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高松塚古墳壁画発見報道の文化社会学的分析―新聞記事にみる価値とイメージの生成―

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Title

高松塚古墳壁画発見報道の文化社会学的分析―新聞記事にみる価値

とイメージの生成―

Author(s)

小川, 伸彦

Citation

小川信彦:奈良女子大学研究教育年報, 第10号, pp.15-32

Issue Date

2013-12-31

Description

URL

http://hdl.handle.net/10935/3915

Textversion

publisher

http://nwudir.lib.nara-w.ac.jp/dspace

(2)

奈良女子大学文学部研究教育年報第 10号 15

高松塚古墳壁画発見報道の文化社会学的分析

一一新聞記事にみる価値とイメージの生成一一

はじめに 2012 (平成24)年 3月、多くの新聞が高松塚古墳に 関する記事を掲載した。この月は、同古墳の壁画が 発見されてから、ちょうど40年目にあたったからで ある。たとえば、連載記事としては、「飛鳥美人の40 年」(朝日新聞・夕刊3月12日開始、計4回)や「“不 惑”の国宝」(産経新聞

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月30日開始、計

3

回)が組 まれた。

3

月21日には地元の奈良新聞が「きょう壁 画発見40年飛鳥美人、何を思う」と一面トップで 大々的に報じ、読売新聞も同日、「飛鳥美人輝きもう 一度」(朝刊31面)というカラーの特別面を設けた。 しかし、たとい高松塚古墳のように有名なもので あっても、古墳というものは人ぴとに恒常的に意識さ れるものではなく、こうして記事に取り上げられるこ とによって想起がなされる存在である。新聞・テレ ビ・雑誌や一般向けの出版物において、折にふれて言 及されることにより社会的な生命が更新されているの である。そしてそもそも、発掘当時にもし新聞という メディアが存在しなかったら、この古墳や壁画は現在 これほど大きな価値があるものだと社会的に認知され ていただろうか。 そこで本稿では、存在が知られていなかった過去の モノ(特にこの場合は壁画)が、報道によっていかに して価値とイメージを付与され現代の社会に流布する のかという問題について、新聞記事1)を素材とし、 E.ゴフマンや B.アンダーソンの議論も参照しつつ、 いくつかの切り口を設定して読み解いていきたい。 1 .データと視点 高松塚古墳において壁画が見つかったのは、1972(昭 和47)年 3月21日であった2)。明日香村に依頼されて 発掘を進めてきた奈良県橿原考古学研究所(以下、橿 考研と略記)による記者発表がなされたのは 3月26日 であり、新聞では翌27日以降、連日報道が行われるこ

小 川 伸 彦

とになる。各紙に多数の記事が登場したため、それら を網羅的に検討することにはかなりの困難が伴うが、 本稿では、できるだけ多くの記事を収集し分析と解釈 を加える。 収集対象とソースは、毎日新聞(縮刷版)・日本経 済新聞(縮刷版)、朝日新聞(縮刷版・データベース 「聞蔵」・奈良版マイクロフィルムを併用)、読売新聞 (データベース「ヨミダス」)、産業経済(サンケイ) 新聞(奈良版を中心とする原紙による・夕刊なし)、 大和タイムス(現奈良新聞の前身である地元紙・マイ クロフィルム・夕刊なし)の6紙である。「高松塚」 に関係のある記事は短信的なものも含めて広く収集し たが、見落としがある可能性は排除できない。特にサ ンケイ新聞は、閲覧できた資料の限界から現時点では 遺漏がある3)。なお上記以外に、新聞原紙スクラップ 帳資料(作成者不明、筆者蔵)も活用した4)口この資 料に収められているのは大阪本社版の記事であり、上 記の縮刷版やデータベースは東京本社版であるため、 比較材料としても利用できる。さらにこのスクラップ 帳資料には一部に奈良地域面も収められている。 報道や論評が沈静化するのは、同年4月17日に文化 庁による応急保存処置がなされた頃であるが、本稿で は発見直後の熱気ある報道の時期に絞って検証を行い たい。具体的には、最初の記事が出た 3月27日(月) から4月5日(水)までの10日間とし、この間の記事 のく見出し一覧>を本論文末尾に掲げる。ただし、解 釈や分析の際には、

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日以降の記事を参照した場 合も若干ある。 このような新聞記事の分析に際しては、資料を量的 に扱い、データマイニング等の内容分析の手法が適用 されることも多い。ただし今回は、<対象への価値付 与>という視点からいくつかの解釈枠組みを抽出する ことを目的とし、もっぱら質的な読み取りを行うこと とする。視点の詳細については、次節で説明し、その

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後、命名論( 3節)、ナショナル化論( 4節)、ロゴ化 論(5節)という 3つの切り口で論を展開する。

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.

モノのアイデンティティ・ベグ ーく価値ベグ>という視点一 上述の通り、 3月21日に発見された壁画について、 記者発表がなされたのは26日である口発表は、橿考研 の末永雅雄所長によって行われた。テレビニュースは その日の夜からこれを報じ(毛利 2007: 21)、新聞各 紙も翌27日の朝刊で一斉に伝えた。一面で報じたの は、朝日新聞・毎日新聞・サンケイ新聞・大和タイム スである。 一面とはいえ、毎日新聞の場合は、トップ記事が医 療関係であり「小児種痘、任意制に/副作用の被害重 視」などの見出しが目に入る(/は見出し聞の区切り を示す)。紙面左上のスペースは、この日がちょうど 初日に当たる選抜高校野球大会の閉幕予告にあてられ ている。壁画発見の第一報は、この二つの記事に挟ま れる形で、紙面中央の比較的大きなスペースを占めて いる。見出しは、「飛鳥から“壁画古墳”/近畿で初 めて/極彩で男女や星座/大陸交流貴重な手がかり」 (東京本社版)であり、図像は女性

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人の人物群像写 真(モノクロ)と天井星座の模式図が掲載された。 朝日新聞の扱いは異なる。一面のトップに発見報道 を据えたのである。それまで考古学記事が新聞の一面 トップを飾ることは前例がなかったとされており(毛 利 2007: 21 -22)、これは異例のことであった。東京 本社版の場合、最も目立つ見出しは横組み文字の「法 隆寺級の壁画発見/飛鳥に装飾古墳

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であり、縦組み 見出しには「男女像や白虎青竜/奈良県高松塚/七色 で大陸系風俗」とある。 毎日新聞の見出しと比較すると興味深い違いに気づ く。それは朝日が「法隆寺級の壁画」としている点で あり、毎日新聞は、「法隆寺」という語を使用してい ない。記者発表をした側が用いたさまざまな語棄の中 で、朝日新聞は「法隆寺」に着目し、それをひときわ 大きく呈示することによって、この高松塚の壁画に価 値付けをおこなったことになる。逆に言えば、「法隆 寺に匹敵する」ことをどこまで強調して報道するかは 各紙の判断にまかされているからこそ、見出しに差異 が生じたのである5。) 選択される価値 この問題をもう少し一般化して考察してみたい。上 の例で起きているのは、存在 Xが多様な価値( A、 B、C、D……)を持ちうる時に、どの価値を付与す るのかという選択の問題である。ここで

X

に相当する のが、今回の事例では高松塚古墳の壁画である。そし て、朝日新聞が価値A (=法隆寺級)に焦点化するこ とを選択したとするなら、毎日新聞は価値 B (=大陸 交流の貴重な手がかり)をやや控えめに示すことにし たわけである。 このメカニズ、ムを明確化するために参考になるの が、 E.ゴフマンのアイデンテイテイ論である。ゴフ マンはその著『ステイグマ』のなかで、「個人的アイ デンティティとは、特定個人が他のすべての人ぴとか ら区別され、さらに、この区別の手がかりの周辺に、 社会的事実についての一連の継続的な記録が帰せら れ、綿菓子のようにからまって、ついには粘着力のあ るものになり、それに、まだ他の伝記的事実が附着 することがある

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(Goffman 1963=1970 : 96)と論じ る。そして、ここにいう「区別のてがかり」をめぐっ ては、「ある個人のくかけがえのなさ>という概念に 含まれる一つの表象は、く決定的な標識>とかくアイ デンティテイ・ペグ> (identity peg)とかいう表象 であり、たとえば他人の心に浮かぶその人間の写真的 心像とか、特定の親族組織における彼の固有の位置 に関する知識である」(同: 94-95)とし、アイデン テイテイペグの例として指紋や話声、筆跡などもあげ ている(同:96。) この

E

義吉命に関して中j可イ申イ変は「ここで、ゴフマンが 論じているのは、明らかに、アイデンテイテイの同定 の問題、つまり、『(わたしは、あなたは、あそこにい るのは・・・)いったいだれなのかけという問いの答 えに当たるものを判別し、認識するやり方の問題なの だ」(中河 2010: 55-56)と整理している。 この議論の興味深い点は、アイデンティティの問題 を、それを有するはずのセルフの側からというより も、それを外部から同定する側に立って記述している 点であろう。それゆえゴフマンのこの着想は、文化遺 産(になりうるモノ)の価値同定のプロセスにも転用 が可能である。

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奈良女子大学文学部研究教育年報第10号 17 モノのアイデンテイテイ・ペグ そのような転用を試みるならば、人ならぬ事物の価 値は、くその事物を他のすべての事物から区別するた めに、どの決定的な標識を選択するかによって別様に 同定されていく>のだといえよう。上記の中河の言葉 をパラフレーズするなら、くこれは「いったい何なの か?」という聞いの答えに当たるものを判別し、認識 するやり方>が新聞報道においても運用されていると 一般にみなしうるのである。 そして1972年の

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月27日、まさに新聞各紙は、突如 出現した彩色の壁画をもっ古墳をどのように価値づけ すべきか模索していた。 26日の橿考研による記者発表 の様子については、「当時の記者たちにとって、今回 の発表がどれほどの意味を持つのか、会場で配られた モノクロ写真やはじめて聞く説明では、なかなかその 評価を下すだけの得心はいかなかった」(森岡 1995 94-95)という証言もある。実際の壁画を見て重要性 を確信したとしても、それがいかなる意味をもつのか をめぐる解釈や説明にはさまざまな選択肢がある。つ まり、上に示した模式の< A、B、 C>などがペグ候 補であるとすれば、どれだけのペグの種類があるのか も、どのペグによって古墳と壁画をアイデンティファ イすべきなのかも未決定の状態が初発にはあったので ある。そこから徐々にペグが選ばれ決定されていく過 程が、まさにこの高松塚壁画発見報道であった。 価値ベグ なお繰り返しになるが、ゴフマンが行ったのは、ア イデンティテイ・ベグ概念によって人間の個人的アイ デンテイテイの表象のされ方を説明することだ、った。 しかし本稿は、事物の価値をめぐる議論である。それ を明確にするため、以下では、アイデンテイテイ・ペ グ概念に代えてく価値ペグ>という概念を創案して用 いたい。ここにいう価値ペグとは、ある事物を他の事 物から区別した上で価値づけして表象するために用い られる標識のことである。 なおペグという語は、広義には、何かを固定したり 留めたりする機能をもつものを指し、テントなどを張 るときの杭やスポーツの際に地面に刺す目印といった 意味が一般的である。いっぽうゴフマンは、ベグとい う語を必ずしも明確に定義してはいないが、「アイデ ンテイテイ・ペグがいつでも使えるように準備される と、それを実質化するものは、それが手に入り次第い つでも、それに掛けることができる(canbe hung on it)」(Goffman1963=1970 : 97)という表現を用いて いる。したがってゴフマンの念頭にあったペグのイ メージは、杭のようなものではなく、留め釘や引っ掛 けフックのようなものであった可能性がある。本稿で もそのようなイメージで「ペグ

J

E

吾を用いることと したい。壁画発見の第一報に議論を戻すなら、朝日新 聞はこの壁画をまず、<「法隆寺級」という価値ペグ に引っ掛けた>ということになるのである。では、こ の「法隆寺級」という形容詞的な価値ベグは他のどの ような語柔群とともに何を表明するのであろうか。こ れは4節で取り上げ、まず次節では名詞的な価値ペグ について見て行きたい。それは、対象そのものをいか にく命名>するかという問題である。

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.

対象の命名 価値ペグへの引掛け(関連づけ)は、主として言語 を用いて行われる。そしてその最初期の段階に行われ るのは、現象や対象への命名であり、そのような命名 のフェーズは、社会心理学における社会的表象論にお いても重要視されている。 八ツ塚(2007: 104-105)のレヴューによれば、杜 会的表象(socialrepresentation)とは「社会的に構 成され意味づけられた現実」であるが、そのうちで も、「新しい社会的現実の生成メカニズムを定式化」 しているのが社会的表象論の特徴である。この定式化 プロセスで重視されるのが新規な現象の分類・命名の 側面であり、それは、 1)係留(anchoring)の過程 と、 2)物象化・客観化(objectification)の過程か らなる。両者の例として八ツ塚が挙げるのは、災害時 に活動するさまざまな人々がメディアによって、 1) まずひとくくりに「ボランティア」と命名され、 2) 次にこの語が次第に「現実味」を帯び、新しい社会的 現実として「単独で存立」するに至るプロセスである が、本稿で特に注目したいのは1)の係留の段階であ る。新規な現象が分類・命名されることにより、「既 存の社会的表象の体系へと位置づけ」(同: 104)され る過程である「係留」は、高松塚の場合いかになされ たのであろうか。以下では、社会的な認知を先導する 機能を有するという理由から、各記事の本文ではなく 見出し部分のみに注目して分析を進める。

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今回の事例の場合、命名の対象は古墳と壁画の2つ に区分できる。 まず古墳の名称から見ていこう(表 1)。 報道初日( 3月27日)の朝日新聞と毎日新聞の一面 の見出しを再ぴ比較してみたい。朝日新聞は、「法隆 寺級の壁画発見飛鳥に装飾古墳/男女像や白虎青 竜/奈良県高松塚/七色で大陸系風俗」であり、毎 日新聞は「飛鳥から“壁画古墳”/近畿で初めて/ 極彩色で婦人や星座/大陸交流貴重な手掛かり」で ある(ともに東京本社版)。ここには、朝日が「装飾 古墳」、毎日は「“壁画古墳”

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としているという違い がある。「装飾古墳

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は九州、!などにすでに存在するも のをさす戦前からの考古学用語である(cf.浜田・梅 原 1917)。いっぽうの毎日が、「壁画古墳」をクォー テーションでくくっている理由は明確で、はないが、九 州にあるような図形的装飾ではなく、「画」と呼べる だけの視覚性を備えたものであることを強調する狙い があったのかもしれない。 この日すでにサンケイと日経は、考古学上の固有名 詞でもある「高松塚古墳」を使用していたが、「明日 香の壁画古墳」(28日、読売)、「飛鳥古墳

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(29日、朝 日)などの名称も使用された。一方、第一報で使用さ れた「装飾古墳」は29日以降ほとんど見られなくな り、「壁画古墳」と「高松塚古墳」の併用期をへて、

4

4

日には「高松塚古墳」にほぼ一本化されている ことが表lからわかる。 この例は、新規な事物の名称が報道上でどのように 定着するかの過程を示すものとして興味深い。図式的 に整理すれば、

3

つの段階を経たことがみてとれる。 第一段階は、各紙の判断で対象にさまざまな名称が付 与されるフェーズであり、報道初日の朝刊では

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紙す べてが異なる名称を用いていた。続報に現れた第二段 階は、正式な名称(「高松塚古墳」)と、壁画があると いう特徴を表現する名称(「壁画古墳」)が併用される フェーズである。そして最終段階は、ほぼ全紙が正式 名称(「高松塚古墳」)に収敬していくフェーズであ る。この段階に至ればすでに名称が広く浸透し、名称 に工夫をしなくても内容が通じる記号となったといえ るだろう。 では、古墳ではなく壁画の名称はどうであったのだ ろうか(表2。) 報道初日の27日は、「装飾壁画」(朝日)、「飛鳥壁 画」(毎日・読売)、「彩色壁画」(読売)、「極彩色壁 画」(大和タイムス・日経)と、古墳同様、非常に多 様であったO 28日には「飛鳥壁画」(読売)、「彩色壁 画」(大和タイムス)、 29日には「飛鳥壁画」(朝日) 「装飾壁画」(読売)とならんで新しく「明日香壁 画」(日経)が登場するが、普通名詞によって発見を アナウンスする周知期間が続いていることが読み取れ る。そして、固有名詞化が果たされるのが29日であ り、朝日新聞が「高松塚古墳壁画」とした。これは同 紙が別刷りカラー特報を組んだ際にフォーマルな名称 を用いたものである。この日の毎日新聞は「飛鳥壁画 古墳」としたが、これは飛鳥という既知の固有名詞 (広い範囲の地名)と普通名詞の折衷型である。そし て最終的には、毎日新聞も「高松塚古墳壁画」に収敬 する。上で見た古墳名称と同様の三段階過程が、壁画 の命名においてもほぼあてはまるといえるだろう。 興味深いのは、多元的な命名状況から一足飛びに正 式な固有名詞に移行せず、両者のあいだに折衷的な フェーズが存在することである。社会的に新規な存在 とその名称(高松塚古墳壁画)は、誰もが知っている はずの固有名詞(明日香や飛鳥)に媒介されること で、社会的に認知されるに至ったといえるのである。

4

.

<法隆寺級>という価値 ーローカルなもののナショナル化 記号としての法隆寺 前々節でも触れたように、朝日新聞は

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月27日の朝 刊一面トップに「法隆寺級の壁画発見

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という大きな 見出しを掲げた。この「法隆寺級」という言葉は、朝 日新聞が全く勝手に作り上げたものではない。橿考研 所長として記者発表を行った末永雅雄が「文化史的に も、美術的にも法隆寺の壁画に匹敵するものだ」(同 記事本文

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段目)と述べた部分と呼応しているからで ある。 見出しに「法隆寺」と打ったのは朝日だけではな い。同日の大和タイムスも一面で、「古墳から極彩色 壁画」というメインの見出しに添えて、「法隆寺壁画 にも匹敵」とサブの見出しをつけており、日経新聞 (同日朝刊23面)も、大見出しは「極彩色の壁画発 見」であるが、末永所長の談話紹介部分では「法隆寺 に匹敵」という小見出しを目立つように配している。

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奈良女子大学文学部研究教育年報第10号 19 表1 新聞各紙の見出しにおける「高松塚古墳」名称一覧: 1972年3月27日∼ 4月 5日 凡例:・A=当該日のA新聞の見出しにその名称が一度は使用された ?=スクラップ帳資料の、出所が不明確な記事 略号:大=大和タイムス、朝=朝日新聞、毎=毎日新聞、読=読売新聞、日=日本経済新聞、サ=サンケイ(産業経済)新 聞(備考:一日一回発行の大和タイムスとサンケイ新聞は「朝刊

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でカウント)

λ

h

3月27日 28日 29日 30日 31日 朝刊 夕刊 朝刊 夕刊 朝刊 夕刊 朝刊 夕刊 朝刊 夕刊 古墳 ・大 ・朝 ・大 装飾古墳 ・朝 ・朝 . ・読 朝? 壁画古墳 ・毎 ・毎 ※毎 ・毎 ・読 ・毎 ・毎 ・毎 (※飛鳥の壁画古墳) ・朝 奈良の古墳 .読 明日香の古墳 ・日 明日香の壁画古墳 .読 飛鳥古墳 ・朝 高松塚古墳 .サ .日 ・日 ・読 ・毎 ・大 ・朝 .サ ・毎 .朝 .読 ・毎 ・朝 .日 .朝 高松塚の壁画古墳 ・朝 ナゾの古墳 .サ 高松塚 ・大 ・大

~

4月l日 2日

3

日 4日 5日 朝刊 夕刊 朝刊 夕刊 朝刊 夕刊 朝刊 夕刊 朝刊 夕刊 古墳 ・毎 ・日 ・日 ・毎 小円墳 ・大 装飾古墳 .朝 壁画古墳 ・朝 ・大 ・朝 .朝 ・毎 高松塚古墳 .日 ・朝 ・サ .毎 ・大 ・毎 ・毎 ・サ .読 ・朝 ・毎 ・読 高松塚 ・朝 ・サ ・大 ・大 ・毎

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表 2 新聞各紙の見出しにおける高松塚の「壁画」名称一覧: 1972年3月27日∼ 4月5日 凡例と略号は表lに同じ

k

3月27日 28日 29日 30日 31日 朝刊 夕刊 朝刊 夕刊 朝刊 夕刊 朝刊 夕刊 朝刊 夕刊 壁画 ・大 ・朝 ・大 装飾壁画 .読 .読 彩色壁画 極彩色壁画 ・大 .日 .サ 極彩色の壁画 .サ ・日 飛鳥の彩色壁画 .読 飛鳥壁画 ・毎 .読 ・朝 ・朝 .読 .日 ・読 .読 飛鳥古墳の壁画 ・朝 飛鳥の装飾絵画 ・朝 明日香壁画 .日 高松塚の壁画 ・朝 高松塚壁画 ・朝 高松塚古墳壁画 .朝 ・朝 .朝 ・サ 高松塚古墳 ・大 極彩色壁画 古墳壁画 .日

~

4月1日 2日 3日 4日 5日 朝刊 夕刊 朝刊 夕刊 朝刊 夕刊 朝刊 夕刊 朝刊 夕刊 壁画 ・大 ・大 ・読 .読 .朝 .読 飛鳥の壁画 .読 飛鳥壁画 .読 高松塚古墳壁画 ・毎

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奈良女子大学文学部研究教青年報第10号 21 なお以上からも分かる通り、「∼∼級」という表現 は朝日新聞のみである。毎日新聞が本文で、「美術史 的には法隆寺金堂壁画に匹敵するもの

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(同日朝刊1 面)としていることも勘案すると、末永が口頭で用い た表現は「匹敵」であって、「∼∼級

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としたのは朝 日新聞独自の形容であると推測される6。) この「法隆寺

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の見出しについては、美術史家の 山下裕二が次のように述べている7)。「この見出しに は、『戦後』が失った日本の『財産』としての文化 を、この発見でとりかえした、というようなニュアン スが込められていると思う

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(山下 2000: 79)。ここ で「失った」とあるのは、 1949年の法隆寺金堂壁画焼 損のことを指している8)。つまり、この壁画から得ら れる情報が文化史的にも美術(史)的にも法隆寺金堂 壁画と同じくらい重要だ、というだけでなく、焼損して 見る影もないほどに傷んだ法隆寺壁画に成り代わって く何か>を担いうる存在が発見された、ということに なる。 ではこのく何か>とは何であろうか。そもそも「法 隆寺」を持ちだした末永はこの記者発表で次のよう に述べたとされる。「同壁画は法隆寺の壁画に匹敵す るものなので、国がなんとか保存対策をとってほし い」(日経新聞、

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月27日朝刊23面)。つまり、末永は 「法隆寺」という語を、単に文化史・美術史的な価値 の規準としてではなく、国家的レベルの価値があると いうことを示す記号として用いていたのである。した がって、「法隆寺級」とした朝日新聞は、「法隆寺

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と いう語の記号性を察知しそれを巧みに見出しとすべく 「級」を付したのだと言えるだろう。また、「法隆寺 級

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という見出しは、全く知名度のない考古学的遺跡 の記事を朝刊の一面トップにすえるという異例の扱い に正統性をあたえる働きもしているといえるだろう。 そしてこれは、まさに「日本の『財産』」(山下、向 上)を表す記号であるともいえるだろう9)<日本> を象徴するものとして使用される様々な記号のうち、 法隆寺金堂壁画が損なわれて以来いわば空席であった 部分を埋めるものとして、新発見の高松塚古墳壁画に はく法隆寺級>という価値ペグが付与されたのであ る。 ナショナル化への視点 ここまでの議論に対して、<高松塚古墳壁画は重要 なのだから国民的価値があって当然ではないか>とい う反論もありえよう。しかし本稿では、どんなモノで あっても、それが国民的価値をもつかどうかは最初か ら一義的に決定されているのではなく、さまざまな言 説上の技法が駆使されることによって、徐々にナショ ナルなものになっていくという立場をとる。 なお本節にいう「ナショナル化」は、田中滋の「ナ ショナリゼーション」概念(田中 2004、田中・水垣 2005)にヒントを

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尋ている。ただし田中の議論1土、国 民国家の形成について、(1)国民国家が形成され、(2)商 品や資本の流通やヒトの移動の全国規模化が進行し、 (3)<農山村一都市>あるいはく中小都市一大都市>な どの国内地域分業・分化関係がより明確に生まれてく るという全過程を視野に収めたスケールの大きなもの である。いっぽう本稿では、近代化達成以降も継続す るナショナルなものの生成と流布の形態を事例にもと づいて跡づけることになる。 では、この壁画の発見報道をめぐっては、何がいか にしてナショナルになっていったのであろうか。 制度的なもの 高松塚古墳のある土地はほとんどが固有地であっ た。しかし、壁画の発見をもたらした発掘自体は、こ の古墳を域内にもつ明日香村というローカルな主体に よって行われた。道路新設による古墳の破壊をくいと めて飛鳥地域保存に資することや、文武陵であるとい う江戸期からの伝承を確認すること、さらには準備が 進みつつあった『明日香村史』にこの古墳の情報を盛 り込む必要のため発掘調査は村費で実施されたのであ る(末永 1972および伊達 1974: 502。) 調査は

3

月1日に開始され21日に壁画が発見された が、その内容を知った末永の素早い判断によって、 26 日の記者発表の直後に古墳は一旦閉塞された。この措 置について末永は次のように記している。「永久の閉 塞を意図したものではなくやがて国家の処理に移し、 国家は調査と保存に対する完壁な処置をとるであろう ことを期待してのことであり、明日香村・奈良県で処 理をしようとすれば大きな意味から私物化の倶れがな いとはいえない」(末永 1972。) つまりこの壁画古墳は、記者発表の時点ですでに ローカルな自治体のレベルを超え、「国家」的な価値 をもつものとして扱われるべき対象として呈示されて

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いたので、ある。これに呼応して、国レベルの見解を文 化庁関係者の談話として掲載した新聞もあった。当時 文化庁にいた田中琢(朝日は文化庁調査官、毎日は文 化庁記念物課技官という肩書を記載)の言葉を、朝日 新聞は「戦後最大の発見の一つ」という小見出しのも と、次のように伝えている。「これは考古学界の戦後 最大の発見のひとつだ。文化庁としては、どうしても 保存しなければならない貴重なものだと思う。特別史 跡級のものだ」(3

27日朝刊 1面)。またこの日の夕 刊において各紙は、その日の午前に聞かれた文化庁の 緊急対策会議にふれ、特別史跡、と国宝の二重指定の可 能性などを報じている(日経11面、朝日 1面、読売10 面、毎日11面、大和タイムスは翌28日朝刊 l面)。 しかし、文化庁が動き出しているといった、いわば 制度的なお墨付きさえあれば、人々の聞にナショナル な価値が自動的に浸透するわけではない。そしてこの 古墳の場合、ナショナルな語葉がさまざまに繰り出さ れつつも、単純にナショナルな価値を称揚できないと いう事情もあった。このあたりを次項でみていこう。 ナショナル’性をめぐるジレンマ この壁画が単なるローカルな一地域の文化財ではな いという認識は、たとえば朝日新聞では、「日本民族 の遺産がまたひとつふえた」(3月27日、朝刊3面) や「日本の考古学に新たな一ページを書き加えること になるかもしれない」(問、小林行雄談)といった表 現に如実に現れている。毎日新聞でも、リード文に 「全国でも初めての“壁画古墳”

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(毎日、

3

月27日夕 刊11面)という表現が用いられた。なおそこに添えら れた大見出しは、この記事の大阪版が「明日香村興奮 /ピカーの名物だ」であるのに対し、東京版は「日本 史“興奮”/「早く見たい」殺到」であるという興味 深い対比を示す。奈良を含む地域に配達される大阪版 では「村民」の視点から「名物

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というローカルな価 値を重視し、遠く離れた東京版では「日本史

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という 大きな価値との関連付けを主眼にすえているのであ る。 なおこのような、壁画の価値をローカルに位置づけ るかナショナルに位置づけるかという選択肢とは別 に、この壁画にはもうひとつの対立する軸が存在し た。それは、これがそもそもどこまでナショナルな存 在なのかをめぐる問題である。 壁画の発見は、日本とほぼ同時に韓国でも大々的に 報道され(cf.森岡 1995: 96)、その動向は「『朝鮮民 族の貢献

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強調/古墳壁画に韓国の反響」(日経、

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30日東京版朝刊22面)などと日本の各紙も紹介して いた。韓国側は、日本に存在する古代の朝鮮文化とい う価値ペグに高松塚古墳壁画をヲ|っ掛けていたので、あ る。 そして日本でも、たとえば、「古代史研究に興味を もやす作家松本清張」は、「九州の装飾古墳が日本特 有」であるのに比して、高松塚の場合は、「被葬者が 渡来人なら壁画を描いたのも渡来人だと思う」(朝 日、 3月28日東京版朝刊 3面)と「朝鮮からの渡来 人」説を唱えたとされる。毎日新聞も連載記事のなか で「いつ、だれが描いたか」というテーマを立て、 「七世紀前半、帰化人か」(毎日、

3

月30日東京版朝 刊14面)という見出しで、奈良国立文化財研究所の長 谷川誠の説を披露しており、読売新聞も「作者は西 域画家か」(4

1日東京版朝刊 15面)という見出し で、田中琢の見解を詳しく紹介している。 このように被葬者も描き手も「日本特有」ではない という説に対し、留保付きながらも被葬者を「埋葬者 は草壁皇子?/直木大阪市大教授の見解

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(読売、

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月29日東京版夕刊 10面)、「天武系の皇子」(毎日、 3 月31日東京版朝刊23面)とする場合もあった。また、 今回の見出し一覧の時期からは少し外れるが、専門家 による座談会(毎日4月7日東京版朝刊3面)では、 末永雅雄(橿考研)・松下隆章(京都国立博物館長)・ 上田正昭(京大教授)・吉田光邦(京大助教授)の聞 につぎのようなやりとりもあった。 松下私は、壁画は高句麗とは全然違うと思う。大 和絵ですよ。 末永松下さん、あなたが大和絵と言われた着眼は 大したものだ。高句麗の影響は否定しないが、 私も大和絵と確信する。(中略)あの壁画には 日本の宮廷婦人のしゅく然とした姿が感じられ る。今後の総合調査に期待したい。 (中略) 上田 大和絵というのはありがたい指摘だ。私は専 門家ではないが、伝統的な画法に唐のものが重 層し白鳳期に日本化するプロセスを考えていい のではないか。

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奈良女子大学文学部研究教育年報第10号 23 (中略) 吉田 (前略)高句麗の安岳古墳の画法に似ている 点もある(中略)松下さんがいうように大和絵 のにおいがするが、それだけでは片付けられな い点もあると思う。 結局、記事全体としては「唐代の影響濃い

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などと もに、「人物像は大和絵か」という見出しが目立つも のとなっている。 古墳と壁画をどこまで日本的なものとして捉えるの か。特別史跡や国宝に指定される可能性があるほどの 睦目すべき考古学的・美術史的発見が、結局渡来人が 渡来人を埋葬するために作ったものであってよいの か。そのような認知的不協和をなんとか解消しようと する試みが、この座談会や見出しのつけ方に現れてい るといえるだろう。 ジレンマ対処の言説 各紙の記事を検討すると、このねじれた構図をいち 早く察知し、不協和をより高次のレベルで解消しよう とする試みがいくつかあったことに気づかされる。そ の一つが、日経新聞の連載記事「飛鳥のいぶき・上」 (4月4日東京版朝刊22面)である。その締めくくり 部分には、「こんどの発見は単に『日本のふるさと

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としての飛鳥に、また一つ新しい宝物がふえたーーと いうような興味だけではない。歌にったわる万葉人の 背景には、広く東アジアの複雑な国際関係に基づいた 文化交流の動きがあったことを千三百年の時間を隔て てはだで感じられる絶好のチャンスである」とあり、 日本的なものが単純に集約されている場所として飛鳥 をみる眼差しを変更しようとしている。また、この数 日前の朝日新聞に司馬遼太郎が寄稿した文章「幻想さ そう壁画古墳」(朝日、 4月1日東京版夕刊7面)も 注目される。結論部分の段落で司馬は「被葬者がだれ であるにせよ、この高松塚という華麗な壁画古墳の出 現は、われわれの歴史が決して孤独なものではなく、 東アジアの大きな広がりのなかでいきいきと息づいて いたことをあらためて証拠づけてくれた」と述べてい るのである。 このふたつの記事に共通のキーワードは「東アジ ア」である10)。これは上述の認知的不協和に対する、 非常によく練られた切り返しであると言えるだろう。 というのも、まずひとつの水準においてこの古墳と壁 画は日本的なものではなく、より大きな東アジア的な るものを指し示すものとして価値づけられているから である。そして同時にもう一つの水準において、この 古墳と壁画は、「日本が国際社会の紛糾や騒乱をもろ に体験した最初の時代」(司馬、向上)を体現するも のともされた。つまり、たとい被葬者や絵師が渡来人 であっても、東アジア的騒乱の時代を日本が経験した ことの証拠としてこの古墳と壁画を日本の歴史上に銘 記しうるという価値が付与されたのである。ここにあ るのは、高松塚古墳と壁画が、くモノ>としてナショ ナルではなくとも、大陸との交渉史なしには日本を記 述できないという<コト>の証人としてナショナルな 価値を有しているという巧みな止揚だ、ったのである。

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口ゴ化ーカラー報道の帰結− 今、筆者の手元には一つの色刷り資料がある。それ は新聞原紙の切り抜き(3月29日朝日新聞の別刷りカ ラー特報)であり、西壁の女子群像がフルカラーの写 真で掲載されている。比較的知られていることではあ るが、この特報写真こそが、高松塚古墳壁画の発見を メディア上の大事件に引き上げた要因の一つなのであ る。 「カラー特報」が実現するまで この朝日新聞のカラー特報は表面のみがカラーで あり、写真のサイズはタテ49.8センチ、ヨコ32.8セン チ。後に同じ写真をカラーで掲載した毎日新聞の「あ でやか飛鳥の姿」(4月3日)は、写真サイズがタテ 31センチ、ヨコ38.5センチで、下部3分のlほどは横 長の広告欄である。これに比しても、完全に紙面の全 面を使用した朝日のインパクトはかなり大きい。女子 群像は

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人が横に並ぶ構図であるため実際には毎日新 聞の掲載形式で事足りる。朝日の場合は、結果的に余 白を大きく見せることになり、広い平面上をたゆたう ような人物像の独特の雰囲気が伝わることとなった。 このカラー写真が朝日新聞の特報として掲載され た経緯については、すでに様々な言及があるが(青 山 1977、向井 1992、毛利 2007、朝日新聞社 1994、) 語られるテーマは大きく三大別することが可能だ。ひ とつは、人間関係論。もうひとつは技術論である。 3月28日午前、朝日新聞の安竹一郎(もと奈良支

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局。壁画発見時は社長付)と藤井秀弥大阪本社学芸部 長は、大阪・狭山にあった末永の自宅を前夜に引き続 き訪れ、西壁女子群像などのカラー原版を借り受け た凶。人間関係論というのは、なぜ朝日が壁画写真の カラーネガを入手できたのか、という問題にかかわ る。これについては、末永と安竹との間にあったとさ れる強い「信頼関係」(向井 1992: 346)によって説 明する説が有力であり、さらにその紳は、以前から朝 日新聞が末永の研究をサポートしてきた実績にも裏付 けられたものでもあった(朝日新聞社 1994: 517。) また、韓国の新聞にカラー写真を提供するタイミング と合致したことも大きい12。) ただしこの同じ28日の午後には、毎日新聞学芸部デ スクであった青山茂も末永の自宅で粘り強く交渉し、 男子群像と青龍のカラー原版の借り出しに成功してい る(青山 1977: 156)。にもかかわらず、毎日新聞紙 上への掲載が朝日より 4日も遅れたのはなぜか。それ が技術論にかかわる部分だ口 朝日新聞社では、 1959年にカラー印刷による日曜版 を開始して以降技術革新をすすめ、 1969年までには東 と西(日野市および豊中市)に多色刷りオフセット印 刷工場を稼動させていた(朝日新聞社 1994: 460以 下)。このため、 28日の午後 l時に大阪本社に届いた 原版はカラー分解の工程などを経て、午後11時には豊 中で印刷を開始できたのである。この写真の網ネガは 同日夜の航空便で東京にも送られ、翌夕刊には東京本 社版でもカラー特集が組まれることになった(同: 517 -519) いっぽうの毎日新聞では、入手したネガで「明日の 朝刊に色刷りを」せよとデスクの青山が主張しても、 輪転機の確保や洗浄が間に合わず、技術的に不可能だ、っ た。この方面で毎日新聞は、他社に比して「数年来の 停滞を続けて」(青山 1977: 156)いたからである。 カラー報道のもたらしたもの このような格闘を経て掲載された朝日新聞のカラー 別刷りはどのようにうけとめられたのだろうか。た とえば、当時「広島の田舎に住む中学一年生

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だっ た山下は、「新聞の紙面に大きなカラー写真が載った のに、かなりび、っくりした記憶が、確かにある

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(山 下2000: 80)としている。よって、「そのあざやかな 色彩の力は圧倒的で、このニュースはその日のうち に日本中を駆けめぐった」(向井 1992: 338)とする ジャーナリストの言葉もあながち誇張ではあるまい。 ではこのカラー報道は結局何をもたらしたのであろ うか。さまざまな記録・論考や手記等から判断する に、注目すべきポイントが少なくとも

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つあるといえ ょう。 第1は、考古学報道のスクープ化である。本来、考 古学的な発見にかかわる報道は、発掘主体が行う記者 発表に依存するため、特定の新聞社が他を出し抜くよ うな記事(スクープ)を掲載することは困難なはずで ある。今回の場合、

3月

26日に行われた橿考研による 発表を、どこまで詳しく報じるのかという判断には差 があった。実際、読売新聞などは、当初は社会面に小 さな扱いをして出遅れ気味であった。このような違い はありえても、発表された内容を記事化している限 り、「特ダネ」にはならない。しかし蓋を開けてみる と、報道

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日目に朝日新聞の鮮やかなカラー特報が全 国の読者の眼を奪い、空前のブームに火がついたので ある。 その結果、古墳が閉鎖されているにもかかわらず、 わざわざ明日香村にかけつける人も多数出始めた (「明日香へ行楽ラッシュ

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[日経4

3日朝刊])。ま た、当時の様子を目の当たりにした森岡秀人(関西大 学学生として発掘調査に従事)も、マスコミのみなら ず「歴史ファンの人たちも殺到しました。朝一番の新 幹線で東京からとか、夜行列車で九州から来たから古 墳の中を見せてほしいとか。タクシーも(中略)細い 道まで、突っ込んで、きました」と語っている(「飛鳥美 人に恋して40年③

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産経新聞、 2012年4月18日夕刊5 面)。 報道他社にしてみれば、朝日にしてやられたとの思 いも強く、また同時に、取材のやり方次第で考古学報 道も大きなスクープとなりうる、というメディア側の 認識の醸成にもつながったO 実際、当時毎日新聞社に 所属していた青山は、その 5年後の手記で「大スクー プを目前に−一」という無念の表現を使用している(青 山 1977: 154)口報道が考古学的発見をもてはやすよ うな傾向は、まさにこの女子群像写真報道合戦から生 じたと言っても過言ではなかろう。 そしてそのようなスクープ志向により「発掘結果 の価値がゆがめられるケースは少なくない」(中村 2004: 29)とさえ言われるほどである。考古学者の新

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奈良女子大学文学部研究教育年報第10号 25 納泉が整理しているように(新納 1986)、考古学と ジャーナリズムの関係は、プラス面とマイナス面の両 方が存在する。ただし、その望ましいあり方を模索す ることは本稿の目的ではないため、ひきつづき何が起 こったのか/起こりうるのかをみていきたい。 第2は、可視的特徴の偏重化である。古墳において 学術的に重要なのは色鮮やかな壁画ばかりではない。 たとえば、古墳本体を建造する技術(版築)も重要で あるし、どの深さにどの様式の土器が検出されるのか も時代同定のためには欠かせない情報のひとつである (cf.森岡 1995: 103-5)。壁画にしても、人物像だ けがあったのではない。毎日新聞などは天井の星座 (星宿)に早くから注目しており、見出しでもしばし ば言及していた( 3月28日朝刊)。しかし次第に話題 の中心は人物群像など色鮮やかなものに移行していっ たのである。たとえば、後年キトラ古墳が広く注目を あつめるのもこの傾向の延長上にあるといえるだろ

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は、スケールの誤認。女子群像を始めとする壁 画の実物大模写などを見て、予想外に小さいと感じる 人は少なくない。たとえば、上でもヲ|いた山下は「あ の大量に流布した『高松塚美人』の画像を漠然と脳裏 に刻んでいる人がこの壁画館(ヲ|用者注:高松塚古墳 壁画館)で実物大の模写を見たら、さらに拍子抜けす るに違いない」(山下 2000: 81)と語っている。なぜ このようなことが生じるのであろうか。ひとつには 「古墳」というもののスケールイメージが影響してい るであろう。つまり、古墳といえばつい大きなものを 想像してしまう人にとっては、古墳壁画を想像する際 も、それに見合った大きなものをイメージしがちであ るということ。また、「壁画」という語棄もどちから といえば、大きなものを想起させる力を持っている。 たとえば、上野駅中央改札の上にある猪熊弦一郎によ る大きな壁画は 1951年の作であり、戦後長年の問、上 野駅を利用する多くの人々の眼に無意識のうちにと まってきただろう。高松塚古墳壁画発見の2年前に開 催された大阪万博で、各国のパピリオンの壁画的な装 飾を眼にした人も多かったであろう。「壁画」を“壁 面画”の略であると考えるならば、そこに描かれた人 物も、かなり大きく想像されて不思議はない。そして さらにここに写真というメディアの作用を付け加えた い。常日頃から、新聞紙上をはじめとして写真という 媒体で目にする対象は、縮小されてそこに存在してい る。逆に言えば、写真を目にした時、我々は自動的に それを元に戻しつつ、つまり拡大して認識すべきもの として捉える習性が身についている。 カラー特報で一面全体を使用して視覚化された女子 像は印刷上での身長が約20∼21センチである。それを 目にする我々は、まさか実物がその1.5倍にすぎない (約30センチ)とは思いもよらず、数倍にも拡大して 想像しがちなのである。 第

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はロゴ化である。これについては項を改めて説 明しよう。 ロゴ化 視覚的魅力が最も高い西壁女子群像は、メディア上 に何度も登場するっちに人々の脳裏に強い印象を残 し、高松塚古墳壁画を象徴する図像に変換され流布し はじめる。その最初の事例は、発掘現場周辺で転売 されたという新聞写真であろう。それは、「朝日のカ ラー特報の写真の部分だけを切取って、厚紙の台紙に 員占ったもので一枚なんと千円」(青山 1977: 158)と いう商法で、「次ぎ次ぎ売れ」たという。図像の転用 は正規の形でも相次いだ。「額絵、額皿、ネクタイ、 風日敷、着物や帯の模様からペーパーバッグ」(向 上)といったものに壁画写真をプリントする利用申し 込みが村役場などに寄せられたのである。これはまさ に、考古学的図像の商品化であり、カラーネガという 複製可能な形態に移し替えられたことで、加速度的に そのイメージ、が物品や出版物に載って流布するのであ る。 また、私事で恐縮であるが、筆者が小学生高学年 だ、った 1973年頃、親しい友人の家の玄関に額装された 大きな西壁女子群像が輝くばかりに掲げられていたの を今も記憶している。奈良女子大学文学部にも、数年 前まで、小さな額に入った西壁女子群像がさりげなく 飾られた共同研究室があった。社会科の教科書や戦後 史を通覧する書籍(三省堂 1991のカラー口絵など) でこの図像が採用されているのも、一連の流布過程の 一部であるといえよう。 このような、考古学的事物と複製技術の関係につい ては、 B.アンダーソンの議論が参考になる。彼は、 東南アジアを事例として、遺跡のイメージの流布過 程を次の

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つのステップに整理した(アンダーソン

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2007: 296-7を簡略化)。 1)何十枚もの写真が付された考古学的報告書作成 →2)一般消費用の挿絵の多い本 →3)一般的ロゴ化 今回は、「極彩色壁画」という焦点が明確であった ことや、記者発表というアンダーソンが想定していな い方法が採用されていることもあって、 1)と 2) の順序が入れ替わった。そして、「本」ではなく、新 聞・テレビ・週刊誌といったものが先行的に複製イ メージを流布させたのである。 いっぽう、 1)にあたる考古学的報告書としては、 同年10月に『調査中間報告』(前掲)が、翌1973年に は『高松塚古墳壁画調査報告書』(高松塚古墳総合学 術調査会編)が出された己 3)の「一般的ロゴ化」の 例としてアンダーソンは、絵葉書・学校教科書・ホテ ル名称への採用・土産物食品名での使用(例:ボロブ ドウール・フライド・チキン)などを挙げている。高 松塚古墳壁画でいえば、上述の額絵や風日敷の商品化 などがこの段階に相当するといえるだろう。そしてア ンダーソンは「郵便切手

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(同: 297)の発行もこの第 3段階の例としているが、高松塚においても同様の動 きが起こった(明日香村史刊行会 1974: 427、明日香 村 2006: 119-120)。古墳を周辺地域も含めて保存す るための資金を確保するアイデアとして寄附金っき切 手発行の企画が進められ、発表一周年にあたる 1973年

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月26日に高松塚古墳の壁画切手が発売されたのであ る。これは日本初の議員提案による寄附金っき切手で あり、そのための法律を前年6月に公布・施行(法律 第一

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七号)したうえでの発行であったD 使用された 図像は、朝日新聞がカラー特報で使用した西壁女子群 像だけではなく、その他の壁画もセットで切手化され た。 したがって一つの図像に限定されたわけではない が、高松塚の壁画は、国家が認める正統な図像であ ることが、法律の裏付けとともに示されたことにな るのである。切手は全国津々浦々の郵便局(当時は郵 政省が管轄)で発売されるメディアである。壁画の図 像が、マスメディアによってではなく、国家によって 公式に日本全土に流布させられることになったのであ る。 以上のような重層的な動きから読み取れるのはナ ショナル化とロゴ化の相互的な関係であるといえよ う。つまり、この古墳壁画は、まずは、「日本」とい うものを古代にさかのぼって検証する手がかりとして の価値があるゆえに、図像がさまざまな主体によって 複製され流布されたという側面が一方にある。そして 逆にもう一方で、、視覚的魅力をそなえていたがゆえに 流布対象となりやすく、それが持続的に流通した範囲 である「日本」を結果的に象徴するアイコンとなった という側面も有している。 おわりに 過去はどのようにして現代に更生るのであろうか。こ の問題に迫るための一環として、本稿では高松塚古墳 壁画への評価が、その発見当時に新聞メディアによっ ていかになされてきたのかを見てきた13。) さまざまなトピックのうち、今回は、対象の命名・ ローカルなもののナショナル化・図像イメージの流布 の3点に絞って検討を加えたことになる口もちろん他 にも対象を価値付ける方法を抽出することは可能で、あ る。さまざまな「謎」が発見され、それについて継続 的に記事化がなされるといったこともこの発見報道の 特徴であった。今回論じたことの中にも至らぬ点があ ろう。特に、ナショナル化に関しては、 60年代から進 められてきた明日香村保存の動きも視野にいれる必要 がある(cf.森本 2001: 37-96)。 なお、過去がいかに現在に更生るかという問題は、す でにさまざまな形で論じられてきている。たとえば、 博物館という空間におけるく歴史のつくられ方>に関 しては浜(1998)などがある。また、拙稿(2003) は、寺院における案内解説の過去を現前化させる機能 に関して論じたものである。さらに山泰幸の一連の論 考(2009、2013)は、「遺跡の時制は、現在である」 (山 2013: 127)というパースペクテイブのもと、 「遺跡」がいかに存立しうるかについて経験的・理論 的に探求したものであり、五十嵐彰の論考(2007)と ともに注目される。 それらに比して本稿はよりミクロな事例研究であっ たが、過去が構築されつつ現在化する過程において、 特に報道メディアが有する機能と作用の一端を明らか にできたとすれば幸いである。またここからさらに、 近年日本でも紹介されつつあるパブリック・アーケオ

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奈良女子大学文学部研究教育年報第10号 27 ロジー(cf.松田・岡村 2012)の問題意識との接点を 探ることも可能であろう。 メディアというものは、最新のものだけでなく、最 古のものにも敏感に反応する。多くのく最古>が存す る奈良は、メディア的実践が集中的かっ実験的に投下 されるフィールドとして、報道の動きの先端に位置し てきた可能性があることも、本稿から垣間みえた。奈 良とは、古いがゆえに新しいというパラドキシカルな 空間なのである。 [注] 1)新聞記事のもつ資料としての特性や有効性につい ては八ツ塚(2007: 106 -7)が詳しく論じている。 2)江戸期から発掘調査後までの高松塚の状況や調査 の経緯は、『明日香村史』に掲載されたまとめ(伊 達1974)がわかりやすい。より専門的なものとして は、調査の中間報告(橿原考古学研究所編 1974) がある。 3)新聞紙名は以下、適宜略称を用いる。 4)奈良市内の古書店で2011年に購入したA3判の大 型スクラップ帳計2冊である。ともに背に墨書で 「高松塚古墳」とある。当時の貴重なカラーグラビ アを含め、 l冊目には89葉(1972年3月・4月の記 事が80枚、 5月以降の同年のものが9枚)、時期的 にこれに続く 2冊目には83葉(1972年3月・ 4月の 記事が60枚、 5月以降の同年のものが13枚、 1972年 以降が10枚)の切り抜きが収められている。隣接す る複数のトピックがまとめて切り抜かれている場合 には、 l葉とカウントした。週刊誌からの切り抜き も数葉あるが、上のカウントからは除外した。新聞 紙名や日付・朝刊夕刊の別・面香が記載されていな いものについては、本論文末尾の一覧表においても 空欄としている。驚くべきことに、このスクラップ 帳は6紙すべての新聞をカバー(網羅的ではない) しており、特に毎日新聞と大和タイムスが充実して いる。作成者はおそらく奈良在住の方であろう。高 松塚古墳壁画への並々ならぬ関心と情報収集への熱 意を感じさせるものであり、その労力に敬意を表し fこい。

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)今回しらべた

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紙のうち、

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紙(朝日−日経・サ ンケイ・大和)が第一報の見出しに「法隆寺」とい う語を用い、朝日が一番大きく掲げた。 6)「美術的」(朝日)と「美術史的」(毎日)のどち らが末永の言葉であったかは判然としない。 7)山下の文章(山下 2000)は、高松塚発見報道に 関する数少ない論考のひとつである。ややエッセイ 的な筆致ではあるが、さまざまな情報源を参照しつ つ思索が展開されており貴重で、ある。 8)この焼損の社会学的な意味に関しては、拙稿 (2005a)を参照されたい。 9)ただし山下は、「『戦後』が喪失したものを埋めて くれるもの

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という期待が高松塚の壁画に寄せられ たことは論じているが、ナショナルな視線そのもの については特に触れていない。 10)日経の記事の結論部分が、 3日前にでた司馬の文 章に触発されたものである可能性は排除できない。 11)このとき、先に来ていた韓国日報の特派員は、東 壁女子群像のカラー原版を借りている(朝日新聞社 1994 : 517。) 12)このあたりの刻々と事態が進む状況については、 当時の朝日新聞社会部記者であった薮内良宣によ るウェブ上の詳細なルポ(公開年不明)がある。 URLは[文献]欄を参照のこと。 13)壁画の劣化が発覚した際の社会的反応に関する論 考としては、別稿(小川 2005b)を参照のこと。 [文献] 青山 茂、1977、「高松塚から五年一壁画発掘余聞一」 『芸術新潮』 4月号、 153-159頁 Anderson, Benedict, 2006 [First edition 1983],

Imagined Communities.・Reflectionson the Origin and

Sp陀adof Nationalism,(Revised Edition) London &

New York: Verso(白石隆・白石さや訳『定本想 像の共同体−ナショナリズムの起源と流行−

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書籍 工房早山、 2007) 明日香村、 2006、昨夏 明日香村史

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下巻 明日香村史刊行会、 1974、『明日香村史』上巻 伊達宗泰、 1974、「付・高松塚古墳調査と展望」明日 香村史刊行会『明日香村史・上巻』、 500-511頁 Goffman, Erving, 1963,Stigma: Notes on the Management of Spoiled Identity,New York : Prentice-Hall(石黒 毅訳『ステイグマの社会学−熔印を押されたアイデ ンテイティ』せりか書房、 1970) 浜日出夫、 1998、「歴史はいかにして作られるか一博

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物館の文法・博物館のリテラシー

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『社会学ジャー ナル』 23号、 151-162頁 浜田耕作・梅原末治、 1917、「肥後に於ける装飾ある 古墳及横穴」『京都帝園大事文科大皐考古皐研究報 告』第一冊 五十嵐彰、 2007、「<遺跡>問題−近現代考古学が浮 かぴ上がらせるもの−」鈴木公雄ゼミナール編『近 世・近現代考古学入門−「新しい時代の考古学」の 方法と実践−』慶応義塾大学出版会 橿原考古学研究所編、 1974、 『 壁 画 古 墳 高 松 塚 調 査中間報告』奈良県教育委員会・奈良県明日香村 松田 陽・岡村勝行、 2012、『入門パブリック・アー ケオロジー』同成社 森本和男、 2001、『遺跡と発掘の社会史一発掘担造は なぜ起きたか−j彩流社 森岡秀人、 1995、「回想・高松塚古墳の発掘」網干善 教との共著『高松塚古墳−飛鳥人の華麗な世界を 映す壁画』(日本の古代遺跡、を掘る 6)、読売新聞 社、 17-112頁 毛利和雄、 2007、『高松塚古墳は守れるか一保存科学 の挑戦jNHKブックス 向 井 進 、 1992、「『高松塚』二十年目の真実」『文嚢 春秋j7月号、 336-349頁 中河伸俊、 2010「『自己』への相互行為論アプローチ・ 経験的探究に有効な再定式化のために

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『人文学論 集』 28

45-71頁 新納 泉、 1986、「ジャーナリズムと考古学」近藤義 郎編『岩波講座日本考古学(7)現代と考古学』岩 波書店 小川伸彦、 2002、「ブームとしての古代史」(荻野昌弘 編『文化遺産の社会学一ルーブル美術館から原爆 ドームまで』新曜社、 260-262頁 小川伸彦、 2003「語りと文化遺産−ある寺院における 案内解説の分析より−」『研究年報』(奈良女子大学 文学部) 47、61-84頁 小川伸彦、 2005a「事件・シンボル・制度一法隆寺金 堂壁画焼損と『文化財』の文化社会学

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『奈良女子 大学社会学論集』 12、115-138頁 小川伸彦、 2005b「“高松塚問題”と文化財−壁画の 危機が問いかけるもの−

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『毎日新聞』

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月22日夕 刊2面 佐々木毅他編著、 1991、『戦後史大事典』三省堂 末永雅雄、 1972、「調査経過概要」橿原考古学研究所 編『壁画古墳高松塚調査中間報告』奈良県教育委員 会・奈良県明日香村、巻末差込 田中 滋、 2004「流域社会への視座−ナショライリ ゼーション論とリスク論を中心としてー」『龍谷大 学国際社会文化研究所紀要』第6号 田中 滋−水垣源太郎、 2005、「戦後日本のダム開発 とナショナリズムーナショナリゼーション論にもと づく分析−」『国際社会文化研究所紀要』第

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号 山下裕二、 2000、「〈連載〉古美術の20世紀一視線の変 節(3) 1972年の高松塚古墳−『発見報道』の雛形」 『IS』(ポーラ文化研究所) 83号、 78-83頁 薮内良宣、公開年不明、「『発掘』はやはり『破壊

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だった∼飛鳥の麗人哀歌∼

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ウェブマガジン『週 刊Beaconj収録、 http://www.icom.eo.jp/beacon/ backnumber/web_topix/030.html(サイト最終確認 2013年12月

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日) 山 泰幸、 2009、「遺跡化の論理一歴史のリアリテイ をめぐって」土生田純之編『文化遺産と現代』同成 社、 77-107頁 山 泰幸、 2013、「『遺跡社会学』の可能性」『遺跡学 研究』第10号、 126-133頁 八ッ塚一郎、 2007、「『ボランテイア』と『NPOjの 社会的構成プロセスに関する新聞記事分析研究一 『助調分析』の試み−」『実験社会心理学研究

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46 (2、) 103-119頁 ※ 記事見出し一覧は次頁以下を参照のこと

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奈 良 女 子 大 学 文 学 部 研 究 教 青 年 報 第10号 【 資 料 】 高 松 塚 古 墳 壁 画 発 見 時 の 新 聞 記 事 見 出 し 一 覧 :

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日間) ・ 凡 例 : サ ン ケ イ = 産 業 経 済 新 聞 、 朝 日 = 朝 日 新 聞 、 毎 日 = 毎 日 新 聞 、 読 売 = 読 売 新 聞 、 日 経 = 日 本 経 済 新 聞 、 (東京)=東京本社版、(大阪)=大阪本社版、(奈良)=奈良地域面、<>は記事欄名、日は追記、/く〉は区切り ・備考:計6紙 に つ い て 広 く 収 集 し た が 、 網 羅 的 な も の で は な い 。 大 和 タ イ ム ス と サ ン ケ イ は 一 日 一 回 刊 行 の た め 朝 夕 刊 の 区 別 な し 。 原 紙 ス ク ラ ッ プ 帳 資 料 ( 注4参 照 ) に よ る も の は 、 朝 ・ 夕 刊 の 区 別 や 掲 載 面 が 不 明 の 場 合 が あ る 。 月/日 紙名 朝 夕 掲載面 見出し 男jl 大和タ 古墳から極彩色壁画/明日香村高松塚/畿内 3/27 イムス ではじめて/法隆寺壁 1面 画にも匹敵 明日香村の局松塚古墳 /極彩色の壁画発見/ 23面 など、干三百年前/法隆 寺に匹敵 朝日 飛鳥の装飾古墳/文化 3/27 (東京) 庁、急ぎ調査団/国宝・ 夕刊 特別指定も/保存策が 1面 立つまで埋め戻し 3/27 朝日 思わず浮ぶ感動/飛鳥 夕刊 (東京)10 の装飾絵画 面 毎日 両松塚古墳の星座/古 3/28 代のカレンダー/星宿 朝刊 (東京) だった/世界最大の規 19面 槙/野尻氏が折紙 毎日 古代の暦「星宿」だっ 3/28 (大阪) た?/天井石の壁画/ 朝刊 掲 載 面 現存で最大規模/貴人 不明 の象徴/野尻氏が折紙 【連載】壁画古墳飛鳥の 風俗描く貴重資料/七 3/27 サ ン ケ 一八世紀/法隆寺にま イ さる/仏教の影響受け 1面 ず 文 化 伝 来 に ヒ ン ト 毎日 「ピカーの名物だ」/明 3/27 (大阪) 日香村興奮/問合わせ 夕刊 社会面 電話、役場に殺到/永久 保存に全力 カプセル(上)主人公は 3/28 毎日 だれ?/きっと名前わ 朝刊 (東京)21 かる…/たくましい初 面 老の大男((大阪)見出 /「日本書紀の世界」再 日本史”興奮”/「早く見 し:葬られた人物/帰化 現/男女2体の人骨発 掘 3/27 サ ン ケ 【グラフ】未踏の”聖域” 朝刊 イ から極彩色壁画/高松 3面 塚古墳発掘 毎日 たい」殺到/「保存だ! 3/27 (東京) 立入禁止だ!」/飛鳥壁 夕刊 11 画発見/明日香村/「国 面 宝」指定急ぐ/文化庁き める 貴人では) 読売 民族の遺産 飛鳥壁画 3/28 /保存・解明に英知集め 朝刊 (東京) て/年代などっきない 4面 学問的価値 法 隆 寺 級 の 壁 画 発 見 飛鳥に装飾古墳/男女 像 や 白 鹿 青 竜 奈 良 県 朝日 高松塚/七色で大陸系 3/27 (東京) 風俗/戦後最大の発見 朝刊 の 一 つ 文 化 庁 田 中 1面 I~· 文化財調査官の話/ ぜ ひ 早 く 見 た い 原 田 淑人・日本考古学会長の 言百 飛鳥に装飾古墳/法隆 寺壁画に匹敵/高松塚 3/27 呈U昔g 土E0 <カメラ闘ニュース>飛 夕刊 (東京)3 鳥 の 美 み や び な 目 ざ め 3/27 読売 総合調査団を派遣/飛 夕刊 (東京) 鳥壁画/文化庁、国宝指 10面 定も 文化庁「特別史跡」指定 へ/高松塚古墳(明日 3/27 日経 香)の極彩色壁画/急を 夕刊 (東京) 要する保存対策/”大変 11面 な考古学上の価値”/” 百年に一度の成果”/明 【インタピ‘ュー】明日香 読売 の壁画古墳の発掘を指 3/28 (東京) 揮した末永雅雄さん/ 朝刊 未経験の相手・・・極彩色 4面 /「まだまだ死ねんな ア」 3/28 読売 飛鳥壁画、早くも観光公 朝刊 (東京)14 害 /村が「防衛力バ 面 一」づくり 3/28 毎日 「保存費用は固で負担」 夕刊 (東京) と文相/飛鳥の壁画古 8面 墳 朝日 /石壁に極彩色/男女 3/27 (大阪) 像・竜虎など/戦後最大 朝刊 1 の 発 見 / 文 化 庁 田 中 面 琢・文化財調査官の話/ 原田淑人E日本考古学会 長の話 朝日 壁画発見に興奮と驚き 3/27 (東京) 「一目実物を」「保存しつ 朝刊 かりと」 学者らの反響 3面 /変哲もない小さい山 日 香 村 あ げ て 大 喜 び 3/27 日経 明日香・晶松塚古墳/目 タ (大阪) を奪う極彩色壁画/男 干lj? 11面か 女16人や星座克明に 特別史跡E国宝の二重指 大和タ 定か/文化庁来週中に 調査団/臨時審聞きス 3/28 イムス ピード指定/地元の表情 1面 ”何とか現地保存を…”/ 壁画発見に期待と驚き 3/28 吾S士c::r宮tI: 特別史跡指定今週にも (東京) 諮問 装飾古墳で文相 夕刊 10面 /高松塚古墳 3/28 日経 保存へ国庫補助/高松 夕刊 (東京) 塚古墳「対策委」を設置 社会面 大和タ 文化庁に保存対策委/ 高 松 塚 周 辺 古 墳 発 掘 3/29 イムス も検討/30 ∼70歳の男 1面 子 3/27 朝日 【グラフ】飛鳥カラーあ 朝刊 (大阪) ざやか/高松塚の壁画 3面 発見[写真はモノクロ] 3/27 朝日 変哲もない小さい山/ 朝刊 (東京) 飛鳥に装飾古墳 3面 毎日 飛鳥から”壁画古墳”/ 3/27 (東京) 近畿で初めて/極彩色 朝刊 1 で婦人や星座/大陸交 面 流貴重な手がかり 「飛鳥」の彩色壁画/奈 3/27 吾百士d'C 良の古墳で発掘/風俗 朝刊 (東京) など描く/朝鮮との交 14面 流証明(文化庁文化財保 護部記念物課の話) 3/27 読売 「飛鳥」の彩色壁画/奈 朝刊 (東京) 良の古墳で発掘/風俗 14面 など描く 3/27 日経 極彩色の壁画発見/明 朝刊 (東京) 日香の古墳から/星座 3/28 朝日 <天声人語> 朝刊 1面 古墳の“主”は男3人/ 3/28 朝日 石室から人骨を発見/ 朝刊 (東京) 貴 人 ? 大 陸 の 渡 来 3面 人 ? / 奈 良 高 松 塚 / 古墳を再び密封 座談会・晶松塚の壁画古 朝日 墳。末永、岸、森、有光 3/28 (大阪) 。解きほぐされる古代 朝刊 史/層の厚い飛鳥文化 4面 /宮廷の生活示す?風 俗画 朝日 30日にも打合せ/晶松 3/28 (奈良) 塚古墳壁画の破壊防止 朝刊 策/明日香村と橿原考 20面 古研 3/28 国の費用で保存/壁画 朝夕 毎日 古墳保存で文相 不明 大和タ 3/29 イムス 【論壇】「飛鳥はこわい」 1面 大和タ 3/29 イムス 春の話題さらう高松塚 1面 ナゾの古墳の主を解剖 サ ン ケ 高松塚/島田大市大教授 /筋骨たくましい貴人 3/29 イ / 皇 位 継 承 者 か 皇 太 15面 子?/50歳くらい11文 半の大男 3/29 朝日 人骨は一人? 高松塚 朝刊 (東京) 古墳 3面 3/29 朝日 【予告】カラー特報飛 朝刊 (東京) 鳥古墳の壁画/きょう 1面 の夕刊でお届けします 3/29 毎日 【連載】壁画古墳飛鳥の 朝刊 (大阪) カプセル(中)いつ誰が 29

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