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三種即身成仏について

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三種即身成仏について

 

 

 

抄録 東 密 に 伝 わ る「 三 種 即 身 成 仏 正 意 」 は、 異 本『 即 身 成 仏 義 』 に 説 か れ る 三 種 即 身 成 仏 の ど れ が「 即 身 成 仏 」 の 正 当 な 理 解 で あ る の か を 問 う 論 義 で あ る。 し か し な が ら、 異 本『 即 身 義 』 で は、 三 種 即 身 成 仏 す べ て を 用 い て「 即 身 成 仏 」 が説明されていることから、この論義そのものの意義を疑う意見もある。   この「三種即身成仏のいずれが正意であるのか」という問題意識は、済暹・実範・覚鑁・道範といった諸師の著作に は見出せない。その一方で、道範の頃あたりから「自宗不共の即身成仏は三種即身成仏のどれか」という議論が見られ るようになっている。   頼瑜は著作の中で正本『即身義』の二頌八句と異本『即身義』の三種即身成仏との配釈を問題にしており、その中に 今の問題意識につながる契機をうかがうことができる。   こ の よ う に「 三 種 即 身 成 仏 正 意 」 と い う 論 義 は、 「 自 宗 不 共 の 即 身 成 仏 」 と い う 問 題 意 識 と 連 動 す る 形 で 頼 瑜 の 頃 あ たりから議論されるようになったと考えられる。

     

問題の所在

  弘 法 大 師 空 海( 七 七 四 ― 八 三 五 ) が 提 唱 し た 真 言 密 教 の 教 義 の 中 で、 「 即 身 成 仏 」 の 思 想 が 重 要 な も の で あ る こ と は 言 う ま で も な い で あ ろ う。 『 即 身 成 仏 義 』( 以 下、 正 本『 即 身 義 』) で 説 か れ る 即 身 成 仏 の 思 想 は、 顕 教 と 密 教 と を 弁 別

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す る「 顕 密 対 弁 」 の メ ル ク マ ー ル と し て、 真 言 宗 の 伝 統 教 学 の 中 で も 重 要 な 位 置 を 占 め て き た。 し か し な が ら、 「 即 身 成仏」の思想そのものは天台宗や華厳宗といった、いわゆる「顕教」の諸宗においても様々に議論されてきた問題であ り、それらをどのように解釈するのかが、空海以後の真言宗内の重要な課題となっている。   そ う い っ た 後 世 の 議 論 の 中 に、 『 異 本 即 身 成 仏 義 』( 以 下、 異 本『 即 身 義 』) に お け る 理 具 即 身 成 仏・ 加 持 即 身 成 仏・ 顕得即身成仏といった「三種即身成仏」に関する議論がある。東密内ではこの三種即身成仏のいずれが即身成仏の思想 の真意なのか、という点が問題とされ、 「三種即身成仏正意」という論義として今日まで残されている。   この「三種即身成仏正意」について『密教大辞典』では、 理 具・ 加 持・ 顕 得 の 三 種 成 仏 は 相 待 ち て 即 身 成 仏 の 真 意 を 詮 は す も の な れ ば、 一 往 こ れ を 云 は ゞ 三 種 無 勝 劣 な り。 然るに三種の中何れを正意とするか古来の異義にして、東密にて東寺・壽門・宝門・新義の説皆異な り (1) 。 とあり、東寺・壽門・宝門・新義のそれぞれに異なる見解が示されていたとして、   ⑴顕得正意説……頼宝(一二七九―一三三〇?) ・杲宝(一三〇六―一三六二) ・信日(?―一三〇七)   ⑵理具正意説……長覚(一三四〇―一四一六) ・印融(一四三五―一五一九)   ⑶加持正意説……頼瑜(一二二六―一三〇四) ・新義派学匠   ⑷三種正意説……願行上人(?―一二九五) ・宥快(一三四五―一四一六) ・宝門学者 の四説が紹介されてい る (2) 。   し か し な が ら、 そ も そ も 異 本『 即 身 義 』 に お け る 三 種 即 身 成 仏 は、 『 密 教 大 辞 典 』 で も「 相 待 ち て 即 身 成 仏 の 真 意 を 詮はすもの」 と述べられているように、 そのいずれかを選んで正統な即身成仏とするものではない。にもかかわらず、 「三 種即身成仏のいずれが正意であるのか」という議論が生じたことから、この「三種即身成仏正意」の論義そのものの意 義 を 疑 う 意 見 も あ る (3) 。 そ こ で 小 論 で は、 東 密 諸 師 の「 三 種 即 身 成 仏 」 解 釈 を 取 り あ げ、 「 三 種 即 身 成 仏 の い ず れ が 正 意 であるのか」という問題が、東密内でいつごろから議論されるようになったのかについて、検討することとしたい。

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一.異本『即身義』における三種即身成仏

  現在六本伝えられている異本『即身義』の内、三種即身成仏を説くのは、三 ・ 四 ・ 五 ・ 六の四本である。この四本では、 理具即身成仏・加持即身成仏・顕得即身成仏を次のように定義してい る (4) 。 理具即身成仏……一切衆生自心中金剛胎蔵曼荼羅遠 二離因果法然具足名理具也。 加持即身成仏……由 二三密加持自身本有三部諸仏速疾顕発。故云加持也。 顕 得 即 身 成 仏 …… 三 密 修 行 已 成 就 故。 即 心 具 二 行 一 正 等 覚 一 証 二 大 涅 槃 一 心 方 便 一 二 浄 心 仏 国 一 従 レ 因至 レ果以無所住於其心実覚知名顕得也。   すなわち、すべての衆生の心中に法然の曼荼羅が備わっていることを理具即身成仏とし、三密行によって自らが本来 備えている曼荼羅の諸仏を表し出すことを加持即身成仏、三密行が成就してさとりが完全に顕現した状態を顕得即身成 仏 と す る、 と い う の が 異 本『 即 身 義 』 に 説 か れ る 三 種 即 身 成 仏 で あ る。 と こ ろ で、 周 知 の と お り 正 本『 即 身 義 』 で は、 二 頌 八 句 の 前 半 一 頌 四 句 が「 即 身 」 を、 後 半 一 頌 四 句 が「 成 仏 」 を 表 し、 全 体 で「 即 身 成 仏 」 を 表 し て い る と さ れ る。 しかし異本『即身義』では、その二頌八句について、 今 依 二 頌 文 一 立 二 種 即 身 義 一 也。 問、 其 三 種 何。 答、 一 理 具、 二 加 持、 三 顕 得 也。 是 皆 即 身 成 仏 之 義 也 。 問、 此 頌相 二配三種即身成仏如何。答、初四句加持之義、次三句理具之義、終一句顕得之義也。 と述べ、二頌八句に三種即身成仏を配当する。そこで、今の異本『即身義』の配当を示すと、次の通りとなる。

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六大無礙常瑜伽 加持即身成仏 四種曼荼各不離 三密加持速疾顕 重重帝網名即身 法然具足薩般若 心数心王過刹塵 各具五智無際智 理具即身成仏 円鏡力故実覚智――顕得即身成仏   こ の よ う に 異 本『 即 身 義 』 で は、 三 種 即 身 成 仏 を「 是 皆 即 身 成 仏 之 義 也 」( 傍 線 部 ) と 述 べ た り、 二 頌 八 句 に 配 当 し て い る こ と か ら、 三 種 即 身 成 仏 と は、 あ く ま で も 即 身 成 仏 の 思 想 を 分 析 的 に 再 解 釈 し た 教 理 で あ る こ と が わ か る。 し た が っ て そ の 意 味 で は、 異 本『 即 身 義 』 そ の も の か ら は「 三 種 即 身 成 仏 の い ず れ が 正 意 で あ る の か 」 と い う 議 論 は た だ ち に 成 立 し な い よ う に 思 わ れ る。 こ の 点 は、 顕 得 正 意 説 を 採 る 頼 宝 の「 三 種 即 身 成 仏 勝 劣 事 」( 『 真 言 本 母 集 』 巻 第 二 十 八 ) に「 答。 三 種 倶 秘 密 深 義 故。 雖 レ レ 可 レ 深 一 強 云 レ 以 二 得 成 仏 一 旨 一 (5) 」 と あ り、 ま た 三 種 正 意 説 を 採 る『 宗 義 決 択 集 』 巻 第 六「 三 種 即 身 成 仏   宥 快 」 で も「 然 彼 書 中 三 種 中 以 レ 何 為 二 宗 一 揀 別 釈 無 レ之。 故 解 二 種 共 自 宗 正 宗 一 違 一 (6) と あ る こ と か ら も 明 ら か で あ ろ う。 こ れ ら の 論 義 に お い て も、 三 種 即 身 成 仏 は そ の すべてで即身成仏の教義を説明したものとされ、異本『即身義』自体からただちに「 三種即身成仏のいずれが正意であ るのか」という問題意識(およびその解答)は導き出せない、としているのである。

     

二.東密諸師の「三種即身成仏」解釈

  東密諸師における「三種即身成仏」解釈は、管見の限りでは仁和寺済暹(一〇二五―一一一五)の『両部曼荼羅対弁

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抄』巻上に、 問。 第 九 速 疾 成 仏 与 二 身 成 仏 一 同 門 意 云 何   答。 是 門 意 者。 明 下 二 胎 蔵 界 与 金 剛 界 一 疾 成 仏 与 即 身 成 仏 之 差 別 義 上 即 約 二 具 成 仏 一者。 両 界 共 有 レ 也。 但 約 二 顕 得 成 仏 一者。 胎 蔵 界 有 二 速 疾 成 仏 義 一 金 剛 界 有 二 即 身 成 仏 義 一 (7) 。 と あ る の が、 最 も 早 い 例 で あ る。 こ こ で 済 暹 は、 胎 蔵・ 金 剛 界 の 両 部 は 理 具 即 身 成 仏 の 観 点 か ら す れ ば 共 に 速 疾 成 仏・ 即身成仏と言うことができるが、顕得即身成仏の観点からは胎蔵は速疾成仏、金剛界は即身成仏という違いがある、と と述べてい る (8) 。このように済暹は速疾成仏と即身成仏に関する両部の相違について、理具即身成仏・顕得即身成仏の名 称を挙げているが、それ以上の解釈はうかがえない。   次に、中川実範(?~一一四四)の『大経要義鈔』一には、 問。 即 身 成 仏 有 二 種 一 答。 有 二 種 一 。( 中 略 ) 問。 何 位 得 二 即 身 成 仏 一 答。 未 レ 説 一 且 設 二 案 一 理 具 従 レ凡至仏。加持浄菩提心乃至仏果。顕得唯是果位。或同加持 一 。 (9) とあり、理具は凡夫から仏陀まで、加持は初地(浄菩提心)から仏果、顕得は果位のみ、あるいは加持と同じ、という ように、三種即身成仏を行位に関連させて解釈している。なおこの解釈は異本の所説に基づいた実範独自の解釈と思わ れる が )(1 ( 、いずれにしても実範は三種即身成仏の位次・範囲のみを問題としており「三種即身成仏のいずれが正意である のか」という問題を立てていない。   また、 興教大師覚鑁 (一〇九五―一一四四) は、 長承三年 (一一三四) 正月谷談義において 「即身成仏有 二三種。顕得 ・ 加 持・ 理 具 也 )(( ( 」 と 述 べ て い る が、 そ こ で は た だ 三 種 即 身 成 仏 の 名 称 が 紹 介 さ れ る の み で あ り、 「 三 種 即 身 成 仏 の い ず れ が正意であるのか」 という問題どころか、 その内容すら説明されていない。覚鑁の 「三種即身成仏」 解釈については、 『十八 道沙汰』に、 行 者 理 具 金 剛 薩 埵、 依 二 日 加 持 力 一 加 持 金 剛 薩 埵 我 成。 サ レ バ 我 超 二 教 果 位 一 不 レ 言 果 位 一 我 成 二

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菩薩 一 也 )(1 ( 。 と あ る 点 や、 康 治 元 年( 一 一 四 二 ) 八 月 二 十 九 日 の『 即 身 成 仏 義 』 談 義 に「 十 地 名 二 持 即 身 成 仏 一 得 一 雖 レ 有 二 顕 得 一 非 二 満 一 故 )(1 ( 」 と あ る 点 な ど か ら、 異 本 の 三 種 即 身 成 仏 を 真 言 行 者 の 行 位 に 配 当 す る 解 釈 に 力 点 を 置 い て いるように思われ る )(1 ( 。先に確認した実範の解釈とは異なる点も見られるが、覚鑁にも「三種即身成仏のいずれが正意で あるのか」という問題意識が見出せない点は、上述の済暹・実範と同様である。   さらに、高野山正智院の道範(一一七九―一二五二)が貞応四年(一二二五)に著したとされる『貞応抄』巻中「三 種即身成仏事」では、 問。 於 二 身 成 仏 一 種 一 其 分 別 如 何   答。 一 本 即 身 成 仏 義 云。 六 大 無 礙 常 瑜 伽 ○ 円 鏡 力 故 実 覚 智。 今 依 二 頌 文 一 二 三種即身義 一也。問。其三種何。答。一理具。二加持。三顕得也。 是皆即身之義 也 )(1 ( 。 とあり、三種即身成仏についての問答が記されている。もっとも、道範が問題としているは三種即身成仏の内容そのも のであり、 「いずれが正意であるのか」ではない。むしろ道範は次のように、 『即身成仏義聞書』下で今の三種即身成仏 を「理智事の三点」に配当しており、そのいずれもが密教独自の解釈であるとしている。 …… 実 範 大 経 要 義 配 レ 之 釈 有 レ 可 レ見。 但 今 三 種 即 身 成 仏 者。 論 二 経 実 義 一 理 智 事 三 点 也。 所 レ 理 具 者 本 有 是 胎 蔵 義 蓮 華 部 也。 加 持 者 修 生 是 金 剛 界 義 金 剛 部 也。 顕 得 者 上 理 智 円 満 自 性 体 也。 即 仏 部 事 点 也。 仍 此 三 種 即 身 成 仏者一時顕発一念具足 也 )(1 ( 。   こ こ で 道 範 は、 『 大 経 要 義 鈔 』 の「 三 種 即 身 成 仏 」 解 釈 を 紹 介 し た 上 で、 三 種 即 身 成 仏 を「 理 智 事 の 三 点 」 に よ っ て 解釈している。この時、理具は本有の胎蔵・蓮華部、加持は修生の金剛界・金剛部、顕得は上の胎蔵と金剛界すなわち 理 と 智 を 円 満 し た 仏 部・ 事 点 と 解 釈 さ れ る が )(1 ( 、 こ れ は 行 者 が 一 時・ 一 念 に 発 し 具 足 す る と 述 べ ら れ て い る( 傍 線 部 )。 いずれにしても道範は 、 三種即身成仏すべてが密教独自の成仏論であると解釈しており、 「三種即身成仏のいずれが正意 であるのか」という問題意識を有していないことがわかる。

(7)

  以上のことから、 三種即身成仏に言及する箇所が少ない済暹はともかく、 実範 ・ 覚鑁 ・ 道範に共通する態度として、 「三 種即身成仏のいずれが正意なのか」を問題にしていない、という点が指摘できよ う )(1 ( 。

     

三.自宗不共の即身成仏

  ところで、 異本 『即身義』 における理具 ・ 加持 ・ 顕得の三種即身成仏を、 顕教と共通 (共) 、あるいは密教独自 (自宗不共) といった観点から問題にする解釈が、道範の『貞応抄』の頃から見られるようになってくる。 問。 今 所 レ 理 具 者。 同 二 台 等 理 具 仏 一耶。 答。 不 レ然。 今 理 具 者。 無 尽 荘 厳 宛 然 具 足。 是 本 有 故 云 二 理 具 一 非 レ 教 真 如 実 性 一 。 凡 此 三 種 即 身 成 仏 者。 行 者 得 二 証 一時。 因 縁 所 生 之 三 種 也。 謂 以 二 心 本 有 仏 一因。 以 二 成諸仏加持 一縁。 以 二行者自証所生也。 乃至最初微劣一念発心。 皆具 二此三種義 内因外縁具 二足浄心顕現。 是所生顕得故。此浄心同 二自心実際金剛輪際故云顕得 )(1 ( 。   ここでは、三種即身成仏の内の理具即身成仏と顕教(天台宗)の「理具仏」との同異が問題となっている。この問答 で道範は、 「今の理具は無尽荘厳宛然具足の曼荼羅である」と述べ、 「顕教の真如ではない」と答えている(傍線部) 。『貞 応 抄 』 巻 下 で は 顕 教 の 真 如 を「 真 如 理 体 無 二 切 色 相 一 )11 ( と 論 じ る こ と か ら、 三 種 即 身 成 仏 を 行 者 が 本 有 の 曼 荼 羅 を 諸 仏の加持を縁として顕現することと解釈する道範の立場からすれば、理具はあくまでも密教独自(自宗不共)の教説と なろう。また、ここでは加持・顕得については言及されていないが、この両者についても当然「自宗不共」と見なして いたと考えるべきであろう。   三種即身成仏における顕教との共・不共については、頼瑜も永仁五年(一二九七)脱稿・正安二年(一三〇〇)再治 の『秘鈔問答』巻第一で言及している。 問。道場観種三大転成仏三身中何耶。答。御記云、 道場観之時、 以 二種子三摩耶等立仏〈法身之\遍法界故〉 。 召 二 仏 一 報 身 之 浄 \ 土 仏 故 〉、 絵 木 像 仏〈 応 身 也。 顕 二 色 相 一 〉、 此 三 身 既 一 体 令 二 冥 会 一畢。 入 我 我 入 之 時、

(8)

此三身一体、本尊与 二我身又令冥会也。 凡理具即身成仏顕教皆所 レ談也。加持・顕徳之成仏但密宗談之歟。加 持者凡聖同雖 レ 二 覚性 一。依迷悟暫以三密加持力徳。本有仏体如雲翳、有月輪顕現故云加持 ・ 顕 徳成仏 一也。是則顕教所説也。大師即身成仏義可之。又如是雖冥会。尚為本迹之義加持帰依 之観 一也。即正念誦等也〈云\云 〉 )1( (   こ こ で は、 道 場 観 本 尊 の 仏 身 と 行 者 と の 入 我 我 入 に 関 し て 三 種 即 身 成 仏 が 取 り 上 げ ら れ て、 「 理 具 は 顕 教 の 所 談、 加 持・ 顕 得 は 密 教 不 共 の 所 談 で あ る 」 と 述 べ ら れ て お り、 理 具 も 含 め た 三 種 す べ て を 自 宗 不 共 の 教 説 と す る 道 範 の そ れ と は 異 な る 解 釈 を 示 し て い る )11 ( 。 な お、 こ の 箇 所 は「 御 記 云 」 と あ る よ う に、 報 恩 院 流 の 流 祖 で あ る 憲 深( 一 一 九 二 ― 一二六三)の著作からの引用である可能性も考えられるが、いずれにしても、道範や憲深、頼瑜の頃、 つまり十三世紀 に入って「三種即身成仏の内、自宗不共の即身成仏はどれか」という議論がなされるようになり、しかもその解釈が一 様ではなかったことがわかる。東密内では、 信証 (一〇八八―一一一二四) や静遍 (一一六六―一二二四) の頃から、 「即 身成仏は密教独自の成仏論か」という問題が、議論されるようになってい る )11 ( 。その意味では、今の「三種即身成仏にお ける自宗不共の即身成仏」に関する議論も、そういった時代の影響によるものと言えよう。   「 三 種 即 身 成 仏 の い ず れ が 正 意 で あ る の か 」 と い う 議 論 の 背 景 に は、 こ の「 自 宗 不 共 の 即 身 成 仏 は ど れ か 」 と い う 議 論 が 横 た わ っ て い る。 と 言 う の も、 「 三 種 即 身 成 仏 の い ず れ が 正 意 で あ る の か 」 を 論 じ る「 三 種 即 身 成 仏 正 意 」 の 論 義 では、まさにこの「自宗不共の即身成仏はどれか」という点で、その見解が分かれているのである。 頼宝の『真言本母集』巻第二十八「三種即身成仏勝劣事」では、 すでに触れたように「強云 レ之以顕得成仏 二 宗旨 一也」とあって顕得正意説が採られているが、頼宝はその理由について次のように述べている。 凡 自 宗 即 事 而 真 為 レ宗。 而 仏 者 覚 也。 覚 知 円 明 照 二 諸 法 一 義 也。 是 則 万 法 中 仏 性 功 徳 顕 現 明 白 位 也。 依 レ 雖 レ 具 等 三 種 成 仏 一 顕 得 位 偏 仏 智 事 業 顕 了 表 二 体 一 也。 依 二 義 一 以 二 得 一宗。 理 具・ 加 持 成 仏 雖 二 深 一 猶依 二迷悟不二因位仏。是諸教常住仏性及感応道交等共同之建立也。於速疾顕得成仏者、 時分既短促也。

(9)

仏相又顕了也。三密四智印等事法功徳顕了明白凡夫肉親上忽現 二仏相。是自宗不共実談 也 )11 ( 。   すなわち、 理具と加持は 「迷悟不二」 によって因位を仏とするものであり、 その意味では諸宗で論じられる 「常住仏性」 や「感応道交」といった教義と共通する。これに対して、三密・四智印等の「事法」が完全に顕了となってこの身体に 仏相を顕し出した状態である顕得は密教独自の教説である、というのが頼宝の主張する顕得正意説にほかならない。   また、 『宗義決択集』巻第六「三種即身成仏   宥快」では、難者が加持正意説、答者が三種正意説を採っている。 「三 種 即 身 成 仏 中 唯 加 持 成 仏 自 宗 不 共 之 義 門 故。 理 具・ 顕 得 二 種 余 教 亦 談 レ 故。 難 レ 宗 不 共 義 一 )11 ( 」 と 主 張 す る 難 者 の立場を『密教大辞典』では頼瑜あるいは新義学者の立場とする が )11 ( 、これに対して三種正意説を主張する答者は、その 根拠を次のように述べている。 重 答 云。 三 種 成 仏 可 二 自 宗 不 共 正 宗 一 如 二 成 一 レ之。 於 レ 加 持 成 仏 不 共 宗 義 之 旨 共 許 義 故 不 レ之。 如 二 具 成 仏 一者、 今 意 則 一 切 衆 生 自 心 本 来 具 二 金 剛 胎 蔵 両 部 理 智 徳 一 故、 曾 不 レ 于 余 教 理 具 一 又 顕 得 成 仏 亦 約 二三密五転之相 一 明 レ之故、与余教所談全別者 也 )11 ( 。   こ こ で は、 難 答 と も に 自 宗 不 共 と す る 加 持 成 仏 は も と よ り、 理 具 と 顕 得 も ま た「 曾 不 レ 可 レ 混 二 于 余 教 理 具 一 あ る いは「与 二余教所談全別者也」と述べられているように、 密教独自(自宗不共)の教説であるとされる。 『宗義決択集』 巻 第 六「 三 種 即 身 成 仏   宥 快 」 の 答 者 は、 ま さ に こ の「 自 宗 不 共 の 即 身 成 仏 」 と い う 観 点 か ら 三 種 即 身 成 仏 を 解 釈 し、 三種正意説を主張しているのであ る )11 ( 。

     

四.頼瑜の「三種即身成仏」解釈

  先 に 触 れ た よ う に、 「 三 種 即 身 成 仏 の い ず れ が 正 意 で あ る の か 」 と い う 議 論 は、 済 暹・ 実 範・ 覚 鑁・ 道 範 の 頃 に は 見 られなかった。その一方で道範・頼瑜の頃には「三種即身成仏における自宗不共の即身成仏はどれか」に関する議論が 見られるようになり、それが後世の「三種即身成仏正意」の論義まで継承されている。

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  ところで、 頼瑜の「三種即身成仏」解釈には、 先行する東密諸師の解釈とは異なる点がうかがえる。先に引用した『密 教大辞典』では、頼瑜が加持正意説を採るとされていた。しかし、その著作を確認する限り、頼瑜にそのような主張を 見出すことはできない。むしろ頼瑜の「三種即身成仏」解釈で注意すべきなのは、正本における二頌八句と異本の三種 即身成仏との配釈を問題にしている、という点であろう。   頼 瑜 は 正 嘉 元 年( 一 二 五 七 ) の『 即 身 成 仏 義 顕 得 鈔 』( 以 下、 『 顕 得 鈔 』) 巻 上 で、 三 種 即 身 成 仏 に つ い て 次 の よ う に 述べている。 問。 法然理具本円満。 而為 二煩悩覆不覚知故。 先可 レ理具 修 二三密行観此理具故。 次可 レ加持 修 行 円 満 故 後 可 レ 説 二 得 一也。 故 彼 上 文 列 二 種 一 時。 理 具・ 加 持・ 顕 得 次 第 也。 何 先 説 二 持 一   答。 所 レ 次 第 誠可 レ然。今次第又非其理。謂修三密行故悟法然理具。此覚円満即顕得心仏也〈海恵\義 也 )11 ( 〉   ここでは、異本『即身義』における二頌八句への三種即身成仏の配釈(加持→理具→顕得)が問題とされ、本来の順 序は「理具→加持→顕得」ではないのか、と質問されている。それに対して頼瑜は、三密の修行(加持)によって法然 の理具(理具)が悟られ、その悟りが円満する(顕得)ため、 「加持→理具→顕得」の順序で問題ない、と答えている。 ここからも明らかな通り、 『顕得鈔』には加持正意説どころか、 「三種即身成仏のいずれが正意であるのか」という議論 すらうかがえない。むしろ頼瑜が特に問題としているのは、正本の二頌八句と異本の三種即身成仏との配釈の問題なの である。   この配釈の問題については、文永六年(一二六九)の『即身義愚草』上末「六大無碍等両頌即身成仏相配之事」にも 見ることができる。 問。二頌八句文大師如何釈給耶。 答。初一頌歎 二即身二字次一頌歎成仏両字〈文〉 。 難 云。 開 二 本 即 身 義 一 本 俱 於 二 句 頌 一 種 即 身 成 仏 一 所 以 理 具・ 加 持・ 顕 得 義 別 故。 ( 中 略 ) 若 爾 何 違 二

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等意 一八句合成一種即身成仏耶。 ① 抑又八句合成 二即身成仏義三種即身成仏中何耶。 如何。 答。 本 自 所 二 存 申 一 文 一 別 本 中 文 存 二 此 意 一 矣 〉。 ( 中 略 ) ② 故 今 本 三 種 合 論 立 二 一 種 即 身 成 仏 義 一也。 仍 無 レ 失 )11 ( 。   こ こ で は、 二 頌 八 句 を 即 身 と 成 仏 と に 配 釈 す る 正 本『 即 身 義 』( 今 本 ) と、 理 具・ 加 持・ 顕 得 の 三 種 即 身 成 仏 に 配 釈 す る 異 本『 即 身 義 』( 別 本 ) と の 相 違 が 問 題 と さ れ て い る。 こ の 時 に 注 目 す べ き な の は、 難 者 の「 二 頌 八 句 全 体 で 表 さ れ て い る 即 身 成 仏 の 教 義 は、 三 種 即 身 成 仏 の 内 の ど れ に 当 た る の か 」 と い う 質 問( 傍 線 部 ① ) で あ ろ う。 と 言 う の も、 この難者の質問は「三種即身成仏のいずれが(正本『即身義』の)正意であるのか」という問題意識と軌を一にしてい るからである。   す で に 述 べ た よ う に、 済 暹・ 実 範・ 覚 鑁・ 道 範 と い っ た 東 密 諸 師 の 著 作 中 に お け る「 三 種 即 身 成 仏 」 解 釈 に は、 「 三 種即身成仏のいずれが正意であるのか」という議論は見られない。しかしこの『即身義愚草』では、二頌八句と三種即 身成仏の配釈に関連して、難者が「二頌八句全体で表されている即身成仏の教義は、三種即身成仏の内のどれに当たる のか」という疑問を提示している。とすれば、 「三種即身成仏のいずれが正意であるのか」という問題は、 正本『即身義』 の二頌八句と異本『即身義』の三種即身成仏との配釈に関する問題として、頼瑜の頃から見られるようになった、と考 えることができよう。   な お、 こ の 疑 問 に 対 す る 頼 瑜 の 答 説 は「 三 種 即 身 成 仏 を 合 わ せ て 一 種 類 の 即 身 成 仏 を 論 じ て い る 」( 傍 線 ② ) と い う ものであり、やはり頼瑜が加持正意説どころか、三種即身成仏のいずれかを選択する意識をそもそも有していないこと がわかる。   『即身義愚草』ではこの問答を受け、さらに次のように述べられている。 重 難 云。 合 二 種 一 種 即 身 成 仏 義 一 理 具 可 レ 局 二 身 二 字 一 依 二 具 本 有 一 二 加 持 修 生 一故。 是 以 別 本 中 一 切 衆生心中両部曼荼法然具云 二理具 一 。由 二三密加持三部尊顕故云加持 一 。三密行已成故如実覚智云 二顕得取意。 如何。

(12)

答。凡修 二三密行 一 故悟 二法然理具。此理具顕云顕得也。所以本始雖異同是成仏故。仍無 )1( ( 。   ここでは、三種即身成仏を合して即身成仏の教義を論じるというのであれば、理具は法然・本有の両部曼荼羅である から、 「即身」とは言い得ても、 修生的な意味合いを持つ「成仏」とは言えないのではないか、 との疑問が示されている。 これに対して頼瑜は、三密の修行(加持)によって法然の理具(理具)が悟られ、その理が顕現する(顕得)のである から、本有・修生の違いはあっても、理具・加持・顕得の三種はどれも同じく「成仏」と言い得る、と答えている。こ の解釈が、先に見た『顕得鈔』における解釈と同じであることは明らかであろう。   このように頼瑜は『顕得鈔』や『即身義愚草』の中で、正本『即身義』の二頌八句と異本『即身義』の三種即身成仏 との配釈を問題にしている。その問答の中で「二頌八句全体で表されている即身成仏の教義は、三種即身成仏の内のど れ に 当 た る の か 」 と い う 疑 問 が 呈 せ ら れ て い る こ と か ら、 「 三 種 即 身 成 仏 の い ず れ が 正 意 で あ る の か 」 と い う 議 論 は、 この二頌八句と三種即身成仏との配釈との関連で生じている、と考えることができる。これは言い換えるならば、すで に「自宗不共の即身成仏」に関して議論されてきた異本『即身義』の三種即身成仏を、正本『即身義』と関連付けるこ とで 「密教独自の成仏論」 を明確にしようとする意識が、 頼瑜の頃から見られるようになる、 と言うことにほかならない。

     

まとめ

  顕教と密教とを弁別するメルクマールとしての即身成仏思想は、空海以後、さまざまに議論され展開している。今回 の報告では、その「即身成仏」に関する真言宗(東密)の議論の内、異本『即身義』における三種即身成仏に関する議 論を取りあげた。   異本 『即身義』 では、 三種即身成仏を二頌八句に配当し、 「是皆即身成仏之義也」 としている。 しかしながら後世の東密は、 「 三 種 即 身 成 仏 の い ず れ が( 正 本『 即 身 義 』 の ) 正 意 で あ る の か 」 を 問 題 と す る「 三 種 即 身 成 仏 正 意 」 と 呼 ば れ る 論 義 がおこり、今日まで伝わっている。

(13)

  もっとも、この「三種即身成仏のいずれが正意であるのか」という議論は、済暹・実範・覚鑁・道範といった東密諸 師の著作中には確認できなかった。ただし、三種即身成仏に関しては、道範の頃から「自宗不共の即身成仏」という観 点による議論が見られるようになっている。道範は理具を天台の理具成仏と同じとする見解を否定するが、頼瑜の『秘 鈔問答』では理具を顕密共通、加持・顕得を自宗不共とする説が紹介されており、十三世紀に入って東密内でこの問題 がさまざまに議論されていたことがうかがえる。この 「自宗不共の即身成仏」 に関する議論は、 後の 「三種即身成仏正意」 に お い て も そ れ ぞ れ の 立 場 を 主 張 す る 上 で の 重 要 な 論 拠 と な っ て い る こ と か ら、 「 三 種 即 身 成 仏 の い ず れ が 正 意 で あ る のか」という議論は、この「自宗不共の即身成仏」に関する議論と結び付く形で論じられるようなったと考えられる。   そして 「三種即身成仏のいずれが正意であるのか」 という議論の原型とも思えるものが見られた頼瑜の 『即身義愚草』 では、正本の二頌八句と異本の三種即身成仏との配釈に関連して、難者の「正本の二頌八句で明かされている即身成仏 は、 三 種 即 身 成 仏 の 内 の い ず れ か 」 と い う 質 問 が 示 さ れ て い る。 こ れ に 頼 瑜 は「 今 本 三 種 合 論 立 二 一 種 即 身 成 仏 義 一 」 と答えており、そのどれかを選択していない。しかしいずれにしても、三種即身成仏と正本『即身義』の即身成仏思想 との関係が問題にされている点には注目してよいであろう。   こ の よ う に、 「 三 種 即 身 成 仏 の い ず れ が 正 意 で あ る の か 」 と い う 議 論 は、 他 宗 の 教 義 と の 関 わ り の 中 で 問 題 と な っ て きた即身成仏思想における密教の独自性を明確にしようとする意識から論じられるようになった経緯を有する。その意 味 で は、 「 三 種 即 身 成 仏 正 意 」 に お け る 各 説 は、 そ れ ぞ れ の 立 場 に お け る「 密 教 の 独 自 の 即 身 成 仏 と は 何 か 」 を 明 示 し ていると言えよう。紙幅の都合もあり、その一々の検討については今後の課題としたい。 註 (1)   『密教大辞典』 、八〇七頁中。 (2)   なお、宥快の『即身義問題』巻上(二丁右)には、 「頼瑜法印義云理具・顕得雖 レ浅深不同其義勢顕教中談之。加持

(14)

成 仏 密 乗 不 共 義 門 也。 仍 加 持 成 仏 可 二 旨 一 」 と あ り、 頼 瑜 が 加 持 正 意 説 を 採 っ て い た と し て い る。 し か し 後 述 す る よ う に 頼 瑜 は む し ろ ⑷ 三 種 正 意 説 を 採 っ て い た と 思 わ れ る。 宥 快 が 頼 瑜 を 加 持 正 意 説 と す る 理 由 に つ い て は 判 然 と し な い( 那 須 政 隆「 三 種 即 身 成 佛 に 就 い て 」、 『 智 山 学 報 』 一 九 三 三( 四 ) 号、 五 二 ― 五 三 頁、 小 田 慈 舟『 十 巻 章 講 説 』 上 巻、 一 五 頁、 高 野 山出版社、一九八四年) 。 (3)   那須 前掲論文、五四頁。 (4)   『異本即身成仏義』 、『定弘全』三、 (三)一九四頁、 (四)二一二頁、 (五)二三〇頁、 (六)二四九頁。 (5)   『真言本母集』巻第二十八、 『続真』二一、 七三九頁上。 (6)   『宗義決択集』巻第六、 『真全』一九、 一三八頁下。 (7)   『両部曼荼羅対弁抄』巻上、 『大正図像』一、 二五〇頁下―二五一頁上。 ( 8)   堀 内 規 之「 済 暹 の 即 身 成 仏 思 想 に つ い て 」、 同『 済 暹 教 学 の 研 究 ― 院 政 期 真 言 密 教 の 諸 問 題 ―』 第 三 篇 第 四 章、 五 五 九 ― 五六一頁、ノンブル社、二〇〇九年。 (9)   『大経要義鈔』一、 『大日全』四二、 三四四頁上―下。 ( 10)那須 前掲論文、五五頁。 ( 11)   『打聞集』 、『興教大師全集』上巻、四六五頁。 ( 12)   『十八道沙汰』 、同右,七〇三頁。 ( 13)   『打聞集』 、同右、五七八頁。 ( 14)   苫米地誠一先生は、 覚鑁の「三種即身成仏」解釈を「加持即身成仏の位が成仏ではなく、 菩薩位とされる点が注意される」 と指摘されている(同『平安期真言密教の研究』第二部第一篇第三章「覚鑁の成仏論」 、九二頁、ノンブル社、二〇〇八年) ( 15)   『貞応抄』巻中、 『大正』七七、 七〇五頁中。 ( 16)   『即身成仏義聞書』下、 『続真』一七、 三一頁下。

(15)

( 17)   性心 (一二八七―一三五七―) の 『即身義鈔』 上之末には、 「禅林静遍義云。三種成仏者約 二因縁所生 一 。理具因。加持者縁。 顕 得 所 生 也 」( 『 真 全 』 一 三、 一 〇 一 頁 下 ) と あ り、 道 範 に 影 響 を 与 え た 静 遍( 一 一 六 六 ― 一 二 二 四 ) が 三 種 即 身 成 仏 に 言 及 していたことを紹介している。 ( 18)   鎌倉中期から後期にかけて成立したとされる、 成尊 (一〇一二―一〇七四) または勝覚 (一〇五七―一一二九) 仮託の 『最 後 灌 頂 常 行 心 要 法 』 で は、 体 即 身 成 仏( 能 生 六 大 )・ 相 即 身 成 仏( 所 生 四 曼 )・ 用 即 身 成 仏( 所 生 三 密 )・ 不 二 無 礙 即 身 成 仏 の 四 種 類 の 即 身 成 仏 が 説 か れ る が、 そ の 不 二 無 礙 の 成 仏 に お い て、 理 具・ 加 持・ 顕 得 の 三 種 即 身 成 仏 が 論 じ ら れ て い る( 苫 米地 前掲書、第二部第二篇第六章「 『最後灌頂常行心要法』について」 、 KAMEY AMA T akahiko . " Correct Awareness and Firm Belief " ( shinchi ) in the Saigokukanjō jōgyō shin'yōhō , Journal of Indian and Buddhist Studies Vol. 64, No. 3, 2016. )。ここでは三種 即 身 成 仏 が、 体・ 相・ 用 の 三 大 や 字・ 印・ 形 の 三 種 秘 密 身 に 配 さ れ て 円 融 無 礙 で あ る と さ れ る が、 「 三 種 即 身 成 仏 の い ず れ を正意とするのか」という議論はうかがえない。   ま た 海 恵( 一 一 七 二 ― 一 二 〇 七 ) が 正 治 二 年( 一 二 〇 〇 ) に 編 纂 し た と さ れ る『 密 宗 要 決 鈔 』 に は、 「 三 種 即 身 成 仏 の い ず れ を 正 意 と す る の か 」 と い う 議 論 は 見 え ず、 巻 第 五「 胎 蔵 教 意 不 レ 身 成 仏 一 事 」 に 前 述 の 済 暹『 両 部 曼 荼 羅 対 弁 抄 』 巻上の一文が引用されるのみである( 『真全』一七、 一二五頁下―一二六頁下) 。   さ ら に 貞 応 三 年( 一 二 二 四 ) と 嘉 禄 元 年( 一 二 二 五 ) に 高 野 山 勝 蓮 華 院 で 行 わ れ た『 即 身 成 仏 義 』 に 関 す る 問 講 の 記 録 で あ る『 即 身 成 仏 義 聞 書 附 録 』( 『 カ リ フ ォ ル ニ ア 大 学 蔵 栂 尾 コ レ ク シ ョ ン 顕 密 典 籍 文 書 集 成 』 教 相 篇 5、 平 河 出 版 社、 一九八一年) にも、 三種即身成仏の正意に関する議論は見えない。十三世紀中には 「三種即身成仏のいずれが正意であるのか」 という議論は、明確な形では存在しなかったと思われる。 ( 19)   『貞応抄』巻中、 『大正』七七、 七〇六頁上。 ( 20)   同右 巻下、七一四頁中。 ( 21)『秘鈔問答』巻第一、 『大正』七九、 三〇二頁上。

(16)

( 22)   す で に 触 れ た よ う に、 頼 瑜 が 加 持 正 意 説 を 採 っ て い た と す る 宥 快 の 説 は そ の 根 拠 が 不 明 で あ り、 頼 瑜 の 著 作 に は そ の よ う な 記 述 は う か が え な い。 宥 快 が 指 摘 す る 加 持 正 意 説 は、 む し ろ 台 密 穴 太 流 の 口 決 で あ る 厳 豪( 一 三 五 〇 ― 一 四 一 六 ) 口・ 源 豪(? ― 一 三 九 一 ―?、 一 説 に は 一 三 九 八 寂 ) 記『 四 度 授 法 日 記 』 巻 四「 加 持 衣 事 」 に 見 る こ と が で き る( 『 大 正 』 七七、 一二七頁上―中) 。 ( 23)   こ の 問 題 は、 後 に「 一 乗 経 劫 」 と い う 論 義 と し て ま と め ら れ、 様 々 に 論 じ ら れ て い る。 北 川 真 寛・ 土 居 夏 樹「 一 乗 経 劫 に ついて―即身成仏思想に関する問題―」 、『密教文化研究所紀要』 一九、 二〇〇六年) 、および小林靖典 「中性院頼瑜における 「一 乗経劫」について」 (『智山学報』六五、 二〇一六年)を参照。 ( 24)   『真言本母集』巻第二十八、 『真全』二二、 七四〇頁下。 ( 25)   『宗義決択集』巻第六、 『真全』一九、 一三九頁上。 ( 26)   〈注1〉および〈注2〉を参照。 ( 27)   『宗義決択集』巻第六、 『真全』一九、 一四二頁上―下。 ( 28)   なお、理具正意説を採る印融は、 『杣保隠遁鈔』巻第九「三種即身成仏何為正意事」の中で、   今 書 正 意 対 二 乗 始 覚 宗 之 遠 劫 成 仏 一 立 二 宗 本 覚 之 即 身 成 仏 一 間。 理 具 成 仏 可 二 意 一 候   以 二 種 成 仏 一 体 用 一候時。理具成仏甚深本有体性成仏、加持・顕得業用応迹成仏候間、本体理具成仏可正意事勿論候 (『真全』二〇、 三一〇頁下)   と述べ、理具は体、加持 ・ 顕得は業用との観点から理具正意説を主張しており、頼宝や『宗義決択集』とは少しく異なる。 ( 29)   『顕得鈔』 巻上、 『真全』 一三、 二四頁上。 なお、 この解釈は海恵の説とされるが、 『密宗要決鈔』 には該当する箇所は見出せない。 ( 30)   『即身義愚草』上末、一四九―一五〇頁(智山伝法院編『頼瑜撰 即身義愚草』 、真言宗智山派宗務庁、一九九四年) 。 ( 31)   同右、一五〇頁。 ( 32)   頼 瑜 の『 真 俗 雑 記 問 答 鈔 』 巻 第 十 六「 三 種 即 身 成 仏 事 」 で は、 理 具・ 加 持・ 顕 得 の 包 摂 関 係 に つ い て 次 の よ う に 述 べ ら れ

(17)

ている( 『真全』三七、 二九〇頁下―二九一頁上) 。   私 云。 両 部 諸 尊 本 円 満。 法 然 理 具 云 二 身 成 仏 一 修 二 三 密 行 一 此 理 具 一 持 一 修 行 円 満 顕 証 云 二 得 一也。 故 知 理 具 唯 理 具 而 無 二 得 加 持 義 一 加 持 兼 二 具 一 得 義 一 顕 得 具 二 種 一也。 是 則 上 兼 レ 之 故 也。 或 又 加 持 用。 顕 得 理。 本 来 有 故。 理 具 所 具 二 二 義 一 加 持 又 以 我 功 徳 力 因。 如 来 加 持 力 縁。 和 合 成 就 一 分 可 レ 得 義 一 所 以 我 等 衆 生入 二持仏堂。成五相・三密観行之時。可三種即身成仏也。或云。菩提心論纔見加持成仏、常見顕得成仏。   こ こ で は 理 具・ 加 持・ 顕 得 の 三 種 即 身 成 仏 の 関 係 に つ い て、 そ の 包 摂 関 係 に 関 す る 四 説 が 挙 げ ら れ て い る。 こ こ か ら、 あ る い は「 三 種 即 身 成 仏 の い ず れ が 正 意 な の か 」 と い う 問 題 意 識 が あ る よ う に も 思 わ れ る が、 こ の 箇 所 で は あ く ま で も 理 具・ 加 持・ 顕 得 の 三 種 即 身 成 仏 の 関 係 が 説 明 さ れ て い る に 過 ぎ な い。 「 可 レ 種 即 身 成 仏 一 」 と あ る よ う に、 三 種 即 身 成 仏 の いずれかを「正意」とする、という意識は頼瑜には無かったように思われる。 ※ 本 稿 は「 平 成 三 十 年 度 真 言 教 学 研 究 会 」 で の 発 表 お よ び 議 論 を も と に し た も の で す。 な お、 本 稿 の 執 筆 に あ た り、 頼 瑜 の「 三 種即身成仏」 解釈に関する資料ならびに 『四度授法日記』 の資料に関しては、 別所弘淳先生より多大なるご教示をいただきました。 ここに厚く御礼申し上げます。 〈キーワード〉三種即身成仏、自宗不共、頼瑜

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