【紹 介】
グローバリゼーションとイデオロギー
(上)
小 野 塚 佳 光
は じ め に 貿易や国際投資,外国為替市場の 1 日の取引額,多国籍企業の売上高や雇用者数,世 界貿易に占める割合,輸送・通信コスト,コンテナ輸送量,航空貨物・旅客や国際空港 の便数,コンピューターやインターネットを利用した遠隔地間の情報伝達・処理速度, IMFや WTO といった国際機関の活動,その他,さまざまな具体的数値を挙げてグロー バリゼーションを示すことがある.しかし,グローバリゼーションをそのイデオロギー から切り離して議論することはできない. イデオロギーとは,明確な政治信条や特異な世界観を指すだけでなく,ある集団の共 有する解釈である1).互いに関係を深めながら複雑に変化する世界を生きるために,人々 1) イデオロギーの重要性は,経済学も含めた,さまざまな社会認識の分野において無視する ことができない.たとえば,以下のような文献を参照せよ.Abercrombie, Nicholas, and Bryan Turner, (1978)“The Dominant Ideology Thesis,” British Journal of Sociology, 29 (2), pp. 149-170. David McLellan, (1986) Ideology, Milton Keynes, UK: Open University Press.(千葉眞・木部尚志訳『イ デオロギー』昭和堂,1992.)Mills, C. Wright, (1956) The Power Elite, New York: Oxford University Press. (鵜飼信成・綿貫譲治訳『パワー・エリート』東京大学出版会,1969.)Geertz, Clifford, (1983) Local Knowledge: Further Essays in Interpretive Anthropology, New York: Basic Books.(梶原景 昭ほか訳『ローカル・ノレッジ : 解釈人類学論集』岩波書店,1991.)Jameson, Fredric, (1981)The Political Unconscious: Narrative as a Socially Symbolic Act, London: Metheun.(大橋洋一ほか訳
『政治的無意識:社会的象徴行為としての物語』平凡社,1989.)McCloskey, Donald N., (1985)
The Rhetoric of Economics, Madison, Wis.: University of Wisconsin Press.(長尾史郎訳『レトリカル・
エコノミクス:経済学のポストモダン』ハーベスト社,1992.)Reich, Robert B., (1991) The
Work of Nations : Preparing Ourselves for 21st-century Capitalism, New York: A.A. Knopf.( 中 谷 巌
訳『ザ・ワーク・オブ・ネーションズ:21 世紀資本主義のイメージ』ダイヤモンド社,1991.) Lasswell, Harold D., (1950) Politics: Who Gets What, When, How, New York: P. Smith.(久保田きぬ子 訳『政治: 動態分析』岩波書店,1992.)
は神話や伝統を共有し,互いに信頼できる世界観を真実の符牒とした.もちろん,イデ オロギーというのは真実ではない.むしろ,何かが真実である,という共通の意識を創 るのがイデオロギーである.その意味で,共有されたイデオロギーはイデオロギーでは なく,(ある集団にとって)真理なのである2). イデオロギーには,権力や権威の正当性を支持し,特殊な利益や,それを反映した制 度・構造を,社会全体の利益,超越的な真理として認識させる効果がある.それゆえ, 社会が大きく変化するとき,その正当な解釈をめぐって異なるイデオロギーが競争し, 闘争する. グローバリゼーションは,その対象を明確に定義することができない,現に進行中の, 世界的な規模に及ぶ社会変化を指す概念である.本稿は,グローバリゼーションが事実 ではない,実証できない,と主張するのではない.グローバリゼーションのさまざまな 定義や評価が,互いに矛盾し,対立する価値観をともなって並存し,競争していること に注目する. グローバリゼーションという言葉は,単に個々の事実や事件ではない,ある特徴を帯 びた社会変化の総体が意味するものに向かって発せられる.それは,激しい社会変化に 巻き込まれた人々が共有する,危機意識,である.社会がさまざまな可能性に直面した とき,明確なイデオロギーが誕生することで,政治運動や人々の選択は影響を受け,現 実を変える. 確かに,社会認識に隠されたイデオロギーと,イデオロギーへの批判は,絶対的な真 理を相対主義に引き戻す.しかし,イデオロギーが提起する全体的な時代認識,現在と 将来に向けた価値判断をともなう競争的な社会観・歴史観は,個々の事実や真理の集積 に還元することができない.グローバリゼーションの集団的な自己意識がそのイデオロ ギーであり,激しい論争を通じて,新しい時代の政策や制度の基礎となる合意を形成する. 1 時代の新しい表現として グローバリゼーションは,多くの人々にとって,否応なく自分たちの生活を変化させ 2) 宗教・文化・言語,認識パターンと権力,法・秩序とその制度,支配階級の利害・思想,上部構造, エピステミック・コミュニティー,ソフト・パワー,虚偽意識,などとして議論される.
る圧力として,また,新しく台頭する勢力や,旧秩序を破壊してしまうほど強烈な技術 革新,条件の変化,既存の理解や管理能力・介入手段を超えた新しい現実として,「存 在」し,「意識」される.グローバリゼーションは時代の新しい表現やシンボル,社会・ 政治運動を要請する. G.W. ブッシュ大統領であれば 9・11 やテロリズムを,A. ゴア前副大統領であれば環 境破壊を,グローバリゼーションの現実と考えるだろう.アメリカとその覇権,国際秩 序,国際システムについて,あるいは,国際テロや,正当な権力を領土的に独占してき た国民国家の限界について,グローバリゼーションをめぐる論争はしばしば言及する. また,問題そのものがグローバルな,人類の歴史・社会観を転換する問題が,地球温暖 化や,大量破壊兵器の拡散,資源・エネルギーの枯渇をめぐって生じている. アメリカやヨーロッパに住む人々にとって,最も論争的なテーマは移民や中国であろ う.移民がまだ抑制されている日本では,間違いなく,中国こそグローバリゼーション(と その論争)の最大の焦点である.中国並みの低賃金・低価格,中国の台頭と政治的影響力, 軍事・外交面での中国脅威論,中国市場への日本企業による投資,その他,日本人は中 国との政治的対立を心配し,同時に,大きな経済的利益と機会を求めている. ジェームズ・キング『中国が世界をメチャクチャにする』3)
「中国が世界を震撼させる(China shakes the world.)」ということを,多くの人々は職場
の変化や個人的な経験から感じていたはずだ.しかし,世界がどれほど大きな衝撃を受 けているのか,J. キングの本を読むことでようやく理解し,驚き,恐れるだろう.この 本は,中国が成長する過程で,外の世界がどれほど深甚な影響を受けることになるか, 多くの印象的な事例で実感させる.漠然としていたグローバリゼーションのイメージ が,中国という鋭い陰影を帯びる. 日本でも,道路の側溝にかぶせてあった鉄板が何百枚も持ち去られたとか,地下や高 架のケーブルから何キロも銅線が盗まれた,などというニュースが流れる.中国の世界 に及ぶ影響力が顕著に感じられた例として,キングは 2004 年 2 月の事件を紹介してい 3) Kynge, James, (2006) China Shakes The World: The Rise of a Hungry Nation, London, Phoenix.(栗
る.マンホールの蓋が持ち去られた,という一連の事件である.事件は台湾から,近隣 諸国へ波及し,ついにアメリカやスコットランド,東南アジアの町でもマンホールの蓋 が消えた.蓋のないマンホールにころげ落ちた人も,まさかそれが,中国の鉄需要が増 大し,くず鉄価格が急騰した結果であるとは知らなかっただろう4). 中国の驚異的な影響力は,「不死鳥」と呼ばれたティッセン・クルップ社のドルトム ント製鋼所を解体して,9000 キロも離れた揚子江河口から中国に陸揚げさせた5).マ ンホールの蓋が裁断され,くず鉄となって中国の建設用材に変わるだけでなく,ドイツ を代表する製鋼所それ自体が,25 万トンもの部品に解体,切断されて海を越えるには, 同時に,それを呑み込む世界的な規模の社会変化が起きている. この「事件」に関わる要因を,すべてではないが,いくつかキングは指摘している. 一つは,中国の成長にともなうインフラ整備や住宅建設により,鉄の需要が急増し,そ れだけでなく,激しい変動と製鉄所間の競争が中国で起きたことだ.これまでもブーム の後,鉄鋼価格は暴落し,多くの製鋼所が倒産した.ドルトムントの「不死鳥」を買っ た中国企業,沙鋼の経営者,沈文栄はそれを知っており,すでに次のブームに備えてコ ストと時間を短縮する方法を選んだのだ6).他方,ドイツの製鋼所は,週の労働時間を 35時間に短縮するという労働組合との良好な関係を重視していた.ところが,効率の 良い韓国の製鋼所とも競争しなければならなくなった7).また東西ドイツの統一は,ド イツにおける増税と高金利,マルク高をもたらし,製鋼所の競争力を失わせた.国内景 気が低迷し,東欧への工場流出も続いた. キングは,ルター派教会で牧師の話を聞く.ティッセンとクルップ,そしてこの製鋼 所こそ,何世代にもわたってルール地方に栄え,プロイセン王国からナチス・ドイツを 経て現代に至った工業力の中心である.しかし,「不死鳥」を失ったとき,その町の人々 はアイデンティティーをも失った,と牧師は嘆く.1000 人近い労働者が中国からやっ て来て,工場の廃ビルを宿舎とし,危険を顧みない軽業師のような解体作業を,休むこ となく 1 日 12 時間も続けた,とキングは伝える.それは労働者たちの職場だけでなく, 4) Kynge (2006) p.6(訳書 17 頁). 5) ibid., p.1(訳書 11 頁). 6) ibid., p.11(訳書 23 頁). 7) ibid., p.23(訳書 13 頁).
その誇りも奪った.もちろん政府は再開発に投資した.しかし,製鋼所の跡に人口湖や 公園ができても,精神の退廃が広がるのを止めることはできない8). イタリアの織物の町,プラートには,中国から「蛇頭(Snakehead)」がつれてきた不 法移民の一部が集まるようになった9).それは最初,織物工場に世界で最も屈強で安価 な労働力を提供するものとして,大いに歓迎された.しかし,変化はそれで終わらなかっ た.特に,企業家精神に富む温州人は 1990 年代に次々と独立し,プラートの織物産業 を席巻するようになった.イタリア人の工場はますます海外に移転し,プラートの過去 とつながりを持たない中国人工場だけが業績を伸ばす.ここでも中国の影響は町の織物 産業の盛衰にとどまらない.ヨーロッパ諸国の政治指導者たちは,選挙になれば雇用を 問題にする10).第二次世界大戦の荒廃から今日まで築いてきた社会民主主義の合意が 動揺する中で,一方ではアメリカからの企業買収を警戒し,他方では中国製品との競争 を,彼らは何よりも心配する. 勤勉で安価な労働力が現代の技術と出会うことで生じた中国の生産力は,その反対の 極に,中国も含めた世界からの資本流入に頼って,自国で生産する以上に消費し続ける アメリカ市場を前提する.中国とアメリカが市場統合することで利益を上げるのは,生 産拠点を中国に移してアメリカに輸出する多国籍企業であり,また代表的な流通・小売 分野の世界企業,ウォルマートである.そして,アメリカの工業地帯では,まともな賃 金を得ることのできる職場が減っている11).アメリカの中産階級は減少し,超富裕層 と貧困層が増えている.こうした社会変化を好ましくないと非難するとき,しばしば, 中国へのアウトソーシングが非難され,中国の政策や政治体制が「脅威」と見なされる. しかしグローバリゼーションが,中国にとって容易な,利益をもたらすだけの社会変 化であった,と私たちが羨望するとしたら,それも大きな間違いである12).出稼ぎを 繰り返す中で,多くの伝統的な家族が解体し,都市に形成される富裕層とそれを取り巻 く格差は,満たされない欲望や自殺者を増やす.高速道路やダムを建設する過程で,自 8) ibid., pp.2-5(訳書 13-16 頁). 9) ibid., pp.72-78(訳書 92-98 頁). 10) ibid., p.91(訳書 113 頁). 11) ibid., p.104(訳書 129 頁). 12) ibid., pp.123-201(訳書 第 6,7,8 章).
然は破壊され,環境を汚染し,貧しい農民たちは十分な補償もなく土地から追い出され た.生きるために血や臓器を売り,劣悪な商品や詐欺,犯罪が蔓延している.汚職や腐敗, 権力の濫用が起き,社会対立も激化してきた. 中国は,その規模とともに,国際社会から孤立してきた姿勢を転換し,アメリカなど の主要国と社会・政治体制の大きな違いを残したまま,国際的なバランス・オブ・パワー を変化させている.中国の覇権による国際秩序の転換が,すでにアジアやそれ以外の地 域と国際機関で起きている.資源争奪戦はすでに始まっており,貿易摩擦や通貨摩擦を 繰り返す中で,ナショナリズムが政府にもコントロールできない形で拡大する恐れがあ る. 小泉首相は靖国参拝を繰り返し,NATO はベオグラードの中国大使館を誤爆した.日 本大使館やアメリカ大使館をデモ隊が襲う13).それを放置するような政府の姿勢が支 配的となるのか,あるいは,長期的,実利的な判断が勝って,国際ルールの下での協調 を重視するのか.キングの本は,中国,という不安で終わる. マイク・デイヴィス 『感染爆発:鳥インフルエンザの脅威』14) 鳥インフルエンザのパンデミック(世界的流行・感染爆発)について知ることは,中国 の台頭に劣らない衝撃を読者に与える. もしそれが発生すれば,1918 年の例から推定して 3 億 2500 万人が死ぬ.イギリス政 府の報告では,パンデミックによりイギリス人口の 25%が 6 週間から 8 週間もウィル スで衰弱し,1%は死亡する.WTO は,世界の死者 5000 万人を最悪のシナリオとして いる.しかし,ゲノタイプZが感染爆発に至れば死者が 10 億人に達する,と予測する 研究者もいる15).核兵器によるテロや地域戦争,中国の不況がウォール街を巻き込ん で起こすかもしれない世界恐慌のリスクを,メディアはしばしば議論する.しかし,鳥 インフルエンザ・H5N1 型ウィルスはそれらを超えるダメージを人類に与えるだろう. もちろん,相手がウィルスであるなら,誰を責めることもできない.しかし HIV ウィ 13) ibid., pp.224-227(訳書 261-265 頁).
14) Davis, Mike, (2005) The Monster at Our Door: The Global Threat of Avian Flu, New York:Owl Books.(柴田裕之・斉藤隆央訳『感染爆発:鳥インフルエンザの脅威』紀伊國屋書店,2006.) 15) Davis (2005) p.125(訳書 153 頁).
ルス(エイズ)の感染力はインフルエンザほど強くないが,それでも対策の遅れがアフ リカ大陸の経済に深刻なダメージを与え,1980 年代から世界に広まった.2001 年 3 月 には,口蹄疫の感染を防ぐためにイギリスで何万頭もの家畜が殺され,焼かれた.感染 地域を隔離するという理由で,家畜だけでなく人の移動も厳しく禁じられたし,フラン ス政府は海峡を渡る自動車にまで消毒液をかけた.牛や豚,羊を焼く煙が空を覆い,フ ランスの農民たちは風向きさえも心配した16).2004 年に中国では SARS が広まった17). 北京でも人々がマスクを買いあさり,成立して間もない胡錦涛政権の威信と,生産拠点 としての中国の信用まで脅かされた.鳥インフルエンザのウィルス感染がグローバリ ゼーションの連鎖を破壊する力は,こうした経験をはるかに凌駕するはずだ. デイヴィスが指摘する諸問題は,ウィルスの拡大とグローバリゼーションそれ自体と の関係を示している18).まず,スーパー・マーケットに並ぶ肉や卵は,家禽・家畜の世 界的な工場生産体制が供給している19).タイでは華僑による巨大企業 CP が家禽革命を 先導した.H5N1 型ウィルスの感染が拡大したとき,タクシン政権は CP などと共謀し て病気のニワトリがいることを隠蔽した.その間に大手の業者はニワトリを処分・隔離 できた.政府は家禽産業を近代化(工業的な養鶏施設の建造)するため,大企業に補助金を 与え,補償の条件にもした20).他方,「家禽革命」は小規模農家の負債を急激に増やし, 娘を次々にバンコクの搾取工場や売春宿にやる結果となった21). 人間がもたらした環境変化がウィルスの進化と繁栄を加速している.たとえば,湿地 やジャングルにも道路が延長されている.乱獲や汚染で魚が取れなくなると,貧しい住 民たちの間では野生動物(ブッシュミート)の食用が広まる22).熱帯林の奥地や他の生物 種で特異に進化を遂げたウィルスが,こうして障壁を超えてヒトに感染する危険が増す. 物資の輸送や旅行による世界的な移動が爆発的に増えた.報告や検査が数日遅れただ けで,ウィルスは保有者により,世界中の空港から都市の住民にも拡大する.抗生物質
16) “They’re burning animals again: Plague island,”The Economist, March 3rd, 2001. 17) Davis (2005) pp.72-78(訳書 90-98 頁). 18) ibid., p.8(訳書 14 頁). 19) ibid., p.83(訳書 103 頁). 20) ibid., pp.105-109(訳書 129-133 頁). 21) ibid., p.99(訳書 121 頁). 22) ibid., p.57(訳書 75 頁).
の多用はヒトの体から抵抗力を奪い,感染する新しいウィルスの出現を待っている.発 展途上諸国には,不衛生な状態で家禽・家畜が人と混在するスラムが拡大している.そ れらは飢えたウィルスにとっての豊穣な餌場である23).新しいインフルエンザ・ウィ ルスは,しばしば中国南東部で発生する.世界的生産拠点となった広東省から,靴やシャ ツ,電化製品だけでなく,新しいウィルスも輸出される. 世界における貧富の格差がウィルスの感染爆発を準備している.貧しい家禽業者や養 豚業者は,ウィルスに感染していると分かっていても,ニワトリを殺して売ることを考 える.貧しい政府は業者に十分な補償を支払えない.貧しい国にいくら感染が広まっても, 彼らはワクチンを購入できない.ワクチン開発に時間がかかる製薬企業にとって,次の ウィルスに必ず適合するという保証もなく,利益の少ないワクチンを購買力のない貧し い国のために生産し,在庫する動機がない.貧しい国は,感染を予防・検査するためにも, 感染者を隔離・治療するためにも,十分に投資する財政的余裕がない.鳥インフルエンザ・ ウィルスの感染爆発は,ネオリベラリズムのグローバル化が生み出すモンスターである. 医薬品の寡占市場,大企業の利潤動機によるワクチン開発,検査・予防体制や病院へ の政府の投資不足,などをデイヴィスは批判する24).有効なワクチン,タミフルを量産 するために,貧困国に対して特許権の適用を免除するべきだ.製薬会社によるワクチン 生産が不足しているのであれば,政府や非営利団体が製造.配布しなければならない25). 感染地域とその周辺で家禽の飼育を禁止する必要がある.そのためには,疫病の防壁と なる貧しい地域に対して,富裕国が補償・援助することも必要だろう. 肺ペストが流行したインドの町スーラトは,パンデミックの恐ろしさを予感させた26). 薬も設備もない中で,医師たちが真っ先に逃げ出し,富裕層も中産階級も逃げ出した. 噂が駆けめぐり,スラム住民も移動し始めたとき,政府は軍隊を送って隔離検疫を実施 した.その頃には,世界がインドを隔離し始めていた. ウィルスでも,温暖化でも,IT 革命や,地震・津波・台風のような災害,地下資源 の開発でも,その影響は既存の支配秩序,社会制度を介して実現し,世界に波及する. 23) ibid., p.56, 153(訳書 74,188 頁). 24) ibid., p.138, 145(訳書 167,177 頁).
25) ただし最近の変化について,以下を参照 .“Vaccines: Beyond the Egg,” The Economist, March 10th, 2007. 26) ibid., p.161(訳書 196 頁).
2 グローバリゼーションのイデオロギー ある種の人々がグローバリゼーションを理解=解釈するのは,それが自分の立場や自 分の主張を支持し,強めてくれる(と思う)からである.それは,現れつつある新しい 世界を予見する試みであり,あるいは,さまざまな可能性の中から自分が望ましいと信 じる世界を導き,それに賭ける試みである. トーマス・フリードマンはグローバリゼーションを肯定し,その社会変化が代表す る価値観を称賛するだけでなく,たとえその反動が現れても克服するべきであり,変 化そのものを絶対視する.グローバリゼーションは神話となり,現代のイデオロギー となる.フリードマンは,このイデオロギーとなった現実にしたがって,個人や企業 に正しい行動を促す.他方,アンソニー・ギデンズにとってもグローバリゼーション は肯定される.それは,グローバリゼーションが私たちに多くの可能性を開いている からだ.自分たちの信じる価値を実現する新しい社会を目指すためには,積極的なイ デオロギーを提示し,選択しなければならない.グローバリゼーションをどのように 理解し,どのように市民に提示するか,政党もその能力を問われている. トーマス・フリードマン『レクサスとオリーブの木』,『フラット化する世界:経済の大 転換と人間の未来』27) T. フリードマンは,グローバリゼーションが示す社会変化を鮮烈なメッセージで描き 出した.黄金のM型アーチ理論,情報免疫不全症候群,黄金の拘束服と電脳投資家集団, それらは新しい社会変化の構造を印象的に描いている. フリードマンによれば,グローバリゼーションとは新しい国際システムであり,モー ターである28).国家間の外交も,企業間の競争も,環境破壊やテロリズムも,それら
27) Friedman, Thomas L., (1999) The Lexus and the Olive Tree, New York: Farrar, Straus & Giroux.(東 江一紀・服部清美訳『レクサスとオリーブの木』上下,日本経済新聞社,2000.)ただし本文 中の頁数は,すべて,この本の箇所を示す.そして,Friedman, Thomas L., (2006) The World is
Flat : The Globalized World in the Twenty-first Century, Updated and expanded, London: Penguin.(伏
見威蕃訳『フラット化する世界:経済の大転換と人間の未来』上下,日本経済新聞社,2006.) 28) Friedman (1999) p.7(訳書 上 29 頁).
は自由に動いているように見えても,このシステムの一部なのだ.新しいシステムの中 で,さまざまな旧い情念がうごめき,衝突や破壊が起きる.それでもグローバリゼーショ ンを通して理解するなら,それらが技術的な「不可避性」,社会としての「革新・革命」, 「政治・歴史性」として評価される. グローバリゼーションをもたらしたのは,インターネットやカンバン方式,民主化で あった.1989 年,ベルリンの壁崩壊と冷戦終結に,フリードマンはグローバリゼーショ ンの起点を見る.冷戦時代はミサイルの大きさが重要だった.しかしグローバリゼー ションの時代には,モデムの速さこそが重要だ29).人々は世界に向けて物を作り,情 報を遮断するような国家は生き残れない.トヨタの高級車レクサスはすばらしく,共産 主義体制は崩壊するしかなかった. フリードマンの本は意外な結び付きに満ちている.グローバリゼーションのイメージ とは,これまでの領域や関係を壊して,新しい,予想もしなかった関係が次々に誕生す る世界である30).ある物事を従来とは異なった方法で理解し,まったく異質な例で説 明する.重要なものと無駄なものが入れ替わり,階層的な秩序が崩れて上位と下位が衝 突し,あるいは連携する.そうやって新しい秩序が誕生し,社会が革新されていくこと を強調する. グローバリゼーションにおいては,異なる分野のロジックが相互に作用して,混沌と した状況がいたるところに現れる.そこでグローバリストは,異なった次元の情報やロ ジックを組み合わせ,説明力の鞘取りを行う31).一つの神話に固執してはならない.こ れからは,グローバリゼーションの本当の意味を訪ね歩く,遊牧民であるしかない32). さまざまな断片と,さまざまな局面からなる,非線型で複雑なシステムとして問題を考 える.そしてシステムの全体は,大まかな俯瞰図でしかありえない.一つひとつの話が 積み重なって,グローバリゼーションという大きな物語を作る. グローバリゼーションの理論がそれほど融通無碍で,フリードマンの自分勝手なイ メージの羅列でしかないとしたら,この本を読むことで何を得るのか? フリードマン 29) ibid., p.9(訳書 上 31 頁). 30) ibid., p.19(訳書 上 46 頁). 31) ibid., p.15(訳書 上 40 頁). 32) ibid., p.22(訳書 上 49 頁).
は,グローバリゼーションが実現しつつある社会変化の意味を,鮮烈なメッセージとし て読み解こうとする.彼の解釈に新しい現実のより深い意味を得た読者は,次第に,フ リードマン的なグローバリゼーションのイデオロギーを共有し,それを強化する. たとえばグローバリゼーションの条件は,技術や金融,情報の民主化である,とフリー ドマンは考える33).それによってパワーは個人や企業の手により多く分配され,グロー バリゼーションという国際システムがさらに拡大する.情報通信システムに依拠した新 しい国際システムへの移行を,既存の支配秩序や既得権を重視する集団は反対するだろ う.しかし,情報伝達がますます高速化する世界で三つの流れを阻止し,障壁を設けて 独占しようとする集団や組織,国家は,何であれ滅ぶしかない.なぜなら,彼らはレク サスが代表するような優れた富の生産システムに参加できないからだ.彼らは,フリー ドマンが「マイクロチップ免疫不全症候群・MIDS」34)と呼ぶ,グローバリゼーション に特有の政治的病におかされている. グローバリゼーションをもっとも先行して実現し,旧秩序を破壊してきたのは,金融 の分野であった.フリードマンはそれを「黄金の拘束服」と「電脳投資家集団」によっ て表現する35).それはフリードマンにとって,冷戦崩壊後,社会主義や左派のイデオ ロギーが完全に崩壊し,「第三の道」も存在しない,自由市場とグローバルな統合によっ て加速する資本主義しか存在しない世界が残ったことを意味している.代わるべきイデ オロギーの選択肢はすべて失われた36),誰もが自由市場のルールに従うだろう,と彼 は断言する37).世界には,もはや貪欲で悪辣な資本家や独裁者がいなくなる.大統領, 多国籍企業,機関投資家だけでなく,顔のない無数の市場参加者たち,自由にインター ネットで情報を得て,投資の向きを変える主婦や学生たちの気分と行動が,この世界を 「群れ(herd)」として支配する. フリードマンは,グローバリゼーションにおいては戦争も容易に起こらない,と考え 33) ibid., p.40(訳書 上 75 頁). 34) ibid., p.62(訳書 上 105 頁). 35) ibid., p.86, 90(訳書 上 141,147 頁). 36) ibid., p.84(訳書 上 137 頁). 37) このことは,マーガレット・サッチャーが繰り返し主張し,アンソニー・ギデンズが反駁し ようとした主要なテーマである.
る.通商による平和を願ったリベラリストと同様,フリードマンは「黄金の M 型アーチ 理論」を提唱した.すなわち,マクドナルドが開店した任意の二国間では戦争が起きない, という仮説だ38).グローバリゼーションは地政学にも影響し,マイクロチップやインター ネット,債券投資,などという新しい世界で,国家も戦争の可能性を再評価するだろう. 確かにフリードマンは,『レクサスとオリーブの木』で,グローバリゼーションが加 速する環境破壊,所得格差,テロ,などの危険を指摘した.その場合でも,グローバリゼー ションを歴史の唯一の道と信じる.彼の答えは「前進すること」だ.全世界設計者の視 点から,歴史はアメリカを選んだ,とフリードマンは主張する39).グローバリゼーショ ンを改善するためにも,アメリカが認める道義的な責務とその温情に国際システムは依 存している40).この現実を世界が直視するしかない. フリードマンの『フラット化する世界』は,グローバリゼーションがさらに進化した 姿について新しいイメージを整理している.しかし,前著のような鮮烈なメッセージは なく,グローバリゼーションの本質を「フラット化」と呼んで,その要因を並べる.そ れは技術的な説明に偏り,企業や個人の対応・管理マニュアルを作成するものでしかない. グローバリゼーションが描く現実の世界は,フリードマンが主張するほど,最先端の生 産技術や流通システムが一様に拡大することはなかったし,政治権力を民主化して社会の 底辺と頂点を近づけ,その地位が容易に逆転するようなこともなかった.むしろ破綻国家 や,エネルギー・資源の独占,軍事クーデタ,警察国家,などが各地で支配的になってい る.非合法な領域や犯罪集団こそ,グローバリゼーションのもう一つの本質である41).
フリードマンが繰り返す「世界は平らだ(The world is flat.)」という表現は,現実から
遊離し,あたかも預言者か,科学革命の英雄を描く芝居に近い.その着想は決して常識 を超えるものではなく,斬新であるとしても革命的ではない.グローバリゼーションの 主役たちは革新の機会を捉えたとしても,ガリレオやコペルニクスではない. 38) ibid., p.196(訳書 下 9 頁). 39) ibid., p.298(訳書 下 151 頁). 40) ibid., p.347, 378(訳書 下 222,268 頁).
41) たとえば,以下参照 . Naim, Moises, (2005)“Taking on the outlaw economy,” Los Angeles Times, November 12. Naim, Moises, (2006)“The little guy is calling the shots,” Financial Times, June 12. Stephens, Philip, (2007) “The west cannot hide from the disordered world beyond,” Financial Times, March 15.
ア ンソニー・ギデンズ『第三の道:効率と公正の新たな同盟』,『暴走する世界:グロー バリゼーションは何をどう変えるのか』42) ギデンズは,事実としてのグローバリゼーションが,さまざまなリスクと不確実性に 満ちた「暴走する世界(runaway world)」へと向かっている,と考える.彼の考えでは, マルクスも含めた啓蒙主義の思想家と同じく,グローバリゼーションを望ましい価値に 従って導く必要がある43).その目標とは,文化の多様性と民主主義の拡大である. この二つの本で,ギデンズは旧式の社会主義や啓蒙主義による国有化・計画経済・管 理社会に反対し,旧いイメージを打ち破ろうとしている.政治的にはマーガレット・サッ チャー元首相に代表される新自由主義の興隆,また経済・社会的にはグローバリゼー ションと呼ばれる世界的な変化が,社会民主主義の哲学や福祉国家として蓄積された合 意と制度を破壊しつつあったからだ44). ギデンズは,『第三の道』でグローバリゼーションの現実に対抗できるような社会民 主主義の改造を企て,『暴走する世界』でグローバリゼーションそれ自体を政府が指導 し,その可能性から望ましい現実を選択するよう要請した.そのために,たとえば,市 民社会や福祉国家をラディカルに再編し,ポジティブ・ウェルフェアや社会投資国家と いうイメージを提唱した45).それはクリントンやブレアが実践したように,社会福祉 を固定的な保障メカニズムとして捉えるのではなく,教育や訓練,再雇用に結びつける ことで,積極的な経済再編への支援策と見なす.政府は職場を改善し,犯罪や失業を減 らすことで,社会的な結束を高めるだろう.こうして福祉国家ではなく,社会資本を整 備するためコミュニティーに積極的な投資を行う,「社会投資国家」が提案される46). グローバリゼーションの中で,政府はナショナリズムや外国人排斥に向かうことな
42) Giddens, Anthony, (1998) The Third Way : The Renewal of Social Democracy, Cambridge: Polity Press.(佐和隆光訳『第三の道:効率と公正の新たな同盟』日本経済新聞社,1999.) Giddens, Anthony, (1999) Runaway World : How Globalization is Reshaping Our Lives, London: Profile Books Ltd.(佐和隆光訳『暴走する世界:グローバリゼーションは何をどう変えるのか』ダイヤモンド社, 2001.) 43) Giddens (1998) p.1(訳書 16 頁);Giddens (1999) p.81(訳書 161 頁). 44) Giddens (1998) p.13(訳書 34 頁). 45) ibid., p.70(訳書 123 頁). 46) ibid., p.99(訳書 168 頁).
く,市民一人ひとりの価値を尊重するようなコスモポリタン国家を目指すべきだ47). ギデンズは,個人の自由な選択を許す民主主義とともに,国民的アイデンティティーと 国際協調を維持するために多文化主義を支持する.国境がますます透過性を高め,ソフ ト化することで,グローバルな問題に対処するコスモポリタンな民主主義と国境を越え るグローバル・ガバナンスが必要になるだろう.この点で,新しいアイデンティティー を育て,経済や文化に関わる権限を EU に委譲する一方,移民問題では市民権法を改正 して転換を図ったドイツの姿勢を高く評価する48). バグワティが自由貿易を,スティグリッツが完全雇用を重視するように,ギデンズは 所得分配の平等を重視する.しかし,単に過去のイデオロギーを繰り返すのではなく, 個々の提案において旧左派のイデオロギー的限界を打破しようとした.グローバリゼー ションを理解し,政治的に選択する過程において,社会民主主義的な価値を生かした形 で統治は強められる.これが新しい左派の戦略であった49). 伝統や家族が解体する中で,積極的に社会変化の意味を解釈し,新しい制度を構築し て国家がショックや不確実性を吸収する.グローバリゼーションが社会にもたらす新し い脅威を,リスクや不確実性として解釈するなら,こうした国家の積極的姿勢を国民全 体が受け入れるだろう.ギデンズの主張は,イギリス労働党の再生を促す,行動のため の宣言集であった. 3 イデオロギー批判 ある種の人々にとって非常に重要な,望ましい価値や社会状態とそれを実現する制度 を,グローバリゼーションは破壊する(と非難される)ことがある.グローバリゼーショ ンは,歴史的な必然や技術的な必要によって生じたものではなく,社会全体の必要に応 じて進むものでもない.グレイは,グローバリゼーションを進めた政府や企業,指導者 たちの間違いを暴露する. 他方,チョムスキーは,現在のグローバリゼーションがアメリカ政府の支配秩序を他 47) ibid., p.130(訳書 215 頁). 48) ibid., p.136(訳書 227 頁). 49) Giddens (1999) p.82(訳書 162 頁).
国の住民に押し付けるものである,と批判する.各地の犯罪行為や虐殺が,アメリカ という世界最大のテロ国家を前提とした社会変化の重要な一部なのである.グローバリ ゼーションは,アメリカの支配や権力の役割と切り離すことができない. ジョン・グレイ『グローバリズムという妄想』50) 完全に社会から独立した,純粋な意味での自律的市場,というものは存在しない51). 完全な市場は人工的なフィクションであり,経済学はしばしば社会的コストを軽視す る52).グレイは,自由市場とそのイデオロギーを最も強く,徹底して批判した. グレイにとっては,ソビエトの計画経済や集団移住も,毛沢東の大躍進も,サッチャー の実験も,アメリカが広めたグローバル資本主義や,ロシアのショック療法,メキシコ やアジアの通貨・金融危機も,基本的に同じ誤りを示している.すなわち,啓蒙主義の 時代の合理主義,自由市場への確信,もしくは社会工学による発想が,人々の生活を改 善すると称して破壊したのである. 何の規制もない,自由な市場というものは,均衡するよりも社会の安定性を破壊す る53).それが安定的で,均衡を生じるのは,むしろ例外であったとグレイは主張する. 19世紀イギリスに現れた自由主義は,決して社会生活の全般を支配していなかったし, ヨーロッパ大陸では試みられることもなかった.その後も,似たような制度が取られた のは,イギリスの植民地(オーストラリア,ニュージーランド,カナダ,アメリカ)になって, 個人主義的な農業が,その土地の制度(や先住民)を破壊して移植されたからだ.グレイは, 自由な市場の人間的コストはあまりにも高く,社会不安を強めたから,民主的な政治制 度と両立することはできなかった,と主張する54). また,サッチャーがイギリスの労働組合を破壊したのは,イギリス特有の近代化のジ レンマに対応したものだった55).生産性の低下と労働争議の頻発が,ついに国際収支
50) Gray, John, (1998) False Dawn : The Delusions of Global Capitalism, London: Granta Books.(石塚 雅彦訳『グローバリズムという妄想』日本経済新聞社,1999.) 51) Gray (1998) p.5(訳書 8 頁). 52) ibid., p.83(訳書 117 頁). 53) ibid., p.15(訳書 20 頁). 54) ibid., p.8(訳書 12 頁). 55) ibid., p.16(訳書 23 頁).
赤字による IMF の介入を招いた.実際は,サッチャーの下で国家権力が集中し,他方, 自由市場によって社会組織は弱体化した.完全雇用に対する政府の責任は放棄され,個 人主義的な労働市場とマネタリスト的な政策が採用された.パートタイムや派遣労働者 が増え,中産階級や家族は崩壊した.サッチャーは公営住宅も解体し,犯罪や経済的不 平等が急増した.その後,民営化と規制緩和が具体的な条件を無視して世界中で適用さ れ,悲惨な結果をもたらした.特に,メキシコやラテンアメリカ諸国に広まった「ワシ ントン・コンセンサス」,ロシアでエリツィンが採用した「ショック療法」である. 最小限の政府(minimum government)と自由市場を世界に広めるという「ワシントン・ コンセンサス」は,アメリカが掲げる現代の啓蒙主義であり,ユートピアである56). しかし実際は,アメリカ政府や企業の利益を反映する,非常に政治的なプロジェクトで あった.たとえば,1994 年の 12 月 20 日,メキシコは通貨価値を切り下げた.アメリ カの投資家たちは莫大な損失をこうむり,メキシコの株価は暴落した.クリントン政権 は IMF も動かして,メキシコ(そしてアメリカの金融機関)への救援融資を実施した.そ れはメキシコの政治不安がさらに高まり,アメリカ人の貯蓄がこれ以上失われるのを防 ぐためであった57). メキシコのサリナス大統領が合意した北米自由貿易協定(NAFTA)は,ワシントン・ コンセンサスのモデル,ネオリベラル市場改革のショーウィンドウであった,とグレイ は主張する58).メキシコは急速に近代化され,アメリカの新しい州のように統合され て発展するはずだった.しかしアメリカの小売業が参入し,メキシコの小規模な小売店 を閉店させた.土地の売買や農産物価格の変動は農村の労働者や地域社会を破壊し,メ キシコはますます移民と麻薬を輸出するようになった.結果的にメキシコの政治制度は ますます腐敗し,チアパス州の先住民と農民による武装蜂起が通貨危機の引き金となっ た. 共産主義崩壊後のロシアは,自分たちの社会や現実を無視した西欧のイデオロギーに 振り回され,悲惨な実験を繰り返した.1991 年の終わりに,市場経済への移行を一気 56) ibid., p.22(訳書 33 頁). 57) ibid., p.45(訳書 63 頁). 58) ibid., p.46(訳書 64 頁).
に実現する「ショック療法」が採用されたのだ59).その中心にあった価格自由化によ り,商店から行列は消えたが,物価が急激に上昇し,賃金や年金はそれに大きく遅れた. 生活水準が 50%も下落し,人々の貯蓄はインフレによって失われ,自分の土地で食糧 を育てることで飢えをしのいだ.もう一つの構成要素は民営化であった.民営化により, 国営企業のインサイダーたちが国家の財産を大規模に横領し,旧ソ連のエリートたちが 富み,弱者を切り捨てて国家財政を均衡させた.一方では大富豪が誕生し,他方では軍 の解体や厳しい金融逼迫で,失業,貧困,犯罪,病気,自殺,などが急増した.その後 に生まれたのは,特権官僚とマフィア組織が結託したアナーキー資本主義であった,と グレイは主張する60). 世界に自由市場を押し付けているアメリカの資本主義自体,原理主義的な動きと重なっ て,その社会的コストに耐え切れない,とグレイは見る.1980 年代から,アメリカの右 派はそれまでのリベラルな制度を解体し,自由市場だけに統一するべきだと考えた61). レーガンが推進した革命とは,テクノロジーを称賛し,政府を悪魔と見なし,社会問題 はすべて市場によって解決できる,という市場原理主義の実現であった.アメリカ社会 は分裂し,家族は崩壊し,雇用は不安定さを増して,労働者は職場を移動し続けた62). 何の規制もない資本主義というユートピアは,アメリカでも大きな不平等をもたらし, 富裕層は壁に囲まれた自分たちだけのコミュニティーに逃げ込み,その資本主義はます ます大量の犯罪者(あるいは失業者)を監獄に閉じ込めることで維持されている63). グローバリゼーションを支配する自由市場や啓蒙のプロジェクトに反対して,グレ イは異なる社会の現実に依拠して,諸国民や諸体制間の平和と,生産的な関係を求め る64).グローバルな経済は,新技術の普及によって避けられないだろう.しかし,そ れは自由市場の拡大や統合ではなく,むしろ創造的破壊から地域や社会を守る多元的な 協力体制が望ましい.すでにアメリカや西欧から覇権は失われつつあり,ホッブズ的な 59) ibid., p.143(訳書 201 頁). 60) ibid., pp.147-151(訳書 207-213 頁). 61) ibid., p.104(訳書 146 頁). 62) ibid., p.112(訳書 156 頁). 63) ibid., p.116(訳書 162 頁). 64) ibid., p.207(訳書 289 頁).
不安から,グローバルな統治体制が誕生する. ノ ーム・チョムスキー『テロの帝国アメリカ 海賊と帝王』,『覇権か,生存か アメ リカの世界戦略と人類の未来』65) パレスチナ問題,テロリズム,アメリカの世界戦略,などについて,チョムスキーは 批判的な評論を一貫して発表してきた.アメリカは軍事力を行使し,あるいは国際的な テロリズムを育成して,小国の住民たちを苦しめている.そして,自分たちの暴力を隠 蔽し正当化するために,小さなテロ事件を演出し,メディアを利用する.
「同じ論理によれば(by the same logic)」という反問が,チョムスキーの本には繰り返
される.ユダヤ人の(あるいはアメリカ人の)民間人や兵士が「テロ」の犠牲になった, とアメリカ政府は発表し,メディアは怒り,嘆いている.しかし同じことが,あるいは, もっと酷い,もっと大規模な国家テロが,パレスチナやリビア,中米の小国で起きてい る.アメリカ政府やメディアはそれを何一つ取り上げない.そして記録されないものは, 少なくともアメリカ国民にとって存在しない66). 二冊の本を満たしているのは,一貫した論理と,詳細な記録(そして記憶)である.メディ アを支配し,権力や軍事力を握る者たちは,自分たちのテロ行為を「テロ」とは呼ばない. 自分たちに対するテロ攻撃だけを,「テロ」として激しく非難する.小国や,暴力を恐 れる住民たちは,たとえ挑発や暴力を受けても報復しない.それにもかかわらず,権力 者は「自衛」や「予防」を口実としてテロを繰り返す.アレキサンダー大王に言葉で反 撃した海賊のように,暴力で支配する者を,チョムスキーは厳しく問う. すでに 1980 年代から,アメリカのレーガン政権はニカラグアやエルサルバドル,グ アテマラ,などで「テロとの戦い」を宣言し,中南米の「麻薬戦争」に深く関与していた. そしてアメリカによって武器を提供され,訓練キャンプで鍛えられたテロリスト,もし
65) Chomsky, Noam, (2002) Pirates and Emperors, Old and New : International Terrorism in the Real World, London: Pluto.(海崎由香子ほか訳『テロの帝国アメリカ 海賊と帝王』明石書店,2003.) そして Chomsky, Noam, (2004) Hegemony or Survival : America's Quest for Global Dominance, London: Penguin.(鈴木主税訳『覇権か,生存か:アメリカの世界戦略と人類の未来』集英社新書, 2004.)
くは治安部隊が,さまざまな殺人や拷問にかかわり,虐殺行為を繰り返していた.コロ ンビアでは,「麻薬撲滅」を口実に農薬を散布し,住民たちを強制移住させた67).それ らの事実を人権擁護団体や教会,現地の学者は報告したが,政府とメディアはそれを無 視し,アメリカ国民に伝えなかった. チョムスキーは,テロが殺害を目的としているのではなく,民衆の希望を砕き,恐怖 によって支配を確立することが目的なのだ,と主張する.だからテロリストたちは,単 に殺害するのではなく,遺体を切り刻んで道端に転がし,あるいは,殺した女性の顔を 赤く塗って木から吊るす68).アメリカ政府は,民主主義,社会改革,人権保護,など を約束したが,実際にはそれらを無視して,テロリストたちを支援し続けた69). チョムスキーは,アメリカ政府がなぜこうした行動を取るのか,特に論証しない.し かし,チョムスキーの挙げるおびただしいテロの記録は,そこにある一貫した大国の意 志を示す.国内的には国民から遊離し,国の内外で,暴力に依存した支配構造とその政 治的正当性を維持することが,アメリカ政府にとって重要であった70). そうした支配が海外の重要資源,特に石油の供給ラインを確保することや,アメリカ 企業の利益を最優先し,市場の開放や独占的な地位を得ることを可能にした71).アメ リカは自国にとって好ましい秩序を他国に要求し,特に小国に対しては,議論すること なく一方的に押し付けた.住民が自分たちのために政府や政策を求めるなら,そもそも そのような思想が広まるのを阻止するために,テロ集団を支援し,自ら大規模なテロ行 為に及んだ72). 同時に,同盟内や国内で意見が対立するような政策を強行するためにも,ケネディー であれ,レーガンであれ,外国との危機を煽って利用した.石油の供給を支配すること 67) Chomsky (2004) p.59(訳書 86 頁). 68) Chomsky (2002) p.129(訳書 222 頁). 69) Chomsky (2004) p.91, 107 など(訳書 133,156 頁など). 70) Chomsky (2004) p.15(訳書 25 頁);Chomsky (2002) p.86(訳書 151 頁). 71) Chomsky (2004) p.149(訳書 216 頁). 72) ibid., p.97(訳書 142 頁).アメリカ政府が嫌ったのは,中米諸国の大統領たちによる交渉仲 介の努力や,国連,国際司法裁判所のような“utopian means”である.それは訳書にある「非 現実的な手段」(確かにシュルツ国務長官はその意味で非難した)だけでなく,「ユートピア的 な方法」(チョムスキーは称賛する)という意味を持つ.
で,アメリカは日本のような石油輸入国の外交を支配できると考えた73).軍事力やテ ロ集団を利用するのは,それが権力の維持に有効であるからだ.ソ連が消滅してから, その「恐ろしい敵」とは,リビアであったり,PLO であったりした.他方,サダム・ フセインでも,ノリエガでも,チャウシェスクでも,アメリカに従い,利用できると思 えば,その「自由」や「民主主義」を称えた74). アメリカの中東における軍事拠点であり,テロ支援国家であるイスラエルを,チョ ムスキーは厳しく糾弾する.パレスチナとの交渉をイスラエルは拒み続け,アラファ ト議長やサダト大統領,アラブ諸国連盟や EU が示した和平案を,イスラエルはただち に拒否した.そして国連安保理では,アメリカが拒否権を行使してきた.交渉が進ま ない責任はさまざまなテロ行為にあるとして,自分たちが占領しているパレスチナ難 民に転嫁した75). グレイやチョムスキーが描く世界は,グローバリゼーションの失敗した事例であり, グローバリゼーションの利益が及ばなかった地域である.貧困だけでなく,軍事的支配 や政治権力の横暴から人々を守るにも,安定した民主的秩序と責任ある政府を確立し, グローバリゼーションに参加するべきだ,とグローバリストは主張するだろう.しかし, グローバリゼーションも支配者の秩序として実現し,その本質は暴力,権力である.自 由市場,NAFTA,構造調整なども,各地の権力者によって強制され,捏造された現実 の一部であった. アメリカ政府とその政策によって,テロの犠牲となり,沈黙を強いられた人々,グロー バリゼーションや民主主義,自由の名の下に滅ぼされた政治・社会体制が世界中に存在し, 隠されている.それらを知ることは,現実を変えることだ,とチョムスキーは考える76). (おのづか よしみつ・同志社大学経済学部) 73) ibid., p.150(訳書 218 頁). 74) ibid., pp.111-115(訳書 162-168 頁). 75) Chomsky (2002) pp.38-80, 160-180(訳書 第 2,7 章).グローバリゼーションとアメリカ型資 本主義の恩寵を説く,中東に関する報道でピュリッツァー賞を得たトーマス・フリードマンも, チョムスキーの本ではメディア支配の一部でしかない.ibid., p.169(訳書 284 頁). 76) Chomsky (2004) p.237(訳書 337 頁).