貨 事 ﹂ はそ の五榜 中 の 一 榜 に当 た る。   ﹃ 吏 文 ﹄ 収 載 の榜 文 が ﹃ 南 京 刑 部志 ﹄ に比 べ て貴 重 な 点 は、 後 者 に は か な り の節 略 が あ る の に 対 し、 ほ と んど 原 文 のま ま残 っ て い る こと ⑭ だ。 そ の た め ﹃ 吏 文 ﹄ の 榜 文 の 検 討 を通 じ、   ﹃ 南 京 刑 部 志 ﹄ で は知 り 得 な い こと も 、 明 ら か にな る も の と 考 え る。 い まそ の全 文 を 掲 げ れ ば 以 下 の通 り であ る。     礼 部 為 禁 約 事 。 照 得 洪 武 三 十 五年 十 一 月 初 一 日早 、 本 部 左 侍 郎 宋     礼 同 刑 科 都 給 事 中 周 環 等官 、 於奉 天門 、 欽 奉 聖 旨 、   ㈹ ﹁ 近 有 軍 民 人 等、 私 自 下 海、 販 売 番 貨、 誘 引 蛮 夷 為 盗 、 走 透 事     情 。 恁 礼 部 将 洪 武年 間諸 番 入貢 禁 約 事 理 申 明 、 教 各 処 知 道 、 犯 了     的 照 前 例 罪 他。 欽 此。 ﹂     欽 遵 査 得、 比 先曾 有 聖 旨、 ⑧ ﹁① 曩 自 洪 武 九年 間、 計 諸 番 入貢 者 、 国 雖 大 小 不同 、 遣 使 来 庭 之 国 、 一 十 三 王 。 是 王 等 、 因 航 海 之 便 、 歳 買 如 常 。 ② 後 丞 相 ・ 大 夫 ・ 胡 臣相 乱、 其 諸 番 従謀 生 詐 、 問 験 是 実 。 ③ 更 遣 使 各 詣 番 国 、 究 其 所 以 然、 事 果 多 詐 而 不実 、 遂 断 番 商 、 不許 往 来 。 只 許 暹 羅 ・ 真 臘 ・ 琉 球 ・ 占 城 ・ 安 南 ・ 高 麗 入 貢 如 常 。 ④ 近 年 以 来 、 占 城 閣 勝 者 弑 其 君 嗣自 為 、 亦 断 其 往 来 。 迩 来 有 言 事 者 。 ﹃ 沿 海 軍 民、 私自 下 番、 誘 引 蛮 夷 為 盗 、 有 傷 良 民 。 ﹄ 爾 礼 部 出榜 去教 多 人知 道 、 不 問官 員 軍 民之 家 、 但 係 番 貨 ・番 香等 物 、 不許 存 留 販売 。 其 見有 者 、 限 三箇 月 内 銷 尽、 三箇 月 外 、 敢 有 仍前 存 留 販売 者 、 処 以重 罪。 欽 此 。 L 除 覆 奏 外 、 今 将 聖 旨 事 意 、 備 榜 条 陳 、 前 去 張 掛、 仰 各 依 遵 守、 須 至榜 者 。   ( 段 落 及 び 文 中 の数 字 ・ 傍 線 は引 用 者 に ょ る ) 礼 部、 禁 約 せ んが 為 にす 。 照 ら し 得 た る に、 洪 武 三 十 五年 十 一 月       あ さ 初 一 日早 、 本 部 左 侍 郎 宋 礼 が 刑 科 都 給 事 中 周 環 等 と と も に、 奉 天 門 で次 のよう な聖 旨 を た ま わ り まし た 。  ﹁ 最 近 、 軍 民 人 等 の 中 に 密 か に海 に下 っ て番 貨 を販 売 し 、 蛮 夷 を 誘 っ て盗 賊 と な っ た り、 国 内 の 事 情 を漏 洩 す る者 が い る。 な んじ 礼 部 は洪 武年 間 の諸 番 入 貢 禁 約 事 理 を申 明 し て各 処 に知 らし め、 犯 す 者 は前 例 に照 ら し て 処 罰 せ よ﹂ と 。 礼 部 が 欽 ん で調 査 しま し たと こ ろ、 近 頃 次 のよ う な 聖 旨が 下 され て お り ます 。  ﹁ 先 ご ろ、 洪 武 九 年 以 来 の諸 番 の入 貢 す る も のを計 算 し たと こ ろ、 国 は大 小 の違 いが あ るも の の 、 使 者 を使 わ し朝 貢 し てく る のは十 三 の王 であ っ た。 これ ら 諸 番 国 の 王 た ち は航 海 の 便 を利 し て、 毎 年 のよう に朝 貢 し てき た 。 後 に丞 相 ・ 大 夫 ・ 胡 臣 が 相 次 いで反 乱 を起 こ し、 諸 番 国 は彼 ら の謀議 に 従 い不 正 を働 いた ので、 問 い質 し たと こ ろす べ て事 実 であ っ た 。 そ こ で各 国 に使 者 を遣 わ し原 因 を究 明 さ せ て み ると 、 番 国 の行 う 事 柄 に は果 た し て詐 りが 多 く 不実 であ っ た の で、 遂 に番 商 を 断 っ                       シ ヤ ム   カ ン ゑ ジ ア           チ ヤ ン パ て往 来 を 禁 止 し た。 た だ 暹 羅 ・ 真 臘 ・ 琉 球 ・ 占 城 ・ 安 南 ・ 高 麗 の み、 以 前 通 り の入 貢 を許 可 し た。 最 近 で は、 占 城 の閣 勝 な る者 が 新 国 王 を殺 し て 即位 し た た め、  ま た そ の往 来 を 断 った。 爾 来 、

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    次 のよ う な事 を言 う者 が い る。   ﹃ 沿海 の軍 民 で こ っ そ りと 番 国 に     出 向 き、 蛮 夷 を誘 い込 ん で盗 賊 と な り 、 良 民 に危 害 を加 え る者 が     いる﹄ と。 な ん じ礼 部 は榜 文 を掲 げ て多 く の者 に 以 下 の こ と を知     ら し め よ。 官 員 ・ 軍 民 の家 を 問 わ ず、 番 貨 ・ 番 香 等 の 物 を所 有 ・     販 売 す る こと は許 さ ぬ。 現 在 所 有 し て い る者 は 、 三 ヵ 月 以 内 に処     分 し 尽 く し、 三 ヵ月 た っ ても 依 然 と し て所有 ・ 販 売 し よ う とす る     者 は重 罪 に 処 すL と。 以 上 の こと に つい て覆 奏 いた し ま す と同 時     に、 いま 聖 旨 を榜 文 に箇 条 書 き に し て掲 げ、 お の お のそ れ に基 づ     い て遵 守 さ せる よ う に いた し ます 。 す べ から く 榜 に至 るぺ き も の     と す 。   見 て の通 り、   ﹃ 吏 文 ﹄ の 榜 文 に は 二 つの聖 旨 が 収 載 さ れ て い る ( 文 申 ﹁   ﹂ の部 分) 。 仮 に こ の 二 つの聖 旨 を そ れ ぞ れ ㈹ ・ ⑧ と す るな ら ば 、 建 文 四 年 十 一 月 一 日 ( ﹃ 南 京 刑 部 志 ﹄ で は 二 日) に、   ﹁ 洪 武 年 間 諸 番 入 貢 禁 約 事 理 ﹂ の確 認 を命 じ る聖 旨 ㈲ が 下 され 、 礼 部 の官 が 前 例 を調 査 し た と こ ろ、   ﹁ 番 貨 ・ 番 香 ﹂ の 所 有 ・ 販 売 を禁 止 す る聖 旨⑧ が 、 これ 以 前 に発 令 さ れ て いる ことが 分 か っ た。 そ こ で㈹ ・ ⑧ 両 者 を 合 わ せ て榜 文 と し て公 布 す る と いう の が 、 上 に掲 げ た文 章 の主 意 であ る。 榜 文 公 布 の日 時 は明 記 さ れ て いな いも の の 、  ﹃ 南 京 刑 部 志 ﹄ に十 一 月 二 十 一 日と あ る こと は先 に 見 た と お り で あ る。   で は、 こ こで いう ﹁ 番 貨 ・ 番 香 ﹂ の所・ 有 ・ 販売 を禁 じ る ⑧ の 聖 旨 は、 い つ 発 せら れ た の か。 結 論 か ら いえば 洪 武 二十 七年 の こ と であ っ た。  ﹃ 明 太 祖 実 録 ﹄ 洪 武 二十 七年 正 月 甲 寅 の条 に は 次 のよ う にあ る。 禁 民 間 用 番 香 ・ 番 貨 。⑤ 先 是 上 以海 外 諸 夷 多 詐、 絶 其 往来 。 唯 琉 球 ・ 真 臘 ・ 暹 羅 許 入 貢、 而 縁 海 之 人、 往 往 私 下諸 番 、 貿 易 香 貨 、    因 誘 蛮 夷 為 盗 。 命 礼 部 厳 禁 絶 之、 敢 有 私下 諸 番 互 市 者 、 必 寅 之 重    法 。 凡 番 香 ・ 番 貨 、 皆 不 許 販 鬻。 其 見有 者 、 限 以 三月 銷 尽 、 民 間    薦 祀 止 用 松 ・ 栢 ・ 楓 ・ 桃 諸 香 。違 者 罪 之。 其 両広 所 産 香 木 、 聴 土    人 自 用 、 亦 不許 越 嶺 貨 売 。 蓋 慮 其 雑 市 番 香、 故 併 及之 。    民 間 で番 香 ・ 番 貨 を使 用 す る こと を 禁 止 す る。 これ よ り以 前 、 上     は海 外 諸 国 が たび たび 不 正 を 働 いた と いう こと で、 中 国 と の 往 来                         カ ソ ポ ジ ァ    シ ヤ ム     を禁 止 し た。 た だ琉 球 ・ 真 臘 ・ 暹 羅 だ け は入 貢 を 許 し た。 と こ     ろが 縁 海 部 の民 衆 は往 往 にし て密 か に諸 番国 に 出向 き 、 香 料 や貨    物 を貿 易 し た り、 蛮 夷 を誘 っ て盗 賊 と な っ た。 そ こで礼 部 に命 じ     て厳 禁 し、 これ を根 絶 し よう と し た 。 あ え て 密 か に諸 番 国 に行 っ     て貿 易す る者 が あ れ ば 、 必 ず 重 罪 に処 す る こと に し た。 お よ そ番     香 ・ 番 貨 は、 す べ て販 売 を許 さ な い。 現 在 所有 し て いる者 は 三 カ    月 以 内 に 処分 し尽 く し、 民 間 で の祭 祀 に は 、 た だ松 ・ 栢 ・ 楓 ・ 桃     の 諸 香 の み使 用 せ よ。 違 反 す る者 は処 罰 す る 。 広 東 ・ 広 西 で産 出    す る香 木 は、 土 地 の人 が 自 分 用 に使 用 す る こと のみ許 可 し、 南 嶺    以 北 の地 で販 売 す る こと は許 さ な い。 思 う に 、 そ れ ら と 一 緒 に番    香 も販 売 す る の で は な い かと 危 惧 し、 そ れ も禁 令 の 対 象 にし た の     であ る。  ⑧ の記載 と 若 干 の 異 同 はあ るが 、 番 貨 ・ 番 香 の使 用 禁 止 は こ の時 初 め て発 令 さ れ て お り、 聖 旨 ⑧ が 洪 武 二 十 七年 の こ の箇 条 に相 当 す る こ と は間違 いな い 。 両者 を比 較 す ると 、 禁 令 に関 し て は ﹃ 明 実 録 ﹄ が 詳 し いが 、 そ れ 以 外 の部分 で は 明 ら か に⑧ の 方 が 具体 的 内 容 を伝 え る。 こ のう ち 明 と 海 外諸 国 と の 交 流 状 況 を 示 す 部 分 を、 ㈲ は傍 線① ② ③ ④ 、  ﹃ 明 実 録 ﹄ は⑤ と す るな ら、 ⑤ は ① ∼④ を要 約 し た も のだと 分 か

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明初 の対 日外交 と林賢事件 るだ ろう ( ち な み に ﹃ 南 京 刑 部志 ﹄ に は こ の部 分 の記 載 が な い ) 。 ⑤ に よれ ば 、 洪 武 二十 七年 以前 の こと と し て、 ﹁ 海 外 諸 夷 ﹂ が ﹁ 多                                       カ ン ポ ジ ア  シ ヤ ム 詐﹂ であ っ た た め、 そ の往 来 を 断 っ て 琉 球 ・ 真 臘 ・ 暹 羅諸 国 だ け の入 貢 を 許 し た と いう。 こ こ で指 摘 さ れ た ﹁ 多 詐 ﹂ の 内 容 が ⑧ で は明 確 に 示 さ れ てお り、 一つは② ③ にあ る よう に、 周 辺 諸 国 と 明 の 官 僚 と の 結 託 、 お よび そ れ に 基 づ く様 々な 不 正 を意 味 す るも のと 思 わ れ る。 いま 一つは④ にあ る よう に 、 周 辺諸 国 の王位 継 承 に見 ら れ る非 合 法 性 を 指 す 。 ④ の 占 城 の行 為 が ﹁ 詐﹂ と 認識 さ れ て い た こと は、 ⑤ の文 脈 で占 城 が除 外 さ れ て い る こと から も 理解 で き る だ ろう 。 ④ の事 件 も ③ と 同 様、   ﹁ 海 外 諸 夷 ﹂ の ﹁ 詐 ﹂ の 一つ と みな さ れ て いる か らだ ( 高 麗 ・ 安 南 が除 外 さ れ て い る の は、 両 国 は海 外諸 国 で は なく 隣 接 国 だ と の認 識 が あ る た め だと 解 され る) 。   そ れ で は、 ① か ら④ 、 つま り⑤ の事 態 は い つ 起 こ っ た のか。 ④ の 閣                                       ⑪ 勝 の簒 奪 に ついて は ﹃ 明実 録 ﹄ に記 載 が あ り 、 洪 武 二十 四年 前 後 の こ と だ と 知 ら れ る ので 一 応除 外 す る。 こ こ で問 題 にし た い の は ② と③ で あ る。   まず ② にあ る ﹁ 丞 相 ・ 大 夫 ・ 胡 臣相 乱 ﹂ の文 意 だ が、 末 松 保 和 編 ﹃ 訓 読 吏 文 ﹄ 附 載 の ﹃ 吏 文 輯 覧 ﹄巻 四 は、   ﹁ 謂胡 臣之 為 承 ︹ 丞︺ 相 及                                                           ⑫ 大 夫 者 也 ( 胡 臣 の丞相 お よび 大 夫 と 為 る 者 を 謂 う な り) ﹂ と 説 明 す る。 ﹁ 胡 臣 し の丞相 あ る いは御 史 大 夫 が ﹁ 相 乱﹂ し た と いう のだが 、  ﹁ 胡 臣 ﹂ そ のも の に関 し ては何 も 述 べ て い な い。 これ に ついて は 同書 巻 二 に、   ﹁ 胡 太子 し を説 明 し て ﹁ 北 元 太 子 也 ( 北 元 の 太 子 な り) ﹂ とあ り 、 胡 が 元 を指 し て い る こと から す れば 、  ﹁ 胡 臣 ﹂ と は か つて元 朝 の臣 下 で あ っ た者 の総 称 の よう に 思 わ れ る。 た だ し、 そ う し た経 歴 を 持 つ 明 の丞 相 ・ 大 夫 は存 在 し な い ので、 こ の 解 釈 自 体 成 り立 ち得 な い。   おそ ら く そ う し た 不自 然 さ を認 め た結 果 で あ ろ う 。 十 六世 紀 末 に ﹃ 吏 文 輯 覧 ﹄ を 修 訂 し て刊 刻 さ れ た ﹃ 増 定 吏文 輯 覧﹄ に は、 先 の 文 章 に続 け て ﹁ 一 云 胡 臣 指 丞 相 胡 惟 庸 (一 に 云 わ く、 胡 臣 と は 丞相 胡惟 庸                                     ⑬ を指 す 、 と ) ﹂ と いう注 釈 が 加 え られ て い る。   つま り、 胡 臣 と は 丞相 胡 惟 庸 そ の 人 だと いう わけ だ が 、 こ こ で は こ の解 釈 でな け れ ば な ら な い 。 そ れ を裏 づ け る の が ﹃ 南 京 刑 部 志 ﹄ 所 収 の次 の榜 文 であ る 。     一 榜 、 洪 武 二十 六年 二 月 十 三 日、 為 藍 玉謀 逆 事 。 奉 聖 旨 、 君 奉 天     命 則 興、 臣 奉 君命 則 昌 。 今 違 君逆 命 之 臣 、 相 継 畳 出 。 楊 憲 首 作 威     福 、 胡 臣 継 踵陰 謀 、 公 侯都 督 亦 有 従 者 。 頼 天 地 宗 廟 社 稷 之 霊 、 悉     皆 敗 露、 人 各伏 誅。 今 有 反 賊 藍 玉、 又復 逆 謀 、 幾 携 大 禍 、 已 於 洪     武 二十 六年 正 月 初 十 日 倶 各伏 誅 。 若 不昭 示中 外 、 将 謂 朕 不能 保 全     功 臣 者 。 爾 刑 部 将 各 人情 詞、 図形 榜 示。     一 榜 、 洪 武 二十 六年 二月 十 三 日 、 藍 玉 の謀 逆 の 事 の 為 にす 。 聖 旨     を奉 じ た ると こ ろ、 次 の よう にあ り ま し た。   ﹁ 君 主 は天命 を奉 じ     れば 興 り、 臣 下 は 君命 を奉 じれ ば 昌 え るも のだ 。 と こ ろが今 や 君     主 に背 き、 天命 に逆 ら う臣 下 が 、 次 々と 続 け 様 に出 現 し て い る 。     ま ず ︹ 中 書 左 丞 の︺ 楊憲 が そ の 権 威 で人 々 を 圧迫 し、 胡 臣 が そ の     後 を 継 いで 陰 謀 を た く ら み、 公 侯都 督 の 中 にも 従 う者 が い た。 天     地 宗 廟 社 稷 の霊 のお か げ で、 そ の罪 は こと ご と く露 見 し、 彼 ら は     み な誅 に伏 し た。 今 ま た 反 賊 藍 玉 が 逆 謀 を 図 り、 あ わ や大 禍が 生     じ る と ころ であ っ たが 、 已 に洪 武 二十 六年 正 月 初 十 日 に 倶 に 誅 に     伏 し た。 も し こ の こ と を天 下 に示 さ なけ れ ば 、 朕 は功 臣 を 保 全 す     る こと が でき ぬと 言 う 者 もあ る だ ろ う。 な ん じ刑 部 は各 人 の供 述

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    を も っ て、 図表 に し て榜 示 せ よ﹂ と 。 こ の 文 章 か ら判 断 し て、   ﹁ 胡 臣 ﹂ が 胡 惟 庸 を 指 す こ と は 明 ら か で、 ﹁ 胡 臣 ﹂ と いう 呼 称 が 当 時 一 般 に通 行 し て いた こと を物 語 る。   要 す る に、 洪 武 九 年 以 後 に② の事 態 が 出 来 し た わ け だ が、 そ れ は ﹁ 丞相 ・ 御 史 大 夫 ・ 胡 惟 庸 が 相 乱 し た ﹂ と いう こと で、 これが 洪 武 十 三年 ( 一 三 八〇 ) の胡 惟 庸 の謀 反 事 件 、  ﹁ 胡 惟 庸 の獄﹂ に相 当 す る こ                 ⑭ と は いう ま でも な い。 な ぜ な ら、 す で に 胡 惟 庸 は 洪 武 六年 以 来 丞相 に 任 じ られ て お り、   ﹁ 丞 相 ・ 大 夫 ・ 胡 臣 ﹂ の ﹁ 丞 相﹂ も、 胡 惟 庸 以 外 に あ り得 な い か らだ 。 胡 惟 庸 が 重 複 し て記 さ れ て いる のは、 単 な る修 辞 上 の 言 い 回 し にす ぎ ず 、  ﹁ 丞 相 ・ 大 夫 ・ 胡 臣﹂ と は、 つま ると こ ろ 丞                                                       ⑮ 相 胡 惟 庸 お よび 彼 と 結 託 し た 御 史 大 夫 陳寧 の 二人 に他 な ら な い。 そ れ ゆ え ﹁ 諸 番 が 謀 に従 い詐 を 生 じ た ﹂ と あ る ﹁ 詐﹂ の 内 容 は、 諸 番 が 彼 ら の 謀 反 に加 担 し た こと を 意 味 し よ う。 こう し た陰 謀 は胡 惟 庸 等 の取 り調 べ ( 問 験 ) に よ っ て、事 実 と 認 定 さ れ た と いう。   こ の事 態 を受 け て、 朱 元 璋 は新 た な 行 動 に 出 る。 そ れ が ③ であ り、 まず 諸 番 国 に使 者 を派 遣 し 、 謀 反 に 加 担 し た 理由 を究 明 さ せ た と こ ろ、 彼 ら の行 い に は ﹁ 詐 ﹂ が 多 く ﹁ 不 実﹂ で あ る こと が 明 ら か に な っ た。 そ こ で ﹁ 番 商 ﹂ の往 来 を 断 ち、 今 後 入貢 を許 す 国 は暹 羅 等 六 力国 に制 限 す る こと にし た 。② と 合 わ せ て こ の 文 脈 を解 釈 す れ ば 、 周 辺 諸 国 に対 し て入 国 制 限 を 行 っ た背 景 に は、 胡惟 庸 の 謀 反 事 件 が 関 係 し て い たと いう こと にな る。事 実 、 後 に み る よ う に明 の公 式 見 解 は、 そ う し た立 場 に立 っ て いる 。   し か し③ の文 意 を も う 少 し 厳密 に検 討 す ると 、 そ の見 解 に は いさ さ か無 理 のあ る こと に気 づ く。 つま り③ で は、 胡 惟 庸 の謀 反 に加 担 し た 諸 番国 を調 査 し たと こ ろ、 そ の行 為 に ﹁ 詐 ﹂ のあ る こと が 明 ら か に な り、   ﹁ 番 商 し の 往 来 を断 っ たと す る。 要 す る に 、 こ こで問 題 と し て い る のは ﹁ 番 商 ﹂ の不 正 ( 詐 ) であ って、 諸 番 国 の 謀 反 への 加 担 で は な い。   ﹁ 番 商 ﹂ が 国 家 ぐ る み で胡 惟 庸 と 結 託 し、 謀 反 を計 画 し たと も 考 え られ よう が 、 そ んな 事 態 はと う て いあ り得 な い。 なぜ な ら ﹁ 番 商 ﹂ の往 来 を 断 っ た の は、 実 は胡 惟 庸 の獄 と は無 関 係 な別 の理 由 に基 づ い て い る から だ 。   洪 武 十 六年 四 月、 明 朝 は 周 辺諸 国 に対 し て、 極 め て統 制 的 な 措 置 を 施 し た 。  ﹃ 鴻猷 録 ﹄ 巻 六 ﹁ 四夷 来 王﹂ に、     ︹ 洪 武 ︺ 十 六年 癸 亥、 上 以海 外 諸 国 進 貢 、 信 使 往 来 不実 、 乃 命 礼     部 置 勘 合 ・ 文簿 、 給 発 諸 国、 俾 有 憑 信 稽 考 、 以 杜 奸 詐 。     ︹ 洪 武︺ 十 六年 癸 亥、 上 は海 外 諸 国 の 進 貢 に際 し、 使 節 の往 来 に     偽 り が あ っ た た め、 礼 部 に命 じ て勘 合 と 文 簿 を用 意 し 、 諸 国 に発    給 し て検 査 の 拠 り所 と さ せ、 不正 行 為 を 防 こ う と し た。 と あ る 勘 合 制 度 が そ れ で あ る。   す で に これ 以前 、 民 間 商 人 の 海 外 渡 航 を禁 止 し、 海 禁 を強 化 し た明 朝 は、 海 外 貿 易 は 周 辺諸 国 の 朝 貢 に伴 う朝 貢 貿 易 だ け に限 定 し た。 し かし そ の後 も 民 間 で は海 外諸 国 と の 密 貿 易が 継 続 し、 沿 岸 部 で は倭 寇 と ぐ る に な っ た 海 賊 行 為 も後 を 絶 た な か っ た。 周辺 諸 国 も 様 々な 手 段 を 弄 し て中 国 の 物 資 を 確保 し よ う と、 多 く の商 人 つま り番 商 を 朝 貢使 の中 に 紛 れ 込 ま し た り、 あ る いは 番商 自 身 が 偽 装 朝 貢 使 と な っ て来 貢 し た。 そ のた め 明朝 は 胡 惟 庸 の獄 の翌洪 武 十 四年 ( 二 二 八 一 ) に海 禁 を 徹底 し、 さ ら に 洪 武 十 六年 に は 正規 の 朝 貢 使 か否 か を峻 別 す る た め                           ゆ に勘 合 制 度 を 実 施 し た ので あ る。

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明初の対 日外交 と林賢事件   先 の ③ の内 容 は 勘 合 施 行 当 時 の 状 況 を指 し て お り、 そ の こと 自 体 、 胡 惟 庸 の謀 反 と は何 の関 わり 合 いも な い 。 ③ で いう ﹁ 詐 ﹂ の 内 実 も 、 番 商 が 朝 貢 に多 数 参 加 し た り、 偽 装 朝 貢 使 と な っ て来 朝 す る こと に他 な らず 、 これ は他 の史 料 から も 傍 証 でき る。   ﹃ 皇 明 祖 訓 ﹄ 祖 訓 首 章 に は、 次 のよ う に書 かれ て い る。     占 城 国 。 自 占 城 以 下 諸 国 来 朝 貢 時 、 内 帯 行 商、 多 行 講 詐 、 故 沮     之 。 自 洪 武 八 年 沮 至 洪 武 十 二 年 、 方 乃 得 止 。     占 城 国 。 占 城 以 下 の東南 アジ ア諸 国 が 朝 貢 し て来 た時 、 使 節 の中                     い つ わ り     に商 人 を帯 同 し、 譎 詐 を行 う こと が 多 か っ た。 ゆ え に彼 ら の入 貢     を禁 止 し た。 洪 武 八年 に禁 止 し 、 洪 武 十 二 年 に 至 り て や っ と禁 止     を解 い た。   勘 合 実 施 以 前 から 、 す でに 周 辺 諸 国 の 番 商 に ょ る ﹁ 詐 ﹂ 的 行 為 に、 明 朝 は苦 慮 し て い た こと が 窺 え る。   要 す る に、 ② は洪 武 十 三年 の胡 惟 庸 の 謀 反事 件 、 ③ は洪 武 十 六年 の 勘 合 制 度 の実 施 を 意 味 し 、 も と も と 両者 は ま っ たく 別 個 の事 件 であ っ た。 そ の 相 異 な る 二 つの事 件 が 、 諸 番 国 の謀 反 への加 担 と い う 一 事 で、 結 び つけ ら れ て いる こ と が 分 か る。 番 商 や諸 番 国 の様 々 な 不 正 は、 諸 番 国 の謀 反 計 画 を 調 査 す る 過 程 で明 ら か に な っ たと し、 ② と ③ の 二 つの事 実 が 一つ な が り のも のと し て説 明 され て い る の であ る。   こ こ で注 目 す べ き は、 明 朝が 洪 武 十 六年 に朝 貢 国 の選 別 を 行 っ た 裏 に は、 一 部 の国 が 胡 惟 庸 と 通 謀 し、   ﹁ 詐 ﹂ を働 い た こと が 大 き いと の 認 識 を 示 し て いる こと だ。 そ れ は単 な る認 識 と いう よ り は、 聖 旨 の中 で述 べら れ て いる 以 上、 洪 武 二 十 七年 当 時 に は公 式 の見 解 にな っ て い たと 見 な け れ ば な ら な い。 そ の背 景 に は、 す でに 既 成事 実 化 し た 胡 惟 庸 の謀 反事 件 が あ り、 そ れ を他 国 に拡 大 解 釈 す る こと で、 諸 番 国 の入 国 制 限 を よ り 正当 化 し たと も 考 え られ よう 。 胡 惟 庸 と の通 謀 疑 惑 はも は や 日 明 間 に とど ま らず 、 東 ア ジ ア規 模 に広 が り を 見 せ て いた と いえ る。   も ち ろ ん、 洪 武 二十 七 年 の聖 旨 i榜 文⑧ 1 の意 図 は 、 番 貨 ・ 番 香 の 販売 ・ 所 有 を禁 止 す る こと にあ り、 胡 惟 庸 と 周 辺 諸 国 と の通謀 を 問題 に し て い る わけ で は な い。 禁 令 公 布 に至 るま で の状 況説 明 の 中 で、 通 謀 と いう 一つの虚 構 が 作 り 上 げ ら れ た にす ぎ な い 。 そ の 意 味 で は極 め てさ りげ なく 、 し かし ま た作 為 的 に、 明 にと っ て都 合 の よ い スト ーリ ーが 捏 造 さ れ たと い ってよ い 。   国 内 問 題 であ っ た 胡 惟 庸事 件 が 、 明朝 の 対 外 政 策 の 中 で特 別 の意 味 を付 与 さ れ て い るわ け で 、 実 は こう し た事 例 は こ れ だ け にと ど まら な い。 同 様 の 事 件 は他 に も あ っ た。 胡 惟 庸 と 三仏 斉 ( シ ュ リ ー ヴ ィジ ャ ヤ王 朝 ) と の通謀 問題 であ る。 こ の 事 件 も ま た、 胡 惟 庸 の死 後 十 数 年 を 経 て問題 化 し て お り、 当 然 のこと なが ら、 そ こ に作 為 の意 図 を 認 め な いわ け に は いか な い 。 は た し て本 当 に通 謀 はあ っ た の か。 そ れ と も 榜 文⑧ と 同 様、 捏 造 であ っ た のか。 林 賢 事 件 の考 察 の前 に、 ま ず は胡 惟 庸 と 三 仏斉 と の 通 謀 疑 惑 を検 討 し て おき た い。

惟庸

﹃ 明太 祖 実 録 ﹄ 洪 武 三十 年 八月 丙午 の条 に は次 の よう にあ る。 ◎ 礼 部 奏 、 諸 番 国 使 臣 ・ 客 旅 不通 。 上 日、 洪 武 初 、 海 外 諸 番 与 中 国   往 来 、 使 臣 不 絶、 商 賈 便 之 。 近 者 安 南 ・ 占 城 ・ 真 臘 ・ 暹 羅 ・ 爪   哇 ・ 大 琉 球 ・ 三仏 斉 ・ 渤 尼 ・ 彭 亨 ・ 百 花 ・ 蘇 門 答 刺 ・ 西 洋 ・ 邦 哈

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   刺 等 凡 三十 国、 以 胡 惟庸 謀 乱 、 三仏 斉 乃 生 間 諜 、 紿 我 使 臣 至 彼、     爪 哇 国 王聞 知 其事 、 戒 飭 三仏 斉、 礼 送 還 朝。 是 後 使 臣 ・ 商 旅 阻     絶 、 諸 国 王 之 意、 遂 亦 不 通。 惟 安 南 ・ 占 城 ・ 真 臘 ・ 暹 羅 ・ 大 琉 球     自 入 貢 以 来 、 至 今 来庭 。 ⋮ ⋮。     諸 番 国 の 使 臣 ・ 客旅 が 通 行 し て こ な い旨 を、 礼 部 が 上 奏 し た 。 上     が 言 われ る に は、   ﹁ 洪 武 の初 め 、 海 外 の 諸 番 国 は中 国 と 往 来 し 、     使 臣 も 絶 え な か っ た ので、 商 人 も これ を便 利 と し て い た。 近 ご ろ               カ ン ボ ジ ア    シ ヤ ム     ジ ヤ ワ                                 ブ ル ネ イ     パ   ハ ン           チ ヤ ソ バ     安 南 ・ 占 城 ・ 真 臘 ・ 暹 羅 ・ 爪哇 ・ 大 琉 球 二 ご 仏 斉 ・ 渤 尼 ・ 彭 亨 ・               ト   ヲ       チ ョ セ ラ           ス  マ     百 花 ・ 蘇 門 答刺 ・ 西 洋 ・ 邦 哈 刺 等 お よ そ 三十 国 の 中 で、 胡 惟 庸 が     謀 反 を たく ら んだ こと で 三 仏斉 が 間諜 を放 ち、 我 が 国 の使 臣 を 欺     い て彼 の地 に来 さ せた ことが あ っ た。 爪 哇 国 王が そ の事 を 聞 き つ     け て 三仏 斉 を戒 め 、 使 臣 を礼 送 し て中 国 に帰 ら せ た。 そ の後 、 使     臣 ・ 商 旅 の往 来 は途 絶 し、 諸 国 王 の 考 え も ま た中 国 に伝 わ ら な く     な っ た。 ただ 安 南 ・ 占 城 ・ 真 臘 ・ 逞 羅 ・ 大 琉 球 だ け は、 初 め て入     貢 し て以 来 、 今 も 朝 貢 を続 け て いる。 ⋮ ⋮﹂ と 。   これ に よれ ば 胡 惟 庸 が 謀 反 を 企 んだ際 、 三仏 斉 が 秘 密 裏 に彼 のも と に使 者 を派 遣 し、 明 の使 者 を 欺 いて自 国 に連 れ て来 た こと が あ っ た 。 何 のた め に呼 んだ か は不 明 だ が、 こ の 文 脈 か ら判 断 す れ ば 、 胡 惟 庸 の 謀 反 に関 連 し て の行 為 であ っ た こと は 明 ら か であ る。 そ れ を 耳 にし た ジ ヤ  ワ 爪哇 国 王 は、 三仏 斉 を戒 め ると と も に 、 明 の 使 臣 を礼 送 し て故 国 に帰 ら せ た と いう。 こ の 事 件 を契 機 に明 と 周 辺諸 国 と の 往 来 は途 絶 え 、 一 部 の 特 定 国 のみ朝 貢 を継 続 し たと す る論 法 は 、 先 掲 の 榜 文 ⑧ と 同 様 で あ る。   ﹃ 明 実 録 ﹄ ⑥ の記載 と榜 文 ⑧ と に共 通 す る理解 は 、 明が 周 辺諸 国 と の 国 交 断 絶 を進 め た裏 に は 、 胡 惟 庸 の 謀 反事 件 が 色 濃 く 影 響 し て い た と い う こと だ 。 洪 武 も 末 期 にな ると 胡 惟 庸 と海 外 諸 国 と の 通 謀 は、 半 ば 常 識 化 し て い た こと が 窺 え る。 も っ と も、 ⑥ は⑧ と違 い 国 名 が 挙 げ ら れ て お り、 事 実 経 過 も 詳 細 であ る。 これ だ け読 めば 確 か に胡 惟 庸 と 三 仏斉 と の あ いだ に、 通 謀 が あ っ た か の よう受 け取 れ る。 だ が 結 論 を 先 取 り す れば 、 そ う し た事 実 は や は り認 めが た い 。 実 は こ の 史 料 にも 巧 み な事 実 の す り替 え のあ る こと を、 以 下 論 証 し てみ た い 。   ⑥ に よ れば 、 三仏 斉 は胡 惟 庸 の ﹁ 謀 乱 ﹂ に応 じ、 偽 っ て 明使 を招 い た のだ か ら、 そ の 年 次 は洪 武 十 三年 の胡 惟 庸 の獄 を そ れ ほ ど 遡 る こ と                                                             は な か ろ う。 十 三年 に最 も 近 い 三仏 斉 の入 貢 は洪 武 十年 八 月 であ り、 こ れ を最 後 に 三仏 斉 の来 朝 は途 絶 え る。 こ の時 、 三 仏 斉 は 新 国 王 の即 位 を明 側 に伝 え、 明 はそ れ に応 え て印 綬 を も た ら す 冊 封使 の派 遣 を決                                                     ゆ 定 し た。 明 使 が 三仏 斉 に向 か っ た の は同年 十 月 の こと だ か ら、 いわ ゆ る 明使 を欺 いた事 件 は、 後 に も先 にも こ の時 し か考 え ら れ な い 。   し か し、 こ の 度 の 三仏 斉 への遣 使 は、 思 わ ぬ 事 態 に 発 展 し た。 そ の 経緯 は洪 武 十 三年 十月 、 爪 哇 が 入貢 し てき た際 にそ の国 王 に下 し た 詔 勅 の 中 に 記 さ れ て いる。   ﹃ 明 太 祖 実 録 ﹄ 洪 武 十 三 年 十 月 丁 丑 の 条 に は 次 のよ う に あ る。   ◎ 因 詔 諭 其 ( 爪哇 ) 国 王 日 ⋮ ⋮朕 君 主 華 夷 、 撫 御 之 道、 遠 迩 無 間。     爾 邦 仮 居海 島 、 頃嘗 遣 使 中 国 、 雖 云修 貢 、 実 則 慕 利、 朕 皆 推 誠以     礼 待 焉。 前 者、 三 仏斉 国 王遣 使 奉 表 、 来 請 印 綬 、 朕 嘉 悦 其慕 義、     遣 使 賜 之、 所 以懐 柔 遠 人。 爾 奈 何 設 為 奸 計 、 誘 使 者 而 殺 害 之、 豈     爾 恃 険 遠 、 故 敢 肆 侮如 是 歟 。     因 り て爪 哇 国 王 に 詔 諭 し て雷 っ た。   ﹁ ⋮ ⋮朕 は中 華 と 夷狄 の君 主

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明初 の対 日外交 と林賢 事件    と な り、 そ の民 を 慈 し み統 御 す る方 法 は、 遠 近 によ っ て 区 別 す る     こと はな い 。 な んじ の 国 は は る か海 島 にあ っ て、 こ のご ろ 中国 に    使 者 を寄 こし てき た。 修 貢 と 言 いなが らも 実 は利 を 慕 っ て の こと    だ が 、 朕 は皆 の者 を 誠 心誠 意 礼 遇 し て や っ た。 先 ご ろ、 三 仏 斉 国    王 が 使 者 を 派 遣 し表 を奉 じ て、 国 王 の印 綬 を 求 め て き た。 朕 は彼     の 義 を慕 う 気 持 ちを 嬉 し く思 い 、 使 者 を遣 わ し て印 綬 を 与 え よう    と し た。 遠方 から や っ て く る者 を懐 柔 す るた め であ る。 に も か か     わ らず 、 な んじ はど う し て奸 計 を めぐ ら せ、 使 者 を 誘 っ て殺 害 し     て し ま っ た の か。 ま さ か 地 の 険 遠 な る を恃 み、 我 を侮 っ てそ んな     こと を し た の で はあ るま いな。 ⋮ ⋮L と 。   三 仏斉 に派 遣 され た明 使 が、 途 中 爪哇 のた め に捕 え られ 、 殺 害 さ れ る と いう事 件 が 勃 発 し た の であ る 。 当 時 三 仏斉 は隣 国 の 爪 哇 の 支 配 下 に あ り、 明 の 冊 封 に よ り 三仏 斉 の勢 力 が 増 す こと を、 爪 哇 が 恐 れ た た                 め だ と推 察 され る。 爪 哇 国 王 への詔 諭 は 、 そ う し た爪 哇 の 行 動 を譴 責 す る た め に、 爪 哇 国 使 の帰 国 に当 た っ て発 せ られ た も の で あ っ た。 ﹃ 明実 録 ﹄ ◎ に い う ﹁ 爪 哇 が 三仏 斉 の行 動 を戒 め て、 明 使 を礼 送 し て 帰 ら せ た﹂ と い う状 況 と 、 ま っ たく 反 す る も のだ と い わ ね ば な ら な い。   で は◎ と ◎ と は、 無 関 係 な別 個 の事 件 な の か 。 私 は そ う思 わ な い 。 ⑥ の続 き に は、 次 のよ う な事 実 が 記 載 さ れ て い る 。     凡 諸 番 国使 臣来 者 、 皆 以 礼 待 之 、 我 待 諸 番 国 之 意 不薄 、 但未 知 諸     国 之 心 若 何。 今 欲 遣使 諭 爪 哇 国 、 恐 三仏 斉 中 途 阻 之 。 聞 三 仏 斉 係     爪 哇 統 属、 爾 礼 部 備 述 朕 意、 移 文 暹 羅 国 王、 令 遣 人 転 達 爪 哇 知     之 。 于 是 礼 部咨 暹 羅国 王 日、 自 有 天 地 以 来 、 即 有 君 臣 上 下 之 分 、 且有 中 国 四 夷 之 礼、 自 古 皆 然。 我朝 混 一 之 初 、 海 外 諸 番 、 莫 不来 庭 。 豈 意 胡 惟 庸 造乱 、 三 仏斉 乃 生 間 諜 、 紿 我 信 使 、 肆 行 巧詐 。 ⋮ ⋮ 皇 上 一 以 仁 義 待諸 番 国 、 何 三仏 斉 諸 国 背 大 恩 而 失 君 臣 之 礼 、 拠 有 一 叢 之 土、 欲 与中 国 抗 衡 。 悄 皇 上震 怒 、 使 一 偏 将 将 十 万衆 越 海 問 罪、 如 覆 手 耳。 何 不思 之甚 乎 。 皇 上嘗 日、 安 南 ・ 占 城 ・ 真 臘 ・ 暹 羅 ・ 大 琉 球、 皆 修 臣職 、 惟 三仏 斉 梗 我声 教 。 ⋮ ⋮。 爾 暹羅 王独 守 臣 節、 我 皇 上 眷愛 如 此、 可転 達 爪 哇 、 俾 以 大 義 告 於 三仏 斉 。 三 仏 斉 係 爪 哇 統 属、 其 言彼 必信 、 或 能 改 過 従 善 、 則 与 諸 国 威 礼 遇 之 如 初 。 勿 自 疑 也。 ﹁ お よそ 諸 番 国 の使 臣 で来 朝 す る者 が あ れば す べ て 礼 遇 し て お り、 諸 番 国 に対 す る 我が 方 の待 遇 は 決 し て疎 か で は な い 。 だ が 諸 国 が ど の よう に思 っ て いる か は 、 な か な か分 か ら な い も の だ 。 今 、 使 い を遣 わ し爪 哇 国 に詔 諭 し よう と思 うが 、 お そ ら く 三仏 斉 が 中 途 で使 者 を阻 む であ ろう。 聞 く と こ ろに よ れば 、 三 仏斉 は爪 哇 の 統 属 下 にあ ると いう 。 な んじ 礼 部 は朕 の考 え を 詳 し く述 べ て 暹 羅国 王 に書 状 で伝 え、 そ こ から 爪 哇 に転達 さ せ て こ の こと を知 ら し め よ﹂ と 。 こ の 結 果 、 礼 部 は暹 羅国 王 に 書 状 を 送 っ て 言 っ た。   ﹁ 天 地が 生 まれ て以 来 、 君 臣 上 下 の分 が あ り、 ま た中 国 四夷 の 礼 が あ る の は、 古 よ り決 ま っ た こと であ る 。 我 が 朝が 天 下 を 統 一 し た当 初 、 海 外 の諸 番 国 で来 朝 し な い国 はな か っ た 。 ま さ か胡 惟 庸 が 反 乱 を 起 こし、 三 仏斉 が 間 諜 を放 っ て明 使 を欺 き 、 ほし い ま ま に不 正 を 働 く と は夢 に も思 わ な か っ た。 ⋮ ⋮皇 上 は 一 に仁 義 を も っ て諸 番 国 を も て な さ れ て いる のに、 ど う し て 三仏 斉 諸 国 は 大 恩 に背 き 、 君 臣 の礼 を 失 い、 ち っ ぽ け な 土 地 に 拠 っ て中 国 と対

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    抗 し よ う と す る のか。 も し皇 上 が 震 怒 な さ れ、 将 軍 に 十 万 の兵 を     与 え て海 を越 え て罪 を問 われ た な らば 、 手 を かえ す よう に簡 単 に     鎮 圧 さ れ る こと だ ろ う。 なぜ そ の こと を思 わ な い の か 。 皇 上 が か     つて 言 わ れ た。   ﹃ 安 南 ・ 占 城 ・ 真 臘 ・ 暹 羅 ・ 大 琉 球 は皆、 臣職 を     修 め て いる のに、 ただ 三仏 斉 だ け が 我 が名 声 と教 化 を 拒 ん で い     る。 ⋮ ⋮﹄ と。 な ん じ暹 羅 王 は独 り臣 節 を 守 って いる ので、 我 が     皇 上 も こと のほ か目 を かけ て おら れ る 。 爪 哇 に申 し伝 え て、 爪 哇     か ら 三 仏斉 に大 義 を告 げ さ せ よ。 三仏 斉 は爪 哇 の統 属 下 に あ る の     で、 爪哇 の 言 う こと であ れ ば 必 ず 信 じ る であ ろう。 過 ち を改 め善     道 に 従 う な らば 、 諸 国 と と も に以 前 通 り礼 遇 し よう。 こ の こと を     疑 っ て は な ら ぬL と 。   こ の記 事 は洪 武 三十年 当 時 の状 況 を 示 し てお り、 こ こに述 べ られ て い る よ う に 三仏 斉 は爪 哇 の統 属 下 にあ っ た。 多 く の 海 外 諸 国 が 朝 貢 し てく る中 、 三仏 斉 だ け は明 の ﹁ 声 教 ﹂ を 拒 んで海 上交 通 を妨 害 し た ら し い。 そ こ で爪 哇 に諭 し て三 仏斉 を説 得 さ せ よ うと し たが 、 三仏 斉 が 中 途 で明 の使 者 を 阻 む こと を 恐 れ、 暹 羅 国 王 に書 状 を送 り、 そ こ から 爪 哇 に伝 達 さ せ た の であ る 。   問 題 は、 こ こ で ﹁ 中 国 と抗 衡 す る﹂ 国 と し て描 かれ た 三仏 斉 の内 実 であ る。   ﹃ 明 史 ﹄ 三 仏 斉 伝 は、 洪 武 三 十年 前 後 の こ と を次 のよう に記 し て い る。     時 爪 哇 已 破 三 仏斉 、 拠其 国 、 改 其 名 日 旧港 、 三仏 斉 遂 亡 。 国 中 大     乱、 爪 哇 亦 不能 尽有 其 地、 華 人流 寓者 往 往 起 而 拠 之 。 有 梁 道 明     者、 広 州 南海 県 人、 久 居 其 国 。 閾 ・ 粤 軍 民 泛 海 従 之 者 数 千 家 、 推     道 明 為 首 、 雄 視 一 方 。     当 時 、 爪 哇 はす で に 三 仏 斉 を 敗 り、 そ の国 を 占 拠 し て 旧 港 と改 名     し た ので、 三 仏斉 は 亡 ん だ。 国 中 大 いに 乱 れ、 爪哇 も ま たす べ て     の地 を 占 領 で き な か っ た ので、 華 人 の 流 寓者 が しば しば 起 ち上 が     り、 そ の地 を根 城 と し た。 梁 道 明 と いう者 が いた。 広 州 南 海 県 の     人 で、 久 し く そ の 国 に 住 ん で いた。 福 建 ・ 広 東 の艮 で海 を渡 っ て     彼 に つ き 従 う者 が 数 千 家 あ り、 彼 を推 し て リ ーダ ーと す ると、 地     方 で威 勢 を張 っ て お ご り高 ぶ る よ う に な っ た。   爪哇 が 三仏 斉 を滅 ぼ し、 旧港 と 改 名 し たと いう の は事 実 に反 し、 旧 港 は か つて の三仏 斉 の古 都 パ レ ン バ ンの漢 文 名 であ る。 す で に こ の頃 に は 三仏 斉 の実 体 は なく 、 パ レ ン パ ンは旧 港 と 呼 ば れ て、有 力 な 華僑 の 海 賊 集 団 の根 拠 地 と 化 し て い た。 永 楽 五年 (一 四 〇 六 ) の鄭 和 の 遠 征 時 に捕 獲 され 、 南 京 で処 刑 さ れ た陳 祖 義 は、 そ んな 旧 港 の 海 賊 の 頭 目 の 一 人 であ っ た。 彼 は海 上 で海 賊 行 為 を働 き 朝 貢 使 の往 来 を妨 害 し たと いう から 、 こう し た 旧 港 の海 賊 の横 行 は 、 少 な く と も洪 武末 期 に                         は始 ま っ て い た はず であ る。 つ ま り 、 先 に海 上 で 明使 を 阻 む と危 惧 さ れ た 三仏 斉 の実 体 は、 か つ て の三 仏 斉 と は異 な り、 彼 ら華 僑 の 海 賊 集 団 であ っ たわ け だ 。   以 上 の 事 実 を 整 理 す れば 、 次 のよ う に総 括 す る こと が で き る だ ろ う 。 即 ち、 洪 武 三 十年 に朝 貢 国 の 減 少 を 上奏 し た礼 部 に対 し、 朱 元 璋 は 三仏 斉 対策 を 指 示 し た。 そ れ は 三仏 斉 ( 実 は 旧港 の海 賊 集 団 ) が 海 上 に勢 力 を 張 り、 使 節 の 往 来 を阻 害 す る た め、 朝 貢 国 も 減 少 し た と の 認 識 から であ る。 そ のた め 三 仏斉 を事 実 上 支 配 し て い る爪 哇 に取 り 締 ま ら せ よう と、 最 も信 頼 す る暹 羅 に命 じ て そ のこと を爪 哇 に伝 達 さ せ た。 そ の際、 暹 羅 に 下 す 宣諭 の 中 で、 三仏 斉 の不法 を列 挙 し 、 本 来 三

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明初の対 日外交 と林賢事件 仏 斉 が 被 害 者 で爪 哇 が 加 害 者 であ っ た か つ て の 事 件 を、 あ た か も 三仏 斉 が 加 害 者 であ る か の よう に書 き 変 え た ので あ る。 三 仏 斉 の 取 り締 ま り を命 じ る爪 哇 の立 場 を 慮 り、 か つて の罪 を 涸 塗 し た 結 果 であ っ た。 極 め て政 治 的 か つ 作 為 的 な操 作 が 行 わ れ た と いわ ね ば な ら な い 。   こう し て 一つ の 虚 構 が 生 み出 さ れ る と、 そ こに あ ら た な虚 構 が 付 け 加 え ら れ た。 胡 惟 庸 の 謀 反 であ る。 当 時 、 胡 惟 庸 の謀 反 は否 定 で き な い事 実 であ り 、 そ の 事 実 が 加 味 され る こと で、 三仏 斉 の悪 事 は強 調 さ れ 、 真 実 味 を 帯 び る こと に な る。 それ は胡 惟 庸 を貶 め、 彼 の謀 反 が い か に巧 妙 であ っ た かを 裏づ け る こと に も つなが ろう 。 三仏 斉 の不 法 の 原 因 は胡 惟 庸 の謀 反 にあ ると す る こと で、 三仏 斉 の罪 は動 か し難 いも のに な る。 こ こ に胡 惟 庸 と 三 仏斉 と の通謀 と い う虚 構 が 、 胡 惟 庸 の獄 か ら 十 七年 後 に作 り上 げ ら れ た わ け だ。   胡 惟 庸 と 三仏 斉 と の通 謀 と いう ﹃ 明実 録 ﹄ の記 述 は、 先 の榜 文 ⑧ の 内 容 と同 じく 、 作 為 的 に生 み出 さ れ た も のであ っ た。 一 旦公 式 の見 解 と し て 記録 に残 ると 、 よ ほど の こと が な い限 り否 定 さ れ る こ と は な い。   ﹃ 明 史 ﹄ 三 仏斉 伝 も そ の 見 解 を 踏 襲 し 、 他 の 諸 書 も同 様 の 立 場 を 取 る。 こう し て 三仏 斉 の謀 反 への 加 担 は、   一つ の 事 実 と し て 定 着 し た。 洪 武 十年 ま で 従 順 に朝 貢 し て い た 三仏 斉 にす れ ば、 いわ れ のな い 濡 れ衣 を着 せら れ た と いう べき だ ろう 。

林賢

事件

真相

 前 章 お よび 前 々章 で、 胡 惟 庸事 件 が 海 外 諸 国 に波 及 し た ケ ー スを 二 つ 見 た。 両 者 に共 通 す る パ タ ー ンは、 明が 海 外 諸 国 と の関 係 を 調 整 す る際 に、 そ の行 為 の正 当 化 のた め に胡 惟 庸 と の 通 謀 問 題 を捏 造 し て い る こと であ る。 対 外 政 策 を遂 行 す る上 で胡 惟 庸 事 件 が 利 用 さ れ て いる わ け で、 決 し て胡 惟 庸 の 悪 事 を強 調 す る こと にね ら いが あ るわ け で は な い 。   こう し た捏 造 の 原 形 は、 いう ま でも なく 洪 武 十 九年 の林 賢事 件 にあ る。 胡 惟 庸 と 日本 と の 通 謀 問 題 は、 林 賢 処 刑 後 に公 刊 さ れ た ﹃ 御 製 大 誥 三 編 ﹄ を 通 し て広 く知 ら れ て お り、 日本 も 洪 武 十 九 年 以 来 一 度 と し て 入 貢 す る こと は な か っ た。 洪 武 末 に はす で に林 賢 事 件 は動 かし が た い既 成事 実 で あ り、 そ う し た前 例 を もと に、 先 の 二 つの通 謀 事 件 も 容 易 に信 じ ら れ た も のと思 わ れ る。 虚 構 が 事 実 と し て受 け 入れ られ るだ け の下 地 が、 当 時 の社会 に は あ っ た。 林 賢 事 件 はも は や 日明 間 の枠 を 越 え 、  ﹁ 通 謀 ﹂ と いう 虚構 を裏 づ け る大 き な根 拠 と な っ て い たと いえ る。   で は、 当 の林 賢 事 件 は、 実 際 のと ころ ど う であ っ た のか。 は た し て 胡 惟 庸 と 日本 と の間 に通 謀 が あ っ た のか。 そ れ と も 朱 元璋 の 捏 造 な の か。 最 初 に事 件 の全 貌 を 伝 え る ﹃ 明 史 ﹄ 日本 伝 に よ っ て、 こと の経過 を み て おき た い。     ︹洪 武 ︺ 十 九 年 、 遣 使 来 貢 、 却 之 。 ⋮ ⋮ 。 先 是 、 胡 惟 庸 謀 逆、 欲     籍 日本 為 助 。 乃 厚 結 寧 波 衛 指 揮 林 賢 、 佯 奏 賢 罪 、謫 居 日 本、 令 交     通 其 君臣 。 尋 奏 復 賢 職 、 遣 使 召之 、 密 致書 其 王、 借 兵助 己。 賢     還 、 其 王 遣僧 如 瑤 率 兵卒 四 百余 人 、 詐 称 入貢 、 且 献 巨 燭、 蔵 火     薬 ・ 刀 ・ 剣 其中 。 既 至、 而 惟 庸 已 敗、 計 不 行 。 帝 亦 未 知 其 狡 謀     也。 越 数年 、 其 事 始 露、 乃 族 賢 、 而 怒 日本 特 甚 、 決 意 絶 之 、 専 以     防 海 為務 。 ⋮ ⋮後 著 祖 訓、 列 不征 之 国 十 五、 日本 与 焉 。 自 是 、 朝     貢 不至 、 而 海 上 之 警 亦 漸 息。

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    ︹洪 武 ︺ 十 九年 、 日本 が 使 者 を派 遣 し てき た が、 これ を斥 け た。     ⋮ ⋮ これ より 以前 、 胡 惟 庸 が 謀 反 を たく ら み日 本 の援 助 を得 よ う    と し た 。 そ こで彼 は寧 波 衛 指 揮 林 賢 と 結 託 す ると 、 偽 っ て 林賢 の    罪 を上 奏 し て日本 に流 適 し、 そ の 国 の 君 臣 と 接 触 さ せた。 つ いで    上 奏 し て林 賢 を復 職 さ せ、 彼 を 召還 す る た め に使 者 を 派 遣 し た    際 、 密 か に 日本 国 王 に書 状 を送 っ て援 兵 を請 う た 。 林 賢 が 帰 還 す     ると 、 日本 国 王 は僧 如瑤 に 兵卒 四 百余 人 を率 いさ せ て偽 って入 貢     し、 し かも 火 薬 ・ 刀 ・ 剣 を 巨大 な蝋 燭 に隠 し て献 上 さ せ よう と し     た。 と こ ろが 彼 ら が 到着 し て み ると 、 胡 惟 庸 はす で に敗 れ て いた     た め計 画 は実 行 さ れず 、 帝 も ま た こ の 陰 謀 を知 る こ と は な か っ     た。 数 年 後 ︹ の洪 武 十 九年 ︺ 、 そ の事 実 が はじ め て露 見 し た た め、     林賢 と そ の 一 族 を処 刑 し た。 帝 の日本 に対 す る怒 り は 特 に 激 し     く、 国 交 断 絶 を決 意 し ても っ ぱ ら海 防 に 力 を 入 れ た。 ⋮ ⋮後 に     ﹃ 皇 明祖 訓﹄ を著 し、   ﹁ 不征 の国 し 十 五 を 列挙 す ると 、 日本 も そ     の 中 に加 え た。 これ よ り 日本 は朝 貢 し て 来 る ことが なく な り、 海     上 で の警 戒 す べき 事 態 は よう やく 収 ま っ た。   ﹁ 日本 伝 ﹂ のこ の 記 述 の原 史 料 が、 先 の ﹃ 御 製 大誥 三編 ﹄   ﹁ 指 揮 林                                          賢 胡 党 第 九﹂ で あ る こと は、 よく 知 られ て い る 。 こ の 史 料 を もと に林                                                   ⑫ 賢 事 件 の虚 構 性 を、 多 角 的 に論 証 し た の が 陳 尚 勝 氏 で あ る。 陳 氏 は ﹃ 御 製 大 誥 三 編 ﹄ に 記 さ れ た事 実 の時 間 的 不 適 合 性、 日 明関 係 の正常 化 以 前 に林 賢 が 日本 に流 請 され たと す る非 現 実 性 、 日 本 側 に こ の 事 件 に関 す る史 料 が ま っ た く な い こと の 不自 然 性 、' お よび 胡 惟 庸 の獄 か ら 六年 後 に こ の事 件 が 蒸 し 返 さ れ た こと の作 為 性 な ど から、 林賢 事 件 の 信 憑 性 はき わ め て薄 いと 結論 す る。   ま た 洪 武 十 四年 に 入貢 し た実 在 の 日本 僧 如 瑤 が 、 謀 反 の片棒 を か つ いだ よ う に 記 さ れ た のは、 彼 の入貢 時 の傲 慢 な 態 度 にあ る と いう。 連 年 の倭寇 の 活 動 と、 前 年 ( 洪 武 十 三年 ) の日 本 使 節 の非 礼 を詫 び な い だ け で な く、 極 力 責 任 の が れ を し た こと が 朱 元 璋 を 激 怒 さ せ、 そ れが ﹃ 御 製 大 誥 三編 ﹄ の 記 述 に つなが っ たと す る。 さ ら に 明 末 の日 明関 係 の不穏 化 が 林賢 事 件 を粉 飾 さ せ、 原 史 料 にも な か っ た 火 薬 ・ 刀剣 類 の 持 ち込 み と いう虚 構 を、 野 史 の 類 に附 加 さ せ る こ と に な った。   ﹃ 明 史 ﹄   ﹁ 日 本 伝﹂ は、 そ の 説 を踏 襲 し たも の にす ぎ な いと いう。   傍 証 に基 づ く 推 測 で は あ るが 、 恐 らく そ う だ ろう 。 前 章 ま で の 二 つ の事 例 から も、 林賢 事 件 が史 実 であ る 可能 性 は、 ま ず な い。 私 も 陳 氏 の説 に賛 成 し た い 。 た だ し 陳 氏 と 私 と で は、 事 件 の意 義 づ け に ついて 見 解 の異 な る点 も あ る 。 そ れ は陳 氏が 林 賢 事 件 を胡 惟 庸 の悪 行 を 強 調 す る た め の 、 単 な る国 内 問 題 と し て捉 え て いる のに対 し、 私 は先 の 二 つ の 事 例 と 同 じく 、 目 的 は別 にあ る と考 え て いる こと だ 。 目 的 と は、 いう ま でも なく 事 件 後 なさ れ た 日本 と の国交 断絶 であ る。 こ の 点 は、 や は り具 体 的 な 日明 交 渉 の経 緯 を 通 し て、 検 討 し て み る必 要 が あ るだ ろ う。   日 明交 渉 開 始 時 の状 況 は、 次 の三 時 期 に区分 し て考 え る の が 理 解 し や す い ( ﹁ 日 明 関 係年 表 し 参 照) 。 第 一 期 は 、 明使 の 第 一 回 日本 派 遣 か ら 大 宰 府 の 懐 良 親 王が 日本 国 王 に冊 封 さ れ るま で 。 年 代 で いえば 、 洪 武 元年 (コ ご 六 八) か ら 五年 ( 二 二 七 二) ま でが これ に当 た る。 第 二 期 は 、   ﹁ 日本 国 王良 懐 ﹂ と の 間 に曲 が り な り にも 国 交 が成 立 し て いた 時 期 。 こ の間、 足 利義 満 ・ 島 津 氏 久 等 が 使 者 を派 遣 し た が、 と も に斥 け ら れ て いる。 時 期的 に は、 洪 武 五年 か ら十 二年 (コ ニ 七 九 ) ま でが

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明初の対 日外交 と林賢事 件 〔日  明 関 係  年  表〕 年   月 洪 武1年11月 2    2 3    3 4.ユ0 5   5 6    6 7.  6 8    6 9    4 12.閏5 13. 1 5 9 12 14    7 19    10      11 30.閏5 建 文3.  5 4    2      6 永 楽1。   8         10 2.  工0     11 事 項 太 祖 朱元 璋、最 初 の使 者 を 日本 に派 遣。使 者 は倭寇 に殺 害 され る。 楊 載 ・呉 文華等 七 人 を 日本 に派遣 。 五入 が 壊良親王 に殺 害 され る。 楊 載 ・趙 秩 等 を 日本 に派 遣 。 懐 良親 王 の使 者僧 祖 来等 入 貢。冊 封使 と して伸 猷祖 闡 ・無逸 克勤 等 八 人 の派遣 を決 定。 仲 猷祖 闡 ・無 逸 克勤 等、 懐 良親王 を冊 封 す るため に明州 か ら出帆 し て博 多 に到着 。 九州探 題 今川 了俊 に よって聖福 寺 に抑留 され る。 仲 猷祖 闡 ・無逸 克勤等 、 上洛 。足 利義 満 と会見 。 義 満 の使 者 聞渓 円宣 ・子 建 浄業等 入貢 。無 表 のた め斥 け られ る。 島津 氏 久の使 者僧 道幸 等 入貢 。陪 臣 のた め斥 け られる。 「日本 国」、倭 寇 に掠 奪 され た中 国人1◎9人 を返 還。 「日本 国 」 入 貢 。 日本 国 王良 壊の使 者僧 圭廷 用等 入 貢 。 日本 国 王良懐 の使 者劉 宗秩 ・通 事 尤虔 等 入貢。 「胡 惟庸 の獄」 勃発 。 日本 国王 良懐 の使 者僧 慶 有等 入貢 。無 表 と不 誠 のた め斥 け られ る。 征 夷 将軍 源義 満 の使 者 僧 明悟 ・法 助等 入貢 。無表 の ため 斥 け られ る。 「日本 国王」 を叱 責す る詔 を発 す る。 日本 国王 良懐 の使 者僧 如瑶 等 入貢 。入 貢 を拒 絶 して 日本 国王 を叱 責。 同時 に 日本征 夷大 将軍 を叱責 。 「林 賢事件 」発 生 。 日本 国王 良懐 の使 者僧 宗 嗣亮等 入 貢。 斥 け られ る。 太祖 朱元 璋死去 。建 文 帝即 位 。 日本 国准 三后源 道義 、 祖 阿 ・肥 富 等 を明 に派 遣 。 建 文 帝、 天倫道 彝等 を 日本 に派 遣 し、 義満 に大統 暦 を賜 う。 南 京 陥落 。永楽 帝即 位 。 永 楽帝 、趙 居任 等 の 日本へ の派 遣 を決 定。 日本 国王源 道義 の使 者 堅 申圭密 等 入貢 。永楽 帝 、使 者 を派 遣 して義 満 を 日本 国王 に冊封 す る。 日本 国王源 道義 の使 者梵 亮 等 入貢 。 日本 国王源 道義 の使 者 永俊 等入 貢 。 ○ 本 年 表 は 『明 実 録 』の 記 載 を基 本 と し、『皇 明通 紀 』 『明 史 』『善 隣国 宝 記』 『大 日本 史料 』 等 を 参 考 に して作 成 した。

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そ れ に相 当 す る。 第 三期 は、 懐 良 ・ 義 満 の両 者 を 含 め て 日本 か ら の 使 者 はす べ て拒 絶 され 、 日明 関 係 が 次 第 に悪 化 し て、 最 後 は林 賢 事 件 で 国 交 が 途 絶 す る時 期 。 洪 武 十 三年 ( コ ニ 八〇 ) から 十 九年 ( 一 三 八六 ) ま で であ る。   三 時期 に 共通 す る のは、 常 に両 国 の交 渉 の裏 に 倭 寇 の影が つ き まと っ て いる こ と だ 。 そ れ は第 一 期 の初 っ ば な から 早 速 現 れ た。 王朝 創 設 直 後 の 洪 武 元年 十 一 月 、 日本 に送 っ た第 一 回 目 の使 者 は 五島 列島 あ た                                                   ㊧ り で倭 寇 に殺 害 さ れ 、 日 本 に は到着 し な か っ たと い われ る。 国 交 が 開 始 さ れ て以 後 も 、 明 側 はた えず 倭寇 の 取 り締 ま り を 日本 に求 め、 そ れ に応 じ て日 本 から も、 倭 寇 に拉 致 さ れ てき た中 国 人 の返 還 を たび たび 行 っ て い る。 明 側 が 日本 と の 国 交 樹 立 を望 んだ 最 大 の眼 目 が、 倭 寇 問 題 の解 決 に あ っ た こと は間 違 い な い。   し か し、 そ の 後 の日本 の 態 度 は、 決 し て明 側 を 納 得 さ せる も ので は な か っ た。 倭寇 の 取 り締 ま り を求 め る明 側 のた び 重 な る 主 張 に対 し、 日本 は 必ず しも 誠 意 あ る対 応 を し な か っ た か ら だ。 当 初 、 倭 寇 の 背 後 に は 日本 国 王 の策 謀 が あ ると 踏 んで いた朱 元璋 も、 中 途 で 日本 国 王 と 倭 寇 と は無 関 係 と の認 識 を 示 す に 至 る。 だが 洪 武 三年 の日本 への 詔 諭 の中 で 、 今 後 も 倭寇 が侵 害 すれ ば 、 い つでも 目本 征 討 の用 意 が あ ると                                                   ゆ 表 明 す るな ど、 倭 寇 と 日本 政 府 と を切 り離 し て考 え て いな い。 倭 寇 の 被害 が 拡 大 す る に つれ て、 明 の 苛 立 ち は 一 層 高 じ たと 見 え 、 こ の姿 勢 はやが て 日本 への 恫 喝 へ と 変 化 し て いく 。   倭 寇 と は別 に、 B本 の ﹁ 不 遜 ﹂ な 態 度 も、 明側 を 立 腹 さ せた 大 き な 理 由 であ っ た。 洪 武 九 年 の懐 良 の使 者 の入 貢 あ た り か ら、 日本 のも た ら す ﹁ 表 文 ﹂ を めぐ り、 明 側 の 譴 責 が 繰 り返 され る よう に な る。 九 年                                               ㊧ に は懐 良 の 表 文 の ﹁ 詞語 不誠 ﹂ であ る こと が 責 め られ 、 十 三年 五月 に は無 表 であ る た め 入貢 が 斥 け ら れ た。 ま た同 年 九 月 の 義 満 の使 者 は、 無 表 であ るう え 宰 相 に奉 っ た書 状 が ﹁ 辞 意 倨 慢 ﹂ で あ る こ と を 理 由                       ⑳ に、 入 貢 を拒 絶 さ れ て い る。 さ ら に同 年 末 に は 日本 国 王 に詔 諭 が 下 さ れ 、 日本 を ﹁ 東 夷 ﹂ と 見 下 す 一 方 、 入 明 使 節 の ﹁ 匪 誠 ﹂ を な じ り、 日                                   ⑳ 本 の ﹁ 傲 慢 不恭 ﹂ な 姿 勢 を 罵 倒 し て いる 。   こう し た 日本 側 の ﹁ 不 誠 ﹂ な 態 度 の中 で 、 最 大 の 事 件 が有 名 な懐 良 の ﹁ 上 言 ﹂ であ る。   ﹃ 明 史 ﹄ 日 本 伝 は洪 武 十 四年 の こと と 記 し て い る が 、 村 井 章 介 氏 の最 近 の研 究 で、 洪 武 十 三年 五 月 の入 明 時 のも のであ                     ⑳ る こと が 明 ら か に さ れ た。   ﹁ 臣 聞 、 三皇 立極 、 五帝 禅 宗 ﹂ で始 ま る こ の上 言 は、 大 国 ・ 明 の 脅 迫 に 屈 せず 、 日本 の気 概 を 示 し た も の と し て、 戦 前 に は 盛 ん に喧 伝 さ れ た も のであ る。 そ の節 略 を挙 げ れ ば 、 お よ そ次 の よう にな る。    臣 聞 、 天 朝 有 興 戦 之 策 、 小 邦 亦 有 御 敵 之 図 。 論 文有 孔 ・ 孟 道徳 之    文 章、 論 武有 孫 ・ 呉韜 略 之 兵 法。 又 聞、 陛 下選 股 肱 之 将 、 起 精 鋭    之 師 、 来 侵 臣境 。 水 沢 之 地、 山海 之 洲 、 自 有 其 備 、 豈 肯 跪 途 而 奉    之 乎 。 順 之 未 必 其 生、 逆 之 未 必 其 死。 相 逢 賀 蘭 山前 、 聊 以 博 戯 、    臣 何 惧 哉。 倫 君勝 臣 負 、 且満 上 国 之 意 、 設 臣 勝 君 負、 反 作 小 邦 之   羞 。 自 古 講 和為 上、 罷 戦 為 強 、 免 生 霊 之 塗 炭 、 拯 黎 庶 之 艱 辛 。 特     遣 使 臣 、 敬 叩 丹陸 、 惟 上 国 図 之 ( ﹃ 明 史 ﹄ 日本 伝 ) 。     臣 が 聞 く と こ ろ に よ り ます と 、 天 朝 に は興 戦 の 策 があ る と いう こ   と です が 、 小 邦 にも ま た 御 敵 の計 略 が あ り ま す 。 文 を論 ず れば   孔 ・ 孟 道 徳 の文 章 が あ り、 武 を 論 ず れ ば 孫 ・ 呉 韜 略 の兵 法 が ござ    い ます 。 ま た聞 く と こ ろ で は、 陛 下 は股 肱 の武 将 を 選 び、 精 鋭 の

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明初 の対 日外交 と林賢事件    師 を起 こ し、 臣 の国 境 に侵 攻 し よ う と な さ れ て い ると の こと 。 水     沢 の地、 山海 の 洲 に は自 ず か ら備 え が あ り ま す れば 、 ど う し て道     端 に跪 いて 言 いな り に な りま し ょ う や 。 言 う こと を 聞 いて も 必ず     し も 生 き る保 障 はあ り ま せ んし 、 逆 ら っ て も 死 ぬ と は 限 り ま せ     ん。 こ こ はお 互 い 賀 蘭 山 の 前 で出 会 っ て、 かり そ めに 博 打 で も っ     て勝 負 を 決 し ま し ょう。 ど う し て臣 が 惧 れ る こ と が あ り ま し ょ     う。 も し君 が 勝 っ て臣が 負 け れば 、 いさ さ かな り と も 上 国 の気 持     ち を満 足 さ せ る でし ょう し、 も し臣 が 勝 っ て君 が 負 け るよ う で あ     れば 、 そ れ は かえ っ て ︹ 上国 に背 いた︺ 小 邦 の羞 でも あ り ま す。     昔 か ら和 を講 じ る こと は 上、 戦 を止 め る こと は強 と いわ れ、 そ う     す る こと で生 霊 を 塗 炭 か ら免 れ さ せ、 民 衆 を艱 辛 から 救 う こと が     でき ます 。 特 に使 臣 を 遣 わ し て、 う やう や しく 宮 中 で拝 礼 いた し     ます ので、 上 国 は こ の こと を よ く よく お考 え にな っ て いた だ き た     い。   征討 を ほ の め かす 明 側 の 恫 喝 に対 し、 賀 蘭 山 ( 寧 夏 回族 自 治 区 ) の 前 で博 打 を し て勝 負 を決 し よう と いう こ の 挑 発 的 な言 辞 は、 と う て い 明側 の 認 め得 るも の で はな か っ た。 懐 良 の 上 言 は表 文 と し て 扱 わ れ                                                           ゆ ず、 今 回 の 使 者 は ﹁ 無 表 ﹂ と ﹁ 不 誠﹂ を 理由 に斥 け られ た のであ る。 明 から す れば 、 も は や 日本 の態 度 を 常 軌 を 逸 し た も のに映 っ た に違 い な い。   こう し た さ な か の 洪 武 十 四年 七 月 、 懐 良 親 王 の 使 者 ・ 僧 如 瑤 が 入貢 し てく る。 彼 が表 文 を持 参 し た か否 か は不 明 だ が、 日本 に対 す る 不信 の念 で 固 ま る朱 元璋 が 入朝 を許 す はず も な い 。 前 年 と 同様 、 入貢 は拒       ⑳ 絶 さ れ た。 も っ と も懐 良 が 前 年 度 に引 き 続 き、 使 者 を 派 遣 し た 目的 は ど こ にあ っ た のか。 明 と の 関 係修 復 を 企 図 し たも の であ れ ば 、 如 瑤 の 態 度 はあ ま り に も 明側 の 感 情 を逆 撫 です る も の であ っ た から だ 。 明 側 の譴 責 に言 い逃 れば か り す る如 瑤 に対 し、 臣 下 の中 に は彼 を誅 殺 す る よ う 要 求 す る 者 も いた。   さ す が に そ の 要 求 は 斥 け ら れ た も の の 、 朱 元璋 は礼 部 に命 じ て 日本 国 王 宛 て の譴 責 の書 を 再 び 送 ら せ た。 そ こで は 日本 が 島 国 の有 利 な地 形 を 恃 ん で、 倭 寇 を 放 っ て隣 国 を 侵 略 し て いる と し、 そ の 分 を知 ら な い夜 郎 自 大 的 な 態 度 を 強 く 叱 責 し て いる。 ま た義 満 に も書 を送 り、 今 ま で 日明 間 で起 こ っ た 日本 の非 礼 の数 々を縷 々綴 る と と も に、 今 後 日 本 が 相 変 わ らず 反 抗 的 な 態 度 を 取 れ ば、 そ れ は ﹁ 将 軍 之 利﹂ で は な い                         ゆ と 脅 迫 的 な 言 辞 を 述 べ て いる。   注 目 す べき は、 懐 良 の使 者 で あ る如 瑤 の入貢 に際 し、 懐 良 ば か り か 義 満 にも 譴 責 の書 を 送 っ て いる こと で あ る。 し か も義 満 宛 て の書 状 の 中 で、 本 来 義 満 と は無 関 係 な 瑤 如 を な じ り、 あ た かも そ の責 任 が 義 満 にあ る か の よう な 書 き ぶ り を し て いる こと だ。 こ れ は 日本 国 王良 懐 が す で に実 体 のな い存 在 で あ り、 義 満が 良 懐 を僭 称 し て い ると み な し て の言 動 な の か。 あ る い は良 懐 も 義 満 も 同 じ 日本 のリ ーダ ー であ る以 上 、 一 蓮 托 生 に責 任 を取 ら せ よう と し た 結 果 な のか。 そ の あ た り は よ く分 か ら な い。 いず れ に せ よ、 朱 元 璋 は こ の時 す で に、 日本 に対 し て 何 ら か の策 を打 つ 必 要 を 実 感 し て いた に違 いな い 。   こ ん な朱 元璋 の態 度 を 決 定 づ け た の は、 以 前 に も 増 し て活 発 化 し た 沿 岸 部 の倭 寇 の活 動 であ っ た 。 朱 元 璋 は洪 武 十 六年 以 来、 山 東 か ら 浙 江 に 至 る 沿岸 部 で海 防 体 制 の強 化 を図 り、 数 万 人 規 模 の兵 士 を 要 地 に 分 駐 さ せ て倭 寇 の 襲 来 に備 え さ せ た。 と りわ け 洪 武 十 七 年 に は開 国 の

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